浄土真宗の教義について

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●No.162
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 2561 ] 念仏を被(こうむ)る 2011/10/20 (Thu) 03:39 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

六要鈔の信巻に「念仏所被の機」という表現が出てきます。これをそのまま読み下すと、
「念仏をこうむるところの機」ということになります。この「念仏をこうむる」という
表現は、とても興味深く感じられます。

普通、念仏は「称えるもの」と考えられているのではないかと思います。もちろん、それ
は正しいのでしょう。称名念仏というのですから、称名(阿弥陀仏の名を称えること)が、
すなわち念仏なわけです。

しかし、その念仏つまり称名は、どうやら「こうむる」ものらしいということが、「念仏
所被の機」という表現からわかります。

そこで、「こうむる」の意味を「日本国語大辞典」で調べてみると、次のように書かれて
います。

--------------------------------------------------------------------------------
被る(こうむ・る)
  1.頭から衣服、帽子などをかぶる。身体や頭をおおう。かぶる。
  2.神仏や目上の人から、ある行為や恩恵などを受ける。いただく。
   相手に対する敬意をこめて用いる。「御免をこうむる」
  3.きず、災禍、罪など好ましくないものを身に受ける。また、負担をしょいこむ。
--------------------------------------------------------------------------------

3つほど意味があるようですが、ここでは2番目の意味、つまり、「受ける」「いただく」
などといった意味になるのではないかと思います。

そうすると「念仏をこうむる」というのは、「念仏を受ける」とか「念仏をいただく」と
いうことに他ならないということになります。(個人的には、1番目の「念仏をかぶる」
「念仏で身体をおおう」というのも、なかなかな表現だなという気もしますが、これは
余談です。)

それなら、念仏はだれから「受ける」ないし「いただく」のかといえば、それは、いうま
でもなく「阿弥陀様から」ということになるのでしょう。そうすると、「念仏所被の機」
というのは、「念仏を阿弥陀様からいただく人」もしくは「いただいた人」ということに
なるわけです。(面白いですね)

ところで、いろいろ調べてみると「念仏所被の機」という表現は、「六要鈔・信巻」のな
かに2箇所出てくるだけで、ほかに見つけることができません。

--------------------------------------------------------------------------------
これ念仏所被の機を顕わす。(六要鈔・信巻)
念仏所被の機を問うに就きて、(六要鈔・信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

ところが、「念仏」をつけずに、ただ単に「所被の機」という表現は「六要鈔」のなかに
4箇所出てきます。

--------------------------------------------------------------------------------
所被の機は聖凡殊なるといえども、所説の法は共にこれ一乗なり。(六要鈔・教巻)
所被の機は普く善悪を兼ぬることを明かす。(六要鈔・行巻)
その所被の機はこれ罪悪生死の凡夫、煩悩賊害の衆生たるが故に、(六要鈔・信巻)
所被の機、衆生というは、凡聖の中には何ぞ。(六要鈔・信巻)
--------------------------------------------------------------------------------

そして、「所被の機」という表現は、「念仏所被の機」というのよりも一般に認知されて
いるらしく、「WikiArc」のなかでも用語の解説があります。

--------------------------------------------------------------------------------
WikiArc
  所被の機
    この所は受身の助詞で、被る、ということ。仏の教化を被る機ということ。
    仏の救済の対象として正所被ともいう。
--------------------------------------------------------------------------------

「所被の機」というのは、そのまま読めば「こうむるところの機」ということですから、
「何を」が抜けているいるわけですが、ここでは、そこに「教化を」という言葉を補って、
「教化を受ける機」というように解説をしているわけです。

しかし、私の知る限りでは、ご聖典のなかに「教化所被の機」という表現は見当たりませ
ん。実際に私が見つけることができたのは、「念仏所被の機」と「浄土真宗所被の機」と
いう表現だけです。

--------------------------------------------------------------------------------
浄土真宗所被の機は、偏に極楽を願じて必ず往生を得。(六要鈔・化土巻)
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もちろん「教化を受ける(いただく)」といっても間違いではないのでしょう。「教化」と
いうのは「教え化かす」、もっと言えば「教えて(仏に)化かす」あるいは「教えて(仏とな
る身に)化かす」ということですよね。

そこで「念仏」を「教化」と置き換えてみても、なぜかスッキリきます。つまり
「教化=念仏」ということになります。「教え化かす」ことが、すなわち「念仏=称名」
だということです。

しかも「浄土真宗所被の機」という言葉も「念仏所被の機」や「所被の機」とほぼ同義で
使われているということを考えると、「念仏」は「浄土真宗」そのものだ、ということに
なります。

ところで、ご聖典によれば、「念仏=称名」は「行」だということですから、「念仏行者」
というのは、「阿弥陀様から念仏という行を受ける(いただく)者」ということになります。

やはり、当流では、「念仏という行」は、受ける(いただく)ものだったんですね。そして、
その行をいただくことが「教化」、つまり、「仏となる身に化かされること」なのですね。
なんともはや、すごいです。

南无阿彌陀佛



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