無碍の一道
浄土真宗では、信をいただいてしまうと、もう何のさわりも無い道を歩ませていただけます。
この上無き善を為し、今生にて成すべきことは、もはや成してしまったのです。
念仏衆生摂取不捨
「念仏衆生摂取不捨」というのは、一度救った衆生を、弥陀は決してお見捨てにならないというお約束です。
(出典は、『観無量寿経』です。)
生涯ただ一度の念仏によって、真実信心をいただき、一度いただいた信心は、ずっと働き続けます。
阿弥陀様の摂取の心光は、行者を救い摂った後、そのまま、ずっと行者を包んで、極楽浄土にお連れするまで、守ってくださるのです。
弥陀は決して捨てません
「救い摂って後は終わり」というような弥陀ではありません。
自ら心光で守ってくださるだけではなく、たくさんの如来・菩薩・善神の守りまでつけてくださいます。
ですから、念仏の行者には、お守りも要らないのです。
このようにして、今生においては、浄土にお連れするまで見守り、往生の後も、滅度までお世話してくださいます。
信をいただいたその後は、御恩報謝のお念仏の楽しい生活が待っています。
歎異抄 第七条
歎異抄第七条には、このようにあります。
念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑに、無碍の一道なりと云々。
(念仏者は、さまたげの無い一本の道である。その理由はどのようかというのであれば、信心の行者には、天の神も、地の神も、敬いてうつむき、魔界の悪魔も、さわりとなることがない。罪悪も、その行為の報いを感じることができず、その他の善も、念仏ほどのものはないのだから、無碍の一道なのであると云々)
(音声ファイルは、こちらから聴くことができます。)
「罪悪も業報を感ずることあたはず」とは、「罪悪の報いがあるとすれば、地獄界などに行くのだが、極楽に往ってしまうのだから、その報いを感じることもできない」ということです。
そして、念仏の行者には、悪い存在は、近づくことすらできません。
(詳しくは、現世利益和讃を参照してください。)
ですから、人を超えた存在を、恐れる必要もありません。
無碍の一道を歩むために
では、このような、無碍の一道の世界に出るのには、どうすれば良いのでしょうか?
そのための方法が、「南无阿彌陀佛」です。
弥陀は、念仏衆生を、もれなく救ってくださいます。
そして、「念仏」とは、「南无阿彌陀佛」のことなのです。
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