弥陀の救い
仏教には、自ら修行して、悟りに至るもの(聖道門)と、救っていただくもの(浄土門)とのふたつの門があります。
弥陀の救いは、このうち後者の浄土の門です。この門は、易行の門でもありますので、どのような人でも、弥陀をたのむだけで、救われます。
真宗は、弥陀に救われるにはどうすればよいのかを伝えるものですが、現行の真宗には、さまざまな考え方(教え)があります。
ここにお書きするのは、あくまでも、私を救ってくださった真宗の教えに関することです。
どのような悪人でも、弥陀は救います
これまで、どのような悪行を為してきた方でも、弥陀は救います。
仏教では、「良い原因を作れば、良い結果が出てくる、悪い原因を作れば、悪い結果が出てくる」と説きます。
ですから、ふつうに考えたら、善行を為してきた方が救われるはずです。
それなのに、どうして、どのような悪行を為してきた方でも救われるのかというと、弥陀の善行と比べれば、凡夫の悪行は、たかが知れているからです。
ものすごい善行もできなければ、ものすごい悪行もできないのが凡夫なのです。
弥陀があまりにもすばらしい存在であるために、「弥陀をたのむ」=「念仏する」ことにより、あまりにもすばらしい善行が回向され、これにより、すばらしい善因を作ることになり、死後、極楽浄土に往生できることが決定するのです。
真宗のすべては、南无阿彌陀佛の六字にあります
では、「念仏」というのは、何でしょうか?
それは、もちろん、「南无阿彌陀佛」です。
そして、真宗のすべては、この六字にこもっています。
でも、そう言われても、何がなんだか、わからないと思います。
ですから、多くの方が悩んでいます。
「念仏というのは、こうであろう、ああであろう」と、多くの方が、あれこれ悩んで、苦しんでいるのです。
鎌倉時代にも、既にそうであったようで、法然上人は、次のように書いています。
もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
(中国や、日本において、さまざまな頭の良い方々が論じ申し上げなさっている観想の念でもない。また、お経を学んで、念の心をわかってから、申す念仏でもない。)
弥陀に救われるには、どのようにすればよいのか
このように「〜ではない」と述べた後、法然上人は、次のように続けます。
ただ往生極楽のためには、南無阿彌陀佛と申して
では、「南無阿彌陀佛を申す」とは、何でしょうか?
ここには、書いてありません。
ですから、疑問に思うのが当然であり、真剣な方は、当然質問したことと思います。
蓮如上人が書かれた御文には、こうあります。
南無阿弥陀仏と申すはいかなる心にて候ふや。しかればなにと弥陀をたのみて報土往生をばとぐべく候ふやらん。これを心得べきやうは、まづ南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。
つまり、「南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむ」とあります。「申す」よりも、少しだけ詳しくなりました。
それでも、やはり、何であるのか、わからないと思います。
弥陀に救われるには、「念仏」であることは、間違いないのです。
ただ、「念仏申す」とは何のことであるかが、よくわからないのです。
「本願相応の念仏とは何か」を知るために
では、念仏とは何かを知るのは、どうしたらよいのでしょうか?
それには、まず、信心決定された方に会うことだと思います。
その方は、既に信心決定している以上、その方法をご存知のはずだからです。
もし、身近にそのような方がいない場合は、どうしたらよいでしょうか。
私は、「御文」を拝読なさることを勧めます。現代語訳ではなく、原典を(もちろんわかりやすい文字遣いに書き直されたもので構いません)、ふりがな付きのものを購入して、声に出して、読んでみてください。
とりあえず、3回は、通読してみてください。
ただそれでも、御文を繰り返して読んでも、やっぱりわからないと思います。ただ、そこには、「どうすれば良いか」書いてあります。
何か疑問等ありましたら、遠慮なく、掲示板にお書き込みください。