真実信心を獲信して極楽往生治定したい方、そして、信心決定した方のために

毎日の浄土真宗

泥凡夫様 過去ログ 02

ジャンヌ掲示板過去ログより、泥凡夫様の書き込みをご紹介して参ります。


もしかして

タイトル : Re: もしかして
記事No : 4144 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/01(Wed) 00:43
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。
お疲れのところ、御文の拝読やらネット検索やら大変でございましょう。

> あるホームページがとても気になりました。
> 過去の真宗の謂れもなぜか、私自身の魂の解決の道しるべのようで、その方の書き込みがとても気になります。

ほう。一流の方のHPだと言われるのですね。私はネット検索で探したことはございませんが、あるのなら結構な事でございます。どれだけお話をぼかされても、正信の者は、一流であるか否かは一目で分かります。

> 尋ねていく先に、次第相承の善知識はおられなくても、いくつかのヒントをいただけましたので、今は、ただそこを尋ねるばかりです。

いくつかのヒントなどという曖昧なものは申し上げておりません。私や愚尼様の申し上げたことは、次第相承の善知識を見極めるのに必要な極めて大切なことを申し上げております。

以下は厳しい言い方になりますが、御容赦下さい。

あなた様は「火の中をかき分けても聴け」「上下を問わずに聴け」という意味をどのように捉えておいででしょうか。私には果報を待っている姿勢にしか見えません。どうぞ御心の中をよくよく御覧になって下さい。

私はあなた様の今まで親鸞会様での真剣な聞法精進ぶりを聞かされておりますので、あなた様のお苦しみよくよく分かるつもりでおります。しかし、誰か私を助けて!と、叫んでおられるだけでしかないように思います。それは裏を返せば、親鸞会様と手を切られる恐ろしさ、罪深さを御自分一人で背負うことに躊躇があり、あわよくば、誰か一緒に行きませんか?とも言われておられる。後生の一大事とはそもそも、誰の一大事であるか忘れてはなりません。あなた様の一大事なのでございます。それを忘れると、あれこれ計らったり、秤に掛けたりするものです。

往相と還相に逢わねば後生に明かりは点きません。
私はあなた様が真剣に求められる以上、見放したり致しません。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re^3: もしかして
記事No : 4146 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/01(Wed) 13:05
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

こんにちは。

> 後生の一大事についてですが、今まで死後、地獄に堕ちることと思っておりました。ところが、ある方から極楽へ行くことだといわれ非常に驚き動揺しています。後生の一大事とは一体どういうことなのでしょうか。

後生の一大事とはあなた様御自身の後生が見えない状態、あなた様のHN通りの黒闇の魂の状態を言うのです。これを無明業障の病とも申します。地獄に落ちる、極楽に往生するのどちらでもありません。十八願を疑う、謗る、何としても聴けないがために、過去世どれほど永い間、私たちは流転して来たことでしょう。明日をも知れない己の行き先が定まらない状態を後生の一大事と申すのです。

当流において「落ちる落ちない」は私たち凡夫のする仕事ではありません。これを己で何とかしようとするのは自力作善でございます。「他力」とは「弥陀」でございます。私ではないのです。自力の反対語が他力ではありません。自力の反対語は単なる怠慢です。これが分からないといつまで経っても御本願が頂けません。

> また「牛を盗みたる人とは言わるとも、当流の姿と見ゆべからず」というお心はどうなのでしょうか。牛を盗むような人だといわれても信心を得た人だと分かってしまうと、あんな人が信心決定しているなんてどうせたいした教えではないと法謗罪を造らせてしまうからですか。このこともよく分かりません。どうぞ、お教えください。よろしくお願いいたします。

これは「当流の掟」についての大事の中の大事。
御文では蓮師がこれを引用されて、詳しく御説明あって厳しく戒めておられます。

「夫、当流にさだむるところの掟をよくまもるといふは、他宗にも世間にも対してわが一宗のすがたを、あらわに人の目にみえぬようにふるまへるをもって本意とするなり・・・」

次第相承の善知識に逢わねばその理由は絶対に分かりません。「正法誹謗を避けるため」という御心であるということは間違いありません。とだけ申し上げておきます。何故なら私もこの抑止を守っておるからでございます。

この御文の続きには当流の安心(信決定)とはどういうことなのかという大事を詳しく語られております。この御文一つでも我等が往生の道が記されております。これで割符が合わないのならそれは正信ではございません。分からなくても結構です。よくよく御心に留めておいて下さい。次第相承の善知識を探される大きな手掛かりになるでしょう。

この御文の前半は信決定した者に対する戒め。後半は信前の者に対する御本願への道しるべでございます。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re^5: もしかして
記事No : 4148 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/01(Wed) 15:20
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

>また、質問させていただきたいのですが、よくお書きになる「割府が合う」ということはどういうことでしょうか。私は教学もできず、聴聞も真剣にしていなかったため、皆様の目からみればそんなことも知らないのかと驚きあきれるばかりと思います。非常に恥ずかしいのですが、少しでも疑問は解消していきたく思っております。よろしくお願いいたします。

なるほど。親鸞会様で御聴聞されておられたのですね。「教学」、「真剣な聴聞」が共通して言われることのようでございますね。

割符とはそのままの意味です。片方が頂く信、もう片方が御文をはじめとする聖教。これがぴたりと合うようにならねば正信ではないのです。どれだけ晴れ渡る世界を体験できても割符が合わねば、単なる凡夫の起こす所の信でしかありません。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re^7: もしかして
記事No : 4150 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/01(Wed) 23:25
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

こんばんは。

>お察しのとおりでございます。あえて申し上げなかったのは、親鸞会についての論争は私には不毛だと思えたからです。浄土真宗を教えていただいたのも、これまで導いてくださったのも高森先生のおかげです。人間として、受けた御恩は忘れてはいけないと思っております。

その通り。あちらが間違い、こちらが正しいと争う前に成さねばならぬ事があるのです。
 
>ただ、この掲示板で泥凡夫様、愚尼様の書かれることを拝読し、大きな驚きを受けております。今の私は、この寂しく不安な心を何とかしたい、そのための道を知りたいだけです。

そんなに驚きですか。私は驚かれておることに驚いております。

>自分がどの道へ進むかは自分の責任です。そのリスクは自分が負わなければならないと思っております。

親鸞会様で御聴聞の方々は皆様そのように言われるのですね。己の秤にかけておられる。そもそも、あなた様が選ばれるのではないのですよ。あなた様の過去世の種蒔きの結果、今生御本願に逢えるかが決まっておるのです。「因果の道理」は釈尊の説かれた仏法の根本を成すものでございますが、我等如き凡夫では、道理があるのだと分かっておっても、どれが「因」でどれがその「果」であるのか知りようもないのです。ここはお間違えなきように。

分からないことを私程度でお答えできるのならそれはそれで結構でございます。しかし、何度も申し上げますが、どれだけ聖教を覚え、理解でき有難がっても信は獲られません。聖教を覚えて立派な説法者になっても、それ自体は「我等の往生」にとって何の意味もございません。御開山は20年の聖道の道で、それらに意味がなかったことを先に示されておられます。十八願とはそういったものではないのです。獲やすい信なのです。人によってマチマチになったり致しません。

何やら親鸞会様では弥陀の声を直接凡夫が聞くと信が獲られるように仰っておられる御様子。凡夫が五十二段の仏覚におられる弥陀の声を直接聞くなど不可能でございます。そういった「己の体験」を求められるということがどういった事を意味するのか、いずれお分かりになるかと思います。恐らく「信心歓喜」を「歓喜の心」が起こるのだと解釈されておるのでしょう。違いますか?

私の言うことが本当だろうか?と思われるのなら親鸞会様で真剣に10年20年50年聞法精進されてごらんなさい。分かりますから。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re^9: もしかして
記事No : 4154 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/02(Thu) 19:43
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

こんばんは。
夜中に起きてしまわれたとの事、どうぞお体を大切になさって下さい。御無理の無きように。

>ただ、蓮如上人が私のような無知なもののためにお書きくださった
> 御文章ですが、よく意味が分からないところもたくさんあり、間違っ
> て理解してしまわないかと不安なのです。私はこれからも泥凡夫様や愚
> 尼様にぜひいろいろ教えていただきたいと思っておりますが、こういう
> 心持がいけないのでしょうか。

違います。
これから申し上げることは、今分からなくても、いつか分かる日が来ますので聞き流す程度の気楽な気持ちで聞いて下さい。

分からないことを聞く事はまったく悪い事ではありません。聞法精進も結構。但し、全てを知る事は信前では無理なのです。肝心な所で必ずあなた様は必ず引っ掛かって、気になって、挙句の果ては秤に掛けることになります。

心持ち云々私が申し上げて来ましたのは、信を獲た後の心持ちでございます。私もあなた様も何も変わりません。私は哀れな泥凡夫。腹も立つし、妬みもする。何も変わってません。何か特別な心持ちになれるのだと思われる(期待する)なら必ず苦しまれます。

何度も申しますが、御縁あった行者を漏らさず救うことの出来る法を教えられておるのか否か。肝心な部分はここに集約されるのです。我等の往生を定めて頂くのは弥陀であり、私では無いのです。「老少男女貴賎善悪」を選ばない。これを「無上甚深微妙の法」と申すのです。

「心持ち」を聞く相手に伝えることなど現実には不可能です。私がどれほど素晴らしい晴れ渡る世界になったと申し上げても、あなた様にはさっぱり分からないでしょう?分かるような分からぬような。そういう事です。

根本が間違っておると、個人であれ団体であれ大抵の場合、「目的」と「手段」が入れ替わるのです。我等一流の「目的」は何ですか?信を獲ることでしょう。これが真っ先に成さねばならぬことでしょう。そのための「手段」として聞法もあるでしょう。そのための団体もあるでしょう。しかし、気が付かぬ間にこれが逆になっておるのです。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re^11: もしかして
記事No : 4163 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/03(Fri) 19:19
投稿者 : 泥凡夫



黒闇の魂 様

こんばんは。
寒い日が続きますね。どうぞ御自愛下さい。

>御文の中で「何のやうもなく、一筋にこの阿弥陀仏の御袖にひしとすがりまいらする思をなして後生を助けたまへとたのみ申せば」とあります。

御文の中で、信決定(当流の安心)とはどうしたら良いのかを同様にたくさん書かれてございます。大事中の大事。どうぞ御心に留めて下さい。

>この世に生を受けた目的は信を獲るためと教えていただきましたが、弥陀たのむとはどうしたらよいのでしょうか。これが自力の心だと思うのですが、ただ、阿弥陀様、お助けくださいと念じればよいのでしょうか。泥凡夫様のおっしゃる次第相乗の善知識を求めていくのがまず必要なのでしょうか?

人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く。この世に生を受けた事の目的が信決定であるというのは、真宗に御縁のあった方々が申すことです。釈尊の説かれた聖道門に行かれる尊い方々もいることをお忘れなく。

「弥陀タノム」ということが分からないのは当然です。故に、次第相承の善知識に逢わねばならぬのです。蓮師が「五重の義」を御立てになられたのは、肝心要を間違わぬよう御配慮された結果でございます。

「弥陀タノム」に関連したことで、江戸時代末期に三業惑乱事件というものが起こりました。つまり、法脈無き方々にこれを語ったばかりに全国門徒が大混乱になった事件でございます。結果、幕府の裁定によって三業派は異安心であると決められてしまいました。

>考えれば考えるほど分からなくなり、苦しくなってこの掲示板から逃げ出したくなるような気もします。でも、逃げたら一生苦しみから逃れられないと思い踏みとどまらなければいけないとも思います。

苦しくなるのは、誰のせいでもございません。あなた様があなた様御自身を締め付けておるからです。凡夫があれこれ秤にかけても無駄でございます。「弥陀の大悲」に素直に「はい。」と従えない己を見て欲しいのです。私があなた様に優しい声を掛けて、あなた様を眠らせてしまっては眼が覚めないからでございます。どうぞ御容赦を。

南無阿弥陀仏


尋ねてみました

タイトル : Re: 尋ねてみました
記事No : 4171 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/05(Sun) 09:58
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんにちは。
御自分で尋ねられましたか。そうですかそうですか。
「往生の道」は尋ねて参らねば見えません。
インターネットだけで信を獲られると思われたら大変でございます。どうぞ御無理のないように尋ね歩いて下さい。

> 結論申します。
> 割賦できませんでした。尊い直のご説法も聞かせていただき、また、
> ご著書も送って下さった方々には、有り難いことですが、
> 何度も何度も書き込み下さいました、割賦に合うということはできま
> せんでした。

ここはあなた様が今まで歩かれた道が邪魔をしております。親鸞会様の御教義では異安心、秘事だと非難される箇所を含んでおったでしょう。そもそも、説法いくら聞こうと、聖教を読み破っても「それだけ」では信は獲られません。これを蓮師は「一念の信心のいはれをしらざる人はいたずら事なりとしるべし」と申されるのです。「一念の信心のいわれ」とは「六字のいわれ」でございます。故に、一度尋ねて説法聞いて、著書を読んだだけで「突然(フッと)」信は獲られません。信無くば割符は合いません。過去何度も申し上げておるのはここでございます。

信を獲た世界を特別な世界であるのだと凡夫が語るのなら、残念ですが全ての人を救うことは叶いません。信(弥陀佛本願)は「憶念」出来るものです。例えば、後生がまったく気にならなくなる「状態」が信であると申すのなら、極端な話、仏法に御縁の無い方々はそもそも後生など気にしておりません。また、ちょっと修練すれば気にならなくなります。後生を気にせず臨終を迎える方など山ほどおられます。そんなことで信あり、なしは計れません。そもそも、凡夫の「状態」など問われていないからです。

> しかし、この足で尋ねて見たことで、次第相承の善知識どこかにいら
> っしゃるのか、過去のわが身の宿善の薄さを知らされるばかりです。

宿善厚い薄いは己で判断するものではございません。宿善薄いと嘆かれるあなた様は弥陀の正客であります。信を獲たなら、「善男子善女人」と阿弥陀経に記された者であったのだと遠く宿縁を喜んで下さい。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: 尋ねてみました
記事No : 4178 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/07(Tue) 08:40
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんにちは。
出掛ける時間ギリギリですので少し短くなりますが御容赦を。

> ただ泥凡夫様、愚尼様のおしゃられること真と信じ、そのように実行して行こうとしているだけの貴方様と同じ凡夫でございます。

南無阿弥陀仏。

> 次第相承の善知識を尋ねて行きなさい。といわれるので、
> 何処を如何訪ねていくべきか、迷っているのです。
> だから書き込みしたくても、とても出来ないのです。

なるほど。御心よく分かりました。

> コピーしたものなら簡単でしょうが、門外不出の御著書らしく、コピーをさせていただくだけでも、許可が大変らしいです。
> それを、どういうご縁か、今、過去の書かれた物を一字一句間違えず、限りある時間でとなると相当緊張しました。
> 又、これを清書する喜びもあります。
>
> 道しるべとはこういうことではないかと思われます。

真偽のほどは私には分かりかねますが、「道しるべ」とは「門外不出の書」であるなどと解釈されてはとんでもない誤解を招きますので釘を刺しておきます。
「道しるべ」とは次第相承の善知識に逢うためのいわば、キーワードのようなもの。私が今まで重要だと申してきた内容がそのままが鍵になるのです。一流の方ならすぐに御理解頂けるものでございます。

信を獲るのに門外不出の書を写さねばならぬなど何処に記されておりますか?信を獲るのに必要なことは「人に逢う(往相、還相)」ことでございます。信は「人に導かれる」ものでございます。決して「学問や書物や説法」だけで獲るものではございません。

よくよく御思案下さい。「老少男女貴賎」を問わずとはどういうことか。
そもそも難しい聖教など理解もできぬ我等如き凡夫が救われる道であると蓮師が言われておるでしょう。

もう一度書きます。「信を獲る」のに「智恵才覚」は不用です。しかし、「聖教を読み覚える」には「智恵才覚」が必要です。ここの分別が無いと道を誤ります。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re: 尋ねてみました
記事No : 4184 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/07(Tue) 19:39
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。
さぞかしお疲れのことと思います。休むときはしっかり休んで下さい。

> 叱られ叱られ進むしかない私です。

あなた様が眠ってしまわれては私は悲しい限りです。申し訳ございませんがどうか御容赦を。次第相承の善知識に逢い、あなた様の目が覚める(信決定)まで眠ってはなりません。

> 心違いも知らず、曲がってしまう愚かな私を軌道修正させて頂いております。
> 前の私なら、ここで落ち込んでしまいますが、
> このように見放してはおられない、私の求道姿勢を直していただけるのにはここだけだと思えば、尚一層わが身の愚かさを反省させられます。

見放しておられないのは、弥陀でございます。私ではございません。
あなた様のままで結構。汝を見捨てず全部引き受けると申されております。
それに素直に頭が下がるかどうかだけでございます。

> お忙しい中、いつもいつもこの掲示板に書き込みくださいまして本当にありがとうございます。

あなた様のお苦しみを思えば、大したことではございません。

>つらくてもこの場所から逃げることは出来ません。

弥陀はあなた様を逃がしません。逃げても逃げ場など無いことは長年の聞法精進で既に御承知でしょう?

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: 尋ねてみました
記事No : 4192 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/09(Thu) 22:59
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。

> 初めてこの先に光明がみえたようで、嬉涙で眠れませんでした。

南無阿弥陀仏。

>その時から、私はなぜこの世に縁があるのか不思議でした。そして、この身体をいとおしく思えるようになりました。頭も悪く、顔も美人じゃないけれど、父に似ているこの顔もとても好きです。

生かされておるということです。

> 又、因果の道理を聞かされ、人が見ていなくても悪いことはしないでおこう、良いことをしようと思っておりました。

因果の道理は仏法の根本思想です。例えそれが分かっても、我等にはどれが「因」でどれがその「果」であるのか知りようもございません。良い行いをしようとされることは尊い事ではございますが、結局知るのです。我等如き凡夫ではそれが叶わぬ身であると。悪しか造れないと。故に、弥陀はそんな我等を哀れであると大悲を掛けて下さるのです。

> 尋ねていけない時の私の心構えを教えていただけませんか?
> 日ごろから、アンテナはたてているつもりですが、
> 御文の中の「仏法者と見えざる人のすがたなるべし」は信後の方の気持ちだと思いますが、信前の私は、真実聞きたいそのままで、次第相承の善知識はご存知ありませんか?と尋ね歩けばよろしいのですか?
> そして、いけない時は御文を拝読させて頂くのがよろしいのでしょうか?

なるほど。仏法求道者のあるべき姿でございますか。
何をそんなに硬くなられておられるのか?簡単です。私が答えましょう。自分の諸善を往生の因にしたいと心の何処かで思われておるからです。蓮師が詠まれた信後の嬉しさの文について別の方に御質問頂きお答え申し上げました。信前で有難いと思っておったことは本当の有難さではなかった。とあるのは正にあなた様の今の状態なのです。

善知識を求める姿勢は蓮師が言われておるでしょう。上下を問わず頭を下げろと。

では普段何をしていれば良いのか。「南無阿弥陀仏」しかないでしょう?当流はこの六字に全てがあるのです。六字を離れた教えも信もございません。

蓮師の御文中に、信とは何かをたくさん書かれてございます。その部分を抜き出してよくよく御拝読下さい。そして、もし何かに気が付かれましたら、それを大事にして下さい。

南無阿弥陀仏


タイトル : Re: 尋ねてみました
記事No : 4194 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/10(Fri) 00:35
投稿者 : 泥凡夫



凡夫 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

> 信前のものはこの文を何度よくでも分からないと思います。
> もう十分ではないのでしょうか
> もう、御手引きする時期がきているのではないでしょうか

一流の同行とお見受け致します。

南無阿弥陀仏



タイトル : Re: 尋ねてみました
記事No : 4197 [関連記事]
投稿日 : 2006/02/10(Fri) 22:49
投稿者 : 泥凡夫



謗法の者 様

こんばんは。

> しかし、3月20日までは、全国御法話に歩かれるということで、無理です。と言われました。すぐお手紙差し上げました。
> 初めて、親鸞聖人の「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」の御心知らされました。

南無阿弥陀仏。

> しかし、私は泥凡夫様が、まだまだと思われているのだと思います。
> 心構えを教えられたとおり肝に銘じていきます。

信は目の前にあるのですが・・・。

南無阿弥陀仏

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