浄土真宗の教義について

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●No.107
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 839 ] 教義について 2008/10/25 (Sat) 10:09 △up ▽down
はじめまして忍草(おしくさ)と申します
私もこのホ―ムぺ―ジを黙って読ませてもらっていましたが、最近教義に関していくつかの書込みを見て、書きたくなりましたので参加させて下さい。
先日ある聴聞会に出かけましたところ、本願寺派の教章が変わりましたのでと、新しい教章が配られました。その中の教義部分です。
教義 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。と書かれていました。私も一念帰命を頂いてかれこれと20年が過ぎました、そこで
毎日様やそのほかの書込みなさっていらっしゃる方々は(1)往生とは(現生か死後か)、(2)還相廻向とは(現生か極楽へいった後か)、(3)自分の立場(凡夫か菩薩か)またそれは何故?この3点を皆様方はどうとらえておいでになるのかお尋ね致したいのです。初めての書込みなのにこのような事を書いて厚かましく思います。
私自身の考えは今後ゆっくりと述べさせて頂きます。合掌 南無阿弥陀仏

●re.1
高野豆腐
非公開の非公開
[ 840 ] Re1:教義について 2008/10/25 (Sat) 20:46 △up ▽down
はじめまして。高野豆腐と申します。よろしくお願いいたします。
私もいつも拝読させていただいております。皆様教学も素晴らしく驚いています。

忍草様

>私自身の考えは今後ゆっくりと述べさせて頂きます。合掌 南無阿弥陀仏

こんなはじめての私が申すのも何ですが、ここに書き込みの皆様にお聞きするならまず
ご自分の考えをお話するのが礼儀ではないのでしょうか。



●re.2
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 841 ] Re2:教義について 2008/10/26 (Sun) 00:17 △up ▽down
高野豆腐様  忍草です
 
注意されれば素直に謝ります。礼を欠いて失礼致しました。

本山の教章、教義が変わったのを見て、お同行の中にも往生に対する捉え方

(1)この世の縁が尽きて浄土に生まれ(往生)・・・

(2)迷いの世に還って人々を教化する(還相廻向)と布教師の説明に対して、身の周りにもこの

 ような方々が見受けられるので皆さんにお尋ねいたしました。又[ 838 ]菩提心様の書込みに
 
 一念帰命受けた人は、皆極楽往生と聞いた・・・また自分は凡夫だと思うに対して

(3)皆様はどうご自身で捉えておいでになるのかと単純にお尋ねしたのです。

私は(1)往生は即得往生で現生入正定聚・報土です。真仏土巻、「往生」と言うは、『大経』に

 は「皆受自然虚無之身無極之體」(一念帰命、念仏三昧)と言へり・・・[報土中仮土]・・

 既に以て真仮皆是れ大悲の願海に酬報せり。故に知んぬ、報仏土なりということを。

 (2)「還相の廻向」と言うは則ち是れ利他教化地の益なり。『浄土論に曰く、「出第五門」と

 は、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察し、應化の身を示して生死の薗・煩悩の林の中に廻入

 し神通に遊戯して教化地に至る。本願力の廻向を以ての故に(證巻)。

 菩薩は是の如く五門の行を修して、自利利他して、速(すみやか)に阿耨多羅三藐三菩提を

 成就することを得たまえるが故に(行巻)。故に現生です。

 (3)黒谷の聖人(源空)より、本願寺の聖人(親鸞)相承しましますところの、報土往生の、

 他力不思議の信心を、善知識ありて、伝え説きて授くるを、行者聞き得るによりて、文のごと

 く、一念歓喜のおもい、熾るについて、往生たちどころに定まるを、正定聚の位に住す、とも

 言い、必ず滅度に到る、とも言い、攝取不捨の益にあずかるとも言うなり。このときを即ち、

 凡夫、自力の心の尽きる時なれば、心の終りとも言うべし。しかれば再び臨終を待つべきに

 あらず、来迎を頼むべきに非ず、信心の定まる時、往生また定まるゆえなり(本願鈔)。

 仮令身心のふたつに付て命終の道理あいわかるべき歟。・・・善悪の生處をさだむることは心

 命のつくるときなり。身命のつくるときにあらず、しかれば臨終を期すべからざる義、道理文

 證あきらけし・・・(最要鈔)。心の終り(心命の尽きる)とは五官六識の奥に七識、八識、

 九識菴摩羅識(無垢識)の九識を指して、あの時のことですから意識の九識です。肉体は凡夫

 でも魂は菩薩なのです。書き過ぎかも知れませんね。

 菩提心様 
 
 一念帰命頂いても新興宗教へいったりして、一念帰命を信じていなくとも極楽往生出来ると思 
 われますか?絶対化土行きですよ。  合掌  南無阿弥陀仏、弥陀如来。




●re.3
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 842 ] Re3:教義について 2008/10/26 (Sun) 00:38 △up ▽down
忍草 様

忍草様の信じる信心は、新興宗教へ行ったら絶対化土行きの信心です。

しかし、私の信じる信心は、新興宗教へ行こうが、何をしようが、往生治定に変わりはないのです。

南无阿彌陀佛

●re.4
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 843 ] Re4:教義について 2008/10/26 (Sun) 22:17 △up ▽down
   毎日様
 謗法闡提、廻心すれば皆往く(信巻末)廻心すればと有ります。

 一念帰命を頂いた後、こんな簡単に信心を貰えるのは一寸可笑しいと言って他の団体(○○会

 等)へ行っても極楽浄土へ往けると云うのは論が通らないのでは無いでしょうか。五道閉され

 ていますから、地獄へは落ちませんが化土行きとなりますよ。(廻心、懺悔がなければ)

 理由  一念帰命を信じないのと、その時点で謗法となるからです。

 宗祖 成就文私釈 然るに、『經』(『大經』)に「聞」と言うは、衆生、佛願の生起本末を

 聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは・・・「歓喜」と言うは

 身心悦豫之貌を形(あらわす)なり。・・・一心は則ち清淨報土の眞因なり(信巻末)。です

 から信心を頂いて疑いが出れば、同行や善知識に聞いてその疑いを晴らすのが精進ではないで

 すか。

 若は往・若は還、皆衆生を抜きて生死海を度せんが為にしたまへり。是の故に「廻向為首得成

 受大悲心故」と言けり(信巻本)。

 毎日様の善知識様も、私が札幌で縁のあった善知識様も、次第相承の善知識として實語は全国

 どの知識様も同じだということは御承知だと思います。ならば何故[ 842 ]の文章になるので

 しょうか?

 菩提心様 教行信證をゆっくりと読んで見て下さい。頂いた時、一年後、三年後、十年後だん

 だん理解度が深まります。素直に読んで理解出来ない所は同行か知識さんに聞けばよいのす。

 肩肘はらずに、あわてずに。

 最初 眞實の行信を獲る者は(行巻)が「眞佛弟子」と言うは・・・金剛心の行人なり。斯の

 信・行に由りて、必ず大涅槃を超證す可きが故に「眞の佛弟子」と曰う(信巻末)。となって

 います。

 還相廻向は證巻で宗祖の私釈に始まって論主(天親菩薩)宗師(曇鸞大師)の文を引いて證巻

 を結んでいます。

 教行信證は浄土眞宗の根本聖典です。親鸞聖人の著した眞宗の基本です。

 私が札幌で信心を頂いた後、数年して少し解りかけた頃お手引きして下された方から、わかっ

 たと思った時は、未だ解っていない時だよ、と言われました。そういうことが思い出される今

 日此の頃です。
         合掌  南無阿彌陀佛、彌陀如来。

●re.5
7
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 844 ] Re5:教義について 2008/10/26 (Sun) 23:53 △up ▽down
皆様こんばんは。

信後の三業次第で極楽往生から化土往生へ変化するならば大変です。

皆さん、年をとれば、意志の力だけでは自分のこともどうにもならない時が来るかも知れませんが、大丈夫でしょうか。

この世にはいろんな思想があふれているので、出来るだけ本も読まずTVも見ないようにしないと、どんな影響を受けるかも分かりません。

善智識や同行に会えない環境に急に行かねばならないかも知れません。手元にお聖教の一冊もない環境かも知れません。

転んで頭打って記憶を失うかもしれません。前頭葉を損傷して理性を失うかも知れません。

自身を理想の状態に置ける保証はどこにもない無常の世です。

信後にも寿命がある人、自意識が残っている人は、いつもリスクでいっぱいですね?

それでも化土に行けるから安心、ということなのでしょうか?

自力の信心と他力の信心をごっちゃにされているように思います。
綺麗サッパリ消えてなくなりもう二度と現れようがない疑心と、疑煩悩は別物でしょう。

刻一刻変化する表面的自意識としての自分の心に用はありません。

南无阿彌陀佛を頂いたのですから。機法一体の南无阿彌陀佛です。
たのむ機も助ける法も両方とも、阿弥陀仏から頂いたもの。
凡夫の私にはどうこう変化させることが出来ません。
だからこそ安心なのですが。かたじけないことです。
有り難く喜んでおります。

南无阿彌陀佛

●re.6
泥凡夫
北陸の男性
[ 845 ] Re5:教義について 2008/10/26 (Sun) 23:59 △up ▽down
忍草 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

己の信のようを語りなさい。とのことですので私のたくわえます信心のようを申し上げます。私の信心とは、まったく毎日様と同様であります。

改悔文の通りでございます。

『もろもろの雑行・雑修、自力のこころをふりすてて、一心に「阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生御たすけそうらえ」とたのみもうしてそうろう。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝とよろこびもうし候う。この御ことわり聴聞もうしわけそうろうこと、御開山聖人御出世の御恩・次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたくぞんじ候う。このうえはさだめおかせらるる御おきて、一期をかぎりまもりもうすべく候う。』

> 謗法闡提、廻心すれば皆往く(信巻末)廻心すればと有ります。
>
> 一念帰命を頂いた後、こんな簡単に信心を貰えるのは一寸可笑しいと言って他の団体(○○会
>
> 等)へ行っても極楽浄土へ往けると云うのは論が通らないのでは無いでしょうか。五道閉され
>
> ていますから、地獄へは落ちませんが化土行きとなりますよ。(廻心、懺悔がなければ)
> 理由  一念帰命を信じないのと、その時点で謗法となるからです。
>
> 宗祖 成就文私釈 然るに、『經』(『大經』)に「聞」と言うは、衆生、佛願の生起本末を
>
> 聞きて疑心有ること無し。是を「聞」と曰うなり。「信心」と言うは・・・「歓喜」と言うは
>
> 身心悦豫之貌を形(あらわす)なり。・・・一心は則ち清淨報土の眞因なり(信巻末)。です

罪滅のお考えですね。
その是非は私は存知致しませんが「謗法闡提 廻心皆往」とはたのむ一念に集約されるものです。

『聞といふは、衆生、仏願の生起本末を 聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり』信巻

こういう理を聞き開くのは、口伝鈔2にあります。

『宿善開発する機のしるしには、善知識におうて開悟せらるるとき一念疑惑を生ぜざるなり。その疑惑を生ぜざることは、光明の縁にあうゆえなり。もし光明の縁、もよおさずは、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。』

別のスレッドでは全文引用は長すぎて避けましたが、口伝鈔4の「善悪二業の事」をあえて引きます。

『上人親鸞おおせにのたまわく、某はまったく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆえは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆえに。悪のおそれなきというは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆえに。

しかるに、世の人みなおもえらく、善根を具足せずんば、たとい念仏すというとも、往生すべからず、と。また、たとい、念仏すというとも、悪業深重ならば、往生すべからず、と。このおもい、ともに、はなはだ、しかるべからず。

もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもいのままにそなえて生死を出離し、浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずとも、なにの不足かあらん。そのこといずれも、こころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながら、すなわちおこし、善根をばあらませど、うることあたわざる凡夫なり。

かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまわんための五劫思惟の本願なるがゆえに、ただあおぎて仏智を信受するにしかず。しかるに、善機の念仏するをば、決定往生とおもい、悪人の念仏するをば、往生不定とうたがう。本願の規模、ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。

おおよそ、凡夫引接の無縁の慈悲をもって、修因感果したまえる別願所成の報仏報土へ、五乗ひとしくいることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとい読誦大乗解第一義の善機たりというとも、おのれが生得の善ばかりをもって、その土に往生すること、かなうべからず。また、悪業はもとより、もろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとして、その土へのぞむべきにあらず。

しかれば、機にうまれつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず、失ともならざる条、勿論なり。さればこの善悪の機のうえにたもつところの、弥陀の仏智をつのりとせずよりほかは、凡夫、いかで往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずとはいえ。

ここをもって、光明寺の大師、「言弘願者如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまえり。

文のこころは、弘願というは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫のうまるることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力にのりて、増上縁とせざるはなしとなり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ、悪をおそる、宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ、善にうとし。

ただ、善悪のふたつをば、過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて、機のよきあしきに、目をかけて、往生の得否をさだむべからず、となり。

これによりて、あるときのおおせにのたまわく、「なんだち念仏するより、なお往生にたやすきみちあり、これをさずくべし」と。「人を千人殺害したらば、やすく往生すべし。おのおの、このおしえにしたがえ。いかん」と。ときにある一人、もうしていわく、「某においては、千人まではおもいよらず、一人たりというとも殺害しつべき心ちせず」と云々 

上人かさねてのたまわく、「なんじ、わがおしえを日比そむかざるうえは、いまおしうるところにおいて、さだめてうたがいをなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべきここちせずというは、過去に、そのたねなきによりてなり。

もし過去にそのたねあらば、たとい、殺生罪をおかすべからず、おかさば、すなわち往生をとぐべからずと、いましむというとも、たねにもよおされて、かならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからいとして、現果を感ずるところなり。

しかれば、まったく往生においては、善もたすけとならず、悪もさわりとならず、ということ、これをもって准知すべし。』

南无阿彌陀佛

●re.7
泥凡夫
北陸の男性
[ 846 ] Re6:教義について 2008/10/27 (Mon) 00:21 △up ▽down
7 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

> 信後の三業次第で極楽往生から化土往生へ変化するならば大変です。

そもそも正定聚不退に住する所以は、我等の三業の是非によるものではなく、弥陀の摂取不捨のお誓いの故であります。そういう理を聞き開けたことこそ尊いと私も思っております。

場合にっては捨てるという御本願はございませんし、それは御本願を疑うすがた以外の何物でもないと思います。こういうことは、抑止門の解釈が根本的に違うから起こることであると思います。

場合によっては捨てる御本願であれば、正定聚不退になどなりようがないのです。

> 南无阿彌陀佛を頂いたのですから。機法一体の南无阿彌陀佛です。
> たのむ機も助ける法も両方とも、阿弥陀仏から頂いたもの。
> 凡夫の私にはどうこう変化させることが出来ません。
> だからこそ安心なのですが。かたじけないことです。
> 有り難く喜んでおります。

まったく尊いことでございます。

南无阿彌陀佛

●re.8
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 851 ] Re7:教義について 2008/10/27 (Mon) 22:18 △up ▽down
  7様  泥凡夫様
 信後の三業次第で極楽往生から化土往生へ変化するならば大変です。に対して
 私は[ 839 ]で往生とは(現生か死後か)皆様どう捉えていますかお尋ねして、[ 840 ]で注 意されましたので、謝った上[ 841 ]で現生で入正定聚・報土と書込みしました。お二方は私 の質問に回答なしで上記の意見及び賛同なされていますが、私のどの文言から書込みなされた のか再度お尋ねします。私は一念帰命を頂いて20年すぎましたと書きました。
 お二方の文は宗祖の教行信證の行巻信(本)巻を超えていません、信(末)證巻、真仏土巻、 化身土巻をよく読んで頂き、親鸞聖人は何故化身土巻を本末に分けて沢山書かれたたか今一  度お考え下さい。又蓮如上人は、御たすけありつる事のありがたさよと、御たすけあろうず  る事のありがたさと使い分けされてありますが理解されていますか。
 善知識さんも一人だけでなく、何人にもお尋ねください。老婆心(老爺心)ながら・・・
 玄中様や金剛心様の捉え方、一字一句をおろそかにせずに、全く同感です。
 高野豆腐様も御意見お聞かせください。    南無阿弥陀仏、南無阿彌陀佛。

●re.9
菩提心
非公開の非公開
[ 852 ] Re8:教義について 2008/10/28 (Tue) 06:43 △up ▽down
忍草様

>善知識さんも一人だけでなく、何人にもお尋ねください。老婆心(老爺心)ながら・・・

済みません。

忍草様、玄中様、金剛心様、愚老様、の善知識様は、皆同じ流れの善知識様方なのでしょう。

>玄中様や金剛心様の捉え方、一字一句をおろそかにせずに、全く同感です。

一番最近に信心獲得している私が思う事を書くのは、本当に偉そうで申し訳ありませんが、何しろ、単純な思考なので、気がついたことを書きます。


私が愛用している「明治書院」発刊の真宗聖典の中には

教行信證の真仏土巻は、光明無量之願、寿命無量之願と書かれていますので、それを詳しく説かれたと思います。

教行信證の化身土巻は、至心発願之願「邪定聚の機 雙樹林下往生」『無量壽佛観経』之意なり。
至心廻向之願「不定聚の機 難思往生『阿弥陀経』之意なり。

と表題に書いてありました。

それで、単純な頭で考えた事は、
私は、大無量寿経の十八願の誓願で救われる対象の十方衆生の者と理解していますので、私は、その場所を読めばいいのだと思います。
そして、信心決定すれば、それはおのずと読めてきますので、とても有り難いと思います。

又、化身土巻を拝読させて頂くと、その箇所が長いのは、多分真実報土に行く人が少ないので、間違って、化土に留まってくれるなよとの親鸞聖人の御心だと思います。

又、大病を患ったら、真剣に医者を探すと思います。
そして、名医は、何箇所も回らなくても、そこで完全に治ります。
完全に治りますから、その医者を「命の恩人」として一生、尊敬します。

又、一字一句をおろそかにしないという事は、おうように聞くなだと思います。
例えば、私は、蓮如上人の直の御文章の載っていた本と自分の御文章を比べて読んでみたことがあります。
途中、抜けていたところがありました。

又、御文は誰に書かれたかという事です。
読める人に送り、門徒衆に読み聞かせてたものだと私は思っています。
すると、御文の字づらを、一生懸命に指し示すものではなく、それは感覚的なものだと思います。
信心決定すると、その御文の書いてあることが、我が身の信心と一致するので、蓮如上人から直に聞かせて頂くような有り難さを知ることが出来るのだと思います。

随分、偉そうな事を書いてきましたが、私は、蓮如上人の「一文不知の尼入道」でも助かる教えを無視されていると思います。

南无阿彌陀佛

●re.10
高野豆腐
非公開の非公開
[ 854 ] Re8:教義について 2008/10/28 (Tue) 20:24 △up ▽down
忍草様

> 高野豆腐様も御意見お聞かせください。    

私は信をいただいてから日も浅く、教学は高野豆腐のように乾いて固い状態なので、いろいろ皆様のお話をお聞きしてじっくり心に浸みこませたいとHNにしました。

というわけで、申し訳ありませんが、私は何も意見は申し上げられないので、皆様の様々なご意見、驚きながらも、楽しみにしております。

こういう者もいるということでよろしくお願いします。

●re.11
泥凡夫
北陸の男性
[ 856 ] Re9:教義について 2008/10/28 (Tue) 22:01 △up ▽down
忍草 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
ご返答を拝読させて頂きました。

まず、忍草様の設問に明確に回答せず申し訳なく思っております。

> (1)往生とは(現生か死後か)

真宗は二益法門でございます。
現当二益は、蓮師が問答により明確に見えておりまして、穢土の益は正定聚、報土の益は滅度であります。

『おおよそ当家には、「一念発起 平生業成」と談じて、平生に、弥陀如来の本願の、われらをたすけたまうことわりをききひらくことは、宿善の開発によるがゆえなりとこころえてのちは、わがちからにてはなかりけり、仏智他力の御さずけによりて、本願の由来を存知するものなりとこころうるが、すなわち平生業成の義なり。されば、平生業成というは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもいさだむるくらいを、「一念発起 住正定聚」とも「平生業成」とも「即得往生住不退転」ともいうなり。」』1-4

即ち、宿善の機ありて、善知識に逢い奉り、六字のお謂れを聞き開き弥陀をたのむが一念帰命であり、この理を聞き開いて後、『往生治定とおもいさだむるくらいを、「一念発起 住正定聚」とも「平生業成」とも「即得往生住不退転」ともいうなり。』とございます。

往生は善導様の言われた「前念命終 後念即生」の現生の一度目(信一念)
臨終を迎え娑婆の命終える時、二度目の往生(臨終一念)

昔からよく言うではありませんか。
信一念は魂の葬式、臨終一念で報土往生。真宗行者は二度死ぬ。と。
体失の時に初めて往生するのではなく、二度目ゆえに還浄と言われるのだと思います。

ただし、あくまでも現前する報土往生は臨終の一念を迎えて後であると思います。
ここを混ぜこぜにするといかんと思われます。

このあたりは、御開山の「高僧和讃」源空讃 第十四首より伺えばよく分かることであります。

『命終その期ちかづきて 本師源空のたまわく 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし』

つまり、現生では往生の真因たる信心と共に、顕密中の密益としての正定聚の即得往生であり、死後において極楽報土に往生するという顕益を得るということです。

「浄土真要鈔」より伺いますと、さらに分かりやすいと思います。

『親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして、臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして、来迎の義を執せず。ただし、平生業成というは、平生に仏法にあう機にとりてのことなり。もし臨終に法にあわば、その機は臨終に往生すべし。平生をいわず、臨終をいわず。ただ信心をうるとき、往生すなわちさだまるとなり。これを、「即得往生」という。』

『ただ一念の信心さだまるとき、竪に貪・瞋・痴・慢の煩悩を断ぜずといえども、横に三界・六道輪回の果報をとずる義あり。しかりといえどもいまだ凡身をすてず、なお果縛の穢体なるほどは、摂取の光明のわが身をてらしたまうをもしらず、化仏・菩薩の、まなこのまえにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでにつきて、いきたえまなことずるとき、かねて証得しつる往生のことわり、ここにあらわれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。これさらに臨終のときはじめてうる往生にはあらず。』

『信心開発のとき、摂取の光益のなかにありて往生を証得しつるうえには、いのちのおわるときただそのさとりのあらわるるばかりなり。』

同じく御文1-4に見えます御意を伺います。

『真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあずかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば、聖人のおおせには「来迎は諸行往生にあり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚に住す。正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。かるがゆえに臨終まつことなし。来迎たのむことなし」(末燈鈔意)といえり。この御ことばをもってこころうべきものなり。」』

当流において一念発起するところにおいて、直ちに摂取不捨の益を頂けば臨終を待つことなく来迎をたのむことなく、正定聚に住するのです。(不体失往生)

正定聚という不退のくらいにあるが故に、必ず滅度に至るわけです。

続いての問答でございます。二益法門を説かれ、行者の信心の心得を説かれております。

『問うていわく、「正定聚と滅度とは、一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。」

答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば、二益なりとおもうべきものなり。」

問うていわく、「かくのごとくこころえそうろうときは、往生は治定と存じおき候うに、なにとて、わずらわしく、信心を具すべきなんど沙汰そうろうは、いかがこころえはんべるべきや。これもうけたまわりたく候う。」

答えていわく、「まことにもって、このたずねのむね肝要なり。されば、いまのごとくにこころえそうろうすがたこそ、すなわち信心決定のこころにて候うなり。」』

> (2)還相廻向とは(現生か極楽へいった後か)

五念門に応じる五功徳門を出でて、利他教化地の益を賜り生死に廻入し衆生済度に参るが還相廻向であります。

『『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。』証巻

近門・大会衆門・宅門・屋門と園林遊戯地門の入出二門は「入出二門偈頌文」で詳説されておられますように、御開山はあくまでも法蔵菩薩の行じ給うものを我等に廻向されておると見られております。

『菩薩の出第五門というは、いかんが回向したまう、心に作願したまいき。苦悩の一切衆を捨てたまわざれば、回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに、功徳を施したまう。』

『かの土に生じ已りて速疾に、奢摩他毘婆舎那 巧方便力成就を得已りて、生死園煩悩林に入りて、応化身を示し神通に遊びて、教化地に至りて群生を利したまう。』

御開山は「御臨末の御書」において、浄土に往生しても衆生済度に何度でも戻って来られることを残されております。

> (3)自分の立場(凡夫か菩薩か)

機より申せば凡夫。法より申せば菩薩であります。

> 私は一念帰命を頂いて20年すぎましたと書きました。

何年過ぎたかということに、少なくとも私は意味を見出しておりませんので、今に至るまで一切書く必要など感じておりませんでしたが、書かねばならぬと言われるのであれば書きます。34年でございます。

> お二方の文は宗祖の教行信證の行巻信(本)巻を超えていません、信(末)證巻、真仏土巻、化身土巻をよく読んで頂き、親鸞聖人は何故化身土巻を本末に分けて沢山書かれたたか今一度お考え下さい。又蓮如上人は、御たすけありつる事のありがたさよと、御たすけあろうずる事のありがたさと使い分けされてありますが理解されていますか。
 
お諫めありがとうございます。
忍草様の申されたいことは分かるつもりでおりますが、根本的なことが異なっておりますゆえに、お聖教が紙の粉になるまで拝読しても平行線を辿ることになると思われます。

> 善知識さんも一人だけでなく、何人にもお尋ねください。老婆心(老爺心)ながら・・・

残念ながら何人に問うても答えは南无阿彌陀佛としか返ってこないのであります。この理を聞き開かせるが次第相承の善知識でありますので。つまるところ、私共はこれ以外何も入用ではない理を聞き開かせて頂いたわけであります。

御心の痛むこともおありと思われますが、忍草様は忍草様の道をこそ大事になされることが肝要に思われます。

南无阿彌陀佛

●re.12
酒天童子
関東の男性
[ 857 ] Re9:教義について 2008/10/28 (Tue) 22:27 △up ▽down
忍草様

こんばんは、酒天童子です。

忍草様の質問の1および2にはお答えできる教学も知識も持ち合わせておりません。
申し訳ありません。

>(3)自分の立場(凡夫か菩薩か)またそれは何故?

上記については自分の立場ということですので述べさせていただきます。

忍草様はじめこれまで金剛心様や様々な方のいろいろな意見をお聞きしていると、それぞれのご意見がご自分で苦学の末に、さも構築されたかのような書き方をされています。

が、私見を述べさせていただければ、皆”自分の考え”なるものが一体、いつからどのようにして出てきたのか。また、ご自分たちが正しいと感じたり考えたりするものが本当に自分だけの感性から引き出されたものなのか、お考えになったことがありますでしょうか・

フロイトによれば”私たちの考え”なるものは、幼少期に両親や周囲の人たちから意識的あるいは無意識的に植え付けられたものにすぎない、と断定しています。

それどころか、ユングやアドラーなどはさらに別の要素、普遍的な無意識や特定のつながりの無意識(今なら遺伝的なものも指すと思われます)からも影響を受けているといいます。

”自分の考え”なるものに一点の疑いも持たない、すべてなんら他人の影響のない自分固有の考えである、とは古今東西の聖人、哲人のだれも支持しておりません。

ちょっと、外れているかと思いますが、いろいろなやり取りを見ていると、どうもそうした単純なもっとも身近な”自分の心"というものに対して、皆さんある意味”阿弥陀様”以上に勝手に信頼を寄せているように感じてしまうのです。
意気込みはわかりますが、そこら辺の所は結構大事なのではないでしょうか?

で、話は戻りますが、そういう観点から行くと、この末世、末法の時代に生まれ育ってさんざん社会通念を植え付けられている我々は少なくとも”自分であると自覚できるレベル”においては凡夫(ものすごい泥凡夫)でありましょう。

そうしてそのことを”どうしようもできない”とわかっておすがりしている凡夫ではないでしょうか?

これが、さらに高次の意識においては正直わかりませんが、、、。
ただ、おそらくはそれは皆さんも解らん、と勝手に思っております。

南无阿彌陀佛









●re.13
おせっかい
非公開の非公開
[ 858 ] Re10:教義について 2008/10/28 (Tue) 22:28 △up ▽down
>毎日様

はじめまして、HNの通り、少し思う事を書かせて頂きます。
私は、一念帰命させて頂いて、まだ、浅いし、教学もまだ、ヨチヨチ歩きで、こちらに、書かれておられる、素晴らしい方々の用に、何も、書けませんが、ただ、私なりに、思うことは、浄土真宗の教義について、と書かれ後念相続のためにも、いろいろな、意見交換をしましょうと、書きながら、結局、毎日様の信心を、正すために、必死で、他の皆様の尊い書き込みは、すべて、否定されて、いるように、おもえます。これは、泥凡夫様、7様、菩提心様に、皆さん共通されて、おられると思います。

ここに、出てこられている、4名の方々の善智識様が、同じだから、人の意見も聞けないのでしょうか?きつい、事を、書きますが、それほど、他の方の信心を、打ち消すような事ばかり、書かれるのなら、この教義の掲示板事態、意味をなさないのでは、ないのでしょうか?おおやけの、掲示板にしなくても、4名他そちらの、同行の方々で、信心の沙汰をされて、いればいいのでは、ないのでしょうか?私の善智識様も、還相回向で、戻って来たのは、人を勧化するためです。皆さん方の往生は、終わったのですから、一年かかって、一人の人でもいいから、御法にお連れしましょう、といつも、仰っています。

そして、助かった、あなた方が、口を結んでこの、素晴らしい法を、伝えていかなかったら、この、法が、だんだん消えてなくなって、しまいます。阿弥陀仏えの、御恩報謝になります。もちろん、念仏は、当たりまえです。

菩提心様の書き込みを、拝見していると、たとえば、川で溺れている人が、いて助けてほしいと言っていても、浄土に行って還ってきてから、と言って、知らん顔をして通り過ぎて行ってしまうようにも、とれるのは、私だけでしょうか?

おせっかいですが、4名の方は、もう少し素直に、他の方々の、
意見を、聞く事も大事だと、第3者的に、読ませて頂いている、
一人の、本当に、おせっかいと、思って書かせて頂きました。

私の同行の方は、仏様の御心が、1年や2年位で、何が、分かるはずが、ありません、とも言われます。

毎日様は、本当に御心が、分かって書かれて、おられるのですか?愚老様、金剛心様、玄中様、忍草様は、お分かりに、なっておられる、方だと思います。

はじめて、メールさせて、頂いて、いろいろ、ご無礼お許しください。

  南無阿弥陀仏>

●re.14
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 859 ] Re9:教義について 2008/10/29 (Wed) 00:40 △up ▽down
 菩提心様
>済みません。

 忍草様、玄中様、金剛心様、愚老様、の善知識様は、皆同じ流れの善知識様方なのでしょう。
 
 上記の件全く違います。私は前にも書いたように、20年前に札幌で信心を頂きました。その時

 の知識様は数年前に亡くなられました。お手引きして頂いた方は現在立派な知識さんになって

 御活躍で健在です。ですから札幌から北陸・四国まで約10名位存知上げています。

 [ 843 ]で書込みしました様に全国どの善知識様でも實語は同一ですから、一念帰命を頂いた

 ら往生は皆さん一緒です。往生とは、誰でも一念帰命受ければ死んだら直ちに極楽浄土へと、

 お思いでしたら考え違いです。『真仏土巻』うしろの方に、「爾れば、如来の真説、宗師の釈 
 義、明かに知んぬ、安養淨刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生此に於て性を見ること能

 わず。煩悩に覆わるるが故に」・・・「夫れ報を按ずれば、如来の願海に就きて、真有り仮有

 り。是を以て復仏土に就きて、真有り假有り」・・・「既に以て真仮皆是れ大悲の願海に酬報

 せり。故に知んぬ、報仏土なりということを」と書かれています。

 菩提心様の、信心を喜ぶ気持ちは大変良く伝わってくるのですが、自分の今の領解にこだわり

 過ぎると、親の善知識様までが浅学だと思われますから若輩ながら御注意申し上げるのです。

 [ 843 ]で書いたように素直に喜び素直に他人の(同行・同朋)捉え方も耳に入れて選択され

 ても良いのではないでしょうか。『教行信證』は結構難解なのです。六部を存覚上人は、さら

 に十部に分けて六要鈔で解説されているのです。原文はすべて漢文ですが。蓮如上人はそれを

 破れるほどお読みになられたと金剛心様が書いてありましたね。

 明治書院の真宗聖典も非常に良い聖典です。特に宗祖の私釈部分は大切だと思いますので、最

 初にゆっくりと時間をかけてお読みになられますように、勝手なことを書きました。

   合掌  南無阿弥陀仏、南無阿彌陀佛。
   

●re.15
毎日
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[ 860 ] Re10:教義について 2008/10/29 (Wed) 01:05 △up ▽down
忍草 様

>往生とは、誰でも一念帰命受ければ死んだら直ちに極楽浄土へと、お思いでしたら考え違いです

[ 856 ]にて、泥凡夫様が、浄土真要鈔を引いておられます。

そこと、「惑染の衆生此に於て性を見ること能わず。煩悩に覆わるるが故に」の関連について、忍草様は、いかが思われますか。

また、

◎一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり(聞書)

このようにございます。

さらに、

◎ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ(御消息)

であり、

◎一向専修のひとにおいては、回心といふこと、ただひとたびあるべし(歎異抄)

なのです。

申し訳ないのですが、私から見ると、忍草様のおっしゃることは、不可解なのです。

>全国どの善知識様でも實語は同一ですから

とございますが、どのようにご確認なされたのでしょうか。

忍草様の想像や、「こうであったらいいな」という願望なのではありませんか。あるいは、「そうであるはずである」ということでしょうか。

また、

>親の善知識様までが浅学だと思われますから

とのことですが、私がご縁いただいた善知識様は、自身のことを浅学と思っていらっしゃると思います。

信心いただく方が増えるのも、減るのも、ただただ弥陀のおはからい、そのように私は思っております。

私の短期的な認識ではからったところで、長期的な視座でお考えの弥陀におまかせするに如くはありません。

この意味で、信心いただいていない方がいらっしゃるのも、彌陀の大悲のはたらきの中であり、信心いただいて、他の宗教に凝るひとがいたとしても、それすらも、長い長い目で見れば、彌陀の大悲のはたらきの中において、最善のうごきをしてくださっているはずなのです。常行大悲の益をいただいているからです。

(この一生だけみてもわからないと思います。何十万年、何十億年、何劫と見なければ、わかりません。)

どなたでしたか、信者を増やそうと活動すべきだと提案した方を、「そのようなことは、弥陀がお決めになることですよ」とたしなめた方がいらっしゃったと思います。

蓮師でしたでしょうか。

このように「さっ」とわからない浅学な私です。

信をいただいて安心しまして、お聖教も忘れて参りました。法論する気持ちも、薄れて参りました。

これは、自分のことしか考えない私だからでしょう。

「自分だけ救われれば良いのか」と言われてしまいそうですが、たぶん、私は自分を第一に考えてしまうような人間なのだと思います。

日々、自分のことばかりを考えるような私です。

六字は殊にありがたいものです。

忍草様がたは、「字面のごとく」とおっしゃるのですが、その実、「字面のごとく」ではなく、独自の解釈を重ねていらっしゃるように、私には感じられてしまうので、どうもうなずけないのです。

何が正しいかは、私にはわかりません。自分の感性をたよりにして、歩む他ないと思います。

そして、忍草様にとりまして、私のうなずきなど、必要がないと思います。

自身の道を行かれる。それが肝要であると思う次第です。

教団も要らなければ、建物も要らない。それが真宗であると私は思います。

南无阿彌陀佛

●re.16
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 861 ] Re11:教義について 2008/10/29 (Wed) 01:09 △up ▽down
おせっかい 様

>毎日様は、本当に御心が、分かって書かれて、おられるのですか?愚老様、金剛心様、玄中様、忍草様は、お分かりに、なっておられる、方だと思います。

私は、御心わからず、書いております。

南无阿彌陀佛

●re.17
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 862 ] Re12:教義について 2008/10/29 (Wed) 01:20 △up ▽down
おせっかい 様

>菩提心様の書き込みを、拝見していると、たとえば、川で溺れている人が、いて助けてほしいと言っていても、浄土に行って還ってきてから、と言って、知らん顔をして通り過ぎて行ってしまうようにも、とれるのは、私だけでしょうか?

そのように解釈するのは、おせっかい様だけではないと思いますが、私はそのようには解しません。

大きく誤解されていると思います。

南无阿彌陀佛

●re.18
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 864 ] Re13:教義について 2008/10/29 (Wed) 01:31 △up ▽down
おせっかい 様

私は溺れていて、助けて助けてと叫んでいた子供と同じです。

毎日様は、知らん顔をして通り過ぎることなく、声をかけてくださり、手を引いてくださいました。

その毎日様と、菩提心様は、同じ信心です。私も、同じ信心を頂きました。

どのように解釈するのも自由ですが、誤解があると私も感じています。

南无阿彌陀佛

●re.19
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 865 ] Re14:教義について 2008/10/29 (Wed) 01:40 △up ▽down
7 様

私は近頃、「法然聖人門下でも、一流とは限らない」ということについて、考えるのです。

ということは、結局、ひとりひとりが判断してゆく他は無く、「お墨付き」は、どこにもありません。

すべてにおいて紙一重であり、そうでありながら、救いに辿りつけたと思えることを、大変うれしく思っております。

ご開山は、野に下り、教えを広められました。

本当に偉い方であると思います。

南无阿彌陀佛

●re.20
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 866 ] Re15:教義について 2008/10/29 (Wed) 02:04 △up ▽down
毎日様

 そうですね。これが一流である、という「お墨付き」は、ないですよね。

 ただ、自身の得た有縁の道が、一流であったと信じられ満足出来たことを喜びたいと思います。

 私の得た道は、お念仏も教化も、決して極楽往生から化土往生へ変化することを防ぐための行ではなく、あくまでも佛恩報謝であるということです。
 
 何かをすれば、もしくはしなければ往生する先が変化するような、自身の行による往生ではなく、あくまでも阿弥陀仏から頂いた信心一つで往生する道であることが有難く、尊く、喜んでいるのです。

 南无阿彌陀佛

●re.21
高野豆腐
非公開の非公開
[ 867 ] Re16:教義について 2008/10/29 (Wed) 05:38 △up ▽down

皆様のご意見拝読していろいろ考える機会を与えていただいたことに

本当に感謝の思いで一杯です。

毎日様 7様

お二人のお気持ち、大変分かり易く心に伝わってきます。

本来、浄土真宗はここに書き込まれている皆様のような優秀な方々

のみならず、学ぶことも不得手で悪いことばかりしかできない、そして

善知識の所までも人を導くことのできない平凡な私のような者をこそ

弥陀は哀れに思い救いの手を差しのべてくださったのだと私は思います。

そんな愚かな私にくださった信をとりあげたり、人を済度できないからと

おまえは化土行きだなどとなさるようなクールな弥陀とは私には思えません。

おまえの能力でやればよいよと言われているように思います。

あくまでも、私個人の思いです。

でも、私の有縁の道もお墨付きはありませんが、一流であると信じておりますし、

情け深い弥陀に包まれ生かされていることをありがたく思います。

皆様 本当にありがとうございました。

南無阿弥陀仏




●re.22
おせっかい
非公開の非公開
[ 868 ] Re17:教義について 2008/10/29 (Wed) 10:17 △up ▽down
7様
>>
>私は溺れていて、助けて助けてと叫んでいた子供と同じです。

毎日様は、知らん顔をして通り過ぎることなく、声をかけてくださり、手を引いてくださいました。

その毎日様と、菩提心様は、同じ信心です。私も、同じ信心を頂きました。

どのように解釈するのも自由ですが、誤解があると私も感じています。

私の、たとえが、悪かったのだと思いますが、助けてくれと、叫んでいる方を、助ける事だけでは、ありません。一念帰命しなかったら、三悪道に、落ちていかなければ、なりません。これは、自分が、知っている、知っていないは、関係なくです。

7様は、助けて下さい、と叫んでおられる方だけ、手を差し伸べれば、いいとお考えですか?たとえば、7様のお身内の方が、後生、どうなるとも、わからずに、過ごされていたとしたら、宿善、無宿善は、ありますが、誹謗させない、ぎりぎりの所まで、話しは、されませんか?
ただ、助かってもらいたい、一心です。

私は、人を勧化しなかったから、化土とは、言っておりません。でも、自分が、助かったら、それで、いいのでは、弥陀に申し訳が、たたのいのでは、ないのでしょうか?

弥陀の18願という有難い願がある事を、知らない方にも、伝えて行くことが、私達の、阿弥陀様、そして、お釈迦様、七高層、親鸞聖人、連如上人、次第相承の善知識への、御恩返しだと、思います。

現に、仏とも法とも知らない、友達に、自分の知っている事を、話しはじめていますが、はじめは、まったく、信じてもらえませんでしたが、少しずつ一念帰命してみたいと、言いだしました。これも、阿弥陀仏のお働きと、宿善かもしれませんが、口を、開けていかなければ、法は、伝わっていかないと、思います。

御文にも、2−3にも、{真実信心ヲバ イクタビモ他力ヨリサズケラルルトコロノ佛智ノ不思議ナリトココロエテ一念ヲモデバ往生冶定ノ時刻トサダメテ、ソノトキノ命ノブレバ自然ト多念ニヲヨブ道理ナリーー}と書かれていますが、私達の、善知識からは、ここの、いくたびも、深い意味がある。命ノブレバ 何のために命が、のびたか、ここにも深い意味が、あります。

7様はじめ、皆さん尊い法を、頂いておられる方々と、思っておりますが、私など出てくる事じたいが、おこがましいと、本当に思っております。申し訳ありません。

ただ、すすんで、人を勧化する事を、勧めておられないので、本当に、まだ、何も知らない私が、偉そうなことを、書いてしまいました。

私も、これにて、失礼させて、頂きます。

  南无阿弥陀仏

●re.23
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 869 ] Re18:教義について 2008/10/29 (Wed) 21:07 △up ▽down
おせっかい 様

真実信心よろこんで、報謝のお念仏。

私は、この行は、とてもありがたい行だと思っています。

もはや足す必要がないのですが、かたじけないから、やっています。

しかも、自分の心持ちが変わる気が致します。(これは、凡夫ならでは、御恩報謝と申しながらも、見返りを求めているのです。)

それでも、誠にありがたいと思います。

そこから、自然と、さまざまなことが展開してくるのかもしれませんし、何も起こらないかもしれません。

でも、何も起こらなくても、良いのです。実は、すごいことが起こっているはずだからです。

それでよいのではないかな、と、怠け者の私は思います。

お忙しいのに、御書き込み、誠にありがとうございました。

互いに考えに違いがあるのは、それもまた、自然なことだと思います。

すべてをつつむ南无阿彌陀佛です。

右に行くも、左に行くも、無碍の一道。

誠にありがたいです。

南无阿彌陀佛

●re.24
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 872 ] Re19:教義について 2008/10/29 (Wed) 22:16 △up ▽down
おせっかい 様

なるほど、私の書き方だとそのように限定的に映るのですね。

助けてくれと言う者だけが相手では、もちろんないです。

三悪道に堕ちねばならぬ人がいるとすれば、そのほとんどの人がそれを問題にしていないと思います。

先の例えで言うならば、自分が溺れていることに気付かないようなものです。

必死で説得され、助けを求めるよう人に勧めることはとても尊いことだと思います。

ただ、今振り返ってみれば、自身が溺れていると思うようになったことも、助けを求めたのも、全ては阿弥陀仏のお育てであったと喜ぶばかりです。

どうしてそこに毎日様が通りかかられたのか・・・また、毎日様がこのように積極的に情報を発信してくださっていたのか・・・これもまた全て、阿弥陀仏のお計らいであったと有難く思うばかりなのです。

信後どのように生きていくべきなのか、毎日友人知人家族親戚に声高に阿弥陀仏の本願を叫んで回るべきなのか、通りで南无阿彌陀佛に救われたと辻説法をすべきなのか。
私はその答えは御文章にあると思います。
信後どのように暮らしていくべきか、蓮如上人のお言葉から伝わる優しさが身に沁みるような日々なのです。

南无阿彌陀佛

●re.25
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 874 ] Re20:教義について 2008/10/29 (Wed) 23:22 △up ▽down
高野豆腐 様

御消息中、親鸞聖人が、法然聖人の想い出をご回想なさっている一節です。

◎故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまでおもひあはせられ候ふなり(御消息)

お聖教は、本当にありがたいと思います。

南无阿彌陀佛

●re.26
酒天童子
関東の男性
[ 876 ] Re20:教義について 2008/10/29 (Wed) 23:39 △up ▽down
おせっかい 様

酒天童子です。

いつもピント外れなことばかり書き込んでいますが、、、

私はいつも、ここに書き込んでこられる方々は菩薩であると思っております。
(私は毎日様に肯定的な方だけではなく、厳しい反対意見を言う方々に対してもまったく同じように思っているのです)

それは、この掲示板を不特定多数のわけのわからない人たちが自分の知らないところで覗き見て、あるいは批難、あるいは軽蔑、邪推、その他多くの感情を持たれることを、半分承知の上でとまどいながらもあえて書きこみをされているに違いないからです。そういう勇気と責任感に対して、敬意を感じます。

そのうえで7様の

>また、毎日様がこのように積極的に情報を発信してくださっていたのか・・・

という一文を見て、また懲りずに書かせていただくのは、おせっかい様の

>ただ、すすんで、人を勧化する事を、勧めておられないので、

が、引っかかってしまったからです。

おせっかい様、考え、察してみてください。

このようにホームページを立ち上げて、一銭の得にもならないことをこうして長期にわたって継続している方の心中を!

まさに身をもって示しておられるではありませんか?

どうして、ことさら掲示板の中でただ単に人を勧化することを勧めていないから”人を救う気持ちがあなたには無い”などと、こういう尊い場所を提供されている方に向かっていえるのか?不思議でなりません。

別に私は毎日様を崇拝しているわけでも全面的に支持しているわけでもありません。
名前も知らず、面識もないのですから、、、。

ですが、私は教学の是非、以前にそういう基本的なことがどれほど皆さんわかっているのかと、疑問を持ってしまうのです。

これは別に書き込むときにへりくだれとか、敬意を表せなどと言っているのではないですが、ときどき嫌な気持になってしまって、こういう表現になってしまいました。

直情径行な意見で申し訳ないです。教学的には何もわかってはおりませんことをご察しください。

南无阿彌陀佛

●re.27
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 880 ] Re21:教義について 2008/10/30 (Thu) 06:30 △up ▽down
  皆様方へ
 私は[839・841]で本山の教義に対しお同行の方々はどう思うかとお尋ねしたのであって、
 基本的には一味同行・御同朋の方々に私の捉え方を押し付ける気は毛頭ありませんので、誤解
 なされませぬ様に。

  高野豆腐様
 [ 854 ]了解、有難う御座います。

  泥凡夫様
 [ 856 ]ご回答有難う御座います。
 (1)の回答の真要鈔の引用で、「かねて證得しつる往生の理(ことわり)、又、往生を證得し
 つる上には」の證得の意味をどういう風に捉えているのか、お聞かせ下さいませんか。
 又二益法門は承知しております。ここで報土の捉え方、『真仏土巻』真の報土で、煩悩に覆わ
 るるが故に。と前にも引用致しました、極楽浄土ではないと私は思われるのですが。
 敢えて(報土の益は滅度)の解釈をお願いします。現生か死後か。
 (2)これも釈文は承知致して居ります上で再度現生か死後かで回答頂ければうれしいです。
 (3)了解致しました。

 私自身年数をひけらかす積りは毛頭ありません、浅学非才だからこそ少しでも精進して宗祖の
 教行信證を勉強させていただいているのです。本当に南無阿弥陀仏です。

  酒天童子様
 私は全く苦学しているとは思って居りません、菩提心様の様に喜びの上で楽しく捉えさせて頂 いていますので、あくまでもお同行の皆様方が本山の教義をどういうふうに受けとっていらっ
 しゃるのかお尋ねしたまでです。

  おせっかい様
 御意見有難う御座います。

●re.28
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 881 ] Re22:教義について 2008/10/30 (Thu) 07:53 △up ▽down
   毎日様
 私はいかに毎日様のホ―ムぺ―ジでも公開ならば[839・841]に対して、何故回答を頂けないのでしょうか。泥凡夫様からは御回答下さいましたが、毎日様はその泥凡夫様の回答を引用するだけとは、いかがなものでしょうか。毎日様と泥凡夫様とは同一人物ではない筈ですから。

 又、實語の件ですが、皆様方の書込みの中で貝合せ・割符が合う、とありましたが、ましてや初対面の善知識様同士で確認なされない訳がありません。口決合せと窺っております、その上で御紹介して戴いた善知識様方です。

 又、親の善知識様云々の件は毎日様には申上げていません、菩提心様に申し上げた書込みです。それをなぜ私の質問に答えずして、横から口出しなされるのでしょうか?この書込みで毎日様は菩提心様の親の善知識様と捉えさせて頂いても宜しいのですね。

 あえて申し述べさせて頂きます。たしか金剛心様との問答の中で、「深信というは、決定して自心を建立して、・・・」は観経の要門とお答えなされて、金剛心様から指摘をされてそれの回答は未だなされていないですね。その回答の書込みを私を始めこのホ―ムぺ―ジを見ている人々は待っていますが、まさか痛い所をつかれたら黙して語らずではないのでしょうね。
玄中様、金剛心様、おせっかい様が書き込みなされた様に、自分達の善知識様以外の同行の意見は見解が違うと全て否定なされるのでしょうか、検討もなされずに。そんなにお心が小さいとは思いたくありませんが。勝手なことを並べて申し訳御座いません。
                 合掌  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏。
 

●re.29
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 883 ] Re23:教義について 2008/10/30 (Thu) 09:03 △up ▽down
忍草 様

ご回答が遅れてしまっているのは、私の怠惰と、浅学が原因です。

「忍草様に、私は何をお書きするのが良いのだろうか・・・」ということを、考えるのです。

お話には、順序というものも、ありますね。

そこを考えるのに、時間がかかってしまいます。

私は、私の主張を誰かに押し付けるつもりは、ないのです。

いえ、正確に言えば、その気持ちは、まだ少しはあります。

これが以前は、さらにたくさんあったように思うのですが、減ってきています。

そして、私は、回答を引用しただけではありません。

忍草様のご質問に、質問でお答えしました。

忍草様にすこしでもわかるようにお答えするには、忍草様ご自身のお考えを知る必要があるとも思うからです。

もちろん、忍草様のお答えを待たずして、私の方でも、準備ができればお書きしますが、遅筆なのです。

内容がヘビーである程、準備が必要になります。浅学だからです。

私の書くことが、忍草様のご信念と異なり、気に障ったのであれば、本当に申し訳ございません。

そのようなことを避けるには、完全に黙することになります。

そして、おそらくそれがもともとの仏道であると思います。

面と向かって接するだけでなく、心から、聞きたい人に話す。それが本来だと思います。

そもそも、仏道でなくても、大切なことは、すべてそうですね。

大切なことは、心に秘めるのが自然です。

そして、すこしずつ、すこしずつ、互いに心の内を語りながら、信用もできてきて、より心の内を話し出すものではないでしょうか。

それでも、私がこうして掲示板を運営しておりますのは、そこに「ながれ」があると思ったからです。

ジャンヌ掲示板での議論が、私は好きでした。

そのような場所を求めていたのですが、見つからなかったので、自らが行動しようと思ったのです。

しばらくは、菩提心様とふたりきりのような状況でした。

それが、このように、忍草様もご参加してくださるようになり、本当にうれしいのです。

「やはり、何事も、一歩一歩、目の前のことをじわじわと進めてゆくことが肝心であるなあ」と、議論の筋とは関係がないのですが、そのような感慨を抱いてしまう次第です。

この掲示板の運営方針ですが、書き込みは公開のものですからバックアップが残るようにしていますが、たとえばメール送信の内容については、私にもわかりません。


口決合わせの件ですが、

>ましてや初対面の善知識様同士で確認なされない訳がありません。

そういうものなのでしょうか。

それほど大切なことを、初対面で簡単に確認することが、私には不自然ですし、そもそも、善知識とすぐに名乗るものなのでしょうか。


>又、親の善知識様云々の件は毎日様には申上げていません、菩提心様に申し上げた書込みです。それをなぜ私の質問に答えずして、横から口出しなされるのでしょうか?この書込みで毎日様は菩提心様の親の善知識様と捉えさせて頂いても宜しいのですね。

ここで、私は、忍草様を、思い込みがはげしく、議論も短絡的な方だと思ったのです。

そうなると、なおさら、「どのようにお話するのが、よいのだろう・・・」と考えます。

誤っている推測をするのは、凡夫の常です。

「毎日様は菩提心様の親の善知識様と捉えさせて頂いても宜しいのですね」とのことですが、もちろん、別に構いませんし、そもそも私の許可は必要ないと思います。ひとは、いろいろな推測や憶測を為すものですから。ただ、事実とは、異なると思いますので、そういう認識を持たれれば、私とは、話も食い違うでしょうし、忍草様にとって、妄語となると思います。

私は、間違えた推測を日々為しており、妄語も日々なしております。

そのような自分を見るにつけ、六字のありがたみが、身に沁みるのです。南无阿彌陀佛。


>たしか金剛心様との問答の中で、「深信というは、決定して自心を建立して、・・・」は観経の要門とお答えなされて、金剛心様から指摘をされてそれの回答は未だなされていないですね。その回答の書込みを私を始めこのホ― ムぺ―ジを見ている人々は待っていますが、まさか痛い所をつかれたら黙して語らずではないのでしょうね。

法論に、さほど関心がないのです。

要門釈であるということを言うためには、文章構造から述べなくてはならないのですが、金剛心様が耳を傾けるとは思いませんので、まずは黙したのです。

しかし、「どう書くのが良いのか・・・」とは、考えております。

今またこうして、忍草様から後押しされまして、筆無精な私も、書き出すのが早くなるかもしれません。

うまく言えませんが、書き出す気分になるまでは、私は書かないのです。

なぜなら、私の生活だからでもありますし、私は怠惰でもあるからです。

しかも、独自の用語解釈を重ねていると思う方とお話してゆくのは、大変です。

私の問いかけに対する金剛心様のお答えを見て、私の言っていることは、受け止められていないと私は思いましたし、三心一心についても、私とは考えが違う、これは、話すとなると膨大になる、と私は解釈したのです。

回答を待っている方がいれば、その方が、質問なさることでしょう。

ですから、このように忍草様がご発言くださるのは、本当にありがたいことだと思います。

その気持ちに、十分にお応えすることができていないのは、日々の生活が優先されてしまい、仏法第一で私が生きていないということなのです。

明らかに、金剛心様がたのおかげさまで、議論が活発になっていると思います。

心から、感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.30
愚老
北陸の男性
[ 885 ] Re24:教義について 2008/10/30 (Thu) 12:25 △up ▽down
愚老です。
久しく皆様方のご問答有り難く拝読させて頂いて居ります。
先般私初対面にてお会いさせて頂きました。金剛心さま次第相乗の大善智識様でした。
愚老40数年前の善智識様はすでに亡くなられ居られその相続されたお方と思って居りましたが
別人の尊いお方で御座いました。
年齢からして愚老と同じか1−2御年配のお方とお見受け致しました。40数年本願寺勧学様との学問上の答弁解釈文全て抜群の説法されて来られたお方で御座いました。勧学とは本願寺学階制度の最高位です。学階とは、得業→助教→輔教→司教→勧学という5段階があります。
知恵才覚では愚老のとても及ばない大善智識様でした。法門上には有り難く全く同一で御座いました。お会いでき心から感謝いたいます.合掌
この場にもう投稿されなくて本当に残念でなりませんが・・

>明らかに、金剛心様がたのおかげさまで、議論が活発になっていると思います。
>
>心から、感謝しております。
>
>南无阿彌陀佛
南無阿弥陀仏。

●re.31
菩提心
非公開の非公開
[ 886 ] Re25:教義について 2008/10/30 (Thu) 14:58 △up ▽down
愚老様

金剛心様とお会いされて、愚老様は、金剛心様のお姿、教学力、そして、御自分の信心と変わりないということ、私も素晴らしいと思います。

でも、又又、愚老様には申し訳ないですが、

その愚老様の眼力、思考には、全く煩悩の心は出て来ないのでしょうか?

私は、どうしてもそこにズレとか疑問があるのです。

>知恵才覚では愚老のとても及ばない大善智識様でした。

私は、この愚老様のお書込みを読んで、もう愚老様の思考には、知恵の大小で、金剛心様を見ておられるのではないかと思いました。

私達は、知らず知らずに、その外見、思考で、物事を判断していると思うのです。

若し、そこに私がいて、「ポアーン」と口を開けて、ニタニタ笑っていたら、頭が可笑しい変な人と思うと思います。

愚老様にヨタヨタと寄っていったら、多分、お優しい愚老様でも逃げて行ってしまうと思います。


煩悩の塊が凡夫の姿ではないのですか?

「煩悩具足の衆生はもとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見の故なり」尊号真像銘文

又、忍草様の「親の善知識様」って書込みにもピンときませんでした。

何だか、忍草様も愚老様も、善知識様に重きをおかれておられるように思います。

あくまで、私達を救うのは阿弥陀様ではないのですか?

どうしてそこに差別が出てくるのか、何度読み返しても私には腑に落ちないのです。

私の御縁ある善知識様は、腰の低い、まるで親鸞聖人の

「御同朋・御同行」とこそかしづきて仰せられけり、の如くのお方です。

私は、教学的な事は、まだ理解できないで法論等は、その他の御同行の書込みを参考にさせて頂くばかりですが、感覚的に、可笑しいと思ったことをそのまま書いています。

随分、失礼とは思いますが、でも、私は、阿弥陀様の前では、どんなに外見が偉い人でも心の中は、一緒だと思っています。

南无阿彌陀佛

●re.32
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 887 ] Re26:教義について 2008/10/30 (Thu) 23:33 △up ▽down
愚老 様

素晴しいご縁があって、よかったですね。

人と人との出会いは、とても不思議であると思います。

南无阿彌陀佛


忍草 様

少しずつ、書いて参りたいと思います。

メモのようなものですが、ひとまず書いてみます。

◎答へていはく、南無阿弥陀仏といへる行体は往生の正業なり。しかれども、機に信ずると信ぜざるとの不同あるがゆゑに、往生を得ると得ざるとの差別あり。かるがゆゑに『大経』には三信と説き、『観経』には三心と示し、『小経』には一心とあかせり。これみな信心をあらはすことばなり(持名抄)

◎二経の三心、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり(教行信証)

◎三経一心の義(教行信証)

金剛心様の書き方は、このようなもので、説明がありません。

私は、「思わせぶりな書き方をする人だな」と思っています。

感じ方は、ひとそれぞれです。偉そうに断定したり、思わせぶりに発言すれば、恐れ入るひともいると思います。

おそらく、少し書いて、疑問を生じさせたり、興味を引くためにやっていることなのでしょう。

(私も、そのようなことをしないように、注意しなければならないと思います。筆無精のために、結果的にそうなっていることを恐れます。本来、ことばは尽くされるべきものだと思っております。)

しかし、なぜ、そのようなことをしなければならないのでしょうか。

あるいは、本願寺様を引き合いに出さなければならないのでしょうか。

そして、「理解していますか?」のような問いかけの方法に、背後の思想が見てとれるのではないかと考えております。

宗教をされている方で、対話がむずかしい方というのは・・・避けた方がいい、というのが、私のこれまでの経験則なのです。

ですから、一緒にいて、楽しいかどうか・・・ 私は、おそらく窮屈な思いをしてしまう感じがします。

これは、個人的な好みの問題なので、法義とは直接のつながりはありません。

しかし、私は、日々のしあわせのために、自身の好みも大切にしてゆきたいと思っております。

失礼な私だと思いますが、私はこんなものです。

一念仏者に過ぎませんし、この掲示板も、趣味で運営しているに過ぎないのです。

私は私で、私の道を行きます。

その過程で、出会いもあれば、別れもあるでしょう。

すべて、お任せであります。

私自身、話したいことを話し、書きたいことを書くための場所ですし、それで良いと思っています。

それで、どうなってゆくかも、私がはからうことではないと思うのです。

「ああすべき、こうすべき」ということが少ないということ。それも真宗の魅力であると思っております。

易行門。凡夫の私には、とても魅力があります。

ありがたい道であると思い、感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.33
泥凡夫
北陸の男性
[ 888 ] Re26:教義について 2008/10/30 (Thu) 23:49 △up ▽down
忍草 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
すっかり冷え込むようになりました。暖かくしてお過ごし下さい。

忍草様からの審問でございますが、私の表現が悪かったでしょうか。申し訳ありません。
忍草様とは捉え方がまったく異なりますので、忍草様の申されたいことをまず理解しようと私なりに頑張ってみました。

つまり、報土と浄土の語を別々に捉えておられるわけでありますね。

> (1)の回答の真要鈔の引用で、「かねて證得しつる往生の理(ことわり)、又、往生を證得しつる上には」の證得の意味をどういう風に捉えているのか、お聞かせ下さいませんか。

真要鈔における上記2ヶ所の「証得」は同鈔の下記の部分に掛かると思います。

『ただ信心をうるとき、往生すなわちさだまるとなり。これを、「即得往生」という。』

信心うるとき、往生すなわち「うる。」ではなく、「さだまる。」とあります。これを「即得往生という。」とございます。

やはり先と同様に、密益としての正定聚であり、即得往生であると思います。

> ここで報土の捉え方、『真仏土巻』真の報土で、煩悩に覆わるるが故に。と前にも引用致しました、極楽浄土ではないと私は思われるのですが。
> 敢えて(報土の益は滅度)の解釈をお願いします。現生か死後か。

「真仏土巻」よりのご引用部分は下記でございますね。

『しかれば、如来の真説、宗師の釈義、明らかに知りぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。』

『安養浄刹は真の報土なることを顕す。』とあるからにはこれは極楽浄土に間違いありません。

続いて、『惑染の衆生、ここにして性を見ることあたわず、煩悩に覆わるるがゆえに。』とありますように、煩悩の雲霧に覆われておりますので見ることができません。穢土におります間はあくまでも密益であります。摂取の光明の内に住まわせて頂いておるのです。

これに対する顕益としてのご引用が上記の続きであります。

『『経』(涅槃経)には「我、十住の菩薩、少分仏性を見ると説く」と言えり。かるがゆえに知りぬ、安楽仏国に到れば、すなわち必ず仏性を顕す、本願力の回向に由るがゆえに。また『経』(涅槃経)には「衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、仏性を見ることを得」と言えり。』

また、「改邪鈔」において、私共の生死の肉体のまま浄刹には往けんことを示されております。

『全く五蘊所成の肉身をもって、凡夫速疾に浄刹のうてなにのぼるとは談ぜず。他宗の性相に異する自宗の廃立、これをもって規とす。』改邪鈔16

同時に「改邪鈔」において、これに背くことを戒めておられます。

『真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。

「廃」というは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道をすてよとなり。

「立」というは、すなわち「弥陀他力の信をもって凡夫の信とし、弥陀他力の行をもって凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもって凡夫報土に往生する正業として、此の穢界をすててかの浄刹に往生せよ」としつらいたまうをもって、真宗とす。

しかるに、風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもって浄土と称し、凡形の知識をもってかたじけなく三十二相の仏体とさだむらんこと、浄土の一門においてかかる所談あるべしともおぼえず。下根愚鈍の短慮おおよそ迷惑するところなり。

己身の弥陀・唯心の浄土と談ずる聖道の宗義に差別せるところいずくぞや、もっとも荒涼といいつべし。ほのかにきく、かくのごとくの所談の言語をまじうるを「夜中の法門」と号すと云々』改邪鈔18

> (2)これも釈文は承知致して居ります上で再度現生か死後かで回答頂ければうれしいです。

(1)での回答が忍草様とは異なっておりますので、必然的にこれも異なると思います。
と申しますのも、引きました証巻の『かの土に生じ已りて』の解釈が異なるからであります。

『『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」(論)と言えりと。』証巻

さらに私が御開山の「御臨末の御書」の意を申しましたのもそのためであります。

難しくてこんがらがるお話はこのあたりにして、ちょっとだけ私の話をさせて頂いても宜しいでしょうか。読み飛ばして頂いても結構でございます。

私は日々懈怠しておりまして、私事をこなすことでいっぱいいっぱいなのでございます。 しかし、そんな日々の中でも、忍草様 玄中様 金剛心様 愚老様のお話をお伺いして、聖教に眼を当てる機会も頂きまして有難く思っております。

他力易行の道は、聖教を知った分かったで往生できる道ではございませんが、私は実に疑いの深い男でありますので聖教をあさるのです。

お手引きのひとつとりましても、かつては、もっと一生懸命しなければ他力真宗広まらんのではないか。と、このように思った時期もございました。

しかし、毎日様も申されておりますが、真宗広まる広まらんというのも、これ全て弥陀のお計らいでございまして、私としてできることしかできん。というのが本当のところでございます。ただ、御縁がありましたらば、私としてできる限りのことはさせて頂くつもりでおります。

> 全国どの善知識様でも實語は同一ですから

この件に関しましてはここで触れないでおこうと思いましたが、お話が進んでおりますので私も少しだけ参加させて下さい。

これは少なくとも流れを汲む者でなければ、有縁の方々が何のこっちゃ?と思われると思いますし、悲しいですが実語伝わらぬ場所が圧倒的であるというのが真宗の現実でございます。あれこれ申すのは流れを汲まない方々から嘲りを買うだけのような気も致します。

忍草様ほど長年に渡り一生懸命に教学もお手引きもなされておられるお方であれば、その実は既にご存じであると思われますが、あえてそれを同一であると示されたのでしょうか。

要でありますので、同一でならなければならぬものではございますが、既に善導様の時代でもマチマチであったと聞き及んでおります。同じ法相続の流れであれば同一であることは確認もできます。

しかし、流れが異なれば既にマチマチであることが確認されたことも聞き及んでおります。ゆえに、お墨付きなどというものはなく、その流れにおいて、それを信じるか否かだけしかないのだと思います。

実語は三経にきちんとその根拠となるものがありますが、やはり各々の相承を重しとされますので受け付けて頂けんのが現実のようであります。

自分の流れが間違いないと誰もが思うものであると思いますが、それはそれを信じておるか否かというだけでしかないのであります。こういうことを議論し出すと、真偽の根拠として私には佛が見えるから。とか、光明が拝めるから。ということを持ちだし始めるのであります。

では、あなたはどう考えておるのか?答えは、知りません。なのであります。
知りもせんで、何を寝ぼけたことを言うのかこのたわけ者は。と思われるかも知れませんが、こういうことの真実をつき詰めて思慮すると結果は必ず、知りません。になるのであります。

凡夫には信じることしか残っていないのだと思っております。

師の渡らせたもう処であれば地獄なとも極楽なりとも参る。と御決心なされた御開山の御心は義なきをもって義とするを貫かれたものと私は味わっております。

南无阿彌陀佛

●re.34
毎日
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[ 889 ] Re27:教義について 2008/10/31 (Fri) 01:08 △up ▽down
泥凡夫 様

泥凡夫様の御文章は、まろやかですね。

そのまろやかさが素晴しいと思い、ジャンヌの御書き込みをダウンロードし、ひたすら読み返したときのことを思い出します。

いつもありがとうございます。

南无阿彌陀佛


忍草 様

たとえば、[ 841 ]にて、

>私は(1)往生は即得往生で現生入正定聚・報土です。真仏土巻、「往生」と言うは、『大経』には「皆受自然虚無之身無極之體」(一念帰命、念仏三昧)と言へり・・・[報土中仮土]・・既に以て真仮皆是れ大悲の願海に酬報せり。故に知んぬ、報仏土なりということを。

とありますが、これだけでは、忍草様がどのように解されているのか、よくわからないのです。

この忍草様の御書き込みは、真宗用語が連なっております。

しかし、それぞれの用語を、忍草様がどのように解していらっしゃるかが、重要です。

これだけでは、自身の考えを述べたことには、ならないのではないかと思います。

もし、よろしければ、今すこし、ご説明いただけないでしょうか。

同様に、

>(2)「還相の廻向」と言うは則ち是れ利他教化地の益なり。『浄土論に曰く、「出第五門」とは、大慈悲を以て一切苦悩の衆生を観察し、應化の身を示して生死の薗・煩悩の林の中に廻入し神通に遊戯して教化地に至る。本願力の廻向を以ての故に(證巻)。菩薩は是の如く五門の行を修して、自利利他して、速(すみやか)に阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまえるが故に(行巻)。故に現生です。

ここでも、「故に」の中身が大切であると思います。

そこを飛ばされては、説得力がありませんし、そもそも議論にならないのではないかと思います。

また、それぞれの引文を、どのように忍草様が解釈されているかの説明も重要だと思います。

さらに、真宗用語の解釈や、ひとつひとつの漢字の解釈も独自のものである可能性がありますから、その説明も必要になってくると思います。

対話をしようにも、そもそも、忍草様のお考えは、私にあまり伝わって参りません。

説明が、あまりにも不足していると思います。

おそらく、普段は、定義を共有している御同行の皆様方とお話しているからかもしれません。

同じ真宗と言えど、用語の解釈も異なる可能性があることをお含み置きいただいて、ご説明いただければ、幸いでございます。

南无阿彌陀佛

●re.35
菩提心
非公開の非公開
[ 890 ] Re28:教義について 2008/10/31 (Fri) 08:29 △up ▽down
泥凡夫様

毎日様

私は、本当にお二方にお会い出来て、ここで色々教えて頂いてとっても嬉しいです。

お二人のお示しの場所を聖典等から引いて拝読させて頂くと、一味同行の有り難さが倍増するみたいです。

これからも、この先が楽しみです。

宜しくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.36
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 891 ] Re29:教義について 2008/11/04 (Tue) 03:03 △up ▽down
   毎日様
[ 883 ]素直に読ませて頂きました。
真の善知識の実語については二・三の方からお叱りを受けましたので、今後一切書込み致しませんので了開下さいますようお願い申上げます。

私自身の性格ですが昔は短気な面もありましたが、今は相手の方が何を云わんとしているのか
解るように心がけている積りです。ですが何方様かも一面識もない方の書込みに対しては、時 により強い言葉で書く場合もあるのです。
自分では「思い込みがはげしく、議論も短絡的」と書かれショックでした。非学浅才だからこそ他人の意見を素直に聞いて、ああこういう考えの方もいるんだなと謙虚に受け止めていくべきだと思っています。そのなかで自分の信念も表現出来ればと思います。

私見ですが
教行信證は、親鸞聖人が真宗の信心を頂いた出世間の方に対し、宗祖の理念を顕された聖典で
あると理解しています。
昔、何かの書物で親鸞聖人の「教行信證」道元禅師の「正法眼藏」日蓮上人の「立正安国論」が難解な書だと書かれていましたが、今その教行信證を開いている未熟な自分がまだまだすべてを領解したと断言できない處(特に化身土巻)があっても不思議ではないと自覚していす。

ただ「教行信證」を自分達の為に著されていると思いながら書込みをしますと、六要鈔(原文は漢文なので私には読解不能な為、意訳文の『六要鈔会本』及び六要鈔ノ−ト)を頼りにしながら読ませて頂いている現状です。

その上で私が述べたいことは、一念を頂いただけでは(特に私)金剛堅固の信心(不動地以上
善慧地、法雲地、等覚までの上地の菩薩位)に行くことは難しいからこそ精進(教学だけでな く)して、因縁果を理解しなければ、端的に仏体側からは万行万徳の六字でも衆生側で何も知らずにでは、どうして理解・領解するのでしょうか。疑問に思います。
(「教行證とは所謂次でのごとく、所依所修所得の法なり・・・教によって理を顕し、理によって行を起し、行によって果を克す」又「證において往生成仏、分證究竟、遠近の差別ありと雖も、まず往生をもってその近果となす。これすなわち證なり。しかるに往生の後、見る所の身土、解行の異によって真化ありと雖も、総じて證の中に接す」とあります)
 教文類の標擧は大無量壽經、眞實之教、淨土眞宗
 行文類の標擧に諸佛稱名之願、淨土眞實之行選擇本願之行、
 信文類の標擧に至心信樂之願、正定聚之機
 證文類の標擧は必至滅度之願、難思議往生
 眞佛土文類の標擧は光明無量之願、壽命無量之願
 化身土文類の標擧は至心發願之願、邪定聚の機、雙樹林下往生、『無量壽佛觀經』之意なり。
          至心回向之願、不定聚の機、難思往生、『阿彌陀經』之意なり。
となっていますが、教巻はそのとうりですが行巻の諸佛稱名は凡夫稱名ではないはず。
又、信巻の正定聚は理解出来ると思いますが十八願に難思議往生は配当されずに十一願に配当
されています。ですから十八願から十一願そして二十二願へと精進が必要と思う訳です。
又、化身土巻の観経の意は、玄義分の個所に、「今此の觀經は即ち観仏三昧を以て宗と為す、 亦念仏三昧を以て宗と為す」の文言があります。
又、毎日様は存覚上人の辨述名體抄、真宗信心鈔、三心三信同一之事等はお読みになっている事と推察されますので、私の述べたいところは大経・真仏土巻に書かれている仏道とは現生・正定聚であって、極楽へ往生してからではなく、又往生も現生での報土往生と理解させて頂いています。

  7様
[ 866 ]で「極楽往生から化土往生へ変化云々」とありますが、化土から極楽はありえても極楽から化土はありえません。戯言はやめて下さい。

  菩提心様
「忍草様も愚老様も、善知識様に重きをおかれて云々」菩提心様はお文2-11通の「ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大なる過なりと心得べきものなり」又、「改邪鈔18」も読んでいるはずです。私は少しくらいはけなされても、年長者の愚老様(確か72歳?)までを非難されるのは見過ごしには出来ません。菩提心様は知らぬふりして結構読んでいるはずです。○○会に長年いたのでしたら聖典の勉強はなさって当然だと思われます。

「歎異抄」はカミソリ聖教ともいわれています、奥書だけではなく何故明治まで秘蔵されていたかお考え下さい。

  泥凡夫様
[ 888 ]読みました。
報土・浄土と極楽淨土は区別して捉えています。真仏土巻の[結釋]で片側は極楽淨土で片側は穢土とは、同一の真仏土でどうしたらそのような捉え方になるのか今一度再考願います。
「證得」は證(あかし、と、さとり)の両方で捉え、あかしは証明、さとりは覚のまえのさとりと自分では捉えます。さとりも了解、領解、證、覚、悟の順に考えます。覚までは現生、悟は仏界(極楽世界)

親鸞様は我一人が為ならば、私も我一人が為と捉えれば、教行信證も仏道精進の為であり、報中の假は化と違いますから假は未證淨心、初地已上七地以還の仏道をあゆむ菩薩と捉え、真の報土は八地(不動地)以上等覚まで現生だと捉えますが、自分の位地は仏のみぞ知るです。
非学浅才煩悩だらけの私はけっして自惚れてもいませんし、慢心する気持ちもありません、ただ化土へは行きたくありません。でもそれも佛のみぞ知るところでしょう。
追伸、階段知識は論外とだけ申上げます。

私の意とするところはなかなか上手く書くことが出来ません、玄中様か金剛心様でも再登場をお願い致します。

 

●re.37
菩提心
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[ 892 ] Re30:教義について 2008/11/04 (Tue) 06:37 △up ▽down
忍草様

>菩提心様
>「忍草様も愚老様も、善知識様に重きをおかれて云々」菩提心様はお文2-11通の「ただ善知識ばかりを>本とすべきこと、大なる過なりと心得べきものなり」又、「改邪鈔18」も読んでいるはずです。私は少し>くらいはけなされても、年長者の愚老様(確か72歳?)までを非難されるのは見過ごしには出来ません。

私へのご意見が有りましたので、答えます。
忍草様は、愚老様を非難されるとお考えでしょうが、私は、私の考えを述べただけです。
愚老様と私は個人的に何回もメールのやり取りをして、又愚老様のお優しさも実感しています。

ただ、私は、やっぱり死ぬまで凡夫だと思っていたから、そのままその思いを書いただけです。
愚老様から直接、お叱りのお言葉を頂ければ、私は、自分の思いを話すかも知れません。でも、その時は、個人的にお話させて頂くかも知れません。

又、忍草様は、私は少しくらいはけなされてもと、書いておられますが、忍草様の方が先に、最初にも書かれたように「絶対化土行きですよ」とか「親の善知識様」とか書いておられますが、御自分の書きこみには何の思いも出てこられないのですか?

>菩提心様は知らぬふりして結構読んでいるはずです。○○会に長年いたのでしたら聖典の勉強はなさって当然だと思われます。

私は、上記の書きこみに対しても、随分と忍草様は傲慢ではないかと思います。知らぬふりなんて書き方は可笑しいと思われませんか?
確かに、知らず知らずに聴き覚えた事は有り難いと思いますし、玄中様からも、無駄では無かったですよと言われましたように、私は全然無駄では無かったと思いますが、真実信心には辿り着かなかったと思います。
聖典の勉強は、助かる為には別にいらないと思いますが、でも中身も段々分ってきますので、おいおいこの掲示板からでも質問しているかも知れませんね。

>「歎異抄」はカミソリ聖教ともいわれています、奥書だけではなく何故明治まで秘蔵されていたかお考え下さい。

お考え下さいと言われても、そういう点では、上記の書きこみの通り、長年聞いていても、違った方向から聞いていたので、知りません。
若し、忍草様が御存知でしたら、教えて下さい。

私は、「必堕無間」と聞かされ、どうしても死んだら地獄へ行くのは怖いと思い、探してきた道です。

今は、お陰様で信ずる道を歩んで行くだけです。
そして、行く道すがら、泥凡夫様や毎日様や7様とも、このような掲示板でお話出来るのが大変有り難いと思います。

南无阿彌陀佛

●re.38
菩提心
非公開の非公開
[ 893 ] Re31:教義について 2008/11/04 (Tue) 07:48 △up ▽down
忍草様

>自分の位地は仏のみぞ知るです。
>非学浅才煩悩だらけの私はけっして自惚れてもいませんし、慢心する気持ちもありません、ただ化土へは行きたくありません。でもそれも佛のみぞ知るところでしょう。
>追伸、階段知識は論外とだけ申上げます。

私は、ずっとここに疑問が出てくるのです。

忍草様は、ご自分で自惚れてもいないし、慢心する気持もないとお書きですが、

>化土へは行きたくありません。でもそれも佛のみぞ知るところでしょう。

上記の書きこみだと、忍草様は佛のみしか御存知ない事を、忍草様の善知識様は御存知だという事でしょう?

私は、善知識様は、法を与えて下さる時だけ善知識様のお仕事をされておられて、普通は凡夫のお姿だと思います。

だから、善知識様を眺めても、安心してお側にも行けるのだと思います。

段階知識は論外とは、どういう事を言われるのか知りませんが、私の善知識様は、私を優しく包んで下さるような慈悲心に満ち溢れておられる善知識様です。

でも、ご同行にちょっとお小言を言われると、「ごめん、ごめん」って素直に謝れる善知識様です。

このような善知識様を通して、私は、尚一層仏法の有り難さを肌で感じる事が出来ます。

私は、忍草様のお書込みにより、益々、有縁の善知識様のお姿を思い浮かべる事が出来ました。

今直ぐにでも、飛んで行ってお会いしたいような思いが出てきました。

南无阿彌陀佛

●re.39
7
中部の男性
[ 894 ] Re32:教義について 2008/11/04 (Tue) 12:58 △up ▽down
忍草様へ

[ 866 ]で「極楽往生から化土往生へ変化云々」とありますが、化土から極楽はありえ>ても極楽から化土はありえません。戯言はやめて下さい。

こんにちは。寒い季節ですから、温かい飲み物でも飲んで、一息ついて、ゆっくり落ち着いてから読んでください。

「化土から極楽はありえても極楽から化土はありえません。」というのは私も同意見です。
ただ、信後に法謗罪など犯すと、極楽行きから化土行きへと転じる、と何度も主張していらっしゃる方が見受けられますので、その方を指名してご指摘なさってください。
私はそんなことはない、と書いているだけです。

●re.40
7
中部の男性
[ 895 ] Re33:教義について 2008/11/04 (Tue) 13:01 △up ▽down
忍草様へ

 あなたが戯言と指摘された意見は、玄中様、金剛心様、愚老様のご見解そのものなんですが、大丈夫でしょうか?

●re.41
泥凡夫
北陸の男性
[ 896 ] Re34:教義について 2008/11/04 (Tue) 22:48 △up ▽down
忍草 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

> [ 888 ]読みました。
> 報土・浄土と極楽淨土は区別して捉えています。真仏土巻の[結釋]で片側は極楽淨土で片側は穢土とは、同一の真仏土でどうしたらそのような捉え方になるのか今一度再考願います。
> 「證得」は證(あかし、と、さとり)の両方で捉え、あかしは証明、さとりは覚のまえのさとりと自分では捉えます。さとりも了解、領解、證、覚、悟の順に考えます。覚までは現生、悟は仏界(極楽世界)

忍草様方の流れにおいては独特の思想体系があるものと思われます。
私はできるだけ分かりやすくということを心掛けて書きましたが...。
読みました。の一言で片付けられてはちょっと寂しいです。これは逆も真なりで忍草様も思われておられることと思います。

先の「真仏土巻」の引用には顕密の益としての解釈を添えましたがお分かりになられませんでしたでしょうか。繰り返しになり申し訳ありませんが、忍草様との解釈の違いはこの捉え方の違いから派生するものと私は理解しております。

先の[ 856 ][ 888 ]が私の答えであります。

> 非学浅才煩悩だらけの私はけっして自惚れてもいませんし、慢心する気持ちもありません、ただ化土へは行きたくありません。でもそれも佛のみぞ知るところでしょう。

私は少なくても、息慮凝心も廃悪修善も及びもつかず、これを潔く捨てた煩悩具足の者であり、忍草様とは異なり、同時に自惚れも具足し、慢心も具足しております。
ただ、弥陀の摂取不捨のご誓願をこそ仰いでおりますので、我として浄土だ。化土だ。地獄だ。などの計らいは無効であることを知らされるのであります。
私は南无阿彌陀佛の六字以外に何も入用でない信をこそ蓄えさせております。

一連の問答はお互いの理解を深めるというよりも、結果、是非を問うことになります。
私は弥陀の抑止の働かん信はありえんと思っておりますので、忍草様の有縁の道をこそ大事になさることを先にも申し上げた次第であります。

仕舞には、ほれ!!謗ったな。などと言うのがオチのように思われます。
それは謗った側に問題があるのではなく、謗らせた側に問題があることを蓮師は御文で戒めておられます。

それでも私共はまだ法流を汲む者ですので、まだ良いと思うのです。
忍草様がご批判されておられる本山様や現在の真宗全体から見れば、私共も忍草様方も極少数の異端として嘲りを買うだけだと思います。

こんなやり取りの間にも、忍草様方の御同行様方も御相続の助けとなっておるでしょうし、私共の御同行も同様なのも事実であると思います。
また、たまたまこの掲示板に辿り着かれ、正意あり。と思われる方もお出ましになるやもしれません。そんな思いから書き連ねてみたのですが、ご不快な思いをされてまで問答する必要性は私は全く感じておらんのであります。

今日は最後に皆様と共に味わいたく「御消息集」より引かせて頂きます。

『如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申すは、摂取不捨の利益にあずかるゆえに、不退の位にさだまると御こころえ候うべし。真実信心さだまると申すも、金剛信心のさだまると申すも、摂取不捨のゆえに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを、不退のくらいとも、正定聚のくらいにいるとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころのさだまるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまうなり。このゆえに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また、補処の弥勒とおなじと申すなり。』

南无阿彌陀佛

●re.42
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 899 ] Re35:教義について 2008/11/06 (Thu) 17:57 △up ▽down
   泥凡夫様
先ず[ 891 ]で読みました。の一言で片付けられてはちょっと寂しいです。に対して素直にお詫び致します。冒頭に毎日様に対して素直に読ませて頂きました。と書込みながら泥凡夫様に読みました。では言葉足らずでした。
私は泥凡夫様の[ 856 ][ 888 ][ 890 ]すべて誠実な書込みをを素直に受け取っている積りです。ただお互いに捉え方の違いがあるだけだと思っています。
又このような事で謗ったり諍論したりすることは、ましてやお顔も拝見せずに、なにをかいわんです。

私はお盆に或る方から明治29年発行の原口針水和尚口演、島地黙雷勧学校閲の「六字釋法話」を戴きましたので、この本をパソコンに入れているところです。偶然今日の個所に次のようにありましたので一寸止めてここに転記致します、無礼お許し下さい。
[信心の得らるゝは平生の時、何處にても帰命の一念發得すればよい、おさめ・たすけ・すくうの御慈悲を委しく教え玉うが善知識、爾れば善知識にあいて除苦悩法の聞こえたが南無と帰命する一念じゃ。故に此善知識の言(ことば)の下に早阿彌陀佛の光明の中じゃ。仍で觀經の除苦悩法の言の下に三尊の阿彌陀佛來照し玉う。故に善導大師は「人法並彰故名阿彌陀佛」と仰せられ、人を法に疉めば阿彌陀の三字に攝まり「攝取不捨故名阿彌陀」となる。助くるぞよの御法(みのり)を聞くとは即ち「つみふかく如来をたのむ身になれば、のりのちからに、西へこそゆけ」にて「まことののりにかなうみちなれ」とは佛をたのむのじゃ。法の力が頼母敷聞得られたは如来をたのむ身になりたればじゃ。故に阿彌陀の三字が善知識の言の下に聞得られたが即ち帰命の一念發得するのじゃ。其時を以て前念命終後念即生し「のりのちからに西へこそゆけ」と入正定聚必至滅度と娑婆から淨土へやりわたし、死んでより行く處じゃない、善知識の言(ことば)の下が行き始めにて中間の白道の行終りが彌陀同体の大果報即ち入正定聚の終り必至滅度なり。之れ平生業成の有難さじゃ「法(のり)をきくみちにこゝろのさだまれば南無阿彌陀佛ととなへこそすれ」でなくてはならぬ]
つい嬉しくて書込みました。

『化身土巻』要眞二門結釋に、『大論』に四依を釋して云わく、涅槃に入らんと欲する時、諸の比丘に語りたまわく「今日より法に依りて人に依らざる應し、義に依りて語に依らざる應し、智に依りて識に依らざる應し、了義經に依りて不了義に依らざる應し」と。「法に依る」とは法に十二部有り。此法に随う應し、人に随うう應からず。「義に依る」とは義の中に好悪・罪福・虚實を諍うこと無し、故に語已に義を得たり、義は語に非ざるなり。・・・「智に依る」とは、智は能く善悪を籌量し分別す、識は常に樂を求めて正要に入らず、是の故に「識に依る應からず」と言えり。「了義經に依る」とは一切智人有す、佛第一なり、一切諸經書の中に佛法第一なり、一切衆の中に比丘僧第一なり。乃至。・・・爾れば末代の道俗、善く四依を知りて法を修す可きなり。
          南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、
          南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。

●re.43
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 900 ] Re36:教義について 2008/11/07 (Fri) 21:22 △up ▽down
  毎日様  泥凡夫様
[ 889 ]で用語の解釈又自身の考えを説明して欲しいとの事ですが。
報土の件ですが、一念帰命を頂いた時点で入正定聚は御理解いただけると思います、私共はここは報中の假と捉えます(初歓喜地)(17・8は弥陀の振袖)。
「行巻」稱名は則ち是れ最勝眞妙の正業なり(17願)正業は則ち是れ念佛なり。念佛は即ち是れ南無阿彌陀佛なり。南無阿彌陀佛は則ち是れ正念なり(18願)。行信に帰命。
「信巻」信樂と言うは、則ち是れ如来の満足大悲・圓融無礙の信心海なり・・・即ち利他廻向之至心を以て、信樂の體と為るなり・・・是を利他眞實の信心と名く。忻求淨刹の道俗、深く信不具足之金言を了知して、永く聞不具足之邪心を離る應きなり。
金剛の眞心を獲得する者は・・・必ず現生に十種の益を獲。
仰ぎ願わくは一切の往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。今身に彼の國に生れんと願わん者は・・・畢命を期と為すべし。
念佛の衆生は横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念之夕、大般涅槃を超證す。
六要鈔には、極楽に生ずる者皆八地に登って、すなわち法身寂滅の極理を證す。又、無生忍を得ること・・・今深位に就きてまず八地に拠る。
「證巻」謹んで眞實證を顕わさば、則ち是れ利他圓満の妙位、無上涅槃之極果なり・・・則ち是れ必至滅度之願より出でたり・・・然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之數に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。必ず滅度に至れば・・・。
ですから初地から八地以上へ佛道の精進が必要と捉えます。自利では極楽淨土へ往けるとは書かれて無く利他(11願から22願へ行って)現生での還相廻向を必要と捉えています。

公開の書込みですからこれ以上は詳しくは書けません。掟、抑止がありますので。

虚無之身無極之體・念佛三昧等は
眞の善知識様に知識の三種の持ち物(証拠の品)を見せてもらって説明していただければご理解も可能かと思われます。この項は書き過ぎだと自覚いたします。

私も、お陰様で今日も一日生かされていると感謝しながらの南無阿弥陀仏です。その点では皆様と一緒だと思っています。

       合掌  南無阿弥陀仏、南無阿彌陀佛。

●re.44
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 901 ] Re37:教義について 2008/11/07 (Fri) 23:08 △up ▽down
  泥凡夫様  毎日様
[ 856 ]で機より申せば凡夫。法より申せば菩薩であります。と理解されて居るわけですから、教行信證全体を法(佛體側)と機側の両面でのそれぞれどちらの面で解釈なされるのかも必要かと思います。これもあくまで私見ですので押し付ける気は毛頭ありません。誤解なきよう。

[ 900 ]で入正定聚は報中の假と書きました。その後の八地以上を眞の報土(眞佛土)と捉えます。初地は八地の貌、八地は成就(等覚)の貌ですから畢命を期と為すべしです。

山科連署記に、
御たすけありたる事のありがたさよと、念佛申すべき候や。又御たすけあろうずる事のありがたさよと、念佛申すべく候やと、空善たずね申されける時。仰せにいずれもよし。但し正定聚のかたは、御たすけありたるとよろこぶ心なり。滅度のさとりの方は、御たすけあろうずることのありがたさよと申す心なり。
ここでは私は、御たすけありたるを「未證淨心の菩薩」初地から七地。御たすけあろうずるを八地已上の生身の菩薩と捉えます。
又、連署記末の最終に
今度の御遺言聊かも間違いまじくよし、堅く御兄弟中談合ありて定めらる。しかれば総坊主衆へも、一念の御遺言をしかと決定なくば、あさましきことなり。先師上人へはや御請を申さるる上は、しかと信心決定して、佛法興行なくば、御住持を御斟酌あるべき旨、顕證寺を御使いにて諸坊主衆へ、仰出さるるあいだ各々忝きよし御請申しけり。
ここでの、しかと信心決定しての、しかとの文言は八地已上の金剛堅固の信心だと思います。

[ 891 ]了解下さいますよう、の字を了開と誤字しました、申し訳御座いませんでした。
      合掌  南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.45
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 910 ] Re38:教義について 2008/11/11 (Tue) 00:31 △up ▽down
   愚老樣
[ 899 ][ 900 ][ 901 ]と書込みましたが何方からも御返事がありません、六字釈法話に二河譬を引いて後念即生も現生となっているので引用させて頂きました。

愚老樣の御感想を戴ければ幸いです。

           合掌  南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

●re.46
愚老
北陸の男性
[ 911 ] Re39:教義について 2008/11/11 (Tue) 09:57 △up ▽down
>   愚老樣
六字釈法話に二河譬を引いて後念即生も現生となっているので引用させて頂きました。

>愚老樣の御感想を戴ければ幸いです。

忍草様
初冬に入り朝晩冷え込んで参りました。幾度の投稿読ませて頂きました。
古書からの尊語、有り難く了解致しました。合掌
南無阿弥陀仏。


●re.47
忍草(おしくさ)
非公開の男性
[ 960 ] Re40:教義について 2008/12/13 (Sat) 18:13 △up ▽down
毎日樣、泥凡夫樣、酒天童子樣
 
 忍草です。下記書込みを読みましたので一寸書かせて頂きます。
>中途半端に”自分の意見”や”見解”を表明だけして、それが対立したり、意見が分かれたりすると”もっともらしい言い訳”をしてここから逃げるように去っていくのか、

これは自分にはちょっと不思議です。

たぶん、自分のほうが外れているのでしょうが、、、。

もう少し、付き合って”とことんまで”やって欲しいのですが、、、。

しばらく様子を見ていましたが、金剛心様とか愚老様あるいはその考え方に同調されている方々はどうやら引いてしまったようです。

"わからんやつらにこれ以上色々言ったところで、埒が明かない”

”あなたはあなた、わたしはわたし”

”結局は自分の信じる道を歩むしかない”

いろいろありそうです。

だったら、はじめから書き込む必要もないように思ってしまうのは、浅はかなものの考えでしょうか?

無知な人をそのままにしておく自由が私たちにはありますよね。
それは私たちの大切なレッスンの一つですよね。
 でも、皆さんはそうではないから、何とかしようとして、ここに書き込んでいるわけですよね。

すこし、淡泊すぎないかなあ、なんて思ってしまいます。

特に金剛心様、あなたは博学ですよね。ただただ、撒き散らして思わせぶりして、なんか自己満足して、高みの見物しているのではないですか?

自己の見識や知識を人にぶつけてみて、反応を見て、すごく綺麗で済んでいませんか?

あなたは菩薩を自認していますよね。

上求菩提、下化衆生。

理屈で言い争う気持ちはさらさらないです。

もう少しレベル(あなたのおもうかぎりにおいて)を合わせてもよいのではないですか?

なぜならここに書き込んでいること自体が、あなたという存在のそのものなのですから。

何を言っているか、ちょっとあやふやです。

でも、うそとかいい加減な気持ちではありません。


私は逃げ去った積りではありません。

ここの大きな命題は教義とありますので、教義に就て書かせて頂き、又自分の捉え方(精進、還相廻向、報土等)この穢土即ち娑婆界で現生と書かせて貰いました。

[891・899・900・901]を書き込んでその後の皆様の書込みをお待ちしておりました。

私は一念帰命をさせていただいたのは初歓喜地の入正定聚であって、それ以降は精進して不動地已上へ現生で増進すべきと書いたつもりです。

又還相廻向も当然現生であるとも書きました。

一念帰命は攝取不捨だから(間違いではありません)穢体死して即極楽ではなく精進が必要ですよと、苦言を呈しただけなのです。攝取不捨は五道閉であり六道閉ではない。

他力浄土真宗は簡単ではありますが奥は深いのです。

経論釈がひとつに繋がってこそこれ程有難い教えはないと、報恩感謝の慈悲やお念仏が自然にでるのです。

おそらくは毎日樣、泥凡夫樣は、お気付きになられたと思って一ケ月間じっと書込みをお待ちしておりました。

普通のお茶のみ友達が毎日樣のご機嫌取りの場ではない筈です。

教行信證が難しいから六要鈔があり、仮名聖教があると思います。

眞俗二諦と同様に、解学・行学も車の両輪の如く学んでいくべきと思います。
行巻だけ或は信巻に、ではなく教行信證全体を理解出来るようになりたいと思っているのです。

酒天童子殿
尻尾を巻いて逃げたのではないのですぞ。

最下の悪人 忍草でした。
      南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛。

どなた様かここでの書込み返事お待ち致しております。  合掌。

●re.48
愚老
北陸の男性
[ 961 ] Re41:教義について 2008/12/14 (Sun) 10:02 △up ▽down
忍草さま
お久しぶりで御座います・私の思うところ書き記して見ました。
下から順々に五十二段位まで間違って居りましたらご指導願います。

八満四千之相形あり        閻浮金色佛身高六十萬億那由他恒河沙由旬
 三十ニ相八十隋形好也  眞佛眞土 百色無量光明神力神通
 三明六通無碍自在         金色坐百寶荘厳   
 久遠實成阿弥陀如来        金色堅固三重金剛蓮華
 虚無之身無種の体
 
 是 利 林            光明台下足時有金剛摩尼華布散園光如百億三千大世界
 應 身 他            於園 光中有百萬億化佛金色生千輻輪相 
 三十ニ相八十隋形好也  真佛土  金色三重蓮華
 三明六通無碍自在         同体不位住
 
 還相回向之相状也         十方三世之佛菩薩六方恒沙菩薩来迎 
 佛 報 身 土     真土   金色坐ニ観之光     
 遊戯               金色ニ重蓮華
 教化               同体不ニ位資格

 身 佛         報佛報土 十方三世之佛菩薩六方恒沙菩薩来迎
 地 門              金色ニ光ニ臺 
 還相回向之相状也         開相金色ニ重蓮華
 佛 報 身 土

             報土
 
 往相回向之相状也    上品上生 大經之上輩之行者二十五菩薩之来迎
 上 輩              隋機
 上 根              金剛金色蓮華台
 安楽浄土
 観經九品蓮華      上品中生 差別  
 上 行              紫色大蓮華台 大經之上輩之行者二十五薩之来迎
 往相回向之相状也
 上根人         上品下生 諸聖
 上信人              金色蓮華生 大經之上輩之行者二十五菩薩之来迎
 中 輩         中品上生 大經之中輩之行者七菩薩の来迎
 中 根 極
 安養浄土極楽国土九品  中品中生 七寶蓮華中にて一日一夜にて蓮華開く
 聖世衆 中行 中智        観音
 中根人         中品下生 西方極楽浄土に生じ七日へて蓮華開く
 中信人              勢至
 下輩 下根       下品上生 諸  寶蓮華に乗じて寶池の中に生す七日へて蓮開く
 下行 下智       下品中生 薩  七寶池の中蓮華の中六劫をへて蓮華即開く
 下根人 下信人     下品下生 捶  七寶池の中蓮華の中十ニ大劫へて蓮華即開く
 
             化 土  浮かぶ者あり落ちる者あり六十三餘通りありと
             天上界  一千年過ぎると三悪道に落,ニ十五種あり
             人間界  十悪五逆五障三従三毒五欲に依って過ちの業まちまち也
                  佛の縁無量なり恐るべきことなり、萬歳之戒級貧福千差
                  萬別なり
             修羅道  説明略
             畜生道  説明略
             餓鬼道  説明略
             地獄   説明略
南無阿弥陀仏。





                  

●re.49
酒天童子
関東の非公開
[ 963 ] Re42:教義について 2008/12/16 (Tue) 21:20 △up ▽down
忍草様、愚老様

ご無沙汰しています。酒天童子です。

まずはお返事をいただき、お二方ともお元気でありますようで何よりであります。

> 私は一念帰命をさせていただいたのは初歓喜地の入正定聚であって、それ以降は精進して不動地已上へ現生で増進すべきと書いたつもりです。
> 又還相廻向も当然現生であるとも書きました。
> 一念帰命は攝取不捨だから(間違いではありません)穢体死して即極楽ではなく精進が必要ですよと、苦言を呈しただけなのです。攝取不捨は五道閉であり六道閉ではない。

自分としてはやっと、七高僧の論注釈を読み終わったばかりのところでして、ようやく教行信証とサンスクリットの無量寿経(数あるうちのもっともポピュラーに伝わっているもの)に取り組み始めたところであります。

ですから、まだまだ上記に対してどうのこうの言える状況ではありません。

申し訳ないです。

で、たぶん初歩的な質問になると思いますが、愚老様の52段階の菩薩道と忍草様の言われる初歓喜地と不動地の位置づけはどのようになっているのでしょうか?

> 経論釈がひとつに繋がってこそこれ程有難い教えはないと、報恩感謝の慈悲やお念仏が自然にでるのです。

ということは、経論釈も満足に読めず、繋がらず、有難さもよくわからない私のような凡夫は報恩感謝の慈悲やお念仏は自然には出てきてはいけないのでしょうか?

自分では自然に毎日おとなえしておりましたが、、、。

> 酒天童子殿
> 尻尾を巻いて逃げたのではないのですぞ。

私自身は忍草様や愚老様に太刀打ちできる知識も見識もございませんが、このように言ってもらえると“そうこなくっちゃ!”という気分になります。

なんにしても、お返事ありがたく思います。

南無阿彌陀佛


            

●re.50
愚老
北陸の男性
[ 964 ] Re43:教義について 2008/12/17 (Wed) 18:38 △up ▽down
酒天童子さま
年の瀬も押し詰まって来ました。お久しぶりです宜しくお願い致します。
>自分としてはやっと、七高僧の論注釈を読み終わったばかりのところでして、ようやく教行信証とサンスクリットの無量寿経(数あるうちのもっともポピュラーに伝わっているもの)に取り組み始めたところであります。
上記のお言葉尊い心に唯々頭下がります、私、今迄も年重ね教学不足この頃も、難儀な經釋、文字も霞み根気も起こらず懈怠な自分で御座います。
多数の方々が拝読されるネット上間違った解釈等あれば大変な事です。ゆえに教義のこの場で心得違いか如何なものか皆様に聞き正しておる次第で御座います。
飽く迄も他方より取り込んだ私個人的感覚の意見で御座います、間違いだらけと思います訂正部分は宜しくお願い致したいと思います。
>で、たぶん初歩的な質問になると思いますが、愚老様の52段階の菩薩道と忍草様の言われる初歓喜地と不動地の位置づけはどのようになっているのでしょうか?
個人的思いですが、18願念仏往生の誓願にて一念帰命すれば忍草様の初歓喜地の入正定聚とは
下品下生から報土〔51段)までの何処かに往生の菩薩位に定まると理解いたして居りますが、
報佛報土から上(真佛真土)が五十二段の覚りの世界〔佛)と心得て居りますが、
天親菩薩造論説・・・帰入功徳大寶海、必獲入大會衆数、得至蓮華蔵世界、即證真如法性身、遊
煩悩林現神通・・・報佛報土にて 十方三世之佛菩薩六方恒沙菩薩52段の仲間入りと観じますが

菩薩の五十二位
仏陀の悟りの位については、菩薩が仏となる修行過程として52の位が存在するともされている。

十信(下位から1段目〜10段目の悟り)
十住(下位から11段目〜20段目の悟り)
十行(下位から21段目〜30段目の悟り)
十廻向(下位から31段目〜40段目の悟り)
十地(下位から41段目〜50段目の悟り) - 41段目の初地の悟りを開いた人は、油断しても悟りの位が退転しない事から、特に「初歓喜地」と言われる。
等覚(下位から51段目の悟り) - 仏の悟りの位に等しい事から等覚と言われる
妙覚(下位から52段目の悟り) - 仏、仏陀、正覚
阿弥陀經の三千大世界・・小千世界〔菩薩)中千世界〔諸仏)大千世界〔弥陀)小中大、全てで三千大千世界の極楽浄土と理解は如何な物でしょうか?
>> 経論釈がひとつに繋がってこそこれ程有難い教えはないと、報恩感謝の慈悲やお念仏が自然にでるのです。
>ということは、経論釈も満足に読めず、繋がらず、有難さもよくわからない私のような凡夫は報恩感謝の慈悲やお念仏は自然には出てきてはいけないのでしょうか?
如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし・・ご恩を報いる念仏は自然にでて駄目なんて絶対ありえない事と思います。行住座間に念仏の日暮らしではないでしょうか。
以上の考えですが浅知恵の愚老です皆様のご意見宜しくご指導お願い致します。
南無阿弥陀仏。           

●re.51
菩提心
非公開の非公開
[ 965 ] Re44:教義について 2008/12/18 (Thu) 02:18 △up ▽down
愚老様、お元気そうで嬉しいです。

本当は、教学の場所は私には無理だと思ったのですが、丁度下記のような箇所を読んで興味が出てきたので感想を書きます。

>[ 899 ]私はお盆に或る方から明治29年発行の原口針水和尚口演、島地黙雷勧学校閲の「六字釋法話」を戴きましたので、この本をパソコンに入れているところです。

忍草様がお書込みの「原口針水和尚」を
国会図書館の近代デジタルライブラリー  http://kindai.ndl.go.jp/index.html
で調べてみました。

「六字釈法話」の最初をざっと拝読させて頂きました。

第1冊目69-8・9の中(これは最初の方の文面です)にこのように書かれていました。

「我等宿縁深厚にして他力真宗の御門徒に生れ、朝夕聴聞の上にも聴聞していよいよ有難きは六字の御教化、即ち浄土真宗の第五祖、大心海化現の善導大師、末代濁世のためにとて、十方諸佛に證をこひ、凡夫入報の捷径(ちかみち)を拓(ひら)かせられ、自力疑心の雲を晴し、明らかに他力信心を領解せさしめれる、六字名号の御講釈は観経玄義分、會通別時意の中に顕し玉ふ・・・」

私はここの文章を拝読させて頂き、2つの点で疑問を持ちました。
まず、朝夕聴聞の上にも聴聞していよいよ云々
又、他力信心を領解せさしめるには観経を勧めておられるからです。

親鸞聖人は教行信證の冒頭から、(夫れ真実の教を顕さば則ち『大無量寿経』是なり)とお示しくださっています。
何となく、最初から違和感がありました。

そこで、少しだけ読んでの感想で申し訳ないのですが、
観経の説明が多いのに気付きました。
又、特に善導大師を尊んでおられることです。

私は、親鸞聖人を真宗一流の祖と仰いでいます。

今、小川独笑居士の「仏教信仰談」という御著書を拝読させて頂いています。
同じ様に善導大師・法然上人・親鸞聖人・蓮如上人から沢山の引用箇所があります。

お二人も明治時代のお方です。
こういうお方の御著書を拝読出来る私は、とても幸せ者だと思います。

南无阿彌陀佛 

●re.52
忍草
北陸の男性
[ 1075 ] Re45:教義について 2009/03/17 (Tue) 13:03 △up ▽down
  念佛行者の皆様方へ

久しぶりに書き込みさせて頂きます。

住正定聚について教えてくださいの方で活発な問答となっていますね。

結局この覧で私が書いた報土、還相廻向は現生であって畢命を期として

精進すべきである。一念帰命しただけで、即、死後は極楽へ行けると

思うのは間違いですよ、金剛堅固の信心とは教行信證の證巻還相廻向を

自分のものにしないと駄目で、独りよがりで自分は金剛堅固だと思って

いる方が多いのではないかと思います。

金剛心様がいろいろと書いて下さっているの読んで嬉しく思っている

ところです。

[ 901 ][ 960 ]再度お読みいただければと思います。

私は現在六要鈔(原文は全部漢文なので)を友人と和訳し、全文ルビを

つけてどなたでも読めるようにしている処です。約2年くらいかかりそうです。

これも自分が楽しみながら自分のため、それが人のためになれば又

自分の喜びです。

菩提心様 色々な本をお読みになっていらっしゃる様ですが一部だけ

上辺だけ或は自分に都合の良いところだけではなく、難解ならば

或は自分と違った意見、解釈もじっくり耳を傾ける事を切望します。

今の菩提心様は「菩提心」ではなく「じゃじゃ馬姫」に見受けられます。

でも熱心さは私の心にも伝わって来ますがもう一寸落ち着いて

精進して、何回かの書き込みで進歩が見えるようあわてずあせらず

二河白道を進んでください。

仮名聖教も読みたいものがあればパソコンに入っていますので

金剛心様に連絡されればお手許へ届くと思います。
(まだ読み合わせしてチェックしてないの多いのですが)

         合掌  南無阿彌陀佛  南無阿彌陀佛

●re.53
菩提心
非公開の非公開
[ 1102 ] Re47:教義について 2009/03/18 (Wed) 21:21 △up ▽down
全く教義内容の質問でなくて御免なさい。


>私は前にも書いたように、20年前に札幌で信心を頂きました

忍草様はいつから北陸在住になられたのですか?

>今の菩提心様は「菩提心」ではなく「じゃじゃ馬姫」に見受けられます。

有難うございます。多分批判的に命名下さったのでしょうが、とても光栄に思っております。
こんな年で姫は嬉しいですよね。

婆でなくて有難いです。

金剛心様の毎日様への「あげ足鳥」も笑っちゃいますよね。

何だか、私以前の書き込みより、ぐっと落ち着いてきていますので、これでも充分客観的に読めるようになっていると思いますが。

金剛心様にも宜しくお伝え下さい。

>仮名聖教も読みたいものがあればパソコンに入っていますので
>金剛心様に連絡されればお手許へ届くと思います。

忍草様のご厚意感謝申し上げます。

南无阿彌陀佛

●re.54
忍草
北陸の男性
[ 1122 ] Re48:教義について 2009/03/19 (Thu) 18:08 △up ▽down
  愚尼樣へ

昨日[ 1097 ]で連絡下さいとありましたので、直に非公開の非公開で

貴女樣宛に金剛心樣と私忍草の住所氏名、電話番号を送信したのですが

[ 1112 ]を読めば未だ見ていないのかなと思い確認させて下さい。

公開のスレッドで申し訳ありませんが返事願います。19日18時現在。

●re.55
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1127 ] Re49:教義について 2009/03/19 (Thu) 19:18 △up ▽down
忍草様・金剛心様へ

大変申し訳ありませんでした。『.』『>』の入力間違いがありました。
本当に申し訳ありません。
もう一度ご連絡下さいますようお願いいたします。
宜しくお願いいたします。かしこ
本当に名前のとおり、愚かな女より

●re.56
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1164 ] Re50:教義について 2009/03/22 (Sun) 16:42 △up ▽down
忍草 様

御書き込み、感謝しております。

[ 960 ]
>おそらくは毎日樣、泥凡夫樣は、お気付きになられたと思って一ケ月間じっと書込みをお待ちしておりました。

さらに時が経過しておりますが、忘れたわけではございませず、検討を続けております。

菩提心様からも、HPの進行につきまして、遅筆のお叱りを受けてしまいましたが、誠に由あることでございます。

要門釈の件につきましても、どこからお書きするのが良いのか、まだ検討しておるのです。

その後の御書き込みもあり、忍草様方がお考えになっていらっしゃることが、以前よりも明確になってきていると思っております。ありがたいことです。

おっしゃりたいことが私なりにでも、とらえられなければ、どのようにお話したら良いのかわからない、知恵のない私なのです。

少しずつ、お書きして参りたいと思います。

その結果、私の無知が少しでも改善されてゆけば、うれしく思います。

わかってほしいとの御心からの御書き込みと思い、感謝申し上げております。

かなり間隔をあけてしまっておりますが、またご意見いただけたら、うれしく思います。


そして、六要鈔ですが、大変素晴らしいお仕事と思います。

多大な労力も必要かと思いますが、多くの方のお役に立てる事業かと存じます。

陰ながら、応援致しております。


反論ばかり為しているように思われるかもしれませんが、おかげさまで白道を歩ませていただき、得ることも多であると、日々感謝しております。


南无阿彌陀佛

●re.57
酒天童子
関東の男性
[ 1165 ] Re51:教義について 2009/03/22 (Sun) 22:07 △up ▽down
忍草 様

酒天童子です、こんばんは。

>私は現在六要鈔(原文は全部漢文なので)を友人と和訳し、全文ルビを
つけてどなたでも読めるようにしている処です。約2年くらいかかりそうです。
これも自分が楽しみながら自分のため、それが人のためになれば又
自分の喜びです。


こういう書き込みをみると、忍草様は本当に素晴らしい方なのだなあ、と改めて思います。

本当は、こういう書き込みのほうが私には説得力があります。
だって、”楽しみながら”というところや”自分の喜び”というところといい、自分にとってうれしい文字の数々です。

以前にも書きましたが、同じ一念帰命をいただいた同行同士、いつも”親近感”をもって読ませていただいています。

完成しましたら、是非とも拝読させていただきたいと思います。

南无阿彌陀佛

●re.58
愚尼
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[ 1168 ] Re52:教義について 2009/03/23 (Mon) 16:49 △up ▽down
皆様へ

色々書き込み、色々な意見を読んで私が感じる所ですが、法然上人の信の座と、行の座だと思えます。

1 南無阿弥陀仏の一念帰命をしたから信を得た。一念帰命と言う行をしたのだから、修行など必要無い。

2 南無阿弥陀仏の一念帰命をして、信心を得て、晴れてめでたく、浄土の他力の門をくぐり行をする。

多分ここの捉え方が違うから、論争になっているように感じます。

1 の場合、信を先とする浄土真宗の考えとは、逆になってしまうと感じています。
  これだと、行をした後に信となり、信が先と言う考えに矛盾してしまうと思うのです。

2 の場合、一念帰命は、信を獲る為の因でしかなく、果として、菩薩の仲間入りをし、そこから他力の修行(因)をし、この体の命が尽きて極楽(果)となる。

私は、勉強をして学んだ訳ではないので、お聖典の何処に書かれているとかと言う根拠を持ち出して説明が出来ませんが、ただそう思うだけです。

●re.59
毎日
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[ 1170 ] Re53:教義について 2009/03/23 (Mon) 20:33 △up ▽down
愚尼 様

必要じゃなければやらないか、と言えば、必ずしもそうではないと思います。

感謝しているから行う、もよおされて行う、ということも、あると思うのです。

弥陀は、私たちに修行させたのかと言えば、そうではなく、自身がご修行くださいました。

私たちが、自力修行のできない機であることを見抜いてくださったうえで、そのうえで、救ってくださろうと、ご修行くださり、成就なさったのだと思います。

因果の理法の中で、私たちが救われる道を準備してくださったのだと思います。

「必要であるから行う」というのは、菩提の心とは異なる感じが致します。

地獄に堕ちるのがイヤだから、化土に行きたくないから、というのは、御恩報謝ではないように感じます。

それはあくまでも、自身の苦を抜こうとするからに他ならないのではないでしょうか。

御恩報謝は、感謝のこころにもよおされて行うものであって、必要だから行うのは、また別の考え方と思っております。

南无阿彌陀佛

●re.60
愚尼
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[ 1171 ] Re54:教義について 2009/03/23 (Mon) 21:49 △up ▽down
毎日様へ

上記の考えにもお考えを述べていただきたいと思います。
信の座と、行の座を私なりに解釈して書きましたが、読んで頂けていないのが残念です。

弥陀仏に甘えるのもいい加減にしていただきたい。
自分は救われ、しかも、菩薩の位まで就けていただいたご恩をそんな『感謝』なんて言葉で言うのを浅いと金剛心様に言われるんです。
私は、申し訳も忝くも勿体無くも有り難いと思っています。
こんなに楽をさせてもらった上に、これ以上甘えるのは、恥ずかしい事だと思っています。

菩提の心は、もう自分には向けられていない事も分からない。
信心をいただいた時に菩提の心もいただいた筈です。
誰に菩提の心を向けるかと言ったら、未安心の者に向けてこそ、菩提の心が生きるのではないでしょうか?

何も知らないくせに、お聖典を読んで、間違った解釈をしたら大変だから、私は読まないんです。
起き上がる事が出来ない程の老体で、布団を居間に持ち込んで、寝ながら法を説き続けてくれた方を見習いたいと思います。
自分は、阿弥陀の使いとしてこの世に居ると言う事も理解されていないんだと思います。
假土に行ったら、すぐにこの人間界に戻り衆生済度のお手伝いが出来なくなるから、私は、死んだら即極楽に往き、この世に戻り、衆生済度のお手伝いをしたいだけです。
法を守り、次に繋げる仕事も残っています。これが一番大変な仕事ではないかと感じています。
合掌 南無阿弥陀仏

●re.61
毎日
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[ 1172 ] Re55:教義について 2009/03/24 (Tue) 00:52 △up ▽down
愚尼 様

お返事ありがとうございます。

信行両座につきましてですが、自分の行が因ではなく、弥陀にいただく信が因である。

よって、信心正因であるとのお示しであると思います。

自力の念仏では信心には不足であり、他力の念仏によって信心をいただきます。

しかし、真実の行であれば、必ず真実の信を伴うのですから、この意味において、真実の行は、往生の正因にもなってございます。このようにして因を辿ってゆきますれば、法蔵菩薩因位の誓願にも辿りつきますし、さらに、その因となりましたのが、我ら凡機のありさまであるわけです。

真実の行は、真実信心を生みますので、念仏為先でもあるわけです。

そして、この専修念仏を行うことができますれば、往生治定、住正定聚です。

ここで、「住」と書きましたのは、「入」と「住」を区別する考え方が出ておりますので、それに関連してのことでもございます。

入は住に先立つはずですが、不退転でありますので、入にして、即住であると考えております。

また、行信不離の関係につきましては、正信念仏偈、念仏正信偈にても説かれていると思います。

教えを受けて行を為せば、信をいただき、信によって、証が得られるはずとなる。

また、信心を得まして、御恩報謝のお念仏をお称えします。これは、心行とも呼ばれます。

ところが、真実の信心をいただき、その後一声も発さずして穢身の因が尽きるとも、往生治定に変わりがない。つまり、聞から多念に至るわけでございます。

これによっても、信心正因であるといただけると思います。

ここでは、3つの念仏についてお書きしました。

信前の行としての、自力のお念仏。

信をいただくお念仏。これは、他力の念仏です。

さらに、信後の御恩報謝のお念仏です。これは、自力でお称えするように感じることもありますが、他力であるといただきます。

このように、信前も、信をいただくのも、信後も、すべて六字におさまっていると考える次第です。

ご不明な点ございましたら、ご質問いただけたらうれしいです。

南无阿彌陀佛

●re.62
忍草
北陸の男性
[ 1340 ] Re56:教義について 2009/04/14 (Tue) 23:04 △up ▽down
 毎日樣

ここでのご回答気長に待たせてもらっています事、改めてお願い申上げます。

眞俗二諦での真諦門では私は菩薩位、俗諦門では愚かな愚かな愚人ですが・・・

  合掌 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

●re.63
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1342 ] Re57:教義について 2009/04/14 (Tue) 23:37 △up ▽down
忍草 様

お待たせしまっておりまして、申し訳ございません。

忍草様と、金剛心様のお考えが、細かいところまで同じかは存じませんが、共通する方向性はあると感じております。

たとえば、忍草様も、真諦門、俗諦門ということで、視点をわけていらっしゃいます。

現時点における、思うままをお書き致します。


(1)往生とは(現生か死後か)につきましても、まず第一に、往生にも種類があること。

現生と死後を分けることについてですが、位置とは何か、時間とは何か、という話題が関係してくると考えております。

身体を通じて、感覚器が同じ世界にあり、同じ刺激を受け、同じ世界を見ております。

これは、見る主体が同じ位置にあることを、意味しません。

つまり、感覚器が同じ宇宙に入っておりましても、その主体は、また別のところにいるのだと思っております。

複数の身体を、多数の宇宙に送り出す生命もございます。

この身体の表現が、相手の感覚器を介して、相手に情報を与えることができるのが、界でございます。

身体無くして、感覚できるようになりますれば、界に入らずして、説法聴くことができます。

往生がいつかでございますが、認識の力の限られた凡夫には、死後のことはわからないのでございまして、「死後救われる、と今思う」というかたちで心がラクになります。

このとき、死後の往生定まったと今思っております。

死後においては死後であり、「今」の部分は現生であると思います。ところが、実際に現象として生じているのは、あくまでも「今」のことです。


(2)還相廻向の解釈ですが、これは私が思うことです。

真宗は大乗であります。大乗ですから、他の生命も救ってゆこうとします。

弥陀と自分の関係で、自分が救われる。ただそれだけなら、小乗のようであります。

しかし、その目的は、還相廻向となり、他を救うためである。

だからこそ、ひとりで信を内に秘め、お念仏申しておっても大乗であると思うのです。

(1)におきまして、死後の極楽往生が「今」確信できるからこそ、「今」救われる。

同じように、往生後の衆生済度が「今」確信できるからこそ、「今」救われるのであると思います。


(3)自分の立場(凡夫か菩薩か)

将来菩薩の位につくことが約束されていると、「今」確信している凡夫です。


南无阿彌陀佛

●re.64
忍草
北陸の男性
[ 1420 ] Re58:教義について 2009/04/20 (Mon) 22:40 △up ▽down
  お同行の皆様方へ
先週の金曜日、あるおばぁちゃん(Sさん、80代後半)を車にお乗せした時の話です。

今年のお正月天気が良いので散歩して、つい余計に歩き過ぎて屈みこんだ時、手を地面に

ついたら右手を骨折して一ヵ月半入院となったそうです。それで私に、「おかげさまで

出産以来はじめて入院して、上げ膳据え膳で、家でスト―ブの火も点けなくても良い

本当に冥土のミヤゲ話に出来る、ありがたいおもいをさせて頂きました。むつかしい

勉強はわからんけども本当にナンマンダブツのおかげです」と仰りました。

私は「冥土ではなく、極楽へのミヤゲバナシでしょう」とお話すると「そうですネ」と

嬉しそうに「本当におかげさまで・・・」。ちなみにご主人は22年前に先立たれ、

息子さんは東京で所帯を持たれ、娘さんは埼玉と福井に嫁がれているそうです。

私はニコニコ笑顔で話されるのを見て、こういうSさんのような方こそ住正定聚の

金剛堅固な後念相続がシッカリと出来た方だと思いました。合掌 南無阿彌陀佛。

●re.65
菩提心
非公開の非公開
[ 1422 ] Re59:教義について 2009/04/21 (Tue) 10:34 △up ▽down
忍草様

何だか、最初に書かれた忍草様の書き込みとは随分違う印象を受けました。

御同行様のお姿、尊いですね。

私の有縁の善知識様からも、そのようなお方がおられるとお聞きして、きっと信心頂いて喜ばれる姿を通して、何かしら感ずるものに惹かれていくのだと思います。

私は、忍草様よりこういう書き込みをして下さったことが本当に嬉しいと思います。

有難うございました。

又、このようなお話お聞かせ頂けたら有難いです。

南无阿彌陀佛

●re.66
忍草
北陸の男性
[ 1424 ] Re60:教義について 2009/04/21 (Tue) 18:13 △up ▽down
  菩提心樣

>何だか、最初に書かれた忍草様の書き込みとは随分違う印象を受けました。

同じ私の書き込みです。いかに後念相続が大事かという事をお知らせしただけです。

法話等を聴聞するというのも、私達の勉強会も同じだと思っております。

帰りに玄関を出たら難しい話は右の耳から左の耳へ抜けていってもよいのです。

何故かというと、一念帰命をうけた人は、その時しばらくは理解出来なくとも年月が

経れば、戴いた佛種の方(魂、九識)で理屈ではなく自然に受け止めてくれています、

ですから単に聴くだけでも、聞くだけでもないのです。聴聞なのです。

只一般的な法話は布教師からの一方通行で聴くだけですが、私達は同座の人々からの

質疑応答大歓迎なのです。でも最初から質問が出ない場合が多いので、カナ聖教等の

勉強をしながら、わからない処の質問とか関係のない処の質問等を受けるのです。

その場には知識さん方が少なくとも5〜6名いますので必ず答えて頂けるのです。

ですから聞く方も耳から頭へいれるのではなく、気軽に聞いて忘れても又聞く事も

出来るのです。あくまで聴聞は聴く聞くして佛種の方で自然に蓄えられるから

頭に残らなくても良いと思います。それがSさんの現在だと思います。

一人だけの知識さんから聞くのではなく、数名の知識さんから聞かせて頂くのですから

間違いも少なくなる事もおわかり頂ける事を理解して下さい。

勉強会の事はあまり書くべきではないのですが、菩提心樣に理解して頂くために

書き込みしました。 合掌  ナムアミダブツ 南無阿弥陀仏 南?阿彌陀佛。

●re.67
菩提心
非公開の非公開
[ 1429 ] Re61:教義について 2009/04/22 (Wed) 11:37 △up ▽down
忍草様

>勉強会の事はあまり書くべきではないのですが、菩提心樣に理解して頂くため書き込みしました。

ご丁寧にお書き込みして頂いて感謝しています。

同行様同志が喜び、それを聖典等でお互いがお話されることはとても尊いと思います。

>同じ私の書き込みです。いかに後念相続が大事かという事をお知らせしただけです。

済みませんが、上記を踏まえてもう一度、説明して頂きたいのですが、

[ 1340 ] 忍草様の御質問
>毎日樣、ここでのご回答気長に待たせてもらっています事、改めてお願い申上げます。
>眞俗二諦での真諦門では私は菩薩位、俗諦門では愚かな愚かな愚人ですが・・・

[ 1342 ] 毎日様の御答え
>忍草様と、金剛心様のお考えが、細かいところまで同じかは存じませんが、共通する方向性はあると感じております。
>たとえば、忍草様も、真諦門、俗諦門ということで、視点をわけていらっしゃいます。

毎日様は忍草様に対して、御自分の意見を書いています。
それに対して、まだ忍草様の御返答若しくは御意見が頂けていません。

>お同行の皆様方へ 忍草様のお書き込み

と呼びかけておられるのでしたら、ここの場所も、忍草様がおっしゃる、勉強の場ではないでしょうか?

ましてや、この場所こそ色々な方が覗いていると思います。
一味同行の方もおられるでしょう。
不審の目で眺める方もおられるでしょう。

そういう点を考えても、御自身が質問されたことには、御答え頂けたらと思います。

これは、[ 1327 ] 人間と人と区別する違え方のスレッドでも御分かり頂けると思いますが、忍草様と御同行の善知識様でおられる金剛心様の御意見です。

このHPは毎日様が辞めない限り存続しているものです。

私は、今でも金剛心様より、人間と人の違いも知りたいし、金剛心様の考える他力教とか他力法をもっと詳しく知りたいです。

南无阿彌陀佛

●re.68
菩提心
非公開の非公開
[ 1432 ] Re62:教義について 2009/04/23 (Thu) 16:34 △up ▽down
忍草様からの御返答がないまま疑問が出てきました。

>[ 1340 ] 忍草様の御質問
>毎日樣、ここでのご回答気長に待たせてもらっています事、改めてお願い申上げます。
>眞俗二諦での真諦門では私は菩薩位、俗諦門では愚かな愚かな愚人ですが・・・

まずよく分からないのですが、

http://www.nenbutsu.jp/ronbun/kuroda01/01-02.html  真俗二諦論のHPより

忍草様は、菩薩の位になったり、愚人になったり、どんな時に変わるのですか?


[ 1405 ] 忍草様のお書き込み
>公開HPでも色々な方々が見ております事をお心がけ頂きたいと思いました。

忍草様もこのようにおっしゃっておられるではありませんか?

南无阿彌陀佛

●re.69
忍草
北陸の男性
[ 1434 ] Re63:教義について 2009/04/25 (Sat) 15:34 △up ▽down
菩提心樣
お文、2-10通 機法一體 眞俗2諦
   4-6通 4-7通 4-8通他掟の項等を再度目を通して下さい。
  
   4-4通に三首の歌の意を初めは一念帰命(一念發起)、
    次は入正定聚の益・必至滅度の意(平生業成)、
    その次、慶喜金剛の信心の(仏恩報謝)となっています。

 私が言いたいのは、金剛の真実信心(眞心)までは平生業成という時間が

 かかるという事です。それまでは自分が信ずるのではなく、阿彌陀樣から

 信じさせていただく廻向された信心だという事です。

 又このHPは同行以外の方々も見ている事を念頭におけば、掟及び抑止の

 関係で詳しくは書けません。縁のある知識さんや同行の方々に直接お会いして

 又は電話なり個人的にメール等で確かめられる事をお勧め致します。

 又私は一念帰命のお同行の皆様方には、捉え方の違いがある方もいると感じても

 親しみを感じて読ませて頂いていますので、外道と書き込みする非難はイヤなのです。

 それはいかなる理由があろうとも、一念帰命を戴いた方が同じ一念帰命を戴いたと

 話される方に対して書けないはずなのです。なぜならば私と捉え方が違っても

 (入、住正定聚の方)が外道とは筋が通らないと思います。

 私は以前から書くように、このHPが色々な方々の書き込みが盛んになる事を

 願っているだけです。捉え方の違い或は味わい方の違いは上記の理由により

 夫々の方々で質されたら宜しいと思っています。又忍草はあくまで忍草であり、

 金剛心樣及び愚尼樣ともたとえ親しくても夫々の個性が違います事をご理解されますよう

 お願い致します。

 私は書き込みする気になった時書き込みしますし、返事を書き込みしないといけないと

 自分が感じたときに書き込みするのです。

 [ 1350 ]の@金集め、A人集め、B思想の押し付け。は、当然邪道だと思います。

 菩提心樣の求めに応じた返事ではないと思いますが、人におもねる事の嫌いな、

 文章の書き方もヘタなこれが忍草です。 合掌 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

 
 
   

●re.70
菩提心
非公開の非公開
[ 1436 ] Re64:教義について 2009/04/26 (Sun) 11:44 △up ▽down
忍草様

お返事有難うございます。

やっぱり、パソコン壊れているみたいです。直るまで時間がかかりそうです。

今日は、昼から理事会なので、今事務所に寄ってパソコンを開けてみました。
お返事頂けて嬉しいです。

>又忍草はあくまで忍草であり、金剛心樣及び愚尼樣ともたとえ親しくても夫々の個性が違います事をご理解されますようお願い致します。
>私は書き込みする気になった時書き込みしますし、返事を書き込みしないといけないと
自分が感じたときに書き込みするのです。

こういうお言葉もとても嬉しいです。

私は、信心決定するのに、「行」があることも知らずに聴聞してきました。

だから、そういう掲示板は他にもあるのかも知れませんが、私は毎日様が立ち上げて下さいましたこの掲示板をとても大事だと思っています。

いつか「有縁の人」が集う掲示板であって欲しいと思っています。

>お文、2-10通 機法一體 眞俗2諦
>4-6通 4-7通 4-8通他掟の項等を再度目を通して下さい。
>4-4通に三首の歌の意を初めは一念帰命(一念發起)、
>次は入正定聚の益・必至滅度の意(平生業成)、
>その次、慶喜金剛の信心の(仏恩報謝)となっています。
>私が言いたいのは、金剛の真実信心(眞心)までは平生業成という時間がかかるという事です。
>それまでは自分が信ずるのではなく、阿彌陀樣から信じさせていただく廻向された信心だという事です。

上記の件では、正直やっぱり忍草様と思いが違うと思います。

平生業成こそ、真宗の一枚看板(これ、よく親鷲会で聞かされてきました)。

阿弥陀様の対象は十方衆生なのに、金剛の真実信心までにどうして時間がかかるのでしょう?

到底、これには納得いかないです。(私もおもれるのは好きではないので、ここだけはハッキリと書きました)

でも、自分の意見はハッキリと書くことだと思っていますが、人を不快にしたり、嘘の書き込みはやはり私は厭です。

折角、真実信心頂いている御同行なら、やはり柔和なお言葉を掛け合う場であって欲しいと思います。

ここでも見解は違いそうですが、私は救われても凡夫と思っていますが、でも阿弥陀様に救われていると思っているので、時々「これは私から出た言葉じゃないな」って思う事が有ります。

穢い言葉が出た同じ口から、御念仏を称えている自分が有難いと思えます。

これも、「有縁の道」を信じていくのだと思います。

私は、釈尊の教えに色々有る様に、自分が納得した道を信じて歩んで行くだけです。

でも、その道は決して一人では無いので、安心して歩んで行けます。

又の書き込み、とても楽しみに待っています。

南无阿彌陀佛

●re.71
忍草
北陸の男性
[ 1437 ] Re65:教義について 2009/04/26 (Sun) 21:46 △up ▽down
 菩提心樣
 往生は現生(この娑婆界)の文。

 大師聖人(源空)の仰に曰(のたま)わく、善信房の「體失せずして往生す」と
 
 立てらるゝ條は、やがて「さぞ」と御證判あり。(口傳鈔中、14章)

 お文、4-4の意 一念發起、平生業成、佛恩報謝の三つを三ケの要義という事をご存じですネ
 
 平生業成、S会は一念帰命なしの平生業成、佛恩報謝ではないのですか・・・

 平生業成の業成は業事成辨の略である事もお解りの事と推察いたします。

 往生のの事を聞きながら、そのあとを愚にもせん人々は、その同朋にあらず候べし。・・・
 (同行であっても同朋にあらず)       (末燈鈔、20章)

 眞・假を知らざるに由りて、如来廣大の恩徳を迷失す。   (眞佛土巻)

 其れ菩薩有りて疑惑を生ずれば、大利を失うと為す。    (化身土巻)

 一般的常識で考えて、ごく普通の人がある日誰かに誘われてやむをえずに一念帰命を受けた

 だけで、それだけで体失後もし極楽へ往けるとしたならば、オカシイと思われませんか?

 もし仮にそうだとするならば、精進とか後念相続も必要なくなりますよネ・・・

 私がここで紹介したSさんは長年の後念相続の結果であって、精進とか後念相続の気持ちが

 なかった場合、はたしてどうなる事でしょうか・・・。

 同じお釈迦樣が説かれた佛教です。佛は全てに平等です、ある宗派だけに特別に簡単に

 説いている訳ではないはずです。(正像末の三時の教え等時代背景もありますが)。

 蓮如上人の一代聞書、63「若きとき佛法は嗜め」90聖教は句面の如く心得べし。其の上にて
 
 師傳・口業はあるべきなり。私にして會釋すること然るべからざることなり。

 何故、若きときなのか?何故、自分で解釈すべきではないのか?
 (どなたか我流で解釈されている方もいらっしゃると見受けられますが)

 教行信證、その他釈文もある一部分の文章だけではなく、その章その項目全体で何を

 書かれているか、何を言わんとしているのか理解するべきだと思います。
 (このあたりは、泥凡夫様も同意見だと思います)

 忍草は、簡単の裏側は難しいものだと捉えています。(長所は短所にもなります)
 (例えば学者馬鹿という俗語もあります。それでこそ表裏一躰だと思っています)。

 私は愚尼樣の「キツくて厳しい修行」とは捉えていません、おかげ様のありがたい

 後念相続だと感じています。この私も2年前までは滅度は体失後と思っていました・・・。

 さとりという単語はお文はたしかほとんどひらがなで書かれていると思います。

 了、解、證、覚、悟、すべてさとりと読めます。学べば楽しくなります。

 まだまだ浅はかな忍草でした。 合掌 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

 追記 愚尼樣 これは非難ではありません、自分の感じ方、捉え方ですので・・・。

●re.72
菩提心
非公開の非公開
[ 1439 ] Re66:教義について 2009/04/27 (Mon) 11:04 △up ▽down
忍草様

お早うございます。

>一般的常識で考えて、ごく普通の人がある日誰かに誘われてやむをえずに一念帰命を受けただけで、それだけで体失後もし極楽へ往けるとしたならば、オカシイと思われませんか?
 >もし仮にそうだとするならば、精進とか後念相続も必要なくなりますよネ・・・

難しい事は、分かりませんが感じた事を書きます。

まず一般的な常識とは、人間が考えた常識だと思います。

仏智は、はるかに私達の想像を超えたものだと思いますので、私は一念帰命のその時に弥陀に救われた人は全て、阿弥陀様の浄土に往けると思います。

喜び方が違うのはその人、その人の過去世の宿縁も有ると思います。

一見、誰かに誘われてやむをえずと思っているのは、私達人間からみた計らいであって、阿弥陀様から見たら、必然だったのだと思います。

私を知っている親鷲会の人は、私が信心決定しているなんて多分誰も信じないと思います。
きっと、奇人変人扱いだと思います。

でも、この掲示板では私は、信後の喜びを自分の言葉で語れます。
それぞれ、阿弥陀様と私の関係だと思います。


>同じお釈迦樣が説かれた佛教です。佛は全てに平等です、ある宗派だけに特別に簡単に
 説いている訳ではないはずです。

「大経下巻」
当来の世に、経道は滅び尽くさん。 我、慈悲を以って哀愍し、特にこの経を留め、止住(しじゅう、留まる)すること百歳せん。 それに衆生有りて、この経に値わば、意の願う所に随うて、皆、度を得べし。

ただ、確かに一念帰命もない教えを聞いてきた私は、「次第相承の善知識」「掟」「謂れ」「六字のすがた」も知りませんでした。

末法の根機の私達には、簡単な方法で救われる教えを、善導大師、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人、次第相承の善知識と今後も受け継がれていくと思います。

私はそういう点でも「自信教人信」様、「泥凡夫」様、「毎日」様と今生でこのようなやりとりをしていた事は、必然だと思います。

それぞれの考え方は、この後、いくらでも検証していくことが出来ますが、無常な世において、まず信心決定したことが喜びです。

後念相続の仕方も色々だと思います。

生まれて間もない子供や、病気で痴呆になった人は、果たして他人の目から見て、どのように後念相続しているように見えると云うのでしょうか?

後念相続はこうあるべきだという考え方は可笑しいと思います。

阿弥陀様の光明は、私達凡夫の計り知れないところで、働いておられると思います。

外面から分かる人もおられるでしょうが、もっともっと深いところで阿弥陀様の光明はその人を包んでおられると思います。

だから、私は「十方の衆生往生成就せずば正覚をとらじと誓いたまえる法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆえにと思うべし。又弥陀仏の形像をみたてまつらば、はや往生は決定とおもうべし。又、極楽という名をきかば法蔵比丘の成就したまえるゆえに、我等がごとくなる愚痴悪見の凡夫のための楽(たのしみ)のきわまりなるがゆえに極楽というなり」の蓮如上人のお文が有難いです。

南无阿彌陀佛

●re.73
忍草
北陸の男性
[ 1440 ] Re67:教義について 2009/04/27 (Mon) 18:39 △up ▽down
   菩提心樣
 思いが違うところを一つずつ問答しましょうか。
 
 先ず仏智は衆生に対して平等だと思いますが受取る衆生の受取り方で変わると思いませんか。

 菩提心樣は精進、後念相続という事をどう思っているのかお聞かせ下さい。

 経論釈は独学で解釈するなと先輩から教えられませんでしたか?。
 
 信心決定という言葉でも、菩提心樣の解釈では一つだけですよネ。

 それならば、しかと信心決定して・・・のしかととはどういうふうに解釈されるのか

 お聞かせください。  (特に山科連署記末の最後の章に)

 今度(このたび)の御遺言聊(いささか)も間違敷(ちがいまじく)よし、堅く御兄弟中

 談合ありて定めらる。しかれば総坊主衆へも、一念の御遺言をしかと決定なくば、あさましき

 ことなり。先師上人(蓮如)へはや御請を申さるる上は、しかと信心を決定して、佛法

 興行なくば、御住持を御斟酌あるべき旨、顕證寺を御使(おんつかい)にて諸坊主衆へ、

 仰出さるるあいだ各々忝(かたじけな)きよし御請申しけり。このあと八名の連判あり。
 
 聞書90を読まれた上で95の「聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖教よみあり・・」

 私は色々な釈文等が繋がって一つに理解されるべきだと思います。

 大経の特留止も眞宗だけにではなく、縁があってこの経に遇うために遺されたお経だと
 思います。
 金沢の桃雲寺(とううんじ)(曹洞宗)の明治時代の前田孝山(まえだこうざん)師も

 次第相承の善知識さんでした。箱に書かれた自筆の書が手元にあります。

 又日蓮宗や真言宗の方でも私の知り合いで信心を戴いていらっしゃいます。

 赤子には三悪がありません。

 本当におかげさまの、南無阿彌陀佛です。 合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。
 

●re.74
毎日
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[ 1444 ] Re68:教義について 2009/04/28 (Tue) 01:56 △up ▽down
忍草 様

横からでございますが・・・

>先ず仏智は衆生に対して平等だと思いますが受取る衆生の受取り方で変わると思いませんか。

仏智は、本来、変わるも何もないものです。ですので、これを簡単に「同じ信心」のように表現しているのであると思います。

仏智が変わるのではなく、衆生が千差万別なのであると思います。

たとえば、私は外道のふるまいしかできません。

縁があれば、五逆誹謗も為すでしょう。そして、厳しい目で見れば、私は、日々、五逆誹謗を為しているに等しいと思います。

しかし、それでも変わらぬ弥陀の信心であり、摂取不捨であると、いただいております。

このような自分が救われるなら、弥陀のような仏様におたよりするしかないだろうと思います。


>経論釈は独学で解釈するなと先輩から教えられませんでしたか?

この「独」というのは、「ひとり」という意味だけではなく、「集団で離れて」という意味も含まれると考えております。

結局は、自身への心構えであって、他者を否定する根拠には、ならないと思います。

なぜなら、自分のまわり、すべてまとめて「独学で解釈」になっている可能性があるからです。


>それならば、しかと信心決定して・・・のしかととはどういうふうに解釈されるのかお聞かせください

「思い込みではなく、きちんと」くらいの意味ではないでしょうか。

真仮の真を指すのだと考えます。


聞書90、95ですが、如来からいただいた信心をよろこんでいれば、そのすがたで良いのだということだと思います。


>金沢の桃雲寺(とううんじ)(曹洞宗)の明治時代の前田孝山(まえだこうざん)師も次第相承の善知識さんでした。箱に書かれた自筆の書が手元にあります。又日蓮宗や真言宗の方でも私の知り合いで信心を戴いていらっしゃいます。

偉い方が信心をいただいているとされていることも参考にはなるのですが、とどのつまりは、自身の信心がどうであるかだと思います。

自身が深く腑に落ちているかが大切で、他人の話を聞いて信じようとしても、「信じ込む」ことになるだけではないでしょうか。

如来から、如来の信心をいただくことが、すべてであると思います。

偉い方がいただいていても、自分が信心いただいていなければ、その偉い方は極楽に往くのでしょうが、自分の後生はどうなるのでしょうか。

他者が信心いただいているかどうかというのは、近頃、私はあまり気にならなくなりました。

なぜなら、わかりはしないことですし、この世もすべて幻だからです。

自分の心の中で六字をいただいて、ご恩報謝を積んでゆくことにより、味わいが深まる六字だと感じます。


たとえば、弥陀像を投げつけて壊した人がいたとしますね。

その人には、バチがあたるかと言えば、あたらないと思います。弥陀像に触れたことが仏縁となり、良い影響があるだろうと思います。

たとえば、名号を紙に書いたものを、踏みつけてぐちゃぐちゃにした人がいたとします。

この人にも、きっと仏縁になったことと思います。

つまり、「他者がどうか」というのは、どっちにしても、(誹謗する人を見ても)信心を深めるはたらきがあるわけです。

誹謗する人ですら、如来はつつみこんでいて、既に、救われる流れに入っているからです。そこには、「こんなひとでも六字に救われちゃうんだ!」という驚きがあり、そして、「あ、だから自分も救われたのか」という気づきがあります。

そこには、「その人が未来に救われる」ということが、「過去」いただいた自身の信心を、「今」活発にしてゆくというはたらきがあります。

そういうすべてのはたらきが、すべて、六字につながる雄大なはたらきとして、既に計画されたものであると思うのです。

ということは、「どっちでも良い」ということになってしまい、無義ですが、そのうえで、善をこころがけてゆくのだと思います。


>赤子には三悪がありません

あると思います。なぜ、微笑んでいるだけでなく、泣くのでしょうか、求めるのでしょうか。

また、三悪無くして、なぜ生まれてくるのでしょうか。

永劫の流転の因となる業は、どうなっているのでしょうか。

無明はもはや展開していて、手のつけられぬ規模になって、赤子として生まれてきているのではないでしょうか。

ところが、人身持って生まれてきましたので、仏法を聞く機会があります。


しあわせになってほしいと、願うばかりです。


南无阿彌陀佛

●re.75
菩提心
非公開の非公開
[ 1445 ] Re69:教義について 2009/04/28 (Tue) 15:25 △up ▽down
忍草様

>思いが違うところを一つずつ問答しましょうか。

その前に、毎日様への御答えはどうなっているのでしょうか。

私は、感覚的にどうも違うなと思うことを書いています。

自分の本心を眺めてみると、とても聖道門では助からないと思っています。

助からないと思っていますが、でも地獄へは行きたくないと思っています。

過去の自分の行為は、変えようがありませんが、でも未来は変えることが分かったんです。

自分で出来ない修行を、阿弥陀様が法蔵菩薩として代わりに御修行して下さったのです。

だから、私は頼んで頂いたのです。

それだけの事なんです。

私は、自分自身が変わったことが有難いです。

御恩報謝の御念仏でいいと仰っている御言葉が信じられたのです。

それさえも、怠惰な私は忘れてしまいます。

でも、阿弥陀様はもうそんな私ってずっとずっと昔からご存じで、頼んでくれよと待って下さっていたのです。

随分、それでは理屈に合わないと思われるかも知れませんが、それはきっと忍草様が阿弥陀様の本願力を過少評価しているか、御自分を過大評価しているのではないかと思います。

この地球上で悟った釈尊さえ、六年間の苦行では助からないと村娘から乳粥を貰って、それまでの修行に決別したでは有りませんか?

ましてや、末法に生を受けた私です。

私は、それでも仏縁に恵まれた事がとても有難いです。

それが信心決定出来たのですから、この喜びは段々大きくなってきています。

そして、心落ち着いてきています。

物事を楽に考えられるようになってきています。

今日一日無事に過ごせた事が一番の幸せです。

南无阿彌陀佛

●re.76
とんぼ
非公開の女性
[ 1446 ] Re70:教義について 2009/04/28 (Tue) 20:37 △up ▽down
>毎日様


たとえば、弥陀像を投げつけて壊した人がいたとしますね。

その人には、バチがあたるかと言えば、あたらないと思います。弥陀像に触れたことが仏縁となり、良い影響があるだろうと思います。

たとえば、名号を紙に書いたものを、踏みつけてぐちゃぐちゃにした人がいたとします。

この人にも、きっと仏縁になったことと思います

貴方の、たとえは、ひどすぎます。ご自分の胸に手を、あてて考えて見てください。

なんでも、救われているからと、ありでは、無いとおもいます。失礼しました。

はじめて、出てきて、でも毎日様の、喩えにあまりにも、おどろき、ついメールしてしまいました。 

菩提心様も、同じですか?こんなに、立派なHPを、立ち上げて下さった事には、大変、感謝しております。この場を、かりて、お礼を言わせて頂きます。

でも、あのような、喩えを、持って仏縁を、表すのは、とても辛い事でした。

私のような、者もいることだけ、分かって下さい。

仏書、仏像、ましてや、御名号を、例としてあげるなど、ゆるせません。

こういう事は、五逆罪、絶対許されないと、善知識からいつも、聞かされています。

毎日様の喩えは、どんな方が、見ている掲示板か分からないのです。

どうか、こういう喩えだけは、おやめください。


                 南无阿弥陀仏

●re.77
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1448 ] Re71:教義について 2009/04/29 (Wed) 14:14 △up ▽down
とんぼ 様

本当に、いろいろな考え方があるものですね。

誹謗の徒は許されないとのことですが、弥陀を誹謗する人も、弥陀は許し、包み、救ってくださるのだと私は感じ、そのような弥陀に、やすらぎを覚えております。

◎釈親鸞といふ自名のりたるを、法師にくければ袈裟さへの風情に、いかなる山野にもすぐさぬ聖教をすてたてまつるべきにや。たとひしかりといふとも親鸞まつたくいたむところにあらず、すべからくよろこぶべきにたれり。そのゆゑはかの聖教をすてたてまつるところの有情蠢蠢の類にいたるまで、かれにすくはれたてまつりて苦海の沈没をまぬかるべし。ゆめゆめこの義あるべからざることなり(改邪鈔)

親鸞聖人は、聖教を山に捨てられても、うれしいのだとおっしゃったとの事。

それは、その聖教が触れた虫までもが、仏縁を得るからです。

聖教に接触する虫も入れば、食する虫もいるでしょう。


とんぼ様は、かたちと現れた御名号を尊びながら、心では怒るのですね。

紙と墨を尊んで、心を憤怒で汚しています。

これはなぜかと言えば、とんぼ様にとりましては、たとえば弥陀を誹謗する生命にやさしくするよりも、紙と墨にやさしくする方が大切だからなのだと思います。

でも、その方が誹謗するのも、そのような縁があるからこそであって、そのような生命も救いたいと、弥陀は願っていると思います。

心を憤怒で汚すのは、いただいた真実信心を踏みつけて、泥でよごし、見えなくするようなものです。

そして、そんな凡夫を、弥陀はよろこんでくださると思います。

「ああ、正客だ。だからこそ、修行したんだよ」と、思ってくださるのではないでしょうか。

私も、日々、いろいろなことで怒ってばかりです。

縁があれば、簡単に怒ってしまう、私たちですね。

南无阿彌陀佛

●re.78
菩提心
非公開の非公開
[ 1451 ] Re72:教義について 2009/04/30 (Thu) 10:25 △up ▽down
とんぼ様

>[ 1446 ]とんぼ様の書き込み
>菩提心様も、同じですか?

>[ 858 ]おせっかい様の書き込み
>菩提心様の書き込みを、拝見していると、たとえば、川で溺れている人が、いて助けてほしいと言っていても、浄土に行って還ってきてから、と言って、知らん顔をして通り過ぎて行ってしまうようにも、とれるのは、私だけでしょうか?

とんぼ様とおせっかい様は同じ方でしょうか?

どうしていちいち私の名前を出すのでしょう?

私と毎日様は同行ですが、それぞれ考え方は色々あると思いますが、でも究極的には、誹謗する者も五逆の者も全て、十方衆生の中に含まれていると思います。

私は、親鸞会で長年聞いてきた中で、破邪顕正も、聴聞も、財施も出来ない私は、六度万行の唯一、「和顔愛語」だけは出来そうで、努力してきました。

それは、昔ある人から「美人じゃないけれど可愛いね」って言われた事がとても嬉しかった事と、いつも母から、挨拶だけはするようにと言われてきたからです。

父からも「美人じゃないけれど、お前は屈託ない笑顔を見せてくれる、どこにいても声をかけてくれる」と喜んでくれました。

私は、前の会でお世話になった方から色々なお話を聞けてとても楽しんでいました。

しかし、その方は色々なお話をしてくれましたが、人の陰口も一杯しました。

私は、一度その方に衣服の整理を頼まれました。

私は、一緒に来た法友のお母さんやそのお友達の陰口を聞いているのが辛くなりました。

私は、親鸞会で人が人を見下すような言動を見てきて、離れようと思いました。

陰口は救われる前から聞きたくないと思っていましたので、しばらくその人から距離を置こうと思いました。

その方は、半年過ぎたあたりから、ようやく他にもお講の場所があることを教えて下さいました。

私は、そこで仏教に詳しい先生と御縁頂き、又その会の会長さんにもよくして頂いて喜んでいました。

その先生のお話が聞きたいと思い、全部のお講に参加しました。

みんなが喜んでお話を聞いているのだと思っていました。

しかし、どうもそのような私が煙たがられていることに気づきました。

そして、その尊敬していた先生は、最初に御縁頂いた人を批判し、その先生は影で名前を呼び捨てにされているのを聞いてビックリしました。

救われても凡夫だからと思いながらも、私は泥凡夫様や毎日様と、何百通もメール交換していても、一度も人を批判する御言葉は有りませんでした。

私が悩んだり苦しんでいる度に、メールの中で、励まして下さり、元気づけて下さり、又反省させられるお言葉を頂いてきましたので、私の信じる道を歩んで来れました。

その道程を一番知っていてくれているのは、私の息子と同じビルの彼女です。

私は、基本的に同行の態度、御言葉を通して、自分の道を選んできました。

しかし、今はもうそういう気持ちもだんだん消えていると思います。

常に私は阿弥陀様と一緒と思えますので、同行と行動を共にしなくても、心で通じ合っているので、安心しています。

どういう訳で菩提心の名前を上げるのか存じませんが、とんぼ様はとんぼ様の有縁の同行様と後念相続されるのが宜しいかと思います。

南无阿彌陀佛

●re.79
忍草
北陸の男性
[ 1452 ] Re72:教義について 2009/04/30 (Thu) 10:55 △up ▽down
  菩提心様

 その前に、毎日様への御答えはどうなっているのでしょうか。

 私の考え方は[ 1434 ]で述べたつもりです。

 今回も[ 1420 ]でSさんというおばぁちゃんの書き込みをして、後念相続という

 事を主体としてそれが精進であり、又それが平生業成であると菩提心様に理解して

 頂けないかと思ったのですが・・・残念です。


   とんぼ様

 同じように思います。ありがとうございます。

 私が毎日樣には何も書く事が出来ません、間違って又方向違いの話になるのが

 イヤだからです。菩提心様もご理解下さい。

          合掌 南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

●re.80
菩提心
非公開の非公開
[ 1453 ] Re73:教義について 2009/04/30 (Thu) 12:29 △up ▽down
忍草様

お返事ありがとうございます。

>その前に、毎日様への御答えはどうなっているのでしょうか。
>私の考え方は[ 1434 ]で述べたつもりです。

>私が言いたいのは、金剛の真実信心(眞心)までは平生業成という時間がかかるという事です。それまでは自分が信ずるのではなく、阿彌陀樣から信じさせていただく廻向された信心だという事です。

上記の書き込みでも、よく理解出来ませんでした。

まず、精進すると御言葉と、平生業成の御言葉がどうもしっくりこないのです。

又、そこに時間の流れが出来るのでしょうか?

「一念発起する時に金剛の信心を賜りぬる」とか「時刻の極促」とか言われます。


>私が毎日樣には何も書く事が出来ません、間違って又方向違いの話になるのがイヤだからです。菩提心様もご理解下さい。

済みません、上記の御言葉ですと、毎日様への返答は方向違えであり、私なら何とかなるとお思いでしょうか?

私は、教学的には毎日様の足元にも及びません。

でも、感覚的に可笑しいと思う事は書けると思います。

私の後念相続の捉え方には精進するという言葉は違和感があると思うからです。

私は真実信心頂くと、それはおのずと自分の心の中で喜びは育っていると思います。

一念帰命した時に、自分の修行は終わっていると思います。


又、忍草様やとんぼ様の聖典等に対する心持ちは大変尊いと思いますが、それでも私は毎日様の御言葉の方がしっくりします。

私は、忍草様もとんぼ様も
御自分をもっと上からの目線で捉えておられると思います。

阿弥陀様が、なぜ極悪最下の私達だと見ておられ、極善の法を与えようとされたのか、御自分を見据えておられないと思います。

私は、自分自身を極悪最下だと思っていません。

しかし、救われた現実を見ますと気付かないところで極悪最下だと気付かされてきたのです。

それが真実信心の姿だと思います。


尚、パソコンがまだ直りませんので、暫く私から返答は出来ません。

今から、総会の資料作りに入りたいと思います。

忍草様、とんぼ様、お書き込み有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.81
とんぼ
非公開の女性
[ 1454 ] Re74:教義について 2009/04/30 (Thu) 20:42 △up ▽down
菩提心様

一つだけ、訂正しておきます。私は、最近この掲示板を、見つけました。

おせっかい様とは、全然関係ありません。この掲示板を、お借りして、おせっかい様に

お詫びしたいと、思います。菩提心様が、間違えられたと言う事は、他の方も、思ってお

られるかも、知れませんので、全く別人です。

私が、何故、菩提心様にも、問いかけさせて、頂いたわけは、毎日様を、とても尊敬され

て、おられる見たいですが、でも、阿弥陀様の事を、とても尊んでおられるので、そこま

で同じだと思わなかったからです。



毎日様

大変、博学な、お方だと思いますが、もう少し、ご自信を、見つめられたらどうですか?

もし、自分だったら、この掲示板に尋ねて下さる方に、感謝ですね。

毎日様と教義が、合わない方が、出ていらっしゃると、毛嫌いしてみえます。

忍草様

同意見、ありがとうございました。忍草様と連絡が取りたいのですが、どうしたら

よいのでしょうか?

●re.82
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1455 ] とんぼ様へ 2009/04/30 (Thu) 21:51 △up ▽down
私が、忍草様にお取次ぎいたします。
忍草様と、金剛心様から、直接お会いして、金剛心様と、忍草様の広報窓口になることを許可されています。
必ずお繋ぎ致します。

愚尼より

合掌   南無阿弥陀仏

●re.83
忍草
北陸の男性
[ 1456 ] Re75:教義について 2009/04/30 (Thu) 22:20 △up ▽down
    とんぼ樣
 毎日樣のHP上で私信の遣り取り本当に申し訳ございません。

 この掲示板の書き込みなされる方で私を知っていらっしゃる方は、愚老樣と愚尼樣です。

 スレッド[127]の愚尼樣宛のメールを入れる処でしか連絡がとれないと思います。

 愚尼樣は当分書き込みはされませんが、連絡はつけて下さいます。

 私は多少の捉え方の違いはあっても、後念相続が精進であり、平生業成であると思って

 います。泥凡夫様はじめ極道坊主樣、ボン様、その他の皆様方とも意見交換した事は

 ございませんが、後念相続は大事だと思っておいでの事と勝手に推察いたしております。

 一念帰命を戴いたならば、その後は自分勝手に解釈して何をしても良いとは、誰も

 思われないと感じる私ですが、皆々様いかがでしょうか?。

 天狗にもなれず、卑下自慢も出来ないゴクゴク普通の忍草です。 合掌 南無阿彌陀佛。

●re.84
高野豆腐
非公開の非公開
[ 1458 ] Re76:教義について 2009/05/01 (Fri) 06:42 △up ▽down
>>
> 私は多少の捉え方の違いはあっても、後念相続が精進であり、平生業成であると思って
>
> います。


毎日様の書き込みを拝見しますと、極論をおっしゃっているだけで、たとえ

そういうことをする人がいたとしても、弥陀は見捨てられない広大な慈悲の

仏であるということをたとえてくださっていると感じました。

そんなたとえを出されたからと怒り、そんな者は地獄だ、化土だといわれる

弥陀でしょうか。

どんな人でも救うといわれる弥陀が救われた後にそのような仕打ちをされるとは
思えません。

むしろ、そのように思われることをお嘆きになるのではないでしょうか。

また、信後、地獄や化土へ落ちるような不完全な御修行の結果の

南無阿弥陀仏とは到底思えません・

救われて毎日様の言われるようなことをやりかねない私、絶対しないといいきれるでしょうか。

それでも感謝しつつ御念相続しております。

未熟な私ですので、教学的な根拠をお示しできませんが、毎日様のご意見は

心に響いてまいりました。

南无阿彌陀佛








●re.85
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1459 ] Re77:教義について 2009/05/01 (Fri) 16:29 △up ▽down
忍草 様

>一念帰命を戴いたならば、その後は自分勝手に解釈して何をしても良いとは、誰も思われないと感じる私ですが、皆々様いかがでしょうか?

このようにおっしゃるということは、「一念帰命を戴いたならば、その後は自分勝手に解釈して何をしても良い」と誰かが主張していて、それに対しての問題提起であると思うのですが、それが私を指しているならば、誤解があると思います。

まず、忍草様の特徴として、明確な主張をなさるのは、他者の見解を否定なさるときで、「否定」については、明確にお書きになります。

しかし、それがご自身の意見を述べる段になると、途端に不明確になっていると思います。

そして、その不明確さを理解しない他者を、遠回しに非難していると思います。そして、自身の表現が不明確であるが故にわかりにくいことは、認めようとしないように思います。

つまり、忍草様の表現に問題があるとせず、他者の理解力を問題とみなす傾向があるようです。


私がお書きしているのは、いったん弥陀をふかくたのんだならば、極楽往生治定であり、摂取不捨なのですから、もう弥陀から逃げることはできず、何をなそうとも、極楽へ救いとってくださるということです。

これは、「自分勝手に解釈して何をしても良い」ということとは違います。(より正確に言えば、「自分勝手に解釈して何をしても良い」という表現で、忍草様が表そうとなさっているように思える内容とは違います。ただ、忍草様の表現は不明確ですから、実際のところ、何を表そうとなさっているか知るためには、忍草様から、さらなる補足が必要であると思います。)

私が忍草様に対して思うのは、忍草様は、現代語で書かれている私の書いている内容も、文字通りに読もうとはなさいません。

それでありながら、御聖典は、文字通りに解釈しているとのご主張ですが、私は、それは、とても不自然なことをおっしゃっていると思っております。

お聖経の前に、日常のことばのやり取りの解釈が先に来るだろうと思っております。

私が申しておりますのは、「自分勝手に解釈して何をしても良い」ということではありません。

何を為そうとも、極楽往生治定であるのは、弥陀の大慈悲の故です。

その大慈悲を感じてゆけば、自然、自身の考え方、行いに変化も現れて参りましょう。

ただ、そのペースには個人差があるはずです。

そのペースが、あまりにもゆっくりであれば、凡夫の目には、変化が映りません。


「自分勝手に解釈して何をしても良い」のではなく、世間の仁義を重んじて、他を否定することなく、目の前の仕事に精を出し、法律を守り、税金を払ってゆくのであると思います。

そして、内心に信をたくわえてゆきます。


忍草様は、存在しない仮想敵に向かって、ご意見なさっているのでしょうか?

あるいは、私のことでしょうか? それとも、忍草様がこれまで体験された、他の門徒様のことをおっしゃっているのですか?


忍草様は、ご自身の意見は不明確な表現にとどめ、そのままで、お聖典の部分的な引用をはじめ、そして、その解釈は出さない傾向があると思います。

自身の解釈は述べずして、「(述べなくても)わかっていただけると思っていました」とおっしゃるのを、基本的な方法論としているようですが、それは、「思うところを述べる」という連師のおすすめとは、違うと思います。

その方法は、「私はわかっている、あなたはわかっていない」ということを、幾度も幾度もにおわせて、相手にそう思い込ませてゆこうとする方法だと思います。

その方法は、私は仏道だとは思わないのです。邪道だと思っております。

どうか、思うところを、なるべく明確に述べていただけたらと思います。


南无阿彌陀佛

●re.86
毎日
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[ 1460 ] Re78:教義について 2009/05/01 (Fri) 16:39 △up ▽down
高野豆腐 様

「弥陀は見捨てられない広大な慈悲の仏」でありますし、「救われて毎日様の言われるようなことをやりかねない私、絶対しないといいきれるでしょうか」といいますれば、私の場合、とてもでないが言いきれません。

たとえば、今後、世間的な意味での不幸が私におそいかかったとします。

仏教では、それは自身の以前の行いに因があると説きます。

ところが、それをやつあたりして、「何が弥陀だ!」と、怒り散らさないとも限りません。

「信仰していたのに、ふざけるな、守ってくれないじゃないか!」と、怒りまくるかもしれないのです。

もちろん、教義の上では、これから世間的な不幸がやってきても、全く不思議ではないのです。

それは、これまでの悪因が消えてゆくすがただからです。

そうはいっても、未熟な人格が、やつあたりの行動を起こさせることは、十分にあり得ます。

そのすがたを見れば、「なんだ、(阿弥陀様は)嘘か」と、私のまわりの人にも影響を与えてしまうかもしれません。

私は、所詮、そのような人間です。

激情に、人を殺めることがないとも言い切れません。

このような心を持つ私は、ふつうは救われません。常識的には、救われない人間なのです。

だからこそ、十方衆生を救うと願を立て、行を成就なさった阿弥陀如来に帰依致します。

私が激情で、弥陀に当たり散らしたとします。

ところが、凡夫ですので、怒りも続きません。次第に、心も落ち着いてくるはずでございます。

そうして、お称えする南无阿彌陀佛。変わらぬ六字です。やはり私を守ってくださいます。

このようにして、信も深まるものだと思います。

南无阿彌陀佛

●re.87
忍草
北陸の男性
[ 1461 ] Re79:教義について 2009/05/01 (Fri) 22:41 △up ▽down
    毎日様
 私はどなた様とも論争するつもりははありません。

 又毎日様が私の拙い書き込みを読まれてどう感じられようとも、どう受け止められようとも

 それは毎日様の勝手でございます。毎日様も「人間と人を区別する考え方」の[ 1417 ]

 ご自身が自分と意見が合わなければ、他者否定を肯定なさっている事でもありますから。

 私は自分でHPをたちあげる事もできない學のない人間です、ですからここで書かせて

 頂いているのです。最高学府出の方が私の幼稚な文を見れば気にいらないのも納得します。

 それでも書き込みしたい時には書かせて下さい。

 私はあくまで後念相続が精進であり、平生業成であると申上げたいのです。

 (但し、「自見の覺悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ」ともありますので私も要注意)

 毎日様のHPではありますが、どなたがどう受け止められようと自由です。

 論争も自由だと思います。私の拙い書き込みに文句をつけるのも自由です。

 然しながら私は、お同行の皆様方の意見も伺いたいし、さりとてお同行同士で

 佛法上の事で邪道とか外道とかの論争になるのは絶対にイヤなのです。

 ですから毎日様にたいして一切反論する気もありません。この程度の忍草です。

 書きたい時に書き、書きたくない時は書かない、これも私の自由だと思います。

 自由は自分だけが自由ではなく、相手にも自由があるとおもいます。

 たんにアラソイが嫌いな、短気な忍草でした。合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.88
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1462 ] Re80:教義について 2009/05/01 (Fri) 23:41 △up ▽down
忍草 様

>最高学府出の方が私の幼稚な文を見れば気にいらないのも納得します。

私は学歴のことを申し上げているのではありません。

また、私は最高学府出と書いたこともありません。それを肯定も否定もしません。私は、私自身の、また、この掲示板に参加してくださる方の匿名性を重視しています。

ご自身の考えは隠しながら、他人の個人情報に属することを書こうとするのは、望ましくないのではありませんか。

私はあくまでも、忍草様の文意の明確さについて、お書きしています。

そして、続く御書き込みを拝しますに、納得されているとは、私には思えません。

納得されている方の御書き込みにしては、とても反発されているように思えます。

心に反発を感じながらも、「納得」と嘘をついてしまう。そのような可能性が高いと思います。

(ご自身の反発に気づいていらっしゃらないのかもしれませんが、その可能性は低いように思います。)

忍草様は、ご自身のことを述べず、表面のご挨拶が多いので、考えていること、感じていることが、よくわからないのです。


明確に書こうとするかしないかは、意思の問題であり、これは学歴の問題ではないと考えます。

ここでも、忍草様は、問題を置き換えようとしていると思います。


>私の拙い書き込みに文句をつけるのも自由です。

ここでも、「文句」という呼び方を為していらっしゃいます。

先ほどは、「気に入らない」とお呼びになり、ここでは、「文句」と。

そこに、私は、忍草様の感じ方の傾向を感じます。

「納得」している方が、「文句」と言うのは不自然ですね。

そうは思われませんか?

私には、「文句」という感じ方が本音で、「納得」というのは、嘘をついていらっしゃるのだと感じられます。

そして、そのような方が、お聖教を文字通り読んでいるとは、私には思えません。

もちろん、私も、文字通りには読めません。私は未熟だからです。

しかし同時に、忍草様が、全体を通して解釈しているようにも思えません。


>邪道とか外道とかの論争

とのことですが、論争のつもりはありません。

意見を不明確に述べてゆこうとする態度を、私は邪道と捉えています。

嘘をつくのも、邪道であり、外道であると思います。

ところが、凡機は内道に入ることができません。それを入れてくださるのが南无阿彌陀佛です。

論争の余地なく、我らは外道の徒であるのではないでしょうか。


>ですから毎日様にたいして一切反論する気もありません。この程度の忍草です。

忍草様は、否定的な見解を、幾度も書いていると思います。

ということは、反「論」は為さないけれども、反対はするということであると思います。

あるいは、嘘をついていらっしゃるのだと思います。

忍草様は、ご自身の日常の言動を観察できると思います。

「一切反論する気がない」というのは、嘘をついていらっしゃると私は推測致します。

ご自身の発言を、よく省みていただけたらと思います。

「この程度」というのも、矛盾していると思います。

「一切反論する気がない」と言うのであれば、良い心であって、凡夫であれば、反論を為したい気持ちが出てくるのではないでしょうか。


>書きたい時に書き、書きたくない時は書かない、これも私の自由だと思います。
>自由は自分だけが自由ではなく、相手にも自由があるとおもいます。

もちろん、好きなときに書き込んでいただいて、構いません。

しかし、忍草様は、自身の見解を述べるにとどまらず、他者の見解を否定なさっていますね。

そして、根拠を問われたり、明確化を要求されると、それを「文句」と呼んでみたり、「自由」で自分を守ろうとされるようです。

つまりそれは、「他者の見解を否定する自由」「根拠を述べない自由」「自身の主張は明確にしない自由」ということです。

もちろん、そのようになさるのも、忍草様の生き方です。

しかし私は、それを好ましいこととは考えておりません。


また、忍草様は「理解してくださると思っていました」という内容を幾度かお書きでいらっしゃいますが、それは「思想の押しつけ」であると私は思います。

自由であるならば、理解するも、しないも自由です。

ひとりひとり、自身の考えがあるのであって、相手の考えを尊重するのではないでしょうか。

私は、忍草様が私の書くことを理解できなくても、納得ができるのです。

なぜなら、かなり立場が違う方のようだからです。


そして、争いが嫌いな忍草様が、あれこれと否定してゆくのも、おかしなことです。

おそらく、秘めた闘争心を、「争いが嫌い」と表現することで押し隠し、美化されているのではないでしょうか。

「争いが嫌いで短気」というのも、不自然であると思います。


短気なご自身がお嫌いということでしょうか。


争わないのは、良いことであると私は思います。

しかし、忍草様は、周囲に戦いを挑んでいるように、私には感じられるのですが・・・

本当に、自覚はないのでしょうか。

ご自身の考えを述べずに、質問から入るのも、忍草様の特徴であると思います。

忍草様は、忍草様御自身であるのですから、ご自身の思うところを述べていただけたらと思います。

自身の考えがなく、質問しかできないのであれば仕方がないことですが、確立した御考えがあるのでしたら、それを述べていただけたらと思います。


忍草様は、御自身を「短気」とは思われているのですから、そして、掲示板には幸い文字として御発言が残っております。

読み返して、ふりかえっていただけたら、うれしいです。

私は、忍草様は挑戦的で、高圧的で、短絡的で、否定的なところがあったという考えです。(そして、これらの性質は、私も持っていると思います。だからこそ、忍草様と出会うことができて、こうして、自身を省みる機会をいただいているのだと思います。)

そして同時に、優しいところもおありの方であると思います。柔和な面もお持ちであると思います。

そのような二面性があるのは、我ら凡夫の多くに共通する性質ではございませんでしょうか。

だからこそ、弥陀をたのむのであると思います。

南无阿彌陀佛

●re.89
愚尼
非公開の非公開
[ 1463 ] 忍草様へ 2009/05/02 (Sat) 00:43 △up ▽down
とんぼ様と、連絡を取り、3時間も電話してしまいました。
とても、素直な方だと見受けられました。
とても、若くていらっしゃいます。
私は、とても可愛らしい方ではないかと想像しました。
仲間が増え、嬉しい限りです。
合掌  南無阿弥陀仏

●re.90
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1464 ] 教義について 2009/05/02 (Sat) 00:55 △up ▽down
忍草様

初めましてでしょうか? 極道坊主で有ります。

過日の忍草様の書き込みに、自分のHNが有りましたので自分なりの味わいを書かせて貰おうと思います。

>私は多少の捉え方の違いはあっても、後念相続が精進であり、平生業成であると思っています。泥凡夫様はじめ極道坊主樣、ボン様、その他の皆様方とも意見交換した事はございませんが、後念相続は大事だと思っておいでの事と勝手に推察いたしております。

自分は「後念相続」については余り重点を置いておりません。

「御念佛は伝えていくべき」との心得は自分自身の気持ちに問うて見たら、「無い事は無い。」と言う中途半端な気持ちではなく、やはり「伝えるべき」なのです。

然し、「積極的に伝えて行こう。」という心持では有りません。 縁の有る人に「問われれば問われただけ。」と言う位でしょうか?

自分の中での「後念相続」と言う事に対しての心持は、自分に届いて下さった御念佛を喜んで行くばかりなのです。(助かる縁の無い自身が知らされ、其の自分が救われる事がハッキリすれば悦ばずには居られませんよね。)

御念佛を喜んでさえ居れば、御念佛の功徳に依りまして必ず自身の生活の中に変化が生じてきます。 (来る筈なのです。) 其の変化に必ず縁のある方々が気付いて下さる。 また、其の気付かれた方の中から『何故、どの様にして変わったの?』と、疑問に感じる方が居られるでしょう。

その様な体験をされた方もおいでになるのでは?

其の縁のある方に、自身の味わいを伝えるだけでも「後念相続」なのではないでしょうか?

何を伝えるか? 自身の生活態度に表れてくださる『なむあみだぶつ』であります。

書き込みで御紹介下さったおばあちゃんは、何方か縁のあるお方から、そういったところを伝えて貰ったのだと拝します。

「後念相続が精進」と申されますが、『精進』とは“一心に佛道を修し勤めること”であります。 であるならば、後念相続に重点が置かれるよりも、当流、当家においては御念佛に生かされ、御念佛に喜ばされて行く事の方が重要かと自分は感じています。 『なむあみだぶつ』の御六字だけであります。 其れを「平生業成」と申すのではないですか?(異論が御座いましたら教えてください。)

自分の感想で申し訳有りませんが、『後念相続』は御念佛に生かされた生活を営ませて貰う事の付随であると思っています。 『後念相続』は大事です。 決して軽んじているわけでは有りません。 しかし、結論を申させて貰うならば、少しばかりきつい口調かもしれませんが、『平生業成』と『後念相続』の関わり方が、本末転倒ではないかとさえ感じます。

「あまり、伝えると言う事に重点を置かなくても良いのではないか?」とさえ思っています。

伝わる時には自然に伝わります。 伝えにゃあ成らん時には、準備をしてなくても話しをします。 縁が無くば、準備万端でも話す切っ掛けすら与えられません。 それらは、やはり『御運びの儘』でありましょう。

求められて伝える方が言葉少なくして率直に伝わるものです。 自身の知識をひけらかす様に伝えるから、言葉数が増え、言葉の解釈から色々な誤解も生じましょうし、反感も買いましょう。 自身が起こす性根に(ロク)な事はありません。 其れが故ではないでしょうか?

ロープは自分から送り出しても、真っ直ぐには進まんので有ります。 相手の引く力に応じて、適度に送り出してやれば難なく真っ直ぐに伸びてゆきます。 其の状態と同じではないでしょうか?

一念帰命を戴いたならば、其の後は自分勝手な解釈にはならんと思います。 自分勝手に解釈しているのであれば、まだ何処かに自身の『我』が姿、頭角を表して居るのではないでしょうか? 理解して救われようとする『己』が存在しているのでしょう。 「他力」と口では言い乍、「御廻向」と申し、在り難がり乍、自力丸出しですよね。 気が付かんので有ります。 そこら辺は、自分もなんら変わりは有りません。

それでも『良い』と申される佛様の寛大さに甚だ勿体無さを感じ、忝(かたじけな)く思います。

徹底して御念佛に寄り添いますと(寄り添って下さっておるのですね。その様に思っているだけなのかもしれませんが?)自身の思いの中も、主体が「佛」と成らされるて居る事を感じます。 そう思わされるのも、佛様が自分に憑いて下さった御蔭で有ります。(ちょっと表現が悪いですか?)

忍草様、自分は思いがちょっとばかり、と言いますか、かなり異質かもしれません。

その辺に対しての御意見を戴ければ嬉しく思います。

最後に、「捉え方の違い」と申されますが、この様に書かれる事自体、他力の宗旨を鷲掴みに捉えている自身が居ると言う事だと感じます。

当流は理解しようとすれば、難儀な宗旨なのでしょうね。

これからも、意見交換をお願いできますでしょうか?

よろしくお願いします。

合掌


●re.91
忍草
北陸の男性
[ 1465 ] Re81:教義について 2009/05/02 (Sat) 01:22 △up ▽down
毎日様

 私はあくまで後念相続が精進であり、平生業成であると申上げたいのです。

 (但し、「自見の覺悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ」ともありますので私も要注意)

 毎日様のHPではありますが、どなたがどう受け止められようと自由です。

 他人の事を大変すばらしく観察されて長い文章をお書きになられる事、感心致します。

 とても真似が出来ません。

 以前にも書きましたが昔は短気でした故直す努力を致しております。

 拙くて短い文しか書けない忍草です。

                   合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

 

●re.92
高野豆腐
非公開の非公開
[ 1466 ] Re1:忍草様へ 2009/05/02 (Sat) 01:23 △up ▽down
>とんぼ様と、連絡を取り、3時間も電話してしまいました。
>とても、素直な方だと見受けられました。
>とても、若くていらっしゃいます。
>私は、とても可愛らしい方ではないかと想像しました。
>仲間が増え、嬉しい限りです。

どうして、愚尼様は忍草様に個人的にメールできるのに
この掲示板に私的なことを書かれるのか疑問です。

そのようなことは直接ご本人におっしゃればすむことでは
ないでしょうか。

きっととんぼ様は素直で可愛らしい方なのでしょう。
でも、この掲示板をご覧になったいる方々にそれを印象づけようと
されているようにも思えます。

そして、だからとんぼ様のおっしゃることは正しいのだととんぼ様のご意見を
正当化しようという意図がおありなのでしょうか。

間違っていたらお許しください。

また、どうして仲間などというお言葉が出るのでしょう。

ここは喧嘩の場ではありません。この掲示板にはふさわしくない言葉では
ないでしょうか。

個人的なメール交換、電話交換はどんどんなされれば結構かと思いますが
そんなことに無縁の拝読しているだけの者としては、そのような議論に無関係な
年齢、学歴、その他個人的なことなどにあまりとらわれることなく、この掲示板での
議論によりいろいろ考えさせていただけたらなあと思うのです。

南无阿彌陀佛







●re.93
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1469 ] Re2:忍草様へ 2009/05/02 (Sat) 01:58 △up ▽down
忍草 様

私は、忍草様がご熱心であり、また、何度も書き込んでくださいますことに、感謝しております。

意見に異なることがあるから、歓迎していないということではないのです。


また、

>以前にも書きましたが昔は短気でした故直す努力を致しております。

ということも、本当に素晴らしいことだと思います。

私も、見倣わねばならないと思います。

私も、私を直すよう、努力して参りたいと思います。

(この「直す」ときに、私がものさしとしておりますのが八正道なのです。ただし、これは私の個人的に思うところでありまして、あくまでも私の実践にすぎません。さらに、六字に八正道も含まれているのであれば、御恩報謝のお念仏をお称えしてゆくうちに、八正道が自然と実践しやすく私が変えられてゆくはずであると思っております。これは、私の信仰であると思います。また、信前の方におきましては、八正道を試みてゆくことは、とても良いことであると考えております。いろいろと、知らされることがあると思うからです。もちろん、既に弥陀の救いを熱心に求めている方におきましては、その限りではないと思います。)


そして、

>私はあくまで後念相続が精進であり、平生業成であると申上げたいのです。

についてですが、「後念相続」をどのような意味で忍草様が用いているのか、「平生業成」をどのような意味で用いているのか、そのご説明がなければ、私には、忍草様がおっしゃりたいことが、わかりません。

この部分(定義や説明を加えてほしいということ)が、私が特に忍草様にお願いしたいところなのです。



たとえば、私にとりましては、信をいただいて、御恩報謝のお念仏をお称えしてゆく。これは、後念相続であり、精進であり、平生業成でございます。


相続のすがたは、千差万別であり、いただいたひとりひとりによって異なるものでしょうが、いただいた信心はひとつであると思っております。


精進と言えば、悪きことは止め、はじめず、良きことをはじめ、つづける。

ご恩報謝のお念仏をお称えしてゆくことは、まさに精進にかなっていると思っております。

六字を称えることは、悪きことばを止め、悪き思いも止めます。(ことばはすべて止まりますが、思いは一部止まります。それでも、一部でも止まることが尊いです。)


救われて何をするか。御恩報謝のお念仏をお称えしてゆくことだと私は思っております。

精進のできない凡夫が、こうして精進もさせていただけるようになったと味わっております。

南无阿彌陀佛

●re.94
毎日
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[ 1470 ] Re3:忍草様へ 2009/05/02 (Sat) 02:27 △up ▽down
高野豆腐 様

匿名性の掲示板の良いところは、職業・年齢等、わからないことだと思っております。

これは、匿名性の掲示板特有の良さですので、その良さを大切にしたいというのが私の考えです。

だからこそ、思うところを述べやすいという利点が大切だと思います。

もちろん、出自を明らかにすることによる説得力というものもあると思いますが、それは、実際に面する場にて為せばよいこと。


ここからは、高野豆腐様の御書き込みから、連想したことでございます。

教義においても、浄土真宗におきまして、上下はないのでありまして、年齢・獲信してからの年数、そのようなものを誇るのは勘違いであろうと私は思います。

年をとっても流転する、生を重ねても流転する、それが凡夫なのですから、時の経過を誇っても、意味のないこと。

私たちが誇るべきは、いただいた信心であって、弥陀であると思います。


真実信心いただいたならば、そこからの時の経過が1日でも、10年でも、そこに何の差があるというのでしょうか。

身体的条件も、学歴も、職業も、性別も、国籍も、収入も、年齢も、その他の属性も、すべて関係のない六字であると思います。

そして、それが関係ないと知らされるのも、六字の不思議なはたらきであるといただいております。

そして、菩薩の階位も問題にする必要もなく、そもそも、私たちは「菩薩に等しい(菩薩となることが約束されている)」のであって、「今、菩薩である」ということではないと思います。

ただ今におきましては、煩悩に翻弄される凡夫であります。「ただ今菩薩である」とは、驚くべき傲慢さであると私は考えております。

ただし、この点(「ただ今は、菩薩ではない」ということ)については、私も過去のことばづかいに問題があったと考え、近頃は、気をつけております。


「こんな凡夫が、将来菩薩にしていただける」ということが、驚くべきことで、他流からは、嘲られるところです。(つまり、「将来菩薩にしていただける」というだけでも、驚くべき傲慢さと思われるかもしれず、そして、そう思われても仕方がないと私は考えております。)


このような真宗を、私は「素晴らしい、真実の教えである」とよろこんでおりまして、だからこそ、押しつけたくはないのです。

なぜなら、「布教せよ」ではなく、「信は秘めよ」であるからこそ、「(私には)真実の教えだ」とよろこんでいるからです。


つまり、私は、「布教せよ」というタイプの宗教が嫌いで、反感があるのだと思います。

だからこそ、お手引きを推奨することについては、過剰に反応してしまい、見苦しいすがたをお見せしてしまうのだと思います。

宗教というのは、とても大切なもの(心の深いところの考え、感覚につながっていること)なのですから、各自の信が尊ばれるべきもので、布教などは「大きなお世話」だと思っているところが私にはあるのだと思います。

真宗に限らず、基本は「一人のしのぎ」であるということが、私の信仰であると思います。


法蔵様は、本師本仏であらせられましたが、ご修行のとき、他の仏、菩薩はお誘いになりませんでした。

ただ、ご自身の修行の道筋をつけてもらうために、ご自身の進まれる場を準備なされ、それにより、我らの進む場をご準備くださいました。

ご修行の成就は、諸仏諸菩薩の賛嘆するところでございまして、皆、弥陀のはたらきを助けていらっしゃるということでございます。


このようなお話を聴いておりますだけで、私の心には、次第に変化が生じて参りました。


たった六字のありがたい教えでありまして、そこには、すべてが含まれているのだと、よろこんでおります。


南无阿彌陀佛

●re.95
毎日
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[ 1471 ] Re4:忍草様へ 2009/05/02 (Sat) 03:46 △up ▽down
忍草 様

>他人の事を大変すばらしく観察されて長い文章をお書きになられる事、感心致します。とても真似が出来ません。

とのことですが、私は忍草様のことを書いたのですから、忍草様にとりましては、忍草様は御本人であって、他人ではないですよね。

ですから、「『大変すばらしく観察』とは、どのような意味なのだろう?」と不思議に思うのです。


私の観察、推測と、忍草様ご自身による忍草様の観察には、差があるはずなのではないでしょうか。


「大変すばらしく観察」と済ましてしまう。それでありながら、一字一句を大切にしているとのこと。

そこには矛盾があると思います。


「自身の考えを述べる」ということは、自己の観察を含むことです。

ご面倒、あるいは、自身のお考えを述べるのは、(間違いを恐れるなど)心に抵抗があるのかもしれませんが、やはり、できることなら、忍草様の御考えを知りたいと思います。


忍草様は、「争いを嫌う」とのことですが、本当にそうなのでしょうか?

忍草様は、「争いを嫌う」というよりも、「自身の考えを述べることに抵抗がある」ように思われるのですが、いかがお考えですか?


私は、忍草様の言動からは、上下の観念を強く感じるのです。

ですから、忍草様にとりまして「下」と思える方には、ご自身の思うことを述べることができましても、そのような確認ができないと、意見が表現できなくなってくる性格なのではないかと思っております。


こちらは、教義が趣旨ですので、「大変すばらしく観察」のご説明が後回しになっても、


>私はあくまで後念相続が精進であり、平生業成であると申上げたいのです。
>(但し、「自見の覺悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ」ともありますので私も要注意)


についてご説明していただけたら、うれしく思います。

特に、「後念相続」が何を指すかが大切だと思います。


もちろん、御説明を強要するものではありません。

ただ、そもそも説明する意図があまりないのであれば、一体何のための御書き込みなのでしょうか。

私も遅筆でございますので、時間がかかることは、仕方が無いと思います。

ことば足らずになるのも、仕方が無いと思います。

それでも、「わかってほしい」という気持ちを持つことはできるのではないかと思います。


「わかってほしいから、言葉を尽くす」というのと、「(端的な表現で)理解できると思っていました」というのは、大分立場が違うと思います。

忍草様の表現では、まるで忍草様の書くことがわからない人は、(真宗の)常識に欠けているか、あるいは、知性が低い人のようであると思います。

理解できると思っていて、もし相手がわからないなら、間違っていたのは忍草様の御推測であると思います。


このように、現に間違った推測を為しているのに、お聖教はわかるのだと思えるのは、おかしいと思いませんか? と私は忍草様に問うています。

誤解だらけだろうと推測できるのが自然だと思うのですが・・・


南无阿彌陀佛

●re.96
ボン
関東の男性
[ 1472 ] 教義について 2009/05/02 (Sat) 11:53 △up ▽down
忍草様、こんばんは。

以下の引用のなかで私の名前もでてきておりますので、極道坊主様にならい、
私のスタンスを述べさせていただきます。

>私は多少の捉え方の違いはあっても、後念相続が精進であり、平生業成であると思って
>います。泥凡夫様はじめ極道坊主樣、ボン様、その他の皆様方とも意見交換した事は
>ございませんが、後念相続は大事だと思っておいでの事と勝手に推察いたしております。

私は、この御法をいただいた直後のころ、有縁の善智識様から「『あと相続』が大事だよ」
と何度か、言われておりました。

『あと相続』の意味もよく解らずに、「そうか、『あと相続』が大事なのか」と考え、
信後も「お講」や「お座」には極力、顔を出すようにしておりました。

『あと相続』のほかに、『まえ相続』という言葉も、聞きました。
御法をいただく前に聞く話しが『まえ相続』で、御法をいただいた後に聞く話が
『あと相続』だと勝手に解釈し、せっせと聴聞に励んでいたわけです。

この場合、『相続』というのは、相続をするのではなくて、相続を受けるという
ことになります。

法話の席では、大体は「おふみ」の話に終始して、「牛盗人と言われようとも・・・」
の段に来ると、一気に「牛盗人の逸話」になだれ込む、といったパターンが繰り返されます。

そうこうして、なんとなくお話を聞いているうちに、初めのころは出てこなかった話も
だんだん出てきて、理解が深まるという寸法ですね。

こんな呑気な『あと相続』をやっておりました。

実は、皆さまのおっしゃる『後念相続』という言葉は、ここの掲示板で初めてしりました。
「そうか、『あと相続』というのは、正しくは『後念相続』というのか」と思ったわけです。

だから、私のなかで、『後念相続』というのは、同行様に近づき、親しみ、お話を聞き、
信心を内心に深くたくわえて、横道にそれないようにすることだと思っているのです。

そういう意味で、『後念相続』は大事だと考えております。
その後、有縁の同行様とも離れてしまい、横道にそれそうになったこともあるので、
余計にそう思います。

そこで、『後念相続』が精進であるとか、修行であるとかいう件についてなのですが、
今述べましたような生い立ちがありますものですから、どうも「精進」とか「修行」と
いう言葉がピンとこないんです。

話しは少し違いますが、精進料理が出てきても、やはり誰かが殺生した肉や魚がないと
物足りなく感じてしまう生臭い人間なので、「精進」とか「修行」とか言われると
ついていけそうにないと感じてしまいます。

ただ、自分では「修行」とは思っていなくても、仏の目から見たら実は修行の真っ最中
ということもあるのではないかという気もいたします。

ちょうど、遊びほうけている息子を見た親が、「あいつは今、修行をしているんだ」と
思ったりするような感じです。

そもそもの話しをしますと、ここで「精進」とか「修行」とかいう場合に、その言葉を
どのように定義して使っているのかということが、はっきりしていないような感じが
いたします。(だれから見た修行かということも含めて)

私の目から見ますと、「八正道」を重視しておられる毎日様は、まさに修行を
されているように見えます。

とくに、いつもご自身の邪心と真正面から向き合ってお姿は敬服に値します。
ただ、自らの汚い部分をえぐり出し、同様に他人に対してもその人の汚い部分を
突きつけますので、多少、誤解をされているかたもいらっしゃるのではないか思います。

あまり、考えないで書いているので、なにか収拾のつかない話しになってしまいましたが、
こんなところで失礼いたします。

南无阿彌陀佛

●re.97
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1473 ] Re1:教義について 2009/05/02 (Sat) 04:29 △up ▽down
ボン 様

呑気な『あと相続』、いいですね。

それが真宗の良いところだと、私は思います。

凡夫が救われる道ですので。


「よろこべ」というボン様の思い出の知識様のおことば、私もよく思い返します。

「よろこべ、よろこべ」と、これは尊い教えであると思います。


よろこんで、南无阿彌陀佛。

これは、かなり幸せです。


「もう救われたんだから、これでいいんだなあ」と呑気によろこんでゆける。

それは、とてもうれしいことで、しあわせだと思います。


南无阿彌陀佛

●re.98
忍草
北陸の男性
[ 1474 ] Re2:教義について 2009/05/02 (Sat) 10:48 △up ▽down
   極道坊主様   ボン様
 極道坊主様の後念相続という意味の捉え方が既に、私やボン様とも違っていますネ

 意味の捉え方が違えば「平生業成と後念相続の関わり方が本末転倒」の言葉も意味が

 なさなくなります。極道坊主様にお願い致します。もし一念帰命を戴いていらっしゃるなら

 今一度有縁の知識様に前相続、あと相続という言葉をご確認頂きたいと思います。

 後念相続の意味が違えばその後の文章の「かなり異質・・・」も違うとおもいますが・・・


 ボン様の書き込み
 御法をいただく前に聞く話しが『まえ相続』で・・・
 >だから、私のなかで、『後念相続』というのは、同行様に近づき、親しみ、お話を聞き、
 信心を内心に深くたくわえて、横道にそれないようにすることだと思っているのです。

 そういう意味で、『後念相続』は大事だと考えております。

 ただ、自分では「修行」とは思っていなくても、仏の目から見たら実は修行の真っ最中
 ということもあるのではないかという気もいたします。

 私(忍草)も同様に思います。生かされて『おかげさまのまいにち、ご恩報謝の毎日』です。

 ボン様の書き込み本当にありがとう御座いました。

 愚老様、選挙も終り少しは落ち着かれたと推察致します、難しい話ではなく、このような

 あと相続や平生業成のお話くらいはチョットお聞かせください。泥凡夫様も・・・。

 一念帰命の同行の皆様、
  
 夫々若干の捉え方の違いはあっても、非難や、外道・邪道呼ばわりはやめて、

 楽しくそして少しでも内心豊になる書き込みに致しましょう。

 改めて極道坊主様、ボン様ありがとうございました。

                     合掌 南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.99
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1475 ] Re3:教義について 2009/05/02 (Sat) 12:01 △up ▽down
忍草様

極道坊主で有ります。

そうですか? 自分が『後念相続』の意味合いを捉え違いをしていた訳ですね。 

お恥ずかしい事です。

改めて、自分の内に留まって居って下さる『御念佛』に、感謝せねばならんと感じました。 お師匠さんを縁として、「自分には、もうこの道しか残っていない。」と思うように差し向けられたのだと、今になって感じます。

横道に逸れる事に、恐怖を感じていた時も有りました。 安心が得られんかったからであります。

今では、その様な気持ちも起こりません。(改めて思えば、何時の頃からか起こらなくなりました。) 「常に佛様が側に居て下さり、何処に行くでも憑かず離れず一緒。」と言う思いが訳も解らず強いからです。

自分の尻拭いは、親さんがしてくれます。 佛からすれば、自分は赤子同然。

母親に抱かれている安心感が有ります。 「赤子である以上、下手な理屈は要らん事で、甘えて行けば良い。」「おぎゃぁ〜おぎゃぁ〜。」といって催促をし、「ニコッ。」と笑って『なむあみだぶつ』の御念佛でお礼を申せば良い。

以上のように感じてます。


今の今迄『後念相続』とは伝えて行く事だとばかり思っていました。 知らん事でした。(知らねばならん事だったのかもしれませんが?)

そんなことも理解出来てないなんて、もっともらしく書き込みした自分が情けなくなります。

ボン様の書き込みが切っ掛けで、忍草様を縁として教わった訳でありまして、御両人様にお礼を申し上げます。 有難う御座います。

教わった通りに解しますと、『平生業成』も『後念相続』も『御念佛』が自分に関わって下さっておるのだと感じます。 自身のペースに合わせて下さいながら。

「本末顛倒」では無く「本末究境等」ですね。 常に同時進行なのでしょうか?

誠に以って自分には勿体無い限りであります。

合掌



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