真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 03

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


初めて挑戦

タイトル : Re: 初めて挑戦
記事No : 4183 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/07(Tue) 19:19
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

こんばんは。
お疲れの所ではございましょうが、どうぞお許しを。

>いつもご指導ありがとうございます。私はやはり納得しないと進めないタイプのようで、またかと匙を投げられそうですが申し訳ありません。

いいえ結構です。あなた様が真偽を見極めようとしておる限り、永遠にそれには届きません。私が申し上げておることなど取るに足らぬとお思いならそれはそれで結構です。

>泥凡夫様から、信心決定しても特別な気持ちになると思うと苦しむことになるといわれました。蓮如上人は「うれしさを昔は袖に包みけり、今宵は身にもあまりぬるかな」と書いておられます。このお言葉を拝読しますと、大変な喜びを感じておられるように思います。このお言葉はどのように受け取らせていただいたらよろしいのでしょうか。

なるほど。「信決定した後」のお喜びでございますね。ではお答え致しましょうか。法に逢う前(信前)に喜んでおったことは本当の喜びではなかった。今、逢い難い法に逢えたことは身から溢れ出るものだ。このように喜ばれております。「無上甚深微妙の法は百千萬劫にも相逢うこと難し。」と言われる所以でございます。これは信の有難さ、尊さを噛みしめた「味わいの心」であります。信を獲たらば世界がひっくり返ったり、哀れな身が尊くなったり、腹が立たぬようになったりするものではないのです。

そもそも、「信後の味わい」を「信も獲ず」にそれだけ目指されるととんでもない間違いを犯すのです。例え信後であっても、このように全ての人が「ならねばならぬ」ということではないのです。何かが自分の中で変わるのだと思われるから、神秘体験や雑行を求めてしまうのです。信後の味わいを云々言うより、あなた様には何より先に成さねばならぬことがございましょう。

よくよく御思案下さい。「全ての人が差別なく平等に」救われる道です。個々人の「心持ち(喜びの深浅)」など機によって「千差万別」です。「信」自体とは関係ございません。お間違えなきように。

「信心獲得すといふは、第十八の願をこころうるなり、この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。」

蓮師は「信とは何か」をこれだけで全て顕されております。
「正信」とはこれと割符が合わねばならぬのであって、「信後の心持ち」云々と「信自体」とは関係ございません。

>また泥凡夫様の浄土真宗では、信後、私は信心決定しているのだろうかなどという気持ちは全然出ないのでしょうか。

なるほど。疑念を持って私に質問されておるのですね。「泥凡夫の浄土真宗」というお言葉とても悲しくなります。
お答え致します。これは「本願疑惑心」と「煩悩」をごちゃ混ぜで考えるから大きな誤解を招くのです。御開山も信を獲たのに天地踊る心境にもなれず、浄土に早く参りたいと思う心が起きない。ひょっとしたら光明が来ておらんのではないか。と疑念も起こる。これは煩悩の成せるものである。と申されております。
歎異抄第九条を御覧下さい。

一念帰命の瞬間に無くなるのは「本願疑惑心」でございます。
「本願疑惑心」という恐ろしい病は、何としても十八願を頂きたくないという病。
十八願を頂いた時、それは無くなるのです。私の疑念(煩悩)がなくなるということではありません。

特別な心持ちになるのが信であるなど御開山も蓮師も申されておりません。
つまり、「次第」が伝わらぬから「己の体験(境地)」を語らねばならなくなるのです。己の境地など千差万別。それでは全ての人を救えますまい。それでは極めて「難行」になるからです。

「泥凡夫の真宗」と言われましたが、我等一流は御開山から脈々と受け継がれてきたもの。私が勝手に申し上げておることではございません。私程度の説法などちょっと「学問」すればある程度は語れます。昭和40年代までは全国あちこちで辻説法していた坊主がおったそうです。それが無くなった今、嘆かわしくもありますが、この程度のこと、一流ならば誰もが知っておることです。

>もう一つお願いいたします。浄土真宗の者は他の仏や神に対してどのような態度で臨めばいいのですか。私は神社は必要がない限り行きませし、行っても決して礼拝しません。寺については、真宗以外の寺は同じ仏教と思い、観光の場合は行きますが手を合わせたりはしません。お忙しいところ申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

私達の向く先は「弥陀」でございます。一向専念無量寿仏です。しかし蓮師は諸神諸菩薩をおろそかにするなと言われる。これには深い深い意味がございますが、今のあなた様では理解できませんので先般のようにだけ申しておきましょう。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: 初めて挑戦
記事No : 4186 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/08(Wed) 00:09
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

こんばんは。

あなた様の有縁の道があなた様の道であるのです。
どちらが正しい間違っておるなどと計らっても苦しいだけでございます。

>今回も大変厳しいご指摘に深く反省するばかりでございます。まだまだ、信を獲る御縁ははるかかなたなのですね。でも、お叱りを受けてもそれにめげず雑草のようにがんばってまいります。これからもよろしくお願いいたします。

いいえ。信は目前にございます。遠い道のりではございません。遠くなるのは御自分で遠くさせてしまっておるだけでございます。

親鸞会様で聞法精進された方々がここには大勢いらっしゃるようですが、皆様共通している部分が多いように感じます。

誰のための十八願であるのか忘れてはなりません。特別な人の為に用意されておるものではございません。あなた様のために用意されたものでございます。どうぞお忘れなきように。

信を獲るには何も難しいことなどございません。聖教を理解せねばならぬのでもなければ、己の機を深く見るでもございません。御文を御拝読される際に、「信心獲得」とはどういうことか、「当流の安心」とはどういうことか、「他力信心」とはどういうことかを蓮師は繰り返し述べられております。できましたら、その部分だけでも別個にとり出してよくよく御拝読下さい。

厳しい発言になりましたこと、どうか重ねて御容赦を。

南無阿弥陀仏


信とは?

タイトル : Re: 信とは?
記事No : 4202 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/13(Mon) 19:22
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

こんばんは。

親鸞会の皆様は聞法精進尊いことでございます。
説法聞くと己の何が見えて来ますでしょうか?この世で一番の極悪人である己を見させて頂けるのです。尊い生き方や行者の心得を聞かされても、当流で見えてくるのは、そんな些細な日頃の行ないすらまともに出来ぬ哀れな己自身でございます。当流では尊い生き方を目指すのではないのです。説法とは正反対に生きておる我等が照らされるのでございます。

では照らされ、己の機を深く見ることが「機の深信」であるかと申せば、否としか言えません。この時点では後生の一大事を本当に知ったという段階にしか過ぎません。それをやり出すと、結局哀れな己を己で何とかしようとし出すのです。哀れな己、救われざる己を知ったのなら、弥陀に御すがりするしかございませんでしょう?

自力で頑張っておるのに、勝手に私は無宿善であると決め付けておる。無宿善とは何かを弥陀がこの掲示板で見せて下さっておるでしょう。

>信と信心とは同じだと考えているのですが、

そのとおり。

>信を獲させていただく前でも、信の味わいが分かってくるというようなことがあるのでしょうか。もし、そういうことがあるのならそれをなんというのでしょうか。

それこそ「凡夫の起こす所」の信であります。
信は弥陀より賜るものです。お分かりでしょう?

>信が分かったというのは信を獲たということでしょうか。お忙しいところ申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。

違います。先般と同じくそれは凡夫の起こす所の信でしかありません。己でどれだけ作り上げても当流ではそれを信とは申しません。「五重の義」成就せねば信は獲られません。

私が勝手に申すとなると、あなた様に信じて頂けませんので、蓮師や御開山の御著書を引くしか無いのです。引いたからといって、それを理解し、覚えなければ信を獲られぬと早合点されても大変なのです。

往生の道、たとえ火の中を掻き分けてでも聴かねばならぬのは、誰構わずに聴いてまわるという意味ではないのです。これを「ただおうようにして聞くにあらず」と申されるのです。「往相」に手を引かれ「還相」に逢わねば「聴く」こと叶わぬのです。故に出会うことも難ければ、聴く事も難く、信じる事はなお難いのです。これを指して極難信と申されるのです。

信とは何か。何度目になるでしょうか。蓮師の御文を引かせて頂きます。
「信心獲得すといふは、第十八の願をこころうるなり、この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。」

現時点のあなた様では絶対にこの意味は分かりません。次第相承の善知識(還相)に逢わねばならぬのです。還相に逢うには、往相に手を引かれるだけでいいのです。

信は目の前にあると申した理由。分かって頂けましたか?

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: 信とは?
記事No : 4204 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/13(Mon) 21:57
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

>私は全然聞法はしておりません。御文章やこの掲示板を拝読することが今の私の聞法と思っております。

親鸞会様での御聴聞が悪いと私は言っておりません。説法聞くなら世間話に色が付いた程度のものではなく、きちんと真宗を語る場所で聞くべきだと思います。但し、説法聞いただけで信は獲られません。ここを何度も書きますのは、有縁の方々も御拝読されることを配慮しての事です。御容赦を。

>まだまだ、己の機を深く見ることもできません。恥ずかしながら、ただ、漫然と日を送っているばかりです。

先ほどの話は別に己の機を己で深く見なければならぬということではないのです。誤解なきように。あなた様は正直です。己の怠惰を恥ずかしいと思われております。真宗聞法の道はどんなに尊い行いをやろうと志しても、それが叶わぬ身であると知らされるのです。何も成さずに何を血迷っておるかと聖道門の方々にはお叱りを受けそうですが、佛の前では私達は極悪最下であることを知らされるのです。但し、それを知らねば信を獲られぬと早合点しないで下さい。

> とにかく、今は次第相承の善知識にお逢いすることが何よりも急がれるということと受け取らせていただきました。しかし、その善知識にどうしたらお逢いできるのでしょうか?

もう一度先ほどの私の申した事をよく読み直して下さい。

>それから、もうひとつ教えていただけますか?インターネットではいろいろな方の御法話が掲載されております。中には、あたかも信を獲られたかのようにいわれる方もいます。でも、次第相承の善知識にお逢いしなかったら、どんな高名な学者であろうと信心決定は絶対に無理ですよね。すると、この方たちの「信をいただいた」という、これが「凡夫の起こすところの信」ということになるのでしょうか。

厳しい発言になりますが御容赦を。信無き者が一流の者を見分けることなど不可能でございます。他者の信を云々する前に、あなた様には成さねばならぬ事がございましょう。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: 信とは?
記事No : 4208 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/14(Tue) 22:36
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> 私のことでしたら、まだあきらめていませんよ。

南無阿弥陀仏。みちくさ様のことを申したと感じたのですか。違いますよ。

> 私は確かに泥凡夫さんの導きに耐え切れず、恥ずかしながら、自分のことを「無宿善」かも、と云ってしまいました。

言っても結構です。

> その後の心境の変化を記しますと、あいかわらず、自力はそのままですが、「無宿善」の自分でも救うといってくれている阿弥陀様の慈悲に助けてもらうしか私は救われようが無い、と思いつつあります。だって、どうしても疑う心が抜けきらず、わかることも到底できないのならば、このまま救ってもらうしか手がないじゃありませんか。

そのとおり。往相はここにおります。

南無阿弥陀仏


お逢いできました!

タイトル : Re: お逢いできました!
記事No : 4227 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/28(Tue) 08:48
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様
謗法の者 様

おはようございます。泥凡夫でございます。

弥陀は決して見放さないと申した意味が分かって頂けましたでしょうか。
本当に良かったです。聖人一流は脈々と受け継がれて皆様を
お待ちになっておられたのです。遠く宿縁を喜んで下さい。
南无阿弥陀仏。

御縁がありましたら、この穢土にある内にお逢いできると信じております。
信を獲たなら今度こそ御縁のある方々の手を引いてあげて下さい。
弥陀の光は十方世界を照らし続けられております。
十方衆生とは他ならぬあなた様であったのですよ。

「信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは
南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり」

お二方とも弥陀に導かれてここまで来れたこと、今まで通った道こそ、
佛の本当の「方便」であったと感謝して下さい。

仏凡一体、機法一体。六字のいわれ。
南无阿弥陀仏の六字が完成するのは目の前でございます。

>雑行雑種自力の心を振り捨てて・・・今までの親鸞会の教えを全て振り捨てねばこの道には会えません。

その通り。分かって頂けましたでしょうか。
聖教を必死に読み覚えても、立派な僧侶になっても信は獲られません。
雑行雑修自力の心を振り捨てて一心に阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生
御助けそうらへとたのみ申して候。
でございます。たのむ一念の時、往生は定まるのです。

良かったです。本当に良かったです。これ以上の喜びはございません。
御縁ございましたことを嬉しく、弥陀に感謝申し上げるだけでございます。

南无阿弥陀仏




タイトル : Re: お逢いできました!
記事No : 4235 [関連記事]
投稿日 : 2006/03/12(Sun) 21:43
投稿者 : 泥凡夫



無学虚無僧 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

> 初めて投稿させて頂きます。
> 真宗を求めると、安心立命するとは、どういう境地にいたるのでしょう?
> お聴かせください。

安心立命は安心決定と解釈させて頂きます。
安心決定とは信決定でございます。

では信決定の「境地」とは如何なるものか。
結論から申しますと、どのような境地にもならぬと言えます。
正確には「なれぬ」ということでございます。

では何をもって「安心決定」であるのか。
真宗に御縁がございましたらお分かりになることもあるかと存じます。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: お逢いできました!
記事No : 4237 [関連記事]
投稿日 : 2006/03/12(Sun) 22:08
投稿者 : 泥凡夫



無学虚無僧 様

> なれぬと諦めたとき、そういう境地になるのですね。
> むずかしいですが、なんとなくその意味頭の中だけですが、
> 理解できます。

いいえ。どのような境地も無いのでございます。
諦めるも諦めぬもございません。
そもそも特別な境地に至らねばならぬのではないのです。

境地を求めるということは、我等真宗からすれば聖道の道を
求めることになってしまいます。
縁あった浄土門にはそういった計らいは必要ございません。

>有難うございました。有り難い・・そう言うことでしょうか・独り言です。

ただ南无阿弥陀仏でございます。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re: お逢いできました!
記事No : 4239 [関連記事]
投稿日 : 2006/03/12(Sun) 22:41
投稿者 : 泥凡夫



無学虚無僧 様

> 失礼な勝手な思いこみの文章をお読み頂いたこと、自分を恥じる気持ちがいたします。
> お許し下さい。

とんでもございません。こちらこそ筆不精の身。申し訳ございません。

> どうなるこうなる・・いや・・どのような境地もない・・
> 分かりません。でも、分かろうとすること自体が駄目なのでしょうか・・

そもそも信に境地などないのです。
真宗において境地を求めるということは、結局、求める全ての方々を救う事が叶わないということを意味するのです。

> 聖道の道を求めること・・それはいけないことなのですか?
> 自力で悟ると言う行為が、いけないとしたらどのように修行していけばよいのでしょう。

自力で悟る聖道を求めることは誠にもって尊いことでございます。
無学虚無僧様が「悟」求めておいでであるなら尚更頭が下がります。
しかし、私は釈尊の説かれた聖道の影さえ射さぬ哀れな泥凡夫。
私のような者でも救われる道に出逢えたことに感謝申し上げるだけでございます。

今夜は聖道の尊き道を歩まれるお方とご縁ございましたことを嬉しく思います。

南無阿弥陀仏


歎異抄って

タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4264 [関連記事]
投稿日 : 2006/05/16(Tue) 22:59
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
お元気そうで何よりでございます。

> ところで、「歎異抄」は蓮師が、門外不出とか、外見あるべからず、といって、誤解され易い内容だと警告されていたとか。

カミソリ聖教と言われる所以でございます。

> 異安心というのは、その言葉からは、少なくとも、自分は正しい、だけど、正しい方から見ると誤りだ、という響きを感じるのですが、私自身、信決定であると思われる人からの話を聞いて以来、未だかって一度も「自分は信心をいただいた」と思ったことは無いんですけれど。
>
> よって、異安心云々というよりも、無安心か、正安心か、というほうがしっくりくるんですけれど・・・

なるほど。仰る意味よくよく分かります。
異安心とは自流に無いものに対する言葉であって、己の「安心」を「安心」で固めたいために発せられるのです。即ち、今まで信じてきた道が誤りなら大変だ!!こちらが正しく無くてはならない!!という水掛け論です。

十八願は宿善が無ければどうにもなりません。宿善無ければ十九願、二十願に留まって一生を終えてしまいます。蓮師は御文で無宿善には法を与えるなとまで仰っておられ、宿善の有無を極めて大事に語られます。無宿善に法を与えると法難の唇を動かし本願を謗り法滅に繋がる恐れがあるからでございます。抑止文からも御推察下さいませ。
では十八願の宿善とは何か。単刀直入に言えば「我に宿善なし」こそ「宿善」でございます。

> ところで、歎異抄を読むと、悪人こそ救われる、ということが書かれているのはわかるのですが、善人は救われるの、それとも救われないの? 歎異抄では「善人」とはどういう意味で書かれているんだろう、と考えてしまいます。

なるほど。これは法の方(弥陀)から申した立場と機の方(凡夫)から申した二種を語られておるのです。法の方から申せば我等凡夫は全て悪人です。機の方から申せば、諸善を往生の因にする諸善万行に励む方もいらっしゃいますし、凡夫が起こす所の信に酔いしれて他力とは何かを知らずにおるような場合もあります。ここでいう善人とは機の方から申したかりそめの「善人」のことでございます。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4276 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/03(Sat) 21:05
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

> NHK心の時代 歎異抄を語る 2回目を見たけれど、まあいつの時代も
> 布施の大小で往生が定まるかどうかは問題となっている様子。

放送は拝見しておりませんが、それは事実でございます。

> お寺に布施をして、それで往生が定まるなら、お金のある人にとっては
> 簡単なことかもしれないけれど、お金が無かったらどうしたらいいの?

お金で信が買えるなど何処にも記されておりません。お分かりですよね。
これこそ、諸善を往生の因にしたいという凡夫の哀れな姿でございます。
しかしながら、その哀れさは誰もが持っているものだと私は思います。

「信は嗜む」ものでございます。これ「憶念の心」とも申しますが、
「たのみをかけし人は十人居れば十人ながら皆、往生する」という
「要」が伝わらぬ故であり、無宿善の故でもございます。

> お金を受け取って、阿弥陀様はそれで満足されるの?
>
> お金を受け取った代償として阿弥陀様は信心を与えられるの?

これも既にお分かりのはず。往相還相に逢わねば往生は定まりません。
それでもなお、布施をしたくて仕方が無い人がおるのなら、
信を獲た後の御恩報謝の気持ちで行なって欲しいものです。

> 念仏は諸善に勝る善だと歎異抄では教えられているようだけど、その念仏もお布施がなければダメなの?

あまり皮肉を申されますな。そのような場所や団体があってもほっておきなさい。
何より急ぎは己の一大事でございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4278 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/03(Sat) 23:29
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

>また、私自身、お金で信心が買えるなど毛頭考えておりませんし、往相還相に会わねば往生はありえないこと、重々承知いたしましたが、それでも信心の何たるかがわからないのはどうして?

往相に手を引かれ還相に逢わねば往生は定まりません。
そうなのかと己で合点しただけでは凡夫の起こす所の信でしかありません。
では、自分の心が晴れ渡ることが信かと申せば、それも否としか言えません。

>話がわかるということと、信心をいただく(たのむ)ということとのギャップの大きさには辟易いたします。

仏法は聞くに極まるのは何故か。
説法死ぬ気で聞いて、己の地獄を見、そして晴れ渡る境地になるためではございません。これは己で造りあげた「悟り」であり、これを「他力」とは申しません。

弥陀タノムとは何か。それを知るために聞かねばならぬのです。
蓮如上人御一代記聞書を少し引っ張りましょうか。

『聖人の御一流は、たのむ一念の所、肝要なり。故に、たのむと云うことをば、代々、あそばしおかれそうらえども、委しく、何とたのめと云うことを、しらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、『御文』を御作り候いて、「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候う。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。』

以前より、蓮師の御文は往生の鏡であるとしつこく申し上げてまいりました。
御文には肝心要を外さぬよう、明らかに記されておりますが、信前では全てを知ることは叶いません。信後には鮮やかに浮かび上がり蓮師が我等のために残されたものであると感涙するものでございます。

一切の聖教はただ「南无阿弥陀仏」を信じさせんがための方便でございます。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4281 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/04(Sun) 15:32
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

> 今、南無阿弥陀仏となるには弥陀たのむこと肝要と聞いて、その方向に向こうとしていることだけは自覚できるのですが、ここで立ち往生しているのです。
>
> あとは、宿善の開発がなければダメなんでしょうけれど、ただ待てばいいんですか?

宿善は開発された時というものがございます。では宿善開発のために諸善万行を積むことが宿善に繋がるかと申せば、否としか言いようがございません。
三願転入というお言葉は御存知のはず。では全ての方が三願を今生で転入できるかといえば、これも否としか言えません。(何故なのかはいつの日か分かります。)あくまでも十八願の宿善は過去世の種蒔きの結果定まっております。ではどうしておれば良いのか。南无阿弥陀仏の六字と一つになることを真剣にお求めになりなさい。必ず必ず導かれます故に。我等凡夫には信じることしか残っておりません。

宿善ありきとは信ありきであるとも言われる所以は、以前も申しました五重の義は同時に揃い、成就するものであるからでございます。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4284 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/05(Mon) 18:31
投稿者 : 泥凡夫



ななし 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

>泥凡夫様は往相の善知識でございます。

私はあくまでも往相であり還相ではございません。お間違え無きように。
還相こそ即ち次第相承の善知識と申します。

過去何度も書きましたが、次第相承の善知識は全国どこにでもいらっしゃいます。
善知識と言うからには、偉い僧侶か勧学の類か?これは否。
そもそも当流には出家在家の別はございません。
僧籍にある方も居れば、在家も居られる。
有縁の方々を救うために浄土より来られた方々です。

きっとこのように思われる方が大勢いらっしゃるでしょう。
還相とは一体誰が決めるのだろうか?自分勝手に我は還相であると主張するのだろうか?
次第相承の善知識であると勝手に言っているだけではないのか?と。
さらにもって、そもそも泥凡夫は勝手に自分が往相であると主張しているに過ぎないのではないか?思い込みに違いない。とも。
全て否と申し上げておきます。

御縁がまいりましたらなら、この様にお考えの方々とも仏縁が結ばれると信じております。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4298 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/10(Sat) 23:14
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> 往相と還相の違いがわかりません。
> 往相の方のお話を聞いても助からない、ということでしょうか?

説法聴聞にて信を獲るという枠からどうしても抜けられませんか。

往相は十八願を頂き浄土往生決定された方。
還相はお浄土より衆生済度のためにお生まれのお方。
往相のみの話で信は獲られません。故に五重の義にて善知識が必要になります。
御開山の場合は聖覚法印が往相、法然様が還相でございます。

> 往相の方も、還相の方も、生まれつき信を得ておられるわけではないでしょう。
> 還相の方はご自身を還相であると示されるのでしょうか?

『往還回向由他力』でございます。弥陀の勅命にて次第相承の善知識は御開山より今日まで受け継がれてきました。不可称・不可説・不可思議の世界にて推し量ろうことは勿体無い次第。

> そして、泥凡夫さんは、どうして、ご自身を往相と言われるのですか?

信心決定、往生決定した身である故です。今更そのような悲しいことを言われますな。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4303 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/11(Sun) 10:58
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんにちは。モヤモヤされておりますか。

>生まれつき信決定の状態で出生されるかたはないようですから、この世において、何らかの導きによって信決定された方は、往相か還相の二つに一つに該当することになります。

その通り。先日、御開山の例を挙げました。
「往相」となった御開山は法然様より次第相承され善知識となられました後に「還相」として衆生済度に生涯を費やされております。

> 往相は誰からみても往相なのですか?
> 還相は誰からみても還相なのですか?

なるほど。そういうことですか。
そうですね。還相の方が「誰から見ても還相」であると認識できるためには「後光」でも射しておらねば無理でしょう。しかし、それでは真宗では無くなりましょう。

十八願により、この度往生決定した者は「往相」でございます。
みちくさ様も十八願を頂けば往相でございます。
「還相」は弥陀より勅命賜った人が善知識として衆生済度を成せるもの。
『往還回向由他力』の通り、弥陀不可思議の願力によるもの。
我等の計ろうものではございません。

> また、どうして、還相の人しか人に信を取らすことができないのですか?

上記の通り、次第相承の善知識によらねば法は聞かせられません故です。

> 泥凡夫さんは、どうして、ご自身を還相ではなく往相といわれるのですか?

今生十八願に逢わせて頂きました故でございます。

初歩的なことを失礼ながら敢えて申し上げておきます。
真宗は「名号だけ」や「習慣的な真宗」で助かるのでもなければ往生できるものでもございません。「他力信心」にて助かるのです。「他力」と言うと分かり難くなるのなら「タノム」と言えば分かりやすくなります。それでも合点いかぬのなら無宿善でございます。残念ですが法を聴く事叶いません。

真宗各寺院様方は習慣的な真宗に重きが置かれ、「真宗の要」を伝えられなくなりました。そもそも、何度も申しますが、当流は出家在家の別はございませぬ。往生の道、上下を問わず頭を下げて聞かねばならぬことを僧侶様方はお忘れの御様子。得度して坊主になっても「往生の一段」にとっては何の意味もございません。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4291 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/09(Fri) 23:43
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

> 二十願から十八願に至るには阿弥陀如来の願力廻向によるしかなく、私自身の思いは必要ないということも教えていただきました。
> しかしながら、私はまだ、「私自身の執心は必要ないんだ」、というところの執心にとらわれており、そこから出ることができないのです。
> このまま一生が終わってしまうかもしれませんが、宿善の開発というのは遠くにしか感じられない、というのが正直なところです。

十八願は「聞即信」と言われる所以は何故でしょうか。
老少善悪の人を選ばずという所以は何故でしょうか。
機を扱う教えでは十八願を頂くこと叶いません。
みちくさ様も正直な方です。今、みちくさ様の御心の内こそ凡夫がどれだけ説法聞いても十八願に至らぬ良い証左と言えましょう。説法聞いて己の機の深さを知って、晴れ渡る世界に躍り出るのは、あくまでも「機を扱う」先にある「自力の悟」でしかありません。私はそれを既に経験しておりますのでハッキリ主張することができます。己で浄土に行けると思えるなら五劫思惟の願は必要ありません。何故、五重の義を蓮師が書かれたのか。よくよくお考え下さい。

御開山も越後流罪の後、関東布教に出られるまで各地で衆生を済度されております。滞在僅か数日ということもあったでしょう。少ない日数で確実に漏らさず求める衆生が信を獲たのは、御開山が弥陀の化身であって尋常ならざる説法能力をもっていたからでしょうか?もちろんこれは否。「法を聞かす」ことができる人(次第相承の善知識)であったのです。十八願の法は聞即信でございます。

蓮如上人御一代記聞書をまたまた引っ張りましょうか。

『実如上人、さいさい仰せられ候う。「仏法のこと、わがこころにまかせず、たしなめ」と、御掟なり。こころにまかせてはさてなり。すなわち、こころにまかせずたしなむ心は、他力なり。「御一流の義を、うけたまわりわけたるひとは、あれども、ききうるひと、まれなり」といえり。信をうる機、まれなり、と、いえるこころなり。聖人の御一流は、阿弥陀如来の御掟なり。「信もなくて、人に、「信をとられよ、とられよ」と申すは、わが物もたずして、人に物をとらすべき、という心なり。蓮如上人、法敬に対せられ、仰せられ候う。「今、此の弥陀をたのめということを、御教え候う人をしりたるか」と、仰せられ候う。順誓、「存ぜず」と、申され候う。「今、御おしえ候う人を云うべし。鍛冶・番匠などに物をおしうるに、物を出すものなり。一大事のことなり。何ぞものをまいらせよ。いうべき」と、仰せられ候う時、順誓、「なかなか、何たるものなりとも進上いたすべき」と、申され候う。蓮如上人、仰せられ候う。「此の事をおしうる人は、阿弥陀如来にて候う。阿弥陀如来の、我をたのめとの御おしえにて候う」由、仰せられ候う。』

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4295 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/10(Sat) 19:10
投稿者 : 泥凡夫



せみ 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

>いつも心に響く書き込みを拝読させていただいております。ありがとうございます。

拙い文章、御拝読頂きましてありがとうございます。
これも何かの御縁でございます。南无阿弥陀仏。

>今、私は能力以上の仕事を与えられ、大変苦しい思いをしています。でも、退職すれば>残った同僚に多大な迷惑をかけることになりやめることもできません。お内仏や西の空>に向かい、阿弥陀仏に私を応援してくださいとお願いする毎日です。

日々のお過ごしに難儀されている御様子。
御注意下さい。弥陀四十八願には、仕事が上手くいったり、お金持ちになれたり、病気が治ったりする「願」はございません。それらを願うことを「願」とは申しません。それを「欲」と申します。弥陀は我等の欲を満たす存在ではなく、永い間彷徨った我等を今生、只今その輪廻を断ち切り、救いたもう願を起こされております。
あなた様の現在の道は、歩くべくして歩いているもの。難儀であっても進むしかございません。これ皆、過去世の種蒔きによるものでございますのでどうにもなりません。

>本当に生きるということは苦しいことですね。信を獲たなら心の持ちようが変わり、こ>のような苦しみの受け止め方も変わるのでしょうか。

残念ですが変わりません。信は己の心の持ちようを一変させるものだとお考えなら苦しまれます。何故変わらぬのか。それは我等は今生命終わるまでは凡夫であるからでございます。煩悩は消せぬものでございます。

信を獲たなら、例え苦しくとも、どの様な死様になろうとも、付いて離れぬ弥陀がまします。導かれるままで結構。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4299 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/10(Sat) 23:29
投稿者 : 泥凡夫



せみ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

>4月に所属を異動になり、苦しくてたまらない日々を過ごし、このままでは鬱病になる>のではないかとも思うほどでしたが、これも私の種まきと受け入れてまいります。

「受け入れる」ということと、「諦める」ということはまったく正反対でございます故に、御注意下さい。真宗における己の歩む道は受け入れながらも「喜び歩く道」でございます。例え受け入れられなくても結構。それが凡夫というもの。そのままのあなた様を全て引き受けて下さる弥陀を頼りになさいませ。

>信を獲て、弥陀が常にそばにいてくださるなら、きっと心強いと思います。それで、お>教えください。信後、弥陀に導かれるというのはどのようなことなのでしょうか。ます>ます悪い状況になっても、きっとこれは私のために弥陀がなされていることなのだと納>得するとよいのでしょうか?

なるほど。良い方向に道が作られるだろうことを願っておいでの御様子。

娑婆は思い通りにならぬもの。良いが出ても悪いが出ても、どちらでも結構。
我等が歩む道は「二河白道」を歩む善導大師の如くでございます。
娑婆での出来事は誠なき儚き夢の如くでございますので、
弱いあなたが出ても結構。強がるあなたが出ても結構。ありのままで結構。
あなた様の思慮など超えた世界から導かれていることを喜んで下さい。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4302 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/11(Sun) 10:24
投稿者 : 泥凡夫



せみ 様

こんにちは。

> この泥凡夫さまからのお返事はノートに写し、苦しいとき、悲しいとき、楽しいとき
>の励みにさせていただきます。

少し気になりましたので申し上げておきます。
せみ様が御心に少しでも病の気を感じられましたら、我慢せずに迷わずお医者様へ受診されて下さい。「辛さに耐えろ」とは申し上げておりません故に。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 歎異抄って
記事No : 4292 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/10(Sat) 10:01
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんにちは。
みちくさ様の御発言について少し申し上げたいことがございます。

>しかしながら、私はまだ、「私自身の執心は必要ないんだ」、というところの執心にとらわれており、そこから出ることができないのです。

多くの真宗門徒さん達は説法聞くとここにも突き当たることでしょう。
己で己の心を満足させることなど凡夫にはできんのです。それが出来て満足できるのなら、弥陀は必要ございません。御自由に後生に旅立たれて下さりませ。
もっと己の機を深く見た時、最後に見える部分は以前も申しました「唯除五逆 誹謗正法」になります。全ての人がここに当てはまることを知るのです。
それこそ助かる道、閉ざされ悲嘆に涙した後に開ける世界を弥陀より賜った信であると申すのは大いなる過ちです。これは凡夫が起こす所の信でしかございません。

己の心をあるべき姿に持って行こうと努力されるも結構でございますが、それは極めて難行でございます。全ての人が救われる道ではございません。このような難行故に「易往無人」なのではなく、何度も申し上げますが、信じないが故に「易往無人」なのです。

我等凡夫は煩悩の雲に覆われたまま臨終を迎えねばなりません。
十八願はタノム一念こそ肝要でございます。生涯ただ一度、またたきする間も無く往生は定まります。(時尅の極促)御開山一流において、信とは「弥陀より賜るもの」であり、「己の信仰心」を指すのではありません。故に皆平等に助かるのであり、信仰心の厚薄で差が生じるのもではないのです。

己の心に信を探す故に、道を誤るのです。

南无阿弥陀仏


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