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[ 853 ] 信後における問題について
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2008/10/28 (Tue) 14:58
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毎日様 今日は。
掲示板を読んで疑問が生じてきました。
一念帰命の信心をいただいてから、新興宗教に行ったり云々の文言が忍草様とのやり取りでありましたが、信心を頂いた者がこのような迷いを起こすものでしょうか。
信心の次元と信心をさえぎる煩悩の次元が混線しているようで分かりにくいです。
そもそも、「一念帰命の信心をいただいた」と表現していることに問題があるのでしょうか。 何だか変な質問になってしまいましたね。 でも、教えていただけるところは、ここしかないのです。本当は。
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[ 855 ] Re1:信後における問題について
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2008/10/28 (Tue) 21:48
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こんばんは、酒天童子です。
毎日様へのご質問ですが、横から口出ししてすみません。
>一念帰命の信心をいただいてから、新興宗教に行ったり云々の文言が忍草様とのやり取りでありましたが、信心を頂いた者がこのような迷いを起こすものでしょうか。 >信心の次元と信心をさえぎる煩悩の次元が混線しているようで分かりにくいです。
信心をいただいても、迷いを起こすのが煩悩を持つ我々ではないでしょうか?
そうすると、信心を頂いても煩悩は相変わらずもっていますので(そうですよね)迷いは当然起こると思います。
だから、何をしでかすかはわかりません。
そのように、受け止めております。
違いますか?
現代人様はすでに煩悩は断ち切っておいででしょうか?
南无阿彌陀佛
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●re.2
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毎日 |
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[ 863 ] Re2:信後における問題について
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2008/10/29 (Wed) 01:24
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現代人 様
>一念帰命の信心をいただいてから、新興宗教に行ったり云々の文言が忍草様とのやり取りでありましたが、信心を頂いた者がこのような迷いを起こすものでしょうか。
どのような迷いも起こすであろうと思います。
しかし、それすらも、常行大悲の益をいただいたうえのことです。
私たちは、やんちゃでも、わがままでも、彌陀の救いの掌から落ちることはありません。
そうして、浄土へと救い摂っていただき、神通いただけば、すべて納得できることであると思います。
南无阿彌陀佛
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[ 870 ] Re3:信後における問題について
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2008/10/29 (Wed) 21:25
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酒天童子様、毎日様 懇切に教えていただき有難うございます。
>どのような迷いも起こすであろうと思います。
本当にその通りです。聖書にも途中下車したことがあり、正直なところ今でも心が惹かれてなりません。勿論その道で助かるとは思っておりません。 雑行雑修と言われても仕方がない状態です。
>しかし、それすらも、常行大悲の益をいただいたうえのことです。
>私たちは、やんちゃでも、わがままでも、彌陀の救いの掌から落ちることはありません。
このお示しは、とっても有難いです。
でも、信後の問題として、他の宗教に行くということがどうも理解出来ないのです。 もっとも、この私のように「信心決定した」と言えない身であるなら別ですけれども。
迷いと言いましても、憎い、可愛い、欲しい、と言うような迷いはいざ知らずということですが。 実は、この問題には以前から引っかかっておったのです。
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●re.4
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毎日 |
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[ 871 ] Re4:信後における問題について
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2008/10/29 (Wed) 21:30
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現代人 様
あくまで、知恵の限られた凡夫の私にとってのわかりやすい、ひとつの解釈の例にすぎませんが・・・
信をいただけば、私たちは、知らず知らず、菩薩であります。
「こんな私のどこが?」と思っても、知らず知らず、弥陀によって、そうさせられてしまっているのだと思います。
信をいただいた方が、どこかの宗教にいったとして、その方も、知らず知らず、そちらへと、ご縁を運んでいるのだと私は思います。
現代人様にとっての落ち着きどころがどこなのか、私には、わからないのですが、ひとりひとり、自身の安心を求めてゆくことが、肝要であろうと思います。
タンポポの種のように、あちらこちらに、彌陀の救いを届けているのだろうと、私は思っています。
南无阿彌陀佛
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●re.5
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毎日 |
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[ 873 ] Re5:信後における問題について
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2008/10/29 (Wed) 23:16
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現代人様
御消息中の法然聖人のみことばです。
◎諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし
私は、このような内容を教えに持つ真宗が好きであり、法然聖人の教えの通りでありたいと思っております。
至らぬ私であります故、聖人の教えが誤解されないことを願うばかりです。
南无阿彌陀佛
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●re.6
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毎日 |
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[ 875 ] Re6:信後における問題について
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2008/10/29 (Wed) 23:34
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現代人 様
聞書でございます。
◎一流真宗のうちにて法をそしり、わろさまにいふ人あり。これを思ふに、他門・他宗のことは是非なし、一宗のうちにかやうの人もあるに、われら宿善ありてこの法を信ずる身のたふとさよと思ふべしと云々
南无阿彌陀佛
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[ 877 ] Re7:信後における問題について
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2008/10/30 (Thu) 00:08
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現代人 様
こんばんは酒天童子です。
とうてい現代人様に意見できるような知識も見識もありませんが、私見を述べさせてください。
>でも、信後の問題として、他の宗教に行くということがどうも理解出来ないのです。
私たちは自分というものに結構自信を持っているものです。自分というものはそう簡単には揺らがないぞ!なるものです。 それはそれで大事なことであると思います。 普通、そうでないと情緒不安定になってしまいますから、、。
たとえ話ですが、むかし信心決定したある人が長年の後年相続によって金剛の信を持ったとしましょう。 その人がある時、道端の小石に不覚にも躓いてしまいました。運悪くその拍子に倒れたところが大きな石があり、彼はしこたま頭を打ち付けて記憶をすっかり失ってしまいました。
たまたま、通りかかった夫婦はとても親切な人で彼を家に運んで手厚く看病してくれたことにより、彼は健康を回復していきましたが記憶は戻りませんでした。
親切な夫婦になんとか恩返しをしたいとおもっていたかつての金剛心の男は、夫婦が信仰する加持祈祷の宗教に一緒に参加するようになり、信者を増やすことこそこの夫婦が喜び、またこの夫婦に報いることであると信じ一生懸命に尽くしました。ちゃんちゃん。
上記の話はあり得ないことでしょうか?
実は私たちはみなこのようにして輪廻転生しているかもしれない、と考えたことはないでしょうか?
皆さん、前世を憶えていますか?
私たちは現世のことは忘れないと思い込んでいますが、ほとんどのことは忘れてしまっていると、生理学者は言います。夢をほとんど憶えていないのと似たようなものなのです。
だから、そのように我々は、”自分で思っているよりも相当頼りない存在”であり、いつも危なっかしい状態にあるのだと、まずは自覚することが大切なのではないでしょうか?
少なくとも、私自身は自分をそのように思っております。そうして、それは教学を一生懸命長年勉強したからとかたくさん本を読んだからとかではなく、実体験から身に染みてそういうことを申しているのであります。
参考にならないかもしれませんが、あえて書かせていただきました。
南无阿彌陀佛
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[ 878 ] Re8:信後における問題について
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2008/10/30 (Thu) 04:19
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酒天童子様
私は、自分が来た道も又、そのようなものです。
端から見れば、本当にふらふらしていたと思います。
長年、親鸞会に居て、その間、嫌がる子供達を連れまわしていました。
まだ、幼い子を背に負い、3歳の兄の方にミルクなどの入れ物の荷物を持たせ、高岡、米原等、聴きに歩きました。
子供部屋もなく、泣くと皆の「泣かせるな」という、視線を浴びて、子供の口を押さえたこともありました。
そこが正しいと38年間聞いてきました。
そして、そこは間違いだと思い、探して歩いた所で、今度はこれこそが正しいと思って、又子供にもそこを勧めました。 そして、掲示板等にも、信心決定しましたと書いていました。
もう、その間に、その子供も成長しています。
そして、私は、それでも自分の心がどうしても納得いかずに又探してしまいました。
息子はそれでも自分自身の環境の変化で、自分から進んでこの法を聞こうとしてくれました。
下の娘には、前の御縁にも合わせていません。 娘には、昔の親鸞会の事を嫌がっているのが、私にはよく分るからです。
そして、そんなふらふらな私を、ふしだらだと思っていると思います。
あっちでもこっちでも、ここが正しい教えだと勧めてきた私を信用してはくれません。
でも、今の私は、有り難いことに全然それで悲観したりはしてないのです。
これも、この娘の宿縁。ただ今生で親子の縁を結んだだけ。
それで、今生で、同じ道を歩んでいけたら最高だと、長い目で見られるようになってきたからです。
すごく今の私は落ち着いています。
現代人様
多分、現代人様も、ジャンヌの掲示板を覚えていて下さっておられると思いますが、声高に信心決定していたと、あの頃の私は思っていました。
それでも、私は書き続けて、このように毎日様達と一味同行にさせて頂いています。
あの時と、今の自分に心の変化が現れてきています。
もう、私はふらふらすることはないでしょうが、私も凡夫です。
凡夫ですから、いくら救われても全く外見は変りません。
毎日、怒りも愚痴も出てきます。
私は、いつも思っていました。
「こんな先行き暗い環境で、年金もままならないのにどうしよう、仕事は続けられるかしら」
私は、相当悲観主義者だったので、その落ち込みよう、愚痴ばかりの生活態度は、回りのひんしゅくを買っていました。
でも、それが少しずつ、減っているような気がします。
有り難いと思えるようになりました。
そのような私の変化を多分、息子も感じ取ったので、来てくれたと思っています。
現代人様の意図する疑問のお答えには成らないと思いますが、
私達の見ているものは、幻のようなものだと思います。
いくら納得しようと知識を得ても、それで自分の煩悩を消せるものでも有りません。
煩悩持ったままで救われる教えに今会えた自分を有り難いと思っています。
どうか、納得されるまで、この掲示板に書きこんで見て下さい。
南无阿彌陀佛
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[ 879 ] Re9:信後における問題について
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2008/10/30 (Thu) 05:42
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現代人様
考えさせられる質問をありがとうございます。
おかげで毎日様 酒天童子様 菩提心様からの返信により
私も迷いが晴れたような気がします。
タンポポの種のように(とても素敵な表現ですね。)
そっとあちらこちらに弥陀のご縁を
届けたいと思います。
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[ 882 ] Re10:信後における問題について
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2008/10/30 (Thu) 08:25
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皆様、有難うございます。
お蔭様にて、薄っすらと明るみが感じられるようになりました。 でも、本当に危ない存在です。
心変わりの激しさは、菩提心様にひけを取るものではありません。 実は、私もかって親鸞会に通っていたものの一人なのです。何処かの会場で同席していたのかも知れません。
もう、阿弥陀様に救われるしかないのでした。 分かっていながらなぜ背くのかと自分を叱っております。
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[ 884 ] Re11:信後における問題について
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2008/10/31 (Fri) 08:23
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現代人様
>もう、阿弥陀様に救われるしかないのでした。 分かっていながらなぜ背くのかと自分を叱っております。
直ぐに弥陀に御縁頂く方もおられるでしょう。
私のように回り道しなければ、弥陀の救いに合えぬ者もおります。
でも、その早い遅いは、今生だけを見ているから、そう思えてしまうものではないかと思います。
現代人様も私も、無間地獄で八万劫中大苦悩を受けると聞いてきた者にとって、一年や二年の長さなど、取るに足らない長さだと思います。
確かに、無常迅速のわが身ですが、きっと阿弥陀様は、現代人様の自主性を重んじられていると思います。
私は、この道は強制される道ではないと思っています。
自分の道は、自分が切開いて行く道だと思います。
そして、救われて初めて、それら全てが弥陀の手中での出来事だったと知らされるのだと思います。
ですから、そこには導いたとか、導かれたという後先の発想も出てこないし、全て平等の世界だと思います。
でも、私には御恩報謝する術が有りませんので、ただ御恩報謝のお念仏を称えなさいと御文章に書かれていたから、称えているようなもので、それも心底有難くて称えているか、本当に心もとない日暮しをしています。
でも、そんなぐうたらな、諸佛さえ逃げた女人の私が救われたのは、摩訶不思議としかいいようが有りません。
誰も信じてもらえなくてもいい。私一人が信じて喜んでいる世界が有る。
それが有難くて、ただ書いています。
ずっと、ジャンヌから離れずに気になっておられるのも、阿弥陀様の調熟のお陰かも知れませんね。
南无阿彌陀佛
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[ 897 ] Re12:信後における問題について
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2008/11/05 (Wed) 12:01
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こんにちは酒天童子です。
毎日様のちょっとまえの言葉に“登る必要を感じているのはあなたであって、私ではない”というくだりがありました。
私は若い頃、ある意味“求道心”に燃えていて、“さとり”を得るためには“何をすればよいか?何をしなければならないか?”つねに考えていました。
だから、今でもそのころに書いた日記をながめてみると“何々しなければならない”とか“何々を目指すべきである”とか“こうあるべきだ”なる文字がそこらじゅうに躍っています。
うろ覚えですが、こんな話を聞いたことがあります。 昔中国である宗派の後継者を決めるときに二人の僧侶が候補者に上がりました。 そこで、二人がそれぞれ自分の心境を話すことになったそうです。 一人が言いました“私は長年の修行によって、心は研ぎ澄まされ、今まさに悟りを獲得せんという気概に満ちている云々” 聞いていた人々はみな“彼は素晴らしい”と褒め称えました。 もう一人が言いました“さとるもさとらないも、自分は知ったことではない。すべてはすでに自分の中にある” それを聞いた先代は迷わず後者を後継者にしたということです。たしかこの後者の人は有名な人のような気がします。
“吾 唯 足 知”、なんかお寺とかでこんな文字が刻まれていた石を見たことがあります。
また、「さとりからもっとも遠い所にいる人は“自分は何とか努力して悟らなければならない”と固く信じている人です」、という言葉もあります。
私はこの言葉を聞いた時に愕然とした記憶があります。
自分は修行も成就できず、自力ではどうしようもない状態に陥っていましたから途方に暮れていたのです。
そうして、ついに、なんか肩の力が抜けたのです。それからは苦しんでばかりいた人生を楽しむようになり、悲嘆するかわりに喜びを見つけるようになり、頑張る代わりに感謝するようになりました。
風のうわさから“あいつは落ちていった”などということも聞きました。
そうしてこの法に巡り合いました。不思議なものだと思います。 だから、私にはとてもありがたいのです。
そうして自分が無力であり、いつ何をしでかすかわからないだけに“六字がすべて”“摂取不捨”が心に響きます。
南无阿彌陀佛
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[ 898 ] Re13:信後における問題について
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2008/11/05 (Wed) 16:18
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酒天童子様
[ 767 ]名は行であり、信である
の選択集のお書込みを、今もう一度、じっくり拝読させて頂きました。
私は、この掲示板の過去ログは宝の山のような気がします。
何度も何度も読み返す度に、新たな思いが出てきます。
「摂取不捨」の御心が有難いです。
又、この法を信じられた事が有難いです。
南无阿彌陀佛
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