真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 06

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


お久しぶりです

タイトル : Re: お久しぶりです
記事No : 4624 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/11(Sat) 21:37
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
お尋ね歩かれておるとのこと、誠に頭が下がります。

>そこで本派の布教師の方と書簡を交換できるご縁もいただき、加えてその方の寺にも参詣できるとのことでした。残念ながら法要の中で善友様を見つけることはできなかったようですが、今回いただいたご縁を元に捜索の幅を広げてまいりたいと持っています。

本派の坊さんなら一流安心を知っておるだろうと誰でも思われるのです。
残念ですが、当流は出家在家の別はございませぬ。
あなた様が私の申すことを信じて下さるのなら、私が過去申したことをそのままお尋ねになってみて下さい。一流安心の同行ならすぐにお分かりになります。

「次第相承の善知識」とは各派の法主でもなければ説法者でもございません。もちろんそういう方もおられますが、「次第」を「口決面授」によって「相承」されたお方でございます。この方が「弥陀の代官」として行者に「一念帰命」を勧めるのでございます。

> 時系列は前後いたしますが、法話が終わった後その布教師の方と膝を突き合わせて語ってみました。いわく「救われたというのは、何か特別な状態になることではなく、弥陀に向かって『自分を仏にしてくれる方はここに居られましたか』と自然と感謝できるようになることだ」言われておりました。

なるほど。前半(行者が何か特別の状態になるのではない)は頂けますが、後半は現在の本願寺様の空華派の方々が仰ることですね。残念ですが、一流安心の同行ではありますまい。

ただ、あなた様がそのお方と御縁があり、そのお方からの教えを受けて、それを信じて進むのであれば、それはあなた様の有縁の道でございますので私がとやかく申すことではございません。

往相・還相の二種の廻向に逢わねば往生は定まらぬということだけは頭の片隅に置いて下さいませ。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 補足
記事No : 4629 [関連記事]
投稿日 : 2006/11/18(Sat) 12:27
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんにちは。

往生の道を探し求められておるお姿、誠に尊き次第でございます。
いく度もいく度も身分の上下を問わず、相尋ねて下さいませ。

> 泥凡夫様の書き込みと御文を読み返してみました。そして気づいたことはあの方の領解には「後生助けたまえ」がありませんでした。どうやら捜索は1からやり直しのようです。

当流には宿善・無宿善をよくよく分別して法を聞かせることを蓮師はうるさく申されております。それは何故か。「抑止」があるからでございます。秘密にせよと言うことではないのです。誰彼構わず法を聞かせば、無宿善の機は必ず誹謗を成す故に、誹謗を成す者の行く末を案じれば、簡単に法は聞かせられんのです。故に、何でもかんでも開かれており、誰彼構わず手を引くなど真宗ではなくなるのです。また、ただのただの御助けであるなどと説くならば更にもって真宗にあらずでございます。

『それ、中古已来、当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無ということをしらずして勧化をなすなり。所詮自今已後においては、このいわれを存知せしめて、たとい聖教をもよみ、また暫時に法門をいわんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて、人数おおくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもいて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいずれの機なりとも、よく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんようにおもいはんべりき。これあやまりとしるべし。』御文4-5

> 今の私の心中を一言で表せば「わからない」の一言に尽きます。なぜ自分が特別な状態になるわけではないのに往生が一定と信じられるのか。果たして自分は何のために次第相承の善智識を求めているのか、後生のためなのか、それとも名聞利養のためなのか。自分が思うこと、なすこと、言うことがが善なのか悪なのか。後生は地獄に落ちねばならないのか、それともまた人間に生まれるのか。

あなた様が分からんのは当然なのです。故に聞かねばならんのでしょう。
例えあなた様が己の名利のため求められようが、あなた様の成すことが善であろうが悪であろうが、それをも打ち捨てて弥陀をたのむのでございます。何も難しいことなど要求されておられんのです。たのむ衆生は漏らさず救われるのが十八願でございます。何の差別もございません。

『それ当流の安心のおもむきというは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまえと、ふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまうべきこと、さらにうたがいあるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。』御文4-12

『一流安心の体という事。南无阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。この六字を善導大師釈していわく、「言南无者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故 必得往生」(玄義分)といえり。まず「南无」という 二字は、すなわち帰命というこころなり。帰命というは、衆生の、阿弥陀仏後生たすけたまえとたのみたてまつるこころなり。また発願回向というは、たのむところの衆生を、摂取してすくいたまうこころなり。これすなわち「阿弥陀仏」の四字のこころなり。さればわれらごときの愚痴闇鈍の衆生は、なにとこころをもち、また弥陀をばなにとたのむべきぞというに、もろもろの雑行をすてて、一向一心に、後生たすけたまえと弥陀をたのめば、決定、極楽に往生すべきことさらにそのうたがいあるべからず。このゆえに、「南无」の二字は、衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また「阿弥陀仏」の四字は、たのむ衆生をたすけたまうかたの法なるがゆえに、これすなわち機法一体の南无阿弥陀仏ともうすこころなり。この道理あるがゆえに、われら一切衆生の往生の体は、南无阿弥陀仏ときこえたり。あなかしこ、あなかしこ。』御文4-14

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 補足
記事No : 4645 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/01(Fri) 19:42
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。

> 本願成就文です。私が目を留めたのは「其の」のところです。うまくはいえませんが衆生が聞くところの名号は「其の」名号即ち「諸仏如来が賛嘆する名号」の事ではないかと思ったのです。また親鸞会でも本派の方でもよく引用されるのは、諸有衆生〜からですが親鸞聖人は全部を経典から引用なされています。このことから「名号」を「諸仏如来が賛嘆する」のを聞くことが救いの絶対条件であるから聖人は全文引用なされたのでは無いかとも考えました。

少し驚いております。
あなた様はどなた様からかお聞きになられましたか?
とても大事なことでございますので胸にしまっておきましょう。

「其」は指差す意味も含まれるのでございます。
「我今見聞得受持」と開経偈にあるように十八願成就には「見」「聞」が揃うものなのです。

>結論を述べます。この文章は「十七願」と「十八願」の成就が同時に述べられています。以前泥凡夫様は還相の方を「十七願の人」言われておられたことから、上に挙げました文を、「十七願の成就している所で無ければ十八願も成就しない」と読み解きました。そして十七願の成就しているところに宿善の機を導くのが往相(十一願の人)であるとも了解しました。

十八願の人はあなた様。弥陀の代官は十七願の人。そこへ導くが十一願の人。この廻向が分からないからいつまで経っても正信になれんのです。故に、こうなければ救われんとか、あの人のようにならねば救われんと自ら法への道を狭めておるのです。

あなた様のように利発なお方に引用など笑われるかも知れませんが、今日は口伝鈔から少しだけ。御容赦を。

『過去の宿善あつきものは、今生にこの教におうて、まさに信楽す。宿福なきものは、この教にあうといえども、念持せざれば、またあわざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて、宿善の有無あきらかにしりぬべし。しかるに、宿善開発する機のしるしには、善知識におうて開悟せらるるとき一念疑惑を生ぜざるなり。その疑惑を生ぜざることは、光明の縁にあうゆえなり。もし光明の縁、もよおさずは、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。いうこころは、十方世界を照曜する無碍光遍照の明朗なるにてらされて、無明沈没の煩悩漸漸にとらけて、涅槃の真因たる信心の根芽わずかにきざすとき、報土得生の定聚のくらいに住す。すなわちこのくらいを、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」(観経)とらとけり。また光明寺の御釈には、「以光明名号摂化十方但使信心求念」(往生礼讃)とも、のたまえり。しかれば、往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず。光明の縁にもよおしそだてられて、名号信知の報土の因をう、としるべしとなり。これを他力というなり。』

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: はじめまして
記事No : 4647 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/01(Fri) 21:22
投稿者 : 泥凡夫



問不審 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

> 私も、真の善知識を探しているものです。

それはそれは尊き事。身分の上下を問わず往生の道、お尋ね下さいませ。次第相承の善知識は僧籍にある人もあれば在家の人もおられます。あなた様が真剣に求められるなら、必ず必ずお導きございます。

> 私も、蓮如上人の「宿善開発して善知識にあはずば、往生は叶うべからざるなり」のお言葉が気になります。
> 「善知識というは「阿弥陀仏に帰命せよ」と言える使いなり。」とも仰せですので阿弥陀仏が善知識を使わせておられることは判ります。
> 阿弥陀仏は十劫正覚の初より私の往生を定めてくださり、私一人にかかりきりで後生も離れることができないとお聞きしますが、その阿弥陀仏が善知識を使わせ「弥陀に帰命せよ」と勧めさせておられます。

左様でございます。もっと御聖教を拝読すればたくさんそれに関する事がございます。お時間のある時にでもお調べ下さい。

> ただ、泥凡夫様が善知識に「往相と還相」がいると言われたので驚いています。

いいえ。読み違いでございます。
十八願を頂いた人が「往相」でござまして、次第相承の善知識は「還相」でございます。お間違えなきよう。

> 不審ですが、
> 親鸞聖人は、「還相」の法然上人の下で「弥陀に帰命」された後、
> 「往相」の善知識になられたのでしょうか?
> それとも「還相」の善知識になられたのでしょうか?

これも上記の通り、御開山(十八願を頂く人)は聖覚法印(往相)に手を引かれ法然上人(還相)に逢われ、一念帰命を発得されたのでございます。十八願を頂き「往相」になられた御開山は法然上人より実語を相承されて次第相承の善知識「還相」となられました。

長くなりますが改邪抄を引きます。

『曾祖師黒谷聖人の御製作『選択集』にのべらるるがごとく「大小乗顕密の諸宗におのおの師資相承の血脈あるがごとく、いままた浄土の一宗において、おなじく師資相承の血脈あるべし」と云々 しかれば、血脈をたつる肝要は、往生浄土の他力の心行を獲得する時節を治定せしめて、かつは師資の礼をしらしめ、かつは仏恩を報尽せんがためなり。かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」(大経)等の文をもって依馮とす。このほか、いまだきかず、「曾祖師源空祖師親鸞両師御相伝の当教において、名帳と号して、その人数をしるして、もって往生浄土の指南とし、仏法伝持の支証とす」ということをば。これおそらくは、祖師一流の魔障たるをや。ゆめゆめかの邪義をもって、法流の正義とすべからざるものなり。もし「即得往生 住不退転」(大経)等の経文をもって、平生業成の他力の心行獲得の時剋をききたがえて、「名帳勘録の時分にあたりて、往生浄土の正業治定する」なんどばし、ききあやまれるにやあらん。ただ別の要ありて人数をしるさば、そのかぎりあり。しからずして、念仏修行する行者の名字をしるさんからに、このとき往生浄土のくらい、あに治定すべけんや。この条、号するところ「黒谷・本願寺両師御相承の一流なり」と云々 展転の説なれば、もしひとのききあやまれるをや。殆信用するにたらずといえども、こと実ならば、付仏法の外道か。祖師の御悪名といいつべし。もっともおどろきおもいたまうところなり。いかに行者の名字をしるしつけたりというとも、願力不思議の仏智をさずくる善知識の実語を領解せずんば、往生不可なり。たとい名字をしるさずというとも、宿善開発の機として、他力往生の師説領納せば、平生をいわず、臨終を論ぜず、定聚のくらいに住し、滅度にいたるべき条、経釈分明なり。このうえは、なにによりてか経釈をはなれて、自由の妄説をさきとして、わたくしの自義を骨張せんや。おおよそ本願寺の聖人門弟のうちにおいて二十余輩の流々の学者達、祖師の御口伝にあらざるところを禁制し、自由の妄義を停廃あるべきものをや。なかんずくに、かの名帳と号する書において序題をかき、あまっさえ意解をのぶと云々 かの作者において誰のともがらぞや。おおよそ師伝にあらざる謬説をもって、祖師一流の説と称する条、冥衆の照覧に違し、智者の謗難をまねくものか。おそるべし、あやぶむべし。』

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: はじめまして
記事No : 4651 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/02(Sat) 23:38
投稿者 : 泥凡夫



問不審 様

こんばんは。
真剣になられるのは結構でございますが、深刻になってはなりません。

> 私はこのお言葉を、
> 「上下だけでなく、団体・派をいわず問うべし。仏法は知りそうもなき者が知るぞ」
> という理解をしています。

その通りです。もっと言えば、出家・在家を問わず聞かねばなりませぬ。

> 然れば、今日より後は、他力の大信心の次第をよく存知したらん人に相尋ねて、
> 信心決定せよ」
>
> 宿善開発によるのだと教えられると、さらに私の能力を超えてさっぱり判りません。

宿善あらば、次第相承の善知識に逢うことは必ずできます。六字の謂れを聞き開く時、宿善は開発の時を迎えるのでございます。私は助からんのではないだろうか?宿善などないのではないだろうか?皆そう思うのです。しかしながら、あなた様が助からんかもしれん。でも救われたい。そのように計らわれる遥か遥か昔に全ての迷える衆生を救うの「南无阿弥陀仏」の六字が成就しておることを無視されてはおりませんか。

> 不審をご縁ある方に聞く以外に、できることがないように思います。

そうなのです。あなた様に有縁の方に往生の道を聞き尋ねるしかないのでございます。しかしながら、一流安心の要をお伝え申し上げても信じて頂けんのならこれは力及ばず。

> 「実語を相承されて」とはどういうことなのでしょうか?

それは口決面授によって成されること。次第相承の善知識でなければ知る事叶いません。

> 「聖覚法印」は実語を相承されていないのでしょうか?

法然上人よりされております。聖覚法印からの法脈ももちろんございます。

> 「法然上人」にとっての(往相)とは誰で、(還相)とは誰でしょうか?

これは、みちくさ様も問われたことでございます。どうぞ次第相承の善知識より伺って下さいませ。

あなた様もいつの日か必ず分かる時が参ります。聖教も覚えた・知った。説法もそこそこできる。しかしながら、それ自体は往生の因にはならんのです。往生の一段にとっては何の意味も無いのでございます。我等が救われるのは「南无阿弥陀仏」の六字以外には無いのでございます。この六字はどんな無智・愚痴の凡夫であっても容易く飲み込めるようにして頂いたもの。目が見えんでも、耳が聞こえんでも、文字を理解出来んでも、何の差別も無いのでございます。

> 人によって教えが様々に聞こえてしまい、フラフラ・ぐらぐらのこころで、
> とてもこの人と決まりがつくような心を持っていないようです。

己の心が金剛になるのだと思われるのなら、それはもう真宗ではございません。我等は罪深き存在故に、正しいものを見分けることも出来ず、正しい事を聞き分けることもできません。煩悩の雲は厚く覆っております故に。金剛の所以は「信の体が南无阿弥陀仏」であるからなのでございます。お忘れなきように。

何度も申し上げますが、救われた思いなどは後念であり一念ではないのです。

口伝鈔を引きます。
『多念も一念も、ともに本願の文なり。いわゆる「上尽一形」・「下至一念」と等、釈せらる。これその文なり。しかれども、下至一念は、本願をたもつ往生決定の時剋なり。上尽一形は、往生即得のうえの、仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念も、ともに往生のための正因たるようにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。さればいくたびも、先達よりうけたまわり、つたえしがごとくに、他力の信をば、一念に即得往生ととりさだめて、そのとき、いのちおわらざらん機は、いのちあらんほどは、念仏すべし。これすなわち、上尽一形の釈にかなえり。しかるに、世の人つねにおもえらく、上尽一形の多念も、宗の本意とおもいて、それにかなわざらん機の、すてがてらの一念とこころうるか。これすでに、弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆえは、如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって、本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。そのゆえは、願成就の文には「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」(大経)ととき、おなじき『経』の流通には、「其有得聞彼仏名号 歓喜踊躍乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足無上功徳」とも、弥勒に付属したまえり。しかのみならず、光明寺の御釈には、「爾時聞一念 皆当得生彼」(往生礼讃)とら、みえたり。これらの文証、みな無常の根機を本とするゆえに、一念をもって往生治定の時剋とさだめて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理をあかせり。されば、平生のとき、一念往生治定のうえの仏恩報謝の多念の称名とならうところ、文証・道理顕然なり。もし、多念をもって、本願としたまわば、多念のきわまり、いずれのときとさだむべきぞや。』

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 符合
記事No : 4658 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/08(Fri) 23:00
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。
多忙で書き込み遅れました。御容赦を。

> 宿善→ここには出ていないが、『大経』の中に「若人無善本、不得文此経」とあるので善本と宿善は同じ意味で、この場(諸仏如来が名号を讃嘆する場)には無宿善の機は居ないはず。

確かにおりません。何故そうなのかはあなた様が宿善の機であればお分かりになる時もあるかと思います。

> 善知識→諸仏如来
>
> 光明→これだけはいくら考えても分らなかった。
>
> 信心→信心歓喜乃至一念
>
> 名号→聞其名号(其の文字についての解釈はNo.4644を参照)

頑張りましたね。
しかしながら、ちょっと異なっております。

例えば、それを知ったからとて往生の一段では何の意味もないのでございます。あなた様の御心の奥底には聖教の真意を心得られた。という思いが潜んでおるはず。それは、それ自体を往生の因としたい凡夫の自性とでも言えましょう。そんな状態にある時、あなた様の御心はどの方角を向いておいででしょうか?ちょっとお考え下さいませ。

次第相承の善知識とうるさく言いますので、御縁あって拝読されておる方の中には、善知識が信心を授けるんだろう?秘事法門だろう?と思われる方もおられるでしょう。残念ながら次第相承の善知識は聖教に記されるとおり、弥陀に帰命せよと行者に勧めるばかりでございます。信は弥陀より賜るもの。往生は弥陀によって治定されるのです。お忘れなきように。

以前、愚尼様が別のHNの時に、「称」の字についての書き込みをされておられました。真宗ではこの「称」の字に深い意味があるのです。ただ口で称えるだけの念仏にあらずであり、「称」には「ハカル」「カナウ」「トナエル」の意がございます。

『「称」は、御なをとなうるとなり。また、称は、はかりというこころなり。はかりというは、物のほどを定むることなり。名号を称すること、十声、一声、聞く人、疑ふこころ、一念もなければ、実報土へうまると申す意なり。』一念多念文意

極めて大事なことであります。往相を探されるために覚えておいて下さい。

蓮師は改悔文(領解文)で安心の大事を短く分かり易く説かれております。信を獲たらば鮮やかに浮かび上がる名文でございます。この文と割符を合わすこと肝要です。次第相承の善知識に逢い、六字の謂れを「領解」すれば分かるようになるのです。「難信」故に、僅か一握りの方が信を頂いて報土に行かれたのではなく、たくさんの先達が信を獲られた故に、蓮師は「領解」できた者に対しては後念相続のために。信前の者には道しるべに残されたもの。どうぞ疎かになさらぬように。

『もろもろの雑行・雑修、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定と存じ、このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候う。このうえはさだめおかせらるる御掟、一期をかぎり守りもうすべく候う。』

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 符合
記事No : 4661 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/10(Sun) 00:33
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。

> 確かに私には聖教を覚えたことを往生の因にしたいという思いが潜んでいます。上手いことを言って人に誉められたいという思いも。これが自力の根っ子ものなのでしょうか?

いいえ。そのような己を知ったからとて、どうにもならんのです。そうか!!と知った時、これを捨てに掛かります。これすら自力でございます。何を成しても末通らんのです。凡夫は一面全て自力でございます。自力の根本は「無明業障の恐ろしき病」なのでございます。

南无は帰命であり、この南无は廻向されるのでございます。信の体は名号でございます。四帖目十一通で「南无阿弥陀仏の体は我等凡夫の後生たすけたまえとたのみ申すこころなり。」と申されております。以前も申しましたが、家に帰ってお内佛に向かって御助け下さいと申してもこれは自力なのでございます。故に、弥陀に帰命(南无)せよと勧める次第相承の善知識に逢わねばならんのです。

『南无阿弥陀仏と申すは、いかなる心にて候うや。しかれば、何と弥陀をたのみて、報土往生をばとぐべく候うやらん。これを心得べきようは、まず「南无阿弥陀仏」の六字のすがたをよくよく心得わけて、弥陀をばたのむべし。そもそも、南无阿弥陀仏の体は、すなわちわれら衆生の、後生たすけたまえとたのみもうすこころなり。すなわちたのむ衆生を、阿弥陀如来のよくしろしめして、すでに無上大利の功徳をあたえましますなり。これを衆生に回向したまえるといえるはこのこころなり。されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまう法なるがゆえに、これを機法一体の南无阿弥陀仏といえるはこのこころなり。これすなわちわれらが往生のさだまりたる、他力の信心なりとは、こころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』四帖目十一通

信は獲やすきもの。あくまでも「凡夫直入」なのでございます。あなた様が尊くなったり、人間変わったようになることではありません。お忘れなきよう。

南无阿弥陀仏


「疑情ではなく疑問」での疑問

タイトル : Re: 「疑情ではなく疑問」での疑問
記事No : 4666 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/15(Fri) 22:28
投稿者 : 泥凡夫



頭痛のタネ 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

> 私は「赤子の獲信」はないと思います。
> それでは赤子が不幸にも生後直後(あるいはお腹の中で)亡くなってしまった場合は,「赤子はご浄土に行けないのか?」という疑問が生じるでしょう。
> この点については,阿弥陀仏様は一切の衆生を老若男女の区別く救われることを誓われているので,赤子も同様に救われるものと思います。

『弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。』歎異抄

とございますとおり、本願には老少善悪の人を選ばず。但し、信心を必要とするとございます。御本願に逢い奉らねば、往生は不可でございます。

> しかし,私が思うに,御本願は,あくまで赤子を相手に述べられたものではなく,少なくとも聞いている側が表面的にでも理解できることを前提として,これらの人々に「これを聞いたあなたたちが信じれば,皆救います」と説かれたものだと思います。

それを無帰命安心と申します。

> なので,少なくとも現実的には御本願や御名号の存在を知ることは不可能と思われる赤子を対象とした本願は説かれていないのだと思います。

過去何度も申しましたが、信を獲るとはどういうことかを蓮師がこの一文で申されております。正信を獲れば鮮やかに浮かびあがる名文でございます。『信心獲得すというは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは南无阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。』5−5

> 往相・還相・善智識のこと:
> 泥凡夫様は,信心獲得には「往相」の方に引かれて「還相」即ち(?)「次第相承の善智識」による「口決面授」が必要と書かれていますが,これは「絶対条件」なのでしょうか?

申し訳ありません。私の文章が悪かったでしょうか。もう一度拝読して頂けますか。
「口決面授」は次第相承の善知識が代々受け継いできておる教えのことです。

> 自力での信心獲得はないのは理解していますが,往相・還相に無関係にご縁により浄土教に無関係の方に導かれて真宗の教えに触れ,様々な本を読むなどすることにより信心獲得することはありえないのでしょうか?(この場合は,「次第相承の善智識」の方々の書いた本も含みます)

それで信を獲れると思われるのなら一生懸命やってみることです。

> 泥凡夫様
> 「宿善・無宿善」について,蓮如上人が仰っているのは,その時代の事情によるためで,現代では必ずしも当てはまらないのでは?

とんでもないことです。当流には宿善・無宿善の沙汰を無視するなど論外の次第です。

> 当時は,情報伝達手段も限られていたため,異安心が起こりやすかったり,異安心どころか,逆に真宗を非難のみならず物理的に攻撃することが容易に有り得たり,政治権力に握りつぶされ得る時代背景があったため,このようなことを仰ったのではないでしょうか?

安心の要が伝わらんから、そのようなことを申すのです。
あくまでも宿善・無宿善はあなた様を問うておられるのです。お忘れなく。

> 「何でもかんでも開けておるなど真宗ではありません」とありますが,開けているのが阿弥陀仏様の御本願・御名号=真宗ではないでしょうか?(上記「宿善」の私の理解に加え,抑止門は,制限しているのではなく,文字通り「抑止」なので,開けていると思うのですが。)

そう思うなら、そう教えられておる場所があなた様の有縁の場所でございます。

> 獲信の時:(質問ではなく,私の思うところです)
> 「獲信の時」を実感する瞬間は無いのだろうな,と思っています。
> 知らないうちに信決定していて,ある日,ふと「おれって,信心獲得している!?」と気付くのかもしれないし,永遠に気付くことは無いかもしれない,と思っています。

たのむ一念の時というものがなければ、いたずら事でございます。

> 念仏者の生活:(同上)
> まだまだ未決定の私ですが,念仏者として,いつも阿弥陀仏様の光明に照らされていることを感じながら,悪いことをしてしまった時には反省をし,良いことをした時にも誇らず・満足せず・見返りを求めず阿弥陀仏様のお陰ですと感謝し,毎日を精一杯生きていくことが大事かなと思っています。(「いつも」「毎日を」と書いていますが,泥凡夫様のおっしゃるとおり,ダメダメ人間の私はよく忘れてしまいます)
> 御浄土に生まれることができれば,とは思いますが,できなくても死ぬ間際に「南無阿弥陀仏」と思いながら死ねれば理想かな。(ダメダメ人間の私には無理かもしれませんが)

雑業・雑修・自力の心を抱えたまま、往生を願うのですか?
それでは浄土宗になります。臨終業成です。当流は平生業成でございます。

厳しくなりましたが、どうか御容赦を。
あなた様にも一言だけ。有縁の道がその人の道でございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 「疑情ではなく疑問」での疑問
記事No : 4668 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/18(Mon) 21:39
投稿者 : 泥凡夫



頭痛のタネ 様

こんばんは。
まず最初に2点。ご病気の時はお医者様をたよりになさいませ。
真宗は病気が治ったり、お金持ちになれたりする教えではございませんので。

> この掲示板は,私のような初心者向けの相談板でないことは承知しておりますが,

初心者や上級者などという概念すら真宗にはございません。出家・在家の別もなく、老少男女貴賎も問われませぬ。聖教にどれほど通じようが、説法どれだけ上手になろうが、それは往生の因にはならんのです。真宗は「たのむ一念の時」が要です。

> 説書を読んでみて「これぞ自分のための教えだ!」と感じ,日々のお勤めも嬉しいという
> か,楽しいというか,とにかくお勤めしたい,という気持ちにもなり,どっぷり真宗には
> まってしまいました。

御縁無くば、そんな心すら湧きませぬ。それは己が思ったにあらず。弥陀の永い永い間の御養育の結果、今生、そのように思えるようにして頂いたもの。

> 大経等を読んでいるうちに,「いろいろな欲があるから,怒ったり,悩んだりしてしまう
> んだな」と思い,「誇らず・満足せず・見返りを求めず」が今の自分には必要かなと思っ
> ていました。

真宗は己が尊くなる教えではないのです。聖教を拝読し、説法聞けば、何が見えるか。尊い教えとは正反対に生きておる己を知るのです。知ったからとて、それを直そうだとか色々やるでしょうが、何の意味もない事をいずれ知る事となるでしょう。凡夫は何を成そうと末通らず、何を成しても自力の世界でございます。「雑業・雑修・自力の心振り捨てて」とございますが、己で捨てたら三悪道に逆戻りでございます。

> ちなみに,「往相」「還相」の方を探すことは「自力の心」にはならないのでしょうか?

信を獲るまでは何を成しても全て自力でございます。自力故に何もしてはならんのではないのです。蓮師は故に、身分の上下を問わず往生の道を尋ねよ。と申されておるのです。仏法は知りそうもない人が知っておるものです。それは何故か。抑止があるからでございます。何でもかんでも全て開けておるなど、真宗の「定めおかせらるる御掟」を知らぬか無視しておる証拠。

南无阿弥陀仏の六字は誰のために御用意されたものか。あなた様のためでございます。
お忘れなきように。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 「疑情ではなく疑問」での疑問
記事No : 4672 [関連記事]
投稿日 : 2006/12/20(Wed) 20:50
投稿者 : 泥凡夫



頭痛のタネ 様

こんばんは。

一生懸命なお姿、尊きことでございます。

> 阿弥陀仏様も18願をはじめとするご本願も素直に信じることができていたのですが,また,今も阿弥陀仏様に全てお任せの気持ちなのですが,改めて「たのむ一念のとき」「後生の一大事」の言葉を考えると,これらの片方あるいは両者の意識・気持ちが欠けていることがわかります。
> 五重の義にも合致しませんし。(実は御文は,勤行集にのっているようなメジャー(?)なもの以外はまだ読んだことがないので割符の合せようもありません)

弥陀にお任せする御心、次第相承の善知識に逢い奉れば、あなた様の宿善は開発の時を迎えます。聖教に精通ぜずとも、説法できずとも、「南」とも「无」とも言えずとも平等に救われる尊い道でございます。

御文はお求めになる際にはどなたかの解釈(げしゃく)の入ったものではなく、原文をお求めになられませ。カタカナをひらがなに直したものは拝読しやすいと思います。

四帖目十三通を引きます。
『そもそも、人間界の老少不定のことをおもうにつけても、いかなるやまいをうけてか死せんや。かかる世のなかの風情なれば、いかにも一日も片時も、いそぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、そののち、人間のありさまにまかせて世をすごすべきこと肝要なりと、みなみなこころうべし。このおもむきを心中におもいいれて、一念に弥陀をたのむこころを、ふかくおこすべきものなり。』

南无阿弥陀仏


疑情とは

タイトル : Re: 疑情とは
記事No : 4688 [関連記事]
投稿日 : 2007/01/12(Fri) 19:46
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。
新年の挨拶遅れまして申し訳ございませんでした。

> 今年は、他に対しての疑問ではなく、自己が抱えている疑情という事柄に焦点を絞って、そうかといって、深刻にならずに、浄土真宗を考えていきたいと考えています。

深刻にならずにお求めになることは大事でございます。
ただし、真剣ではあって下さい。

己の疑情に的を絞られるとのこと。己を見つめることは結構なことでございますが、私が常に言っておったことをもう一度だけ申しておきましょう。己の自力の心を見つめて、あれが悪い。これが悪い。と分かったところでそれ自体はどうにもならんことなのです。なるようなら本願は必要ございません。ならんままに本願は名乗るのです。

聖教もしかり、己の悪しかり、本願疑惑しかり、知ったところで堕ちます。知らんでも堕ちます。結局、知っても知らんでも堕ちます。当流は信心正因でございます故に。
うんざりするかも知れませんが、当流の信心は「南无阿弥陀仏」の六字が体でございます。これ以外は信とは申しませんし、往生の因にはならんのです。また、他力念仏において、南无阿弥陀仏と称える念仏は御恩報謝であると決まっております。真宗は信が先なのでございます。

謗法の者様との親鸞会様についての議論でございますが、私が何度も申すとおり、正邪など問うても浅ましい次第なのでございます。親鸞会様は本山を異安心であると申し、本山は親鸞会様を異安心と申す。また、光明秘事、かくし念仏、三業安心・・・どれらも我等が正意であると主張されておられるのです。故に、御縁あった道がその人の道であるとずっと申して参りました。そもそも、縁あった道を歩む方はそれが御縁なのであって、云々言うても仕方のない事。それはその人の問題であって御自分の問題ではないのでございます。

去年は善知識のお話に話題が動きましたが、よく言われる「善知識だのみ」の状態にある時、その集団はその善知識を失った時に衰退・破綻してゆくもの。真宗においてたのみにするは弥陀であり、往生を定めたもうのも弥陀でございます。本山は十劫安心を説いておると親鸞会様では仰るとか。定かな話ではありませんので何とも申し上げられませんが。恐らくこれは正定聚と滅度の二益を取り違えなされておるのではないでしょうか。この世において佛になることは叶いません。臨終の一念を待たねばならんのですから。

みちくさ様はとにかく何も計らわず、己の縁有った道をひたすら進んでみることが大事でありましょう。あれこれ計らったところで何も獲るもなどありはしません。あなた様はあなた様が歩くべく定まった道がございます故に。

蓮師の御文は我等が往生の鏡であると御縁あって書き込みしておる次第でございますが、御縁あらば、何度も何度も眼を皿にして拝読されることをお勧め致します。

『「御文」のこと、聖教はよみちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり、「御文」はよみちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。』聞書

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 疑情とは
記事No : 4700 [関連記事]
投稿日 : 2007/01/20(Sat) 01:43
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

お疲れとのこと、何故疲れるのか私には分かりますが、今のところそれを申したところであなた様には聞き入れて頂けぬと思いますので仔細は申し上げません。

御開山の教行信証を拝読されたとのこと。誠に尊いことでございます。

> 私は往相と還相というのは阿弥陀如来の作用のことかと類推していたのですが、

弥陀の作用と申すは些かお言葉が過ぎます。
往相・還相の廻向は「弥陀の本願力」によるものに間違いはございません。
あなた様は己の智慧を持って合点行かねば進まれんようでございますが、
真宗において何が大事であるのかを忘れてはおりませんか?

あなた様は弥陀を差し置いて、御自身を差し置いて、別世界のことのように智慧を巡らせておられます。残念でございますが、凡夫の智慧で不可称・不可説・不可思議の弥陀の誓願を計ること叶いません。

> ところで、やはり、高森顕徹さんご自身の体験はインチキだとは思いません。

これは少なくても、私の沙汰の及ぶものではございません。経済活動云々も私の関知する事でもございませんし、良し悪しも知りません。

ただ、当流の信は南无阿弥陀仏の六字以外にはございません。
ただそれだけであり、それが全てでございます。

> 余談ですが、一番真実から遠いのは主として、次のような会話が行われているお寺関係の内側ではないでしょうか。

仰ること誠にもってその通りでございます。ただ、これは今に始まったことではないのです。形は異なれども、同じような事が蓮師の時代から既にあったのでございます。それを正して行くという意気込みは結構なことでございますが、直るものであるのなら遥か昔に直っておったはずなのです。

そもそも、念仏広まるも広まらんもこれ弥陀のお計らいによるもの。
宿善無き者にいくら言って聞かせても、かえって誹謗を成すのが現実でございます。

当流の信は六字が体でございまして、御恩報謝の念仏も六字でございます。
称えるための六字でもなければ、拝むための六字でもございません。
当流は「弥陀をたのむが念仏」でございます故に、「第十八の願を心得る、南无阿弥陀仏のすがたを心得る」ことが信であり、念仏でございます。

このあたりを蓮師は何度も繰り返し申されておりますが、ややもすると、己一人だけで悟り顔にならんとも限らんのです。故に、必ず善知識に逢って六字の謂れを聞き開けと申されて注意されておられるのです。何度も申しますが、己で浄土に行けると思われるのなら御自由に行かれるが宜しいのです。

願も行も全て「南无阿弥陀仏」に修めてあり、行者はこれを丸もらいするだけなのです。何を頂くか。「南无阿弥陀仏」を頂くのです。それ以外何もございません。私も「南无阿弥陀仏」を頂き、「南无阿弥陀仏」と報謝申す者であり、弥陀に往生を定めて頂いたことをただ信じてゆく以外、仔細はございません。

お疲れではありましょうが、あれこれ計らう御心を主にせず、有縁の道を歩んでみること肝要であると思います。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情とは
記事No : 4702 [関連記事]
投稿日 : 2007/01/20(Sat) 15:19
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんにちは。

仰りたいことは重々承知しております。
しかしながら、それを云々言った所で、信じておられる方々からすれば、何を血迷ったことを言っておるのか。と罵倒されて終わります。

有縁の道とはあくまでも我が機につく宿縁をもとに導かれるものであり、あれこれ計らったところでどうにもならんものであるという意味なのでございます。
みちくさ様が高森先生を師と仰ぎ進まれるのならば、それがみちくさ様の有縁の道。ただそれだけでございます。

> 普通に読んでいる人は、気付くと思うのです。

残念ですが、宿善の者で無ければ気が付くことはございません。

私は、真宗の要は「南无阿弥陀仏」の六字以外にはないのだと、ただそれだけを長々と言っておっただけなのです。

あなた様はそれを領解されたのであり、それを皆に伝えてゆくことと、他者を批判し正してゆくこととは別物なのでございます。真宗は強制されて聞くものでもなければ、お金を差し上げねば聞かれんものでもございません。あくまでも縁ある方にお伝え申し上げてゆくこと肝要かと思います。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 疑情とは
記事No : 4707 [関連記事]
投稿日 : 2007/01/22(Mon) 23:23
投稿者 : 泥凡夫



頭痛のタネ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

みちくさ様へのメッセージでございますが、一部問い掛けられておられるように感じましたので横レス御容赦下さい。

> 私は私なりにこの半年間でいろいろな経験をし,深く悩んできて,未だこの悩みから完全に脱したとは言えない状態で,だからこそ,みちくさ様のお姿が胸に突き刺さってきます。

深くお悩みの御様子。
己で解決できるのならば、何度も申し上げますが弥陀の本願は必要ございません。

聖教も一生懸命御拝読の御様子。誠に尊いことでございますが、当流では知った読んだは一大事の解決にはなりませぬ。お忘れなきように。例え、ゆく文字を読めん者であっても往生できるのが十八願でございます。

> 親鸞聖人が「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を好まれたことなどにも割符が合うのでしょう。

九字、十字の名号には深い謂れがございます。

> また,ちょっと趣旨が違うのかもしれませんが,御本願48願全てに対しても割符が合うのだと思います。
> 未信心の身で信心決定しておられる皆様の感じ方をあれこれ想像しても,詮無いこととお叱りを受けそうですが,恐らく未信心の者の48願の捉え方と,信心決定の方々の捉え方はまた違うものなのだと思います。

申し訳ございませんが、信は何か特別な状態になるのだとか思われるのなら、正信から遠のきます。私は私のまま、そのままで何も変わっておりません。何度も申しますが、人は己の何かが変わらんと信じないものなのです。それは、光明が拝めるだとか、佛が拝めるだとかと言った神秘的な体験を求めるものと何も変わらんのです。

当流の信の体は「南无阿弥陀仏」でございます。これ以外はございません。

> 今は,あることに気がついて(気がつかされて),「南无阿弥陀仏のすがた」,御本願,御文,教行信証等々が全てがスーっと頭に入る状態です。(これが割符が合う状態なのでしょうか)
> 泥凡夫様の「願も行も全て「南无阿弥陀仏」に修めてあり、行者はこれを丸もらいするだけ」の意味も分かります。

申し訳ございません。かつて、謗法の者様もそのように申されたことがあったのです。残念でございますが、己で知った分かったとやりましても、次第相承の善知識に逢って六字の謂れを聞き開かねば往生は不定でございます。「五重の義」成就せねばいたずらごとでございます。

> 泥凡夫様や謗法の者様のような信心の安定感がないことを自分で感じるのです。

信心を安定感とお感じになりますか。金剛心と言われる故にそう感じられますか。それでは詰まる所、己の心が金剛になるのだと解釈されておるとしか言えんのです。では何故、金剛心だと思いますか?それは信心の体が「南无阿弥陀仏」であるからなのです。私は己の心など用事はございません。起こる煩悩の中から出てくる御恩報謝の念仏を有難く尊く思っております。

> 信決定した上であれば,教学上の疑問や阿弥陀仏様がどこから呼びかけてくださっているか,全てが分かってくるのだと思います。

信決定は教学を知る手立てではございません。全ての聖教はただ「南无阿弥陀仏」を信じさせるための方便でございます故に。

南无阿弥陀仏


ジャンヌ掲示板永遠あれ

タイトル : Re: ジャンヌ掲示板永遠あれ
記事No : 4873 [関連記事]
投稿日 : 2007/03/25(Sun) 01:07
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。お元気そうですね。
横レスすいません。

> 私は「無の見」の傾向が圧倒的に強かったのですが、仏教に出会って、「有無の見」という言葉や「阿頼耶識」という言葉を聞いた時、なぜかひかれるものを感じました。
>
> 「無の見」のまま生きていると、何もかもが無意味に思えてきて、人生がつまらないと感じたからかもしれません。
>
> しかしながら、後生があり、それが大事なんですよ、と断定的に云われると、それもこの世を捨ててしまった人の云う言葉のように聞こえて、仮に後生があったとしても、今、生きているうちが大事なんじゃないですか、と抵抗する自分がいました。

素直なお心、よくお考えが伝わります。
私も、かつてそのように考えておったこともございました。何だか世捨て人になるのではないか?努力もせずに人生諦めておるのではないか?と。今生きることの方が重要であろうと。

まあ、凡夫でございますので、皆同じであると私は思います。
ただ、そのように思われようが思わないでいようが、十八願は平等に与えられるのでございます。頂いたお方は世界がひっくり返るかと申せば、返らんのです。ありのまま、そのままでよいという世界は逆に人間を歩ませてくれる力になるのかもしれません。

この掲示板ですら、親鸞会様や本山様や私のような者など様々なお考えが交錯しております。それは真宗の現在の状況の縮図であり、否定しようのない事実でもございます。故に凡夫は間違いがあってはならんと正邪を見極めようと致します。言葉は悪いのですが、やってみれば宜しいのです。とことんまで。すると何が分かるのか私は知っておりますが、言っても詮なきことゆえ皆々様にお任せでございます。

ただ、はっきりしておることは、何度もうるさく申し上げますが当流の信は「南无阿弥陀仏が体」でございます。故に、信じた・分かった・救われた・喜ぶ心・畜生魚類まで己を仏道に入らせる縁となった・生かされておることに感謝、まだまだ様々でございますが、これらを信の体にしては真宗では無くなるのでございます。

南无(帰命)する衆生を救う法でございます故に、自力の捨てようも、十八願の頂きようもきちんと伝わっております。

先般、改邪鈔より引用致しましたが、前半の正意には信心決定するとはどういうことであるのかが記されております。ただ、読んだ、意味が分かったとやりましても意味がございません。

『それ本願の三信心と云うは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまうには、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」とらとけり。この文について、凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもって往生決得すと云うは、すなわち摂取不捨のときなり。もし『観経義』によらば、「安心定得」といえる御釈、これなり。また『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。ここをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって御門弟のしるしとす。』

自力の三信を翻し、他力の三信になるとは何か。十八願成就文の『聞其名号 信心歓喜 乃至一念』とはどういうことであるのか。また、行者の信決定は『乃至一念発起の時分』であると説かれております。これは御文1−4にて同様に蓮師が善導大師の釈を引かれ説かれております。

『されば善導和尚の「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と釈せり。「下至一念」といふは信心決定のすがたなり、「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。これをもつてよくよくこころえらるべきものなり。』

「下至一念」は信決定のすがたなり。と申されております。これらを知るを持って一流安心の御同行であると。それは学問でこういった意味であると解釈して分かるものではないのでございます。聖教のゆく字も読めぬ御老体であろうと、正信を頂けばそういうことであるのだとお分かりになるものでございます。

また『『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。』とも書かれております。よく御存じの阿弥陀経の一節でございますね。顕義では自力であり、隠義では十八願他力を述べられておるのでございます。

あなた様とここで知り合いまして一年以上経過致しますが、変わらずお求めの御姿勢は御立派であると私は思っております。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: ジャンヌ掲示板永遠あれ
記事No : 4895 [関連記事]
投稿日 : 2007/03/28(Wed) 21:36
投稿者 : 泥凡夫



真実信 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

親鸞会様では破邪顕正をそれほど大事にされておるのでしょうか?
私思いますに、当流で一番大事であるのは信なのではないかと思います。破邪顕正を成すことで、信決定できるかと申せば、それは自力作善の方々のお考えであると私は思います。

破邪顕正自体を否定致すことは致しませぬ。あなた様もよく御存じのことと思いますが、聖教にもございます故に。ただ、当流において破邪顕正ということを先に致しますと、己の道も誤りかねんのでございます。

他者を正すということは、そもそも己が正義であるという前提が必要でございまして、
聖教を本にすれば、ある程度の正邪は正せるものかとも思いますが、おおよそ当流の過去・現在、そして未来も議論の中心は信一念になることは明白でございます。しかしながら、こればかりは凡夫の計らう場所にございません故に、御縁あった道を信じて進むほか無いのでございます。

例えば、二種深信のお話になりますと、己の機を深く見つめて(見つめさせて頂いて)、それに徹することが機の深信であるかと申せば、それは単なる二種のお話でしかありません。己で深めたつもりでも、あくまでも凡夫の自力の心でございます故に、あらゆる人々で深さに差が出るのでございます。あの人は深い。私は浅い。深い・浅いと言われてもどの程度の差があるのかさえ知る智慧は私共には備わっておらんのです。

1年ほど前に書いた記憶がございますが、己の機を深く見つめた先には何が見えるか。正法誹謗が見えるのです。救われざる極悪最下の己が見えるのです。しかしながら、それは既に我らが永い間流転してきた哀れな凡夫であるのだと「南无阿弥陀仏」に証されておること。故にそんな我らを救う法を御用意下さったのではありませんか。

二種深信は弥陀より賜るもの。信一念に具足するもの。あなた様はあなた様の機を深く見つめられるかも知れませんが、それには智恵才覚が必要なのです。現実問題、ボケたら無理でございますし、幼児はアイデンティティも確立しておらんのに不可能なお話でございます。そういったことで二種が立ったと見ること自体、凡夫の計らいでしかないのです。

そもそも、己がどのような存在であるのかとお分かりになられるのであれば、他者の信を云々言う前に、己の信こそ問わねばなりますまい。当流は信が先でございます故に、それから他者の手を引くことをなさるが宜しいかと思います。

おかしなことを言う者とお笑い頂いても結構でございますが、あなた様にとって恐らく有益であろうと愚考した次第でございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: ジャンヌ掲示板永遠あれ
記事No : 4900 [関連記事]
投稿日 : 2007/03/30(Fri) 23:15
投稿者 : 泥凡夫



死ぬ前に獲信したい 様

こんばんは。

> この「信一念に具足」ということをいただきまして、少し、理解(というか、想像かもしれませんが)が進展した気が致しますので、お尋ねしたいと思いました。
>
> 私も、どうしても、「2種のお話」という考えから抜けられなかったと思います。
>
> それは、「まず、己の機を見つめて、自己の罪深さを知り、その自覚によって、『自力かなわず』と徹底的にわかったときに、他力の世界が開ける」というようなストーリーを、真宗の内外を問わず、お聴きしてきたからです。このストーリーが、先入観になっているために、わからなかったのです。(つまり、それ以外が、私の想像力の範疇に無かったのです。)

機を見れば地獄、法を見れば必ず救う。
あなた様の御指摘通り、ある手順で己の心を変化させてゆく(この場合、変化させて頂いたと思い込む)というのであるのなら、御開山も蓮師もそのように仰ることでしょう。また、そういったことであるのなら別に真宗でなくてもどの宗教でも起こりうることなのでございます。宗教と言わず、心理学の手法や洗脳でも可能でしょう。しかしながら、真宗はたのむ一念というものがありまして、それは己で深信を覚知せなばならぬ、その手順を踏み、一念に到達する。というものではないのです。それでは口では全ての人が救われると申しながら、その実、難行を強いておるのと何等変わらんのです。何故難行か?簡単です。智慧が必要であるからです。凡夫の智慧は個々人でマチマチでございます。故に深くもなれば浅くもある。深いようで浅いのでございます。それなら、むしろ滝に打たれる行の方が容易かもしれません。

> これは、極楽往生の因を作る方法ではなく、「晴れ上がる」「救われた」という境地、すなわち、己の実感という果を得るための因を作る方法になると思います。

そのとおり。それは往生の因ではなく、南无阿弥陀仏が信の体にもなっておらんのです。簡単に申せば、佛智を疑っておるからそうなるのでございます。とんでもない!!疑いなど何処にもないわい!!とお叱りを受けそうでございますが、そのお方が無いと思われても、そもそも、そのような状態を期待し、ああ。ありがたい。と申されても、一見殊勝であるように見えながら、他力の言葉に酔っておるとしか言えんのです。ひいては、御開山を褒めておるようであって、実は貶しておるのと何等変わらんのです。

後念のお喜びとしての二種のお話はそれは誠に良いことであると思いますが、それをもって一念と致しましたら、真宗ではなくなるのでございます。「喜べ・助ける」ではなく、「たのむ・助ける」でございます故に。

> おそらく、ここでいう「2種のお話」というのは、「自ら思い込んだもの」つまり、「機の深信を得た」という思い込み、と、「法の深信を得た」という思い込みを得るだけで、そこには5重の義の成就がなく、信一念ではない。たとえて言うならば、繰り返し得られるところの小悟(大悟と言っても構いません。「大悟徹底」という用語もあるくらいです)の体験に過ぎない、というようなことなのではないかと思いました。

五重の義を蓮師がわざわざお立てになられたのは何故であるのか。また、五重の義が成就するとはどういうことであるのか、一念帰命すればお分かりになります。

改悔文にございます。あまりに簡単な文でございますので疎かにしがちでございますが、蓮師の金言であり、安心の要を短く、かつ要点を捉えてお書き残し頂いた名文でございます。御開山の思いを我ら凡夫に分かり易く、かつ誤りなきようにお伝えされたものでございます。

『もろもろの雑行・雑修、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定と存じ、このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候う。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりもうすべく候う。』

『一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」』と『たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定』と存じるのでございます。『この御ことわり』を聞くのでございます。先にも書きましたが、聞くというは耳に聞くだけにあらずでございます。

私などのお話をよくお聞き下さりまして感謝申し上げております。
弥陀はあなた様をお待ちになっております。

南无阿弥陀仏


無宿善

タイトル : Re: 無宿善
記事No : 4711 [関連記事]
投稿日 : 2007/01/23(Tue) 23:17
投稿者 : 泥凡夫



頭痛のタネ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

無宿善ということでお悩みとのこと。
あなた様は「我に宿善なし」とお感じになられておる様子。逆にあなた様があれこれ並べ立てて「我に宿善あり」と申すのなら、残念ですが宿善の機にあらずでございます。

我は仏法に通じておるので必ず宿善があるのだと思われる機があったとしましょう。真剣に真宗を聞き、求めてゆけばその驕慢の鼻はへし折られることでございましょう。人間の実相というものは、どの時代であっても何も変わらんのです。他者のことはよく見えても己のことはまったく見えておらず、我こそ正義の顔で生きておるのです。故に、善であると志しても末通らず、挙げ句には責任の所在は他者にあるのだと非難し、他者の悲しみなど知りもせず生きておるのです。私もその一人でございます。ただの泥の凡夫でございます。

詰まるところ、宿善あるなしを己で計らったところでどうにもならんのです。

> 一つは,次第相承の善知識様を探す・本当の信を求めるにあたり,お不動さんに対する信仰をどうするべきなのか。

不動明王信仰のお話、以前聞いております。
弥陀の本願を求めておりながら不動明王の信仰が捨てられん。そういうことで宜しいですね?真宗には「一向専念無量寿仏」というお言葉がございます。読んで字の如く、弥陀一佛に向けと申されております。信一念におきましては、ニ佛(菩薩)が並び立つことは決してございません。

しかしながら、あなた様はそれを捨てて良いものなのかお悩みの御様子。御開山も蓮師も一切諸仏の総体が「南无阿弥陀仏」であることを教えております。あなた様がお不動様の信仰を縁にして弥陀の本願を求められた経緯は聖教にも記されておる通りのことであり、幾多の方々がそのように聖道をご縁に十八願を頂いてきたのです。あなた様にはあなた様が通るべき道があるのです。

一向専念無量寿仏でありながら、蓮師は諸佛・諸神・諸菩薩を疎かにするな。と申されております。解せないことと思われる方は意外と多いのです。信の御座においては弥陀一佛しかございません。ただ、南无阿弥陀仏の六字にはそれら一切諸仏の願いも全て篭っており、一切諸仏も御自分達をご縁にして、弥陀の本願に導かれておるのでございます。別してたのむことなかれ。ただ疎かにしてはならぬ。そういうことでございます。まだ他にも深い深い謂れがございますが、それはあなた様がご縁を頂いた時にお伺い下さいませ。

『それ諸宗のこころまちまちにして、いずれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もっとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらにうたがいなし。しかるに、末代このごろの衆生は、機根最劣にして、如説に修行せんひとまれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願というは、いまの世において、かかるときの衆生をむねとたすけすくわんがために、五劫があいだこれを思惟し、永劫があいだこれを修行して、造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじとちかごとをたてましまして、その願すでに成就して、阿弥陀とならせたまえるほとけなり。末代いまのときの衆生においては、このほとけの本願にすがりて、弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するということあるべからざるなり。』3-2

『一つには、一切の神明ともうすは、本地は仏菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏菩薩にはすこしちかづきにくくおもうあいだ、神明の方便にかりに神とあらわれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもってたよりとして、ついに仏法にすすめいれんがためなり。これすなわち、「和光同塵は結縁のはじめ、八相成道は利物のおわり」(摩訶止観)といえるはこのこころなり。さればいまの世の衆生、仏法を信じ、念仏をももうさんひとをば、神明はあながちにわが本意とおぼしめすべし。このゆえに、弥陀一仏の悲願に帰すれば、とりわけ神明をあがめず信ぜねども、そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆえなり。
 二つには、諸仏・菩薩ともうすは、神明の本地なれば、いまのときの衆生は、阿弥陀如来を信じ念仏もうせば、一切の諸仏・菩薩は、わが本師阿弥陀如来を信ずるに、そのいわれあるによりて、わが本懐とおぼしめすがゆえに、別して諸仏をとりわき信ぜねども、阿弥陀一仏を信じたてまつるうちに、一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆえに、ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、一切の諸仏の智慧も功徳も、弥陀一体に帰せずということなきいわれなればなりとしるべし。』3-10

> もう一つは,私自身に,後生の一大事という意識が欠けている。
> と言うことです。

以前、みちくさ様にも問いかけたことがございます。後生の一大事が分からんでも救われるか否か。後生の一大事は誰の一大事かと申せば、他ならぬあなた様の一大事。しかしながら、一大事と頭で分かっておっても、一大事にはなっておらん己がおるとも。思うに皆そうなのです。一大事であることは分かっておるのです。故に弥陀の本願を求めておるのでしょう。周囲に真宗の方々が多ければ、中には突出して一大事を語り、また、御自分のことと弁えておる方もおるでしょう。そうすると、その方々と比較して、私はまだまだ足りんとやり出すでしょう?先の一切諸仏のお話も同じ事。あなた様のように以前の信仰があったお方なら、恐らく、弥陀一佛・・弥陀一佛・・と己の心に言い聞かせて。後生の一大事も、一大事だ・・一大事だと。これは、信一念において、つゆちりほどの疑いもあってはならん。と言われておるので、疑わじ・・疑わじ・・とやるのと同じこと。いつまで経っても堂々巡り。

弥陀一佛になれん己。一大事を一大事とも思われん己。疑いあってはならん、と言われても疑いのある己。一切を捨てきれん己。正しいことなど何一つ見えず、素直に聞けん己。南无阿弥陀仏の六字はそれを知らされておるのです。そういった極悪深重の凡夫が弥陀のお救いの目当ての機でございます。お忘れなきよう。

『信心を決定せずは、今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひとも、すみやかに決定のこころをとるべし。人間は不定のさかいなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがうべきものなり。されば当流には、信心のかたをもってさきとせられたる、そのゆえをよくしらずは、いたずらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがうべきなり。それ人間に流布してみなひとのこころえたるとおりは、なにの分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるというも、別のことにはあらず。「南无阿弥陀仏」の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは、『経』にいわく「聞其名号 信心歓喜」といえり。善導のいわく「南无というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀というはすなわちその行」といえり。「南无」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、うたがいなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」という四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなくたすけたまえるいわれが、すなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。されば南无阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいうなり。これすなわち他力の信心をよくこころえたる、念仏の行者とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。』5-11

『当流の安心のおもむきをくわしくしらんとおもわんひとは、あながちに智慧才学もいらず、ただわが身はつみふかき、あさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたまえるほとけは、阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのようもなく、ひとすじにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまいらするおもいをなして、後生たすけたまえとたのみもうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおおきなる光明をはなちて、その光明のなかにそのひとをおさめいれておきたまうべし。さればこのこころを、『経』には「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」とはとかれたりとこころうべし。さては、わが身の、ほとけにならんずることは、なにのわずらいもなし。あら、殊勝の超世の本願や。ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあいたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしきやまいの、なおるということはさらにもってあるべからざるものなり。しかるにこの光明の縁にもよおされて、宿善の機ありて他力信心ということをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさずけましましたる信心とは、やがてあらわにしられたり。かるがゆえに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心ということは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくも、ひとたび他力の信心をえたらんひとは、みな弥陀如来の御恩をおもいはかりて、仏恩報謝のために、つねに称名念仏をもうしたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。』5-12

真宗にご縁ございます方々が周囲に1万人おったとしましょう。多いようで少ないのです。この地球におる人間の数から見ても少ない。まして、三千世界の衆生の数から見れば砂粒ほど。五戒を保った故に人間として生まれさせて頂き、聞けん仏法を聞かせて頂く身であることすら稀の中の稀。我等人間は短命の機でございます故に、明日は生きておるかも知れませんが、来年はおぼつきません。そのような短い命の機を漏らさず、男女老少を問わず、救うが弥陀の本願でございます。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 無宿善
記事No : 4720 [関連記事]
投稿日 : 2007/01/28(Sun) 23:16
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

色々と御自分の御心に問い掛けておられるようでございますね。
問いかけても永遠に答えは出ないとだけ申し上げておきます。
当流は「義なきをもって義とす」でございますゆえに。

> そして、わたしの直感はいまもって、信心というだけに絞っての見方は高森さんも○だし、ジャンヌの往相人の方々も○なんです。お互いにそれは違う、といわれましても・・・むしろ、その憶いが強くなってきているんです。また何かをきっかけにがらっと変わるかもしれませんが・・・

なるほど。
私は明らかな誤りがあることを知っておりますが、
それを言ったところでどうにもならんので申し上げんだけでございます。

本日、愚尼様が改悔文(領解文)を引かれて書かれておりますが、一流安心獲得の行者は蓮師のこの文ですら要が分かるのです。

今日私は改邪鈔から引かせて頂きます。

『それ本願の三信心と云うは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまうには、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」とらとけり。この文について、凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもって往生決得すと云うは、すなわち摂取不捨のときなり。もし『観経義』によらば、「安心定得」といえる御釈、これなり。また『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。ここをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって御門弟のしるしとす。そのほか、かならずしも外相において、一向専修行者のしるしをあらわすべきゆえなし。しかるをいま風聞の説のごとくんば、三経一論について文証をたずねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもって、まず雑行をさきおきて正行を修すべしとすすむと云々 これをもって一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもって正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といえり。正定業たる称名念仏をもって往生浄土の正因とはからいつのるすら、なおもて凡夫自力のくわだてなれば、報土往生かなうべからずと云々 そのゆえは、願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからいをやめて、ただ摂取不捨の大益をあおぐものなり。起行をもって一向専修の名言をたつというとも、他力の安心、決得せずんば、祖師の御己証を相続するにあらざるべし。宿善もし開発の機ならば、いかなる卑劣の輩も願力の信心をたくわえつべし。しるべし。』

非常に大切なことを申されております。
ただ、次第相承の善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開き、たのむ一念無くば勝手な解釈になってしまいます。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 無宿善
記事No : 4726 [関連記事]
投稿日 : 2007/02/01(Thu) 00:15
投稿者 : 泥凡夫



みちくさ 様

こんばんは。

> 私の記憶では、高森さんも、たのむ一念のない行は、『南無阿弥陀仏』と称える念仏も含めてすべて雑行だと教えられていました。

それは教釈によれば自ずと導き出せるもの。しかしながら、聖教を読めぬ者であっても信は獲れると言われる。これも教釈によれば導き出せるもの。「一切衆生」「十方衆生」とは迷える「一切」の「衆生」に救いの「差別」の無いこと。そのあたりに真宗の大事なことがあるのだと思います。確かに真宗はたのむ一念で片が付く御宗旨です。

> しかも、その上で、未信の者に称名念仏を勧めておられました。その理由が私にはわからなかったし、また、雑行だとわかってしまった上での称名念仏を熱心に称えることは砂をかむような感じで、その行いに特別の意味を見出せなかったし、まして、それが宿善を厚くするなんて、どうしても実感として受け止めることはできなかったです。ところが矛盾のようですが、今思うと、馬鹿になって念仏を称えてみようという人のほうが早く救いに逢えそうな気がするのですが・・・

お気持ち分かります。説かれることは教釈に沿っておっても、肝心要が外れておるからそうなるのです。あなた様が気付かれたことは誤りではありません。

御覧のとおり、先に引きました改邪鈔では前半は正意を後半は誤りを正す。といった内容になっております。

『それ本願の三信心と云うは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまうには、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」とらとけり。この文について、凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもって往生決得すと云うは、すなわち摂取不捨のときなり。もし『観経義』によらば、「安心定得」といえる御釈、これなり。また『小経』によらば、「一心不乱」ととける、これなり。しかれば、祖師聖人御相承弘通の一流の肝要、これにあり。ここをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって御門弟のしるしとす。そのほか、かならずしも外相において、一向専修行者のしるしをあらわすべきゆえなし。』正意の前半

『起行の篇をもって、まず雑行をさきおきて正行を修すべしとすすむと云々 これをもって一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもって正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といえり。正定業たる称名念仏をもって往生浄土の正因とはからいつのるすら、なおもて凡夫自力のくわだてなれば、報土往生かなうべからずと云々 そのゆえは、願力の不思議をしらざるによりてなり。』誤りの指摘

第四の「称名念仏」をもって「正定業」とし、往生の「正因」であることは間違いございません。しかし、この「称名念仏」を凡夫が計らい募ることは自力なのです。それは何故であるのかを私は長らく話して参りました。

「称名念仏」とは間違い無く「南无阿弥陀仏」の六字に他なりません。「称名」とは口に称えるだけの念仏にあらず。「称」は「秤」の意もあるのです。はかる・かなう・となえるの意があるのです。凡夫がいくら考えても絶対に分かりません故に、次第相承の善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開けとうるさく申して来た次第でございます。

無宿善も有縁の道も、いずれ南无阿弥陀仏の六字と一つとなることを御開山・蓮師も先達も願っておった故に、導かれるまましかないのだと申して参りました。たまたま正意のお話をしても、「聞き逃す」または「誹謗する」のはいつの時代も同じなのでございます。

南无阿弥陀仏


いただくと言う事

タイトル : Re: いただくと言う事
記事No : 4721 [関連記事]
投稿日 : 2007/01/28(Sun) 23:41
投稿者 : 泥凡夫



愚尼 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
お久しぶりでございます。お元気そうで何よりでございます。

> もろもろの雑業・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候へ」とたのみ申して候。
>
> この2行に、集約されていると思います。

真宗行者にとっては大事な大事なところでございます。
蓮師も御文に同様のことを山と記されておりますが、なかなか納得頂けんところでもあるのでございます。この掲示板は聖教を学ばれた頭の切れるお方がたくさんお出ましになられますので、御理解頂くのは難中の難でございましょう。素直に聞けたことを喜ぶ次第ではございませんか。

> 別に赤子がたのめようが、そんな事も考える必要などふり捨てて、まず、自分が先に救われて、他力の意味が理解できてから、赤子の済度がどうして可能かを考えたほうがいいと思いますが。

まさに、自信教人信でございます。
十方世界の衆生が分け隔てなく平等に救われるお誓いでございますのに、哀れ我等凡夫は今まで聞くこと叶わんばかりに流転して参りました。十劫安心の方々が誤解なさる文ではございますが、尊いことだと喜ばせて頂いております。

『「衆生往生せずは仏にならじ」と、ちかいたまいし法蔵比丘の、十劫にすでに成仏したまえり。仏体よりは、すでに成じたまいたりける往生を、つたなく今日までしらずして、むなしく流転しけるなり。かるがゆえに、『般舟讃』には、「おおきにすべからく慚愧すべし、釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といえり。慚愧の二字をば、天にはじ、人にはず、とも釈し、自にはじ、他にはず、とも釈せり。なにごとをおおきにはずべしというぞというに、弥陀は兆載永劫のあいだ無善の凡夫にかわりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世にいでて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまうを、いままできかざることをはずべし。』安心決定鈔

> 最近この掲示板で思うのは、自分が、崖っぷちでもがいているのに、他人が崖っぷちでもがいているのを笑って見ているように感じます。

そこを通ってみなければ分からん御縁のお方は通る定めでございます。

南无阿弥陀仏

符合2

タイトル : Re: 符合2
記事No : 4734 [関連記事]
投稿日 : 2007/02/10(Sat) 18:32
投稿者 : 泥凡夫



dreamer 様

こんばんは。

いろいろお考えのご様子。
殊勝とは思いますが、当流は信をもって先と致します。お忘れなきように。

> 私は善友様を探す傍ら、この掲示板と聖教とを見比べているということをしております。最近「六字のスガタ」ということが話題に上っているので、思い付きで符合を作ってみました。

私が御縁ございましてうるさく申してきたことを今一度思い返して頂きたいのです。当流の信心とは「名号六字が体」でございます。これは聖教に記されておるとおりのこと。当流の信は南无阿弥陀仏以外は存在せんのです。あなた様が救われたと踊り上がる境地になろうがなるまいが、それは往生の因にはならんのです。ある日突然、救われたと思う境地になっても他力の言葉に酔った単なる自力の信でしかございません。

> カギは「トナウ、ハカル、カナウ」、「見と聞」、「身、口、意の三業」、「六字のスガタ」です。御文を読んでおりますと「スガタを見せぬ」という文がたくさん出て

南无阿弥陀仏の六字のすがたを心得ねば正信とは申せません。三業を論じた場合、一般には三業惑乱を御想像になられるかと思います。身口意の三業を弥陀に振り向けて後生を願うというもの。以前も申しましたが、家に帰ってお内仏に向かって助けたまえと申すことは間違いなく自力でございます。当流における南无(帰命)は廻向されるものなのです。

> 「スガタ」が「見える」ということから「見と聞」ということをまず連想しました。
> 「聞」→仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし(※)→意業

善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開きなさい。

> 口業は何かということを考えていると「トナウ、ハカル、カナウ」の三つの意味に思い当たったというのが下の符合です。

> トナウ ― 口称念仏          口業
>   
> ハカル 聞 そのまま聞(※)       意業
>
> カナウ 見 「六字のスガタ」を「見る」 身業

「称」にはハカル・カナウ・トナエルの意がございます。
どのような秤にかかるのかと申せば、南无阿弥陀仏の秤に乗るのだとしか申しようがございません。行者の自力の秤ではございません。

> 三業ということに関連して御文三帖目七通
>
> >衆生の三業と弥陀の三業と一体になる「ところ」をさして
>

五重の義のお話をさせて頂きましたことがございましたが、五重の義はバラバラに時を隔てて成就するのではございません。

あなた様は聖教にも通じたお方でございますので、あれこれお考えの上に行動されておると存じます。例えば、あの人は救われておる立派なお方だと尊敬遊ばす人がおったとしましょう。あなた様はそのお方のようにならねば・・ならねば・・・とがんばるでしょう?がんばって来たでしょう?そんな状態にある時、あなた様は一体どの方角を向いておいででしょうか?よく御思案下さいませ。

当流は一文不知の尼入道であろうとも、重度障害があろうが赤子であろうが、明日死ぬ患者であろうが何ら差別なく救われる道でございます。南无阿弥陀仏の六字では不足でしょうか?人は南无阿弥陀仏にあれこれ足さねば満足せんようなのです。そして他力の言葉に酔うのです。尊い尊いと口にしながら、御開山や蓮師の思いとは違った道を歩いてしまうのです。

あれこれ計らわずにひたすら弥陀の方向を向いてお求めになられませ。
知った分かったなど往生には何の役にも立ちません故に。

南无阿弥陀仏


後生の一大事について

タイトル : Re: 後生の一大事について
記事No : 4739 [関連記事]
投稿日 : 2007/02/12(Mon) 09:30
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

おはようございます。

> 御文を拝読させて頂きますと、親鸞会で聞いてきたことと「後生の一大事」の解釈は随分違うと思います。
> 私は、親鸞会で長年聞いてきました(実質は、落ちこぼれの求道でしたので、教学等では全く理解していないのかも知れません)が、到底私のような者はこの道進むことは困難と思いましたが、辞める勇気もありませんでした。
> それは、後生に一大事があり、八万劫中、無間地獄に堕ちて苦しむと聞いてきたからです。

なるほど。必堕無間の教えですか。
思いますに、無間に堕ちるか否かを思い計らことはこれ皆、自力作善の方々が考えること。無間であろうが三悪道であろうが天上界であろうが凡夫が思い計らっても致し方ございません。

ただ、我が機を見つめれば、到底佛になる因など何処にもございませんし、日々悪行を積み重ねておる哀れな存在でございます。また、生まれ難い人間として生まれさせて頂いたにもかかわらず、仏法を聞かずに日々過しておる方々など山のようにおられます。今生、聞かねばならん仏法を聞かずに、ややもすれば謗るのが人というもの。それを思えば、抑止文の唯除五逆誹謗正法に必ず引っ掛かると解釈することもできます。

> なぜ、このような質問をさせて頂くかともうしますと、私の歩いてきた道程を、今も苦しんで、後生の一大事が無間地獄に堕ちることと理解している人がいるからです。

これも先と同じこと。無間に堕ちると思い悩んでも致し方ございません。救われる法に逢わんが故に、いつまでもそれに固執するのでしょう。

では逆に、無間に堕ちると自覚せねば助からんのか。ということです。あなた様にはその答えが分る筈ですので、敢えて有縁の方々に問うてみたいのです。聖教に照らしてお考えになって結構ですからやってみては如何でしょうか。

もし、無間を自覚せねば助からんとなれば、残念ながら助からん者が必ずおります。無間というトラウマを植え付けて、それを取り除くというプロセスを踏まねばならんと解釈するならば、仏法は非常に軽々しいものに堕すること必定でございます。己の心や智慧の満足をもって、信決定と誤解が必ず生じましょう。

> 御文には、後生とか後生の一大事と書かれている箇所は11箇所です。
> 私は以前から、全ての人が無間地獄に堕ちるのではないとなんとなく御文を拝読して理解できるようになってきておりますが、
> 泥凡夫様は、この後生の一大事をどのように受け止められておられるのでしょうか?

これも先と同じ。どこにゆくのか思い計らっても致し方ございますまい。詰まる所、そのようなことに囚われておる時に限って、私はこれだけ善い行いをしたので堕ちはせんだろう。とか、真宗の説法聞いてきたのでお慈悲で何とか化土往生できるだろうとか計らうのと違いますか?聞いた者は知って堕ちる。聞かぬ者は知らんで堕ちる。知っても知らんでも皆堕ちる。そういうことです。当流は信心正因でございます故に。

> 後生こそ問題なのだ。地獄行きのこの私を、いかにくいとめて極楽に行けるか、そこが一大事だと。だからこそ片時も急いで、人間界の今、無常の身でありながら、気付いて無量の報土に行くこと。苦のない世界に行きことではないでしょうか?

私が何が言いたかったかといえば、そういうことです。
行き先が分らんのが一大事なのです。無明なのです。我が機を見れば間違いなく地獄。故に、一刻も早く往生できる身になれよと御開山・蓮師は申されておるのです。人は極めて短命の機でございます。明日どころか、夕方の命も保障はございません故に。急げ。急げ。ただそれだけでございます。

南无阿弥陀仏


愚尼さんへ

タイトル : Re: 愚尼さんへ
記事No : 4743 [関連記事]
投稿日 : 2007/02/15(Thu) 18:24
投稿者 : 泥凡夫



死ぬ前に獲信したい 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

> この掲示板を見て、とてもびっくりしています。過去ログを含めると、かなり量がありますので、読むのに数日かかりましたが、愚尼さん(自信教人信さん、一文不知の尼入道さん)、泥凡夫様の書き込みは、すべて拝読致しました。

御苦労様でございました。さぞ分かり難いことであったと思いますが御容赦を。

> 浄土宗の方でも、真宗の法に相当するものを受け継いでいる方がいらっしゃるのでしょうか。)

それは私には分りかねますが、浄土宗様と真宗では考え方がそもそも異なりますので法相続は無いと思います。

> この掲示板を読んで、私が読み取った具体的な実行項目は、
>
> 1 助業としての南無阿弥陀仏を唱える
> 2 身近な人に聞いて行き、往相の方を探す
> 3 御文を100回(を目標として)読む
>
> の3つだと思いました。御文は持っていませんので、おすすめの出版社などがありましたらお教えいただけたらうれしいです。

誤解なきように。真宗は平生の時、次第相承の善知識の言葉の下にタノム一念(帰命)を発得した時を持って信決定と申します。故に、早く次第相承の善知識に逢い奉ること肝要でございます。御文を拝読せねば逢えんのではございませんし、助からんのでもございません。あくまでも信じて進む方には無用のことでございます。納得できねば進まれんのならやってごらんになることです。南无阿弥陀仏は口に称えるだけの念仏にあらず。お忘れなきように。

> また、赤子の獲信について議論がありましたが、宿善を論じ、他力の行であるわけですから、みちくさ様とは異なり、この掲示板をひと通り読んだ私には違和感はありません。(読み始めのときには違和感がありましたが、通読したことにより、論理的にも納得できていると思います。もちろん、未信ですので、この納得は誤解かもしれません。)

真宗にお詳しい方と存じますが違いますか?

> 人に生まれて五戒を破らないことは、ほぼ不可能です。五戒を保てる身体で生まれることができ、やっと人として生まれることができた、ということだと思っています。(理知的な理解であり、体感して体得してわかっていることとは違います。)

五戒を保つことなど凡夫には無理です。愚尼様の御指摘に同じです。

> また、善知識の方に会うにしても、強い恐怖を感じます。これは、一般に流布している、宗教のイメージによるものでしょう。「変なものを信じ込まされたらイヤだ」という思いもあります。

どれだけ思い計っても無駄であるとだけ申し上げておきましょう。あなた様が真剣に弥陀に向いてお求めになるのなら必ず必ず導かれます故に。

> 大切な大切なことですので、選んで選んで選び抜かなければならないはずです。偽物多く、罠も多い。「似て非なる」ということばも聞いて知っています。

お気持ちは分かります。しかしながら、凡夫の身であれが正しい、こちらが正しいと計りましても意味がございません。あなた様にはあなた様の通るべき道がございますし、逢うべき善知識も定まっております故に。弥陀に導かれることを頼りになさいませ。

南无阿弥陀仏



タイトル : Re: 愚尼さんへ
記事No : 4749 [関連記事]
投稿日 : 2007/02/17(Sat) 23:11
投稿者 : 泥凡夫



死ぬ前に獲信したい 様

こんばんは。

一言だけ。

> 阿弥陀様が現に成仏なさっているのであれば、必ず導いてくださることでしょう。何生かかろうとも、導いてくださるはずです。そして、それには五劫はかからないだろうと思います。未だしばらく六道輪廻をつづけるとしても、それすらお導きの中の、道程であるのだと思います。

弥陀成仏より既に十劫の時が過ぎております。釈尊の金言疎かにしてはなりません。今まで聞かなかったことを恥ずべしでございます。また、弥陀の正覚の一念は我らのたのむ一念と同時なのでございます。真宗は「平生業成」の宗旨でございます故に、今生のお救いにあずからねば間に合いません。我は罪深きゆえに間に合わん。救われん。と思う機、定散二善を励むことで往生を目指す機を善導大師は「矜哀定散與逆惡」と嘆かれております。

誰のための本願であるのかお忘れなきよう。あなた様のために用意されておるのです。

南无阿弥陀仏


タイトル : Re: 愚尼さんへ
記事No : 4754 [関連記事]
投稿日 : 2007/02/18(Sun) 13:18
投稿者 : 泥凡夫



死ぬ前に獲信したい 様

こんにちは。
暖かい冬で結構なことでございますね。
二つの御返答を一つにしてお答えさせて下さいませ。

> 「今まで聞かなかった事を恥ずべし」かは、わかりません。「恥ず」ことが、救いの因になると取られかねないお言葉であると存じます。

いいえ。違います。永い永い間、私達は六道をいつ終わるともなく廻り続けてまいりました。今生、聞くことのできる人間に生まれさせて頂き、南无阿弥陀仏の六字を南无とたのみまいらせて、至心信楽とお受けすることで往生は一定でございます。これを聞き分けた上で、今まで聞かなかったことを恥ずべしでございます。

恥ずるとは懺悔の解釈でございますが、ただ恥じただけでは往生の因にはならんのです。そもそも、凡夫は煩悩で眼を遮られておる故に、都合のよいように懺悔するものなのです。懺悔したことを救いの因とされるは自力作善の方々の考え方でございます。それを弥陀に振り向けても自力故にどうにも解決できんのです。

>「平生業成」はわかりますが、それは、「今生のみ」ということでございますか。

その通りでございます。今、生まれ難い人間として生まれさせて頂き、法を聞き求める身にさせて頂いた上には、今生、只今のお救いにあずかること肝要でございます。今生では無理だと思い計らうことすら自力でございます。どんな人であっても分け隔てなく救うが弥陀の本願。他力の中の他力、易行の中の易行。これを二双四重の判釈で御開山は「頓教中の頓」とされました。信一念において、凡夫は何の心の用意もいらんのです。

> 私のための本願であること、重々承知であります。聖道致す事能わず、易行のはずのお念仏でも救いにあずかれず、あれこれ思惟するも自力の枠を出ず、今のところ、聞き難き仏法を聞く事能わずであります。

> しかし、み名もわからず、称するとは何かもわからず、宿善薄きを嘆くべし、聞き難き仏法、聞く事能わず、でございました。

故にそのまま打ち捨てずに、次第相承の善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開かねばならんのです。己だけでは何の解決もできんのです。

真宗の信とは、己が信じた・信じるの心にはあらず。信を獲たとて、凡夫に何も変わりはないのです。臨終の一念までは泥の凡夫のままでございます。あなた様のように様々な宗教に触れられた方から見れば、何と迂遠な教義かと思われるかもしれませんが、当流は「義なきをもって義」とするのであり、凡夫の思いとは関係なしに往生を定めたまうのでございます。ここが「難信」と言われる所以でもございます。

南无阿弥陀仏


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