真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 01

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


御文は往生の鏡なり

タイトル : 御文は往生の鏡なり
記事No : 3933 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/25(Sun) 12:28
投稿者 : 泥凡夫



何が秘事で何が正法なのかは弥陀のみしか知りません。どれだけ計らってみてもだめでしょう。結局、私が正しい、あなたが間違っているというだけです。秘事、異安心の問題なんて今に始まったことではないでしょう。自流にないものを全て秘事だ異安心だなど衆生を惑わすことになりますし、真宗内部での争いが絶えない元となります。それでも私が正しいとやるんですよね。私達凡夫は。

御文にちゃんと書かれていますね。
それ、八万の法蔵を知るといふとも後世をしらざる人を愚者とす・たとい一文不知の尼入道なりというとも・後世をしるを智者とすといえり・しかれば当流のこころは・あながちにもろもろの聖教をよみ・ものをしりたりというとも・一念の信心のいはれをしらざる人は・いたづら事なりとしるべし・・・

信心獲得すというは・第十八の願をこころうるなり・この願をこころうるというは・南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり・・・

・・・いかなる十悪五逆・五障三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて・ひたすら後生たすけたまへともうさん人をば、たとえば十人もあれ・百人もあれ・みなことごとくもらさずたすけたまふべし・・・

・・・南元とたのむ衆生を・阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆえに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは・すなわちわれら一切衆生の、平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり・・・

当流の安心のおもむきを・くはしくしらんとおもわんひとは・・・
・・・行者のおこすところの信心にあらず・・・

有縁の善知識に逢うことが五重の義の第一段めですよね。
それがその人の宿善でしょう。
あちらが正しい、こちらが正しいとは浅ましい限りです。

どれだけ自分で弥陀の誓願を信じた、信心を得たと思っても、それは凡夫の起こすところの自力の心です。金剛心ではありません。
そう思い込んでいるだけです。
例えれば、金剛心は弥陀より賜る往生の切符でしょう。私がどれだけ愚かでも、疑いのこころが起ころうが、それは消えたりしないものです。正信偈にあります。憶念弥陀佛本願と。
信は憶念できるものでしょう。

往相(十一願の人)と還相(十七願の人)に逢わねば往生の道は見えません。そして私(十八願の人)。

ただ、おうようにして聞くにあらずでしょう。善知識に逢わねば。
一生聞法しても往生は定まりません。これは第二十願の人です。
死ぬまで聞いても往生が定まらない不定聞です。
善知識は、それこそ弥陀のお計らいによって使わされた還相の人で、改邪鈔にあるように「実語をつたえて口授した次第相承(血脈相承)の人」でしょう。日本にたった一人しか居ないなんてことはありませんし、立派な僧侶さんとも限りません。近所のお祖父さんかも知れません。

弥陀の誓願(十八願)は、いかなる老少男女でも救われます。
年齢制限があるとか、重度障害で聞法できなくてもそれは障りには
なりません。


タイトル : Re^3: 御文は往生の鏡なり
記事No : 3941 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/26(Mon) 18:10
投稿者 : 泥凡夫



> 勝手に意見を述べさせて頂きます。
> 二十願の自力の心をひるがえせば良い事です。
> 宿善の無いものは、いくら十八願を勧めても、二十願十九願を捨てられず、一生を終えてしまうそうです。
> 聞法じゃ極楽に往けません。真の善知識の下で一念帰命をする事が肝要です。いくら話を聞いて、有り難がっても極楽に往く因にはなりません。
>
> 泥凡夫さんも私と同じ信心を頂いた人ではないかと思いますが、違いますか?
> I県のY書店の本を読んでいませんか?後藤善因も知っているのではありませんか?

自信教人信 様

正信を得た人なら御文はまるで割符を合わす如くになりますよね。
至らぬ私の勝手な書き込みでしたが、見る人が見ればすぐに同心であるとお気付きになると思っておりました。
娑婆で逢うことは叶わぬかも知れませんが、浄土でお逢いできることを楽しみにしております。
この掲示板中で私と同じ信を得たと思われる方がいらっしゃいました。

> 聞法じゃ極楽に往けません。真の善知識の下で一念帰命をする事が肝要です。いくら話を聞いて、有り難がっても極楽に往く因にはなりません。

正にそうだと私も思います。
善知識に逢いて、六字のいわれを聞き開き、一念帰命なくして往生はありえません。「弥陀をタノム」こと肝要です。
タノム衆生は必ず救われます。一文不知でも、男でも女でも御老体でも子供でも。難しいことなど何一つありませんが、宿善なき方は残念ながらこの法を聞く事ができないのです。逆に正法誹謗されてしまうのです。皆様の宿善開発の助けになればありがたいです。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re^5: 御文は往生の鏡なり
記事No : 3945 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/26(Mon) 21:24
投稿者 : 泥凡夫



> お返事有難う御座います。
> 極楽でお会いするのが楽しみです。
> あまりの嬉しさに今、涙しながら書き込みしています。
> 私は、本当に、ただ、信心を頂けた事をありがたく思い、何の知識も無く、ここで、みちくささんと出会い、どうにか、どうにか、信心を頂いて欲しいという思いで書き込みをしています。
> 自分自身、言葉が足らず、もっと上手に伝えられたらと思っていても、書いた文章をお読みになれば分る通り、拙いものです。
> 私が書き込む事で、多くの人達に誹謗の罪を作らせてしまい、より深い地獄に落としてしまうと云う、罪の意識もあり、書き込みはすまいと思っていましたが、何故だかこういう事になっていました。
> 私も、みちくささんは、宿善のある人で、今生で聞くことが叶う人だと思います。
>
> 御文は、割符ですね。御文は、一字一句が仏菩薩と聞かされています。自らの計らいで加減もせず、そのまま、読むことが肝要ですよね。この事か、あの事かと思いながら読んでいます。
> でも、何処を読んでも、信を獲れとしか書いていないですよね。
> 信心を獲るには、詳しく知っている人(善友)を相尋ねよ、真の善知識の下で一念帰命をしなさい、自分の罪の重さもよそえて、余計な自力の計らいを捨てて、ただ、一心一向に弥陀をたのめよと。
>
> 一人でも多くの方と、極楽で会いたいですね。
> 今からとても楽しみです。もしかしたら、同じ善知識さんだったりして・・・世間は広い様で狭いと言うし・・・ねっ。
>
> 泥凡夫さんにも、みちくささんのお手伝いをして頂けたらどれだけ心強いかと思っています。泥凡夫さんも、みちくささんと有縁の人だと思いますので。
> そして、表には出てこない、読者の方々も、宿善を催して、弥陀の真実信心を頂いて欲しいと願っています。

自信教人信 様

正信を得た人同士は不思議なことにすぐに分かるようにして頂けるのですよね。私もHNの通りの泥凡夫です。しかし今生、生まれ難い人間に生まれさせて頂き、聞き難い法を頂く身にさせて頂きましたことを嬉しく思っております。

異安心、秘事法門問題も遥か昔より存在しております。皆様も何故、そのようなものが存在するのか?場合によっては駆逐せねばと思われるかもしれません。私は哀れな泥凡夫の身ですので、とてもとてもそのような尊い事を思い立つことも成すこともできません。弥陀のお計らいで、弥陀の御手の中で起こる出来事である以上、私のようなもの知恵の及ぶことではございません。

ここは親鸞会様を非難されるページなのでしょうか?だとすれば、私はとてもとてもそのような事はできません。たとえ、親鸞会様が私の信と異なったとしても、有縁、宿善の事、私にはどうにもなりません。釈尊の説かれた尊い聖道門の欠片すら縁のない救われるべからざる私が縁を頂いたことのみ喜ぶ次第です。

この無上甚深微妙の法の入り口にすら入れず後生に旅立たれる方が数え切れません。有縁、宿善によって聞法精進される道に辿りついただけでも尊いことだと私は思います。その点、親鸞会様は非常に活動的に御説法をされ、全国各地、世界にまで弥陀の本願を説かれているとか。それもこれも弥陀のお計らいであると私は思います。

異安心、秘事法門を一まとめで語ってはいけないと私は思います。よく引用される御文の・・・越前に広まるところの・・・浅ましき外道の法なり。がありますが、それがどのようなものだったのか良く知る必要があります。それ以外にも十劫安心、機責め、岩手周辺の隠し念仏などなど、それぞれに違ったものがあります。共通項だけを抜き出して一まとめにするのは如何なものでしょうか。

私の信は善鸞を祖と仰いでおりません。当然、親鸞聖人が祖でございます。秘事は信を得た後に聞法する気が無くなると言われるようですが、ここも誤ってはなりません。そもそも、聞法するだけで信は得られるものではないからです。私の得た信は何度もいいますが、私がどれだけ愚か者であろうと、疑い心が起ころうがまったく微動だにしないものだからです。他力の所以です。

尊い御説法を毎日聞けたら嬉しいですし、朝晩のお勤めも怠りなく出来ればそれはそれは尊いですが、哀れそれも叶わず毎日を過ごし、弥陀に申し訳ない、勿体無いと思う日々です。御説法も聖教も漏らさず憶え、「尊い人間になってから来い」とは言われておりません。「そのまま来い」と弥陀は言われております。

長々申し訳ありませんでした。自信教人信様の有縁の善知識様と私の有縁の善知識様はきっと違うと思います。それだけ私達を救って下さろうと、還相の方々が次第相承されておられるということでしょう。ありがたい事です。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re^9: 御文は往生の鏡なり
記事No : 3951 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/27(Tue) 17:09
投稿者 : 泥凡夫



自信教人信 様

> お願いだから、『様』はやめて下さい。そんな『様』呼ばわりされるような人間ではありません。だからお願いします。同じ、ご同行なんだから。一味同心のお友達であり、兄弟でしょ。

良いではありませんか。同行故にそう呼ばせて下さい。

> 私と同じ気持ちですよね。あなたも、信を獲れとしか言わない。
> 私も信を獲れという気持ちしかありません。
> 弥陀をたのめ、ただそれだけが言いたい事、ですよね。
> さんざん弥陀をたのめや善知識の下で一念帰命とか、言い続けて来たので、今日は、敢てこの位にしておきます。

正に、急ぎて信を獲ることこそ肝要だとしか言いようがありません。「五重の義」成就せねば往生は定まりませんから。

> 私も、光明を見ていません。お浄土も見えません。阿弥陀仏もこの煩悩の厚い雲のせいで、見えません。ですが、私は、極楽浄土に必ず往くと信じられるだけの物があります。泥凡夫さんも同じじゃありませんか?
> 地獄に行く身を、地獄に行きたくても行けない身にして下さった。
> 逃げても逃げても放さない親心。
> こんなどうしようもない、諸仏が捨てたこの私を、弥陀一人が救うてやるぞと、お救い下されたと思うだけで、本当に嬉しくて、あまりにも有り難くて感謝で涙が出ます。
> 南無と帰命した時は、本当に何もわからないまま、ただ、地獄を免れるとしか知らずに帰命したけれど、信心を頂いてから、どれ程の宝を頂いたのかを知ってびっくりしたと言うのが本音です。

正信を得た者同士は、わずかな文章だけで相手を知る事ができます。よく分かりますよ。

> 詳しい事は、信を獲ってから知れば良い事です。信を先に獲り、それから、弥陀から頂いた真実信で、少しづつ知って行けば良い事です。別に、信を頂いた後に無理して勉強する事もないのですが、自分が頂いたこの宝を皆にもと思う気持ちから、自然と、勉強と言うか、御聖典を読んだり、善知識の話を聞きに足繁く通いたいと言う居ても立っても居られない気持ちになったり、本を読み漁ったりしてしまいます。しかし、これらの行為は、自分を磨く為と云う心からする行為ではありません。ただ、ただ、一人でも多くの人にこの法を知って欲しい、聞いて欲しいという気持ち意外にありません。

それも自信教人信様の宿善の成せる業でしょう。私などは過去世にろくな種蒔きをしなかったために遠回りも致しました。
ここで少し、機責め(機募り)の異安心と呼ばれるもののお話をさせて下さい。

機法一体のこの法(凡心と佛心が一体になる)でありますが、「二種のお話」と「二種深信」をごちゃ混ぜで語るので、この「機募り」ということが起こります。「機の深信」ゆえに、機を責められ泣き崩れてしまいます。そこでいう善知識様はその機を逃さず捉えて責め立てます。それこそ法の前に立てば(照らされれば)我らは極悪最下です。それを持って「機の深信」とし、その後にそのような我らをも離さず捨てない弥陀のありがたさを聞かされ、これを持って「法の深信」とするのです。私自身が機募りに関係はしておりませんが、これこそ正法なりと信じる方々もいらっしゃいます。

残念ながらこれでは往生は定まりません。人によっては天地が翻るほどの経験もされます。世にあるものすべてが愛しく思え、すれ違う人にまでも感謝の心が生まれます。恩徳賛を聞けば涙が溢れますし、聖教も説法の聞かずにいられなくなります。
機募りにこそ逢ってはおりませんが、私がかつて通った道も似たようなものです。それこそ「生きても死んでも居られない状態」にまで追い込まれます。私の場合、自分で自分を追い込んで行きました。本当に「逃げ場なし」になります。自分で自分の首を絞めていることにも気が付かないような状態でしょう。地獄を見るとはこのことかもしれません。(注)機責めは度が過ぎますと自殺にまで追い込む恐れがあります。

しかし、この状態を越えて踊る境地になったはいいが、心の内をよくよく見させて頂きますと、これを維持しようとしている自分が見えてきます。このように躍り上がる境地にならねば往生定まらぬのでは万に一人も救われますまい。そもそも、踊り上がるような境地になれとは言われておりません。

機法一体といいましても、それは別個に存在するのではありません。「弥陀をタノム一念の時」それは一瞬で頂けるものなのです。
それでも機責めの方々は正法を信じられないのです。これも宿善の成せるものと思うしかございません。「こうあるべきだ」「善を積まねば」「まだ私の心が疑っている」「晴れ渡るような世界だ!是非皆にも伝えよう」「しかし一向にこの気持ちは伝わらない」いつまで経っても自力叶わず流転されております。

躍り上がる境地になっても、同行同士が一瞬で相手を判断することもできませんし、「百人あれば百人」を救うことも叶いません。
この様な「機募り」の場合、往々にして同行同士で階級が設けられます。しかし、それは分かる気がします。第一、「他力」と信じてもそれは自ら信じる「自力」ですので、同行同士で信心の「差」が生じるのです。あの人は深い信心だとか、あの人のようにならねば往生叶わぬとか。

正法は人を選びません。老いだ、赤子だ、男だ、女だ、悪人だ、善人だなどと選ぶのは、我々哀れな凡夫の見る眼に過ぎませんし、自力で頑張っている証拠です。弥陀の前では皆平等です。正法を頂かなければ、御文も曲がった眼で見なければならなくなりますので、真実が浮かび上がって来ないのです。正法を頂けば、それは割符を合わすが如くに鮮やかに浮かびあがります。御文だけでなく、真宗のあらゆる聖教は全て割符を合わすようになるのです。次第相承の善知識に逢って「一念帰命」した人は「千人」いても「一万人」いても皆救われるのが正法です。

余談ですが、某大学の学位授与の際に新米僧侶に向かって学長が仰ったそうです。「大学は信心を授ける場所ではない。どうしたら信心が頂けるか有縁の在家へ行って頭を下げて聞いて来い」と。

> 私も無知なのに、この場に駆り出され、ひぃーひぃー言いながら、朝から晩まで、御聖典を読む事になったり、四六時中頭から、ここで出された質問が離れず、ずいぶん普段の生活を犠牲にしてきました。でも不思議と、大体の事柄については、御聖典を開くとすぐに答えのページが出てきました。
> 先日は、先日で、真言と言う言葉をみちくささんから出された折も、その前々日くらいに、たまたま読んだ、法然上人の大原問答の本に空海の事と、真言密教について少々書いてあり、まるで、真言と言う言葉を予言していたのではないかと思えました。不思議な思いです。

法論を戦わすなど私ごとき無知の及ぶ沙汰ではありません。自信教人信様もこの縁を頂き、様々な聖教を拝読する機会を得たようですが、まさしく、正法を頂いた人は「曇りなき眼」でそれを見れますので、不思議とすぐに理解できるものと思います。割符が合わないということはありません。自己の解釈で無理矢理に割符を合わす作業も必要ありません。一文不知の方でも容易に理解できるものです。愚か極まりない私ですが、今日も無事に過させて頂きました。ありがとうございます。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: 赤子の獲信に関連する質問
記事No : 3954 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/27(Tue) 23:07
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。お疲れ様でございます。

> 泥凡夫さんと自身教人信さんの会話を見せていただいて、何と私たち未決定の者とは次元がちがうのだろうと知らされます。

何を仰いますか。少なくとも私は最下等の人間です。偉そうに何かを語ること自体恥ずかしい限りでございます。みちくさ様の御苦悩、この一文だけで十分理解できます。私も通った道ですので。

> 恥ずかしながら、泥凡夫さんと自身教人信さんのお二方に赤子の獲信ということについて、質問いたします。
> (未決定のあなたにとっては赤子の獲信はどうでもよいことでしょう、自分自身の獲信を先に考えなさい、といわれる声が聞こえるのですが、その通りで、自身の決定を横において、このことを考えるのはあさましい事だとは思いますが、直感的に赤子の獲信については、「獲信者にとっての獲信の自覚の有無」という問題との関連性を感じますので、僭越ながら質問させていただきます)

なるほどですね。それはそれはさぞかしお苦しみの事と思います。
「赤子の獲信」はそれこそ「信心を頂くとはどういうことなのか」を如実に物語るものです。「信を獲るとはどういうことなのか?」という壁にぶち当たられたのですね。

獲信の自覚の有無についてです。これは「一念覚知」と言われ、私達凡夫が救われたことを「はっきり自覚」できるか否かの問題で、論争にもなりました。「私は救われた!」とはっきり自覚できるというのは、微妙な表現と読み間違いで大変な取り違いになってしまう恐れがあると私は思いますので御注意下さい。

どえらい団体様がこれを一まとめにして「一念覚知」は異安心だとも言っております。これは大雑把に二つに分けられると私は思います。「私は救われた!」と覚知できるということと、「救われた日時が分かる」ということです。少なくても私は「自分が救われた日時」が分かります。いつ信を獲たのか分からぬようでは幾千万の衆生は救われません。どういうお計らいか私には分かりませんが、私は「私は救われた!」の方も経験させて頂いておりますが、これは正信ではありません。

> 私が学生のときに教えていただいた事柄ですが、人間というのは教育によって初めて、言葉を覚え、二足歩行が出来るようになり、人間となることができる。狼に育てられた子供は外見は人間であっても、言葉を話せず、二足歩行も出来ず、獣そのものになってしまう、と。
> 赤子は人間である事は100%その通りですが、教育的な観点からみると、まだ人間と獣の中間的存在であり、育てられ方によって大きく変動してしまう存在ではないでしょうか。
>
> 赤子の獲信、ということを、その赤子の立場で考えてみますと、その赤子にとってはたいへん大きな出来事のはずです。
>
> ところで、個人差はあるものの、赤子のときの出来事を記憶している人は稀ではないかと思います。
> (恥ずかしながら私自身は赤子のときの出来事を全く記憶しておりませんがそれで普通だと考えております)
> 獲信という体験は本人にとって大きな自覚を伴う(少なくとも、本人にとって、自身が獲信できているのであれば、はっきりとした自覚が伴う事柄だと考えております)
>
> そうすると、赤子の体験という事があるとした場合、多くの子供のように赤子のときの記憶がなくても、ものごころついてきたときには、既に獲信者ということになり、本人に赤子のときのはっきりとした記憶がなければ、その子は生まれつき獲信者であったというのと外見は変わらないではありませんか。
>
> そんな子は実際にはいるはずが無いという気がするのですが、いかがでしょうか。

なるほど。よく分かります。さぞかしお苦しみの事と思います。
私達凡夫がどれだけ知恵を寄せ合っても、科学的見地でみても、残念ですが弥陀の本願を解剖することは叶いません。
自分で考える、自分で理解しようとする、そんなはずはない、道理に合わない、これを自力の計らいと申します。結局、理解できませんのでどんどん苦しくなるか、逆に秘事だ異安心だと誹謗するかのどちらかになります。

「赤子の獲信」は「私自身の獲信」と何ら変わりがないのです。弥陀の前では赤子も私も同じです。尊い御説法を聞くことで信を獲るのなら赤子や重度の障害者様は絶対に救われません。「私は救われた!」と覚知しなければならないのなら、それも同じことです。

「信は憶念できる」ものなのです。赤子の獲信の場合、極端な場合、成長を待たずに「浄土に還えられる」こともあるでしょう。それもその人の宿善です。無常の風が来れば私達のまなこはたちまちに閉じます。朝には紅顔ありて、夕べには白骨となりぬる「私」です。「成長して立派な人間になってから来い」とは弥陀は申されておりません。成長して大人になる縁があるなら、それこそ「後念相続」を怠りなくすること肝要です。

蓮師いわく「一流安心の体と云う事、南阿弥陀仏の六字のスガタなりと知るべし」です。

これだけではきっと消化不良だと思います。何故もっと詳細に語らぬのか?ともお思いでしょう。「抑止文」があることを御承知下さいと先に申しましたが、何故抑止があるのか。これも正信を獲ないと、とんでもない解釈になってしまいます。蓮師の御時世、真宗は凄まじい迫害に遭いました。それを避けるためを第一に考えて抑止されているのではありません。無宿善の機の前ではとても信じられないことであり、当然誹謗を成します。誹謗をすれば残念ですが十八願から漏れてしまうことになり、漏れるだけならまだしも、無間に堕罪させてしまうことになります。それは信を獲た者にとって一番辛いことであるのです。

みちくさ様が次第相承の善知識に逢えば、全てが氷解すること疑いありません。宿善ありきです。私は既に十一願(往相)の人間です。弥陀は決して見捨てたりしません。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re^3: 赤子の獲信に関連する質問
記事No : 3967 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/28(Wed) 23:56
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。スレッドツリーがなんだかごちゃごちゃして分かりにくくなりましたね。と思うのは私が慣れないためでしょうね。

さて、今日は同行に合う機会がありましたので親鸞会様のお話をある程度聞く事が叶いました。10万人も会員様がいらっしゃるそうで、それはそれは素晴らしいことであります。高森先生と仰る善知識様だけで10万人をお救いになるとはさぞかし大変なことと御推察申し上げる次第でございます。

私は会員でも何でもございませんので何とも申し上げ難いのですが、私の信とは異なるものを目指されておるように思われます。ビックリ致しましたのが、秘事、異安心を親鸞会様も一まとめにして語られるようですね。それに浄土真宗には秘密など一切ないと申されておるとか。ならば「一流の安心」はみな「秘事」になってしまいます。

何度も申し上げますが、聞法だけで信は得られません。善知識に逢って一念帰命せねばなりません。ここも大変な間違いがありますので御注意下さい。蓮師の御文にもございますが、いわゆる「善知識だのみ」というものとはまったく違います。「一念帰命」する相手は言うまでもなく「弥陀如来」でございます。

問答というのはそれはそれは大切でしょうが、問答する相手が問題です。一流安心の者と問答するならまだしも、そうでない方と問答してもこれは「自損損他」にしかなりません。もちろん自分の胸にを相談しても何の答えも得られません。

「赤子の獲信」は「方便」でもなんでもありません。「そのままの意味」でございます。赤子でも重度障害の方でも何の差別もありません。「赤子が助かる」ということが、「他力とは何か」ということを全て物語るでしょう。信は頭で理解することでも何でもないのです。弥陀から賜るものなのです。信は獲りやすいものなのです。しかも、一瞬で獲られます。蓮師も御文でよくよく言われております。お時間のある時に御文を御拝読下さい。この正信を獲れないのは「弥陀のこの法」を信じられないからに他ありません。その点、私のような泥凡夫より赤子の方が信は獲りやすいでしょう。疑うことを知りませんから。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re^2: 自信教人信さんへ
記事No : 3958 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/28(Wed) 12:30
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

年末のお忙しい中、もやもやしたお気持ちでお過ごしかと存じ上げます。みちくさ様は正信にもっとも近いお方です。

さて、肝心の「次第相承の善知識」はどこにいるのか。いるならさっさと逢わせろとお思いのことと思います。次第相承の善知識は日本全国どこにでもいらっしゃいます。「一流安心の同行」は「他宗と争う」必要もありませんので、派手な活動は致しませんし、する必要もありません。そもそも真宗は「宿善」に任せるものであって、「強制的に導く」ものではないのです。これを選択(せんじゃく)というのです。宿善ありて真剣に求める方が居れば、それこそ命を掛けてお導き下さいます。

次第相承の善知識と聞くと、大抵の場合、東西本願寺の法主様のような方、僧侶で布教が上手な方、真宗の学者、勧学、講師、先立つものは知識なりけりの類などがそうではないかと誰もが思うでしょう。それも確かに、真宗に導かれた点では「善知識」であることには変わりがありませんが、私達に法を授ける「次第相承の善知識」ではありません。極端な場合、信を獲ても居ないのに「善知識なり」と豪語する方までもいらっしゃいます。「往還廻向由他力」を無視しております。

ここは「公の場」であって「無宿善の機」も多く目にする場所です。何とか私と連絡が取れる方法があれば私が善知識様を御紹介致します。決して見捨てたりしませんので御安心下さい。もっとも、私がしゃしゃり出なくても弥陀は導いてくれます。

せっかく書き込みの縁を頂きましたので、「一流安心」のことを少しお話させて下さい。

私達凡夫は手を引く人(十一願の人)の言うことを「素直に聞ける人」と、そうではなく、「疑いの眼でみる」場合がございます。これも宿善のなせるものと思いますが、そのような我らのために蓮師が書き残されたものが「御文(章)」です。「証拠」がなくては信じられぬ哀れな我々です。私が言っても信じられぬが、蓮師が言ったのなら少し信じてみようとも思うでしょう。

ある他宗様の偉い学者様は真宗の「正信偈」に書かれていることはおかしい。親鸞は頭がおかしくなっているのではないかと申します。「法蔵菩薩」が「弥陀如来」になる際に「願」はあるが「行」が無いではないか。と。かくの如く無宿善の機の前では「南無阿弥陀仏の六字」に「五念門」が備わっていることすら分からないのです。身業には「礼拝」、口業には「賛嘆」、意業には「作願」、知業には「観察」、慈悲には「廻向」この五つの材料で「念仏」をつくられたのです。これを指して「専修念仏」と申されるのです。聖教を読み聞き、理解せねばならぬとか、念仏を唱えなければならぬと解釈するのは浄土宗の方々です。行者がもっぱら「行」(自力)をするのです。真宗はそうではありません。「願」も「行」も弥陀が私達の代わりに行なって頂きましたので、私達はそれを「まるもらい」するだけでいいのです。

「諸有衆生」とは我ら一切衆生のことです。一切の差別はありません。
「聞其名号」とは行の易いこと(信は獲易いもの)です。
「乃至一念」とは時間の短いこと(下げた頭の上がらぬうちです)です。
「即得往生住不退転」とは正確確実(漏らさず)のことです。

「善知識」に逢いて「弥陀をタノム(一念帰命)」ことを得ずに「信心獲得」はありえません。ある日突然(ふっと)やって来るものではありません。
「無上甚深微妙の法は百千萬劫にも相遭ふこと難し。」これはそれだけ信じ難い法であるという意です。
「我今見聞し受持することを得たり。」先にも述べましたが「聞く」だけでなく「見る」ものもあるのです。

蓮師の御文をあえて、各所から一部抜粋します。よくよく心に留めて下さい。

「末代無智・・・阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず・一心一向に佛たすけたまへともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも・かならず弥陀如来はすくいましますべし・・・」

「それ八万の法蔵を・・・しかれば当流のこころは・あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも・一念の信心のいはれをしらざる人は・いたずらごとなりと知るべし・・・このゆへにいかなる女人といふとも・もろもろの雑行をすてて・一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへと・ふかくたのみ申さん人は十人も百人も・みなともに弥陀の報土に往生すべきこと・さらさらうたがひあるべからざるものなり、あなかしこ あなかしこ」

「夫・在家の尼女房たらん身はなにのやうもなく一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて・後生たすけたまへとまうさんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもいとりて・・・」

「抑、男子も女人も・・・この佛をふかくたのみて・一念御たすけ候へと申さん衆生を、我たすけずは正覚ならじとちかいまします弥陀なれば、我等が極楽に往生せんことは・さらにうたがいなし、このゆえに・一心一向に阿弥陀如来たすけ給へと、ふかく心にうたがいなく信じて、我身の罪の深きことをばうちすて・佛にまかせまいらせて・一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら・百人は百人ながら・みな浄土に往生すべきことさらにうたがいなし・・・」

「信心獲得すといふは・第十八の願をこころうるなり、この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり・このゆへに・南無と帰命する一念のところに・発願廻向のこころあるべし・・・この義は当流一途の所談なるものなり、他流の人に対して・かくのごとく沙汰あるべからざるところなり・・・」

まだまだたくさんありますが、「弥陀をタノム」こと、六字には「スガタ」があることをしつこくいわれる所以をよくよく心得て下さい。

ここまで申しても、無宿善の機は秘事だ異安心だと申すのです。そう申す方々は未信であるか、正信でないからでしょう。信を得ればそれはそれは華やかな世界になるだろうとか、光明がみえたり、浄土がみえたりするものだと思ったら大間違いです。私は泥凡夫です。何度も申しますが何も変わりはありません。善鸞を祖とする秘事は十八願を萎める花に例えられたようです。それより百年後の蓮師の書かれた御文と私の得た信が割符が合うのは正信故です。

信を得たなら、「五重の義」と「御文」だけで鮮やかに我等が救われる道が見えるのです。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re^2: 御文は往生の鏡なり
記事No : 3940 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/26(Mon) 17:55
投稿者 : 泥凡夫



> もう少し詳しく教えてください。
> 善知識でもない人の話をありがたいと思って聞き続けていくことが、おうように聞いているということなのでしょうか、それとも、善知識に逢っていてもわが心の聞き方がいい加減なので信心が獲得できないのを、おうように聞いているといわれるのでしょうか。
> 第二十願の人はどうすれば第十八願に転入できるのでしょうか。
> 一生聞法しても往生が定まらないなんてなんて寂しいことでしょう。

みちくさ様

みちくさ様こそが宿善ありきというのです。
あるべき道、信じてきた道が違っていた。どうしたらいい?
これこそ、不定聞というのです。
落ちるかもしれないと不安に自分の胸に相談することは自力の計らいだと聞いております。
つまり、ありがたい説法を聞く事は悪いことではありません。
それは、真宗への、浄土往生への入り口になりますから。
聞法している内に、己の罪の深さで涙が溢れることもあるでしょう。しかし、そのまま10日過して下さい。
また元の木阿弥でしょう。それを不定聞というのです。

「機責め」という異安心と言われるものも存在します。つまり、機を責めるのです。どうしようもない私、救われぬ私、どうしたら、どうか助けて下さいと。そして聞法の末に、まるで天地がひっくり返ったような境地に躍り出ることになります。我、信を得たり!と凡夫が感じてしまうのです。
すると聞法やありがたい文章を読まずに居れなくなりますし、恩徳賛で涙があふれたりします。
しかし、よくよく胸の内を見ますと、この仰天動地の体験を「維持」するためのものでしかないのです。

御文にあります。
善知識にあいて、「六字のいわれ」を聞き開けと。

信心は私達凡夫が弥陀を信じるということではないのです。
弥陀より賜るものが信心なのです。
聞法して信を得なければならぬなら、聞けぬ障害のある方や
知的障害のある方は信を得られないではないですか。
難しいお経や説法、御文などを憶えて来いよとは何処にも言われておりません。「一文不知の尼入道」でも救われる道なのです。

詳しくどうすれば良いのかを語らぬのは「抑止文」が存在することからよくよく推察下さい。

一念覚知問題も異安心も秘事法門も、どえらい団体様方が一まとめにされて語られますが、自分の信じた道以外を全てこれに当てはめて除外されるのは如何なものかと思います。

一念覚知はよく、信心を得た「日時」が分かるか否かで語られますが、私は少し違うと思います。救われた事をこの凡夫がはっきり「覚知」できるものか?と言う意味だと私は思っております。
「日時」が分かるはずがない。それは秘事だと仰る方もいらっしゃいますが、いつ何処で信を得たかも分からぬのでは「百人あれば百人とも」と御文には書かれないでしょう。

この法は、聞くことだけではなく、見るものも存在すると言うことです。この法が極難信と言われる所以はここにあるのだと私は思っております。但し、光明が見えるとか、浄土が見えると言ったものでは無いと御承知下さい。

私に縁あったこの道です。終生、たとえ地獄なりとも進むつもりです。



タイトル : Re^4: 御文は往生の鏡なり
記事No : 3946 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/26(Mon) 21:55
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。今日もいろいろありましたが、無事に生かさせて頂きました。弥陀に感謝でございます。

> 何とむずかしい。

申し訳ございません。頭も悪く、筆不精の身、どうぞお許し下さい。何も難しいことなどないのです。これらのことを憶えろ、理解しろなど言われておりません。

> 以前、自信教人信さんが赤子の往生でも語っていただいたところですが、私は正直いって消化できていません。自力の計らいが全くなくならないと他力には入れないのですから、赤子であっても獲信はありうる、とある方に対して自信教人信さんは言われたのですが、理屈はそうであっても、実際に赤子で獲信というのは事例がないはずだ、という心が私にはあります。

なるほど。赤子の獲信ですね。ちゃんと叶いますよ。理屈などどれだけ頭で考えてもそれは私などの思慮の及ぶものではありません。何度もいいますが、老少男女の差別はありません。故にこれを無上甚深微妙の法というのです。

自力の計らいがまったくなくならないと他力にならないというのは、一歩取り間違えると大変です。自力の計らいが全て無くなるなど有り得ません。そのような尊い方を目指されるなら弥陀の本願より遠退きます。

私は信を得ても煩悩は消えませんし、自力の計らいも消えません。私自信は何も変わりません。哀れ泥凡夫の所以です。自分で信じて自分で救われようとする行いを指して自力を捨てよ。と申されるのです。他力とは即ちこれ弥陀を指します。では、弥陀に任せればいいのだと自分で合点してもこれも自力です。

>前回の泥凡夫さんのお話で、私は一生聞いても聞き開くことができない第二十願の行者だな、と絶望しかかっていたところです。
といいますのは、何度同じ話を聞かせていただきても、
「わからない」「わからない」「わかったようでわからない」
又は、
「うん、わかりました、わかりました」
のいずれかの繰り返しで、腹底は一向に聞こうとしないのです。
この調子で一生が終わってしますのではないかと不安な気持ちが生じます。

故に聞法だけでは信は得られないというのです。聞法するななどとは一切申しません。とても尊いことでございます。私の知っているお婆さんは字も読めず、耳も遠く、それでも聞法されておられました。そして、みちくさ様のように苦しまれました。その後、他力の信を頂きまして、御浄土に還られました。忘れないで下さい。弥陀は絶対に離しませんから。みちくさ様の苦悩も弥陀は全て御承知です。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re^3: 改名
記事No : 3973 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/29(Thu) 09:29
投稿者 : 泥凡夫



一文不知の尼入道 様

おはようございます。年末の時節、さぞかしお忙しいものと思います。改名されたとのこと、ここは意を汲ませて頂きましてこれより仰る通りに呼ばせて頂きます。

昨日、縁あって親鸞会様のお話を同行より聞く事ができました。詳しいことは私も知りませんが、一流の安心とは異なるようですね。信を獲るのはそれこそ万に一人もおりますまい。しかし、それも有縁、宿善のなせるもの。私達がどうこうと計らうものでもございません。親鸞聖人のアニメビデオを販売されておるとか。それはそれは尊きことで頭が下がります。

みちくさ様の現在のお心、手に取るように分かります。居ても立っても居られない状況ではございましょうが、肝心の「弥陀タノム」で引っ掛かっておられるようです。親鸞会様のお話と一流の安心は表立った御説法は、ほぼ90%まで一致しますが、肝心の「弥陀タノム」が異なるようですので。これでは混乱して当然と思います。

信行両座で「信の座」に入られたのは5〜6人。何故それだけしか居られなかったのか、それを何故5人と伝えるのかが分からないのでしょう。一流の安心は「獲り難い」と判断されてしまっているのでしょうか。それなら大変な誤解であり、一文不知の尼入道様の仰る通り「疑情」故に他ならないのですが。「信は獲やすきもの」です。

せっかくですので、蓮師の御文を少し引用させて頂きましょうか。
一文不知の尼入道様はお分かりのことですので解釈(げしゃく)は
いりませんね。

「夫、当流にさだむるところの掟をよくまもるといふは、他宗にも世間にも対して、わが一宗のすがたを、あらわに人の目にみえぬやうにふるまへるをもって本意とするなり、しかるにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて、一流のすがたをあらはにして、これをもって、我宗の名望のようにおもひて、ことに他宗をこなし、おとしめんとおもへり、これ言語道断の次第なり、さらに聖人のさだめましましたる、御意にふかくあいそむけり、そのゆえは、すでに牛をぬすみたる人とはいはるとも、当流のすがたをみゆべからざるとこそおほせらりたり・・・」

私達一流の安心を獲たものは、かくのごとく「抑止」を守るものです。他宗、他門と争う必要はまったくないのです。

法脈についても過去に秘事だと非難された模様ですね。これはいたしかたない事です。実語伝わらぬ、または受け付けぬのですから。
関東24輩だけの法脈でもありませんし、熊野権現問題で有名な平太郎さんも法脈を持っております。御存知ですよね。

年末の大掃除やら大変の事と思いますが、今年もいよいよ終わりますね。またひとつお浄土が近くなりました。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re^3: 改名
記事No : 3974 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/29(Thu) 10:47
投稿者 : 泥凡夫



一文不知の尼入道 様

先日の赤子の獲信の書き込みに対しまして、みちくさ様がお返事をされておられます。よくよく御拝読下さい。

先の親鸞会様の秘事に対する見解で付け加えさせて頂きましょうか。親鸞会様は秘事には特徴があると言われておるそうです。

1.絶対に秘密を守ること。たとえ夫婦親子であっても信心頂いた模様を話せばたちまちに信心を失う。
2.夜中に信心を授ける
3.彼らのいう善知識から信心が認可される。
4.信心を貰った年月日に覚えがなければならぬとやかましく言う。
5.頂いた後は聞く気がなくなる。
6.信心獲られずに苦しんでいる人に近づいて、たやすく信を獲られると誘う。

浄土真宗には秘密もなければ、信心決定する場所も時間も定まっておらず、一切が如来の独用で、何時、何処で信心徹至するやら我らの想像を絶している。とのことでございます。

これの証拠に出されるのが、蓮師の「越前に広まるところの・・・浅ましき外道の法なり・・・」の御文のようです。

なるほど、全部ごちゃ混ぜでこれでは一流安心までも秘事扱いされるのはもっともなことでしょう。しかし、ここで我等は争う必要など更々必要ありません。私があえて、「機募り」のお話をしたことが分かって頂けましたでしょうか?自流にないものを全て秘事にしたなら、一流安心には絶対に届く事がありません。逆も真なりの諺どおり、私の信じる道は正しいのだろうか?という疑念が起こっても、一流安心は秘事であると思い込み、ひょっとしたら、私の方が秘事ではないか?とは思えなくなるのです。悲しいですが仕方ありません。

親鸞会様の獲信体験なるものこそ私が経験させて頂きましたものに他なりません。機を責め、深い己の地獄を発見し、その後にそんな我等を救い給うは弥陀一佛だけだと思う確かな縁を頂いた瞬間に躍り上がる境地になるのです。我信を獲たりと。それは生涯続きます。我等一流安心の者から見れば「行者の起こす所の信」であり、「後念相続」の結果と同じことです。その境地を持って信ありと申すなら、万に一人も救われますまい。

第十八願は決定聞であることの所以が分からないのでしょう。第二十願(不定聞)に留まりなさいと言われているようです。これは私達の沙汰の及ぶものではありません。これも有縁、宿善と思い、進まれてみるのも良いのではないでしょうか。信を獲られずに苦しまれておられる方々が目に浮かぶ様でございます。

無宿善の機の前では正法は誹謗されるのです。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re: 親鸞会と秘事法門
記事No : 3993 [関連記事]
投稿日 : 2005/12/30(Fri) 23:07
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。年末の時節、お忙しいことと思います。
ゆったりとお休みをとって下さい。

> 泥凡夫 様
> 私からすれば実に興味深いところをお話いただいております。
> ところで、上の文中、
> 「逆も真なりの諺どおり、私の信じる道は正しいのだろうか?という疑念が起こっても、一流安心は秘事であると思い込み、ひょっとしたら、私の方が秘事ではないか?とは思えなくなるのです。」
> というところをもう少し詳しくお話いただけませんでしょうか。
> この文中の「一流安心」とはどの安心を指して言われているのでしょうか。

これは私が縁あってこれまで書き込みました内容そのままでございます。

秘事、非秘事と、どちらが正しく、どちらが間違っているということ自体が浅ましい行為であるという事です。教判でそれを行ない、正邪を決めても真宗開宗以来、この問題は無くなったためしがありません。故に常に争いが絶えません。

真宗内部でもこの状態です。他宗(聖道門)の方から見れば、真宗それ自体が異端とも判断されます。まったくきりがありません。

何故、自分の信じた道以外の道があるのだろう?何故駆逐されずに残るのだろう?・・・様々な思いがございましょう。しかし、こればかりは弥陀のみしか知りようがありません。秘事、非秘事で争うより、「有縁の道」で「急ぎて信を獲られる」ことこそ真宗の正しい道でしょう。

私は自分に縁あった道をただ進むだけでございます。

> ここの部分は文章に矛盾がありませんでしょうか。
> 親鸞会の言う獲信体験こそ、私が経験させていただいたもの、といわれた後で、それは、一流安心のものから見れば異安心であるといっておられるように聞こえるのですが…

親鸞会様には私は縁がありませんでしたが、真宗に縁あった人は
機を責めればそれはそれは深い己の地獄を見ます(実際に目で見えるのではなく、感じる、分かるのです)但し、その深さはその人の過去の因によりマチマチですから当然差が生じます。

私は生きても死んでもおられぬほどの状態になりました。ある時点を境(縁を得て)に一瞬でそれが逆転して躍り上がるような世界になりました。それこそあらゆる苦悩も死も何も怖いものが無くなります。しかし、私の有縁の道でも、「後念相続」によってその様になることはいくらでも存在します。

しかし、です。この「体験」はある程度語られても、完全に伝えることは不可能です。何故なら「体験」であるからです。御存知のとおり「体験」とは個々人で異なりますし、捉え方も異なります。それを「凄い体験だ!」「素晴らしいものですね!」と言われても、伝えた相手は実際に「体験」しないわけですから、真実は知りようがありません。分かったような分からないような靄の中です。この「体験」こそが信であるなら、万人が平等に賜るのではなくなるのです。お互いに計る物差し自体が、私たち凡夫の計りになるからです。蓮師の言われる、信は獲やすいものにもなりません。

これをもって信なりと申すなら、親鸞聖人も蓮師もそれを強調して力説されたことでしょう。御文を拝読しても割符が完全に合うことがないのです。どこか無理のある解釈になるのです。

私がその後に偶然縁あった道は皆平等に他力を賜りますので、そこから「見た眼」を申しただけです。本願寺様のように親鸞会様を異安心とは私の沙汰するものではありません。御拝読頂きました方がそれぞれに感じるものにお任せするしかありません。

> どうして、泥凡夫様から見ると、第二十願(不定聞)に留まりなさいと言われているように聞こえるのでしょうか。
> その心をお教えください。

私はみちくさ様に自信教人信様共々、100%秘事であるというスティグマを捺された者です。
親鸞会様の教えを是とされておるようですので、とにもかくにも、あれこれ計らわず、言われるように死ぬ気で聞法精進してみて下さい。それで獲信できればそれで良いではありませんか。
いずれにしてもやり続けてみなければわかりますまい。

南無阿弥陀仏


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