讃嘆・味わいなど

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●No.39
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 1175 ] タノム/タスケルに関する質問 2011/06/23 (Thu) 19:15 △up ▽down
泥凡夫様の過去ログ問答をやっと読み終えた初心者です。

毎日、南無阿弥陀仏とお願いしてます。

南無阿弥陀仏は南無=頼む/阿弥陀=助けるから成ってますが、
たのむ一念は自力の計らい心ではダメなのですか?
タノム:お願いは自力でしかできないのではと思いますが?

他力は弥陀より賜る力で我々凡夫には計り知れませんが、一念覚知でに救われた、信心決定が自分ではどのようにわかるのですか?(質問1)

同じ意味でも異なった言葉で表現されるので、初心者にはわかりずらいです。
阿弥陀様は誰でもOKですよとオープンなのに、何故か難しい。

人間の常識や理性を超えた世界ですので、自分の心を超えねばならん難しさをどうしたらいいのか?と悩んでいます。

頓と難の両極端の存在する世界のように思えます
まだここの世界の言葉に慣れていない段階の私です。

そして、弥陀より18願を戴いたなら、直ちに往相になれるのですか?(質問2)

以上のお答えよろしくお願いします。




●re.1
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1176 ] Re1:タノム/タスケルに関する質問 2011/06/24 (Fri) 02:13 △up ▽down
唯物信者さま、こんばんは。

率直な疑問を述べていただき、ありがとうございます。

>たのむ一念は自力の計らい心ではダメなのですか?
>タノム:お願いは自力でしかできないのではと思いますが?

「お願いをする」という行為は、確かに自力かもしれません。
しかし、「タノム」は「お願い」とは限りません。

「日本国語大辞典」によると「たのむ」の意味は以下のようになっています。
  (1)たよりにする。あてにする。また、信頼する。信用する。
  (2)信仰する。帰依する。
  (3)たよるものとして身をゆだねる。主人としてたよる。
  (4)他にゆだねる。依頼する。委託する。
  (5)特に懇願する。願う。

(5)は確かに「自力」ですが、(1)から(4)は「他力」の意味になりませんでしょうか。
では、具体的にご聖典での「たのむ」の使い方をみてみましょう。

------------------------------------------------------------------------
仏智の不思議をたのむべし(誡疑讃)
ただ如来の至心信楽をふかくたのむべし(尊号真像銘文)
他力をたのみたてまつれば(歎異抄 )
ただ弥陀一仏をたのむ(御文2-3)
------------------------------------------------------------------------

つまり「仏智の不思議をあてにする」「ただ弥陀一仏に身をゆだねる」と読めば、意味が
通りますが、これを「仏智の不思議をお願いする」「ただ弥陀一仏をお願いする」では、
意味がとおりません。つまり「弥陀=他力」をあてにするというわけですよね。

また、逆の使い方でも同じことが言えます。

------------------------------------------------------------------------
これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむものなり。(一念多念証文)
自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ(一念多念証文)
------------------------------------------------------------------------

これも「自力をあてにする」「わが身をあてにする」と読めば意味が通りますが、「自力
をお願いする」「わが身をお願いする」では意味が通りません。

また、「たのむ」には主に「頼む」「恃む」「憑む」などの漢字があてられるものと思い
ますが、親鸞聖人は「憑む」という字を好んで使っています。

------------------------------------------------------------------------
大悲の弘誓を憑み(信巻・御自釈)
仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。(行巻・御自釈)
------------------------------------------------------------------------

「字通」(漢和辞典)によると「憑」は、次のような意味になります。
 (1)よる、よりつく、のりうつる、やどる、すむ。
 (2)たよる、たのむ、もたれる。

「憑」には「たよる、もたれる」という意味のほかに、「のりうつる、やどる」の意味も
あります。つまり「弥陀如来をたのむ」ということは「弥陀如来がのりうつる、やどる」
という意味にもとれるのではないかと思います。これも「他力」の意味になりませんで
しょうか。

長くなりましたので、以上といたします。まだ十分にお答えしていないと思いますが、あとは
どなたか他の方にお答えいただければ幸いです。

また、私の記述に間違いがございましたら、どなたでもご指摘くださいませ。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.2
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 1177 ] Re2:タノム/タスケルは一体感? 2011/06/25 (Sat) 00:11 △up ▽down
ボン様

いつも有難うございます
ボン様のご説明読んで、稲妻的な直感が湧きました

私がこの時点まで、1)自分=タノム(自力)----->弥陀へ 2)自分へ<-------タスケル(他力)=阿弥陀  以上の図式で視ていたのでわからなかったのでは?

ではなく:自分=たよる、のりうつる他力<------>タスケル(他力)阿弥陀

この同時一体感だ! 1)2)のようにバラバラではないのだ!
ひとつのセットになっているのですね?

以前、赤子の信心決定の質問に対して、

極道坊主様が、タノム私とタスケル阿弥陀様が何処まで行っても<対>になっている。
:「南無と帰命したのは私のようであるが、私の口を使って、南無と発してくださったのは弥陀の働き----私の入りこむ余地はない」と教えて頂きました。
極道坊主様有難うございました!!

そのときはまだこの意味がピーンと来ず、今、稲妻的にキマシタ。

これでいいのでしょうか?
もし、これでOKでしたら、第一歩の大きな壁が破れた思いです
いかがでしょうか?

教えてください!

南無阿弥陀仏




●re.3
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1178 ] Re3:タノム/タスケルは一体感? 2011/06/25 (Sat) 11:49 △up ▽down
唯物信者さま、こんにちは。

私の申し上げましたことが、唯物信者さまにとって、何かのお役に立っているのであれば、
とてもうれしいことです。

唯物信者さまのなかに何か固定観念のようなものがあって、それがご聖典やいろいろな方
のお言葉を理解しにくくしていたのにたいして、その固定観念が取り除かれることによっ
て、いろいろなことが以前よりスッキリと腑に落ちるようになったとすれば、それは、
素晴らしいことだと思います。

同時に、私自身が、唯物信者さまの疑問にお答えしようとして、あらためてご聖典のなか
の言葉が以前よりしっくりと理解できるようになったりすることがあるので、むしろあり
がたいことだと思っています。

ただ、誤解のないように申し上げますが、「たのむ」が「たよる」だとか「のりうつる」
だとかであるというのは、あくまでも、信をいただくこと自体の話であって、そこに至る
までのあいだに、だれかに「お願いする」場面は出てくると思うのです。その「お願いす
る」という自力的(?)な行為も必要だと思うのですが、それは「他力の信をいただく」
ということ自体とは別のことですので、切り離して考える必要があると思うのです。

ところで、先の質問のなかのまだお答えしていなかった部分で、すこし気になる点がござ
いましたので、それについて述べたいと思います。

>他力は弥陀より賜る力で我々凡夫には計り知れませんが、一念覚知でに救われた、
>信心決定が自分ではどのようにわかるのですか?(質問1)

「一念覚知」という言葉は、私にとって、あまり馴染みのないことばです。おそらく、
ご聖典のなかには「一念覚知」という言葉は出てこないような気がするのですが・・・。

そこで、「一念覚知」についていろいろ調べてみますと、それは「信一念の日時の記憶が
なければ、信心ではないとすることは『一念覚知』の異義」である、という文脈で用いら
れている言葉のようです。

つまり「いつどこで信をいただいたかはきりわからないようでは信を得たとは言えない」
という見解に対して、「それは真宗の本来の考えとは違う」と烙印を押すときに、否定的
なニュアンスで「一念覚知」という言葉が用いられているようです。

おそらく、だれかが「一念の時刻を覚え知ることが大事だ」といったようなことを言った
のでしょう。それにたいして、「一念覚知」というレッテルを貼ったものと思います。
自分の立場を否定されれば、だれでも嫌なものですし、反発もします。

ところで、「信心決定が自分ではどのようにわかるのか」というご質問につきましては、
残念ながらいまここで「このように」と具体的に述べるわけにはまいりません。それは、
一味同行となれば、言わずとわかることです。

ただ、少なくとも言えることは、私にとって信をいただくということは、自分の内面の
意識のなかで完結するような類のものではないということです。また、少しずつ何かがわ
かってきて、「いつの間にか信を得た」というようなものでないことも確かです。

ですから、「いつどこで信をいただいたかはきりわからない」というようなものではない
と言えます。ただ、それはあくまでも私自身の話であって、そうでなければ「信を得たと
は言えない」などと、挑発的なことをあえて人様に向かって言うこともないと思うのです。

そういうことを言うから「一念覚知」などとレッテルを張られて、攻撃の対象になるのだ
と思います。つまり、誹謗を招きます。ですから、それは慎むべきです。自分のなかで、
ただ、いただいたものをありがたく思い、喜んでいればいいだけのことだと思います。

南无阿彌陀佛

●re.4
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1179 ] Re4:タノム/タスケルは一体感? 2011/06/26 (Sun) 09:31 △up ▽down
唯物信者さま、こんばんは。

先の質問につきまして、引き続き書き込みをさせていただくことを、お許しください。
(ひとりで出しゃばりすぎかとは思いますが・・・)

>人間の常識や理性を超えた世界ですので、自分の心を超えねばならん難しさを
>どうしたらいいのか?と悩んでいます。

「人間の常識や理性を超えた世界」という見方は一見もっともなようですが、少し不正確
で、誤解を生じる余地があるように思います。なぜなら、唯物信者が「自分の心を超えね
ばならん難しさ」とおっしゃっているからです。

おそらく、漠然とではありますが、この世のものとは思えない超常的なこと、あるいは、
この世の不思議とでもいえるようなことが、わが身に起こることを暗に期待しているよう
なふしが感じられるのですが、誤解でしょうか。

理性を超えて情念の世界、または神秘的な世界に突入すれば、何か見えてくるものがある
とお考えでしょうか。

あるいは、あらたな理解の境地に達して、自分が一皮むけることが、仏智に近づく道だと
考えているようにも感じられるのですが、いかがでしょうか。

仮にこの世の不思議が起こったとしても、それは仏教(とくに真宗)とは直接関係のない
ことだと思います。また、ご自身の理解がどこまで進んだとしても、仏智に近づくことは
できないものと思います。そう考えれば考えるほど、仏縁から遠ざかるような気がいたし
ます。

仏教では「不可称、不可説、不可思議」という言葉をよく使います。「称する(はかる)
こともできず、説くこともできず、思議することもできない」という意味です。つまり、
人知を超えているということです。常識や理性を超えればいいというものでありません。
常識や理性を超えても、つまり、非常識になっても、非理性的になってもそこまで達し
ないということです。

それでは、いったい何が「不可称、不可説、不可思議」なのでしょうか。正確を期すため
に、ご聖典から引用させていただきます。

--------------------------------------------------------------------------------
不可説、不可称、不可思議の至徳を成就したまえり(行巻・御自釈)
この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃に
いたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。(唯信鈔文意)
かの土に生れんとねがふ信者には、不可称不可説不可思議の徳を具足す。(弥陀如来名号徳)
不可称、不可説、不可思議の功徳は行者の身にみてり(高僧和讃)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、阿弥陀仏の成就した功徳が、人知を超えた計り知れないものだということです。
その計り知れない仏智(功徳)が尊号(仏の名号)に込められていて、その功徳(名号)
が、かの土に生れたいと願う信者(行者)の身に満たされれば、その願いがかなう、とい
うことだと理解できます。

それはとてもありがたいことなのだけれど、「じゃあ、なぜそうなるの?」といくら思案
したところで、それは人間ごときにわかるようなものではないのですよ、ということでは
ないでしょうか。それが「不可称、不可説、不可思議」の意味だと思います。

「不可称、不可説、不可思議」という言葉を、あまり神秘的に受け取らないほうがよいか
と思います。

しかし「人間の理性を超える」あるいは「自分の心を超える」という言い方も、ある意味
では正しいのかもしれません。なぜなら「仏智を理性的に理解しようという心」で臨んで
も、仏智に近づくことはできないからです。

どんなに智恵を総動員して理性的・合理的に考えても仏智に近づくことはかないません。
かといって、情念的・神秘的な境地に至っても、ますます仏教とはかけ離れたものになっ
てしまいます。

それなら、どおしたらいいのか。その答えは簡単です。その不可思議な法を知っている人
に教えを請い、そのとおりにすればいいだけのことです。それが「他力」ということなの
ではないでしょうか。そのような心境になれば「自分の心を超えた」と言えなくもないと
思うのですが・・・。

南无阿彌陀佛

●re.5
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1180 ] Re5:タノム/タスケルは一体感? 2011/06/27 (Mon) 01:32 △up ▽down

唯物信者さま、こんばんは。

以下の質問につきまして、まだお答えしておりませんので、これについて述べたいと思い
ます。

>そして、弥陀より18願を戴いたなら、直ちに往相になれるのですか?(質問2)

「往相になる」というのがどういうことなのか良くわかりませんが、とりあえず、ここで
いう「往相」とは何を意味するのかということについて、正確を期するために、ご聖典か
ら引用したいと思います。

--------------------------------------------------------------------------------
往相とは、己が功徳をもって一切衆生に回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に
往生せしめたまえるなり。(『論註』行巻より)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、往相とは、法蔵菩薩が修行によって阿弥陀仏となったときに得た功徳を、私たち
にほどこし与えることによって、私たちを阿弥陀仏の浄土に往生させること、と考えてよ
ろしいかと思います。また、次のように述べられています。

--------------------------------------------------------------------------------
念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。
(親鸞聖人御消息)
--------------------------------------------------------------------------------

つまり、第十八願(念仏往生)は、往相回向(仏の功徳が私たちに差し向けられること)
の正しい行いであり、正しい因(たね)であるということです。

言い換えると、第十八願は、私たちが阿弥陀仏の浄土に往生するための正しい行いであり、
正しい因(たね)であるということです。つまり、そこに行いがあって、それが往生の因
(たね)になっているということになります。その行い(第十八願の行)は、阿弥陀仏の
側から見れば、自らの功徳を私たちに差し向けていることにほかならないということです。

要するに「十八願をいただけば往相になる」という言い方は少しへんであって、正しくは
「十八願が往相(仏の功徳を与えること)そのものであり、それはある種の私たちの行い
であり、それが浄土に往生するための因(たね)となっている」という言い方になるものと
思います。

これで答えになっているかどうかわかりませんが、何か間違いがございましたら、どなた
でもご指摘ください。

南无阿彌陀佛

●re.6
唯物信者
海外の男性

↑唯物信者様宛にメール
[ 1181 ] Re6:タノム/タスケルは一体感? 2011/06/27 (Mon) 10:00 △up ▽down
ボン様

お早う御座います。いつも的確で詳しいご指導感謝します
ボン様のオカゲで、暗闇に陽がさしこみ、仏智へと導かれるように感じてます。
方向性を間違えば努力するほど、逆になりますね。正確に正しい方向を知らないと、とんでもないことになってしまいます-----恐ろしいことです。

Re3=まず、「一念覚知」の件ですが、泥凡夫様ログ1、記事#3954でみちくさ様との「赤子の獲信」問答中、凡夫が救われたことをハッキリ自覚できるか否かで、この言葉が使われていたので、うかつにもこの言葉がもっとも的確と勘違いし、誤って使ってしまいました。

こんなところがまだ仏教用語がまだわからん初心者なのです。
よく読めば、結論は次第相承の善智識に御逢いしなければ氷解できないことと解りました。

Re4=「人間の常識/理性を超えてた世界」----まだ抽象的に漠然Or神秘的にしか理解できませんが、阿弥陀様の慈悲や徳は浅ましき人間(私)には到底計り知れないものだと解りました。

Re5=相往の件、18願は阿弥陀様が人間界へ相往(往生の種)を差し向かえて下さっているのだと解釈すればよくわかりました-----これも浅ましき人間の計らい心からばかりみるのでわからなくなっていたのですね。
段々とわかりつつあるように感じるのはアツカマシすぎますか?

以上私の感想ですが間違いあれば、ご指摘願います。

南無阿弥陀仏











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