凡夫が仏に
浄土真宗では、「凡夫が仏になる不思議」ということを言います。
死んだら仏になる?
死ぬことを、「仏(ほとけ)になる」のように表現する言い方があります。
私はこの表現を聞いたときに、「死んだからと言って、急に『仏』(ぶつ)になったりするものだろうか?」と疑問に思っていました。
もし、そうであれば、「死」というのが、ものすごい善行であるということになってしまいます。
ですから、私は、「死んでからも、たいして変化はないのだろうな」と思っていました。
現世で幸せな人は、たぶん死後もしあわせで、現世で苦しんでいる人は、きっと死後も苦しい世界に行くのだろう、と子供の頃は思っていました。
そして、「死んだら仏(ほとけ)になる」そう言っている方々が、「先祖のたたり」のようなことを言っているのを聞きました。
「仏(ぶつ)が、如来が、たたるなんて、本当にあるのだろうか?」と、ますますわからなくなりました。
しかし、こういうことを言うと、「へ理屈を言うものではないよ」と言われてしまいます。私の感じていた反発が、ことばに出てきて、相手の方を否定する雰囲気が出ていたのだと思います。
その後、浄土門の教えを知りまして、「なるほど、ここから来ている表現なのか」と思うようになりました。
地獄は一定すみかぞかし
自分の心を見つめてみると、どうでも良いことで、すぐに怒ったり、妬んだりします。
そして、真理でないことを、簡単に語ります。
こんな自分を見つめると、「地獄行きも仕方ないな」と思うのですが、それでも、そんな苦しいのはイヤでした。
「ちょっとはいいこともしてるのだから、天界に行けるかな」と思ったりも、してしまうのです。
そしてそんな自分を「甘いなあ、やっぱり地獄かな」などと考えてしまいます。
「地獄行きでも仕方ない。存分に焼いたり煮たりしてもらって、このどうしようもない性根を是正してもらおう。悪い成分を煮出してもらおう」と思いました。
同時に、「だけど、たぶん本当にそんなに苦しかったら、イヤがるだろうなあ」とも思っていました。
イヤがっていると、なかなか出れないのですが、ひょっとして感謝して、早めに出てしまって、そこで治るものを治さずに出るのもイヤだったのです。
ですけれども、苦しいのも、イヤだし、どうしたらいいんだろう。現世のことでもいろいろあるし・・・
今ではよく覚えていませんし、実感が変わってしまっているのでよくわからないのですが、すごく、苦しんでいたはずです。
弥陀をたのんで、極楽浄土に
そんな私が、弥陀をたのんで、極楽浄土に往けることになりました。
このために、弥陀はとても大変な修行をなさってくださったのですが、おかげで、私たちは、とても簡単に、信心をいただくことができます。
地獄に行ってもおかしくない自分が、生きながらにして、極楽浄土に往けることが決定したのです。
うれしくて、ありがたくて、涙が出て来ました。
私の浄土に来れば、必ず仏にするとのお約束
小さいころから悟りに興味があり、小学校の図書館でも、禅の本などを借りて読んでいました。
しかし、本を読んでも、よくわからなかったというのが、正直なところです。
そんな私ですが、弥陀は「滅度に至らせる」と約束してくださっています。
ですから、仏道成就もたのしみにしながら、浄土に参ります。
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