度無所度の義
証巻の最後の方に出て参ります、「度無所度の義」につきまして、思うところを書いてゆきたいと思います。
二つには度無所度の義なり。菩薩衆生を観ずるに、畢竟じて所有(あらゆるところ)なし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。
度無所度
度するに、度する所無し。
度するに、度される無し。
救うと言っても、自分に救われる人は、誰もいない。
皆、彌陀に救われるからです。
菩薩
この菩薩とは、真実信心いただいた念仏行者のこととして、お書きします。
所有なし
菩薩が衆生を観ても、何のこだわりもありません。
既に、無上の善を為しており、いまさら、善を加えることもできないからです。
そして、自分自身は、何があろうとも、往生治定だからです。
そして、どんな衆生も、いずれは弥陀に救っていただけるからです。
お手引きできるもできないも、すべては、彌陀のおはからい。
自分にできることなど、何もありません。
雖度無量衆生。実無一衆生得滅度者
無量の衆生を度すと雖も、実に、一衆生として、滅度を得る者無し
済度しても、凡夫は凡夫のまま。
何人お救いしても、皆、凡夫のまま。怒ったり、悲しんだり、恨んだり・・・
誰ひとりとして、滅度を得るわけではありません。
示度衆生如似遊戲
衆生を度するを示すこと、遊戯するがごとし
衆生を救うと言っても、そのご縁も、すべては弥陀が準備してくださったもの。
救うと言っても、誰も自分には救われない。
何人済度したと言っても、皆ひとり残らず、凡夫のまま。
誰も自分に救われず、救われても、凡夫変わらず。
これを外に示すに、正に、遊戯するが如し。
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