讃嘆・味わいなど

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●No.38
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1121 ] 信じる心と疑う心 2010/08/08 (Sun) 00:52 △up ▽down
みなさま、こんばんは。

これから私が申し上げることは、仏の賛嘆でもなければ、法の味わいというようなもので
もありません。ただ単に、内心の暴露をしようと思います。

たびたびここの掲示板でも白状しているように、私は疑っています。何を疑っているかと
言えば、それは「来世の存在」です。「ひょっとしたら、来世なんか無いのではないか」
いつもそう思っているわけではないのですが、ときどき、ふとしたはずみで、そのような
考えが頭を持ち上げてくるのです。

世間一般的な観点からすれば、来世なんかだれも見たことが無いわけですし、「そんなの
あるかどうかわからないよね。見たこともないものを信じるほうがどうかしているよ。」
と言ったところで、だれも奇異な感じは持たないでしょう。とくに、宗教の地位がとても
低いと思われる日本においては、なおさらのことです。

しかし、私は、縁あってこのご法をいただきました。端的に言いますと、御文に書いてあ
るとおり「私の後生を助けてほしい」と願って、そのとおりにしていただいたわけです。
そのような者が、今さら、来世つまり後生はひょっとしたら無いかもしれない、などとい
う考えにとらわれていたとしたら、それは矛盾というほかありません。どう考えてもおか
しいですよね。

来世がないとしたら、来世を救ってほしいと思う理由もないのです。しかし、私は来世を
救ってほしいと思いました。一応、そう思いました。なぜなら、来世はあるかもしれない
からです。来世は、ないかもしれないし、あるかもしれない。来世がないとしたらそれま
でのことですが、もしそれがあるとしたらどうなのでしょう。そして、自業自得という
因果の法則が正しいとしたらどうなのでしょう。

現世で死肉を食い、虫を殺し、都合のいい嘘をついて暮らしている私が、来世で自分のし
た仕打ちと同じ目に遭わなければならないのです。自分の罪という罪を自覚させられ、虫
けらのように殺され、肉を切り刻まれても当然の報いだということを受け入れなければな
らないのです。もしそうなら、これは想像を絶する恐ろしいことに違いありません。

何の因縁かわかりませんが、偶然にも目の前に当流のご縁が転がり込んできた私は、すか
さず頭の中で電卓を叩きました。もしここでこのご縁を遠ざけてしまったら、死んだ後に
どんな恐ろしいころが待っているかもしれない。もちろん、待っていないかもしれないが、
待っている可能性も否定できない。もしこのご縁をいただいたら、この世で何の損もない
うえに、もしかしたら来世でとてつもない宝物を得るかもしれない。その宝物をただでく
れるというのなら、もらわない手はないでしょう。要するに私は、将来どう転んでもいい
ようにリスク分散をしたのです。

正確に言うと「来世を救ってほしい」と思ったのではなく、「もし来世があるなら、来世
を救ってほしい」と思ったのです。こんな計算高い理由でご縁をいただいた私が、ときど
き「来世は無いかもしれない」という思いを払拭できないのは、当然といえば当然のなり
ゆきでしょう。

ご縁をいただいばかりのころ、同行様の法話に参加すると、知識先生は、「どんなことで
も遠慮なく質問してください。『本当にこんなことで救われるんだろうか』といったこと
でもいいんですよ。」と優しくおっしゃってくださいます。しかし、私の根底にある「来世
は存在するかどうか」という疑問については、ついに質問できないまま、同行様方とは疎遠
になってしまいました。

なぜ質問できなかったのか。それは、怖かったからです。その質問を発した途端、それま
での和やかな場はいきなり凍りつき、異質なものを見るような視線が私に集中するのでは
ないか。そのような恐怖心が、私のその質問を押し留めたのです。私は卑怯でした。

なぜ私が今さらながら、このようなことを白状するのか。それは、私のような心情が、
本当にこの御一流の同行様の間では異質なものなのか、確認をしたかったのです。こんな
不埒で不純な動機でご縁をいただいた方は、私のほかにはおられないのかを確認したかっ
たのです。

どなたでもけっこうです。教えてください。
どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.1
菩提心
非公開の非公開
[ 1122 ] Re1:信じる心と疑う心 2010/08/08 (Sun) 10:32 △up ▽down
ボン様

私は、「親鸞会被害家族の会」に書いていた時、応援して頂いた人が一味同行となりました。

しかし、その人は泣き泣き帰られたそうです。

悲しんで帰られたそうです。とても信じられなかったそうです。

そして私のパソコンにその方のメールが入っていました。

「僕は探します。掟は守ります。若し見つかったらお知らせします。」という要約するとそんな感じです。

私は落胆しました。

そして、すぐに泥凡夫様にご連絡しました。

その時の私も信を獲て間もない頃だったからです。

でも泥凡夫様は心配しておられませんでした。

私達は救われても煩悩が有ります。

そして一味同行と言われても、それは過去世からの縁もあると思います。

又、善知識様と言われたお方が、その縁から離れてしまったお話を地元の善知識様からお聞きした事も有ります。

善知識の下で一念帰命した人は、皆同じ味わい方をするのではないと上の二つの件だけでも知らされました。

それに私は、3回も変わりました。

3回変わって知らされた事は、この教えはなかなか信じられないだろうと言うことが信じられた事です。

私は疑いが自性の凡夫の身だと知らされました。

疑いが有るがままで、救われるのならそれこそ弥陀の本願に間違いがないと知らされました。

一家族の間でも、私以外は宗教には関心が有りません。

それでも一味同行の御縁を頂いた者も有ります。又まだの者も有ります。

そんな家族が一緒に生活しています。

だから家族の間の中においてさえ、信を頂いていない娘には何も言いません。

又息子は全く真宗にも関心を示しません。

それでもどこかで繋がっているような安心感があります。

>なぜ私が今さらながら、このようなことを白状するのか。それは、私のような心情が、
>本当にこの御一流の同行様の間では異質なものなのか、確認をしたかったのです。こん
>不埒で不純な動機でご縁をいただいた方は、私のほかにはおられないのかを確認したかったのです。

私自身はボン様と同じ思いでは有りませんが、御同行様の御縁もまちまちです。

ですから、前回の御同行様から見れば、私は異安心と受け取られると思います。

ボン様は、それでも疑いながらも安心な気持ちが起きてこないですか?

私は、来世は有ると思います。ただ行き場は地獄だと聞かされて来ました。

それが逆縁になっていたと思います。

どうすれば地獄に行かずに済む方法はないのかと苦しみました。

若し、この命今生で消えるならとても世の中理不尽な事が多すぎると思っていました。

しかし善の出来ない私は、地獄も行きたくなかったです。

それで救って下さる簡単な方法が有るなら、私はそれにすがろうと思いました。

赤子でも救われる簡単な方法なら、私みたいななまくら者には好都合でした。

私は赤子でも救われるというやりとりを読みました。

単純に、赤子でも救われるというのなら、赤ん坊の気持ちになってみようと思いました。

そして布団に入る時、阿弥陀様に抱いてもらっている自分を想像して眠りました。

とても50過ぎのオバサンが考える発想じゃないでしょ。

でもこうやって今はお返事書いている自分がいます。

今は、色々なご著書を拝読しています。趣味みたいなものです。


なんか全然、ボン様のお気持ちと離れた事を書いているみたいで申し訳有りません。

でも逆に安心しました。

これを疑煩悩って言うんでしょう。死ぬまで無くならない疑い。

ところでこんな時間に書いているのは、昨晩ちょっと缶ビールを飲んだんです。

そしたら、吐き下しでヒーヒー全身くたくたで、今ようやく少し元気が出てきました。

こういう時は、本当に今死んだらどうしようかと思います。そんなもんです。勝手なんです。

少し身体も落ち着いてきたので、「藤谷還由」師のご著書を拝読していました

きっと、ボン様にも喜んで頂けるご著書だと思います。(阿弥陀経十勝談あたりから如何でしょう)



おやすみなさい。

南无阿彌陀佛

●re.2
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1123 ] Re2:信じる心と疑う心 2010/08/10 (Tue) 02:20 △up ▽down
菩提心様、皆さま、こんばんは。

「掟は守るが他を探す」という方のお話は興味深いです。私には思いもよりませんが、
そういう方もいるんですね。その方は、よほど真剣に救われる道を求めていたのでしょう。
それなのに、「こんなに馬鹿馬鹿しいほど簡単なことで救われるなんてありえない。私は
何のためにわざわざこんなとこまで来たんだ。」と落胆し、泣きながら帰ったものと想像
します。いろんな書物で引き合いに出される典型的な「疑惑」が、まさにこれですね。

菩提心様は、3回も別々のところで帰命なされたのですね。それだけ心変わりが激しいと
いうことは、自分自身、疑惑のかたまりであるということを、菩提心様はおっしゃりたい
のだと思います。しかし、その度に古いものを棄ててきたのなら、それはそれで潔いこと
だと、私は思います。それも、真剣に救われる道を求めていたからこその成り行きではな
いでしょうか。

「掟は守るが他を探す」という方はこのご縁を棄て、方や、菩提心様は遍歴の末にこの御
縁に入ってきた、その結末は正反対ですが、お二人とも、真剣に救いの道を求めての結果
だと思います。それに引き換え、私の場合は、さほど強く救いを求めたわけでなく、なに
か保険をかけるかのような計算ずくでこの御法をいただいたというところが、お二人とは
異質なような気がします。

私は、疑う心を持っているから、不安だとか、苦しいなどと申しているのではありません。
後生を救ってほしいと思った私が、後生は本当にあるのだろうかなどと疑っている矛盾、
ちぐはぐな感じが、たとえれば、十分に消化されない食べ物が胃の中でゴロゴロしている
ような違和感となって、私の注意を引き付けているといったところでしょうか。

もちろん、このような私の心の持ち様は、「疑惑」という広い括りのなかに入るものと思
います。「疑惑」は「煩悩」の一種だから凡夫はだれでも持ち合わせているもの、と言っ
てみたところで、それは現実をありのままに確認したに過ぎないのであって、それによっ
て私の違和感がなくなるわけではありません。

もちろん、その違和感がなくなるのがいいのかどうかは解りませんし、なくしなければな
らないと考えているわけではないのですが、その自分の疑う心を丸裸にしてみたいという
希望は持っております。

南无阿彌陀佛

●re.3
菩提心
非公開の非公開
[ 1124 ] Re3:信じる心と疑う心 2010/08/10 (Tue) 07:02 △up ▽down
ボン様

まず最初に御縁頂いたところには、一念帰命という教えは有りませんでした。

むしろ、そのような事を否定し、「土蔵秘事」の本を出すくらいです。

その彼もきっとその本を読んでいたと思います。

だからきっと信じられなかったのだと思います。

しかし私は、その本を縁に、書き込みに書いてあった「自信教人信」様のY書店を知り、そこに電話をして、前の御縁となりました。

「土蔵秘事」に書かれた本と似ていた内容でしたが、「後藤善因」師のご著書を読んでいたので、違和感はありませんでした。

しかし、違う場所にも書きましたが、御文の内容と違うと思いました。

又、ようやく泥凡夫様と御縁頂き、「高名興仁」師のご著書を読んでおりましたので、その本をお見せしましたが、否定されました。

私は2か所を経て思った事は、固執しすぎていると思いました。

最初の場所は、善知識は蓮如上人以来の人。

次回のところでは、真実の流れはもうここにしか残っていない。

私はそうだろうかと不審に思いました。

そんなに狭いところで消えてしまう教えなのだろうかと思いました。

そのような心の経過を辿ってきました。

確かに苦しかったですが、しかし真剣に求めていたか分かりません。

このように導かれてきたというのがしっくりした気持ちです。

御参考になるか分かりませんが、泥凡夫様から送られたご著書の中から引用します。


疑心あることなしとは信心決定の事です。ここで注意しなくてはならないのは、疑いに二つある事です。

@煩悩の疑い・・・これは死ぬまでとれない疑い、これは疑煩悩ですから極楽往生には心配ない疑いです。つまり不断煩悩得涅槃です。

Aこれは不思議の誓願を疑うて、何としても信じられぬ、つまり無宿善の人で決以疑情と正信偈にあり、疑惑和讃二十二首に述べられた疑いです。
これを無明業障の恐ろしき病ともいい、光明にあわざれば決してなくならん疑いです。

今疑心ある事なしの疑いは、本願疑惑の疑い還来生死と迷わねばならない疑いです。
それが疑心ある事なしという尊い事になるのが、聞という字の意です・・・・。



私はボン様は幸せな人だと思います。

私は紆余曲折しなければこの道辿り着けなかったからです。

ただようやく間に合ったと思っています。

南无阿彌陀佛

●re.4
菩提心
非公開の非公開
[ 1125 ] Re4:信じる心と疑う心 2010/08/10 (Tue) 11:43 △up ▽down
「掟」の件ですが、泥凡夫様より教えて頂いた事があります。

それを破った者に影響があるのではなく、それを聞いた人が疑って地獄に堕ちない為だと言われました。

前の御縁では、その逆の捉え方をされていました。

「衆生有礙のさとりにて 无碍の佛智を疑えば  
    曽婆羅頻陀羅地獄にて   多劫衆苦にてしずむなり」   浄土和讃

上記の和讃等を御同行の方から示して頂いて、掟を護ることを重要視するように教えて頂いておりました。

法蔵菩薩として五劫もの間助ける方法を考え、兆載永劫御修行されたのは、何を仕出かすか分からない私達の為にではないのかと悶々としていました。

そんな思いも有りましたので、
善知識の下で一念帰命した人は、どうなるのだろうと
[ 106 ]摂取不捨の御心について、というスレッドを立てお聞きしました。

彼は、当時親鸞会の講師方との御縁も深かったので、迷惑をかけてはいけないとの配慮もあっての、私へのメール内容になったのではないかと思います。

私は、泥凡夫様の「何にも心配ない」とのお言葉でとても安心しました。

南无阿彌陀佛

●re.5
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1126 ] Re5:信じる心と疑う心 2010/08/11 (Wed) 02:31 △up ▽down
菩提心様、皆さま、こんばんは。

疑いには、「煩悩の疑い」と「仏の請願に対する疑い」の2種類があると菩提心様は
おっしゃっておられますが、この二つは実質的にどこが違うのでしょうか。

「煩悩の疑い」とは、何に対する疑いなのでしょうか。この疑いには「仏の請願に対する
疑い」は含まれないのでしょうか。

どなたでも、この二つの違いを詳しく教えていただけましたら、うれしく思います。

また、「来世の存在に対する疑い」は、「仏の存在に対する疑い」につながり、ひいては
「仏の請願に対する疑い」につながることはないのでしょうか。

この点につきましても、どなたでも、詳しく教えていただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.6
菩提心
非公開の非公開
[ 1127 ] Re6:信じる心と疑う心 2010/08/11 (Wed) 10:08 △up ▽down
ボン様

菩提心の知恵ではこんなところでしょう。

誰か答えて下さると有難いですね。


ただ、私はそれこそ凡夫のはからいだと味わっています。

なげやりと思われそうですが、一念帰命頂いた時に救われたと思っています。

この法に巡り合えた時を思い出して、とても有難いと思いました。

南无阿彌陀佛

●re.7
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1128 ] Re7:信じる心と疑う心 2010/08/11 (Wed) 10:28 △up ▽down
ボン様

本願疑惑の疑いは、あるも、無いも、私のような凡夫には、どうにもわかりようのないものだと思います。

だからこそ、仏の光明により、救われたのだと、そういうお話を聞いて、自分の心が、ちょっと変わる。しかし、自心ですから、フラフラとしたものです。変わると言っても、たいしたことはありません。

私にわかるのは、この私にわかる心、この表面の心は、たいした認識能力もなく、死後の世界があるのかもないのかもわからず、救われたか、救われていないのかもわからないということです。

そして、死後もわからず、いつ死ぬかもわからないのに、信じることができるはずのない、バカにして立ち去ってもおかしくないと思われるこの法を、幾許かでも信じることできて、幾許かでも安心している。

場合によっては、深く安心しているような気もすれば、それでも、やはり不安である。

こういう変化が起こることが、とても不思議だと思います。

信じるはずのないものを、少しでも、信じているような気がすると、思えるところが不思議です。

しかし、不思議というだけで、信じきれるわけでもないですね。

リスク分散の気持ちでも、法に引き寄せられるのは、弥陀のはからいだと、私は思います。

疑うのが当たり前。疑っているままで救われる。

わからなくても救われる。

そういうものだと思っています。

だからこそ、おすがりする気持ちがあるのであり、おすがりして生きようと、少しずつ覚悟もできてくる。

私が聖典を繰るのは、疑いからもありますが、それも結局、おすがりしているのだと思います。うたがいながらも、本当であってほしい。あるいは、本当である証拠が、どこかにあるのではないか。

完全に疑っているなら、ただ離れるだけになると思います。

わかるはずのないことをわかろうとする心のはたらきが、そもそも、煩悩のようなものだと思います。

後生救われたと、そう思うことはできるでしょう。しかし、それがハッキリわかると言う人のことは、私は信頼できません。

ハッキリとわかりようのないものであると思いますし、ハッキリわかるなら、自分でわかる程度のことだということになってしまいます。

わかるはずがないことをわかると言う。それは、観察が浅いか、嘘を言っているのではないかと、疑ってしまいます。

聖典わからず。後生わからず。光明わからず。

それでいながら南无阿彌陀佛を称えており、しかも、ただ口に出している方々とは違うのだと自惚れているのですから、誠に不思議であると思うのです。

南无阿彌陀佛

●re.8
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1129 ] Re8:信じる心と疑う心 2010/08/12 (Thu) 03:46 △up ▽down
ボン様

お久しぶりです。 極道坊主であります。

先月末から、立て続けに葬儀が入ってしまいました。 一週間に3件です。 『重なる時は、重なる。』と、世間の人々は申します。 誠に世の中は無常ですね。

死を縁として、又各地の葬儀を縁として色々な事を感じさせられ、経験させて貰えました。 これも佛様の御育ての一環と受け取らせて貰え、慶びと変えて貰っております。

一先ず、手前共の葬祭費用も払い込み一段落しましたので、書き込みの方にも参加させて貰おうとPCに向かう事にしました。

ボン様も、色々とお考えなのですね? その様な体験も、貴殿にとって『真剣な求道』になるのだと思います。 本当に佛様は無駄な事はされませんね。

お約束しました、私の体験ですがもう少しお待ち下さいませんか? 先ずはこちらでの遣り取りから、何かお互いに感じ取れるものが有るのではないかと思いましたので、こちらに御邪魔させて貰いました。

本題に入る前に、一言ボン様にお礼の言葉を申さねばなりません。 其れはこのスレッドの立ち上げに於いて、ボン様が

>それは「来世の存在」です。「ひょっとしたら、来世なんか無いのではないか」

と問いかけてくださった事です。 このことで自身が気付かされたのが、『後生と来世は違うものだ。』と云う事です。 有難うございます。

『後生』の解決を、佛様の御廻向に依りまして着けて貰いますと、私の輪廻が断ち切られる訳ですから私においては『来世』は無い筈なのです。 無い物であると信じております。 そういったところまで育てて貰いますと、『来世』への不安というものが払拭されるのだと思います。 

ちょっと突っ込んだ厳しい表現となりますが、『来世』の存在云々が気に掛かって御出でなのでしたら、『後生』の解決が未だ着いて無いと云う事ですから、『今現在救われていない。』ということになります。(未だ、信後では無いと云う事です。)

『後生』についてけじめ(表現があってないかもですね?)を着けて貰えますと、先の事よりも『今々を大切に生きよう。』と目先を変えられます。(そう感じます。) 何故かと言えば、私の味わいとしては、「過去は過ぎたるものですから私の手を離れ手の内には有りません。」 「また、未だ来ぬ未来は私の手の内には届いて居りませんから、私には如何する事も出来ません。」 「今々、手の内にある現在を大切にしないで何を大切にするのですか?」という思いになるからです。 手の内に有るものも何一つとして自分で掴み取った物等ないのです。 (全て御廻向なのですが。)

『即今只今』という、禅の言葉がありますが、そういった意味合い、味わいなのではないでしょうか? 今のボン様の御質問等を拝見しておりますと、悪戯に先の事ばかりを気になさり、肝心な所その中でも重要な部分が後回しになっているように感じます。(不躾な物言いで申し訳ありません。) 矢を受けて瀕死の重傷をおった鹿の話を思い出さされます。

この度の書き込みの内容を読ませて貰いまして、自分自身に思わされた事なのですが、今々がボン様にとって、佛様がお誓い下さった『救いとって放さんぞ。』と貴方を絡めとって報土へ導く為の御育て(誘引)の時節だと感じております。(真っ最中ですね。 自身もですが。)

ボン様自身をご自身で振り返り、見つめ直してお書きになったものでしょう? 『自身を知る』と云う事の一つのステップであると思います。

>なぜ私が今さらながら、このようなことを白状するのか。それは、私のような心情が、
>本当にこの御一流の同行様の間では異質なものなのか、確認をしたかったのです。こんな
>不埒で不純な動機でご縁をいただいた方は、私のほかにはおられないのかを確認したかっ
>たのです。

『凡夫』と佛様の表現される者は、本当に計算高いです。 損得勘定でしか動きません。 自身の利益、損失は一瞬で計算してしまいます。 一時期の損失を被る事で、後の利益を最大限にとることまで瞬時に判断してしまうものです。 其の時、他者の利益は考えているでしょうか?

自分もそんな姑息な人間でした。 自分の利益(全ての物事においてです。)を最大限にとる、そんな人間です。 ですから、ボン様の仰る事、よぉ〜〜〜〜く解ります。 決して貴殿だけではありません。 見えない事にまで、自身のメリット、デメリットを考える、嫌らしい人間でしょう? そんな自分でした。 其れは、今でも消えていないでしょう。 抑えられては居ますけど、それも自身の力で抑えているのではありません。 やはり人よりも多めに欲しいという気が起こりますから。

でも、その様な状態があったればこその今なのですよ。 そんな自分の姿に嫌気が差して、「何とかしなければ。」と、思い立ちこの教えを聞こうと思い立ったわけですから。 動機が不純であろうと、不埒であろうとこの教えに出会ったのです。 「貰った者勝ち。」なのではありませんか? そう仰っておられたではないですか?

そういったわけで、この教えと出会えたのも、『この自分を救う。』と誓われた佛様の願いが時期を待っていて下さったのですから、必然といえば必然なのでしょう。 決して偶然なんかではありませんよ。 『偶然』とか『偶々(たまたま)』いう言葉、因果の法則の理を無視した言葉のように感じます。(教行信証総序のお言葉の『遇』は意味合いが違います。)

忍草様も別のスレッドで

>それは「阿彌陀さん」との邂逅でした。

と、申されて御出でです。 『邂逅』には、出会いという意味合いが込められていますが、その前に偶然という言葉が着いてきます。 偶然の出会いが『邂逅』だそうです。 言葉や文字等、一字一句を大切にされる忍草様が、「如何にした事か?」と感じましたが、それだけ言葉を味わうのは難しい事なのでしょうね? そんなにこだわる必要など無いのでしょうが、佛教徒としては避けたい言葉かもしれません?

人夫々の思いがあります。 体験があります。 味わいがあります。 その体験談、お話を聞かせて貰い、自身の内面と照らし合わせて『自分にもその様な心持は無いか?』と尋ねる。 『自身を知る』というのは、その行為の繰り返しであろうと思います。 意見交換、其れが『聞法』なのではないでしょうか?

『人夫々だから』という言葉を盾にして、他の意見に耳を傾けなくなる。 『私の思いは、こうだから。』と片意地を張って相手の思いを軽んじる行為というのはチョッと問題かもしれません。(これ、気が付かないうちに嵌ってしまっているんです。)


>疑いには、「煩悩の疑い」と「仏の請願に対する疑い」の2種類があると菩提心様は
>おっしゃっておられますが、この二つは実質的にどこが違うのでしょうか。

>「煩悩の疑い」とは、何に対する疑いなのでしょうか。この疑いには「仏の請願に対する
>疑い」は含まれないのでしょうか。

>どなたでも、この二つの違いを詳しく教えていただけましたら、うれしく思います。

>また、「来世の存在に対する疑い」は、「仏の存在に対する疑い」につながり、ひいては
>「仏の請願に対する疑い」につながることはないのでしょうか。

私自身が、明確な答えを出せる力量など持ち合わせては居らんのですが、少しばかり自身の感想を書き込ませて下さい。

ボン様の質問内容を読ませて貰っておりますと、なんとなく科学的解決、論理的理解を求められている様で戸惑ってしまう所があります。 そもそも佛教とは、佛様の教えでして『不可称、不可説、不可思議』なのであります。 とても、ファジーな感じがするのは自分だけでしょうか? 「その内容を二元論的に問われてもなぁ〜!」と感じることも有ります。 そういった思いを前振りしておいて書かせて貰います。

「煩悩の疑い」とは、人である以上は何につけ起こる疑いだと思います。 「還付金がありますから、携帯を持ってATMに来て下さい。」と言われても疑って行かないでしょう? 「この話は儲かるから、一口乗ってみない?」と言われても先ずは疑って掛かるでしょう? その他にも、疑いの喩えはあると思いますが、損得然り、自衛手段然り、疑う事に違いはありません。 これらの疑いは、命尽きるまで消えるものではないのだと思います。

「佛の請願に対する疑い」も「煩悩の疑い」より起こるものなのでしょう? はっきりとしたお答えにはなりませんが、出所は一緒のように感じます。

しかし「煩悩の疑い」に対して、「佛の請願に対する疑い」というのは、ある時期を境に頭角を現さなくなるのだと思います。(この件に関しては、後のお話になるかもしれません?) 自己を徹底して知らされ、手の打ち様が無くなってしまえば、最終的に縋(すが)る所は佛しかありません。 手立てが無くなってしまっているのですから、疑おうにも疑えないではないですか? それでも疑ってしまうのは最終手段も放棄しているということになります。 また、「まだ、自身の手の内でなんとかなる。」とお思いなのでしょうか?

「佛の請願に対する疑い」は、無明業障の恐ろしき病とは言われますが、佛の光明に照らされ、願いに掬い取られましたら、凡夫の思いからは消えて無くなるのだと思います。

其処まで至ってないのであれば、まだ出し尽くしては居ないのかもしれません。 掬い取られては居ないのかもしれません。 自身の経験になっていないのでしょう。 聞いて通って、読んで通って、合点して理解しているだけのものかもしれませんから、ご縁が至った時に体験される事をお祈り申し上げます。

料理のレシピは万人が読めるものではありますが、同じように料理をしても料理人の数だけ味が違ってきます。 ともすれば同じ材料ではありますのに、美味しさを感じない物も有れば、ちょっとした違いで「美味い。」と感じるものも有る。 其れは、味見という体験と、感性によるものなのかもしれません。 それと似た事が教えの上にもきっとあります。(また、変な喩えを出してきましたね? 毎度の事で申し訳ありません。)

毎日様の仰る

>疑うのが当たり前。疑っているままで救われる。

この煩悩の部分は、前者の煩悩でしょう。 『煩悩を断ぜずして大涅槃を得。』の部分だと思います。

「佛の請願に対する疑い」については、佛様が届いて下されば必然と消えていきます。 確固たる信念を持って、『この度の往生、疑いなし。』と言い切ることができるようになるでしょう。 そんな方々に学んで参りましたし、思い込みかもしれませんが自身も言い切ってしまいます。 それだけ、佛の光は凄まじいのですよ。 『疑いを除き證を獲しむる真理。』と聖人様は書き表して御出でなのですから。

その、聖人様の教えに出会えたのです。 弘誓の強縁ですよ。 その疑いを除いて貰いましょう。 阿弥陀さんの御力によって。

ちょっと、力が入ってしまいました。 失礼な表現や、言い回しがあったかもしれません。(毎度の事かも知れませんが?)その部分が有りましたらご指摘下さい。      合掌

●re.9
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1133 ] Re9:信じる心と疑う心 2010/08/16 (Mon) 18:15 △up ▽down
毎日様、極道坊主様、菩提心様、皆さま、こんばんは。

皆さまそれぞれに、本心からのお話を聞かせていただき、ありがとうございます。

ところで、極道坊主様は『後生と来世は違うものだ。』とおっしゃっておられますが、
私自身は、「後生」と「来世」を同じ意味で考えておりました。つまり、以下の単純な
図式でとらえております。

今生=現世
後生=来世

極道坊主様は、後生と来世の違いをどのようにお考えなのでしょうか。これは、とても
大事なポイントのように思えますし、また、この違いを理解しなければ、極道坊主様の
おっしゃることも十分に理解できないように思えますから、詳しく教えていただければ
幸です。

どうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.10
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1134 ] Re10:信じる心と疑う心 2010/08/16 (Mon) 23:07 △up ▽down
ボン様

遽しい時節の中、お返事有難うございます。 今年のお盆は如何お過ごしでしたでしょうか? この時期は、あちらこちらのお寺で盂蘭盆会、歓喜会と法座が開かれております。 佛様の教えに縁を結ぶ事の出来る最上の頃合の様に感じます。

さて、ご質問の『後生と来世』の違いですが、この内容も前回の書き込みにありましたように、ボン様の書き込みで改めて知らされた事でありまして、この度「あぁ〜、違うんだ。」と頷かされた訳です。

でありますから、ちゃんとした説明が出来るかどうかわかりませんが、思いが伝わって行って下されば有り難く思います。

自分としては、『後生』とは、この世に生を受け両親に「極道坊主」と名をつけられ(本名は実際の所当然のように違いますが。)『死』という名の境(区切り?)を越えた先を『後生』というのだと思っています。(実際は一息先ということなのかもしれませんが?)

『来世』とは、確かに『後生』の先にあるのだと思いますが、今生で佛の法に遇えず、解脱の縁なくして(解脱の縁があるほうが稀なのでしょうけど?)六道を廻り、今生とは別の父の因、母体を縁として再び人間界に姿を現した状態が、『来世』であると思います。 前世の記憶をほとんど無くしてから生まれ変わるそうです。(極稀に前世の記憶を持った儘、転生される方も御出でだそうですが?)

解りやすく言えば、(解りやすいでしょうか?)生まれ変われば『来世』、身体を失っても今生の延長線上にある場合は『後生』だと言いたいのでしょう。 もし、喩えるならば名前が違うということです。 人格が違うといったほうが良いのでしょうか?

この様な喩えで納得戴けましたでしょうか? この様な思いは、以前から自身の思いの中にあったのでしょう。 根底にありましたから『来世』に願いを掛ける事にしっくり行かなかったのかもしれません。 しかし、『後生』と『来世』の言葉の使い分けをしていませんでした。 思いが其処まで至っていなかったからなのでしょう。 言葉遊び、言葉の理解の仕方に重点を置く事を眼目にしているわけではありませんが、それでも上記の言葉は一緒ではないように感じました。

『後生の一大事』を懸命に求める事で、育てて頂き、自身の『後生』の身の置き場の解決をつけて貰いました。 此れにより『常に弥陀の掌』の思いが私の思いから消える事無く続いています。 この思いが続いて下さるのであれば、間違いなく報土に迎えとって下さると信じます。 無為涅槃に入れて貰えますので『解脱』が適うという事でしょう。 ならば『来世』というものは自身にはありません。 輪廻が断ち切られるからです。(大胆不敵な表現ですが、『来世』と『後生』の違いはこういったところで表す事が出来るのかなって思います。)
以上が言葉足らずではありますが、今の時点での自身の思いです。 ただ、思いですので参考になさるだけにして下さい。 もっと解りやすい説明をされる方が御出での筈です。 その方々のご意見も含めて味合われる事がよろしいかと思います。

また、お話聞かせて下さい。     合掌

●re.11
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1135 ] Re11:信じる心と疑う心 2010/08/20 (Fri) 13:19 △up ▽down
極道坊主さま、皆さま、こんばんは。

後生と来世のことにつきまして、さっそくお答えをいただきましてありがとうございます。
それを拝見しまして、極道坊主様の心境が、少しは理解出来たような気がいたしますが、
私自身は、極道坊主様のおっしゃるとおり、「『後生』の解決が未だ着いて無い」状態で
あり、「悪戯に先の事ばかりを気している」のに違いありません。

私にとっての「先の事」というのは、よく考えてみると、「来世」や「後生」というより
は、実は「死」そのものであったのかもしれません。

私自身、かつての根気や体力が徐々に衰えつつあり、この延長線上に肉体の死が待ち受け
ているということが、いよいよ間違いないこととして実感される今日このごろです。その
来るべき「肉体の死」は、私にとって、決して待ち遠しいものでもありませんが、逆に、
いつまでもに来てほしくないものでもありません。

そういう心境でありながら、また世事に忙殺されているにもかかわらず、私は、死という
ものについてまったく思いを巡らせない日はほとんどありません。なぜか、ぼんやりとで
も死を意識していることが多いのです。

しかし、世俗的なことを言えば、今生でまだまだ面白いことができそうな気もするし、
まだ見ぬ世界を見ることができるような気もするし、野心もあるし、決して“枯れている”
わけではありません。

そして仏法はといえば、最近は一日たりとも頭から離れることがありません。日中の喧騒
を離れて、深夜一人パソコンに向かう時間が、私の仏法に向き合う時間となっております。
(これも、この掲示板で同行の皆さまとお話ができる賜物とありがたく思います。)

以上、申し上げたことがここ数日の私の偽らざる心境ですが、これを一言で何と表現して
いいのか、私には解りません。比較的安定しているような気もするのですが、かといって、
この先もこれと同じような心境が続くのかどうかは定かではありません。

むしろ、これまでも私の心境が常に変化し、揺れ動いてきたことを考えれば、今後も同様
であろうことは容易に察しがつきます。

何度も申し上げるように、私は確固たる信念も、揺るぎのない信心というものも持ち合わ
せておりません。これは、私自身を公平に見て判断しているのであって、決して開き直っ
ているわけではありませんし、また、自らを卑下しているわけでもありません。

何度も申し上げているように「来世」の存在を疑っているし、それと同様に「前世」の存在
も疑っているのです。つまり、輪廻転生を疑っているのです。輪廻転生はインドにもとも
とあった考え方で、お釈迦様の言い出したことではありませんが、仏教が輪廻転生を前提
にしている以上、輪廻転生を疑うことは、仏説を疑うことにつながるわけです。

正確に言えば、疑いっぱなしというわけではなく、基本的には信じてもいるわけですが、
ときとして疑いが起こることは当面さけられそうにもありません。将来、この疑いがなく
なるのかどうかもわかりませんし、また同時に、完全に疑いのない状態があるべき姿なの
かどうかすらわからないのです。

しかし、聖典を拝読するにつけ、以下のとおり、当流において「信心」というものが、
いかに重要な部分をしめているのかは、いうまでもないことのように思えます。

「涅槃の真因はただ信心をもってす」「この法を聞きて、信心を歓喜して疑いなき者は、
速やかに無成道を成らん。」「ただ一念真実の信心を以て、その証益を得ることを明かす」
「聞法の本意は信心を発こすに在り」「疑碍の心を誡めて不疑心を勧む。不疑の心とは即
ち信心なり」「一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく」

まとまりのない内容になってしまいなしたが、現在の私の「信心」または「疑心」につい
て述べてみました。どなたでも、アドバイスをいただけたたらうれしく思います。

南无阿彌陀佛

●re.12
鈍兵衛
九州の男性
[ 1144 ] Re12:信じる心と疑う心 2010/09/13 (Mon) 18:48 △up ▽down
ボンさま、皆様、こんにちは。

久しぶりに書き込みをします。
議論が深まりつつあるときに、横槍かもしれませんが。

ボク自身は、後生というか、来世というかが、あるのかないのか、あまり感じません。
輪廻転生とかも良く分かりません。

ただ最近流行の、肉体、特に脳そのものが生命だという、「唯脳論」的な考え方はできません。
当然、脳死判定による臓器移植なんてものにも、納得できません。

少し横道にそれましたが、要するに、肉体以外の何かがあるよねとは、思っています。

するとその何か(仮に魂とでもしておきましょうか)が、ボクの肉体的な死後にどうなるのかは、興味があるのです。

魂が、肉体(脳)が生み出しているものだとすれば、肉体の消滅とともに魂も消えます。
しかし、そうは感じません。
何かの形、魂として残っている気がするのです。

であるならば、できれば死後の魂は、いいところへ行って欲しいですよね?

ですから阿弥陀様にも、おすがりしました。

それだけです。とても利己的ですね。

でも、そんな考え方であっても、おすがりしたのは、阿弥陀様のおかげだろうと思います。

ボンさんは、頭で考えることに優れている人のようですから、自分自身の中で、わりとこういう議論をしてしまうのではないですか?
考えることは、悪くはないと思いますが、どこまで行っても、凡夫の浅知恵ですよ。

かといって、疑うまい疑うまいと信じ込む必要はないと思います。

あくまで自然体で、感じるように感じればいいのではないでしょうか。
ボクはそう思います。

南无阿彌陀佛

●re.13
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1145 ] Re13:信じる心と疑う心 2010/09/14 (Tue) 09:26 △up ▽down
鈍兵衛様、こんばんは。

この掲示板でお名前は拝見しておりましたが、直接話しかけていただいたのは初めてです
よね。どうぞよろしくお願いします。

>魂が、肉体(脳)が生み出しているものだとすれば、肉体の消滅とともに魂も消えます。
>しかし、そうは感じません。
>何かの形、魂として残っている気がするのです。

もし、そのように感じることができるならば、この御法にもストレートに近づくことがで
きますから、それはとても幸運なことだと思います。

私などは、どういう因縁かわかりませんが、あの世の存在すら半信半疑のまま、なぜか
この御法に入ることができたのですから、これもまた鈍兵衛様以上に強運なのかもしれま
せん。

どのみち、この御法に入ることができた者は、この世のすべての運を使い果たしてもまだ
足りないくらいの幸運を手に入れたと考えていいのだと思います。

>であるならば、できれば死後の魂は、いいところへ行って欲しいですよね?
>ですから阿弥陀様にも、おすがりしました。
>それだけです。とても利己的ですね。

鈍兵衛様は、とても正直なかたですね。こんなお話がきけると、とてもうれしくなります。
なにしろ、私などは、あるかないかわからい後の世のために保険をかけておこうなどとい
うこの上ない不純な動機でも、この御法に入ることができたのですから、利己的というこ
とにかけては鈍兵衛様の上をいっているものと思います。

>ボンさんは、頭で考えることに優れている人のようですから、自分自身の中で、わりと
>こういう議論をしてしまうのではないですか?
>考えることは、悪くはないと思いますが、どこまで行っても、凡夫の浅知恵ですよ。

はい、おっしゃるとおりだと思います。理屈っぽいんです。

>かといって、疑うまい疑うまいと信じ込む必要はないと思います。
>あくまで自然体で、感じるように感じればいいのではないでしょうか。

はい、これもまた、まったくおっしゃるとおりだと思います。

私の考えることなど、すべて「凡夫の浅知恵」に他ならないのだけれども、その浅知恵を
ストップさせたところで、そこに入れ替わりに「仏の深い智恵」が入り込むかというと、
そんなわけでもなくて、ただ単に思考停止してしまうのが関の山でしょう。

私などは、仏壇も持っていなければ、毎日かかさず念仏をあげているわけでもない。とて
もいい加減な人間なのですが、なにも考えないよりは、こうやって屁理屈をこねているだ
けでも、少しは阿弥陀さんを身近に置いていることになるのかな、などと自己満足してお
ります。

「どうせあいつは念仏も満足にあげることができないだろうから、少し小難しい理屈でも
並べておけば、そっちのほうに食いついてきて、結局、縁が深まっていくだろう」などと、
仏さんが私のために考えてくれているのでは、などと手前味噌な解釈をしているのです。

この掲示板でも、やや毛色の違う2つの見方が存在しているようですが、これもすべて
均質な意見の持ち主ばかりが集まってしまったら、話をすること自体が無意味となってし
まい、結果として低調な掲示板となってしまうということを仏が見越して、それぞれに
役割を与えてくれているのだろうか、などと穿った見方をしたりもするわけです。

まあ、私も浅知恵は浅知恵なりに、ジタバタ、ドタバタやっていれば、「鳥が木の実を食
べて糞をして種を運ぶように」、本人の主観とはまったく違った次元で、何かの因縁を運
んでいるかもしれない、といったことがあるならば、もっけの幸いと感じております。

南无阿彌陀佛

●re.14
ボン
東京の男性

↑ボン様宛にメール
[ 1185 ] Re14:信じる心と疑う心 2011/10/29 (Sat) 00:42 △up ▽down
皆さま、こんばんは。

「鰯の頭も信心から」という言葉があります。

それは、どうやら、鰯の頭のようなつまらないものでも、信心する人には尊く思われる、
というような意味のようです。そして、そこには、物事をかたくなに信じる人を揶揄する
ようなニュアンスがふくまれている、とのことです。

確かに、鰯の頭に霊験あらたかなご利益があると考えている人がいたら、それは滑稽に見
えるでしょう。しかし、それに限らず、何かを心から信じきっている者に対して、「あな
たの信じているものは、鰯の頭と大して変わらないものかもしれませんよ」と蔑んでいる
ニュアンスも感じらます。

ともあれ、「鰯の頭も信心から」というのが、ことわざとして一般的になっているという
ことは、やはり、それが、世間一般の考え方として少なくないウェイトを占めているとい
うことなのでしょう。つまり、何事に対しても「一点の曇りもなく心の底から信じきる」
ということに対する世間の評価は、あまり芳しいものではないということのようです。

そして、そこには、そういう評価が成り立つだけの根拠がないともいえません。確かに、
この世間で、なんの疑いもなく何かを信じきるという姿勢は無防備このうえなく、この世
の利益(りえき)を失って損をしてしまうという可能性が高いというデメリットを生み出す
からです。

だから、そういう不利益をこうむらないように、疑うことの知らない赤ん坊も、歳を重ね
るにつれて疑うことを覚えて、仕舞には自分の親の言うことさえ疑うようになってしまう
のです。それは一般に“反抗期”などと呼ばれ、そしてそれから親を憐れむようになり、
それは最終的に“自立”として肯定的な評価を受けることになるわけです。

つまり、人間としての成長とは、無闇と信じる心を徐々に失い、物事を一旦は疑ってみて、
自分の頭で良し悪しを判断できるようになることをいうわけです。だから、いつまで経っ
ても人を疑うことを知らず、何でも鵜呑みにする人間は、「智恵がない」ものとして、
蔑まれる対象となるわけです。

ところが、人の言うことは何も信じず、すべてを疑い、自分で確かめたことでなければ受
け付けないという態度で、この世を生きていけるかというと、それもまた難しいといわね
ばなりません。

たとえば、医者を信じなければ病院にも行けません。人は医者の前では、まったく無防備
です。ときには、麻酔をかけられ、刃物で体を傷つけられても、それは自分のためにして
くれていることだと“信じて”いるわけです。しかし、医者がすべてを自分のためにして
くれているという保障はどこにあるのでしょう。

それは、床屋でも同じことです。仰向けに寝かされて、髭を剃るために顔にあてがわれた
剃刀で、いきなり喉を切りつけられない保障はどこにあるのでしょう。そのような確固た
る保障は、どこにもありません。そのような保障はないけども、そんな不埒なことを床屋
がするはずがないと、普通の人は“信じて”います。

要するに、人間と言うものは、自分以外の他者を完全に信じきることも難しいし、逆に、
自分以外のすべてを疑って、自ら確証できたことだけをたよりに生きていくことも難しい
という、きわめて中途半端な存在なのではないかと思うのです。(あるいは、信じること
と疑うことを使い分けながら、そのバランスを取りながら、この世を渡っていると・・・)

長々と書いてきましたが、何を言いたいかというと、ここで少し仏教らしい言葉を使えば、
“凡夫”というものは、自分の力では何かを“信じきる”こともできないし、“疑いきる”
こともできないのではないか、ということです。

もちろん、これは、いただいたものを“完全に信じきっている”とは言えない自分にたい
する「言い訳」にほかならないわけです。必死に「言い訳」を考えている自分も、愚かし
いといえば愚かしいのですが、「凡夫のまま往生させてもらったんだから、しょうがない
よねぇ」などと、自分を納得させているいる次第です。

南无阿彌陀佛



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