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[ 2561 ] 念仏を被(こうむ)る
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2011/10/20 (Thu) 03:39
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皆さま、こんばんは。
六要鈔の信巻に「念仏所被の機」という表現が出てきます。これをそのまま読み下すと、 「念仏をこうむるところの機」ということになります。この「念仏をこうむる」という 表現は、とても興味深く感じられます。
普通、念仏は「称えるもの」と考えられているのではないかと思います。もちろん、それ は正しいのでしょう。称名念仏というのですから、称名(阿弥陀仏の名を称えること)が、 すなわち念仏なわけです。
しかし、その念仏つまり称名は、どうやら「こうむる」ものらしいということが、「念仏 所被の機」という表現からわかります。
そこで、「こうむる」の意味を「日本国語大辞典」で調べてみると、次のように書かれて います。
-------------------------------------------------------------------------------- 被る(こうむ・る) 1.頭から衣服、帽子などをかぶる。身体や頭をおおう。かぶる。 2.神仏や目上の人から、ある行為や恩恵などを受ける。いただく。 相手に対する敬意をこめて用いる。「御免をこうむる」 3.きず、災禍、罪など好ましくないものを身に受ける。また、負担をしょいこむ。 --------------------------------------------------------------------------------
3つほど意味があるようですが、ここでは2番目の意味、つまり、「受ける」「いただく」 などといった意味になるのではないかと思います。
そうすると「念仏をこうむる」というのは、「念仏を受ける」とか「念仏をいただく」と いうことに他ならないということになります。(個人的には、1番目の「念仏をかぶる」 「念仏で身体をおおう」というのも、なかなかな表現だなという気もしますが、これは 余談です。)
それなら、念仏はだれから「受ける」ないし「いただく」のかといえば、それは、いうま でもなく「阿弥陀様から」ということになるのでしょう。そうすると、「念仏所被の機」 というのは、「念仏を阿弥陀様からいただく人」もしくは「いただいた人」ということに なるわけです。(面白いですね)
ところで、いろいろ調べてみると「念仏所被の機」という表現は、「六要鈔・信巻」のな かに2箇所出てくるだけで、ほかに見つけることができません。
-------------------------------------------------------------------------------- これ念仏所被の機を顕わす。(六要鈔・信巻) 念仏所被の機を問うに就きて、(六要鈔・信巻) --------------------------------------------------------------------------------
ところが、「念仏」をつけずに、ただ単に「所被の機」という表現は「六要鈔」のなかに 4箇所出てきます。
-------------------------------------------------------------------------------- 所被の機は聖凡殊なるといえども、所説の法は共にこれ一乗なり。(六要鈔・教巻) 所被の機は普く善悪を兼ぬることを明かす。(六要鈔・行巻) その所被の機はこれ罪悪生死の凡夫、煩悩賊害の衆生たるが故に、(六要鈔・信巻) 所被の機、衆生というは、凡聖の中には何ぞ。(六要鈔・信巻) --------------------------------------------------------------------------------
そして、「所被の機」という表現は、「念仏所被の機」というのよりも一般に認知されて いるらしく、「WikiArc」のなかでも用語の解説があります。
-------------------------------------------------------------------------------- WikiArc 所被の機 この所は受身の助詞で、被る、ということ。仏の教化を被る機ということ。 仏の救済の対象として正所被ともいう。 --------------------------------------------------------------------------------
「所被の機」というのは、そのまま読めば「こうむるところの機」ということですから、 「何を」が抜けているいるわけですが、ここでは、そこに「教化を」という言葉を補って、 「教化を受ける機」というように解説をしているわけです。
しかし、私の知る限りでは、ご聖典のなかに「教化所被の機」という表現は見当たりませ ん。実際に私が見つけることができたのは、「念仏所被の機」と「浄土真宗所被の機」と いう表現だけです。
-------------------------------------------------------------------------------- 浄土真宗所被の機は、偏に極楽を願じて必ず往生を得。(六要鈔・化土巻) --------------------------------------------------------------------------------
もちろん「教化を受ける(いただく)」といっても間違いではないのでしょう。「教化」と いうのは「教え化かす」、もっと言えば「教えて(仏に)化かす」あるいは「教えて(仏とな る身に)化かす」ということですよね。
そこで「念仏」を「教化」と置き換えてみても、なぜかスッキリきます。つまり 「教化=念仏」ということになります。「教え化かす」ことが、すなわち「念仏=称名」 だということです。
しかも「浄土真宗所被の機」という言葉も「念仏所被の機」や「所被の機」とほぼ同義で 使われているということを考えると、「念仏」は「浄土真宗」そのものだ、ということに なります。
ところで、ご聖典によれば、「念仏=称名」は「行」だということですから、「念仏行者」 というのは、「阿弥陀様から念仏という行を受ける(いただく)者」ということになります。
やはり、当流では、「念仏という行」は、受ける(いただく)ものだったんですね。そして、 その行をいただくことが「教化」、つまり、「仏となる身に化かされること」なのですね。 なんともはや、すごいです。
南无阿彌陀佛
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