真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 05

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


疑問

タイトル : Re: 疑問
記事No : 4505 [関連記事]
投稿日 : 2006/08/19(Sat) 14:42
投稿者 : 泥凡夫



せみ 様

こんにちは。
お元気そうで何よりでございます。

> ごぶさたしています。少し気になることがあるのですが、信を獲るということは
> 人間が人になることか、人が人間になることかどう思われますか?
> 友人の意見とある本を見て一体どうなんだろうと疑問に思ったものですから。
> よろしくお願いいたします。

どういった著書を元にお話されておるのか分かりかねますが、
信を獲たら人が人間になるとか、人間が人になるとか関係ございません。
そのあたりのことは既にお分かりだと思います。凡夫は凡夫でしかございません。

凡夫は信じること叶わぬ故に易往無人と言われるのであって、難行故に易往無人ではございません。あなた様にはお分かりのことと思います。

真宗においての信とは他宗他門にいうところの信心とはまったく異なりますが、どうしても己の心のあり様を問うてしまうのです。故に十年聞いても信を獲られず、二十年聞いても三十年聞いても・・・と堂々巡り。凡夫は良いものにはならんのです。例え全ての聖教を記憶できても、上手な説法できても、往生の一段にとっては何の意味もございません。ならぬままを受け取って頂くが十八願でございます。

信とは善知識に逢いて弥陀たのむ一念で定まるのでございます。

何か特別な人になれるとか、清らかな心になれるとかは一切ございません。南无阿弥陀仏の六字はいかなる人であろうとも分け隔てなく救われるように完成されてございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑問
記事No : 4508 [関連記事]
投稿日 : 2006/08/19(Sat) 23:03
投稿者 : 泥凡夫



せみ 様

> ありがとうございました。
> 本当にそうですね。凡夫に変わりはないですね。
> それにしても、信を獲たらこれで仏法は卒業なんて気持ちにはならないものですね。
> 一層知りたいと思う気持ちが強くなります。

後念相続怠りなきように。

> これからもよろしくお願いいたします。

いいえ。こちらこそ。

もう一人同じHNの方がお出ましになられたようですね。

南无阿弥陀仏


信決定は、自己申告でOK?

タイトル : Re: 信決定は、自己申告でOK?
記事No : 4531 [関連記事]
投稿日 : 2006/08/24(Thu) 18:34
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様
ロングロング 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
ロングロング様は何度もお出ましになられておられますが、始めてお話させて頂きます。

私程度の申すことなど気にも留められなくて結構でございますが少しだけ聞いて頂けますでしょうか。

謗法の者様がお喜びの日々をお過ごしであられることは誠に結構なこと。

ロングロング様から見られたら謗法の者様は盲信的であるとのこと。しかし、盲信であるとか無いとか、実は十八願には直接関係なく、それは後念のお話なのでございます。盲信的に突き進む方が信心厚いとか、何もせんヤツは信心薄いとか関係ないのでございます。心のあり様など信と関係がございません。関係あると申されるなら、全ての人を救うこと叶いません。

しかしながら、ロングロング様がお感じになられたように、深い喜びとは他者から見れば理解不能の状態であり、一生懸命伝えようとすればするほど、怪しい雲行きになるものなのです。これは宗教云々以前に、人の信念なんぞというものは、強制すればするほど反発されるもの。故に私はたのむ一念のお話にずっとこだわって参りました。後念相続は皆様方にお任せでございます。

ここはひとつ、お互いお心をお静めになって下さいませ。

> しかし、なぜ善友様がそういう忠告をされたのかよく考えてほしいと思うのです。
> そこには私なんかでは分からないような、正当な理由があると思っています。

ロングロング様の仰る意味、私は私なりに響かせて頂きました。
どのように謗法の者様が御忠告されたか存じませんが、恐らく、正法誹謗を避けるためではないかと推察させて頂きました。あくまでも私の推察に過ぎませんが。

信を獲た所で、聖者になれるわけでもなく、煩悩は消える事がございません。故に言った言わぬ、盗った盗られた、憎し恨めしを繰り返してしまいます。ただ、その哀れな己に、はたと気が付かせて頂きましたら、懺悔の心でかたじけなしと思うだけ。

ここは真宗に御縁厚き人々の集う場所故、要をお伝えようと私なりに書かせて頂いておりますが、真宗も一枚岩ではございません。更に、一般論では無神論を信じる方、キリスト様や日蓮様や韓国のどなたかを信じる方々、誠に様々でございます。それらの方々からすれば、嫌なことを書いておることと思います。どうか御容赦を。

真宗の道は、騙したり、金銭むしり取ったり、無理に手を引いたり、強制的に聴聞させられるものではございません。聞きたい人は聞けばよし。

ただ、私共凡夫は、信じる道を歩むしか無いのでござます。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 信決定は、自己申告でOK?
記事No : 4522 [関連記事]
投稿日 : 2006/08/22(Tue) 19:15
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様 
せみ 様
みちくさ 様
D 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
遠出しておりました間に何やら雲行きがおかしくなっておりますね。

さてどこからお話すれば良いのか。
まず謗法の者様、せみ様。

>何処の誰とも分らず、愚尼様の書込み信じて、信心決定したのです。

私がみちくさ様とのやり取りで過去何度も何度も書きましたが(ログにはありません)
有縁の知識に逢うがその人の道であると。謗法の者様やせみ様が一流安心とは何かと語ります愚尼様や私の申すことを信じて下さり、次第相承の善知識を求められ、信を獲られました。これ全て弥陀のお導き故でございます。弥陀は求める衆生には必ず道を作って下さります。

御両名方は、蓮師の仰る通りのものを獲られたのでございます。お分かりですね。

『信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。』 五帖目五通

『阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいわれを領解するを、三心ともいい、三信ともとき、信心ともいうなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆえを口業にあらわすを、南无阿弥陀仏という。かるがゆえに、領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかえる。名号も機にはとどまらず、となうればやがて弘願にかえる。かるがゆえに、浄土の法門は、第十八の願を、よくよくこころうるほかには、なきなり』 安心決定鈔

信とは「十八願を心得る、南无阿弥陀仏のすがたを心得る」ことであるのです。あなた様方はよくよくお分かりのことと思います。

次に。
愚尼様が仰る私と解釈が異なるとのこと。はて?何処がどの様に異なるのかなど皆様には分かりかねることでございましょう。正邪ではなく、異なることがあるというだけでございます。それをあちらが正しく、こちらが間違っておるということではないのです。何度も申し上げますが、ただ信じる他仔細はございません故に有縁の知識に逢うがその人の道なのでございます。

みちくさ 様

お元気そうで何よりでございます。

>元幹部会員さんが指摘されるように、他人の信心の真偽を客観的に証明する方法がな
>い、ということに私も賛同しますので、そうだとすると、信心は言葉では量れない世界>のようですし、獲信者の特徴は、人から批判をあびても、自身の信心は全く崩れない、>ということから、実際のところは、「いずれの信心も本物」であるという可能性を信じ>たいと思います。

現在の真宗をご覧なさい。本願寺様、他九派様、親鸞会様、その他諸々。一枚岩になどなっておりませぬ。末法の現在故にそうなのではないのです。真宗の歴史は異安心の歴史ともいう学者がおるほど。紐解けば、十劫安心(無帰命安心)、土蔵秘事(光明秘事)、意業安心、法体募り、機募り、三業安心、かくし念仏、・・・挙げればきりがありません。どれも我らこそ正意なりとお思いであり、激しい法論を演じて参りました。今後もいくらでも色々なものが現れるでしょう。何故そうなるのか。正意は一本であるはずだと誰もが思われることでしょう。身内の中でもこの有様。他宗様の中には、真宗それ自体を異安心であると申される場所もある。もっと広げれば、仏教自体がナンセンスであると申す宗教もある。さらに広げれば神仏なぞ造りモノであると。まったくきりがありません。

何故御開山や蓮師は信とはこういうものであるという明らかな御著書を残されるのか。実は気が付いて頂かなければならぬ部分なのでございます。

私が信とは「己の心にあらず」と何度も書きましたが、では仮に「己の心のあり様」が信であったと致しましょう。このような私を救って下さった!!心を生まれさせて頂いた!!何と有難いのだろう。この心はっきりした。往生一定になった。と私が申しても、あなた様は、そうか。そういう世界があるのか。分かるようで分からぬようで。しかし、私もそれを目指そう。おお。私も素晴らしい世界になれた。有難い有難い。となれたと致しましょう。

しかしながら、他者の心のあり様など、現実には知りようがないのです。口に出す言葉は同じでも心は同じとは申せません。分かりますか?凡夫は様々な煩悩を持っております故に、事象を皆同じく、正しく認識することはできません。例えば、向こうから綺麗な女性が微笑みながら歩いてきた。ある男は自分に気があるのだと解釈致します。ある男はどこか変か?と解釈致します。女性の微笑みの真意など知りようもなく、各々それぞれの解釈をするのです。色弱の方がこの色はこのように見えると申されても、色弱でない私はどういう風に見えているのか想像するしかございません。もっと言えば、皆が赤であると申しても、実際各々がどの様に赤と認識しているのかなど知りようがないのです。

なのに何故、御開山も蓮師も弥陀より賜りし信は皆同じになる。と申されるのか。

あえて御批判を覚悟の上、申し上げてみましょうか。
己の心がはっきりした世界を体験した方々(己の心が金剛になったと思う人)のたよりとされる善知識様がある日突然、やっぱり間違っておった。すまんかった。と仮に申されたと致しましょう。その方に導かれたその方々のその金剛だったはずのお心は間違いなく不安に揺れてしまいます。深い感動が、賜ったと信じた信が間違いであったと混乱の極みになります。これを「善知識だのみ」の状態にあると申し、これを「凡夫の起こす所の信」とも申すのです。

仮想の話をするな!!とお叱りを受けそうですので申しておきます。これは親鸞会様にて信を獲られたお方が一流安心に出会い金剛であったはずのお心が揺れ砕け、凡夫の起こす所の信であったとお気付きになられた例でございます。実名は御容赦を。

では何故、御開山も蓮師も「金剛心」と申されるのか。何故何があっても崩れぬのか。
それは「凡夫の心にあらず」である所以なのです。

私は凡夫の起こすところの信に留まる方々を笑えるかと申せば、まったく笑えません。心引き裂かれる思いでございます。私も同じ凡夫故に、煩悩は止みませんし、心など日々揺れ動きます。凡夫は今生終わるまで、尊い存在にはなれんのです。心のあり様で信あり信なしなど計ること叶わぬのです。己の心が金剛になったと決めても無駄なのでございます。煩悩に覆われた我等の心など揺れるもの。ならば信は心のあり様のまま揺れねばなりません。揺れぬよう、金剛の心を維持する努力をせねばなりません。それでは聖道を歩むと何ら変わりがございません。求める全ての衆生を救うことすら叶いませぬ。

本願寺様であれ他九派様であれ、親鸞会様であれ、弥陀のお救いを求めておられる御縁厚き方々。赤子であれ、3歳児であれ、5歳、7歳であれ、今晩命尽きそうな終末期の方であれ、百人殺めた殺人犯であれ、ただ何となく聞いておる者であれ、求める者を弥陀は決して見捨ては致しませぬ。後生の一大事は皆平等に持っておるもの。「平生業成」・「信心正因」の当流。生きておる間に成せということではなく、只今のお救いにあずかれということでございます。宿善開発の行者には十八願は時を隔てず「聞即信」なのでございます。

>信決定の人の往相と還相の区別があるということですが、何をもって往相と還相が区別>されるのか、がわかりませんし、以前の泥凡夫さんの説明ではしっくりこないところが>あります。

D 様の御意見と合わせてお話させて下さい。

>阿弥陀仏に南無しましょうとはいうものの、重要な「一念(一心)で」ということが書>かれていないのです。
>私はこの事が非常に重要な意味を持っていると思うのですが、如何でしょうか。

「たのむ一念にて往生一定」は何度も申し上げて参りました。宜しければ残っておりますログをお時間のある時少し覗いてみて頂けますでしょうか。

>よくここでは善知識に逢うように言われますが、
>善知識に特別な力があるのでしょうか。
>善知識の方が申すのだから間違いないと思うのでしょうか。

蓮師が「五重の義」をお立てになられたことをよく御承知下さいませ。
善知識が申す故、間違いないのだと思うか否かなど、親鸞会様とて同様のこと。
善知識とは何かとは沢山聖教にございますが少しだけ引きます。

『善知識の能というは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、人を勧むべきばかりなり』 二帖目十一通

『願力不思議の仏智を授くる善知識の実語を領解せずんば往生不可なり。』 改邪抄

『故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。「そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり。さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ』 一帖目一通

「弥陀の代官」として行者に「一念帰命」を勧めるが善知識でございます。宿善開発の身にて善知識に逢い奉り、一念帰命の時、摂取の光明に収められるのでございます。この後の称名は御恩報謝でございます。

往相・還相は何も私の独創で作り上げた言葉はございません。それは御承知頂けておると思います。還相とは「次第相承の善知識」のことでございます。「次第」を相承せずば「真の善知識」とは申さないのでございます。

何度も申しますが、御開山一流において、信とは求めるあらゆる人に分け隔てなく平等に与えられるもの。

沢山の聖教には何が書かれておるか。
縮めれば「南无阿弥陀仏」と書かれてございます。

当流はこの六字が要であり、全てとなっております。
この六字は「タノム・助ケル」であり、「南无」する衆生を「阿弥陀仏」が助ける二字四字のお謂れでございます。たのむ衆生は老少善悪を問わず皆平等に、百人居ても千人居ても、一万、百万人居ても全て漏らさず救う法でございます。

我等凡夫にはただ信じることしか残っておりません。
何を正意と取られるかは皆様方の宿善に任すほかございません。

またまた外出致しますのでこれまでとさせて頂きます。

南无阿弥陀仏


泥凡夫さま、親鸞会は真摯な会ですよ。誤解なさらないでください。

タイトル : Re: 泥凡夫さま、親鸞会は真摯な会ですよ。誤解なさらないでください。
記事No : 4542 [関連記事]
投稿日 : 2006/08/25(Fri) 20:09
投稿者 : 泥凡夫



老凡夫 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

表題の件、承知しております。真摯・真剣であられることなど存じ上げております。感嘆の気持ちすらございます。会員の皆様はそれこそ後生の一大事の解決を求められ、日々御聴聞の日々と存じ上げます。

少し誤解なされておられるようでございますので、申し上げさせて下さいませ。

親鸞会様が真摯・真剣であられるか否かを私は申し上げておるのではございません。真摯・真剣である1点でみれば、弥陀の御本願を求め、伝えようと努力されておると私も思います。

しかしながら、聖教を分かりやすく説く所が正しい教えであるというのは判断の拠り所にはならんのです。以前も書きましたが、昭和40年代頃はまだ本山の坊主様方が全国で辻説法されておられました。今やその影はございませんが。説法聴聞し、聴聞し、聞き続けた先に救いがあると申されるなら「後生の一大事」と聞かされることと、まるで逆さになってしまいます。分かりますか?そもそも説法聴聞にて信を獲るなど、説法上手下手に左右され、説法理解する智恵才覚がいることとなり、機を己で深信にすることとなるのです。それでは聖道を歩むこと、信心獲るコツ、と何ら変わらないのでございます。

後生の一大事は全ての人が平等に持っておるもの。説法聞きたくても聞けん人はどうしたらいいですか。老少善悪を問わずのお救い、現実問題として足腰たたんようになった、頭も認知症気味である、危機的な病であと10日ほどしか生きれん老人はどうします。宿善あらずでしょうか?少の人はどうします。まだまだ子どもだ。先は長いといっておるのですか?先の短い老人も子どもも「後生の一大事」に照らせば、我等と何ら代わりませぬ。これでは説法聞けて、理解できる年齢からのお救いになります。

真宗は「一人しのぎ」と言われます故、そんな極論に付き合っておれん。とも思われるかもしれません。しかしながら、信後、自信教人信の思いで、教化する時どうします?上記のような方々なんぞ山ほど居られます。十方衆生はそれこそ千差万別でございます。聞けて理解できる人だけ選ぶのですか。御開山や蓮師が命を掛けて御布教された法はそのような狭き門ではないのです。狭くするは凡夫が信じられん故なのでございます。

十八願はたのむ衆生を漏らさず救う法でございます。

あなた様は後生の一大事、明かりが点きましたか?
まだまだ聴聞足りませんか?明日をも知れぬ身と聞かされておきながら、明日も明後日も聴聞をなされるのですか。只今のお救いと親鸞会様でも申されるはず。信は獲やすきものなのでございます。真宗の聖教を読み覚えるには智恵才覚が必要です。信を獲るには智恵才覚は不要です。ここの分別がございませんと道を誤ります。

当流は信(安心)をもって先とするのでございます。他者の手を引くも信あって後のこと。信もなく手を引くなど言語道断の次第でございます。

あなた様が親鸞会様を正意と信じられておるのなら、それがあなた様の道ゆえ、どうぞ一生懸命御精進下さいませ。あなた様の熱意だけは十分に感じております。

南无阿弥陀仏


謗法の者さんへ

タイトル : Re: 謗法の者さんへ
記事No : 4555 [関連記事]
投稿日 : 2006/08/29(Tue) 20:47
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
後念相続誠に尊きことでございます。

私が後念相続は皆様にお任せと申しました真意は、あなた様にはあなた様有縁の善知識、善友、御同行が居られます故に、その方々と共に相続されるが筋だと考えたからでございます。

またここは公共の場。信前の方々や様々なお方が御覧になられておられます。
そこで信後の後念の喜びだけ強調致しましても、何のことやら?と思われる方もいらっしゃいましょう。また、あの方のようにならねば信を獲たとは言えん。と「後念」を「一念」に持ってきてしまう方もおるでしょう。

あくまでも十八願をお求めになられて居られる有縁の方々に、真宗の安心とは何かを
できる限りお伝え申し上げておる次第です。

>「憶念」もう少し詳しく説明して頂けないでしょうか?

ここはあなた様の有縁の御同行様方も申されておるはず。
私を試されておるのでしょうか?

では。『憶念弥陀佛本願』と正信偈にございますとおり、信とは憶念できるものだと何度も申し上げてまいりました。

信は己の心のあり様ではなく、一念帰命により六字を賜ることでございます故に、凡夫は「それ」をいつでも思い出せる。「憶念の心常にして」でござます。第十八の願成就した時をいつもで思い出せる。法の側から言えば、凡夫が覚えていようがいまいが、弥陀はたのむ衆生は決して離さぬ「摂取不捨」の通り、弥陀のお約束でもございます。

つまり、五帖目五通の『信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり』が即ち憶念でもあるのです。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 謗法の者さんへ
記事No : 4557 [関連記事]
投稿日 : 2006/08/29(Tue) 21:47
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

> 尊敬こそすれ、一度して、泥凡夫様に対して疑うことなどありません。

私は尊敬に値するような者ではございません。ただの泥凡夫でございます。
ただ、弥陀に感謝申し上げて下さいませ。

> 私が知りたいのは、過去に私の書込みに対して、泥凡夫様がこの道進めて下さったこ
>とも「憶念」と捉えればよいのかどうかです。

いいえ。違います。
あくまでも憶念は信、一念帰命に帰するものでございます。

私が申すことを信じて下さりましたあなた様。皆、弥陀の導きでございます。
あなた様が歩まれた道、これは後念の喜びの一つでございます。

> 例えば、凡夫様が、泥凡夫様に、もうお導きする時期が来ているような事が書いてあ
>りましたが、私は今でも何でこのようなことが分るのだろうと今でも不思議な気持ちで>いたものですから。

当流は宿善・無宿善を見極めねば法は与えられぬもの。
凡夫様はその時期と見極められたのでしょう。私は私の有縁の善知識にあなた様を導くか否かは「往相はここに居ります」の一文だけで申しておりました。

しかし、あなた様は導かれるまま、あなた様有縁の善知識にお逢いになられた。
それこそ有縁の善知識に逢うがその人の道であると申す意味そのものでございます。

> 又、泥凡夫様にいつかは必ず会えるとか、

私に必ず逢えるとそんなに深く考えずとも、私はまだ穢土におります故に、いくらでも逢う方法などございます。私御指名で被害者の会様より書き込みがございましたのでメールを差し上げました。安全なメールアドレスが分かりましたら、いつでもメール差し上げます。

> 是非、あの方に信心決定していただきたいと思う気持ちは、どのように考えればよい
>のでしょうか?

それは、あの方と言わず、全ての方々でございましょう。お気持ちは分かります。しかしながら、先にも申しましたとおり、こればかりは宿善まかせでございますので無理に手を引いてはならぬのでございます。当流は無理に説法聞かされるでもなければ、無理に善知識に逢わせるでもございません。何故、宿善・無宿善を厳しく申されるのか、少し御同行にお伺いなさってみて下さい。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 謗法の者さんへ
記事No : 4598 [関連記事]
投稿日 : 2006/09/30(Sat) 07:14
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

おはようございます。泥凡夫でございます。
お元気そうで何よりでございます。

>今、私は静かな日々を過ごしておりますが、謗法の者さんと共に幸せな身にさせていただいたのも、泥凡夫様や愚尼様のおかげと深く感謝しております。

そうですか。そうですか。
その節は失礼な発言ばかりでさぞかし不愉快であったことと存じます。ご縁ございまして、あなた様も愚尼様や私の言うことを信じて下さりましたので有難く思っておる次第でございます。弥陀に感謝申し上げて下さいませ。

> 散々迷った挙句、意を決して被害者家族の会にメールさせていただきましたが、回答はお断りのお返事でした。そのほかいろいろお言葉も添えられていました。

ん?では被害者の会様よりのお申し出はあなた様方だったということですか?
被害者の会様よりのお申し出はここでは申し上げられませんが、私の力及ばぬことでございましたので丁重にお断りした次第でございます。

ロングロング 様

おはようございます。泥凡夫でございます。
暖かい御配慮ありがとうございます。
しかしながら、あなた様に御迷惑を掛けては申し訳ない次第でございます故に
私のアドレスを記載致します。ありがとうございました。

夕刻まで記載しておりますので謗法の者様、黒闇の魂のどちらかがメール下さいませ。
*******削除しました。
失礼ながら、お返事はご本人方であるかどうかの御質問を用意させて頂きます。
どうか御容赦を。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 謗法の者さんへ
記事No : 4600 [関連記事]
投稿日 : 2006/09/30(Sat) 15:10
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

メール頂きました故に、アドレス削除致しました。
私からはまだ2通しか差し上げておりません。
何通か別のお方からのものも含まれておりますが、
その方々にはお返事致しませんので御了承を。

南无阿弥陀仏


義なきを義とす

タイトル : Re: 義なきを義とす
記事No : 4571 [関連記事]
投稿日 : 2006/09/13(Wed) 20:01
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。お陰様で元気に過させて頂いております。

>「声なくばいかでか知らなまし 雪降りつのる 芦原の鷺」 雪中の白鷺
> のお話聞かせて頂いた時は、泥凡夫様の書込みをいつも読んでいたので、本当に嬉しくなりました。

お分かりになりましたか。そうですか。そうですか。

>今まで、勉強することは本当に苦痛でしたが、
>今は、あれも聞きたい、知りたいという気持ち一杯です。

後念相続に一生懸命になられることは結構でございますが、お間違えなきよう。
弥陀はそれらを覚えて来いとは申されておりません故に。

聖教は後念相続や有縁の方々の手を引くには大切でございますが、それを知った覚えたとやりましても、往生の一段にとっては何の意味もございません。ここを間違えますととんでもない過ちになってしまうのです。あなた様はそこを通られた故によくよくお分かりのことと思います。

佛智より他力信心を賜った時「今すでに得たり」との喜びを「慶喜」と申します。「歓喜」ではございません。「歓喜とは得べきことを得てんずと、先だちかねて喜ぶこころなり」でございますので、喜びを持って本とするのは真宗にあらずでございます。真宗は信心正因。当流には得べきことがあるのです。

有縁の皆様に往相還相に逢わねば後生に明かりは点きませんと何度も何度も申し上げてまいりました。

『平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、その時をもって娑婆の終り臨終と思うべし』(執持鈔)

『弥陀の廻向成就して 往相還相ふたつなり 之等の廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ』(高僧和讃)

この廻向が分かりませんと、どれだけ聞法されても正信にはなれんのです。正信の体は名号であり、南无はたのむ機、阿弥陀仏はたのむ機を救う法。真宗はたのむ一念のところが要になっておるのです。現在の真宗門徒方の多くは「掟」も分からぬ。まったく偽宗に成り果てております。

>こんな年になっても阿弥陀様は私を見捨てずにいて下さいました。
>日々、世間事に埋もれてしまい、愚痴や怒りも起きてきます。
>しかし、私の進む道は定まっております。

あなた様はあなた様が通るべき道を通らせて頂き、そこに辿り着いたのです。様々なことがあったことでしょう。必死に歩んで来られたことでしょう。しかしながら、その道はあなた様が通るように用意されたもの。ついて離れぬ弥陀に感謝下さい。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 謗法の者さんに質問
記事No : 4583 [関連記事]
投稿日 : 2006/09/19(Tue) 19:41
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。泥凡夫です。
横ヤリ申し訳ございません。

お心、よくよく分かります。
しかしながら、真宗の要はいくら頭で考えても無駄なのでございます。
みちくさ様が親鸞会様、他を己の道と見定められたのなら必死に進まれてみて下さい。
あれこれ計らってみても何の意味もございません。

いつの日か、あなた様のお心の中に、以前何か言っておった奴らがおったな。
と思い出して頂けましたら、嬉しく存じます。

>その子本人の後生への自覚が伴うものであり、その子本人が救われた、という自覚がな
>いと信決定とはいえない。0歳児の赤子の状態では、とてもそんなことはあり得ない、
>という思いは今も変わりません。

なるほど。十八願の要を外れておりますのでこうなるのです。
「救われた自覚」というのは極めて取り違いなされるところであるのです。
「救われた自覚」を持って信と申すは、「救われたと思う己の心」をたのみにしておる証拠。これを凡夫の起こす所の信と申します。自分で往けると思えるなら何度も申しますが弥陀は必要ございせん。

『悦び候わんとも、信をえぬは、いたずらごとなり。「よろこべ、たすけたまわん」と、仰せられ候うことにてもなく候う。たのむ衆生をたすけたまわん、との本願にて候う。』(聞書220)

では何故、信決定したと言えるのか。
御文、改悔文(領解文)など蓮師が詳しく語られております。
我等はたのむ一念の時、往生一定と「信じる」しかございません。
「救われたと思う心」は「後念」であって「一念」ではございません。
「救われたと思う心」を持って信決定とは申さないのでございます。

信とは御文に記されるとおりのもの。何度でもしつこく申します。
『信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。』(5−5)

>そして、もう一点、宿善は行者によって開発する時刻は異なるものと思われるのですが、国に一人、郡に一人といわれるほどの難信の信楽が、同時に複数の人が救われるなんて、とても違和感を覚えます。

国に一人、郡に一人は後念の喜び。誰かがとくと人数を調べ上げて言われたものではなく、あくまでもたとえ。それだけ「信じ難い法」であるのです。「極難信」とはこれを指します。実際、求める衆生を国に一人、郡に一人しか救われん法を御開山、蓮師はじめ、先達方が必死に説かれたのではないのです。先に申しました救われたという思い、喜ぶ心などというものは後念であり、これを一念に持ってくると真宗ではなくなるのです。「あの人のようにならねば救われん」などとやり出すのです。機を扱うは雑修でございます。

国に一人、郡に一人しか救われん法であなた様はその一人になれるとお思いでしょうか。南无阿弥陀仏の六字は常にあなた様に問い掛けられておられます。他者の信を云々する前に、あなた様には成すべき事がございましょう。あれこれ計らっておる間にも後生は待ったなしでございます。

十八願はたのむ衆生を漏らさず救う法。百人あれば百人。千人おれば千人皆共に報土に往生すること必定でございます。

真宗はたのむ衆生は漏らさず救われるのでございます。

南无阿弥陀仏


疑情ではなく疑問

タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4586 [関連記事]
投稿日 : 2006/09/22(Fri) 00:12
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。泥凡夫です。
なるほど。お心よく分かりました。

これに対する返答は愚尼様が「疑情」と題されお書きになっておられることが全てだと私も思います。一念帰命無くば疑情だらけでございます。疑情ではなく疑問であると申されますが、疑情とはそれらを包括した思いでございます。

凡夫は良いものにはならんのです。疑いあって結構。自力捨てられんで結構。自分で捨てられるのなら、釈迦・弥陀ニ尊は我等を凡夫とは呼ばれんでしょう。ありのままで六字が完成するのでございます。

真宗の要は信無くば全ては分からぬもの。分からぬものを分かろうとしても無駄でございます。凡夫はこんなやり取りだけでも悪しき心が働くもので、相手を論破しようだとか、説き伏せようなどなど。

何はともあれ、あなた様に御縁あった道をひたすら進むしかないのです。私がずっと言い続けたことでもございます。有縁の道がその人の道であるのです。いつの日か、あなた様の信じる道で信を獲られるならばそれでよし。または御縁あって私共と同じ道を歩むことになるもよし。これ皆、弥陀のお導きによるもの。

一つだけ。

>今が後生と踏み出すことがないまま時間が経過していくことをただ、眺めている自分が発見されます。

そうですか。
私思うに、皆そうでしょう。
縁あって、不遇な人生を送られたお方ならば少しは後生気掛かりに色が付くやもしれません。また、身内の不幸や、身近な人の不幸があった時は深く考えさせられるでしょう。しかしながら、凡夫は哀れなるかな、僅かな時間でその心すら薄れてしまうもの。いくら御自分で後生気掛かりになろうとしても無駄でございます。これは凡夫が勝手に思うたものではありません。長い間の弥陀の御養育でそのように思えるようにして頂いたもの。

間違って下さりますな。
私共はあなた様や有縁の方々にこの場をお借りして、真宗安心の要をお伝えしたいだけ。あなた様に無理に信じさせようだとか、考えを改めさせようと強いたり致しませぬ。信じる人は信じればよし。信じられんのなら信じる道を歩めばよし。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4609 [関連記事]
投稿日 : 2006/10/18(Wed) 00:14
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。泥凡夫です。

>改めて、私から見て、泥凡夫さん 愚尼さん 謗法の者さん ほか、「私は信心をいた>だくことができました」と語られている人たちの信心は本物だと思います。求道のプロセスは異なれど、弥陀たのむ一念のところを同じように通られているのだと思います。

みちくさ様が私の信が本物であるか否かなど絶対に知りようがありません。
何故なら、あなた様は「たのむ一念の時」を知らぬからです。

秘事・異安心など真宗の18番です。
それらを専門に扱った著書もあるようですのでお調べになられるのも良いでしょう。
これからも続々と異安心は現れてくるでしょう。己の心に問うておる以上、この命題は避けられんのです。

何度か記しましたが、秘事法門は何かを隠すことの総称であると言われるのなら、一流安心は皆秘事になります。そもそも、宿善・無宿善の分別云々を御立てになられたのは何故か。真宗の掟とは何か。抑止(おくし)とは何か。そんなことすら分からんようになって、何でもかんでも開かれておるなど既に真宗にあらずでございます。

> 赤子の獲信が本当だとしても、証明のしようがないということと、獲信は正定聚不退転とされているるわけですから、赤子の獲信が本物であれば、その子が成長して大きくなれば、必ず、獲信の自覚を自分の言葉で語れるときがくる。これは理屈かもしれませんが、獲信の世界が「正定聚不退転」というのであれば、必ずそうなっていなければならないと思います。このことに対してなぜその通り、と肯定されないのかがひとつの疑問です。

そもそも根本が間違っておるのです。
往生を定めて頂くは弥陀の本願力によるもの。己の心ではございません。
己の心に問うておる以上、絶対に十八願には逢えんのです。
我等は己の心には一向に用事がありません。

> その救われた自覚を聖教に照らし合わせてみて符合するかどうかということと、他の獲信者との比較において、自分はどうなのかを問うたときに、自身の信心が崩れなければ本物だと考えてよい世界だと思う。

これも同じ。己の心に問うて、己の心のあり様をたのみにしておる証拠。残念ですが己の心など崩れます。崩れぬと思い込んでも無駄でございます。

みちくさ様が正しい道を進みたい。と思われる御心はよく分かりますが、そうやって計らっておっても何も変わらんのです。死ぬまで何処が正しいんだろうか?と自問自答することになります。あなた様はあなた様の有縁の道を進む以外に道などございません。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4608 [関連記事]
投稿日 : 2006/10/18(Wed) 00:09
投稿者 : 泥凡夫



D 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

> 私は大きな間違いをしていました。
> 何に頼るかを考えるとき、自力か他力のどちらか一方、
> 即ち、自力を捨てること=他力に頼ることであると思っていました。

ここはD様だけではなく、皆様思い違いなさるのです。
まるで生まれ変わったかのように他力の世界を受け取って、自分自身も何か特別な
状態になるのではないかと思われたでしょう。
故に私は何度も、信を獲ても何も変わらんと申しあげて参りました。

> とても自力を捨てられる筈がなく、
> それ自身が自力であることは気付いているのですが。

捨てられるものなら捨ててみなさい。捨てられませんから。
捨てる事が出来たら、もう凡夫ではありますまい。
あなた様が自力を捨てられんことなど弥陀は遥か昔より御承知でございます。
そんなあなた様のために御用意されたが十八願なのです。

> よくよく親鸞聖人を思い起こせば、自力を捨てられない凡夫と気付かれたから
> 念仏門に入られたわけですよね。

と、捨てられん自力に納得なさってもそれを当流では信とは申しません。
次第相承の善知識に逢い奉り、仏願の生起本末を聞かねば正信は獲られんのです。
当流の信心の体は名号六字でございます。お忘れなく。

> 凡夫側は何も条件も要らないこと、改めて味わわせて戴きました。

そもそも、凡夫は何の用意もできんのです。尊い存在にはなれんのです。なれんが故の御本願ですので「たのむ一念」のところを御開山・蓮師は大事大事に語られるのです。

帖外和讃で御開山は次のように言われております。

『四十八願成就して 正覺の彌陀となりたまふ たのみをかけしひとはみな 徃生かならずさだまりぬ』

『金剛堅固の信心は 佛の相續よりおこる 他力の方便なくしては いかでか决定心をえん』

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4611 [関連記事]
投稿日 : 2006/10/24(Tue) 19:13
投稿者 : 泥凡夫



質問者 様

こんばんは。泥凡夫と申します。
私に御質問とのことですのでお答えさせて頂きます。

まず。あなた様の御質問の答えはあなた様が一番よく知っておられるはず。
それを敢えて御質問される御心、分からなくはありません。
あなた様の御質問を有無邪見と申します。

あなた様の御質問は別に真宗に限らず、後生を謳う宗教なら皆同じなのでございます。
そもそも、私が落ちようが落ちまいが、それは私の問題であってあなた様の問題ではないのです。 私は釈迦・弥陀・御開山・蓮師やその他大勢の先達方の申されることを「信じて」おるだけであり、例え騙されて落ちようがまったく後悔などございません。

あなた様にはお分かりのはずです。
後生の存在、御開山が御浄土に還えられたか否か。我等凡夫にはそれらを知り証明する智恵などないのです。故に釈迦・弥陀二尊の仰せをただ信じておるだけ。証明できねば信じられんと申されるのなら信じなければよし。無理に聞かされる必要もなし。それはあなた様の問題であって私の問題ではないのです。

真宗が一人しのぎと言われる所以をお示し頂いたことに感謝申しあげます。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4614 [関連記事]
投稿日 : 2006/10/28(Sat) 01:32
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> お説は最もですが、論点がずれていませんか?
> 泥凡夫さん自身、信決定の世界はには凡夫には証明のしようがない、この世界は一人しのぎなのだと仰られているではありませんか。

ずれておるように思われましたか。私自身はずれておるとはまったく思っておりません。ひとりしのぎでありながら、何故、御開山や蓮師が「一念の時」というものを説かれておるのか。その辺りに疑問を持って頂きたいのでございます。

> しかしながら、未決定の者は獲信者と信じる人の教えに耳を傾けるしか道がない。
> それをおそらく泥凡夫さんは、各自が持つ、有縁の道といわれているのでしょう。

そうです。有縁の道がその人の道であります所以は、幾度も幾度も人に相尋ねよ。と蓮師が申されておるとおり、尋ねて、ここに道ありと思ったなら、それがその人の道なのです。

> このことから、私は、自分の言葉で語ることのできない赤子については、決定しているかどうかなんて全く判断する術が無いわけです。ですから、特定の赤子を指して、実際にこの赤子は獲信している、という言葉がでてくるとすれば、何を根拠にそれを言っておられるのか、私にはやはり理解できません。

今のあなた様が理解できたら、もう凡夫ではありますまい。
ただ、一つお考え頂きたいことは、赤子であれ誰であれ、求める衆生に差別など無いのが弥陀の本願でございます。聞く一つで救われると一生懸命聴聞されても、それだけで信を獲られると思われたら、それは難行と何ら変わらんのです。

説法などいくら聞いても右から左に抜けてしまうもの。石や柱に聞かせておるのと何も変わらんのです。「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」を聞かねばどうにもならんのです。これを言うと早合点して、そうか。仏願の生起本末を耳で聞かせてもらって、疑わないようにすればいいんだな。と思われるでしょうが、そんなお粗末なものではございません。とだけ申しておきます。

> 意外なことをいわれます。一流安心から見て、秘事という言葉で現されるところの、それで安心してはいけないんですよ、と警告される世界があるはず。それを蓮如上人は、今の世に広まる「秘事法門」なる教えがあるといわれたのではないのですか。
> わからないから質問しているんです。

越前に広まるところの秘事法門の一節でございますね。
では、その越前に広まった秘事法門とはどんなものであったのかを是非ともあなた様御自身でお調べになって頂きたいのです。

まだまだございますよ。土蔵秘事(光明秘事)、十劫安心、隠し念仏、一念覚知、機募り、法体募り・・・まだまだございますが、これらも千差万別であることも知られております。

> 泥凡夫さんから見て、秘事と一流安心の決定的な違いはなんですか?

千差万別の秘事法門でありますが、そもそもそれらは御開山・蓮師の仰せとまったく異なったものであるのです。聖教・御文と割符を合わすことすらできませぬ。あなた様が詳しくお調べになれば、今のあなた様ですら、それでは真宗ではないだろう。と気が付かれることも多いでしょう。そもそも、往相・還相に逢わずば往生は定まらぬもの。次第相承の善知識とは「口決面授」によって一流の「次第」と「実語」を相承されておるのです。その方々は立派な坊主であるとは限りません。もちろん坊主の方もおりますが、在家にもおられると申しあげておきましょう。

> 真宗の掟とは何か。抑止(おくし)とは何のためにあるんですか? 
> なぜ、何かを隠す必要があるんですか?

抑止は抑止門があるからでございます。
十八願成就文をよく御覧下さい。助けるだけではないでしょう。「唯除五逆誹謗正法」の但し文があるのです。蓮師が御文で、何ヵ所も「当流の掟」について語られております。今一度御拝読下さい。但し、これは信を獲た者に対して申されておることでございます。更に、無宿善には法(説法ではありません)を聞かせてはならぬ。とまで言われる所以は、偏に正法誹謗の輩を出さぬための深い深い御配慮。万一、法を誹謗致せば、沈まんでもよい所までその人は落ちねばなりません。

> すべてを隠さないで話をしても、わかる人にはわかる、わからない人には決してわからないのが真宗であるように感ぜられます。
>
> 隠し事なんてない、何でもかんでも開かれているけれど、宿善深き人がわずかなゆえに、真意がわかる人はほんの一握りなのが現状だといってもらったほうが私にはしっくりきます。

仰りたいこと分からなくはありません。ただ、それはあなた様がそう聞かされて来たからでしょう。というより、あなた様がそうであって欲しいという願望が伺い知れます。

抑止も分からぬ教えは正法とは呼べませぬ。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4618 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/04(Sat) 21:52
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。
一生懸命になられるのは結構でございますが、無理はなさらぬように。

> 獲信というのは行者が起こすところの体験ではなく、阿弥陀仏からのいただきものだから、と仰られたいのだと感じます。

それは当たり前のことでございます。親鸞会様でもそう聞いておったでしょう?
弥陀より賜るものであっても、どう賜ればよいのか?雑業雑修自力のこころをふりすててとございますから、どうやって捨てればよいのか?己の三業が自力であるなら、ただのただのお助けか?疑心あってはならぬとありますから、疑わじ疑わじ・・・こうやってぐるぐる回るのです。いつまで経っても若存若亡するのです。

故に往相・還相の廻向に逢って六字の謂れを聞かねばならんのです。
南无(帰命)は廻向されるものなのです。

> しかしながら、ただ救ってもらえるとして、それを信じているだけでは真宗ではないはず。そうすると、阿弥陀仏より第十八願の信楽を受持したときの一念に行者にその自覚としての決定心が起こるかどうかという問題があるかと思います。

仰りたいことは分かりますが、後半が頂けません。
十八願の信楽の受持というものを何だと思っていらっしゃるのでしょうか?
一念を覚知するということは凡夫には不可能です。
たのむ一念の時、往生一定と「信じる」ことしかできません。お間違えなきよう。
弥陀より賜りし決定心とは「わが心」ではありません。こうやって己のこころに相談いたしておる間は自力の信のままでございます。救われた思いと申すは後念であり、一念ではございません。
 
と、私の申すことを聞き、考え、理解しようとしても信は賜れません。説法も聞いた時は有難い有難いとやりますが、家に帰れば元通りの己。初事じゃ初事じゃと喜ぶのは結構でございますが、忘れて元通りの己になる故、初事になるのです。こうやって若存若亡、三不三信の状態を繰り返すのです。

あれこれ計らうよりも、あなた様の有縁の道をひたすら進むほか道はございません。
これだけはお忘れなきよう。弥陀の本願は老少善悪を問いませぬ。あらゆる差別は無いのでございます。差別が無いのは分かっておっても救われる者を限定するような教えは真宗ではございませぬ。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4625 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/11(Sat) 22:03
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

>「行者が自力で作り上げる信心はそれぞれの器量にしたがって、異なるものとなりますが、他力の信心は阿弥陀仏からのいただきものだから、同じ一味の信心なのです。それは、譬えば、日本銀行から発行される1万円札をいただいた場合、身分の上下を問わず、誰にとっても同じ値打ちのものであるのと同じです。」

なるほど、ごもっともでございます。
聖教を元にすれば必然的に導き出される回答でございます。
ただ、いま少しお考え頂きたいのです。聖教を元にそれが分かったとて、実際問題、それぞれが異なるものを自力で作り上げておるにも関わらず、賜ったものなので同じであると豪語されるのなら言語道断の次第なのです。

> 私の場合、疑わじ疑わじ・・・という感じではありませんが、ただ、弥陀より信心をいただくと、すっきりとするものがあるのだろう、という期待感があります。
> あえて言葉にするならば、その期待感を求めて、どうすればそうなれるのだろう、という感じでしょうか。

御心、よくよく分かります。
以前も話しましたが、人は何かスッキリする世界があるのだろう。とか、生まれ変わったようになれるのだろうとか期待致します。これは期待ではなく、本願疑う心より生じるものなのでございます。「無明業障の恐ろしき病」は、このような自力の計らいにより御本願を秤に乗せて、絶対に本願に合わせない病なのでございます。

故に、光明が見えねば助からんとか、あの喜び手のようにならねば救われん。などやりだすのです。人間は煩悩の雲で正しいことなど何一つ見分けられん哀れな存在でありながら、確かなものを掴まねば信じられんという恐ろしい病を持っておるのです。

何度も申しますが、信を獲たとて何も変わりはありません。
おかしな泥凡夫という者が申すこと。無理に信じて頂かなくても結構でございます。

> 私の場合、まさにそのことに疑問を持っているのです。
> 阿弥陀仏の本願に差別が無いとは聞いていますが、お釈迦様が、筏の喩えで、教えられましたような、まず、理屈を聞いてから、その理屈では助からないから捨てる、あるいは捨てさせられる、というプロセスがどうしてもあるのが教えであり、道ではないかと考えてしまいます。

なるほど。ではその道をひたすら進んでみて下さいませ。
その先に何かございましたらそれを大切になさるのもあなた様の道でございます。

但し、その道は老少善悪の人を選ばずの道であるのか?「理屈を聞く」とありますが、聞きたくとも聞けぬ者は御本願より漏れることになります。「その理屈では助からんと捨てる」のなら、少なくともその理屈を理解できる智恵が必要になります。当流は聖教を読み・覚えるには智恵才覚が必要ですが、信を獲るには智恵才覚は必要ではございません。

あなた様にとっては理解できないおかしなことを言う秘事の怪しい者に見えるでしょうが、私はあなた様に捨てられても、私はあなた様を見捨てたり致しませぬ。それだけはお忘れなきよう。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4631 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/25(Sat) 17:17
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

>あれから1年も経ったのにあまり進歩がない自分を感じていらつきますが、一方で、なんとかしたらなんとかなるだろう、という気持ちから、どう頑張ってもどうにもできない自分と対面しつつあるような気がします。

御自身を見つめておいででございますね。
と、己のことを見つめたとて、どうにもならんのです。
しばらくすると、また最初の進歩のない己に気付き・・・堂々巡り致します。

よく御存知だと思いますが、あなた様が救われたいと思うより先に、十劫の昔に南无阿弥陀仏は既に成就されております。すると、凡夫はおお!!そうか。俺は十劫の昔に既に救われておったのか。そうかそうか。ありがたや。とやり出します。これでは十劫安心と申します。または五重の義で「光明」とあるから光明が見えねば助からん。とやりだします。いつまで経っても正信になれんのです。

御聖教に記されておりますから、あなた様のように教学をやられておる方に申すのは申し訳ない気が致しますが、「正信の体は名号」でございます。光明が見えるだとか、救われた思いだとか、躍り上がる境地ではございません。お忘れ無きように。

せっかくですので三帖目八通を引きます。

『そもそも、此の比、当国他国のあいだにおいて、当流安心のおもむき、事の外、相違して、みな人ごとに、われはよくこころえたりとおもいて、さらに法義にそむくとおりをも、あながちにひとにあいたずねて、真実の信心をとらんとおもうひとすくなし。これまことにあさましき執心なり。すみやかに、この心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、まことに、宝のやまにいりて手をむなしくしてかえらんにことならんものか。このゆえに、その信心の相違したることばにいわく、「それ、弥陀如来は、すでに十劫正覚のはじめより、われらが往生をさだめたまえることを、いまにわすれず、うたがわざるが、すなわち信心なり」とばかりこころえて、弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、報土往生すべからず。さればそばさまなるわろきこころえなり。これによりて、当流安心のそのすがたをあらわさば、すなわち南无阿弥陀仏の体をよくこころうるをもって、他力信心をえたるとはいうなり。されば「南无阿弥陀仏」の六字を、善導釈していわく、「「南无」というは帰命、またこれ発願回向の義なり」(玄義分)といえり。そのこころいかんぞなれば、阿弥陀如来の因中において、われら凡夫の往生の行をさだめたまうとき、凡夫のなすところの回向は自力なるがゆえに、成就しがたきによりて、阿弥陀如来の、凡夫のために御身労ありて、この回向をわれらにあたえんがために、回向成就したまいて、一念南无と帰命するところにて、この回向をわれら凡夫にあたえましますなり。かるがゆえに、凡夫のかたよりなさぬ回向なるがゆえに、これをもって如来の回向をば、行者のかたよりは不回向とはもうすなり。このいわれあるがゆえに、「南无」の二字は帰命のこころなり。また発願回向のこころなり。このいわれなるがゆえに、南无と帰命する衆生を、かならず摂取してすてたまわざるがゆえに、南无阿弥陀仏とはもうすなり。これすなわち一念帰命の他力信心を獲得する、平生業成の念仏行者者といえるはこのことなりとしるべし。かくのごとくこころえたらんひとびとは、いよいよ弥陀如来の御恩徳の深遠なることを信知して、行住座臥に称名念仏すべし。これすなわち「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といえる文のこころなり。あなかしこ、あなかしこ。』

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4633 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/25(Sat) 22:47
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> という言葉の意味は、信心は自分の中をいくら探しても見つからないし、磨き上げても「信心」という形にはならない、という意だと解釈いたします。

己の信じる心、躍り上がる心、喜ぶ心。これらを信とは申さないのです。
凡夫がどれだけ立派な志を立てようと、信じた、疑い無くなった。と申しても無駄なのでございます。そんなものは末通らないのでございます。全ての人が平等に救われるのは信の体が名号であるからでございます。よし。それでは今日から名号をたのみに生きよう。そう志してもこれも末通らず。

帰命とは何なのでしょうか。
帰命は南无であり、凡夫が廻向するにあらず。帰命は廻向されるものであるのです。故に、どんな者であっても平等に南无と帰命する者を摂取して捨てない。その証拠は南无阿弥陀仏でございます。

> 人は必ず死ぬ、ということはうなずけるのですが、自分自身だけは死なない、という前提と思い込みのもとに日常生活を送っているようです。

皆そうです。哀れなるかな、皆他人事なのです。
では、己は死ぬものであると認識しなければ救われないのでしょうか。
ちょっとお考え下さい。

> 私はなんて愚かなんでしょうか。

私はもっと愚かです。

> そのために本願が建てられた?

そうです。あなた様のために建てられました。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4635 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/26(Sun) 23:06
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> お釈迦様が、「諸行無常 諸法無我」の言葉をもって教えられた通り、わが身の死を忘れている衆生に警鐘が鳴らされ、その警鐘の意味する教えを聞いて救われていくのが仏教だとすれば、自分自身の無常を自覚することが仏法を聞く出発点ではないかと考えてしまうのですが、それが違うといわれるのでしょうか?

己が無常の風の前では風前の灯火であることは当然なのです。真宗は己の死を恐れない強靭な精神を頂く教えではないのです。仏法は当たり前ですが、六道輪廻の迷いを断ち切り、仏覚に至ることを目的と致します。釈尊の説かれた八万四千の法門を御開山は「二双四重」の教判でお分けになられました。真宗はその中でも頓教中の頓という位置に置かれ、誠に我等凡夫がたやすく仏になれる法であると言われております。

風前の灯火である我等の命を見つめることは誠に大切でございます。蓮師も「後生の一大事をこころにかけて」と申されております。しかしながら、後生の一大事をこころに掛けておらん我等があるではございませんか。心に掛ける時もあれば、ない時もある。心に掛けたとて、それだけでは何の解決にもならんのです。信を頂けば死ぬのも怖くなくなるのかと申せば、それはございませんとしか言いようがございません。御開山も蓮師も信を頂けども、早く浄土に参りたいと思うこころ少なくして、生に執着があると申されております。煩悩に覆われた我等は生に執着してしまうのです。

後生の一大事をこころに掛けることすら末通らんのが哀れ我等凡夫なのでございます。これを思わねば、知らねば助からんとか、疑わじ疑わじ・・・と必死になって、自力のこころの振り捨てようも分からず、捨てられんものを捨てようともがいておるのです。

では、みちくさ様。己は死ぬものであると四六時中思うように心掛けてみて下さい。残念ながら腹が空けば食いもの欲しくなりますし、眠くなれば寝てしまいます。末通らんのです。しばらくすると何も手に付かんようになって、なんもかんも放り出したくなるでしょう。放り出したとて、また元に戻り、後生の一大事をこころに掛けねば掛けねば・・・。と堂々巡り。

私などの言うことは別に気に留めて頂くこともございませんが、あなた様が正意であると思われた道があるのなら、脇目も振らずに進んでみることも大事であると思います。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4637 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/28(Tue) 19:49
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> いつの頃からか縁あって、真宗に魅力を感じてきました。
> ただ、真宗は、いきなり『阿弥陀仏』の存在が前提となっている教えのように感じて、とっつきにくいなぁ、と思ったこともありました。

阿弥陀仏の存在が前提というより、「南无阿弥陀仏」が前提であり全てであり結末でもあります。真宗はこの六字以外に救われる道などございません。

> 私には脇目も振らずに進むような道は持ち合わせておりません。ただ、真宗によって獲信された方には尊いものを感じずにはおれません。

御縁ある故に、そう思わせて頂いておるのです。
ただ、少なくても私は何も尊くありません。

> また、私が智の満足感をもって法を求める目的としている限り、いつまでたっても阿弥陀仏には逢えないだろう、ということもわかってきました。なぜならば、真宗は、いや仏教は、智慧の満足を最初から目的としていない、目的としているのは、ひたすら孤独な魂の救いだけなのでしょう?

凡夫は尊くなれん。と何度も申し上げてまいりました。私共の智慧が満足するなどありえんことなのです。満足したならそれを抱えたまま堕ちねばなりません。

南无阿弥陀仏の六字は、我等が智慧もなく才もなく、何を志しても末通らず、他者の痛みなど知りもせず、己可愛さだけで生きており、そんな我等を救うという法にも耳を貸さず、永い永い間彷徨ってきた存在であると証されております。

「阿弥陀仏に逢える」という表現は喩えでございます。この穢土にありながら本当に佛を拝めたとなれば、それは既に真宗ではなくなります。佛の声が聞こえただの、佛を拝めただの、そんなこという人など過去世より数え切れんほどおったのです。それでは光明が見えたという土蔵秘事(光明秘事)と何ら変わらんではありませんか。

孤独な魂の救いとは親鸞会様で言われることですね?違いますか?
ややもすると、とんでもない取り違いをなさる可能性がありますので御注意を。
孤独な魂の救いとは穢土においての様々な苦しみや苦悩の解決ではありません。穢土にある間は己の蒔いた種を刈り取って生きねばなりません。楽より苦が多いでしょう。

真宗の説法聞いて、私も佛になりたいと思ったのなら、それは己が思ったにあらず。永い間の光明の御養育でそう思えるようになったのです。行った事も見た事もない浄土に生まれたいと思うなど御縁なき方々からすれば、正気の沙汰ではないでしょう。ただでさえそんな高い望みを持った我等。次は行った事も見た事もない浄土に生まれることが確かになりたい。物を掴んだように確かになりたい。と、こうなります。しかしながら、南无阿弥陀仏の六字に証されるのは罪悪深重の凡夫。まるで逆さの存在でありながら、生まれたい生まれたいとやるでしょう?

たとえ佛が拝めても、佛の声が聞こえても、光明が見えてもそれは往生の因にはならんのです。往生の因は「南无阿弥陀仏」の六字以外には存在致しません。

『一つには、自身の往生すべき安心をまず治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに、宿善無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。第十八の願に「至心信楽欲生我国」(大経)といえり。これすなわち三信とはいえども、ただ弥陀をたのむところの、行者帰命の一心なり。そのゆえはいかんというに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんとおもうこころの一念おこるきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。その時節をさして、至心信楽欲生の三信ともいい、またこのこころを願成就の文には「即得往生住不退転」(大経)ととけり。人を勧化せんとおもうとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたずらごとなるべし。このゆえに、宿善の有無の根機をあいはかりて、人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく、当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあいだ、真宗の正意、このいわれによりてあいすたれたりときこえたり。』四帖目一通

真宗はまず信が先なのです。その後で御縁ある方の手を引けるのです。誰彼構わず、己の往生も決定せずに他者の手を引くなど言語道断の次第なのです。また、宿善・無宿善を分別せねばならんのにはきちんと理由があるのです。何度も申しますが、何でもかんでも開けておるなど真宗ではありません。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4639 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/28(Tue) 23:43
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> ご指摘の内容がわかっていながら、私はそうなってしまう可能性があることを自覚せずにおれません。

人はそれぞれに通る道がございます。そこを通らねば分からん人は通るようになっておるのです。

> 私のことをずばり言ってもらっているようです。以前はそうでもないと思っていたのですが、最近は「他者の痛みなど知りもせず、己可愛さだけで生きている」という表現には突き刺さるものがあります。

そうですか。それはそれは尊きこと。ただ、罪悪深重であるのは何もあなた様だけではないのです。人間は分け隔てなく罪悪深重なのです。蓮師が「われはわろし」と申されるのはこのことなのです。ただ、それを知ったとて、どうにもならん己がおるのです。故に、「弥陀たのめ」と申されるのです。ただ「弥陀たのめ」と申されず、「後生助け給え」があるのです。よくお考え下さい。

> 私が親鸞会という組織に出会ったときに直感的に感じ取ったことを書いていただいております。救われていない者が、人に法を説くなんて、組織的におかしいや、と感じました。
> 仏法は言葉を教えることが目的ではないはずなのに、未信の者が人に何を説くというの?

ここは、説法するなと言う意味ではないのです。「正雑二行の沙汰」をするな。と申されておるのです。他者の手を引くと申すは、説法聞かせる聞かせんの分別にあらずでございます。他者の手を引き(往相)、次第相承の善知識(還相)に逢わせ、一念帰命(たのむ一念)を聞かせて頂くのです。つまり、正法を頂くものでなければ、手を引いたとて、引いた本人に正信はなく、引いた者も正法に逢えず。まったく自損損他の咎を免れません。

> だから、親鸞会に於ては、会長さんの言葉とそれ以外の人とでは同じ内容の説法をされていても、まるで受ける印象が違うのです。

そうですか。そう感じられたのなら、それもあなた様の道でございます。

> 未信の者が説法をすることが宿善を積むことになるという考え方にも強い違和感をもったことを覚えています。
> だからいくら勧められても会員になる気はしなかった。

宿善を積むということと、善根功徳を積むということとをごちゃ混ぜにしておられる故にこんな事を言うのです。今のあなた様なら少しお分かりだと思います。私共凡夫が、善根功徳を積もうと志しても、悪しか作れんのです。これは善根功徳を積むなという意味ではありません。お分かりですよね?

六字を頂いたとて、聞く身に変わりはありません。
信を獲た後に歩くが「二河白道」でございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4641 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/29(Wed) 23:54
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> 「正雑二行の沙汰」とは具体的にどういうことを言うのですか?

正雑二行の沙汰であるとしか言いようがございません。
宿善開発の身でなければ聞かせられんのです。

> また、正法をいただかないものが偶然に人を次第相承の善知識に逢わせるということは考えられませんか?

偶然に逢わせたとて、それが次第相承の善知識であると引いた本人も引かれた者も知りようが無いではありませんか。

> 更なる疑問として、信を得た「往相」の人が人に信を取らせるということは絶対にあり得ない事なのですか?

ありえません。次第相承の善知識に逢わせることだけです。御開山は聖覚法印という「往相」に手を引かれ、法然上人という「還相」に逢って十八願を頂かれました。次第相承とは次第を血脈相承することでございます。この法脈を受け継いだ方は、「弥陀の代官」でございます。何故「口決面授」で伝えられるのか。仏法では普通のことでございます。ある日突然、勝手に自流を立てたとて、血脈相承の証が無ければ、単なる新興宗教でしかありません。この法脈は辿れば蓮師に、御開山に、七高僧に、そして釈尊に、弥陀に繋がるもの。

> 上のご指摘(こんな事をいう)は、私の言葉を指して言っておられるのですか、それとも、親鸞会について、言っておられるのですか?

あなた様の御発言に対して言った事です。
親鸞会様に対して言ったと思われるのはあなた様がそのように聞かされ、疑義を抱いておったからでしょう。私は素直にお答えしたまでです。

> 信を得るまでの道が「二河白道」であると考えていました。
> 信を得るまでの道は「二河白道」であるとは言わないのですか?

親鸞会様では信前を「二河白道」に喩えられておることは聞いております。
残念ながら信後に歩む道を「二河白道」に喩えられるのです。
「二河白道」の喩えは信心のすがたをあらわされたものです。信を獲たとて、煩悩旺盛な凡夫であることには変わりがないのです。二河白道が信後の喩えであることなど、本山ですら承知しておる当たり前のことでございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑情ではなく疑問
記事No : 4643 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/30(Thu) 22:58
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> 以前にも質問したかもしれませんが、「往相」の方は一生涯「往相」のままなんですか?それとも、還相の方より「口決面授」されればそれ以後「還相」となられるのですか?

「往還廻向唯他力」の如く、この二廻向は弥陀の本願力によるもの。
御開山のお話をしましたが、御開山は十八願を頂く身になり、その後、法然上人より「口決面授」により次第を相承され「還相」になられました。

> 次第相承の善知識は「口決面授」で伝えられるものだと仰いますが、例えば法然さんは観無量寿経疏の「一心専念弥陀名号・・・」のところを読まれている刹那に獲信されたと伝えられているではありませんか。これは伝記に誤りがあるといわれるのですか?

黒谷で獲信されたという一節ですね。前にも同じ事を書きましたが、この時点では衆生往生の道は見えておりません。法然様はその後に横川で往生要集を御覧になられた後に一念を発得されておられます。仔細は次第相承の善知識にお伺いになられませ。

>譬えば、人ありて、から始まる二河白道の喩えが、信心を得た人だけが歩む道であるとは私には読めないのですが・・・(譬えば人ありて、の人には未信の人も含まれていませんか?)

違います。そうですね。せっかくですので、本山の坊さんのおるお近くのお寺でも出向いて、二河白道の喩えは何のためにあるのかお聞きになられるのも大事だと思います。あれこれ考え込んでも泥沼にはまるだけでございます。

真宗は必ず人を介して、よき人を介して往生が定まるのです。

南无阿弥陀仏


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