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[ 574 ] はじめまして
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2008/10/01 (Wed) 15:44
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はじめまして。
新規スレッドを作成することを躊躇いましたが、ずうずうしく作成させていただきました。ここでは始めての書き込みとなります。玄中とでも名乗っておきます。
ざっとサイトを読ませていただきました。間違いなく本物だと思いましたので、今後お付き合いさせていただくことも何かのご縁になるかと考え、書き込みさせていただいております。
教学には暗うございますが、間違いなく信心をいただいた方の文章がありますね。
既に定年となり、日中はあれこれ本を読んだりしております。法友はおりますが、こういう場所での讃嘆に加わるのも良いだろうと思い、参加させていただきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
合掌 南無阿弥陀佛
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●re.1
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毎日 |
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[ 577 ] Re3:はじめまして
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2008/10/01 (Wed) 19:18
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玄中様 初めまして、愚老と言います,字の如く年ばかり重ねております。 教学とておぼつかない者です。今後共よろしくお願い申し上げます。 この度書きこみ頂き賑やかな場となります、有難う御座いました。 一人と思えば二人なり、二人と思えば三人なり、そのうち一人は親鸞なり,尊いお言葉です 仏法談義・・毎日様、念仏繁昌良かったですね・・嬉しいことです合掌。
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[ 578 ] Re3:はじめまして
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2008/10/08 (Wed) 05:23
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毎日 様
ご返信ありがとうございます。
>仏法賛嘆は、繁昌の根本であると思います。
おっしゃる通りです。私は前述のように、教学には暗いですが、何とか話についていければ良いなぁと思っております(笑)。
悲しいかな、宿善のない方は、信心取ろう、信心取ろうと、信心を物のように考えてしまっていることですね。お文さんを読めば、信心の「体」、信心の「行」としつこいくらいに出てきており、蓮如上人がきちんと五重の義を書かれているのに気づかないんですね。その意味がわからなければ、善き人を探し始めると思うのですが、これができないものなのです。本当に気の毒です。
菩提心 様
はじめまして。このようにお知り合いになれたのも何かのご縁ですね。阿弥陀如来のお陰です。最初、このサイトを見付けたときには、吃驚しました。ああ、やっぱりいただいている人はちゃんとおられるなと。易往無人、難中之難の正法ですから、なかなかにしてそうそうたくさんおられるものではありません。
「その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、 ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへと おもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、そ の身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これす なはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。」(御文 二帖 第十四通)
南無阿弥陀佛
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[ 579 ] Re4:はじめまして
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2008/10/01 (Wed) 20:30
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愚老 様
はじめまして。ご返信ありがとうございます。仏法は、真実の心をいただいた者が集まれば、次第に大きくなっていくものですね。
世相、益々末法の様相ですね。五濁悪世、末の末。それでも念仏する人は必ずおられますね。本願力の大きさゆえです。まさに、不可説、不可称、不可思議。有り難いことです。
今後ともよろしくお願いいたします。
南無阿弥陀佛
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●re.6
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毎日 |
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[ 580 ] Re5:はじめまして
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2008/10/02 (Thu) 23:15
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玄中 様
私のよろこびは、「もう、既にすべて与えられている」というところにあると思います。
ですから、残りの人生は、ある意味、燃え残りのようなものです。これまでの執着が、消え去るまで生きているのだと思います。
「ついに、消えて行けるのだ」のような感慨があります。
「与えられている」という言い方だと語弊があるかもしれないのは、なにか「いただいたもの」をよろこんでいるように聞こえるかもしれないからですが、信楽というのは、弥陀がこちらをつかまえ、解き放ってくださったのですから、特定の心持ちをさすのではなく、それにより、無義の義であると思う次第です。
この単純なところに合点が行く、それは理屈ではないのですから、不可思議であり、奇跡です。
戯れ言を申しました。
「名号」たしかにあちらこちらにございます。
獲得。「獲」とは手でつかみとり、「得」とは、「行って手に入れる」ということ。
私は、獲も、得も、六字にこもっていると思っております。
かえすがえすも、ありがたく、もったいなく、弥陀に頭が下がるばかりです。
好き勝手な味わいを申しました。賛嘆の場と言うことで、お許し下さい。
南无阿彌陀佛
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[ 581 ] Re6:はじめまして
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2008/10/03 (Fri) 20:37
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玄中さま 初めまして、愚尼と申します。 自分が本物だと思うならそれでいいと思います。 信心に教学など必要ないと思います。 御文様を読んで割符が合えば、そりで良い事だと思っています。 玄中様の、帰命は礼拝なりと言うお言葉、私自身とても大切に考えいて、この場で書くのを躊躇していました。 知らない人は、帰命が礼拝とは何の事か知る事が出来ないのかも知れませんね。 私は、教学などひとつもしていません。 ただ、御文と割符が合っていると感じているだけです。 頼むことすら出来ない私達の為に、たのむ事すら御回向下されて、たのむ機に育てていただき、凡て南無阿弥陀仏に篭っている事です。 弥陀をたのめとの御催促も分からずに、たのみ方もすべて用意してくれての南無阿弥陀仏ですね。 今の世の中、インターネットが普及し、阿弥陀仏は、このコンピューターをも利用して、済度に勤めているんだと思います。 少しずつ、こういう輪が広がっていけば、また救われる人が増えていくことでしょう。 皆さんで盛り上げて楽しく賛嘆していけたらと思います。 皆さんよろしくお願いします。 愚尼でした。
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[ 582 ] Re7:はじめまして
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2008/10/03 (Fri) 21:29
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玄中さま
はじめまして。7と申します。 阿弥陀仏の本願に救われた方とこうして巡り合える事は信後の最大の楽しみです。 佛法賛嘆させていただける身となったこと、ただただ不思議です。 毎日様に出会えたことに感謝の日々ですし、このHPがあることが嬉しいです。 おかげで皆さんと信心をこうして喜び合うことが出来ます。
六字の体となって半年。 救われたんだなぁ、との思いが湧き上がる度、嬉しくなります。 どうしよう、この余生、何が出来るだろう、ああそうだ、お念仏だ。 南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛・・・。 たった六字の南无阿彌陀佛に救われて、御恩報謝もたった六字の南无阿彌陀佛。 でもこの六字に全てこもっているんですよね。 お聖教とピッタリ割符が合う嬉しさ頼もしさ。
これからもよろしくお願いします。
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[ 583 ] Re7:はじめまして
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2008/10/07 (Tue) 21:59
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愚尼 様
はじめまして。ご挨拶が遅れまして、申し訳ありません。
>自分が本物だと思うならそれでいいと思います。
そうですね。本物は一つしかありません。秘事法門でもなんでもありません。 これが一流の安心です。本物と思うのではなく、本物は本物です。
>信心に教学など必要ないと思います。 そうです。教学で救われるわけではありません。かえって、教学が諍論を引き起こし、 法乱となることもあります。本願寺などの歴史を見れば分かります。
「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。」
「しかれば、「南無」の言は帰命なり。「帰」の言は、[至なり、] また帰説なり、説の字は、[悦の音なり。] また帰説なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]「命」の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。] ここをもつて「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。「即是其行」といふは、すなはち選択本願これなり。「必得往生」といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経・下)には「即得」といへり、釈(易行品 一五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は [審なり、然なり、分極なり、] 金剛心成就の貌なり。」
>私は、教学などひとつもしていません。
全然構わないと思います。日々、報謝の念仏さへすればよいのです。あとは、普通に生きていけばよいと思います。ただ、慢心して、姿形に信心を得たことを現してはいけないだけです。
>凡て南無阿弥陀仏に篭っている事です。
そうです。教学をいくら積んでも、この言葉の本当の意味が分からない方がたくさんいるわけですから。
>今の世の中、インターネットが普及し、阿弥陀仏は、このコンピューターをも利用して、済度に勤めているんだと思います。
ネットは気をつけなければいけないと思っています。私が勇気をもって書き込みをしたのは、真に道を求める人がいれば、お手引きすることができるためです。ただ、ネットでは、相手の宿善が分かりませんから、この点でも書き込みには、かなり躊躇した次第です。
今後ともよろしくお願いいたします。
南無阿弥陀佛
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[ 584 ] Re8:はじめまして
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2008/10/03 (Fri) 21:58
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7 様
はじめまして、7様。
>六字の体となって半年。救われたんだなぁ、との思いが湧き上がる度、嬉しくなります。
うれしさを むかしはそでにつつみけり こよいは身にも あまりぬるかな
ですね。
7様のお喜びがひしひしと伝わって参ります。良かったですね。私はいただいて、もう45年以上経ちます。まだ子供だったゆえ、よく分からないうちにいただいておりました。父が道を求めて苦しみに苦しみ、ようやく巡りあったのです。そして私は親の申す通りいただいたわけです。ですので、7様のように、探し探し金剛の宝を見付けた時の喜びというものを知りません。
>どうしよう、この余生、何が出来るだろう、ああそうだ、お念仏だ。 >南无阿彌陀佛 南无阿彌陀佛・・・。
そうですね。お念仏は自然と出てきます。私は、ふと気づくと知らないうちに念仏していることがよくあります。
私は、阿弥陀様にご恩報謝のために、道を求める正機の方に、伝えてあげたいなと思っています。思ったよりも、真宗を求めている人は多いものです。
今後ともよろしくお願いいたします。
南無阿弥陀佛
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●re.11
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毎日 |
非公開の非公開 |
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[ 585 ] Re9:はじめまして
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2008/10/03 (Fri) 22:30
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玄中 様
>ネットでは、相手の宿善が分かりません
本当に、そう思います。
求める方は、もよおされて求めるわけですから、「お手引き」とは言っても、ただ淡々としていれば良く、こちらが引くことができるわけでもなし、すべて、弥陀の引き合わせであると思います。
求め求めたお父上は、素晴しい方ですね。
私も、少しは苦しみましたが、求めている方のお話を聞けば、何もしていないようなものであると思います。
やすやすと救われてしまったかたじけなさに、お念仏称えるばかりです。
求める心が育つのも、報謝の気持ちが出てくるのも、阿弥陀様のおかげであり、不思議で、ありがたいことです。
南无阿彌陀佛
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●re.12
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毎日 |
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[ 586 ] Re10:はじめまして
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2008/10/03 (Fri) 22:35
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7様
お元気そうで、なによりです。
お書き込みを拝読しておりますと、よろこびの波が、伝わってくるようです。
私も、こんな悪心持ちが、よくぞ救われたものだと、胸をなでおろす思いです。
希なる道に導いてくださいました泥凡夫様に、感謝しております。
南无阿彌陀佛
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[ 587 ] Re11:はじめまして
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2008/10/04 (Sat) 00:02
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毎日 様
>ですから、残りの人生は、ある意味、燃え残りのようなものです。これまでの執着が、消え去るまで生きているのだと思います。
いわゆる、「生きることをあきらめ、死をあきらむる」ですね。おっしゃることよく分かります。「残りの人生が、燃え残りのようなもの」というのは、「もう、いただいたからこれでいい」という意味ではありませんよね。信心はいただいてからが新しい始まりだと私は思います。
>「ついに、消えて行けるのだ」のような感慨があります。
なるほど、信心をいただいたゆえ、生死の繰り返しが終わったということでしょうか。しかし、もしその意味でおっしゃっておられるなら、そうではないと思います。。聖人が、教行信証の一番最初に、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。」と始まっていることの意味。また、大経(下)にあるように、
「阿難、それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足す。智慧成満して深く諸法に入り、要妙を究暢し、神通無礙にして諸根明利なり。その鈍根のものは二忍を成就し、その利根のものは不可計の無生法忍を得。またかの菩薩、乃至成仏まで悪趣に更らず。神通自在にしてつねに宿命を識る。他方の五濁悪世に生じて、示現してかれに同ずること、わが国のごとくなるをば除く」と。
阿弥陀様は、五濁の世の衆生、他の仏に救われぬ機根の薄い者を救ってくださる如来です。その如来がはたらきとして六字となり、私たちはそれをいただいたわけですから、必ずご恩報謝として、私たちは還相も行わねばなりません。正信偈大意にも、
「「往還回向由他力 正定之因唯信心」といふは、往相・還相の二種の回向は、凡夫としてはさらにおこさざるものなり、ことごとく如来の他力よりおこさしめられたり。正定の因は信心をおこさしむるによれるものなりとなり。」
とあります。我々がいただいた信心は、機法一体の南無阿弥陀佛です。従って、我々は阿弥陀仏の御心と同じように、機根の薄い人々が増え時代になると、人としてこの世に戻ってくることが信心のはたらきです。今、ここに信心をいただいて生きていることも、還相です。
>「与えられている」という言い方だと語弊があるかもしれないのは、なにか「いただいたもの」をよろこんでいるように聞こえるかもしれないからですが、信楽というのは、弥陀がこちらをつかまえ、解き放ってくださったのですから、特定の心持ちをさすのではなく、それにより、無義の義であると思う次第です。
尊号真像銘文の中の、「「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひ の至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。」
至心は真実心、一心、誠の心ですから、人間がそのその心を持つことはできません。ですから、至心と信楽は共に阿弥陀様からいただいたものです。従って、当然、人間の心持ちを指すものではないです。欲生自体も、「助けるから、来なさい」という阿弥陀仏の招喚の声ですから、これも人間の心ではありません。
本来、阿弥陀如来の本願は、人間に分かるように釈尊が言葉にしてくださったものであり、無上仏の自然のはたらき、誓いです。従って、太陽が昇れば眼に物が見えるように、それ自体が自然ですから、義がありません。まさに、親鸞聖人御消息のいうところの、自然法爾です。
「弥陀仏は自然のやうをしらせんためなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。」
>この単純なところに合点が行く、それは理屈ではないのですから、不可思議であり、奇跡です。
本当に不思議です。無上仏ですから。生きている間に、弥陀の本願の大きさを心から理解できれば、釈尊と同じ悟りを開けます。しかし、それは不可能です。大経は、「広讃」と言いますが、それでも釈尊は「説き尽くそうとすれば時間が何劫もかかる」とおっしゃっています。それを、「南無阿弥陀佛」の「略讃」一つを経の体としたのですから、奇跡であり、人間に理解できるはずもありません。
ですから、人は六字を信じられないのです。易往無人です。
>戯れ言を申しました。
そんなことはありません。
>好き勝手な味わいを申しました。賛嘆の場と言うことで、お許し下さい。
いえ、私もまた思ったことを書いてみたいと思います。
長くなり申し訳ありませんでした。
南無阿弥陀佛
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[ 588 ] わたしの書き込みの目的
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2008/10/04 (Sat) 06:48
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玄中様
最初のわたしの書き込み以来、この場所には目を通しておりませんでした。
ここを読んで下さっておられるならご承知でしょうが、わたしも7様のように次第相承の善知識を探しておりました。
そのきっかけは、ジャンヌ掲示板の「自信教人信」様の書き込みを直感的に信じたからです。 その後、泥凡夫様、毎日様と御縁頂き、毎日御恩報謝の御念仏をさせて頂いています。 思いますれば、自発的にしているようで、その実、阿弥陀様に促されての御念仏だなと、我が心の奥底を思えば、有り難くて、思わず、心から嬉しさがこみ上げてきます。
御存知のように、わたしは、親鸞会を御縁にこの道来れましたので、八万劫中、無間地獄で大苦悩を受けずに済んだのだと思うだけで、ただこの法を信じられた事が嬉しくて、法論等など、わたしには無縁なのでございます。
しかし、書かずにおれないのは、6年間、わたしはその必堕無間地獄と聞かされて、探している中に、その呪縛から、なお親鸞会から離れても苦しんでおられる方の書き込みを読んできたからです。
わたしは、書き込みしながら、ずっと悩んできました。 掟に触れるのではないか、ずっと、書き込みしながら、以前も、そして現在も、泥凡夫様、毎日様のお叱りのメールが入っているのではないかと、まず恐る恐るメールを開けてみて、何もお返事がないのを確認してきました。
被害家族の会のやり取りを御縁にして、毎日様がこのようなHPを立ち上げて下さったことに、わたしは、本当に有り難い気持ちでおります。
わたしは、ただ、わたしのように苦しんでもらいたくない、ただそれ一心なのでございます。 親鸞会を通して、親鸞聖人や蓮如上人の存在を知りながら、苦しんでいる人が出て来ることが、どうしてもやりきれないのでございます。
わたしは、玄中様のような智慧は有りません。
唯、泥凡夫様の「有縁の道がその人の道」 それを信じて歩いているだけです。
>これが一流の安心です。本物と思うのではなく、本物は本物です。
わたしは、どなたの道が本物かどうでもいいのです。 わたしは、わたしの有縁の道を、ただ歩いていくだけです。 そこには、わたしを励まして下される、有縁の同行達がおられるだけです。
わたしは、玄中様と違い、ほやほやですので、 誤った書き方、捉え方がございましたら、又、お教え下さいませ。 わたしの気持、少しでも汲んで下さると、とても嬉しく思います。
流れを変えたようでしたら、お許し下さい。
南无阿彌陀佛
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[ 590 ] Re2:わたしの書き込みの目的
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2008/10/08 (Wed) 05:29
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菩提心 様
>ここを読んで下さっておられるならご承知でしょうが、わたしも7様のように次第相承の善知識を探しておりました。そのきっかけは、ジャンヌ掲示板の「自信教人信」様の書き込みを直感的に信じたからです。
私も直観で、ここには本当の人達がいると分かりました。菩提心様も、直観で感じ取られたのがまさに「機が熟した」ときだったのだろうと思います。直観とはそういうものですね。
>御存知のように、わたしは、親鸞会を御縁にこの道来れましたので、八万劫中、無間地獄で大苦悩を受けずに済んだのだと思うだけで、ただこの法を信じられた事が嬉しくて、法論等など、わたしには無縁なのでございます。
実は、親鸞会様のことがありましたゆえ、さまざまなことを述べるときに、どのように書いたら良いのかと考えておりました。多分、このサイトにも多くの親鸞会様の方が訪問されておられるでしょうから、あれこれ考えておりました。同じ同行ゆえ、批判はしたくありません。しかし、思うところは色々とあります。親鸞会様のことを詳しく知っているわけではありませんが、少し内部のことが書かれたサイトを読んだことがありますゆえ、これはまずいなぁと思うところがありました。 とにかく、親鸞会を縁として獲心したのですから、回り道ではなく、今にたどり着くために必要だったことかと思います。この世に不必要なことは一つもないからです。無間地獄に堕ちたりしません。親鸞会で、講師の方から落ちるぞと言われても絶対に落ちたりしません。そういうことは人間が決めることではないからです。
>しかし、書かずにおれないのは、6年間、わたしはその必堕無間地獄と聞かされて、 >探している中に、その呪縛から、なお親鸞会から離れても苦しんでおられる方の書き >込みを読んできたからです。
誰がそんなひどいことを言うのでしょうか?講師の方ですか?それともあの方ですか?真の真宗では、念仏修行者は全て御同行・御同朋であり、同じ修行者の信心を沙汰したり、無間地獄に堕ちるなどと言ったりは絶対にしません。御文にもあるように、
「故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつれ。「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。さればとも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに信心の沙汰する在所へゆきて聴聞し候ふ人をば、ことのほか説諫をくはへ候ひて、あるいはなかをたがひなんどせられ候ふあひだ、坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、また弟子をばかやうにあひささへ候ふあひだ、われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生はむなしくすぎゆくやうに候ふこと、まことに自損損他のとが、のがれがたく候ふ。あさましあさまし。」
つまり、善知識といえども如来の代官であり、阿弥陀様の教えを伝えているだけで、善知識が偉いなどということはありません。行者同士にも上下はありません。もちろん、師ですから、敬いますし、年長の方には敬意を持って接しますが、私の師も年長者も全く偉そうにする方達ではありませんでした。それが一流の相承善知識と念仏行者いうものです。善知識には善知識の、行者には行者の掟があります。もし親鸞会でそういうひどいことをしているとすれば、法流は流れていないかと私は思います。 ましてや、講師の方が、「お前は信心が足りない、修行が足りない、そんなことでは地獄行きだ」などと言っているとすれば、とんでもない大間違いです。聖人が、寺を建立しなかったことには聖人の深い思いがあったのだと思います。真宗は、「それを生業としてはいけない」のです。お金儲けのために弥陀の教えを広めることは阿弥陀様が決して許しません。立派な建物を建立し、お金を集め、お金目的になり始めるとその法流は廃れて行くと思います。これは親鸞会に限ったことではなく、東、西なども同じです。
((私は今でも、師のことを思うと、そのご恩に涙することがあります。それはお分かりかと思いますが、自然と沸いて来るものです)。
>被害家族の会のやり取りを御縁にして、毎日様がこのようなHPを立ち上げて下さった >ことに、わたしは、本当に有り難い気持ちでおります。
そうですね。これは画期的なことです。私も有り難いなと思います。
>わたしは、ただ、わたしのように苦しんでもらいたくない、ただそれ一心なのでござ >います。 >親鸞会を通して、親鸞聖人や蓮如上人の存在を知りながら、苦しんでいる人が出て来 >ることが、どうしてもやりきれないのでございます。
何とかしてあげたいなとは私も思います。本物は、押し売りをしません。強要したりしません。大切なものは、守らなければなりませんし、無理強いして相手に罪を作らせることも避けなければなりません、ですから相手をよく見て、「この人ならば大丈夫だ」と思わない限り、声を掛けないものです。
>わたしは、玄中様のような智慧は有りません。
私もありません。ただの底下の凡夫です。凡夫であるから、信心を頂戴できたのです。阿弥陀様は、世間には苦しんでいる人間がたくさんいるから、お前も同じ世間に出て同じ苦労を味わって来いと生まれてきたのです。回りを見ると、自分より人間としてずっと立派な人がいる。なのに自分は信心をいただけた。そう思ったとき、阿弥陀様への感謝と、この罪深き身でもいただいた信心を他の方にもいただいて欲しいと思う。これが信心の用です。六字のはたらきです。
>唯、泥凡夫様の「有縁の道がその人の道」 >それを信じて歩いているだけです。
そうですね。その道を信じて歩んでください。引き返すことはできません。信心をいただいたからには、その法流から道を外していけません。私も私の信じた道を歩いていくのみです。ただ、不思議なことに、全国にきちんと弥陀の本願は行き渡っているということは分かりましたね。不思議ですね。
>わたしは、玄中様と違い、ほやほやですので、 >誤った書き方、捉え方がございましたら、又、お教え下さいませ。 >わたしの気持、少しでも汲んで下さると、とても嬉しく思います。
信心は、いただいたばかりであっても、十年経っていても同じです。ただ、守らねばなりませんけど。私こそ間違っていましたら、ご指摘ください。謙虚さは常に失ってはならないと思っております。
はい、菩提心様のお気持ちよく分かりますよ。
>流れを変えたようでしたら、お許し下さい。 いえ、そんなことはありません。菩提心様のお気持ちを聞かせていただき、とてもありがたかったです。讃嘆とは、念仏行者の交流でもあります。お講さんとはそういう部分もあります。
南無阿弥陀佛
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[ 591 ] それと勘違いをされないでください
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2008/10/08 (Wed) 05:37
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こちらは、毎日様が作られたサイトであり、皆様、毎日様と泥凡夫様のお手引きで獲心された方が多いと思います。
私がそこに割り込んでというつもりは全くありません。道を求めるものは、たとえ九州に住んでいようが、北の果てまでも善知識をおられると聞けば訪ねるべきです。しかし、忙しい現代。なかなかそれも難しいこともございます。
この掲示板に私が割り込み、皆さんの調和を乱すことは私の意図するところではありません。
南無阿弥陀佛
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●re.18
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毎日 |
非公開の非公開 |
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[ 592 ] Re1:それと勘違いをされないでください
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2008/10/05 (Sun) 00:35
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玄中 様
ご心配なされることは、ありません。
私は、このサイトを私物化しようとも思いませんし、いろいろな人がいれば、いろいろな考え方がある。
それでも、六字につながっているのですから、尊い御同行様です。
これは、親鸞会様も同じです。
究極のところ、何がただしいのか、わたしのような凡夫にはわかりません。
ひとりひとり、落ち着きどころがあり、それで良いのだと思います。
こんなに短い六字をよろこべる。
そして、凡夫でありながら、六字と一体とさせていただけることが、ありがたく、かたじけなく、今でも感動致します。
私の信仰は、六字には、足す善もなければ、さまたげる悪もなし、というようなものですが、また別の考えもあることと思います。
それで、何も問題ありません。
南无阿彌陀佛
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[ 593 ] Re2:それと勘違いをされないでください
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2008/10/05 (Sun) 06:15
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玄中様
はい、わたしは勘違いしておりました。
わたしは、この掲示板やメールでも、毎日様から、「妄語」は良くないですよって聞かされてきたので、玄中様の最初の御言葉から、ざっと読んできた感想は、
え、全然違うじゃない >教学には暗うございますが、間違いなく信心をいただいた方の文章がありますね。 暗いどころか、逆にしっかりと毎日様にも、 >なるほど、信心をいただいたゆえ、生死の繰り返しが終わったということでしょうか。しかし、もしその意味でおっしゃっておられるなら、そうではないと思います。
上記の文章を読めば、誰だって、多分玄中様も、そう思われると思います。
又、本物っていう書き込みにすごく違和感があったのです。 探している時、ここは本物って言われた方もおられました。 しかし、本物なんてきっと誰にも分らないと思ったのです。 ただ、縁ある道を信じて歩んで行くだけだと思ったのです。
皆さんもわたしも、玄中様の最初の御言葉を信じて、喜んで、立て続けに書かれたのだと思います。
でも、正直にわたしの気持を書いて、玄中様にも分って頂き、又、玄中様とも、改めて讃嘆できることが、とても嬉しいです。
わたしは、長年聞いてきて、教学的には疎かったので、逆に離れることも容易かったのかも知れません。 しかし、ずっと財施では苦しんで来ました。 切りがないからです。 もう、正直、「金の切れ目が縁の切れ目」、そこまで追い詰められていました。 だから、救われたことが嬉しいんです。 後生、間に合って良かったと思います。
わたしの御縁ある善知識様も、とても偉ぶることもなく、ただ仏法を尊んでおられます。 又、泥凡夫様や毎日様も、とてもお優しく、そしてずっと御縁あるお方をお待ちしておられます。 この道は、無理にお誘いするものでもなく、すべて阿弥陀様のお計らいだと思います。
玄中様、よろしくお願いいたします。
南无阿彌陀佛
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[ 594 ] Re3:それと勘違いをされないでください
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2008/10/05 (Sun) 11:28
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毎日 様
>これは、親鸞会様も同じです。 私もそう思っております。同じ同行ですね。
>ひとりひとり、落ち着きどころがあり、それで良いのだと思います。 そうです。落ち着きどころは異なります。根本は、一流の善知識であれば皆同じです。本願の体は同じですから当然です。この先は、私にも抑止がありますゆえ書くことができません。
六字は、出た月を見て、仰いで、ああ美しいなぁと思うようなものです。色々な思いがあってよろしいかと思います。目と目を見て讃嘆すれば、わかり合えることですが、文字だけというのはなかなかにして難しいものです。
南無阿弥陀佛
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[ 595 ] Re4:それと勘違いをされないでください
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2008/10/08 (Wed) 05:35
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菩提心 様
私は教学には本当に暗いです。
>又、本物っていう書き込みにすごく違和感があったのです。 ああ、そうですね。本物という言い方はいけないかもしれませんね。改めます。いただいた者なら分かる言葉でも、道半ばの方をかえって混乱させますね。
>でも、正直にわたしの気持を書いて、玄中様にも分って頂き、又、玄中様とも、改め >て讃嘆できることが、とても嬉しいです。 よほど苦しい思いをされたのでしょうね。こうして共に讃嘆できることはありがたいこことです。
>しかし、ずっと財施では苦しんで来ました。切りがないからです。 >もう、正直、「金の切れ目が縁の切れ目」、そこまで追い詰められていました。 世間にはさまざまな宗教がありますが、「私の所が真実だ」と言って人を集める。言葉巧みにマインドコントロールに嵌り、お金を出さないと救われないと言って人を騙す。これらは全て偽物です。断言できます。
>わたしの御縁ある善知識様も、とても偉ぶることもなく、ただ仏法を尊んでおられます。 それが真の善知識様の本当のお姿です。ですから尊敬もでき、師と仰ぐこともできるのです。
>この道は、無理にお誘いするものでもなく、すべて阿弥陀様のお計らいだと思います。
そうです。相手の方が、求めてこない限りはお声はかけません。吟味に吟味を重ねます。無理をして、宿善のない機を無理に連れて行っても、「お帰りください」ということになってしまいますゆえ。仏法は尊いものですから、そう簡単には参りません。
追いかけてくる「死」と、何年、何十年聞法しても信心をいただけないという絶望ともいえる心に、ふたばさみとなり、絶対絶命の所に追い詰められないと、「たのむ」ことができません。そういう機でなければ、お手引きはできません。仏法とはそういうものです。
読まれておられる方々で、善知識をお探しの方へ。真実心で道を求めておられる方は、メールいただければ、あなたの人となりを確認させていただいたうえで善知識をご紹介できます。
「ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、ことに如来の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」
これ以上は、あれこれ申しません。真実はただ一つ。好機を逸しないことを祈っております。
合掌 南無阿弥陀佛
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●re.22
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毎日 |
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[ 596 ] Re5:それと勘違いをされないでください
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2008/10/05 (Sun) 18:00
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玄中 様
>私は教学には本当に暗いです。ただ、六字が体となっておりますゆえ、真実かどうかは六字の佛智が見極めます。
私は、私のことを、教学に暗いうえに、知ったかぶりで、おしつけがましく、真実かどうかはわからず、ただ「感性」で「好き、嫌い」があるような状態であるように思います。
恥ずかしいすがたを、このHPでも見せていますし、見せてきたと思います。
「なんか、阿弥陀様はいいなあ」ということで、賛嘆をつづけ、「南无阿彌陀佛」と申してきていると思います。
そして、私の考える阿弥陀様は、「それで、いい」と認めてくださり、救ってくださる。
「こんなぐうたらな私には、これ以外の救いは無理だったなあ」という感慨がございます。
いろいろ考えましても、仏智のすばらしさは、私の知恵を超えておりまして、ただただ「すごいなあ」と感じいるばかりなのです。
六字と一体になれたということで、私は満足です。
あくまでも、信仰の幼稚園児、赤ん坊の私でございますが、六字をよろこんで参りたいと思っております。
南无阿彌陀佛
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[ 597 ] Re6:それと勘違いをされないでください
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2008/10/05 (Sun) 19:08
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本当に不思議ですね、他力の信心とは。
こういう話をすると、笑われるでしょうし、恥ずかしいですが、書いてみます。
一日も早く信心獲得せねば!と思っていた頃は、ただただ不慮の死を恐れる日々でした。
ジェットコースターに乗ることすら出来るだけ避けて、河豚を食べるなどもってのほかで
とりあえず命をつないでおくことを最優先に考えて生きていました。
有難いことに、無事、行信を得ました。
本物も嘘も分からない無知な自分であるとの思いを深めるばかりなのに、
この信心が日々嬉しくてなりません。有難い信心だとの思いも深まるのです。
死を思い悩んだ10代、親鸞会に出会ってからの10数年、青春時代と青年時代に重くのしかかっていた悩みが消え去って、今さら青春まっただ中のような気分です。
今は好きなことばかりしています。ああ、ジェットコースターにも乗れるし、河豚だって怖くない。
話のレベルを落としてしまってごめんなさい。バカなお調子者だと笑ってください。
皆様に叱られちゃうかな・・・?
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[ 599 ] Re8:それと勘違いをされないでください
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2008/10/07 (Tue) 22:04
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毎日 様
>>私は教学には本当に暗いです。
妄言を吐くなと叱られそうですが、そのまま書いております。しかしここからは互いの善知識が異なる故、私側の抑止があります。
>私は、私のことを、教学に暗いうえに、知ったかぶりで、おしつけがましく、真実か >どうかはわからず、ただ「感性」で「好き、嫌い」があるような状態であるように思 >います
毎日様は、この掲示板の管理者ですから重圧と責任感があると思います。「下手なことは書けない、色々な人が読んでいる。管理者がへなちょこだと皆に迷惑をかけてしまうし、泥凡夫様にも申し訳ない」というお気持ちがあるのでは?ですから、言葉に慎重にならざるを得ません。あまり気張らず、自然体になるときには自然体のままでいいのではないでしょうか?
>私は、私のことを、教学に暗いうえに、知ったかぶりで、おしつけがましく、真実か >どうかはわからず、ただ「感性」で「好き、嫌い」があるような状態であるように思 >います。 皆同じです。人間は獲信しても、妄念の塊です。心は蛇蝎の如しです。六字が体となり心に宿っても、あくまでも人間です。凡夫のままであります。また、人は慢心の心を常に持っています。仏は慢心を一番嫌われます。
教学は各自の信心を守るために、時間のあるときは読み返し、己を振り返ることが一つの目的です。もう一つの目的は、機の熟した方をお手引きするための教学です。全く話さえできないのでは、お手引きのしようがありません。
しかし、あまり教学に凝ると、人間は慢心してしまい、教学の知恵比べとなってしまう恐れがあります。歴史上、本願寺や大谷派でも、教学が元で争乱が起きています。ですから、教学はほどほどがいいのです。親鸞聖人がどのようなお気持ちでお書きになったかはわかりませんが、「まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。」とあるように、獲信後の御開祖であっても、こういうお気持ちであったのです。教行信証の難しい所は、聖人ご自身が、あるときには凡夫となり、あるときには弥陀の化身として書かれたとしか思えない部分があるからです。人間親鸞としてではなく記述したところは知性では理解できないのはそのためです。親鸞聖人の教学は法然上人の智慧第一に加えて、過酷な流刑の経験が一つになったものですから、親鸞聖人の博学ぶりは人並み外れていたと思います。そのため、日常の凡夫に戻った時には、ふと教学で法然上人や仲間を死罪に貶めた他宗と教学の力をもって打ち負かしたいという思いであったかもしれません(私の想像です)。
論語読みの論語知らずといいます。教学をやり過ぎると、慢心してしまい、自分が偉くなったような気持ちになります。お互いに気をつけなければなりません。
>恥ずかしいすがたを、このHPでも見せていますし、見せてきたと思います。
いえ、みんな恥ずかしい姿のままでいいんですよ。格好をつける必要はなく、「こんな心持ちなんだけど、いいのかな」とさらけ出したいときにはさらけ出すのが「講」であり、みんなで支えあって、信心を守るのです。信心は、「戴いたから、もう大丈夫」と思っていたら、段々と喜びを忘れ、終いには忘れてしまいますよ。
>「なんか、阿弥陀様はいいなあ」ということで、賛嘆をつづけ、「南无阿彌陀佛」と >申してきていると思います。
ご恩報謝の念仏を怠らなければ、死ぬまで信心をきちんと守護していただけます。毎日様は偉いなぁと思います。私は、「ああ、今日は、朝のお勤めも面倒だな」とやらない日もあったりします。やらないと楽なものですから、次の日もやらなくなってしまいます。困ったものです。
>「こんなぐうたらな私には、これ以外の救いは無理だったなあ」という感慨がござい >ます。
阿弥陀様には、時間も空間もありません。本願をたてられたときから、毎日様のことをご存じだった。私のこともご存じでした。有り難いですね。皆さんのことを全てご存じだった。阿弥陀如来の仏智は、過去現在未来の一切の事象をことごとをご照覧しておられます。人智では想像すらできないことです。ぐうたらは仕事をちゃんとやらされます(笑)。弥勒菩薩は過去世において、非常に怠け者だった。はっきりとお釈迦さまにご指摘されておられます(法華経だったはずです)。それゆえ、大きな仕事が附属されたのかもしれません。
>六字と一体になれたということで、私は満足です。
はい。そしてその六字は、大慈大悲の阿弥陀さまですから、毎日様に「ちょっとは私の代わりにはたらいてくださいな」とお仕事が入ってくるかもしれませんよ。
>あくまでも、信仰の幼稚園児、赤ん坊の私でございますが、六字をよろこんで参りた >いと思っております。
法然上人のところでの、信心に違いはあるかどうかの問答にもあります。赤子も老人も、六字の前では平等であり、何ら代わりはありません。むしろ私のほうが、このように喜びに包まれた方に励まされ、私もちゃんとしないといけないなと思わされます。勉強でも、習い事でも同じことで、初めの一念が大切です。基本の基本を忘れるといけないなと思い知らされ、皆さんに感謝です。みなさんが阿弥陀様だからです。
明日は少し早いゆえ、今日はここまでとさせていただきます。また長文となってしまい申し訳ありません。
南無阿弥陀佛
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[ 600 ] 後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 02:19
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玄中様
わたしは、このHPより、素晴らしい方々と、このように讃嘆、味わいのお話を御聞きできることが、とても有り難いと思います。
玄中様や愚老様のように、長年真実信心の慶びの中で生活されてこられた方のお書込みには、その重みが伝わってきます。
わたしは、親鸞会では、信心決定することが目的のように聞いてきましたので、むしろ息子から、頂く前から、いつも「で、信心決定してから、その後どうするの?、頂いた後の方が人生長いのに、信心決定するのは、出発点じゃないの?」と言われてきました。
そうだと今は実感できます。 わたしは、逆にわたしのようなぐうたらな人間は、この歳に信心決定できて良かったと思います。 でも、7様のような慶びを表現できるようなお方は、若くて信心決定されてとても羨ましいと思います。
まあ、「摂取不捨」の阿弥陀様のお誓いですので、御縁頂いた方は、全て極楽浄土。 とても有り難いです。
南无阿彌陀佛
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[ 601 ] Re1:後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 19:35
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皆様方の仏法讃談,心頼もしく拝読させて頂いて居ります。 この四,五日、愚老の妹の姑,満年齢親聖人と同じ90歳で他界し通夜、と葬儀が済みました。 人間の寿命とは定命とはいえ、この様に偶然も有るんですね。誕生日と同じ日に死亡したのです.生まれて死んで萬90年・
浄土真宗 第七祖の蓮如(れんにょ)上人が門徒へ宛てたお手紙の一節。
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは。この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんさい)の人身(にんしん)をうけたりということをきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔(こうがん)ありて、夕べには白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すばわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというもなかなかおろかなり。されば、人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、たれのひともはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 無常にもお文のとうりです。未だ台車の冷めやぬ上の骨を割り箸で納めながら・・ 後生の一大事,心のかけよ阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すばかりなり、 祭壇正面には生前の大きな額が有ります。一段上面には八満四千光明輝く阿弥陀尊像・ 焼香には生前の主の遺影には目が向きます。当然です、しかし、・・もうほんの少し、チョットのところの尊い阿弥陀様・・・阿弥陀様・・・南無=帰命、身業礼拝,南無阿弥陀仏。 淋しい思いの一日でした。明日とも知れず我が身なり、
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●re.28
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毎日 |
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[ 602 ] Re2:後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 21:09
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玄中 様
>私は、私のことを、教学に暗いうえに、知ったかぶりで、おしつけがましく、真実か >どうかはわからず、ただ「感性」で「好き、嫌い」があるような状態であるように思 >います
本当に、私はこの通りの人間だと思います。
「たよりない」と言われれば、まったくその通りであり、個人的な信仰の道を歩いているに過ぎないのです。
耳四郎様のおはなしを聞きまして、帰命した後にも、悪行をつづけていたとのこと。
それでも、弥陀は見捨てなかったと聞きまして、私は安心致しました。
私と耳四郎様と、どちらが悪行為(な)しているのか、比べることはできませんが、「悪行しても捨てぬ彌陀である」と、私には腑に落ちるものがありました。
帰命して終わりなのか、まだやることがあるのか、いろいろ諸説あるようですね。
私はただただ、御恩報謝の南无阿彌陀佛でございます。
勤行も怠惰のため、できません。「六字にすべてがこもっている」と聞けば、尊い正信偈様も忘れてきてしまうような人間です。
まあ、それでも、今のところ「南无阿彌陀佛」は忘れておりませんので、短くありがたい六字であると思っております。
しかし、この六字も、いつまでも覚えていられるでしょうか・・・ 臨終近くなれば、忘れてしまうかもしれません。その前に、事故や病気で、忘れるかもしれません。
それでも捨てぬ弥陀であると、そこにありがたさを感じ、覚えている間は、「南无阿彌陀佛」と相続してゆきたい気持ちです。(と言いながら、それもとだえとだえにつづけております。)
厳しい方々から見れば、あきれられるような安心でしょうし、「それでは報土に行けないよ」とおっしゃる方も、きっといらっしゃると思いますが、私はこれで報土に往くことかなうのだと、よろこんでおります。
弥陀に迎えてもらえることを、よろこんでおります。
そして、疑い深い私が、落ち着けたことをよろこぶのです。
「ああ、やっと辿りついたのだ」と思っております。
そして、すべての方は、いずれ阿弥陀様に救われるのだと思っております。
南无阿彌陀佛
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[ 603 ] Re3:後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 21:32
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毎日様
わたしも、この掲示板で「摂取不捨」の御心を知らされ、すごく感動を覚えました。
もう、どんなことがあっても、わたしは護られていると信じられたからです。
ぐうたらな人間、同じ書き込みしていることに、後で気がついたのですが、毎日、主人からはぐうたら人間って、怒鳴られています。
今は、それでも落ち着いてきて、「あ〜勝手に言って頂戴、わたしは、凡夫だもん」 「だから、救われただもん」
そばで、全然反省してない姿のわたしを見て、ますます主人は怒り心頭。
でも、わたしは、嬉しくって、ニタニタ状態。
もう、逆に嬉しさ、万々歳。
どうしてこんなわたしが救われたんだろう? 不思議だな。 有り難いな。
南无阿彌陀佛
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●re.30
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毎日 |
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[ 604 ] Re4:後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 21:43
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玄中 様
>選択され法流から放擲されるようなことをしないようにしなくてはいけませんね。基本的にはまずないですけどね。
「法流から放擲」というのは、どなたが定めることなのでしょうか?
救う弥陀もあれば、捨てる弥陀もあり。彌陀にもいろいろありますね。
南无阿彌陀佛
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●re.31
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毎日 |
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[ 606 ] Re6:後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 22:45
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毎日様
摂取不捨のお約束だからこそ、無碍の一道であり、本当に安心出来るのですよね。
もちろん、「大略信心を決定(けつじょう)したまへるよしきこえたり。 めでたく本望これにすぐべからず。 さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。 細細に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。」
とも蓮如上人は仰って見えます。せっかく信心獲得しても、 ほったらかしておいたら信心は失われてしまう・・・?
矛盾するようですが、これは厚き煩悩の雲に真実信心が覆い隠されている、 凡夫の姿を言われたものだと味わっています。 この煩悩の雲は死ぬまで晴れないのでしょう。しかし雲の上の太陽が消えるわけではありません。 救われたことを忘れてしまっても、頂いた信心の「自覚」なんてものがなくても、往生は治定に違いないでしょう。
ただ、それはもったいないですよ、と教えてくださったのだと思います。 ではどうすればいいのか、信後は忙しく働かねばならないのか。 信後の在り方も蓮如上人は教えてくださいます。
「さてこの信心決定のうへにはたゝ阿弥陀如来の御恩を 雨山にかうふりたる事をのみよろこひおもひ奉て その報謝のためにはねてもさめても念仏を申へきはかりなり それこそ誠に仏恩報尽のつとめなるへきものなり あなかしこ〜」
お念仏こそ、誠の御恩報謝だと、教えてくださいます。 それでも、凡夫はたった六文字口に称えるだけでいいのかしらと、あれこれ悩むのですよね。
これから、滅土に至るまで、還相として何度も娑婆と浄土を往復するのでしょう。 それも全て阿弥陀仏のお力によります。 これから、ご縁のある方をお手引きする機会もあるかも知れません。 それも全て阿弥陀仏のお力によります。 何か出来るようで、実は何もしていない。まさに遊んでいるようなものだと、お聖教にある通り。
そうなるともう、何一つご恩返しできないこの身、受けたご恩が精神的重荷となってしまいかねません。 しかし、日々出来ること、一番の御恩返し、誠の報謝、それが念仏であると蓮如上人は教えてくださっていますので、有り難いやらかたじけないやら。 そのお念仏もとぎれとぎれなのを恥じつつ、救われたことの有り難さを思う度に念仏させていただいています。
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[ 607 ] Re7:後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 22:54
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泥凡夫様
泥凡夫様もお元気そうで安心いたしました。皆さんのことを思い出すだけで嬉しくなります。
自分で書いた文章を読み返すと恥ずかしくなります。
私の生き様は無様そのものですが、確かにお念仏暮らしは美しく思います。
仏法賛嘆に喜べるこの日々が有り難いです。
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[ 608 ] Re8:後念相続の有り難さ
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2008/10/06 (Mon) 23:12
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玄中様
私の信じる信心は、毎日様と同じ信心。決して失われない信心です。摂取不捨であり、故に無碍です。
玄中様も摂取不捨の救いにあずかっておられるなら嬉しいことです。
それぞれの方が有縁の道で信じるに至ったこと、喜んでいらっしゃること、それを私は尊重したいと思います。
本物は本物であり、真実は一つ、それでも真実を知る知恵も能力もない私です。
頂いた六字に佛智はこもっておりますから、分からせていただけることもありますが、
凡夫ゆえに一生間違いと無縁にはなれません。
そう知らされる度に、それは違う、これが真実、と主張することを躊躇うようになりました。
ただ、自分はこのように信じています、と自身の個人的な見解として思いを述べるばかりです。
信じることが出来ないと苦しんできた日々から救われたことを、喜んでおります。
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[ 609 ] Re9:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 00:23
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毎日 様 7 様 菩提心 様
こんばんは。 皆様の南无阿彌陀佛に落居するお姿に頭が下がります。 私も是非など知らぬ身であり、ただ南无阿彌陀佛を仰ぐだけでございます。
玄中 様
こんばんは。泥凡夫と申します。 玄中様の長年に渡ります御相続のお姿を拝見させて頂きまして尊く思っております。 玄中様にいろいろお話頂きました御縁で御相続ができますことを感謝しております。
私の落居しております弥陀の摂取の点で相違がありましたので私の思うところをお話させて頂けますか。他力念仏にとって、とても大事なことだと私は思っております。
まず、弥陀の救いに何か差別があるのか。信後に戒律のようなものがあり、それを破ると報土往生できんということがあるのか。
こういう問答は既に真宗聖教にも数多見えておりまして、抑止門の曲解から生じるものもございます。「口伝鈔」にありますように、抑止門はあくまでも釈尊のご方便であります。
罪の軽重に心を奪われておるのは自力作善の方々のなさることだと思います。小さな善行も深き悪行も己の意志でコントロールできるようであれば佛は我等を凡夫とは言われんのであります。それよりも往生の正因である南无阿彌陀佛という信こそ尊び、お伝えしてゆくことが肝要かと思います。
このあたりは聞書で分かりやすく見えております。
『「罪のありなしの沙汰をせんよりは、信心をとりたるかとらざるかの沙汰、いくたびもいくたびも、よし。つみきえて御たすけあらんとも、つみ消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからいなり、我としてはからうべからず。ただ、信心、肝要なり」と、くれぐれ、おおせそうろうなり。』
『仰せに、「一念発起の時、往生は決定なり。つみけしてたすけたまわんとも、つみけさずしてたすけたまわんとも、弥陀如来の御はからいなり。つみの沙汰、無益なり。たのむ衆生を本にたすけたまうことなり」と仰せ候うなり。』
当流はあくまでも、「たのむ・助ける」の本願であります。 ですので、私は弥陀をたのむ一念の他に義があるとは思いませんし知りません。
これも聞書に分かりやすく見えております。
『前々住上人、仰せられ候う。「前々より御相続の義は、別義なきなり。ただ弥陀たのむ一念の義よりほか、別義なく候う。これよりほか、御存知なく候う。いかようの御誓言もあるべき」由、仰せられ候う。』
『同じく仰せられ候う。「凡夫往生、ただたのむ一念にて仏にならぬことあらば、いかなる御誓言をも仰せらるべき。証拠は、南無阿弥陀仏なり。十方の諸仏の証人候う。」』
念仏行者が無碍の一道を歩ませて頂けますのも「念仏衆生 摂取不捨」の故であります。 私は報恩の大行としてのお念仏以外に何も持ち出すものはないのです。
南无阿彌陀佛
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[ 610 ] Re10:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 03:16
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今日は、12時過ぎに帰宅したゆえ、返信が遅れ申し訳ありません。
毎日 様 7 様
>>選択され法流から放擲されるようなことをしないようにしなくてはいけませんね。基本的にはまずないですけどね。
>「法流から放擲」というのは、どなたが定めることなのでしょうか?
阿弥陀如来です。善知識でもありませんし、ましてや行者でもありません。 阿弥陀如来の、「念仏衆生摂取不捨」という本願であっても、それに甘えてはいけません。何より大切なことは、三宝の中の「法」を獲信の行者が守ることであり、これを誹謗したりすることは、阿弥陀如来の御手からも離れます。いかんともしがたいことです。 十八願に書かれているとおりです。現実にそういう方を見たことがないでしょうから、分からないかもしれませんが、これも宿縁のなせることか、信心を戴いても、阿弥陀如来の本願などありえないと手のひらを返すように誹謗をしてしまう人が実際におられるのです。これだけは絶対に許されません。
>救った衆生は、離さず、捨てず。 それは凡夫の甘えです。自分勝手な解釈です。仏法は大慈大悲の面もありますが、こと御法を傷つける振るまいは許されません。御法には厳しさもあります。
>ですから、私の信仰と、玄中様の信仰には、大きな違いがあるように思います。 そうですね。大きな違いがあります。かなり受けとり方に差異があります。
南無阿弥陀佛
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[ 611 ] Re11:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 03:15
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泥凡夫 様
玄中 様
>こんばんは。泥凡夫と申します。 はじめまして。玄中と申します。
>玄中様の長年に渡ります御相続のお姿を拝見させて頂きまして尊く思っております。 >玄中様にいろいろお話頂きました御縁で御相続ができますことを感謝しております。 ありがとうございます。皆様と同じです。ただ年数が長いというだけです。年月が長くても、何も変わりません。年月が長いのは単に歳をとっただけであり、信心は歳を取りません。
>まず、弥陀の救いに何か差別があるのか。 ありません。正法誹謗と、五逆をば除く。これのみです。
>信後に戒律のようなものがあり、それを破ると報土往生できんということがあるのか。戒律などはありません。
>こういう問答は既に真宗聖教にも数多見えておりまして、抑止門の曲解から生じるもの>もございます。「口伝鈔」にありますように、抑止門はあくまでも釈尊のご方便であり>ます。 釈尊の時代と、現代では異なります。三部経の中で使われているいくつかの言葉は、現代では法を守るため(つまり、それを表に出すと六字を信じることができない人間が多くなり、法を広め、多くの衆生を救うという如来の本願の妨げとなるゆえ、末法の時代には釈尊の時代とは異なり、公にすることができない掟があります。
>罪の軽重に心を奪われておるのは自力作善の方々のなさることだと思います。 それは甘えです。三宝の中の、法を傷つけることは大罪であり、誹謗と五逆は獲信していても、信心は破壊されます。ちなみに、親鸞聖人が、「罪を犯しても構わない。その罪をあれこれ考えるのは自力作善だ」というお言葉がどこかに書かれておりますか?善いことなど全くできぬ我々ですから、日々罪障ばかりですが、その事への反省の自覚が真宗の立脚点です。
親鸞聖人が南無阿弥陀佛の真の意味をつかみ取られたのは、己が罪悪深重であることを自覚したからです。罪深き人間であることへの真の自覚がなき人間は、阿弥陀如来がいくら救おうとしても救えません。「たのむ」心が生まれてこないからです。
>罪の軽重に心を奪われておるのは自力作善の方々のなさることだと思います。 これは大きな誤りです。
>小さな善行も深き悪行も己の意志でコントロールできるようであれば佛は我等を凡 >夫とは言われんのであります。それよりも往生の正因である南无阿彌陀佛という信 >こそ尊び、お伝えしてゆくことが肝要かと思います。
真宗でいうところの「凡夫」の意味を取り違っているように私には思われます。「善人なおもて往生をとぐ」の一説ですが、おかしな解釈をする人がいますよね。この歎異抄は宗教書です。道徳をならう本ではない。道徳を論ずるなら道徳の「悪人」を論じるでしょうが、宗教書の「悪人」は「宗教的悪人」です。宗教的自覚ある人間は皆、悪人です。善人とは宗教的自覚がない人を指すのです。世間の善悪と宗教の善悪は違います。親鸞聖人が歎異抄でとんでもない誤解をされることがあるのはこのためです。宗教的自覚のある人間は皆悪人。「私は悪人だ」という自覚がある人間が始めて他力を信じることができます。「深き悪行」とは如何なるものでしょうか。
>このあたりは聞書で分かりやすく見えております。
これらは全て、信心を獲ることのできる宿善のある者は、信心を破壊するような悪はなさないという前提で書かれているからだと思いますが。
いずれにせよ、五逆と誹謗は獲信後であっても、絶対に許されません。山高ければ、谷深しです。
南無阿弥陀佛
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●re.38
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毎日 |
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[ 612 ] Re12:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 04:35
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玄中 様
玄中様のお書き込みを読んでおりますと、「弥陀が許さない」と言いながら、その実、許していないのは、玄中様のお心なのではないかと感じるのですが・・・
弥陀の権威を傘に、自らの狭い心を正当化されているのではないかと思います。
残念ながら、そのようなお考えは、善知識だのみを助長するように、私には感じられます。
私にも、すべての人を許すことはできません。それどころか、真の意味においては、ひとりも許すことのできない私だと思います。
怒りと恨みにうずまいている心だと思います。目を覆うばかりです。
しかし、弥陀は私のような醜い心ではなく、大慈悲心をお持ちの方。
ひとりひとり、さまざまな信仰がありますことでしょう。
そして、私は、誹謗の輩が救われない救いであれば、私も救われるはずがないのだと、わかるのです。
なぜなら、私には誹謗の心がありましたし、あるからです。
そして、私には、疑いの心がありましたし、今でもあります。
しかし、今の私が、以前の私と異なるのは、今の私は、私には「疑いの心がある」と感じられても、その実は「ない」からなのです。これこそが、不可思議です。
そうして私は救われました。
ありがたいことと、感謝しております。
私は、自らを五逆誹謗の徒であると思います。
ですから、玄中様の教えでは、私は救われないのです。
救われる前に聞いたら、かえって私の心は苦しくなってしまったかもしれません。
ひょっとして、玄中様が、私を地獄ゆきと思われても、それは、仕方のないことであります。
それに文句を言える私ではないのです。
もちろん、私は、自分に都合の良い教えを信じているだけなのかもしれません。
そして私は、希なうえにも希な道に出会うことができたことを、感謝するのです。
どちらが正しいのかは私にはわかりませんが、似て非なるものであると思います。
懺悔を説きながら、自らを善人とする人もいると聞きます。
私は、間違いなく悪人です。
南无阿彌陀佛
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[ 613 ] Re13:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 08:17
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おはようございます。
私も毎日様と同じ思いです。
私もどうやら阿弥陀様に甘えっぱなしの人生のようです。
唯除五逆誹謗正法とありますが、信後の者への警告ととられているのでしょうか。
親鸞聖人は、さるべき業縁の催せばいかなるふるまいもすべし、と仰っておられます。
泥凡夫さまのいわれるように、善悪の行動をコントロール下におけるなら凡夫ではないでしょう。
また、親鸞聖人は、悪もおそれず、弥陀の本願を妨げるような悪はないからだ、とも仰っておられます。
だからといって悪いことしまくろう、と言うのではありません。
わざわざ掟を破ろうとするのでもありません。
ただ人間はちっぽけで壊れやすいものです。信念も努力もどれだけ続くことでしょう。
明日には急に認知症になって、掟のことを忘れ去り、破りまくるやも知れません。
また、元気で健康な今も五逆の輩に違いありません。
私はそんな自分を目当ての弥陀のご本願であったことに、今お話を聞かせていただいてますます感謝と喜びを深めた次第です。
南无阿彌陀佛
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[ 614 ] Re13:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 09:39
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皆様 愚老です・仏法談義の合間に個人的葬儀の書きこみ致しまして申し訳御座いませんでした。 大変熱く談義が盛りあがって居られるようですね・ この問題以前にも私が・・佛道に外れると書きこみ致しまして、皆様方から色々ご意見頂きました。赤子の時、偶然にご縁有り六字の謂れを頂きながら意味も解らず成長し智恵がつき他力から念仏も忘れ弥陀佛も信心も失せ候、弥陀も無し他力を捨てて現世利益,否,其れもなしの無信だの一生涯終われば如何に?〔いないと思いますが) 包華の世界?否、其れでも間違い無く報土往生?否、化土往生?否、宮殿の中に鎖に繋がれ五百歳?宮殿と包華・何故違いが有るんでしょう? 18願,念仏往生の願・ ・・云々 但し五逆罪と正法誹謗と除く
仏智疑惑和讃 二十三首 <第一首>不了仏智のしるしには如来の諸智を疑惑して罪福信じ善本をたのめば辺地にとまるなり <第二首>仏智の不思議をうたがいて自力の称念このむゆえ辺地懈慢にとどまりて仏恩報ずるこころなし <第三首> 罪福信ずる行者は仏智の不思議をうたがいて疑城胎宮にとどまれば三宝にはなれたてまつる <第四首> 仏智疑惑のつみにより懈慢辺地にとまるなり疑惑のつみのふかきゆえ年歳劫数をふるととく <第五首>転輪王の王子の皇につみをうるゆえに金鎖をもちてつなぎつつ牢獄にいるがごとくなり <第六首>自力称名のひとはみな如来の本願信ぜねばうたがうつみのふかきゆえ七宝の獄にぞいましむる <第七首>信心のひとにおとらじと疑心自力の行者も如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし <第八首>自力諸善のひとはみな仏智の不思議をうたがえば自業自得の道理にて七宝の獄にぞいりにける <第九首>仏智不思議をうたがいて善本徳本たのむひと辺地懈慢にうまるれば大慈大悲はえざりけり <第十首>本願疑惑の行者には含花未出のひともあり或生辺地ときらいつつ或堕宮胎とすてらるる <第十一首>如来の諸智を疑惑して信ぜずながらなおもまた罪福ふかく信ぜしめ善本修習すぐれたり <第十二首>仏智を疑惑するゆえに胎生のものは智慧もなし胎宮にかならずうまるるを牢獄にいるとたとえたり <第十三首>七宝の宮殿にうまれては五百歳のとしをとしをへて三宝を見聞せざるゆえ有情利益はさらになし <第十四首>辺地七宝の宮殿に五百歳までいでずしてみずから過咎をなさしめてもろもろの厄をうくるなり <第十五首>罪福ふかく信じつつ善本修習するひとは疑心の善人なるゆえに方便化土にとまるなり <第十六首>弥陀の本願信ぜねば疑惑を帯してうまれつつはなはすなわちひらけねば 胎に処するにたとえたり <第十七首>ときに慈氏菩薩の世尊にもうしたまいけり何因何縁いかなれば胎生化生となづけたる <第十八首>如来慈氏にのたまわく疑惑の心をもちながら善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり <第十九首>仏智疑惑のつみゆえに五百歳まで牢獄にかたくいましめおわしますこれを胎生とときたまう <第二十首>仏智不思議をうたがいて罪福信ずる有情は宮殿にかならずうまるれば胎生のものとときたまう <第二十一首>自力の心をむねとして不思議の仏智をたのまねば胎宮にうまれて五百歳三宝の慈悲にはなれたり <第二十二首>仏智の不思議を疑惑して罪福信じ善本を修して浄土をねがうをば胎生というとときたまう <第二十三首>仏智うたがうつみふかしこの心おもいしるならばくゆるこころをむねとして仏智の不思議をたのむべし 已上二十三首仏(智)不思議弥陀の御ちかいをうたがうつみとがをしらせんとあらわせるなり
愚禿善信作 弥陀の慈悲にぬれながら智恵が浅きゆえ大益を落とす〔善信)・金剛の信心ゆえ真実報土往生では愚老とて40数年煩悩だらけの凡夫です・しかし行住座間にふと南無阿弥陀仏・・・一心一向一佛のお蔭様の日々ですが・。
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[ 615 ] Re14:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 10:25
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愚老さま
尊い和讚を引いていただきありがとうございます。 ・・・罪福信じ善本をたのめば辺地にとまるなり・・・聖人からの有り難いお示しですね。
生まれたばかりの赤ちゃんでも獲信出来ること、私も疑っておりませんが、 その後天災や人災など両親家族を失い、一人孤児院で暮らし佛とも法とも知らぬ人になることもあるかも知れません。 そこが教会系なら熱心なクリスチャンになったとしても不思議はありません。 もしそれで往生が不定となるならば、明日をも知れぬ我が身、赤子を大人になるまで守りきる保証は人間にはありませんので、我が子を不憫に思って、すぐに絞め殺して浄土に旅立たせたいと思うかも知れません。 そうはならないのが真宗だと思います。
私も信心決定してから一日生きただけ、殺生を重ねていきます。 今日も明日も知れぬ我が身、明日大罪を犯して本願に漏れる可能性があるのならば、 そんな罪を犯す前に今すぐ死んで、浄土に旅立つ以外に安心できないではありませんか? 罪悪も業報を感ずること能わず。無碍の一道と聖人は教えてくださいました。
南无阿彌陀佛
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[ 616 ] Re14:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 10:52
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愚老様
大変お疲れの中、お書込み有難うございます。 私も、知恵浅きもので、ここで書込みするのもはばかれるのですが、 愚老様のお挙げ下さった 仏智疑惑和讃 二十三首の御心を拝読させて頂き、思うことを書かせて下さい。
わたしは、全てお任せしたのだと思います。 全てお任せしたうえの、阿弥陀様の誓願は、 もうそこには、わたし(我)など、一つも無いのだと思います。
わたし達は、いくら救われても、今生で悟った訳ではないのだと思います。 今生で悟ったお方は、ただお一人、釈尊だけでは有りませんか?
わたしは、死ぬまで凡夫です。
欲も怒りも愚痴も一杯持った凡夫です。 それも、諸仏さへ逃げた女人です。
そんな凡夫を正客だと、阿弥陀様だけが救って下さった。 わたしは、その仏智の不思議が有難いのです。
わたしの何処に善の一欠けらもあるでしょう。 でも、それでも、全部阿弥陀様に包まれていますので、有難いのです。
信じられたわたしが有難いのです。 ただただ、御恩報謝のお念仏だけでいいんだよと、勧めて下される蓮如上人のお言葉が有難いのです。
そして、ここで、皆様と色々とお話出来ることは大変素晴らしいと思います。
ただ、わたしは、信じる道を歩んでいくだけです。
南无阿彌陀佛
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[ 617 ] Re15:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 12:13
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七様 愚老の思いが解って貰えないようですね・ ◎生まれたばかりの赤ちゃんでも獲信出来ること、私も疑っておりませんが、 その後天災や人災など両親家族を失い、一人孤児院で暮らし佛とも法とも知らぬ人になることもあるかも知れません。 そこが教会系なら熱心なクリスチャンになったとしても不思議はありません。 もしそれで往生が不定となるならば、明日をも知れぬ我が身、赤子を大人になるまで守りきる保証は人間にはありませんので、我が子を不憫に思って、すぐに絞め殺して浄土に旅立たせたいと思うかも知れません。 そうはならないのが真宗だと思います。
まあ世間では親が子を殺し親が子を殺す毎日の様に連載されて居りますね・・・過去世に度のような悪因果が有ったか知る由も有りませんが。 観無量壽経の王舎城の悲劇と同じですね。 だけど、子を不憫に思って〔佛子)を殺して旅立たせたい?その様な親〔弥陀仏心の悟り)いるでしょうか?居るかも知れません〔五逆罪)ですよね・普通は居ませんね。・しかし因と果の種有れば何おか言わん。私の伝えたいのは正法を誹謗する。・クリスチャンで有ろうが正法誹謗してクリスチャンになった訳でないでしょう.智恵が浅くて知らなかっただけでしょう。お尋ねいたいますが・・子供とは限りません、立派な成人した人でも本願を聞きながら正法誹謗の方・・お講の中に居られないでしょうか?愚老のお講には居られました。・・抑止門が厳しいのもこの故と思いますが・・その様なお方に本願を導いた事次第、善友、智識様に責任が有ったのでしょう。,蓮師さまの幾度も会い尋ねて談合せよとも、うち捨てておけば信心も失せ候とも・・誹謗罪・・しかし1度抱きかかえられた弥陀が捨てる弥陀でなしお慈悲なだら償いゆえ含華の中に。・但し懺悔の心おこり候えばたちどころに開花し浄土荘厳の世界が開く。・・愚老の浅き智恵、意見です・間違っていましたら談義の場で有ります許してください。改心致します。 年よりとて上手く書きこみ出来ませんが・・合掌・
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[ 618 ] Re16:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 13:27
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愚老様
誤解でしょうか。信後も佛法を大切にし、美しき念仏者であるべきとの愚老様のお気持だと受け止めています。
私もその意に反するものではありません。
ただ、獲信後の赤子を、往生は治定だから・云々は極端な場合の話であり分かりにくくしてしまったかも知れません。
早い話、信後のふるまいで往生が不定になるくらいなら、私は今すぐにでも死んでしまいたいということです。
明日正法を誹謗しない保証がどこにあるでしょう。五逆の罪を犯さない保証を誰がしてくれるのでしょう。
してはならない、と口すっぱく仰る方がみえるということは、する可能性があるということですよね。
だったら今のうちに、大罪を犯す前にこの不浄の身を消し去りたいと思うのです。
明日の自分に怯えて生きるのが念仏者の姿でしょうか。
信後の三業で不定になるような信心を求めてきたのではありません。
信後の三業が因となって地獄に堕ちるか化土に留まるか浄土に生まれるか、私には分かる知恵もありません。
今後生きておれば何があるか分かりません。何をしでかすかも分かりません。
その時、どうなるか、これはもう凡夫のはからうことではないと思っています。
正定聚 不退転の身でありながら、退転すれば仏様も驚くことと思いますが、
そもそも地獄一定の悪人たる私ですから、後生のことは全て阿弥陀様におまかせしていく他はありません。
私はそのように思っています。菩提心さまと同じだと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 619 ] Re17:後念相続の有り難さ
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2008/10/08 (Wed) 05:45
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毎日 様
>玄中様のお書き込みを読んでおりますと、「弥陀が許さない」と言いながら、 >その実、許していないのは、玄中様のお心なのではないかと感じるのですが・・・
それは違います。掟を守っているのみです。善知識だのみではなく、善知識は阿弥陀様の意図を伝えられるため、善知識のおっしゃることは守らなければなりません。
>弥陀の権威を傘に、自らの狭い心を正当化されているのではないかと思います。
心は狭うございます。凡夫ゆえ。しかし、弥陀の権威を傘に自らを正当化するようなことはいたしません。私は皆様と同じく罪障大き凡夫です。しかし、弥陀の権威を傘に、
>ひとりひとり、さまざまな信仰がありますことでしょう。
そうですね、いただいた信心を味わう場合にしても、それぞれの人生とその歴史がありますゆえ、信心への凡夫の感じ方は異なることはあるでしょう。戴いた信心は同じでも、あれこれ妄念で信心を考えるのは矢張り凡夫ですから。
>そして、私は、誹謗の輩が救われない救いであれば、私も救われるはずが >ないのだと、わかるのです。
これはいくら掲示板でお話しても多分、お互いに納得しあえるところには行かないでしょう。
>そして、私には、疑いの心がありましたし、今でもあります。 はい、これは誰にでもあることです。疑いを振り払おうとしても疑いの心が出てくるものです。 しかし私には疑いはありません。そういう疑いとか信じるとかの心持ちは既にありません。
>しかし、今の私が、以前の私と異なるのは、今の私は、私には「疑いの心 >がある」と感じられても、その実は「ない」からなのです。これこそが、 >不可思議です
はい、それは毎日様に信心があるからでしょう。
>救われる前に聞いたら、かえって私の心は苦しくなってしまったかもしれません。
そうですか。私は同じ一流の流れの信心の方とお話したいと思ってここに書き込みをしたわけですが、矢張り目と目が合わすことのできないネットの世界故、こういう場所で、私があれこれ書きますと、信心を戴く前の方でここを読まれている方に苦しみを与えることになりますね。
>ひょっとして、玄中様が、私を地獄ゆきと思われても、それは、仕方のな >いことであります。
何度も申していますように、そんなことは人間が決めることではありません。阿弥陀様が決められることです。
>もちろん、私は、自分に都合の良い教えを信じているだけなのかもしれません。
そんなことはないです。一流の善知識にお会いし、獲信されたならば、自分の都合のよいように教えを信じても、何の障害にもなりません。金剛の信心は、信心を忘れてしまっても、あれこれ妄念があろうと、さまざまな悪を重ねても絶対に壊れることはありません。「あれ、悪に関して言っていることが違うではないか」と思われるかもしれませんが、私の心持ちは毎日様と同じです。ただ、善知識から申し渡された掟を破る、つまり、信心をいただいても誹謗は絶対に許されません。
みなさん、「本願は大きいなぁ、不思議だなぁ」とおっしゃっておられますが、本当に大きいということの意味が腹の底から分かっておいでにならない。真宗は浄土、真実の教えです。「しかればすなわち、これ真実の教を顕す明証なり。まことにこれ、如来興世の正説、奇特最勝の明典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、十方唱讃の言、時機純熟の真教なり、しるべしと」。この言葉は、「釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を救い恵むに真実の利をもってせんと欲すなり」と直結しています。
道教とは釈尊一代に説かれた教えです。一切の教えです。
本願、例えば、十七願の「諸仏咨嗟の願」があります。本願は十八願ですが、48願全てを成就されていることを忘れてはなりません。弥陀の誓願が本当に考えることも、説くこともできないほど大きいということは、真実に、釈迦如来の法流が真宗には流れているということです。真宗に欠ける部分はないのです。全てなのです。これは阿弥陀如来の本願だからです。
>どちらが正しいのかは私にはわかりませんが、似て非なるものであると思います。
そう取られるならやむを得ないでしょう。
南無阿弥陀佛
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[ 620 ] Re18:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 22:24
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7様
ご気分を害されたようですね。申し訳ありません。やはりネットでは、讃歎の限界を感じました。掲示板でのこういうお話し合いは始めてゆえ、私には向かないなと思いました。
そもそも、真宗は奥の深い教えです。出会ってお話できれば10分ほどで、「ああ、そういう意味ですか、なるほど。でもね」と讃嘆と議論ができますが、同じ事をネットでやろうとすれば、数時間かかります。無駄なことではありませんが、力なき老齢には厳しゅうございます。
皆さんと同じ信心をいただき、皆さんも間違ってはおられません。同じ獲信者であれば、基本は同じです。信心をいただいても、人間ですから間違いは犯します。反省すればよいのであって、往生の妨げにはなりません。何の心配も要りません。阿弥陀様は全てお見通しです。
五逆・誹謗を行っても、これを必ず助ける阿弥陀様のお心。これは否定しません。大経に、五逆と誹謗をば除くと書いてありますが、親鸞聖人は、五逆・誹謗の者も救われるとしました。これは信心を戴く前に、仏の教えを信じず、これを誹謗し、悪時の数々を行っても、心を翻し、阿弥陀如来に一心に帰命すれば、その罪さえも許され救われるということです。しかし、信心を戴いてからでは話は全くことなります。獲信後に誹謗を行うのは業縁のゆえ。
御文にも、他宗のことさえ絶対に誹謗してはならないと何度も繰り替えし蓮如聖人は掟としておっしゃっています。ましてや、阿弥陀様の真実の教えである真宗を誹謗してよいはずがありません。こういうことは、信心をいただいた者なら、自明の理として理解できるはずです。
南無阿弥陀佛
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[ 621 ] Re19:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 17:46
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7様
>ご気分を害されたようですね。申し訳ありません。やはりネットでは、讃歎の限界を感じました。愚老も玄中様の書きこみを拝読致し知識様の差は有りますが全く同感で御座います。 七様改めてお詫び申し上げます。
>そもそも、真宗は奥の深い教えです。出会ってお話できれば10分ほどで、「ああ、そういう意味ですか、なるほど。でもね」と讃嘆と議論ができますが、同じ事をネットでやろうとすれば、数時間かかります。無駄なことではありませんが、力なき老齢には厳しゅうございます。 愚老も以上の書きこみも全く意義唱える所御座いません・真実仏法は唯一つです。しかし、善知識に浅深有り、行者に浅深あり。この場にて論できません。 >皆さんと同じ信心をいただき、皆さんも間違ってはおられません。同じ獲信者であれば、基本は同じです。信心をいただいても、人間ですから間違いは犯します。反省すればよいのであって、往生の妨げにはなりません。何の心配も要りません。阿弥陀様は全てお見通しです。 愚老とて年ばかり重ねて居り煩悩ばかりの日々です。全て弥陀任せです。 南無阿弥陀佛
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[ 622 ] Re20:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 23:16
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愚老 様
お気遣いいただき痛み入ります。
ある善知識の元で信心をいただいた方々の中に、他の善知識により教えを受けたものが現実世界では顔を合わせ、講を行うことはありません。これは矢張り掲示板といえども同じですね。皆さんが違和感を覚えるもの当然だと思います。矢張り、この掲示板の調和を乱しているようで、申し訳なくなっております。
ネットは書き込みが残るゆえ、矢張り止めておきます。
私にも間違いは多々ありますが、信を得てから、ずっと大切にしてきた経験はあります。いつか皆さんも、あんなことを言っておった人がいたなと思える部分もあるやもしれません。そうであれば嬉しゅうございます。
戴いた信心は大切にしましょう。他力他力と、真宗ではよく申しますが、自力も他力にて催されることもあります。種を土に蒔くは人間の力です。そうすると雨が降り、太陽が照り、やがて華が咲きます。前者は自力です。後者が他力です。他力も自力の心が起こらないとその力が出て来ないこともあります。信心は自分で守らねばなりません。自力でもあり、他力でもあります。そのままうち捨てておくと、やがて、本願のありがたみも感じなくなります。場合によっては、「うせて」しまうこともあるかもしれません。老人の老婆心でした。
「そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。」(二帖 第一通 いわゆる「おさらえの御文」です)
それと、ご恩報謝についてですが、阿弥陀様に対しての一番のご恩報謝は、衆生済度です。苦界にて懊悩し、出離の道があることを、宿善のある方に教えてさしあげ、一人でも多くの方が救われることを欣う菩提心を発すことが一流の真宗行者です。南無阿弥陀佛を称えることはなぜご恩報謝となるのか。それは南無阿弥陀佛が行であり、体であるからです。ご恩報謝の念仏をしておれば、必ず人をも救ってあげたいという気持ちが起きてくるはずです。それが六字の体の大願だからです。もし、自分だけ救われてよかった、往生は決まったのだから、もうこれでよいと何年経っても思うようであれば、いただいた六字の名号がはたらきをなしていないことになります。くれぐれもご注意くださいね。
それではこれにて失礼いたします。皆さん、誠にありがとうございました。
合掌 南無阿弥陀佛
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[ 623 ] Re20:後念相続の有り難さ
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2008/10/07 (Tue) 23:26
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玄中 様
こんばんは。 お諫めを頂きましてありがとうございます。 何だか讃嘆の場であるのに、論争になってしまいましたね。
私が申しましたことは、祖師の申されることに従って、あくまでも私がたくわえます信心のようでありまして、玄中様のたくわえられます信心のようを云々申しておるのではないのです。ただ、大事な場所ですので私なりの意を述べさせて頂きました。
まず、抑止門です。抑止は釈尊の方便であるというのは、虚妄であるということではありません。如来の方便とは必ず真実を具しておりますので、五逆・正法誹謗の未信の機はそのままでは無間に赴かねばなりません。
しかれども、「法事讃」において善導様が明らかにされたことは、「法闡提回心皆往」の意であります。これを御開山は信巻にご引用されており、歎異鈔第16条においても『一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。』と申されております。
まさしく、たのむ一念こそ肝要である所以であります。
当流には定めおかせらるる御掟が確かにございます。この掲示板の皆様もご存じでございます。蓮師は末代の私共にも分かりやすく、御文にて御一流の義を顕わにすることを固く禁じております。これはご存じのとおり、未信の方々に重き罪を作らせぬための掟であります。
これを曲解して信心そのものに障りがでるような申しようは、実は同じ流れを汲んでおりましても確かにあるのです。弥陀の御本願と無上の法流を大事に大事にされるが故の御心であると思うのですが、それで行者が自力作善に心を掛けねばならぬようであれば本末転倒になってしまうのであります。
>それは甘えです。三宝の中の、法を傷つけることは大罪であり、誹謗と五逆は獲信していても、信心は破壊されます。
>これらは全て、信心を獲ることのできる宿善のある者は、信心を破壊するような悪はなさないという前提で書かれているからだと思いますが。
う〜ん。私には玄中様の申されることが前者で申されておりますことを後者で否定されておられるように見えます。後者はそのようなことを申されておるのではないと思います。
少なくとも前者は他力真宗の根本を揺るがす、ご発言であると思います。 他力信心(自力信心ではありません)が壊されるなど祖師が何処に申されておるのか逆にお示し頂きたく思います。私は無碍の一道が有碍の一道になることは既に他力真宗ではなくなると思っております。
「浄土和讃」の名文です。これは如何なりましょう。
『十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる』
「親鸞聖人御消息」には『真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す』とあります。不退である正定聚から退くことがあれば7様ではありませんが、佛もびっくりでございます。
ここで言われる確かな救い(正定聚不退)は摂取不捨にあずかっておるからこそ、必ず浄土に生まれ佛となることに定まった身なのであります。
愚老様が先に仏智疑惑和讃 二十三首をご引用なされております。 御開山はここで、無明業障の恐ろしき病を書き連ねておられます。 そういう機であっても「法闡提回心皆往」であり、この病は弥陀の光明に摂取されなければ消えることがないのであります。
そもそも、壊れる信心とは自力信なのであります。我が心のありようや、罪の軽重に心を奪われる故に、必ず助けるの御本願を疑っているすがたそのものなのです。
他力の三信(一心)とはご存じの通り、弥陀の御心でありまして、私共の心ではありません。これを賜る故に疑心あることなし。になれるのであります。
私の心のどこを探しても真実などありはしないのであります。他力信心が破壊されるというのは、弥陀の誓願が破壊されるという意であり、大悲の御心に泥を塗るご発言であると思います。金剛心は不壊でございます。
信巻から引用致します。
『あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。』
御文4-1も引用致します。
『当流にたつるところの他力の三信というは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」(大経)といえり。これすなわち三信とはいえども、ただ弥陀をたのむところの、行者帰命の一心なり。そのゆえはいかんというに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんとおもうこころの一念おこるきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。その時節をさして、至心信楽欲生の三信ともいい、またこのこころを願成就の文には「即得往生住不退転」(大経)ととけり。』
>真宗でいうところの「凡夫」の意味を取り違っているように私には思われます。「善人なおもて往生をとぐ」の一説ですが、おかしな解釈をする人がいますよね。
これは歎異鈔第3条の冒頭だけで噛み砕く故であると思います。ご存じのとおり、これには下記の続きがございます。
『しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。』
このように、自力のこころを翻して、弥陀をたのむをこそ肝要である旨をねんごろにお示しであります。
>親鸞聖人が南無阿弥陀佛の真の意味をつかみ取られたのは、己が罪悪深重であることを自覚したからです。罪深き人間であることへの真の自覚がなき人間は、阿弥陀如来がいくら救おうとしても救えません。「たのむ」心が生まれてこないからです。
地獄は一定すみかぞかし。でございますね。 罪深き人間であることの自覚というのは尊いことでありますが、逆に問いたいのです。 玄中様は幼き頃に獲信なされたそうですが、幼子にその自覚があるのか。玄中様には当時、そういった自覚がおありであったのか。ということです。
第十八願の前では老少善悪の差別など何もないのであります。たのむ心も全て弥陀が廻向なさるが故に成就するのが御本願ではありませんか。
>ちなみに、親鸞聖人が、「罪を犯しても構わない。その罪をあれこれ考えるのは自力作善だ」というお言葉がどこかに書かれておりますか?
玄中様はご自分は罪を犯さない存在だとお思いでしょうか。凡夫は常に悪であるというご自覚がおありであれば、なおのこと、罪の軽重を問われる信心など凡夫が保ち難いものであるとお気づきになられるのであります。
私が言わんとしておりますところは、悪行のご免状を与えられたという意ではないのです。悪行も善行も過去世の縁あって催せば誰もが行うものなのです。自分ではどうすることもできんものなのです。しかしながら、南无阿彌陀佛に勝る悪など存在しないがために我等は往生できるのではありませんか。
少なくても私は日々悪行煩悩に振り回される存在でありますが、南无阿彌陀佛にて往生するをこそ尊び、御恩を有難く思っております。だからこそ、往生ほどの一大事は凡夫のとやかくはからうことではなく、弥陀にお任せするのではありませんか。
蓮師も御文にこの理を明らかに示して下さっております。
御文5-4
『一心一向に、阿弥陀如来たすけ給えと、ふかく心にうたがいなく信じて、我が身の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事、更に、うたがいなし。』
さて、罪の軽重云々に心を奪われることに関する祖師のお言葉であります。 こういった問答は先にも記しましたが、御開山の時代にも既にあったのであります。 解答は明確に見えておりますので引用先だけでご容赦下さい。
口伝鈔 4 善悪二業の事。 口伝鈔 20 つみは五逆謗法うまるとしりて、しかも小罪をつくるべからずという事。 歎異鈔 第13条
善悪の果報を云々申すのは聖道門のこころであります。そういうことに心を奪われると凡夫は何をしだすかと言えば「罪滅」をしだすのです。ここに至ればもう他力真宗の意ですらなくなってしまうのであります。
これは歎異抄第14条にまめやかに記されております。
長くなり申し訳ございません。
南无阿彌陀佛
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[ 624 ] Re21:後念相続の有り難さ
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2008/10/08 (Wed) 01:34
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皆様 こんばんは。
佛法賛嘆の場として設けてくださったこちらの掲示板で、あれやこれやと言いました。 こちらこそ皆様を不快にさせた点が多々あるかと思います。申し訳ありません。
頂いた信心は同じ、一味の安心でありますが、悟りとは違いますので、非常に浅い理解や間違った理解でおかしなことを言うこともあるかと思います。 そういった点いつでもお叱り頂き、教えていただければ幸いです。
ただ、信後の在り方と他力の信心の関係については、どうしても拘らざるを得ない部分があり、何度も書き込ませていただきました。 信後の業で往生が不定になると教える知識もあるのですね。 私にとっては浄土に往きたければ何かしでかす前にサッサと死ねと言われているのに等しい言葉です。 どれだけ信念や自信があろうとも、自分というものがいかにあてにならない存在か、嫌というほど苦い経験をしてきましたから。 間違いはしたくない、罪は犯したくない、本願からは漏れたくない。ならば生き続けることはあまりにもハイリスク、無謀な冒険になってしまうと思います。 浄土に生まれれば弥陀同体の覚りを得ると聞いておりますので、一分一秒でも早くそのような間違いを犯さない身に生まれ変わるべきだとなりませんか? 衆生済度が一番の御恩報謝と仰るならば、浄土に生まれて神通を得てからのほうがはるかに多くの人を早くお手引きできるのではありませんか? いずれにしても私は摂取不捨のご本願であったと喜ぶばかりであり、信後もなぜ寿命が残っているのかは全て阿弥陀様のお計らいと思うばかりです。 いつでも浄土に生まれる身となった、そう聞いてもまだまだ死にたくないと思い、この穢土に生きていく自分です。 やはり私にとっての真実信心は、それを壊す悪がない故の金剛心であると仰ぎ奉るばかりです。
南无阿彌陀佛
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[ 625 ] Re22:後念相続の有り難さ
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2008/10/08 (Wed) 12:29
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7様
私も未熟者故、うまく書く事ができないことを感じております。
そして、「うまく書く事ができない」と表現してはおりますが、その原因は、私の心持ちにあることは間違いないと思います。
(つまり、表現力の問題と言うよりは、私の心根の問題だと思います。)
7様のお慶びのおすがたは、私にとりまして、本当にうれしいものです。
「衆生済度」あるいは「お手引き」と申しましても、私にできることは何もないので、ただ、目の前のことを行いながら、御恩報謝のお念仏を称えるばかりです。
内心に秘める信心、王法仁義にしたがう仮のすがたを認めてくださる信心に、ただただ感謝しております。
一流の念仏者がどこにいるか、本当にまったくわからないと思います。
「済度が重要だ」というのは、全くその通りですが、それはすべて弥陀がご計画のこと、弥陀の権威をふりかざし、自らの権勢拡大に仲間を動かそうとするのが、わたしたち凡夫なのですから、わざわざそのような危険な道に踏み出そうとは、私は思いません。
すべて、弥陀がおとりはからいくださると思います。
南无阿彌陀佛
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[ 626 ] 玄中様に質問です。
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2008/10/08 (Wed) 22:16
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本当にくだらないかも知れないので、お気に障ったらごめんなさい。
わたしは、へんなところに固執するせいかもしれないんですけれど、今、気がついたので、若しお読みでしたら、一言コメント頂けると嬉しいです。
実は、bフ横に、newの大文字と、小文字が出て来る場所があるでしょう。
re.49 new! 泥凡夫 2008/10/07 (Tue) 23:26 で、泥凡夫様は、玄中様に質問されておられます。
>地獄は一定すみかぞかし。でございますね。 >罪深き人間であることの自覚というのは尊いことでありますが、逆に問いたいのです。 >玄中様は幼き頃に獲信なされたそうですが、幼子にその自覚があるのか。玄中様には当時、そういった自覚がおありであったのか。ということです。
しかし、 re.4 new! 玄中 2008/10/08 (Wed) 05:23
re.16 new! 玄中 2008/10/08 (Wed) 05:29
re.21 new! 玄中 2008/10/08 (Wed) 05:35
re.45 new! 玄中 2008/10/08 (Wed) 05:45
上記の部分は、泥凡夫様の書き込みの後に、多分、玄中様がどこかを訂正されたのではないかと思います。 わたしも、過去に訂正した時もあり、また現在においても、間違った場所があっても、訂正しないでいます。
それは、このnewの文字がでるのが恥ずかしいからです。 誰が見ているか知れない掲示板でも、やっぱり凡夫なので、変なところで見栄をはってしまいます。
玄中様は、泥凡夫様の書き込みを読んでいらっしゃると思います。
わたしは、智慧がありません。 どうか、「信心の沙汰」ということで、 泥凡夫様のご質問に答えて頂けないでしょうか?
>自分だけ救われてよかった、往生は決まったのだから、もうこれでよいと何年経っても思うようであれば、いただいた六字の名号がはたらきをなしていないことになります。くれぐれもご注意くださいね。
上記のお書込みで、それではさようならでは、わたしは納得行きません。 わたしには、上記の意味が分りません。 生れた赤子が信心決定して、その場で死ぬこともありましょう。 信心頂いても、脳に損傷する人も出てくるかも知れません。 そんな人の後念相続は、どのように受け止めたら宜しいのでしょうか? 是非、お聞かせ下さい。
特に、御文の五帖目は、弥陀の御恩を思えば、御恩報謝の御念仏を称えるだけでよいのだとわたしはそのように拝読させて頂いていますが、そこのところは玄中様はどのように思われますか?
わたしは、今まで、探している時も、被害家族の会などに書き込みする時も、なかなかパソコンの画面を眺めているだけでは、理解できないので、いつもプリントアウトしてから、何度も読んできました。 しかし、今回は、毎日様はじめ、智慧あるお方のお書込みなので、その過程を拝読させて頂き、我が身の後念相続の場所になれればと思っていました。 わたしは、この毎日の掲示板をそのように位置づけています。
ですから、どうか玄中様のお話を伺えたらと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 627 ] Re1:玄中様に質問です。
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2008/10/08 (Wed) 23:46
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菩提心 様
こんばんは。
>自分だけ救われてよかった、往生は決まったのだから、もうこれでよいと何年経っても思うようであれば、いただいた六字の名号がはたらきをなしていないことになります。くれぐれもご注意くださいね。
玄中様の上記のご発言ですが、私は少なくても往還二種廻向は弥陀の願力、即ち他力より授けられるものであり、凡夫のどうのこうの計らうものではないと思っております。
お手引き一つであっても、あくまでも弥陀のお導きでしかないと思います。そうでなければ凡夫の功として誇ることにもなるとも思われます。
少なくても私共の頂きました南无阿彌陀佛は懈怠しておりましても、無記になろうとも無間修として働き続けており、失せることなく常に私と共にあります。
「安心決定鈔」に書かれております。
『この機法一体の正覚は、名体不二なるゆえに、これをくちにとなうるを、南無阿弥陀仏という。かるがゆえに、心に信ずるも正覚の一念にかえり、くちにとなうるも正覚の一念にかえる。たとい千声となうとも、正覚の一念をばいずべからず。またものぐさく懈怠ならんときは、となえず念ぜずして、夜をあかし、日をくらすとも、他力の信心、本願にのりいなば、仏体すなわち長時の行なれば、さらにたゆむことなく間断なき行体なるゆえに、名号すなわち無為常住なり、とこころうるなり。「阿弥陀仏すなわちこれその行」(玄義分)といえる、このこころなり。』
>ご恩報謝についてですが、阿弥陀様に対しての一番のご恩報謝は、衆生済度です。
このご発言はお手引きを指しておられるのでしょうか。 衆生済度は利他教化の果を頂いた還相廻向たる次第相承の善知識の能であります。
私共の信後に持ち出すものは報恩の大行としてのお念仏しかないのです。 これも蓮師が御文で何度も何度もねんごろにお示しであります。
南无阿彌陀佛
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[ 628 ] Re2:玄中様に質問です。
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2008/10/09 (Thu) 12:52
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お久し振りです。 すごい論争になっていますね。 一通り読んでみて、私の教えていただいている浄土真宗は、玄中様の見解と同じです。 最大のご恩報謝は、阿弥陀様初め仏・菩薩への供養は、阿弥陀様の前に行者をお連れする事と聞いています。 人それぞれ因縁や業に違いは有り、今生でのお手引きが出来ない事も有りましょう。 しかし、信心いただいたのならば、阿弥陀様の本懐でもある、一人でも多くの衆生を助けるお手伝いをしたいと思うものだと思います。
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[ 629 ] Re3:玄中様に質問です。
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2008/10/10 (Fri) 15:05
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どうしたんでしょうね。 玄中様、登場されませんね。
玄中様に興味持たれた方は、きっと、メールされるでしょう。
私は、玄中様のご登場には、本当に感謝しているのです。
この場所を見た方が
「次第相承の善知識」
「掟」
って、何だろうって、興味持たれたらそれでいいと思います。
ただ、それは無理しないでも、きっと、阿弥陀様の御縁ある人は導かれると思うのです。 私自身がそうだからです。
この場所で、このように讃嘆、味わいって書いてきたからこそ、玄中様も登場されたのだと思います。
私は、むしろ私の生きる道を再確認出来たような気がします。
今迄、色々なHPを探してきて、開けてみて知らされる事が多かったです。 皆さんが色々なメッセージを公開しているのに驚きました。
私は、一箇所で、何十年もそれが正しいと信じてきたのです。 玄中様も、それは無駄ではなかったと言われています。
私は、このように書いていくことも、お手伝いさせて頂いているのだと考えています。 まるで、自分の周りが変わっていくようです。
今迄御縁頂けそうにも無い方とも、この掲示板から御縁頂きました。 私はそれだけも有難いと思っています。
南无阿彌陀佛
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[ 630 ] Re4:玄中様に質問です。
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2008/10/10 (Fri) 19:32
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皆様こんばんは。しばらく出張しておりました。
こうして皆様の書き込みを読ませていただけることが嬉しいです。
現生に十種の益を得、と教えていただいたことがありますが、その中で一番不思議に思い
有難く思うことが「常行大悲の益」です。
日々殺生を重ねる煩悩に満ちた身に変わりはないのに、懈怠な自分なのに、
常に、弥陀の慈悲にかなう行をさせていただける身となったのです。
時々ではなく、常に、という益であることが、本当に嬉しいのです。
南无阿彌陀佛
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[ 631 ] こんな本を読んでいました。
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2008/10/11 (Sat) 17:59
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7様
信後の御喜び、わたしも一味同行、とても有り難いですね。
ところで、7様も「直感」を感じたと書いておられましたし、わたしも、又ここに書き込んで下さった玄中様もそう言われています。
「霊の発見」:五木寛之氏と鎌田東二氏(宗教哲学者・神道ソングライター) お二人の対談集なんですが、 その中に「直感が教える霊の正邪」のやりとりがあるんです。
鎌田氏>直感は、まちがわないことのほうが多いような気がする 五木氏>直感を邪魔するものは、インフォメーションでしょう。情報。 五木氏>はじめ、この人物は、と首をひねったのに、その人についての立派な経歴などを聞いて、ああ、たいした人物だから、一緒に仕事をしてもいいかなと思ったときは、だいたい後悔することが多いんです。 鎌田氏>非常によくわかります。 五木氏>では、どうすれば、自分の直感を曇らせずに育てられるかが問題です。
その後に、少しですが、ブッタのお話が出てくるんですが、わたしは、自分の直感力が信じられたのも、とても有り難いです。
又、この対談の中には、今まで誰にも信じて貰えない内容が、お二人の対談では、そういうことも有りなんだと認めて貰ったようで、読んでいて楽しく、頷きながら読んでいました。
もう一冊は、 「いい老人・悪い老人」 鈴木康央氏 (老人心理学)
7様と違って、もう目前に迫っているので、興味があって読んでみました。
悪い老人って、本当に怖いんですね。 わたし、きっと信心決定していなかったら、きっと典型的な悪い老人になっていたみたい。 良い老人のお手本は、もうこの掲示板の愚老様みたいです。 明るくて、前向きで、お元気で、一緒に心配して下さってとってもその違いがハッキリしていて良かったです。
>有難く思うことが「常行大悲の益」です。
すごいですね。何だか、7様のお顔が浮かんできそうです。
わたしも、今日は気分が良い事があったので、楽しく書けています。
南无阿彌陀佛
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[ 632 ] Re1:こんな本を読んでいました。
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2008/10/11 (Sat) 19:46
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菩提心様
五木氏のやりとり同感です。たいてい、直感が正しいことって多いです。 情報、インフォメーションが邪魔をして直感を曇らせてしまう。 おそらく直感は言葉以外の情報や経験など自分の全てを総動員しての判断なのだと思います。 言葉による情報は部分的で一面的ですから、それを材料に頭の一部で判断すると間違ってしまうのだと、思います。 もちろん、直感というものを霊的な導きだと受け止める生き方もあると思います。 いずれにしても凡夫の浅知恵を用いると裏目に出てばかりで泣いてます。
今日は楽しい気分でいらっしゃるとのこと、私もうれしく思います。 日々いろんなことがあって落ち込むこともありますが、基本的にはいつも嬉しいです。
南无阿彌陀佛
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●re.59
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毎日 |
非公開の非公開 |
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[ 633 ] Re2:こんな本を読んでいました。
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2008/10/12 (Sun) 10:01
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7様
「常行大悲の益」の味わい、ありがとうございます。
なるほど、無碍の一道であると、思い新たになりました。
転悪成善も合わせ、あまりにもありがたいと思う次第です。
南无阿彌陀佛
◎常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり、ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。(一多証文)
菩提心様
興味深い本のご紹介、ありがとうございます。
さっそくAmazonで注文してみました。
玄中 様
お話お伺いして思い浮かぶのは、証文類の次の一節です。
◎問うていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるいは種々の疑難を説きて〈往生を得じ〉といひ、あるいはいはん、〈なんだち衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身口意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや〉と。 答へていはく、諸仏の教行数塵沙に越えたり。識を稟くる機縁、情に随ひて一つにあらず。たとへば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種種の益なからんや。随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩の門を出づるなり。随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧の門に入るなり。ここを為(為の字、定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり)つて縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。なんぢなにをもつてか、いまし有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する。しかるにわが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわれの所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修するは、かならず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし、もし解を学ばんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで一切碍なし、みな学ぶことを得よ。もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに、多く益を得ればなりと(教行信証)
考えるきっかけをくださって、ありがとうございます。
「なんぢなにをもつてか、いまし有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する」良いことばだと思います。
ひとりひとり、有縁の行があり、信じる道を行く。
自己の道であるから、自己を信じ、我が道を歩む。
我が道を歩むことが、他力である。ますます不思議です。
◎その名号をきくというは、たゞおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南无阿弥陀仏の六字のいわれをよくきゝひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこゝろえられたり。
南无阿彌陀佛
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