真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 08

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


(スレタイ省略)

タイトル : (タイトル省略)
記事No : 5102 [関連記事]
投稿日 : 2007/05/09(Wed) 00:55
投稿者 : 泥凡夫



菩提心 様

こんばんは。
バタバタしておりまして書き込みもできんかったのですが、少しだけ。

まず。
親鸞会様の御内情は私は詳しく知りませんが、一連のリンクの貼り付けを親鸞会様の仕業であるように発言されるのは些か問題があるように思えます。まがりなりにも真宗に御縁あった方々がこのようなことを意図的にやられるとは私には思えません。

万一、そうであっても非難するには及びません。そういった行為をなさるお方御自身が一番よくお分かりになる時も来るでしょうから。そもそも、法に照らせば正すべき、恥じるべきは己なのでございます。私も偉そうにあれこれ申してまいりましたが、半分以上は自分に言い聞かせておるのです。

親鸞会様では御教義を重んじられておられるようでざいますので、私などの言うことは釈迦に説法かも知れませんが、御縁ある方々を思えば至らぬ身ではありますが少しでもお分かり頂けることを常に願っておりました。

あなた様が法論について云々申される必要など何処にもないではありませんか。そもそも、当流における大事なものが外れておるからそのような他愛もない争いになるのです。あなた様は既にそれがお分かりのはずです。

今日は御開山の教行信証に多々見られる「聞不具足」についてお話させて下さい。『誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、 聞思して遅慮することなかれ』あなた様が既に御拝読されておる御著書にも書かれておりますが、「聞思」を説法聞いて有難く思うと解釈されたら誤りであり、思には「思の三義」がございます。「審慮思」「決定思」「発動勝思」この三つが揃わんならばいくら聞いても聞不具足であります。

次に、有縁の方々のために十劫安心について少しだけ。
安心決定鈔には機に先立ちて願行成就され弥陀となられた。佛体よりは既に成就された往生を今まで聞かんかった我等である。弥陀の正覚は我等の往生により成り、また我等の往生も弥陀の正覚よりなる。故に、真宗の説法では弥陀の正覚と我等の往生は一体であり、弥陀の正覚の命は我等の命そのもの。私の命ではなく弥陀同体の命である。説法者のようにうまく言えませんが、そういう説法も聞かれたこともあるでしょう。誤りではもちろんありません。しかしながら、十劫の昔、既に我等の往生は定まっておった。それを信の体にする故に、無帰命安心とも申されるのであります。

帰命とは南无であり、南无阿弥陀仏の六字を南无とたのみ奉る。この南无は廻向されるものであるとしつこく申して参りました。御開山の開宗された真宗は日本で発明されたものではなく、釈尊によって説かれた佛説を七高僧を介して日本に伝わったのであり、御開山一流は善導流でもあるのでございます。御開山より御相伝の法を口決面授なされた次第相承の善知識により、南无は廻向されるのであります。

信心は弥陀より賜るもの。善知識が授けるものではありません。善知識は宿善開発の行者に六字の謂れを聞き開かせ、南无せよと勧めるのでございます。有縁の方々に誤解をされぬようにこの場を借りて申し上げさせて下さい。

改邪抄に夜中の法門の邪義についての批判の後、善知識に関していささか記されております。次第相承の善知識とはどういった方であるのか書かれ、かつ、善知識だのみを戒めておられます。

『実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり。』

とりとめが無くなりましたが今日は遅いのでこのあたりで。

南无阿弥陀仏


同発菩提心

タイトル : Re: お世話になりました
記事No : 5223 [関連記事]
投稿日 : 2007/06/13(Wed) 22:56
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。
多忙極まって掲示板を見ることもできんかったことをお許しください。

> いつか愚尼さんに対して言いましたように、決定者が未決定のものを導くことが仏法であり、それ以外にどこに仏法がありましょうか。

良くお分かりですね。法は常に人から人へ伝え聞かされるものなのです。
では、信決定者の説法聞いておれば自然とお助けに逢えるだろうなどと思われては所詮なきものでございます。あくまでもあなた様を救うは弥陀でございます。その理を聞かせる人に逢わねば仏法のようで仏法ではなくなります。

あなた様は私共に問わずとも、親鸞会様や他にも御縁があるではございませんか。存分に会の説法者に問えば宜しいのです。

> ところで、更に淋しい話ですが、今日は父親の葬儀告別式でした。

それは悲しきことでございます。恩愛は絶てんものでありますので、さぞ悲しかろうと思います。蓮師は人の死に関して、冷たく感じるほどの眼で語られておりますが、それは真実である証左であるのです。病や不慮の事故ではじめて死ぬのではなく、生まれたことに原因がある。我々は明日をも知れぬ短命の機なのでございます。

> 父親はかねてよりお寺の繁栄に尽力し、院号をもらっておりましたが、法名はまだでした。もうかないませんが、法名をもらう意味を体得し、それを私にも教えてもらいたかった。

御父上様を謗るのではございませんが、今少しお考えください。
当流では出家・在家の別などございませんし、院号も法名も往生の因にはならんのです。そういう理を聞き開いて頂きたいものです。

みちくさ様はとにかく今御縁のある場所で一生懸命聞き抜かれれば宜しいのではないでしょうか。何度も申しますが、あれこれ色気を出しても正邪など絶対に見極められんのです。そういうことは真宗内だけでも絶えたことはございませんし、少し広げて他宗様が見れば念仏無間と謗る場所もある。もう少し広げれば仏教は外道、キリスト教は外道、イスラム教は外道、そうやって謗り合います。さらに広げれば宗教など単にこころの問題。そんなもの信じなくても何の問題もない。仏陀も単なる哲学者だったし、キリスト様もただの人。そう見る方もたくさんおられます。

真宗の信、弥陀の救いはかくの如し。そういうはっきりした誰でも分かる答えがあれば異安心も異解も別解も生まれんかったのに。そう思われる方もおるだろうと思います。真宗の法は宿善の者でしか聞くこと叶わんのです。それは私が勝手に言っておるのではありません。御開山も蓮師もうるさく申されております。無宿善には法は与えるな。蓮師はそこまで仰っておる。

易行の道を凡夫の計らいであれこれ付け加えて難行になさることのないように願ってやみません。

南无阿弥陀佛


(スレタイ省略)

タイトル : (タイトル省略)
記事No : 6659 [関連記事]
投稿日 : 2007/12/29(Sat) 10:21
投稿者 : 泥凡夫




易往人は無礼 様

こんにちは。泥凡夫と申します。
久しぶりに掲示板を拝見致しましたところ、皆様何やら熱くなられておられるようでありますね。突然横やりを入れますことをどうか御容赦下さいませ。

> 【浄土真宗親鸞会の教義について考え、話し合うページです。社会性の問題は扱わず、純粋に教義の真偽について客観的・論理的に考えたいと思っています。管理人の考えは、「自分の行動を決める基準として、親鸞会の教義を選択すべき合理的な理由はない」というものです。 】

> これを100回読んで出直してきたらどう?
> ここはあんたの信仰がどうしたここで信心決定したとか、主観的な話をする場じゃないよ。

易往人は無礼様の御指摘、誠に御尤もであります。
どこの馬の骨か分からん私も、かつてその趣旨を逸脱した行為を行っておりました。当時、同じ御指摘を受け申し訳なく思った次第であります。当時もご覧になっておられ、不愉快にさせてしまったのであれば、ここで非礼をお詫び申し上げます。

とりあえず、議論のための議論にもなっておらんようでありますので、ここは一つ、別の意見がある方々もおるのだ。程度で鞘を納めて頂きたく存じます。毎日様も易往人無人様も鞘を納めて頂きたく存じます。

南无阿弥陀佛


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