浄土真宗の教義について

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●No.109
毎日
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[ 908 ] 「疑う」ことについて 2008/11/10 (Mon) 10:54 △up ▽down
私は本当に、自分を「疑い深い」と思います。

最近は、蓮師が行ったことは、宗教的洗脳であるのかどうかを自分なりに確かめたくて、御文章や聞書を読んでいました。

また、自分の心を見つめると、死への恐れがあることがわかりますので、それについて調べたりもしていました。

疑うことを禁止するのは、判断停止を要求することで、それは、「危ない宗教」が持っている要素だと思います。

「どうぞ調べてください」と、彌陀はお思いだと、私は思います。なぜなら、彌陀には非がないのですから、疑いを恐れる必要がありません。

疑いを恐れるのは、あくまでも、凡夫の性質であると思います。

南无阿彌陀佛

●re.1
現代人
関西の男性
[ 909 ] Re1:「疑う」ことについて 2008/11/10 (Mon) 17:19 △up ▽down
毎日様

>「どうぞ調べてください」と、彌陀はお思いだと、私は思います。なぜなら、彌陀には非がないのですから、疑いを恐れる必要がありません。
>
>疑いを恐れるのは、あくまでも、凡夫の性質であると思います。

凡夫の実機をお示しいただき、阿弥陀様の願心の広大さを知らされます。
毎日様をよき知識として独断しつつ聞法して行きます。

近代教学にかぶれて、現代人などと名乗っておりまして、恥ずかしく思いますがこのままでゆきます。

●re.2
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 912 ] Re2:「疑う」ことについて 2008/11/12 (Wed) 00:47 △up ▽down
現代人 様

私など、このようなHPを立ち上げていること自体が、恥ずかしく、おこがましいことだと思います。

私の心は、怒り、恐れ、妬み、悪知恵、悪巧み、これらのものに満ちており、そしてこれらが、元気よく活動しております。

そんなすがたを見ながら、日暮しをしております。

全く、あきれてしまう末法の機です。

南无阿彌陀佛

●re.3
酒天童子
関東の非公開
[ 969 ] Re3:「疑う」ことについて 2008/12/26 (Fri) 10:43 △up ▽down
毎日 様

こんにちは、酒天童子です。

ニュートンでしたか、晩年にこんなことを言っていたように記憶しています。

”私は真理という大海の浜辺で一握りの砂を持って遊んでいる子供にすぎない”

>私など、このようなHPを立ち上げていること自体が、恥ずかしく、おこがましいことだと思います。

人は知れば知るほど、あるいは理解が深まれば深まるほど、自分が無知であり、驕慢であり、身の程知らずだということを自覚するようになると思います。

だから、知った分かった、などという人や、なにか物事に確信を持っているとか、自信を持って断言できる、などという人は、どうも苦手です。

毎日様がこのHPを立ち上げてくださったこと、尊いことであると感謝しています。
私たちは皆が日ごとに恥ずかしく、おこがましいことをしているとおもいます。
昨日、自分もそういう出来事にあい、痛感いたしました。

>私の心は、怒り、恐れ、妬み、悪知恵、悪巧み、これらのものに満ちており、そしてこれらが、元気よく活動しております。
>そんなすがたを見ながら、日暮しをしております。

自分などは自覚すらできているか不明です。
無自覚のまま、人を傷つけ、不快な思いをさせて、反省さえもありません。
自分の中にうごめく醜い心に気づくことなく、自分は正しいとかよい父親であるとか、勝手に思い込んでいる始末に負えないやからです。

そんな自分でも阿弥陀様は決して捨てはしない、と思えることだけが救いであります。

南无阿彌陀佛

●re.4
毎日
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[ 970 ] Re4:「疑う」ことについて 2009/01/12 (Mon) 00:54 △up ▽down
酒天童子 様

あけましておめでとうございます。

見事なまでに不完全な自己を持つ私です。

それにしても、信仰というものは、押しつけやすい性質を持ちやすいものだと思います。

私も自分の過去の言動を見て、「押し付けがましかったな」と思います。

おそらく今でも、あれこれと押し付けがましい性質を抱えながら生きているのだと思います。

「無義の義」とは、殊にありがたい教えであると感じる次第です。

「他を批判する資格はない」と言いながら、自らが発することばを聞き、読んでみれば、批判的なことも言っております。

つまり、言っていることと、思っていることが矛盾している訳です。

それでも、うれしいことも増えてきて、こころも軽くなってきている感じが致します。

「前に進んでいる」感じもするのです。

それらすべての「感じ」は錯覚かもしれませんが、脱ぎ捨ててゆく感覚は、心を軽くするものです。

私はなぜ、他からの同意を必要としていたのか。

結局は、ひとりひとりが体得してゆくしかないものであり、他の人の「境地」など、全くわかりません。

そして、全く不思議なことであるのですが、六字は無上の方便であると感じるわけでございます。

この「感じ」も、「自分は救われている」と思いたいがための投影なのかもしれません。

では、「救われてない」とすればどうなのか。

それでも、「救われてない」かどうかも、わかりはしない自分であります。

なんとまあ、無知なものでしょうか。

ご縁のあった道を歩むしかありませんが、「ご縁のある道」とは、つまるところ、「自身の人生」を指すのであって、特定の団体や、特定の人物とのつきあい、特定の宗教を指すのでもないように感じます。

「真宗では・・・」とわざわざ言うのも、どうもしっくりこない。なにもしがみつくこともないのでは、と思ったりします。

そう思っているのに、阿弥陀様のことはうれしいと感じる。

この気持ちがいつ消えるかもわからない私です。ですけれども、消えることを不安に思うのもおかしいと思います。

いろいろなことを言う人がいて、そして、それに影響を受けてしまうかもしれない自分がいて、そういう状況を見ながら、日々生きております。

南无阿彌陀佛

●re.5
酒天童子
関東の非公開
[ 971 ] Re5:「疑う」ことについて 2009/01/12 (Mon) 21:08 △up ▽down
毎日様

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

昨年、毎日様とこのホームページで出会えたこと、私の重大ニュースの一つです。

>ご縁のあった道を歩むしかありませんが、「ご縁のある道」とは、つまるところ、「自身の人生」を指すのであって、特定の団体や、特定の人物とのつきあい、特定の宗教を指すのでもないように感じます。

意味深長です。

自分自身、お手引きしてくださった方、縁のあった知識様、所属する団体、それらにたいして思い出すたびに感謝を感じるする気持ちはありますが、同行の方に対して”???”と思う事や、反発を感じること、また疑問を持つことも多々あります。

時には”それはちょっと違うんじゃないか?”というような不謹慎な疑問も頭をかすめることがあります。

言いたいことを言ってしまいたい気分の時もあります。
でも、そんなとき一蓮托生だから、、、。なんて躊躇したりして、結局”なあなあ”で済ませてしまっていることばかりです。

自分はまだ何も分かっていないから、という気持ちもあるからかもしれませんが、、。

実際、この先ずうっーと揺らぎなくこの信心を全うできるかさえ疑問ですし自信ないです。

阿弥陀様はお捨てにならなくても、自分から疑問や不満をまき散らし捨ててしまうかもしれません。

だから、”どうか、私が迷ったり、乱心して阿弥陀様をののしったり、批判しても、最後におすがりしたら、どうか、どうか、私を救ってください”なんて、都合のよいお願いをしたりもします。

どうしようもないですね。

笑ってください。こんなにいい加減な自分です。

>そんな自分でも阿弥陀様は決して捨てはしない、と思えることだけが救いであります。

こんな風に書きましたが、それさえも時々疑ってしまいます。

もしかしたら”自分は救われないかも、捨てられてしますかも”とも、、。

こんな自分ですが、本年もよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.6
毎日
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[ 972 ] Re6:「疑う」ことについて 2009/01/12 (Mon) 23:52 △up ▽down
酒天童子 様

>時には”それはちょっと違うんじゃないか?”というような不謹慎な疑問も頭をかすめることがあります。

私は、「それはちょっと違うんじゃないか?」という疑問を、不謹慎とは考えません。

疑問は自由に抱くのが良いのであって、そこを探究してゆくことは、大切なことであると考えています。

私も、自身が救われるのか、救われないのか、本当のところはわかりはしません。

わからないままで、「救われるのだろう」となぜか感じているわけですが、無理して信じ込もうとも思いません。

あくまでも、「今のところ、そう感じている」に過ぎないというのが実情です。

そして、こういうことを申しますと、「そのような信はおかしい」と指摘する方がいらっしゃることもわかってきたのですが、そのような方の主張を聞き、考え、私自身は、このことを特におかしいとは思わない立場であると感じられてきました。

なぜなら、私の認識能力とは、所詮その程度のものであるはずだからで、「おかしい」と指摘する人は、自身の心を十分に批判的に見ていないに過ぎず、それであるにもかかわらず、他者批判をしている方なのだと思っております。

このように、傲慢な私でありますが、私は、自身の道を歩もうとしているのであって、それを、ひとりひとりが行ってゆくことこそ、本来であると考えております。

こう申しますと、自力の道でありますようですが、これらが他力の手のひらにのっかっている、という構造になっていると思っております。

稚拙な考えでありますが、稚拙の枠内を超える日が来るとも思えません。

現状、私は、このようにトゲトゲしておりますが、他力の道を歩んでおりますうちに、まろやかにさせていただけると信じてもおります。

南无阿彌陀佛

●re.7
毎日
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[ 973 ] Re7:「疑う」ことについて 2009/01/13 (Tue) 00:01 △up ▽down
>なぜなら、私の認識能力とは、所詮その程度のものであるはずだからで、「おかしい」と指摘する人は、自身の心を十分に批判的に見ていないに過ぎず、それであるにもかかわらず、他者批判をしている方なのだと思っております。

これは、これまでの私の経験から書いているだけで、今後において、「おかしい」と指摘してくださる方のお話を聞いていったら、「なるほど」と思う可能性もあると思います。

南无阿彌陀佛

●re.8
ボン
関東の男性
[ 975 ] Re8:「疑う」ことについて 2009/01/19 (Mon) 03:00 △up ▽down
ボンと申します。
初めて書き込みをさせていただきます。

先日、たまたまこのホームページにたどりつき、驚き、また嬉しく、
管理者の毎日様にお近づきになりたく、メールを差し上げました。

その後、掲示板の内容を詳しく拝見するに、参加されている方々も素晴らしい
方が多く、私も皆さまの会話の中に参加させていただきたいと思いました。

とはいえ、私は難しい教説は良くわかりませんので、この「疑う」スレッドで
発言をさせていただくのが、私には適切ではないかと思いました。

私は、数十年前、ある方に手を引いていただき、大事なものをいただきました。
その後、諸般の事情で、善智識様や同行様と音信が途絶えてしまいました。

私はこれまで、一人の手引きすらしたことのない人間です。もちろん、
一人といえども手引きをすることは、生易しいことではないと思います。

善智識様や同行様から常々いわれたことは、「喜べ」ということでした。
「信じろ」とは言われませんでした。「疑ってもいい」とまで言われました。
なにか、そこに深い意味があるような気がいたします。

そもそも私などは、もともと仏教に関心があったわけでもなく、
どちらかというと「死んだら何もなくなる」といった考えが強かったので、
手引きしていただいた方に「すかされて」その気になったとはいえ、
「私のようなものがよく聞けたものだ」と不思議なくらいです。

今では、「来世はあるに違いない」という気持ちが強いのですが、
それでも「見たわけではないからわからないよなぁ」という気持ちが
完全に消え去っているわけではありません。

また、前世・来世の存在は認めたとしても、「大多数の人間が地獄からやっと
の思いで人間界に生まれて、またむなしく地獄に落ちてきってしまう」という
ことも、今日ちまたに流布する様々な情報に惑わされて、「なんだかよくわか
ないなあ」ということになってしまいます。

それでも、「仮にすべて偽りであったとしても損になることは何一つない。
逆に、もしそれが本当だったら、たいへんな宝物をいただいたことになる。」
白状しますが、正直な話、私が完全に確信が持てるのは、この点のみです。

まったく私のような人間こそ「煩悩具足の凡夫」というのだろうなと、
つくづく思っております。

しかし、こんな下らないことをウダウダ考えている私のような愚か者でも
「救って放さない」というのですから、まったく有り難いというほか
ありません。

私のいただいた信心は、私の力で獲得したものではなくて、私の心持とは
かかわりなく、阿弥陀様のほうから授けていただいたといのですから、
私のような愚か者にとっては、本当に頼もしい限りです。

なにか、自分でも言っていることが矛盾している気がするのですが、
どうかお許しください。

●re.9
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 976 ] Re9:「疑う」ことについて 2009/01/19 (Mon) 22:39 △up ▽down
ボン 様

お返事差し上げるのが遅くなっておりまして、申し訳ございません。

>今では、「来世はあるに違いない」という気持ちが強いのですが、
>それでも「見たわけではないからわからないよなぁ」という気持ちが
>完全に消え去っているわけではありません。

「見たわけではないからわからないよなぁ」というのは私も同じです。

その気持ちを消し去るには、聖道を歩み、認識力を広げなければならないのではないかと想像しております。

まあ、ただ、なんとなく、「死んだらお浄土なんだなあ」と思っております。

これは私の場合は、信前、信後で変化が見られたわけです。

つまり、「自身がなんとなく感じる感じ」で判断していることになります。

それでも、見たことないわけですから、実際のところはわかりません。

「なんとなく」の感じが変わったので、私の場合は、心に出る不安の量も変わりました。それだけでも、「ありがたいことだなあ」と感じます。

私は疑い深いので、できることなら生前に認識力が広げられれば、それに越したことはないなあ、というようなことも考えます。これは、能力の向上を求めているわけです。

日常生活でも、仕事のうえでも、能力の向上を求める気持ちが、私にはあると思います。

このような自身の疑いにさらされております、なんともたよりない信なのでありますが、これが不思議なことに、今のところ継続しております。

南无阿彌陀佛

●re.10
ボン
関東の男性
[ 977 ] Re10:「疑う」ことについて 2009/01/21 (Wed) 23:40 △up ▽down
毎日様

お返事をいただき、ありがとうございます。

このような素晴らしい掲示板に書き込みをするにあたっては、まずは、
ありのままの自分をそのままさらけ出すところから始めなければと思いました。
それで、疑念を押さえ込むことのできない下劣な根性をそのまま書き込み
ました。

ひょっとしたら、「こんな下劣な輩は、この掲示板に相応しくない」と
お叱りをおけるのではなか、または、「招かれざる客」として無視される
のではないか、との恐怖を拭い去ることができませんでした。

しかし、毎日様からご丁寧にお返事をいただき、さらに、
「見たわけではないからわからないよなぁ」というのは私も同じ、
というお言葉までいただき、こんな嬉しいことはありません。

ここのところ毎日、こちらの掲示板の過去ログを拝読するのが日課となって
おります。毎日、胸躍る気持ちで帰宅し、夜中に何時間もパソコンに向かい、
少々寝不足ぎみです。

かつて、お講で聞かされたこととまったく同じ話が、ところを変えて語り継がれて
いることを知り、驚きを通り越して、これが仏のはからいというものなのかと、
重ねがさね頭の下がる思いです。

また、まったく聞いたこともないお話を拝見できたり、うろ覚えのことがはっきりと
認識できたりと、本当に勉強になることばかりです。

また、どこかのスレッドに書き込みをさせていただこうかと思いますので、
これからもどうぞよろしくお願いいたします。

●re.11
ボン
関東の男性
[ 1153 ] Re11:「疑う」ことについて 2009/03/21 (Sat) 22:12 △up ▽down
またまた古いスレッドを引っ張り出してきて、申し訳ありません。
最近の問答の中で「疑ったら化土だ」というような話しも出てきておりますので、
自分の中の「疑う心」を観察してみるのも大事な作業ではないかと思いました。

私、一念帰命の信心をいただき、一面ではうれしく思っているつもりです。
しかし、よくよく内心を鑑みるに、疑っている面があることも否定できません。

最近、この掲示板に刺激されて、聖教に目を通すことも少なくありません。
聖教に目を通す行為自体、一見、喜んでいる証拠のようでもありますが、
私の場合は、実は疑っている証拠でもあるように思います。

信心獲得者が聖教を読もうとする動機は、ひとそれぞれだと思います。
私の場合は、いただいた信心を聖教と照らし合わせて、間違いがないか、
矛盾がないか確認したいという心理が働いているように思います。

しかし、この「確認したいという心理」が起こるのは、「いただいたものが
本当に間違いないものなのか」という疑惑があるからだと思います。
本当に心の底から信じていれば、確認する必要などないのですから・・・。

「大事なものをもらっておいて、なんともったいない、罰当たりな」という
非難の声が聞こえてきそうです。自分で自分を非難する声も聞こえます。

「いただいたものを疑う気持ちをなくして、素直に喜ぼう」と自分に言い
聞かせようとも思います。「自分は喜んでいるのだ」と自己暗示をかけよう
ともします。

しかし、自分の気持ちを公平に判断して、やはり疑っていると思わざるを
えないのです。これは、決して自分を卑下しているわけでもないし、
逆に、開き直っているわけでもありません。

もし、愚尼様のように疑いをはらす「物証」を持っていたり、また、菩提心様の
ように不思議を体験できたらどんなに楽だろうという思いもあります。
私は、他力の行をいただいたという記憶を頼りに、聖教を紐解きながら、
少しずつ疑惑を晴らしていくほかないのかな、という気がします。

しかし、蓮華蔵様からご教授いただいたように、仏の本願力によりどんどん浄土に
引っ張る力がはたらいているのなら、このようなはからいのすべてが無意味で、
ただ流れに身を任せれば良いだけのような気もします。

ここの掲示板では、信心堅固とお見受けする方も多数いらっしゃいます。
レベルの低い話しで申し訳ないのですが、どうしたら疑妄を払拭して信心堅固と
なれるのか、アドバイスいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.12
菩提心
非公開の非公開
[ 1155 ] Re12:「疑う」ことについて 2009/03/21 (Sat) 23:25 △up ▽down
ボン様

>菩提心様のように不思議を体験できたらどんなに楽だろうという思いもあります。

だからこのことはあまり誤解されたくないので書かないでおこうと思っていました。

しかし、私はボン様の方がすごいと思いました。

私達は煩悩の塊ではないですか。

だったら、私は今は確かにその体験を心の支えにしていますが、それを過信して違う道に走るかも知れません。

そんな中、ボン様こそ内心に真実信心を蓄えられてこられて、私の方がすごいなと思います。

泥凡夫様にも常に教えて頂いています。

「義なきを義とす」

「有縁の道がその人の道」

一度頂いた真実信心は、どんな疑いを起そうが、摂取不捨のお約束に間違いないと思います。

その疑いが起きた時、心配になった時、このようにお互いの信心を話していける場こそ大切なのだと思います。

私はボン様と全然変わらない凡夫の中の凡夫です。

だから、私もこの掲示板で毎日様、泥凡夫様と繋がっていて有難いと思います。

南无阿彌陀佛

●re.13
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1157 ] Re13:「疑う」ことについて 2009/03/22 (Sun) 00:03 △up ▽down
ボン様

初めまして、極道坊主と申します。

ボンさまの申される事、私にも通じて参ります。

疑いの心しか持たない自分達では有りますが、疑いの心持さえも親様の御廻向と戴ければ其れも喜びへと変わって行くものと感じます。 其の疑いが因となって次に進むのでしょう?

「疑ったら化土」ならば皆が皆、化土いきですよねぇ〜?

「私は違う。」と言い切れる方は、気付かぬうちに増上慢に陥っていると思います。

「一念帰命」と一言で表せば、皆が同じ体験をせねば成らない様な気になってしまうのも凡夫と称する私たちの愚かな所かもしれません。

夫々が夫々、他人と比べる事無く己に届いて下さったものを戴いて、喜んで生かせてもらえば良いのでしょうが、なかなかその様な心持にも成れんのですよね?(比べる事でしか存在の確認が出来ませんもの仕方ないですか?)

でも、間違いなく届いて下さっているのですよ。 其の者の丁度良い形で。

如何せん、焦ってしまうんでしょうね。

今の御時勢、色んな技術で早稲が出来たり、遅らせて見たりと季節はずれの野菜の出回っていますが、私は自然に反すると思います。

作物には作物の美味しい時期があると思います。

御念佛は自然のものだと聞いています。人の手でとやかく出来るもんでもない。

ボン様にはボン様の旬があると思います。

「必ず実らせる。」の誓いが有るのですから、焦らず熟す時期を待っては見ませんか?

熟せば必ず美味しい実がなります。

こんな事しか書き込めん者ですがお許し下さい。

合掌

●re.14
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1158 ] Re14:「疑う」ことについて 2009/03/22 (Sun) 01:06 △up ▽down
ボン 様

一念帰命し、信をいただく。

しかし、多くの場合、その「信」は、「いただいた・・・らしい?」「いただいた・・・のかな?」というのが実際なのではないかと思います。

私は、そのような気持ちは、後念相続にて晴れると教わり、いま、その道を歩んでいる最中です。

お聖教を見るのが、疑いがある証拠であるのは、私も同じです。

そしてもちろん、完全に疑っておりますれば、お聖教を紐解くこともなく、他を探すのでしょうから、完全に疑っているわけでもないわけです。

つまり、疑っている証拠でもあれば、信じている証拠でもあるのだと思います。

こちらの掲示版にて、いろいろな方のご意見に触れることができますことは、とても貴重であり、私にとり、良き相続となっていると思います。

私は耳にした話だけでは満足できず、読み、考え、自ら観察することも続けております。

このような作業は、正に「一人のしのぎ」であると感じます。

近頃思いますのは、善知識だのみではないのは、善知識といえども、信をとらせることはできず、宿善の開発が必要だろうこと。

善知識の目の前に、善知識たのみのひとが現れれば、弥陀をたのむように説いてゆくことが責務なのだろうということ。

善知識にも、文字通り、「何もできない」のであろうと思います。

また、私たちは凡夫ですので、自分が救われてはじめて、利他の行ができるのだろうということです。

自身が救われていなければ、利他のようでいて、その目的は自利になってしまうのが、凡夫であろうと思います。

つまり、利他をしようとすれば自利になってしまう凡夫ですが、信をいただいて自利のために追求すれば、それが利他になるという仕掛けになっているのだと思います。

そして、これは私の個人的な意見ですが、自己暗示は良くないと思います。

それは、盲信への道ではないでしょうか。

あくまでも、観察を基礎におき、一歩一歩確かめてゆくのが良いと思います。

確認するのが、罰当たりとは私は思いません。

そのような弥陀であるならば、矛盾が生じると思います。

無義の義についてですが、お聖教読みたくなったら、読んでゆくのが無義の義であると思います。

「無義でなければならぬ」としてしまえば、今度は、「無義の義」という義が生じ、もはや無義ではなくなってしまうと思います。

信を獲っても、沙汰をつづけ、不審を晴らそうとしつづけてゆくことが大切だと思います。

そしてこれは、教義的には、往生のためではなく、利他のためであろうと思っております。

また、物証については、私は否定的な立場です。

物証で信じられるのであれば、今既にこうして肉体を持っていること自体が不思議なのですから、それでも信じられるだろうと思います。

物証で信じるようなものは、真実信心ではないと考えます。

見せれば済む、見れば済むなら簡単ですが、私の場合は、依然として、疑いは残ると思います。

一方、身の回りの物質界をみわたして観察し、そこから得てゆくような、広い意味での物証につきましては、肯定的に考えています。

(もう少し正確に述べますれば、「真実信心」そのものに対応するような物証があるのかが疑問だということです。そして、そのようなものがあれば、証巻にて明示されているだろうと思います。いわゆる奇跡や奇瑞では、不思議なことではありますが、真実信心の証拠にはなっていないと思います。)

「信をいただけたから」と言われて信じるのでもなく、物証で信じるのでもない。

言われた内容が適切であれば、結局、言われた内容を信じてゆくことになるわけですが、それは、「言われたから」信じるのとは違うと思います。

ご開山の遺されたものを読みますと、対話を大切にしていると思います。

言われてただ信じるだけのひとは、質問しません。そしてそれは、おそらくは信じ込もうとしているのであって、信じているのとは違うだろうと思っています。

現在、このようなことを考えておりますが、将来変わるかもしれません。

ボン様が抱いているような疑問は、とても大切だと思います。

そのような疑問を、丁寧に丁寧にとりあげて、少しずつ、領解してゆく。

そこに後念相続のひとつのかたちがあると考えます。

南无阿彌陀佛

●re.15
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1159 ] Re15:「疑う」ことについて 2009/03/22 (Sun) 01:11 △up ▽down
ボン 様

真実信心の性質についてですが、囲繞されて、六根から守られておりますので、意にても認識ができないはずでございます。

ところが、真実信心のはたらきにより、凡心にも変化が生じ、こちらは意にてわかります。

南无阿彌陀佛

●re.16
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1160 ] Re16:「疑う」ことについて 2009/03/22 (Sun) 01:35 △up ▽down
ボン 様

最近、愚尼様が、またお書き込みくださっていることもあり、

自信教人信様のまとめスレッド
http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=3&pastno=0&vine=2&page=0

を読んでおりました。

そこには、挫けそうになっている私の書き込みがありました。

久しぶりに読みまして、その頃の気持ちを思い出しました。

いまでも、挫けそうになります。

それでも、比較すると、あの頃とは、違うのです。

このようなところも、私にとっては、確認になってゆくのですが、あくまでも、とても個人的なことです。

南无阿彌陀佛

●re.17
愚老
非公開の非公開
[ 1162 ] Re17:「疑う」ことについて 2009/03/22 (Sun) 08:18 △up ▽down
愚老です。彼岸です。あちこちの墓所には綺麗な花とお香の煙、家族ずれが訪れて居られます。
今度お尋ねの善導独明佛正意、 ・・・・・光明名号顕因縁、開入本願大智海、行者正受金剛心
慶喜一念相應後・・・この文皆様方如何理解されるでしょうか?
行者正受金剛心・・念仏行者ダイヤモンドの様に固い信心になると説かれて居られますが。
光明は知恵の光と私は理解致して居ります。先日も書きましたが、いく度もいく度も進む、光に照らされて弥陀世界に引きよせられるる都度知恵が信心が増長し疑い心が氷が解凍されるようにそうして開入本願大智海(極楽浄土)に喜入し鉄壁の金剛心になると私は思いますが。
人間で有り人になれば念仏報謝にて心の悪が消滅されるものと思っております。

●re.18
ボン
関東の男性
[ 1166 ] Re18:「疑う」ことについて 2009/03/23 (Mon) 01:26 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。
お声をかけていただき、ありがとうございます。

>その疑いが起きた時、心配になった時、このようにお互いの信心を話していける場こそ
>大切なのだと思います。

この掲示板が、蓮如上人のおっしゃる「信心の沙汰する在所」になっているわけですね。
毎日様には、足を向けて寝られません(笑)

今日の末代濁世において、顔を見たこともないもの同士がインターネットを通して
信心の沙汰をしあうことは、すでに仏は織り込み済み(想定内)だったのだろうか、
などと想像してみると、なんだか楽しくなってきます。

これが仏法繁盛につながるのかと思うと、うれしくなってきます。


極道坊主様、はじめまして。
こうして言葉をかけていただけることを、うれしく思います。

>疑いの心しか持たない自分達では有りますが、疑いの心持さえも親様の御廻向と戴ければ
>其れも喜びへと変わって行くものと感じます。其の疑いが因となって次に進むのでしょう?

疑えば疑うほど、逆に信じざるをえないということなのでしょうか。
どんなにジタバタしても、結局はお釈迦様の手の平の上の飛び回っていた、
孫悟空のようなものなのでしょうね。

>如何せん、焦ってしまうんでしょうね。
>ボン様にはボン様の旬があると思います。
>「必ず実らせる。」の誓いが有るのですから、焦らず熟す時期を待っては見ませんか?

力強い励ましの言葉、ありがとうございます。
いつか信心堅固になれる日を夢見て、信じるにせよ、疑うにせよ、いただいた信心を常に
気にかけながら、残された娑婆の憂き世をすごしてまいろうと決意を新たにいたしました。


毎日様
的確なご教示ありがとうございます。

>そしてもちろん、完全に疑っておりますれば、お聖教を紐解くこともなく、
>他を探すのでしょうから、完全に疑っているわけでもないわけです。
>つまり、疑っている証拠でもあれば、信じている証拠でもあるのだと思います。

なるほど、言われてみると確かにそのとおりです。
「なーんだ、実は信じてもいたわけか」と思うと、少し気が楽になります。

>つまり、利他をしようとすれば自利になってしまう凡夫ですが、信をいただいて
>自利のために追求すれば、それが利他になるという仕掛けになっているのだと思います。

なるほど、これはありがたいお言葉です。
私は、これまで一人の手引きも直接したことがないのが、心の重荷になっておりました。
自分の信心すらおぼつかなく汲々としている自分が情けないように感じていましたが、
自分の信心を見つめることが「利他」につながるという発想はしたことがありませんでした。

>物証で信じるようなものは、真実信心ではないと考えます。
>見せれば済む、見れば済むなら簡単ですが、私の場合は、依然として、疑いは残ると思います。

なるほど、これも道理です。迷いが吹き飛びました。

>言われた内容が適切であれば、結局、言われた内容を信じてゆくことになるわけですが、
>それは、「言われたから」信じるのとは違うと思います。

>言われてただ信じるだけのひとは、質問しません。そしてそれは、おそらくは信じ込もうと
>しているのであって、信じているのとは違うだろうと思っています。

深いです。胸にしみるお言葉です。


愚老様、はじめまして。
いつもご高説を拝読しておりますが、こうしてお声をかけていただいて
ありがたく存じます。

>いく度もいく度も進む、光に照らされて弥陀世界に引きよせられるる都度
>知恵が信心が増長し疑い心が氷が解凍されるようにそうして開入本願大智海
>(極楽浄土)に喜入し鉄壁の金剛心になると私は思いますが。

この信心をいただいたものは、いずれは必ず信心堅固になるということですね。
ありがたいことです。

南无阿彌陀佛

●re.19
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[ 1167 ] Re19:「疑う」ことについて 2009/03/23 (Mon) 08:38 △up ▽down
ボン様

>私は、これまで一人の手引きも直接したことがないのが、心の重荷になっておりました。
>自分の信心すらおぼつかなく汲々としている自分が情けないように感じていましたが、
>自分の信心を見つめることが「利他」につながるという発想はしたことがありませんでした。


自分の心が重いから、誰かをお手引きするのであれば、それは、見事に自利のためにやっていることになると思います。

それは、自身の罪責感を解消するためだったり、あるいは、勝利感を味わうためにやっているのだろうからです。

それは、自利も自利ですし、結局は、煩悩のはたらきであると思います。

それよりも、ボン様が、内心の信を深め、安心してゆく。世間の仁義を守ってゆく。

そうすれば、まわりのひとは、安心します。これは、利他になると思います。

ボン様がうれしそうであれば、まわりのひともうれしいですよ。

お手引きと言いますと、相手の方のことを考えているようですが、私は「お手引きしたい」という方のお話を聞いていると、どうも自利の気持ちが先走っているような気がすることが多かったです。

これは、私自身の気持ちを見つめても、そう思うわけです。

ですから、「お手引きが大切だ」とあんまり言う人は、ちょっと不思議な感じがします。

たしかに、お手引きは大切ですが、御文様をご拝読いたしましても、まず大切なことは掟であり、御恩報謝の南无阿彌陀佛であると思います。

ですから、まず大切なことは、信心を内に秘め、世間通途の義を重んじて、如来に救われたことをよろこび、たのしく、うれしく、日々の仕事をやってゆくことだと思っております。

そうなれば、わかりやすく利他ですし、まわりのひとたちとの信頼も醸成されてゆくのではないかと思います。

逆説的ですが、そうしてその場に幸福が生まれるのであれば、信心とか、どうでもいいことであると思います。

お手引きするために信頼を深めてゆくような態度は、嘘つきであると私は考えます。

地中の虫までもが、いつ信を取るのか、如来だけでなく、浄土の方々は、既にご存知なのです。

それを遅めようとしても、早めようとしても、それはできないことであると思います。

お相手のことを考えれば、その方の期が熟したときに、熟れた果実が自然に落ちるように、何の障害もなく、すんなりとお話が進んでゆくはずだと思うのです。

この意味で、説得は要らないと考えています。諄々と説いていったり、自身が知っていること、自身が得たことを親切にご説明してゆくのは良いことだと思いますが、説得は、間違いのもとであると思っております。

私たちは、助けさせていただくのであって、「助けてやる」ということではないはずです。

私たちがその人を救うのではなく、如来が救うのです。その手足となってはたらける機会があるのなら、そのためにはたらくということになるのですが、既に如来はご計画済みで、はからずも、常に如来のためにボン様も働いていらっしゃるのです。

あくまでも、自信教人信なのですから、まずは自らの信を掘り起こしてゆくことであると思います。

阿弥陀さまが守ってくださる。すべては、阿弥陀さまが見てくださっている。だから、何も心配要らないのだと思っております。

南无阿彌陀佛



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