浄土真宗の教義について

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●No.101
一信徒
非公開の男性
[ 746 ] 度無所度の義の解釈について 2008/08/18 (Mon) 17:15 △up ▽down
衆生を浄土に度するが、一人として滅度に至るまで浄土に留まることなく、第五門の回向門により即時娑婆に還相する。「所有無し」とは、衆生は無常故そのままあることはなく、阿弥陀の本願力の中にあって、遅かれ早かれ菩薩の教化に遇う。このように一切衆生は信心獲得しても煩悩具足のまま、瞬時に菩薩として還相する様は、度すれども度すれども、一見何事もなかったように娑婆の生活の日々があり、まるで遊んでいるようだ。しかし、すべては本願力の自然な働きの中にある。

この解釈について、ご意見ご指導を頂ければ幸いです。

●re.1
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 747 ] Re1:度無所度の義の解釈について 2008/08/19 (Tue) 03:49 △up ▽down
一信徒 様

お書き込み、ありがとうございます。

私の思うところは、http://shinshu.in/domushodonogi に書いてございます。

私が書いた内容には、厳密さを犠牲にしている部分があります。特に、「所有」のところです。

自らを度すことは、小乗と嫌われ、この道は、真の大乗の道であります。

しかし、衆生はおりません。

同じく、自身も度されてはおりますが、度してはおりません。

他も幻、我も幻。

真実は、南无阿彌陀佛の六字なのだと思います。

大乗でありながら、結局は、自身を対処するこの道であります。

南无阿彌陀佛



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