真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 07

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


往相の方を探すには

タイトル : Re: 往相の方を探すには
記事No : 4768 [関連記事]
投稿日 : 2007/02/22(Thu) 18:15
投稿者 : 泥凡夫



死ぬ前に獲信したい 様

こんばんは。

色々お悩みのご様子でございますが、愚尼様の御指摘の通り、色々思い計らっても致し方ないのでございます。分からないものを分ろうとするのが凡夫でございますし、そこを通らねばならぬ方は存分に通られるべきであるとは思いますが、義なきをもって義とするのが当流でございます。

御開山の教行信証をはじめ、真宗の信とは非常に難解で謎に満ちておるとも言われます。故に、求める衆生はあれこれ計らい、勝手にこれこそ信であると確信してゆくのです。故に真宗は御開山の時代より異安心が絶えません。そもそも異安心とは自流に無い流れに対して使う言葉でもあり、多用すれば我田引水の意を感じることとなります。何故もっと分かりやすく、これが信であるのだと記して下さらんかったのか。そうお考えの方も多かろうと思います。それは正法誹謗を避けるための深い深い御配慮であると解釈下さいませ。

> 結局、実際にやらなければならないことは、「善知識様にお会いする」ということだと思うのですが、それは、「真剣に弥陀に向く」ことによって、弥陀の導きが起こり、自然とお会いできることになるのでしょうか。

と、PCの前で思い計らっても致し方ありますまい。謗法の者様や黒闇の魂様が如何にして次第相承の善知識を探し求められたのかを見させて頂くこと肝要でございます。過去ログの私の書き込みに存じておる善知識様は10名ほどと申しましたが、それはあくまでも私に有縁の方々でございまして、謗法の者様や黒闇の魂様が探し求められた善知識様はまた別のお方でございます。地縁もあろうかと思いますが、全国にたくさんおられます。お忘れなきよう。

> また、「弥陀に向く」というのは、何をすれば良いのでしょうか。

何かをせねばならんという意ではございません。ただ直向きに弥陀の本願に救われたいと弥陀をたよりに求道する「姿勢」そのものを指します。

十八願を頂くとはどういうことなのか。凡夫はその後どのようになるのか。たくさん申し上げてまいりました。お時間のある時にじっくり読み直して頂けますでしょうか。

南无がつく佛は阿弥陀仏だけなのです。南无釈迦牟尼佛やその他、南无のつく経典などもございますが、この場合の南无は衆生から佛や経典に対しての廻向であり、南无阿弥陀仏の南无は衆生より佛に廻向するにあらず。廻向されるものなのです。

> また、「この掲示板は親鸞会の教義について」ということですが、私自身は、「親鸞会の教義」と言うよりは、もっと泥凡夫様のお話を聞いてみたいです。そして、そのような方は他にもいらっしゃると思うのですが、どちらかでブログや掲示板など、運営されていらっしゃるのであれば、ぜひ教えていただけたらうれしいです。

親鸞会様の御教義は私は詳しく存じません。謗法の者様や黒闇の魂様がお詳しいと思います。その他一流安心の同行のブログは私は存じ上げません。あるのだろうとも思いますが、探してはおりません。そもそも正信無くば、それが同じ同行であるのか否かを判別することすらできんでしょう。正法は大事に大事にせねばならぬもの。無宿善の機の前であれこれ語ることあたわずでございます。

南无阿弥陀仏


何をそんなに頭で考えちゃうの?

タイトル : Re: Re: 何をそんなに頭で考えちゃうの?
記事No : 4796 [関連記事]
投稿日 : 2007/03/04(Sun) 09:34
投稿者 : 泥凡夫



死ぬ前に獲信したい 様

こんにちは。泥凡夫でございます。
バタバタしており、書き込みできんでおりました。
帰宅致しましたので少し書かせて下さい。

たくさんのやりとり拝見させて頂きました。
死ぬ前に獲信したい様がいろいろお悩みで、何をすれば良いのか迷っておられることもよく分かりました。私がこんなに悩んでおるのに誰も手を貸してくれんのか。と憤られておられることもあるかと存じます。

当流は一人しのぎと言われるように、一大事とは誰の一大事であるのか。他ならぬあなた様の一大事なのであります。あの人は救われ、私は救われておらん。全然平等ではないではないか。そのようにも思われるかも知れません。

愚尼様へのメッセージも拝見致しました。私は何度も申し上げてまいりましたが、信を獲たとて凡夫に変わりはないのです。その人その人のままで救われるのでございます。故に、あの人の態度や言動は信ありとは申せんとか、あの人は立派なので信あるだろう。など所詮凡夫の勝手な解釈でしかないのです。信とは第十八の願を心得ることであり、南无阿弥陀仏のすがたを心得ることであるのです。

憶念について、欲生彼国様とやりとりのご様子。欲生彼国様と私の解釈は異なっておりますので私は私の解釈をお伝えしたく思います。「憶念弥陀佛本願」とございますように、十八願の要、己の往生を定めたまう時を憶念できるのでございます。

御恩報謝の念仏についてもいささか私の愚見を述べさせて頂きたいと思います。

> 称えずにおられないのは、きっと救われた喜びによるものなのでしょう。それは、きっと素晴らしい世界であるのだろうと思います。

誠にもって殊勝であり素晴らしいと思いますが、称えねばならぬではございません。お忘れなきように。たのむ一念の時、その時命終わればそこが浄土。命延びれば多念に及ぶ道理でございます。過去に何度も申しましたが、一念帰命の後、南とも无とも申されずに命終わる方もおるのです。称えずにはおられない世界とは尊いことでございますが、それは後念であり一念ではございません。これを一念に持ってくると、救われん者が必ず存在することになるのです。そもそも、認知症や幼い子どもなど、難しいことを知ることも困難ですし、南无阿弥陀仏と称えることすら難しいかと思います。ある程度物事の道理を理解できねば助からんのではないのです。

> 真宗につきましては、繰り返しになりますが、未安心であることもあり、また、あまり学問しない方がよいかもしれないとのことで、よくわからないというのが私の現状です。

学問する必要がないのではないのです。学問して佛恩の甚重なることを知ることも大事でございます。ただ、学問それ自体は往生の因にはならんということでございます。学問せずとも頂けるが十八願であるということでございます。その人その人ごとに通る道がございます。当流は義なきをもって義とするのでありますので、堕ちる堕ちないの世話は凡夫の成すことではございません。

>> > 泥凡夫様も度々書き込まれておられますように、この浄土の教えはどのような者にも絶対平等なのです。ご同胞、ご同行を誹謗中傷するということは、まさに五逆正法誹謗の18願に漏れる無宿善となるものと言えるでしょう。

欲生彼国様のご意見でございますね。
私自身はどれだけ誹謗されても結構でございます。誹謗される程度の人間でしかありませんし、誠にそのとおり。と感謝申し上げる次第でございます。ただ、法を誹謗されることは断腸の思いでございますし、釈迦弥陀二尊に申し訳が立ちません。故に抑止を守っておるのです。付け加えるのなら、五逆正法誹謗の輩であっても弥陀に帰命すれば弥陀はお見捨てにはならん。そういうことです。

死ぬ前に獲信したい様のお悩みの解決にはならんかったと思いますが、筆不精であり、智慧浅き者故に何卒ご容赦を。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: Re: 何をそんなに頭で考えちゃうの?
記事No : 4802 [関連記事]
投稿日 : 2007/03/05(Mon) 18:46
投稿者 : 泥凡夫



欲生彼国 様

こんばんは。泥凡夫と申します。
御縁ございましたことをうれしく思います。

書き込まれた内容から本山系の御説法を御聴聞のこととご推察致します。私は本山様が誤りであってこちらが正しいのだとは申しておりません。そもそも正誤など私ごとき凡夫の知るところではございません。皆様有縁の道を歩まれて進まれておるのだと思っております。私は御縁あった道を歩ませて頂いておるに過ぎません。

ただ、いくら真宗系であっても聖教や宗義と明らかに異なっては真宗にあらずと言わざるをえません。あなた様が正意であるとお感じになられる道を選ばれるが宜しいかと思います。決して無理に押し付けられるものではございません。

> 深く反省いたしております。私の信心には ”一念帰命のその時”が無いと前から思っておりました。

いいえ。反省する必要などございません。私は私の思ったことを書かせて頂いただけでございます。あなた様を批判する資格など私にはございません。ただ、真宗には「たのむ一念のとき」というものが存在するということでございます。それは架空のお話でもたとえ話でもございません。御開山も蓮師もその要を必死に伝えられたのです。『平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、その時をもって娑婆の終り臨終と思うべし』(執持鈔)

> 私も少しずつではありますが、往相の方をさがしております。しかし宿善がないためか、いまだご縁をいただいておりません。

現在の御縁ございます場所では納得いかないですか?己の宿善あるなしを嘆きましても、実は致し方ないことなのでございます。もし、宿善なき者であるとご自覚であるのなら、弥陀におすがり申し上げるほかないではありませんか。つまり、そういうことです。

> 私の住まいしております所が東京のはずれの片隅ですので近くに真宗の寺院もなく、門徒の方もなかなかおられません。はなれましたところの、お取次ぎのお寺様も どえらい団体さまの末寺です。
> 一流安心の往相の方をどのようにお探しすればよろしいのか?(ご聴聞させていただける場所とかの)ヒントを賜れましたら幸いです。よろしくお願い申しあげます。

何やらいつの間にか、私が御縁ある場所を隠しておるようになってしまっておりますね。忘れんで下さい。ここは公の場でございます。無宿善もおりましょう。ただそれだけでございます。何も隠しておるのではありません。東京にも一流同行はたくさんおられます。と申しますか、全国どこにでもいらっしゃいます。真宗の盛んな北陸地方には同行がたくさんおられます。あなた様が有縁の往相をお探しであるのなら少しあなた様ご自身の足で歩かねばならんでしょう。

そもそも真宗は出家在家の別はございません。真宗は十派あれども一流安心の同行は派など関係ございません。次第相承の善知識は出家もあれば在家もおる。立派な僧侶でなければならんわけではないのでございます。弥陀の代官として行者に一念帰命を勧めるが真の善知識と呼ばれるお方なのです。実語を脈々と伝え、行者は十人あれば十人ながら分け隔てなく十八願を領解できるのです。『願力不思議の仏智をさずくる善知識の実語を領解せずんば、往生不可なり。』改邪鈔

南无阿弥陀仏


現代用語

タイトル : Re: 現代用語
記事No : 4811 [関連記事]
投稿日 : 2007/03/06(Tue) 20:14
投稿者 : 泥凡夫



現代人 様

こんばんは。泥凡夫と申します。
私もあなた様のHNと同じ現代人でございます。

あなた様の問い掛けはごもっともであり、皆様そのように感じられておるのではないかと思います。ただ、私なりのお答えをさせて頂けますか。御納得頂けるか否かは保証できませんが。

> 真宗の求道において、最終的に問題になることは、「この胸が承知しない」ということです。答えはそれなりに解っている。「一念帰命」これがどうしても解らない。

まず。この胸が納得しない。とのこと。納得することが信だと言われるのなら、信からは遠のきます。凡夫はいつまで経っても納得などいかんのです。納得とはそもそも智慧の満足を指します故に信心の体が「己の納得した心」になるのです。当流の信の体は「南无阿弥陀仏」でございます。

一念帰命がどうしても分からない。とのこと。わかる筈がないのです。故に身分の上下を問わず聞かねばならんのです。真宗は聞く一つで救われると言われますので、真剣に説法聞けばそのうち信心頂けるだろう。皆様そう思われるのです。真剣にと言われる故に超生真面目に脇目も振らず説法聞けば頂けるものなのだと思っておるというより、そういうものであって欲しいという願望も窺い知れます。しかしながら、蓮師も仰るとおり、「聞く」というのは何も説法を聞くということではないのです。

『願成就の文には「聞其名号信心歓喜」(大経)ととかれたり。この文のこころは、その名号をききて信心歓喜すといえり。その名号をきくというは、ただおおようにきくにあらず。善知識にあいて、「南无阿弥陀仏」の六つの字のいわれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。』3-6

また、教行信証の信巻にありますとおり、『聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心有ることなし、これを聞というなり』ともございます。そのまま解釈(げしゃく)すれば、仏願の生起本末を聞かせて頂き、疑わんのが信心である。とも取れます。すると凡夫は何をし出すかといえば、疑わん心にならねばならん。疑わじ...疑わじ...。と、もともと言うことを聞かん己の心をねじ伏せに掛かります。それで疑わんようになれたのなら誠に立派ではございますが、残念ですが十八願から漏れてしまいます。

『平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、その時をもって娑婆の終り臨終と思うべし』(執持鈔)

とございますように、次第相承の善知識に逢い奉り、一念帰命を発得せば、そこを指して平生業成と言うのです。

故に、一念帰命が分らんというのなら、そのまま打ち捨てずに次第相承の善知識を探されることが肝要なのでございます。

> 聖典を読んでも、言葉が難しく肝心なことは読み取れない。

次に。
まったくでございます。難しいですね。しかしながら、誰かが優しく解釈(げしゃく)したものを拝読されるも結構でございますが、そのお方がどのような信を内心に蓄えられておるかによって、まったく異なった文章が出来上がってしまうのです。もし、原文を差し置いて、解釈文を聖典とされるのなら、大変恐ろしい事態を招く恐れもあるのでございます。

そもそも、当流は学問せねば助からん宗旨ではございません。したい方は思う存分すればよし。信後に誰かの手を引くにも聖教の理解が必要な時もございますので。しかしながら、学問しなくても、聖教など分からなくても南无阿弥陀仏の六字は頂けるように成就されておるのです。

> 「信心決定」したと仰るお方のお話を聞いても何故か取り付く島がない。
> 「信心決定」を強調なさるお方に、何かしら問題性が伺われてならない。何故か。

取りつく島がないと信前の多くの方々は思っておられると思います。しかし誤ってはならんのです。信を獲た者にすがりついても、助かるわけではないのです。救うは弥陀でございます故に。

信決定を強調するも何も、真宗は信をもって先と致します。信無くば今度の往生は叶いません故に。ただ、私に問題があると言われればまったくそのとおりでございまして、誠に持って智慧浅き、日々浅ましき存在でございますので、足りんことは何卒、重ねて御容赦を下さいませ。

> もらった信心なら、腹が立ってかんしゃくを起こしたとたんに消えてしまって又、泣きながら捜し歩かねばなりません。

正信を頂くとは、己がどのようになろうとも金剛不動のものでございます。私は私の煩悩になど用事がございません。かんしゃくを起こして消えてしまうと思われるはそもそも信心の体が「己の心」になっておるからでございます。金剛不壊の理由は信の体が「南无阿弥陀仏」であるからでございます。

> 現代語でお話しなければ、通用しません。このように痛感しております。

よく分かりますが、そのようにしない理由があるのでございます。御納得頂けんかもしれませんが、御開山・蓮師はじめ多くの先達方がなされておられたことでございますので、何卒辛抱下さいませ。

南无阿弥陀仏


KAさんへ

タイトル : Re: 私が思ったこと
記事No : 5130 [関連記事]
投稿日 : 2007/05/14(Mon) 18:28
投稿者 : 泥凡夫



ジョー 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

菩提心様へのジョー様のご意見を拝読させて頂き、私の襟も正さねばならんと感じた次第でございます。誠にありがとうございます。

> お言葉を返すようですみませんが、ここは親鸞会の教義について客観的に話し合う場なわけです。HPをお読みになってください。

まったくその通りでございます。
しかし、私、縁あってここへ書き込みして参った次第でございますが、そもそも親鸞会様の御教義について仔細詳しく存じておるわけでもございませんし、またあれこれいうほどの人間でありませんので掲示板の趣旨からは確実に逸れておったのは間違いないと思います。

親鸞会様の美点も醜聞も若干聞き及んでおりますが、私思うに、そういった点を論議しておる以上、真宗の要にはなかなか辿り着けんのではなかろうかとも思っておりました。そもそも、襟を正すのは己であって他者ではないのではないかと私は思っておりまして、不毛な擦り合いは見ておっても苦しくなって参ります。

聖教を学ぶも結構。法論も結構。しかしながら、真宗安心の要は聖教を知らねばならんとか、立派な人間にならねばならんのでもなければ、五体満足でならねばならんのでもないということだけお伝え申し上げたかったのでございます。真宗が名もなき庶民の手から離れるようなことがあってはならんのだとも思っております。

そういった私の私見が私自身を掲示板の主旨から離れた行為をさせておったのでしょう。誠に申し訳なく思っておりますが、それでもたまに現れることを御容赦頂けますか。

> 掲示板の参加者に対して真宗信者になるように教え導きたいとお思いでしたら、脱会者や現会員さんなど、現実的に法を求めておられる方々を対象として頂きたいと思います。しかし、そういう活動をされるにはここの掲示板は適していないと思います。ブログやHPなどを作られてそちらに誘導されるべきではないでしょうか?

誠にもって御尤も。私、無精者でしてこの場をお借りしておることをついつい忘れてそういったことを実践しておらんかったのは恥じ入るばかりでございます。

> しかし、私自分が求める求めないはまた別の問題です。

これも御尤も。真宗はそもそも無理強いして聞かされるものではございません。聞きたい方は聞けばよし。

ジョー様のよい御指摘、感謝申し上げます。

南无阿弥陀仏


信を獲たらば

タイトル : Re: 信を獲たらば
記事No : 4834 [関連記事]
投稿日 : 2007/03/12(Mon) 21:05
投稿者 : 泥凡夫



死ぬ前に獲信したい 様

こんばんは。
バタバタしており書き込み出来んですいません。

聞書の御引用の件につきまして、私の考えをお伝えしても宜しいでしょうか。
どのようにお取りになられるかはあなた様にお任せでございます。

> 『一。「信を獲たらば同行に荒く物も申すまじきなり、心和ぐべきなり、触光柔軟の願あり。又信なければ我になりて詞も荒く争いも必ず出来るものなり。浅まし浅まし、よくよく心得べし」と云々』

> 信を獲ると、他力のありがたさがどうしても自覚できるために、柔和になるのだと解釈しております。(もちろん、これはわかりやすくするための解釈です。)

自覚できるから柔和になるのだと解釈することもできるかと思います。すると、自ずと自覚を伴わねば正信ではなくなるとも解釈可能なのでございます。

> (つまり、「信を穫っても凡夫は凡夫」と申しましても、何らかの変化は起こるのだろうと思っております。そうでなければ、同行意識[「ご同行」ということで、共感を得る意識]も生じません。)

よくお取り違いになられる場所でもございます。例えば御開山は正信には必ず現生に十種の益が伴うと申されております。すると、これがあの益に違いない。おや?ここはあの益を頂けるはずなのに。といつの間にやら己の欲望とすり替わっておるではありませんか。気がつかん間に、尊い正信の要である「南无阿弥陀仏」を疎かにしておるのです。当流の信の体は「南无阿弥陀仏」であり、たのむ一念に往生一定と定めたまうも「南无阿弥陀仏」でございます。

何が申したかったかといえば、後念と一念をとり間違う恐れがあるということなのでございます。決して、御開山や蓮師の申されることが否であると申しておるのではございません。

先に御引用の聞書の一節、『信を獲たらば同行に荒く物も申すまじきなり、心和ぐべきなり』とございます。これは明らかにそうであると申し上げておきます。ただし、同行とは「一味の安心に住する同行」を指します。では一味の同行とは菩薩様のように温和で人間として完成しておるのか?と聞かれるならば、それは否と申し上げるしかございません。真宗において、人間が温和になり完成を見ることが信ではないからでございます。そもそも、凡夫がどのような存在であるのかをよく御承知頂けますなら、自ずと答えも頂けるものかと思います。

御開山の十種の益のことも同じなのでございます。十種の益を伴わん信は確かにございません。しかしながら、これがその益に違いないとか、思ったような益が頂けんな。とやりましても意味がないのでございます。

人間が「柔和」になることなど、あらゆる他宗様でも数えきれんほどございます。ではその方々は弥陀の光明に摂取されたからそうなったのか?と聞かれるならば、違います。とお答えするしかございません。

あなた様は教鞭もされておられる非常に頭の切れるお方でしょうから、私がこの様なことを申し上げるのは申し訳ない気が致しますが、娑婆の心理学でも言われておるではありませんか。他者を変えることはできんのだと。変えられるのは己だけだと。己が変われば他者も変わる。それは意図して他者を変えるのではなく、他者とのコミュニケーションを介して人間関係が成立する以上、己のアクションが変われば他者のアクションも変わらざるを得ないということでございます。

しかしながら、それを「信の体」にしてはならんということでございます。信は人間革命が起こるのだ、伴うのだ。と解釈されるのは実は真宗を真宗で無くしてしまう可能性が甚だ大きいのでございます。

> 『浄土を修する者は常に多けれども、其の門を得て径に造る者は幾くも無し。浄土を論ずる者は常に多けれども、其の要を得て直に指ふる者は或は寡し矣』(教行信証・信巻64)

『其の要を得て直に指ふる者』とはどういった者なのでしょうか。以前も申したことがございますが、「其」には指さす意味も含まれるということでございます。今は分からんでもいつの日かお求めになられ正信を獲れば必ずお分かりの時も参ります。

念のため、最後にもう一度釘を刺しておきます。それらを「知らねば助からん」のではございません。お誤りなきよう。

南无阿弥陀仏


お尋ねします

タイトル : Re: お尋ねします。
記事No : 4927 [関連記事]
投稿日 : 2007/04/05(Thu) 20:46
投稿者 : 泥凡夫



欲生彼国 様

こんばんは。
御指名頂きましたのでお答えさせて頂きます。
御納得頂けるかは分かりかねますが、その時はどうぞご容赦を。

> 私は最近は、”一念帰命のその時”の その時 にこだわる事、往生かなう、かなわぬ、自力、他力、とはからうことも、自力執心のとらわれ、計らい、ではないのか?とも考えだしておりますが、一方では疑問もいまだに持っております。

「たのむ一念の時」というものは真宗の要でございます。いつの間にか信を獲ておると言うのなら、それを無帰命安心と申します。

> 南无阿弥陀仏をいただいた初念のとき ”心から自然にお念仏を称えた時”が「信心の定まったとき」であって、その年月日や覚知した時を知る必要もない。と教えていただいております。一念帰命の覚知は異安心(これは御本山の空華派の方々のご解釈であろうかと?思われますが。)

自然に称名を称えた時(称えさせて頂いた時)が信心定まった時であると申されるのなら、聖教とは異なった解釈に相成ります。そもそも、「自然に念仏を称えた時」と申すはどんな時を指すのでしょうか?助かりたい一心で称えることもありましょう。親が称えておるので子も真似て称えることもございましょう。己の境遇に苦しみ、御利益頂きたくて称えることもございましょう。説教聞いて佛恩の深重さを知り称える場合もございましょう。それを指して信決定であり、廻向であると思われるのは念仏を軽しめておることになるのです。それを自力の念仏と申すのです。

あなた様は念仏称えられん者は助からんと申されますか?
称えるにはハカル・カナウ・トナエルの三義があるのです。
一念については、聖教にたくさんございますが、蓮師は我ら如き末代無智の凡夫でも分かりやすいように御文を残されております。

何度も引いておりますが、三帖目四通にございます通り、あなた様は善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開かれましたか?

『願成就の文には「聞其名号信心歓喜」(大経)ととかれたり。この文のこころは、その名号をききて信心歓喜すといえり。その名号をきくというは、ただおおようにきくにあらず。善知識にあいて、「南无阿弥陀仏」の六つの字のいわれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。』3-6

これも先に引きましたが、執持鈔にございますように、善知識の言葉の下に帰命の一念を発得したその時をもって往生一定なのでございます。

『平生の時善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、その時をもって娑婆の終り臨終と思うべし』(執持鈔)

> 本来、仏教は死んだ人のためにあるのではなく、生きている人を救うためにあるのです。
> 死者を弔う葬式のためだけの仏教ではないはずです。

その通り。ただ誤ってはなりません。生きておる我等を救うとは、娑婆の苦しみを救うにあらず。死して後では間に合わん後生の一大事を解決せねばならんのです。多くの方々は娑婆の苦しみも救われんで何が仏教であるか!!と罵倒される場合もございますが、それはその方の単なる欲でしかありません。神社仏閣に願掛けをする方も大勢おりますが、あれは願掛けではなく、欲掛けでございます。己の欲望を満たす手段として神仏を利用しておるにしか過ぎません。

> この為に御開山聖人、蓮如上人は、在家にも御法義を与え、口授口伝の次第相承の善智識様をお立てになったのでは?(ご本山では当然ですが、歴代の御門主様のみが次第相承の善智識様です。)

次第相承の善知識とは学ある者でなければならんのでもなければ、法主でなければならんのでもございません。口決面授によって実語・法脈を承り、次第を相承されておる方でございます。

> また、ただ自力の考えだけに、こだわる事が、誤った解釈になるからと、上下の別なくよく知りたる人をたずねよ、と蓮如上人はお示しくださり、五重の義をたてられたのでは?

五重の義は正信を獲るに欠かせんものを誤ってはならんとお立てになったもの。これ成就せずば往生不可なり。でございます。

> 宗教を生活手段としてはいない次第相譲の善智識様にお遭いできるかどうかは、やはり宿善まかせのものなのでしょうか?

故に身分の上下を問わず相尋ねよと申されておるのです。
過去何度も書きましたが、往相に手を引かれ還相に逢うが一番の近道でございます。

> この様な疑問を持つ事はもしかすると、五逆罪になるのかもしれませんが?

そもそも、五逆を犯すかも知れんと思い計らう、五逆が己の往生の障りになると思い計らうことは自力作善の方々の考えることでございます。

> 名号の他に信心はない。名号が信心である。名号に信心をプラスするのではない。・・・

正信の体は名号六字に間違いありません。

『信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。』5-5

蓮師の仰るように、正にこの通りでございます。としか言いようがございません。

あくまでも泥凡夫という者の申すことでございます。信じる信じないはあなた様にお任せでございます。私はよき人の仰せを信じる他、仔細はございません。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: お尋ねします。
記事No : 4933 [関連記事]
投稿日 : 2007/04/06(Fri) 18:44
投稿者 : 泥凡夫



欲生彼国 様

こんばんは。

少しだけでもお分かり頂けて感謝申し上げます。これ皆、弥陀の長い間の御養育に預かった故の賜物でございましょう。十八願の信楽は何も難しいことはないのですが、なかなか信じられんのでございます。何故信じられんか。簡単です。己の智慧の満足を伴った信決定でなければならんと思われるからでございます。

凡夫は智慧なき身でございますのに、あれこれ計らうのでございます。計らうことを止めよ。と申されても出来んのです。御自分お一人でそれができたのなら弥陀は必要ございません。計らう己、疑う己、それすら打ち捨てて弥陀に任せ参らせるのでございます。さらに誤り易いところです。己一人で打ち捨てて、弥陀に任せた「つもり」になっても無駄でございます。そういった凡夫の計らいは無効でございます。

たのむ一念とは、あなた様に難しいことを要求もされませんし、男女老少善悪貴賎も問いません。次第相承の善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開いて下さいませ。

> 肩の力を抜いて、もっと自然に阿弥陀様のお慈悲を受け入れていければと思います。
>
> 私に取り、泥凡夫様は御開山聖人親鸞様のようでございます。

それは買いかぶり過ぎでございます。私は何度も申しますが、あなた様となんら変わらん凡夫でございます。憎し恨めし盗った盗られたを日々繰り返す哀れな存在でございます。蓮師が善知識に関して、所謂「善知識だのみ」の状態になることを戒めておられますが、智慧や個人の資質などを担ぎあげて、まるで別世界の特別なお方であると個人的に尊敬するのは結構でございますが、それをあまりに強調されれば、御縁あるお方が勘違いなされること必定でございます。我らがたのみをかけるは弥陀でございます。

往相に手を引かれ還相に逢うが一番の近道。しかしながら、往相があなた様が何もせんのに勝手に近づいて手を引いてくれるかと申せば、そう簡単には参りませぬ。そのあたりの戒め(往相側への戒め)も御文にはございます。我ら凡夫が往生するほどの一大事でございます。何の遠慮がいりましょうか。

『弥陀の廻向成就して 往相還相ふたつなり 之等の廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ』(高僧和讃)

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: お尋ねします。
記事No : 4937 [関連記事]
投稿日 : 2007/04/07(Sat) 01:07
投稿者 : 泥凡夫



欲生彼国 様 

こんばんは。

> そしてその理由もわかりました。はっ、ときがつきました。これまで秘事法門の事が
> どうしても引っ掛かっていま一つ理解できなかったことです。
> そうだったのか、それなら理解できると納得いたしました。

過去何度も書きましたが、真宗は何でもかんでも開かれており、あらゆる人に語り明かせぬものなどありはしない。と言われるのであれば、真宗ではなくなってしまいます。そもそも蓮師が御文でも厳しく言われておりますね。宿善・無宿善をよく分別して法を聞かせよと。私は過去、みちくさ様より秘事の烙印を賜りましたし、少し前のあなた様の書き込みでも一流安心の秘事の者と烙印を頂きました。

残念ではございますが、当流の信には抑止が必ず伴います。そもそも、弥陀の抑止の働かん信などございません。御開山も蓮師もことのほか厳しくそのことに関して御同行に対して戒めておられます。

秘事法門に関しては親鸞会様が非常に御熱心に調査され、大まかな内容を公開されております。ただし、すべてごちゃ混ぜではございますが。こと、蓮師の越前に広まる所の秘事法門(不拝秘事)を御引用されておいででございます。よくお調べとは思いますが、残念ながら当流における次第相承の善知識とはどういった方であるのかという聖教に記されておることを無視なさっておいででございます。

改邪抄より少し引きます。あなた様には正意と誤りをよく見分けて頂きたく思います。

『凡夫自力の心行をおさえて、仏智証得の行体という、いわれなき事。
三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」とおしえおきまします祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや。

ちかごろこのむねをそむいて自由の妄説をなして、しかも祖師の御末弟と称する、この条ことにもっておどろきおぼゆるところなり。まず能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師御相承の口にあいかないはんべれ。いまきこゆる邪義のごとくは、「煩悩成就の凡夫の妄心をおさえて金剛心といい、行者の三業所修の念仏をもって一向一心の行とす」と云々 此の条、つやつや自力・他力のさかいをしらずして、人をもまよわし、われもまようものか。

そのゆえは、まず「金剛心成就」という、金剛はこれたとえなり。凡夫の迷心において金剛に類同すべき謂なし。凡情はきわめて不成なり。されば大師の御釈には、「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」(序分義)と云々 不成の義、これをもってしるべし。

しかれば、凡夫不成の迷情に「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」(十四行偈)の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、「共発金剛心」の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」とも、ならいはんべれ。

まったくわが我執をもって随分に是非をおもいかたむるを他力に帰すとはならわず。これを金剛心ともいわざるところなり。三経・一論、五祖の釈以下、当流の高祖親鸞聖人自証をあらわしまします御製作『教行証』等にみえざるところなり。しからば、なにをもってかほしいままに自由妄説をのべて、みだりに祖師一流の口伝と称するや。自失誤他の過、仏祖の知見にそむくものか。おそるべし、あやぶむべし。』

そもそも口決面授は仏教の基本。ある日勝手に自流を立てることは仏法破壊に繋がる故でございまして、口決面授で次第相承なくば、そもそも真の善知識などと自称はできんのでございます。それが伝わらんから抑止も理解も出来んし批判も起こる。そんなはずはない。説法聞く一つで救われるのだ。と批判するというより、そうあって欲しいという願望にもなるのでございます。挙句には善鸞より伝わる秘事であるとひとまとめ。御開山・蓮師を真宗の門徒は尊敬なさっておる。しかし一方で知らず知らずに泥を塗る。

と、泥凡夫という者が言っておること。真に受けんでも結構でございます。

> とりあえず自分自身でできる範囲から往相の方をお探ししようと思っております。
> 以前お教えくだされた泥凡夫様のメールアドレスは今でも有効でしょうか?

あの当時からあなた様は掲示板をご覧になっておったのですか?僅かの間だけ掲示板に記載致しましただけでございましたのに。御承知であるのなら承ります。ただし、私から公開することは致しません。御理解下さいませ。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: お尋ねします。
記事No : 4957 [関連記事]
投稿日 : 2007/04/09(Mon) 23:50
投稿者 : 泥凡夫



欲生彼国 様

こんばんは。
遠出しておりましたのでメールを頂いたのにお返事遅れて申し訳ございません。
先ほどお返し致しましたのでご覧下さい。

愚尼様が長いこと必死に安心に住するには何が大事であるのかを簡潔に繰り返し述べられておられました。あなた様はそれを拝読されておられ、安心をお求めであるのならば、往相に手を引かれ還相に逢うが一番の近道になるでしょう。

当流は「弥陀をたのむが念仏」でございます故に口に称えるだけの念仏で往生するのでもなければ、己の満足した心で往生するのでもございません。

あまりに往相・還相を探せ探せとうるさく言うし、探すヒントもくれん。まったく手がかりもない。泥凡夫のやつは自分の往生だけ定まればそれでええんだと思っっておるに違いない。他の人はどうでも宜しいと思っておるのだろう。または、泥凡夫というおかしなやつは勝手に地獄に落ちれば良かろうとも思われるかも知れません。

無宿善であろうが、法を謗る者であろうが、いずれ本願海に引き入れたい。御開山も蓮師も、そういった弥陀の御心をよく御理解されておったからこそ、後世の我等に様々な聖教や足跡を残されたのではありませんか。私は私だけ助かればそれで良いなどとは思っておりません。できることなら、真宗に御縁あった全ての皆様と共に報土に往生したいと願っております。愚尼様やその他の御同行も同じ想いでおりましょう。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: お尋ねします。
記事No : 5007 [関連記事]
投稿日 : 2007/04/19(Thu) 19:25
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

御心痛、お察し申し上げます。
こんな時にこのようなことを申し上げて良いのか迷いましたが、少し聞いて頂けますか。

人間は短命の機でございまして、明日の命も知れんのでございます。御開山の『明日ありと思うこころの仇桜...』の句もしかり、蓮師の白骨の御文もしかり。「己が」短命の機であるのだと端的に伝えられております。それは今回、御母堂様の境地を謳ったのではなく、あなた様のことを謳われておるのです。

確定的なことの存在しない娑婆ではありますが、全ての生ある者が必ず終焉を迎えるのであるということは確定しております。御母堂様は余命を宣告される身であられますが、あなた様も同様なのでございます。遅かれ早かれその時を迎えねばなりません。言葉は悪いのですが、あなた様が先に逝かれる可能性もあるのでございます。

真宗は平生業成の御宗旨。生ある時に得べきことがあるのです。

それは健康体でなければならんかったり、説法理解できる智慧が必要であったり、そういったことではないのです。弥陀のお目当ては我等如き短命の機。南无阿弥陀仏の六字の前では何の差別も無いのでございます。

現在は医学も発達致しまして、御開山や蓮師の御時世より少しばかり寿命が長くなっております。詰まるところ、幼児が死なんようになったのです。当時は食べるものもろくにない状態もたくさんあったでしょう。今では治る病で命を落とす方々が大勢おったでしょう。そういった沢山の衆生に、お前さんは不治であるので、急いで説法聞けと御開山が申したと思いますか?子供にも聞かせたい親心は誰でもお持ちでしょう。生まれた子の半分以上は早くに死なねばならんかった時代に、説法理解できる年齢まで待ちない。と申されたとお考えでしょうか?そもそも、識字率の極めて低かった時代に最高学府で二十年も勉学された御開山と同様の智慧を要求せねばならんかったのか。少し考えれば分かることであるのです。教行信証読まねば信は獲れんのではないのです。もちろん、御文を読まねば助からんのでもございません。

真宗は自信教人信という言葉がございまして、まず己の決定を先とせねばなりません。あなた様は親鸞会様や他にも御縁がおありですので、同様に問うてみては如何でしょうか。

御心の病まれる中、失礼は承知の上で書かせて頂きました。

南无阿弥陀仏


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