真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

極楽往生治定とは

極楽往生治定とは、阿弥陀如来の極楽浄土に、命終を迎えたら、即座に往生できることが決定することです。

念仏衆生摂取不捨と言って、この決定は、くつがえることがありません。

これが、弥陀のお約束です。


平生にて極楽往生治定

18願におきましては、平生にて、極楽往生が治定致します。

「平生」というのは、「生きている間」ということです。

臨終(死を迎える直前)の思いや行為によって、死後の行き先が決まるのではなく、生きながらにして、極楽浄土に往けることが決定致します。

一度いただいた金剛の信心は、何があっても揺らぐことがありませんので、もうそれで、決定なのです。


たのむ衆生を極楽往生治定

弥陀をたのむ衆生は、例外無く、極楽往生が治定致します。

弥陀をたのむと、弥陀は真実信心をくださいます。

この信心によって、極楽に往生できることが決定するのです。


重いものから下がり、軽いものから上がります

生きている間に、大罪と軽微な善を行ったとします。

どちらがまず結果を生むかというと、大罪です。

あたかも、秤において、重い方が先に下がるかのようです。

たとえば、生きている間に大罪を犯した方は、その罪によって、死ぬ前の良いことを超えて、地獄に堕ちることがあります。

同じように、平生にて念仏する行者は、その善により、極楽に往生します。

あまりにも素晴らしい善であるが故に、その善を過ぎる悪もなく、その他の善の必要も無く、極楽往生治定となるのです。

◎しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに(歎異抄)

◎業道経にのたまはく、「業道は称のごとし。重きもの先づ牽く」と(論註)


信を伴う念仏

もちろん、その念仏とは、信を伴う念仏「南无阿彌陀佛」です。

「伴う」と言っても、「信を込めて」という意味ではありません。

念仏と呼ばれているものにも、さまざまなものがあります。

真実信心をくださる念仏を行った方が、弥陀に救い摂られるのです。

ですので、念仏ではなく、信心を正因と致します。

念仏を伴わない信心はありませんが、信心を伴わない念仏は存在するからです。

◎もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず(一枚起請文)

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