真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 04

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


信心決定できました

タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4309 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/12(Mon) 17:44
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
ようこそ。お待ちしておりました。

十八願を頂くとはそういうことでございます。不可称、不可説、不可思議の弥陀の願力の成せるものでございます。故に、「易往無人」の所以はここにあるのです。
どうぞ、弥陀のお導きに感謝の日々をお過ごし下さいませ。
御縁ございます故に、どこぞでお会い致しましたら、泥凡夫とお声掛け下さいませ。

> 私は、自分で起すところの信心に喜んでおりましたので、私も含め、黒闇の魂様も
> どんなに信心決定すると、変わるものかと思いましたが、全く変わるということは
> ありませんでした。しかし、後生暗い心は微塵も沸いて来ません。

信を獲た身でなければ信とは何かが分かりません。己の心に相談しても無駄でございます。蓮師の御文にございます通りでございましょう。

『信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは
南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり』

正信とは蓮師の御文と寸分違わぬものを獲るのであります。
我等凡夫の往生の鏡と言われる所以でございます。
抑止がありながら、末代の我等のために書き記されました誠に尊いものでございます。

>これ以上の喜びはありません。ますます有縁の人を導くことが出来る足がかりとなるこ>とでしょう。

これを指して「自信教人信」と申します。信も無く人に信をとられよと勧めるなど言語道断の次第なのです。

>蓮如上人の御文が、如何に私達末代の凡夫には、大切な御著書であるか身を以て知るされました。

蓮如上人御一代記聞書にもございます通りでございます。

『『御文』のこと。「聖教は、よみちがえもあり、こころえもゆかぬところもあり。『御文』は、よみちがえもあるまじき」と、おおせられそうろう。御慈悲のきわまりなり。これをききながら、こころえゆかぬは、無宿善の機なり。』

おおよそ、日本仏教会において難解な著書は御開山の『教行信証』と道元禅師の『正法眼蔵』と言われます。御開山の御著書は御開山と寸分違わぬ信を獲なければ分からぬものを含んでおります。『正法眼蔵』も道元禅師と同じ悟を得なければ本当の意味が分からぬものと言われます。

あなた様にはあなた様にしか成せぬものがございます故に、どうぞ有縁の方々と縁あった時は弥陀の本願にお導き下さいませ。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4347 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/21(Wed) 21:53
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。
梅雨は蒸していやですね。

さて、今日は申し上げたいことがございましたので書き込みさせて頂きます。
御縁がありここ半年ほど書き込みさせて頂いておりますが、
信じて下さる方もあれば、誹謗される方もあり、誠に真宗に御縁がある方々が大勢いらっしゃいますことを嬉しく思う次第であります。

>やはり、浄土真宗にははっきりする世界があるようですね。
>(はっきりするというところにこだわってしまうと道を誤るのでしょうけれど)

しつこいですが、何卒御容赦を。

機を扱う教えでは永遠に十八願には届かないと申しました。
機を深く見させて頂くことが「機の深信」かと申せば、これは否としか言えません。
己で機を深信にし、法の深信と一体となったと喜び晴れ渡る世界を「機法一体」とも申しません。己の機を深く見た後に開ける世界はあくまでも機を扱う先にあります「凡夫の起こす所の信」と申します。当流ではこれを「信」と申しません。では、無条件の御助けか?と申せばこれも否でございます。

『愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず」(信巻)と、もうす沙汰に、不審のあつかいどもにて、「往生せんずるか」「すまじき」なんどと、たがいにもうしあいけるを、ものごしにきこしめされて、「愛欲も名利も、みな、煩悩なり。されば、機のあつかいをするは雑修なり」と、おおせそうろうなり。「ただ信ずるほかは別のことなし」と、仰せ候うなり。』蓮如上人御一代記聞書

『他力の信心をとるというも、別のことにはあらず。「南无阿弥陀仏」の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいうなり。』五帖目十一通より

では「易往無人」の所以は何処にあるのか。

真宗に御縁ある方はたくさんいらっしゃいますが、全人口から見れば極僅か。聖道門を求める方もあれば、キリスト教を信じる方もあり、何も信じない方もいる。その極僅かの弥陀の本願を求める衆生に対して更に難行を強い、一握りの人しか十八願に逢えないような教えを御開山は命を掛けて御布教されたのではないのです。十八願は老少善悪貴賎の人を選ばずでございます。求める衆生は十人あれば十人ながら百人あれば百人ながら皆、共に弥陀の報土に往生できるのでございます。十八願は宿善開発の人に対しては「聞即信」でございます。年齢性別、障害の有無、罪の大小、など関係ございません。「そんなことで助かるわけがない」と己の心が拒絶し、誹謗し、受け付けぬのであり、これを「無明業障の病」と申し、故に「易往無人」なのでございます。

では、十八願は聴聞に極まるのは何故か。まさしく、みちくさ様はじめ、有縁の方々の姿勢が物語っております。説法聴聞で信を獲るのではなく、説法聞き、「往生の道」を見出すためでございます。無宿善の機の前では「法」は聞かせるな。とまで言われる所以は、以前も申しましたとおり誹謗の輩を出さぬ深い御配慮。どうぞ、肝心要は次第相承の善知識にお聞き下さいませ。

蓮師の御文、五帖目にはうるさいほど、信とは何か。を記されてございます。お時間のある時に今一度御拝読頂けますでしょうか。

『当流聖人のすすめまします安心というは、なにのようもなく、まず我が身のあさましきつみのふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に、阿弥陀如来後生たすけたまえと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとえば十人は十人、百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまうべし。これさらにうたがうべからざるものなり。かようによくこころえたる人を、信心の行者というなり。さてこのうえには、なお我が身の後生のたすからんことのうれしさを、おもいいださんときは、ねてもさめても、南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏ととなうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』五帖目十八通

『それ、五劫思惟の本願というも、兆載永劫の修行というも、ただ我等一切衆生をあながちにたすけ給わんがための方便に、阿弥陀如来御身労ありて、南无阿弥陀仏という本願をたてましまして、まよいの衆生の、一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚とらじとちかい給いて、南无阿弥陀仏となりまします。これすなわち我等がやすく極楽に往生すべきいわれなりとしるべし。されば、「南无阿弥陀仏」の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆえに南无と帰命すれば、やがて阿弥陀仏の我等をたすけたまえるこころなり。このゆえに「南无」の二字は、衆生の、弥陀如来にむかいたてまつりて、後生たすけたまえともうすこころなるべし。かように弥陀をたのむ人を、もらさずすくいたまうこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもうべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆・五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら、後生たすけたまえとたのまん人をば、たとえば十人もあれ、百人もあれ、みなことごとく、もらさずたすけたまうべし。このおもむきを、うたがいなく信ぜん輩は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』五帖目八通

長くなりました。御容赦を。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4349 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/22(Thu) 01:18
投稿者 : 泥凡夫



せみ 様

こんばんは。お仕事お疲れ様でございます。

>先日まで仕事で苦しみつづけていたせみです。信後、どうなるかということを体験いた
>しました。全く泥凡夫様のおっしゃるとおりの道をたどり、そしてその結果は、正しくお
>示しいただいたとおりだったということです。今は御文章に書かれた蓮如上人の御心が
>私の心に染み入るように感じられます。

私の記憶が正しければ、せみ様は10日ほど前までは信前のお方でしたよね。
失礼ながらお聞き致します。

次第相承の善知識にお会いされましたでしょうか?
五重の義成就されましたでしょうか?
第十八の願、南无阿弥陀仏の六字を心得られましたでしょうか?

せみ様も素直なお方のようですね。
十八願はあなた様のようなお方は遠回りせず頂けるものです。
但し、極めて注意を要しますは、私が申した事を「頭で理解」できたので信決定できたのだと勘違いなさっては一大事でございます。
これも「凡夫が起こす所の信」と何ら変わりがありません。
私が申すことを頭で理解できたとしても、それは聖教を読み、覚え有難がることと何ら変わりがございません。それらは往生の一段にとっては何の意味もございません。
有縁の方々への配慮もございます故に失礼でも御容赦を。

>御文章に私たち人間は五戒を保ってきたから人間界に生まれてきたのだと書かれてあります。果てしない生死を繰り返し、やっとの思いで今生に生まれてきたのに、またこの世を空しく去っていかなければならなかったら、なんと悲しいことでしょう。

大変悲しいことではございますが、当流は「義なきをもって義とす」とされる以上、弥陀の本願は無理強いして聞かせるものではございません。故に「宿善まかせ」と申します。以前も書いた記憶がございますが、念仏広まるも広まらぬも、これ弥陀のお計らいによるものでございます。

『無上甚深微妙の法は百千満劫にも相遭ふこと難し。我今見聞し受持することを得たり』

この真意をあなた様はお分かりになりますでしょうか。
五重の義成就なされたのならお気付きの場所がございます。

五重の義は「たのむ一念の時」と蓮師が申される通り「時」というものがあるのです。いつの間にやら信心獲たなどまったくもって「凡夫の起こす所の信」でございます。己の心に任せておるからこのようになるのです。他力他力と有難がっても他力を知らずの状態でございます。

>これこそ真実と疑わなかったことが、実は大変な誤解だったことも知らされました。全く往き易くして人無しですね。    本当にありがとうございました。

今の御時世だから真実も偽りもあるのではないのです。御開山が浄土に還えられた直後から現在に至るまで真偽論争など絶えたことがございません。何故そうなるのか。それは我等凡夫が「己の心を頼り」にしておるという実相が普遍であるからに他なりません。故に、光明が見えねばならぬ(光明秘事、土蔵秘事)十劫正覚の弥陀の救いを忘れぬが信である(十劫秘事)などということになったりするのです。とにかく我等凡夫は「己の心」を変えたいのです。心が一変したり光明が見えねば信じられんという哀れな存在なのです。

今の御時世、正信が「秘事の哀れな連中」とまで非難されるようになっております。どのように感じられましても結構でございますが、有縁の方々がいつの日か、どこぞの泥凡夫が何か言ってたな。と思い出して頂けますなら嬉しい限りでございます。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4353 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/22(Thu) 19:34
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。お疲れではありませんか?どうぞ御無理なきように。

>私も、今S会よりそのように言われているそうです。しかし、御文の中の秘事法門と秘事の違いは救われた身であれば、誰から何といわれようとびくともしません。むしろ早くその世界を知って頂きたく思うものです。

親鸞会様では一流安心までも全てまとめて秘事法門にされますようですので、それを聞かされておる方々は十八願から遠ざかることとなります故に、残念極まることでございます。ただ、あなた様のように長年聞法精進なされたお方でもお気づきになられる所以は、十八願には「宿善」があるのだという良い証左と言えましょう。
我等はあれこれ計らう必要も争う必要もございませんし、御開山より永い間受け継がれてきた「法」に従うのみでございます。

>ようやく、常時見れる状態になってからは、私は何かに獲り付かれたように必死で、S会の批判あるページを探しました。何故なら、38年間聞いてきても、一人も信心決定した人が専任講師の方から現れたということを聞いてこなかったからです。
>専任講師が出来ないのら、まして私のような者はどうしたら救われるのかと、いつも疑問に思っておりました。
>だったら、もしかして私の聞いて来た道はどこかで間違っていたのではないか?

聞くだけで信を獲るなど一見誰でも容易のように思えますが、実は難行以外の何物でもございません。何故なら、その標的は己の心、即ち「機」になるからでございます。
それでも親鸞会様はたくさんの会員様をお持ちの御様子ゆえ幾人かは晴れ渡る境地に達した方もおるでしょう。では、あえてその方々に問うてみたいことがございます。

その世界に躍り出て喜び勇んで法友を導きたく、一生懸命その境地を伝えたとしましょうか。そして、必ずお気付きになるのです。境地を伝えるは極めて困難であるのだと。
いくら言っても分かって貰えず。故に「易往無人」であると思われる方もいらっしゃるかもしれませんし、宿善あらば、これでは求める全ての人を救えないと気が付くかもしれません。

己の心だけで浄土に往生できるのだと確信できるのなら弥陀は必要ございません。

> 泥凡夫様のように私も自分の起す信心を喜んでおりましたが、次第相承の善知識の御前で
> 阿弥陀仏の謂れを聞かせて頂いた人は10人は10人、100人は100人、赤子から、
> 私の母のように全く足腰立たないようなものまで、全てくまなく助かる事が出来ます。
> まさに、御文と割符が合う如くです。

故に無上甚深微妙の法と申すのです。
御開山、蓮師御出世の有難さ、かたじけなさは正に恩徳讃で謳われるとおりでございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4352 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/22(Thu) 19:06
投稿者 : 泥凡夫



せみ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

> 五重の義成就いたしましたから、心から味わわせていただけます。
> まさしく「たのむ一念の時」でした。私の起こす信ではありませんでした。弥陀から賜った信でした。

そうですか。そうですか。それは良かった。
弥陀はあなた様を永い間お待ちになられておられました。南无阿弥陀仏。
当流は「六字に全てがある」こと、お分かりになられましたね。
どうぞ、有縁の方々がいらっしゃいましたら、弥陀の本願にお導き下さい。

お分かりの通り、あなた様は頂いた身であっても、今生においては凡夫のままでございます。苦しい時もございましょう。悲しいこともございましょう。
臨終の一念まで、ありのまま、ひたすら歩み続けるだけでございます。

蓮師の御文も信前に拝読した際に絶対に分からなかった部分が鮮やかに浮かび上がったでしょう。どうぞ「後念相続」怠りなきように。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4355 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/23(Fri) 00:10
投稿者 : 泥凡夫



無学虚無僧 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

> 組織を恨む前に、長い年月の中で迷い迷われた経験あったからこそ、きっとはっとするほどの悟りを開かれたのかも知れません。恨みからは何も生まれません。どんな宗教を信仰しようとどんな組織に関わろうとそれはあなた自身がお決めになったこと。。。

我等凡夫は悲しいかな、他を恨み、責任の所在が己にある事を忘れてしまいます。哀れなるかな、私も同じでございます。消し去ろうとすればするほど苦しむがこの「煩悩」でございます。無学虚無僧様のように尊い聖道を歩まれるお方から見られましたら、可哀想になるほどの私でございます。

> ですから、人や組織を恨む前に、己の大切な人生を遅々としてでもいいので、実直に歩むことこそが悟りへといざなうのではないでしょうか?

浄土門ではございますが、恐らくそうだと私も思います。
しかしながら、この実直に生きることの何と困難なことか。己では実直に生きておるつもりであっても、所詮智恵浅き凡夫でございます故に、すぐに道を誤ってしまうのです。

>「後念相続」というお言葉。深く意味をしらないのですが、真実あふるるお言葉に感じられました。救われたから発する感謝のお言葉「南無・・・」・・それは、真実を知り得た方だからこそ、自然に出るお言葉なのでしょう。

南无阿弥陀仏。有難いお言葉に感涙致します。
無学虚無僧様の歩まれる道に光射しますことを念じております。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4364 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/25(Sun) 00:23
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> 私に十八願を何とか届かせようとしての配慮のある書き込み、誠にありがとうございます。

いいえ。こちらこそ。
私の命がある内はいつまでも待っております。

> 今もって、後生は私にとって大きな問題とはなってはおりません。
> しかしながら、徐々に後生が他人事ではなく、少しずつ自分の問題として捉えられるような感じになってまいりました。

無理に己に思い込ませても無駄でございます。宿善に促されるのでございます故。
「有無邪見」は人の根本的な思考なのだと私は思います。

> 今死ねば後生、そのときに安心して出て行けるかどうかが問われているような感じです。仏教は人生を生きるための手段としての教えではなく、まさに今、出て行く後生が問題となったときに、待ったなし、それで大丈夫か?という教えなのだと思われます。

仏教とは聖道門、浄土門と道は違えど最終的な目的は同じでございまして「仏覚」に至ることでございます。後生待ったなし、それでも大丈夫か?と申すは真宗でございます。

人生をどう生きるかということは、そもそも、仏教における「人身受け難し」を理解なされておるかという所に行きつきます。ここは安直にお答えすることが難しいところでございます。何故なら仏教に御縁なき人や、現世利益追及の教えを信じておる方や無信論の方々からすれば、何を寝ぼけたことを言っておるか。と罵倒されるもの。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 信心決定できました
記事No : 4380 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/27(Tue) 23:28
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> 今死ぬという心が起きないと弥陀の本願は聞こえないようにも聞こえますが、今から死ぬという心は凡夫には容易に起こらないようにも思えます。

「後生の一大事をこころにかける」ということは、「今死ぬという心」ではございません。みちくさ様の御指摘のように、それは個々人の縁によって異なる故、感じ方も異なります。そのように思える機もあればそうではない機もございます。

我等凡夫は明日をも知れぬ身であり、後生行く先が見えぬもの。故に、弥陀の本願に逢わせて頂きたいと願うもの。後生の一大事をこころという尺で計りますなら、それは「不安」以外の何物でもございますまい。それに対しての「安心」と申すのです。

だとすれば、「不安なこころ」を「安心のこころ」にせねばならぬとなりましょう。
御文にございますね。『このこころのつゆちりほどもうたがいなければ』と。
となれば、己の疑い無くなった心こそ信心(安心)であると思われることでしょう。

残念ですが、つゆちりほどの疑いなくなったという心を信心(安心)とは申さぬのです。安心が根本的に異なる故、これを凡夫の起こす所の信と申しまして、弥陀より賜りし金剛心ではないのです。

『このこころのつゆちりほどもうたがいなければ』の御文はこの前にございます、『なにのやうもいらず。ただふたごころなく、一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまいらせて、後生たすけたまへとおもうこころひとつにて、やすくほとけになるべきなり』この一流安心の要に対してつゆちりほどのうたがいがあってもならぬと申されておるのです。「つゆちりほどのうたがいなくなる」場所を間違っておるのです。

後生の一大事をこころにかけるには、少なくても「有無邪見」では無理でしょう。
あえてここは無理に申しません。

以前も書きましたが、後生などこころにも止めずに今を生き、満足して旅立たれる方など山ほどいらっしゃいます。死など恐れずの強靭な精神の持ち主も山ほどいらっしゃいます。何も考えずただ生き、死ぬ方も山ほどいらっしゃいます。「人の心」ほど頼りにならず、千差万別のものはございますまい。

> 今が臨終、出て行く後生は?
> と思えなくても弥陀の本願は聞こえますか?

みちくさ様は後生を知り、その解決を求めて来られたのでしょう?
それが後生大事の機なのでございます。縁無くば、このこころすら湧いてはきませぬ。

今が臨終。出て行く後生は?
あなた様は不安ではございませんか?故に求めるのであり、求める衆生を漏らさず救うが弥陀の本願でございます。本願聞こえるとは何とも良い響きでございますが、間違って下さりますな。「六字のこころ」を聞くが本願聞くでございます故。

南无阿弥陀仏


初めて書き込み

タイトル : Re: 初めて書き込み
記事No : 4359 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/24(Sat) 19:16
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。泥凡夫と申します。
お若い方のようで驚いております。
親鸞会様はお若い方々が大勢いらっしゃるようで誠に真宗に御縁ございますことを素晴らしく思います。

> 私は大学2年生でこの春までs会に在籍していたものです。故あって会とは縁が離れましたが、信心をを求めることはいまだあきらめておりません。

我等は歩むべくして歩ませて頂く存在でございますゆえに、親鸞会様との御縁を恨むようなことはなさらぬように。

あなた様がどの様に感じられておるのか私にはまだ分かりかねますが、御開山一流における「信」とは「己の心が生まれ変わる」というものではないのです。ここは極めて大事でございますが、どうしても受け付けられぬ所でもあるのです。「金剛心」とは、あなた様の御心が「金剛」になるという意味ではないのです。凡夫の心は「金剛」にはならんのです。なったと思うことこそ「凡夫の起こす所の信」と申します。

では何故「金剛」であるのか。あなた様がどれだけ愚かであろうとも煩悩人一倍あろうとも、崩れぬ「金剛の信」である所以はあなた様の御心のありようを弥陀が問うておるのではないからです。「弥陀の御心、南无阿弥陀仏の六字」をお受けする故「金剛心」と申します。これを指して蓮師は「佛凡一体」とも申されます。

十八願は弥陀たのむ衆生を漏らさず救う法でございます。あなた様がどれだけ若くとも、例え命いくばくもなき人であっても、重度の障害を負うて説法聞くこと叶わぬ身であっても、罪悪深重であろうとも決して見捨てずの弥陀の法でございます。今、あなた様に必要なことはただ信じることだけでございます。

親鸞会様では御説法から聖教まで色々学ばれたことと思います。但し、それらは「往生の一段」にとりましては何の意味もございません。いつの日かお分かりになることもございましょう。

>私の場合も善知識を探すことから始めねばなりません、見通しは今もって立っておりませんが必ず逢えると信じております。

弥陀はあなた様が求められるなら必ず必ず導いて下さります故に、御無理の無いよう歩まれませ。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 初めて書き込み
記事No : 4370 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/25(Sun) 23:24
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。
お答え拝見させて頂きました。
そうですか。皆様とのやりとりを御文と照らしましたか。
十八願宿善の者には往生の道、聞こえるものでございます。

>一つに、聞法だけでは信に到達できぬこと。

ここは勘違いなさらぬよう。説法聴聞に意味がないという意味ではないのです。説法聴聞はそれはそれは大事なことでございます。但し、十八願宿善のものに「法を聞かす」ことができる方でなければ、単に聖教を繰り返し説くことしか出来ず、故に聞法者は己の機を己で深信にしてしまうことになるのです。御開山や蓮師の金山の如くの聖教もその真意が伝わらず「聖教読みの聖教知らず」になってしまうのです。

>二つに、聖人一流の法は宿善がなければ聞けないこと。

その通り。これは聖教にも記されておりますので御存知でしょう。

>三つに、上と関連して法とは頃合(この言葉が適当かどうかはわかりません)を見計らって与えることができるものであること。

これは宿善です。

>四つに、その法は人を選ばぬこと(宿善の機ならば年齢等の条件を問わない)こと。

その通り。これも聖教に記されておる通り。
年齢、性別、善悪、障害など如来の前では関係ございません。これに制限があると思うは、機を扱う故なのです。機を扱うようになりますと、まず説法聞ける体でなければならんし、説法理解できる智恵も才覚も必要になります。十八願は智恵才覚は不要です。

>また聞書のなかに御文の上に法門はないといわれているのは、お聖教を読むだけでは信は得られず、聖教(教学、聞法含む)とは別のところに法門があるのだと了解しております。

一切の聖教はただ「南无阿弥陀仏」を信じせしめんがための方便でございます。聖教を全て暗記できても有難がっても「六字のこころ」を知らねばいたずら事でございます。当流は「南无阿弥陀仏の六字」に全てがございます。六字を離れた法門も信もございません。

親鸞会様で聖教をいろいろ学されたあなた様にはめずらしくも何ともないでしょうが、歎異抄第十二条を引きます。

『経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし。他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりにまよえらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといえども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり。一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらんひとの、となえやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。学問をむねとするは、聖道門なり、難行となづく。あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし。当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。たとい諸門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておわしませば、御さまたげあるべからずとて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あたをなすべきや。かつは、「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」よしの証文そうろうにこそ。故聖人のおおせには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏ときおかせたまいたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられそうろう。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことをもうすなり」とこそそうらいしか。いまの世には学文して、ひとのそしりをやめ、ひとえに論義問答むねとせんとかまえられそうろうにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわめ。たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどといいおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みずから他力の信心かくるのみならず、あやまって、他をまよわさんとす。つつしんでおそるべし、先師の御こころにそむくことを。かねてあわれむべし、弥陀の本願にあらざることをと云々』

いつの世も人間の本質は変わらぬ故、昨日書かれたもののようでございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 初めて書き込み
記事No : 4374 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/26(Mon) 19:35
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。

愚尼様や一流安心を獲た方々や私の申すことに素直にうなずける人は少ないのでございます。短期間でよくここまでうなずけたものだと思います。しかしながら、これ皆宿善の催し故にございます。

>そうですね一切の聖教は南無阿弥陀仏を信ぜしめんがための方便、それ以外の学問は全く往生の役には立たぬこと、南無阿弥陀仏の六字の心をよく心得た人が救われる。一枚起請文にも書かれていますしね。

「六字のこころ」とは「己のこころ」にあらずでございます。
それを聞くために次第相承の善知識に逢わねばならぬのです。
しつこいようですが、十八願は聞即信でございます。

>ところで機を扱うということについて泥凡夫様はたびたび「信を得てもどのような境地もない」と書かれていますね、まだそのことはよく飲み込めていませんが、少し聞書
> の文を拝借して見ます。
>「悦び候はんとも信を得ぬは徒事なり。悦べ、たすけ給はんと仰せられ候ことにもなく候。たのむ衆生を助け給はん」との本願にて候。」(220)
> たといどんなに躍り上がる境地を得ても割符できねば正信とは呼べないとも書かれていました。この御文も同じことを言っている気がします。

これはこれは。実によい場所をお引きなさいますね。頭が下がります。
あなた様が何故ここに目を止められたのかは、あなた様が歩んだ道によって「気付かせて頂いた」のだと思います。しかしながら、あなた様が完全に飲み込めないのは当然なのです。弥陀に一念帰命せねば分からぬことがございます故。

後生の一大事をこころにかけておられるのならば「朝には紅顔ありて夕べには白骨となりぬる私」ということをひしひしと感じる筈でございます。明日をも知れぬ身でありながら、十年聞いても二十年聞いても信を獲られぬ獲られぬと苦しまれる。それは聞き方が生ぬるいのではなく、説法だけでは正信は獲られぬからなのでございます。獲られぬ獲られぬと嘆かれるお方が間違っておるのではなく、それはむしろ凡夫としては正常なのでございます。帖外九首和讃に御開山は十八願には要があることをよくよく記されております。『たのみをかけし人はみな往生かならずさだまりぬ』とございます。蓮師も御文に同じく『雑行をすてて、一念に弥陀如来今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのみ申さん人は十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべき事』と申されております。求める衆生は漏らさず救うが「念仏衆生 摂取不捨」のこころでございます。

当流は何より先に成さねばならぬことがありますのに、それを差し置いてしまっては誤りの元となります。

南无阿弥陀仏


後念相続ということ

タイトル : Re: 後念相続ということ
記事No : 4385 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/29(Thu) 19:13
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。

あなた様が後念相続を御心配なされても仕方がありません。
あなた様には何より先に成さねばならぬことがございます。
それを差し置いて後念相続もございません故に。

> 「六字のこころ」は己の心にあらず、ということが引っかかりこの掲示版の過去ログと
> 御文の中からそのことに関連していると思ったものを抜粋してみました。

ここばかりは、信前ではどうにも分からぬ部分なのです。
ただ、あなた様は己の心に信を探しても無駄だと申す私を信じて下さります故、申し上げておきます。「三願転入」は親鸞会様で学ばれたと思います。
己の心だけで信じた、弥陀の本願、己の後生に疑い無くなったと決めてもこれは二十願の人でございまして、どれだけ晴れ渡る世界になろうとも往生は不定でございます。これを弥陀より賜ったのだと思い込んでも無駄でございます。

御文にはこの要を何度も何度もうるさく書かれております。
「後生たすけたまへ」とはありますが「後生に疑ひ晴れる」とは一箇所もございません。機を深めた先にそうであったか!と疑い晴れた満足した、往生は定まったと己で決めるのなら何度も申しますが、弥陀の本願は必要ございません。

>さりながら、そのまま打ち捨て候へば、信心も失せ候べし。
>「細々に信心の溝を浚えて弥陀の法水を流せ。

>女人の身はいかに真実心になりたりというとも、疑いの心は深くして、又、物なんどの忌わしく思う心はさらに失せがたくおぼえ候。
>
> 以上は御文二帖目一通より。

「己の心」が「疑いない世界」になるが「信」であるなら、これは可笑しな話。そんなこころは微塵も起こらぬはず。つまりこれは「己のこころ」にあらずとお気付きになってもらわねばならぬところ。「女人の身は」と申されるが、これは「我等凡夫全て」を指すお言葉。「六字のこころ」は「己のこころ」にあらずでございます。真実心を獲たりといえど、我等は「臨終の一念」まで凡夫でございます。煩悩の雲は厚く覆っております故。これを断ぜずして涅槃を得るが十八願でございます。

> 真実信心をいただいたといってもともすれば日々の煩悩の中にうずもれてしまい(無くなってしまうといいたいわけではありません)、御恩報謝もおろそかになってしまう。
> なればこそ後念相続が大切といわれているのだと思っています。とりとめが無くなって申し訳ありません。

「摂取不捨」の弥陀の誓願でございます故、救われた者は捨てたまわずでございます。信心が消えるとあなた様が取られるのは己の心のあり様が信であると思われる故でしょう。

信とは蓮師の仰られる通りのもの。

『信心獲得すといふは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり』

信心獲得すといふは、第十八の願に疑い晴れるなり。弥陀の誓願不思議に疑い晴れるなり。とは書かれてございません。我等はただ信じることしか出来ませぬ。

今までのdreamer様は弥陀の本願につゆちりほどの疑い無くても、己のこころはフラフラ。この心を金剛にせねばならぬならぬと頑張っておられたことでしょう。金剛になれたら弥陀は必要ございません。なれぬ者こそが十八願の正客でございます。

十八願宿善の者しか本願聞こえぬ所以は、十八願宿善開発の者にしか聞かす事できぬ故でございます。「後生の一大事、御たすけそうらへ」と思うならば、心の底より次第相承の善知識を求めて下さい。

次第相承の善知識、善知識と申してばかりおると、勘違いなされてこれは「善知識だのみ」だと思われる方もおるでしょう。それは否。我等がたのむは弥陀でございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 後念相続ということ
記事No : 4387 [関連記事]
投稿日 : 2006/06/30(Fri) 18:34
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。

>そうですよね信前の身が後念相続のことを思っても仕方が無いこと、さしでがましいことをして申し訳ありませんでした。

いいえ。素直に問われることは良いことです。ただ、あなた様は珍しいことを申す人だと思いました。信前の者はとにかく信を求めているもの。後念相続を御心配されるは信後の方。少々驚いております。

> 機を問い詰めてこの境地が得たのが十八願なら生まれたばかりの赤子には無理な話十方の衆生が救われるものではなくなってしまいます。
> それはなんとなくですがわかっているのです。だから弥陀はこちらの機のありようを問わずそのままで救う仰っているのだと思うのです。

別に赤子を引き合いに出さなくてももいいのですよ。そもそも説法だけで信を獲るなど自力聖道の難行でございますので、成人であろうが無かろうが、境地を得るだけでも至難の業。例え得たりとて、所詮は凡夫の悟であって報土往生はできませぬ。この二十願で一生を終える方など山ほどいらっしゃいます。

> >さりながら、そのまま打ち捨て候へば、信心も失せ候べし。
> >「細々に信心の溝を浚えて弥陀の法水を流せ。
> >女人の身はいかに真実心になりたりというとも、疑いの心は深くして、又、物なんどの忌わしく思う心はさらに失せがたくおぼえ候。

> といわれるように、我等凡夫は死ぬまでこの煩悩の雲に覆われたままであること、六字のこころは衆生の三業とは別のところにあるのではないか、自分は往生一定になったと思えなくても関係無いのではないか、それは相続によってはじめて確かめられるのではないかということが書きたかったのです。又まとまりが無くなってしまって申し訳ありません。自分の心で救われたとはっきりわかるのなら割符は必要ありませんからね。無駄だとわかっていてこのように計らってしまうのですお許しください。

計らっても結構です。そこを通らねばならぬ方は通るもの。ただ、歎異抄第十二条にございますとおり『たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひと』も居られることをお忘れなく。

あなた様は「信の一念」と「後念相続(欲生相続心)」をごちゃ混ぜにしてしまいますからこうなるのです。御開山の教行信証を引っ張っても宜しいのですが、あなた様はもうごちゃごちゃになってしまう故、今日は「改悔文」を引かせて頂きます。

『もろもろの雑行・雑修、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候う。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりもうすべく候う。』

「たのむ一念のとき」に「往生は一定」になります故、あなた様のその後の心のあり様など関係ございません。喜べる日もあれば、煩悩で喜べずの日もある。ただ、信の一念の後は往生は定まっておりますゆえ、称名は全て御恩報謝となるのでございます。

次第相承の善知識より『この御ことわり』を聞かねばならぬのでございます。
さらに『さだめおかせらるる御おきて』とございますとおり、抑止(おくし)がございますこともお分かりでしょう。

あなた様のように聖教に通じておられるお方でもこの有様。正信を獲たならそれは力となるでしょうが、信もなく、人に信を獲られよと勧めることを厳しく戒められておるのはここなのでござます。手を引く本人に正信もなく、いたずらに聖教を振り回し、引いた者も正信を獲られず。まったく自損損他に他なりません。

御開山一流は信が何より先である所以でございます。

南无阿弥陀仏


実践的なことについて

タイトル : Re: 実践的なことについて
記事No : 4393 [関連記事]
投稿日 : 2006/07/01(Sat) 20:21
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。
dreamer様。あなた様が今までこころに掛けてこられた後生の一大事、正信あるを知った時、それは加速するもの。御開山の『明日ありと おもうこころの あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは』をひしひしと感じておられることと思います。

>「よく知りたらん人に相たずねよ」、「人の上下を問わず聞け」

蓮師がこのように申されることから、あなた様はお気付きのことがございますでしょうか。蓮師が「私に聞け、私の説法聞け、私のところに来い、私が唯一の次第相承の善知識である」とは申されず、「よく知りたる人に尋ねよ」と言われるは、説法聞いておることと南无阿弥陀仏の六字を心得るはまったく別物であるのだということ。こればかりは「聞かねば逢えない」、宿善開発の機で無ければ聞くこと叶わぬ故でございます。

あなた様の上下を問わず聞かねばならぬ心得は結構なことでございます。ただ、聞く相手が一流安心の方で無ければどうにもなりません。故に私がうるさく申すこと、あなた様がお気付きになられたことをそのままぶつけて聞いて下さい。一流安心の同行はすぐにあなた様の申すことをお分かりになります。
一大事の事、恥も外聞もございません故に。

何度も申しておりますが「往相」に手を引かれ「還相」に逢うのでございます。
有縁の善知識に逢うがその方の道でございます。次第相承の善知識は全国何処にでもいらっしゃいます。僧籍にある方もあれば在家の方も居られます。「私は次第相承の善知識なり」と看板は掲げてございません故、まず、往相に逢うことでございます。

往相の一人はここに居ります。

南无阿弥陀仏


泥凡夫様教えてください

タイトル : Re: 泥凡夫様教えてください
記事No : 4414 [関連記事]
投稿日 : 2006/07/25(Tue) 18:59
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。

親鸞会様での御教義についての御質問でございますね。
残念ですが私は親鸞会様とは何の関係もございません故に親鸞会様での御教義云々は分かりかねます。

>S会では  因果の道理を
>善因善果 悪因悪果 自因自果 曽無一善  と教えています。

大意としては間違っておりません。
「善因善果」も「悪因悪果」もこれ「原因に対する結果の現れ方」の意であり、「自因自果」とは即ち「それらを蒔き、刈り取るのは他者ではなく己」であるのだということです。

>しかし、被害家族の会の過去ログの中には、やめた後も苦しんでおられる方があらわれるのは、このように、自因自果により無間地獄に堕ち、八万却中大苦悩暇なく受けると聞かされて来たからだと思います。
>私も、S会から離れるのが怖かったのはこれに尽きる訳です。

過去何度も申し上げておりますが、我等が因果の道理を知ったとしても、どれが「因」でどれがその「果」であるのかなど知りようもございません。これに囚われるということはそもそも自力の道を歩む方々であり、弥陀は善を積まねば救わん。とは申されておりません。逆に悪因を積み重ねて来た我等故に、大慈大悲を掛けて下さるのです。

そもそも落ちる世話を己でしておる限り十八願には永遠に届きませんし、そこまで恐れさせておるというは、既に後生の一大事を通り越して「機募り」の状態にあると言えましょう。以前も書きましたが(何故か過去ログから抹消されております)機募りは一歩間違えますと己で己の命を断ちかねません。当然己の機を己で深信に致します故に、開けた先は単なる凡夫の起こす所の信でしかございません。

我等は永い間、地獄を棲家としてまいりました。
落ちる落ちないの世話は十八願には不要でございます。お分かりですね。
退会者様方が恐怖に駆られておること、誠に心が痛みますが、十八願の要をお伝え申し上げても受け付けて頂けぬ方は、残念ですが力及びませぬ。我等信後の者は善導大師の二河白道を歩むが如く、ただひたすら、ありのまま、今生凡夫の生を生きさせて頂くだけでございます。御存知のことと思いますが、「ニ河白道」は「信後に歩む道」を表してございます。「信前」ではございません故に御注意下さい。

ここからは一流の方々にとっても、御縁ございます方々にも極めて重要な点でございます。あなた様がお喜びの毎日を過されておることは誠に尊きこと。弥陀に感謝申し上げて下さいませ。但し、喜んで日々過そうが、過ごすまいが、それは「後念」のお話であって、「一念」とはまったく異なります。あなた様はそれを既に獲られております故に、よくよくお分かりのことと思いますが、信前の方、無宿善の方からすればなかなか受け付けられぬことなのでございます。

「専修念仏」とは何かを知らねばどうにもならぬことがございます故に。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 泥凡夫様教えてください
記事No : 4418 [関連記事]
投稿日 : 2006/07/25(Tue) 22:59
投稿者 : 泥凡夫



こうすけ 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

> 真剣に仏法を求めている者です。
>「一念」と「二種深信」について詳しくお聞かせください。

真剣に求められておること誠に尊きことでございます。
が、私を試されておりますね?
ここを問うてくるとはなかなか聖教にも通じておられることすぐに分かります。但し、今まで何度も申し上げておりますが、それを知ったところで、往生の一段にとっては何の意味もございません故に御注意下さいませ。

あなた様が今までどの様に聞かれて、また学ばれたことかは存じませんので、
あなた様のお心を満足させられるか否かは分かりかねますが御容赦を。

二種深信は『愚禿鈔』にもございますとおりでございます。

『深心と言うはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して出離の縁あることなし」と深信すべし。二には決定して「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく慮なくかの願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信せよとなり。今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。』

ここでよくよくお心に止めて頂きたい場所がございます。「二種深信」は「如来より賜るもの」であって、「聞法で深信にする」のではないと言うことです。「決定して」とございますとおり。ここを間違えて「二種のお話」とごちゃ混ぜに致しますと、とんでもない誤りを犯すことになります。

一念とは何か。
一念とは弥陀によって我等の往生治定される「時」を指し「信前信後の境」でもございます。この一念という解釈は、御開山が浄土に還えられてすぐにてんでバラバラになってしまいました。そして百年ほどで蓮師として再び世に出られ、ここを間違えてくれるなと生涯を一流復活に費やされたのでございます。ここで再興された真宗も時が経つににつれ、またまたバラバラになってしまいました。そんな末代の我等のために残されたが「御文」でございます。

五帖目には一念とは何か、信とは何かについてよくよく記されております故に重ねて御拝読して下さいませ。何かに気が付かれましたら、それを大切にして下さいませ。

あなた様のお役に立てなかったなら申し訳ございません。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 泥凡夫様教えてください
記事No : 4420 [関連記事]
投稿日 : 2006/07/25(Tue) 23:35
投稿者 : 泥凡夫



こうすけ 様

>私は現在、後悔なき人生とすべく、後生の一大事を心にかけて、弥陀の誓願を求めております。

それはそれは尊きことで頭が下がります。
但し、一点だけ申し上げておきましょう。後悔なき人生などございません。と私は思っております。

>『御文章』は「凡夫往生の手鏡」と言われ、獲信した知人も私にさかんに何度も何度も拝読するよう勧めてくれました。

そうですか。その知人様が一流安心の人であられるならばよろしいのですが・・・。

>ただ、文体が古文ですから、正確に言わんとされていることをわが身のものとするのは、私にとってなかなか難しいです。

あなた様のように真剣に求められるお方であるなら、是非原文のまま御拝読下さいませ。必ず必ず往生の道に繋がります故に。解釈(げしゃく)された御著書は山ほどございますが、これも正信の方の御著書でなければとんでもない解釈になっておりますので諸刃の剣と化します。

十八願は智者より愚者を善人より悪人を選ばれるもの。たとえ一文不知の者でもたやすく獲られるように完成されたもの。どうぞお忘れなきように。

南无阿弥陀仏


泥凡夫様

タイトル : Re: 泥凡夫様
記事No : 4424 [関連記事]
投稿日 : 2006/07/26(Wed) 21:38
投稿者 : 泥凡夫



こうすけ 様

こんばんは。泥凡夫です。

>私、幸いにも仏縁にめぐまれ、弥陀の救いを求めておりますが、宿善を厚くしていくとことが大事とよく言われるのを聞きます。
>宿善を厚くするのに私たちがなすべきことを例示してくださいませんか。

どこでそのように聞かれたのか分かりかねますが、極めて危うい思考になる可能性がございます故、御注意下さい。もし「諸善」を積むことで宿善が厚くなると思われるならやって御覧なさい。それらに意味が無いことを後に知ることとなるでしょう。

宿善とは弥陀の光明によって永い間掛かってお育て頂いたもの。また光明の催しによって開発されるもの。今生、十八願に逢えるか否かは過去世の種蒔きの結果、既に定まっております。

では己で何をすれば良いのか。御説法死ぬ気で聞けば良いのか?諸善を成せば良いのか?地獄を棲家とした罪悪深重の我等でございます。諸善難行など積めるわけがございませぬ。あなた様はただ南无阿弥陀仏の六字と一つとなることをただひたすら願い求めるしかございますまい。あなた様に宿善あらば必ずお分かりになることがございます故。

>泥凡夫様は、19願、20願を通られて18願の世界、正信に入られたと思いますが、19願、20願を簡単に説明していただけないでしょうか。

概要はあなた様でも御存知でしょうから簡単に。十九願仮門は「定散諸行の機」を指します。諸善万行を己の往生の因にしたいと思い実行する聖道の機であります。二十願真門は「自力念仏の機」を指します。念仏唱えることを往生の因とし、また、己の心で弥陀の誓願、後生に疑い晴れたと思い込む凡夫の起こす所の信に酔いしれる機であります。十九願の機も二十願の機もここで一代果ててしまう方がほとんど。

しかし、よくお心にとめて頂きたい事がございます。歎異抄にございますとおり『たまたま、なにごころもなく、本願に相応して念仏するひと』もおられます。

御開山一流において「信の体は六字」でございます。「喜ぶ心」ではございません。では無条件の御助け、誰もが何も成さずに既に救われておるのかと申せばそれは否。何ゆえ蓮師は御文において、信を獲るとはどういうことなのかをうるさいほど申されておるのかよくよく御思案下さいませ。

南无阿弥陀仏


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