親鸞会について

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●No.14
菩提心
非公開の非公開
[ 81 ] 信心は信仰? 2008/08/04 (Mon) 00:57 △up ▽down
山も山さんのHPに参加出来ないので、勝手に書いています。
まあ、一人で思ったことを書いて見ました。


>信心の沙汰の場ということで考えますと、信心(信仰)のことですから、一番は話しをする相手と同じ道を、話しをきくひとが実際通ってきたと言うことが大事です。
>信心の沙汰とは、知識の沙汰でもなく、教義の確認(これも大事ですが、あくまで信仰が問題になった上ですが)だけでなく、自らの心を打ち出すことが大事です。
>「俺はわかっている」の椅子にふんぞりかえって仏法を聞いているから、心の頭を下げるどころではありません。だからこそ、信心の沙汰の場で、自らの信仰を人に言わねば、その間違いは誰にも正されないのです。
>あくまで、個々人の「信心(信仰)」の沙汰をする場なのです。


山も山さんは、信心=信仰と思っているんですね。
でも、信心って例えば、「真宗辞典」ではこのように書いてありますよね。

【信心】まことの心の意。また疑いなき心の意。即ち仏の真実信を疑いなく信ずる心をいう。而してまことの心と解釈するときは仏の真実心のこととなり。疑いなき心と解釈するときは衆生が仏の真実心のあらわれである名号のいわれを、疑なくまうけにする心のこととなるのであるが、衆生が疑いなく信ずる心となるのは、仏の真実心が衆生の心に徹底して生じたもので、衆生自身に起すところの心ではないのである。
教行信證の信巻に「信心というは、即ち本願力廻向の信心なり」とあり、また最要鈔に「信心をばまことのこころとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、まったく仏心なり、この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心とはいはるるなり」とある。


真宗でいうところの信心って、和讃から大雑把に拾い集めてもこれくらいあります。

○信心よろこぶその人を 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり(弥陀和讃)

○願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり(現世利益和讃)

○真実信心うるひとは すなはち定聚のかずにいる 不退の位にいりぬれば かならず滅度にいたらしむ (浄土和讃)

○信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり (高僧和讃=天親菩薩)

○決定の信をえざるゆゑ 信心不淳とのべたまふ 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり (高僧和讃=曇鸞和尚)

○釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり (高僧和讃=善導大師)

○五十六億七千萬 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし (正像末和讃)

○智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし (正像末和讃)

○他力の信心うるひとを うやまひおはきによろこべば すなはちわが親友ぞと教主世尊はほめたまふ (正像末和讃)

○信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし (疑惑和讃)

○金剛堅固の信心は 仏の相続よりおこる 他力の方便なくしては いかでか決定心をえん (帖外和讃)

上記の信心のところを
信心=まことの心=一心=金剛心=菩提心=他力とはっきり書いてあります。

信心=信仰って書いてないですね。

真宗でいうところの信心は、弥陀より賜った金剛心ですよね。

和讃に書いてあるようにそのまま、邪念を入れずに読んでみれば、読めてくると思います。

●re.1
菩提心
非公開の非公開
[ 82 ] Re1:信心は信仰? 2008/08/05 (Tue) 05:43 △up ▽down
山も山さんの 信心の沙汰より
>なぜ蓮如上人が
>「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて」
>と、集まって信心の沙汰をしなさいといわれるのでしょうか?
>記憶間違いがわかっただけでは、仏法の間違った理解は正されないからです。しかも人間はうぬぼれ強いために、自分の聞き誤りにはなかなか気がつきません。これは、先輩になればなるほど、年数を重ねれば重ねるほど、よりいっそう強固なものになっていきます。

御文章1−12
年来超勝寺の門徒に於て仏法の次第以てのほか相違せり。その謂れは、先ず座衆とてこれあり、いかにも座衆にあがりて、盃なんど迄も人より先に飲み座中の人にもまたそのほか誰々にもいみじく思はれずるが、まことに仏法の肝要たるように心中に心得おきたり、これ更に往生極楽の為にあらず、ただ世間の名聞に似たり。しかるに当流に於て毎月の会合の由来は何の用ぞなれば在家無智の身をもて徒に暮らしいたづらに明して一期は空しく過ぎて終に三塗に沈まん身が、一月に一度なりともせめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて、わが信心はひとの信心は如何あるらんという信心沙汰をすべき用の会合なるを近頃はその信心ということはかつて是非の沙汰に及ばざるあひだ言語道断あさましき次第なり。所詮、自今已後はかたく会合の座中に於て信心の沙汰をすべきものなり、是れ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり。

御文来意鈔より
12通 年来超勝寺の御文章と号す
抑年来超勝寺の門徒にをひて等
是従已下四通は。文明五年九月廿日より廿ニ日まで。加州山中御入湯の中の御製作なり。されば此御入湯の思し召立は。当秋の頃より少々御痛ありける上に。先月十五日高田派の大坊主。安楽寺の覚力房一揆を催し。軍勢を以て吉崎を破却せんとせしとき。富樫次郎政親の働きにて吉崎。無難になり。其上重々御親切の義などありしかば。其御礼の為の思し召立にて。文明五年九月下旬に。下間安芸法眼同姓源五郎藤嶋超勝寺等御供につれられ。加州山中の温泉へ御入湯あそばし御逗留中に。此等の四通を選述在しけり。先づ此一通は先月の騒動已後藤嶋超勝寺に廿日ばかり(8月18日より9月6日まで) 御忍び居玉へる中に。超勝寺の講中(廿五日・廿八日)情状を御覧しける処に。法義に相違のことどもありし故に。彼等の御教示の為に。撰述し玉へる処の御文章なり。其来由は蓮師温泉に御逗留の内に。今度御供に召連られたる超勝寺(反故裏書の心は。文明五年の秋蓮師吉崎より藤嶋へ御越しありて。超勝寺の門徒参会の講筵を御覧せられ居あるへしとて。定地房と号を賜ふと云々。今この来由の説と相違するに似たり。但し以後隠居仰付けられ可考)を御前に召れて仰せらるゝやうは。先月中旬より当月の初め頃までは、其方の寺に滞留せる間に。両度まで(廿五・廿八日)其講中の体を見るに。ただ座席の甲乙を論じ名聞を肝要とし。人情を恣まゝにして曾て信心の談合に及ばず、甚だ報恩謝徳の本意を失へる情状(ふるまい)実に痛傷すべきことなり。然れども其後多用なりし故に。其沙汰にも及ばざりしかば。其方は何とて彼情状を見ながら。異見もせず捨置けるやと尋ね玉へば。返答に兼てより此義を尊師へ言上し。御教化を願はんと存ぜしに。今は御覧の上なれば。何とぞ御教誡の御文を御染筆あそばし下さるべしと願はれければ、上人御承在して早速此一通を撰述ありて。其方帰寺の節講中へ此文を読み聞せて。勧化をせられよとて。賜ふ所の御文章なり。

一味同行の場でありながら、その超勝寺の模様の凋落振りに驚かれたのだと思います。
信心の沙汰は、その頂いた信心があまりに私達凡夫には計り知れないものだから、せめて毎月一度のお講には、自分の信心の思いを披露して、お互いに喜びあう場であり、若しその中に無信心の者がいたら、一日も片時も急いで信心決定して欲しいとの慈悲心なのだと思います。
御文章の書かれた由来を知って、拝読する御文は有り難く、尚又、信心決定してからは、その内容を理解することは完全ではないけれども、「割符」が合うので、我が身の事として読めるので、時間が経つのも忘れてしまいます。

●re.2
菩提心
非公開の非公開
[ 83 ] Re2:信心は信仰? 2008/08/08 (Fri) 11:08 △up ▽down
http://shinjin.info/
アニメ映画『世界の光・親鸞聖人』第2部

あ〜、よく聴聞会場で見せられたな〜。

どうして、唯一絶対の真実の教えが、ここしにしか無いと思ったのだろう。

やっぱり、私の御縁だったのかしら?
随分、回り道したのだな。
でも、回り道してきた分、有難いと思えるから、嬉しいね。
山も山さんも、御文を引用しているから、私も引用しました。

御一代記聞書では御文をこう喩えられています。
第124条 『御文』は如来の直説なり 
「『御文』は、如来の直説なりと、存ずべき」の由に候う。「形をみれば法然、詞を聞けば弥陀の直説」といえり。

そこで、山も山さんと私はまず、信心のとらえ方が違います。
信心は信仰ではなく、弥陀より賜った真実信心だと理解して、初めて読めてくるのだから、そのように信心をまことの心=金剛心と当てはめて、素直に読めば、読めてくると思います。

御文1−15
信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。
まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆへに、まことのこころとは申すなり。
また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなへてはたすからざるなり。
されば『経』には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。(大経・下巻)
「その名号を聞く」といへるは、「南無阿弥陀仏の六字」の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。

御文2−1
これによりて一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神・諸仏に追従まうす心もみなうちすてて、さて弥陀如来と申すは、かかる我らがごときのあさましき女人のためにをこしたまへる本願なれば、まことに仏智の不思議と信じて、我身はわろきいたづらものなりとおもひつめて、ふかく如来に帰入する心をもつべし。さてこの信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。

嬉しいね。親鸞会でビデオを見ていた頃と、今の自分の心がこんなに変わってしまったので、ビデオの内容も客観的に見れて嬉しい。(これなら全部捨てる事なかったかも知れないね。)

親鸞聖人が、サっと手を挙げられて、質問されているけれど、
御文を拝読させて頂くと、あんな情景はないだろうなと想像がつく。
しっかり、掟も守り、宿善・無宿善を見極められた筈である。

御文2−1
これについて、まづ当流の掟をよくよくまもらせ給ふべし。
そのいはれは、あひかまへていまのごとく信心のとほりを心え給はば、心中にふかくおさめをきて、他宗他人に対してそのふるまひをみせずして、また信心のやうをもかたるべからず。
一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、をろかにすべからず。
かくのごとく信心のかたもそのふるまひもよき人をば、聖人も「よく心えたる信心の行者なり」と仰せられたり。

御文3−11
しかれば自国他国より来集の諸人にをいて、まづ開山聖人の定めかれし御掟のむねをよく存知すべし。その御ことばにいはく、「たとひ牛盗人とはよばるとも、仏法者・後世者とみゆるやうに振舞ふべからず。

御文3−12
されば無宿善の機のまへにをいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもといとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もってのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過此難」ともいへり。(下巻)
また善導は「過去已曽 修習此法 今得重聞 即生歓喜とも釈せり。」(定善義)
いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。
ことにまづ王法をもって本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて、外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。このこころをもって当流真実の正義をよく存知せしめたるひととはなづくべきものなり。

御文4−1
宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念をこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふその時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文には「即得往生住不退転」と説けり。(大経・下巻)
あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。
このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)とおおせられたり。
これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。このゆえに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。

御文4−6
人ありていはく、「わが身はいかなる仏法を信ずる人ぞ」とあひたづぬることありとも、しかと「当流の念仏者なり」と答ふべからず。
ただ「なに宗ともなき、念仏ばかりはたふときことと存じたるばかりなるものなり」と答ふべし。
これすなはち当流聖人のをしへましますところの、仏法者とみえざる人のすがたなるべし。さればこれらのおもむきをよくよく存知して、外相にそのいろをみせざるをもって、当流の正義とおもふべきものなり。

聖人って親鸞聖人の事だから、御文は親鸞聖人の御心も伝わって有難い。
親鸞聖人ばかりではない。
弥陀御自身が、「我を一心にたのまん衆生」を必ず救うとお約束されておられる。
そのお約束を信じられた私が嬉しい。有難い。

御文4−9
阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。

御一代記聞書にもありますよね。
第76条 阿弥陀如来の御掟
「聖人の御一流は、阿弥陀如来の御掟なり。されば、『御文』には、『阿弥陀如来の仰せられけるようは』と、あそばされ候う」。

天才だと思っていた人も気に入った本なら何千回も読んだらしい。
まして況や、後生助かりたいと思う人ならば、なぜ、読んで、読んで、読みまくる程の思いが起きないのだろう。
(でも、千回以上読んだ人でも、南無阿彌陀佛の謂れを知らない人もおられたけれど。)

私は、煩悩で苦しい日もあるけれど、それでも離さない阿弥陀様と一緒なので、その辛い思いも小さくなってくるから有難い。
南无阿彌陀佛

●re.3
菩提心
非公開の非公開
[ 105 ] 親鸞聖人 御遺言鈔 2008/09/02 (Tue) 10:23 △up ▽down
山も山さんの最新の日記を久しぶりに眺めてみた。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/


当流は廃立肝要なり。(親鸞聖人・御遺言鈔)

早速、ヤフー検索で掛けてみたら、3件
グーグル検索で掛けてみたら 238件

http://kindai.ndl.go.jp/index.html (近代デジタルライブラリー 国立国会図書館)

で検索掛けてみたら、該当図書には当てはまりません。

これって、どういうことですか?

>浄土真宗(当流)は、すてるもの、立てるもの(廃立)をハッキリとさせ、捨てるべきものは捨て、立てるべきものは立てる、それが最も大事(肝要)なのです。

どうして、真宗聖教大辞典まで載っている場所に、上記の御遺言鈔がないのですか?
高森氏が個人的に持っておられたら、一度見せて貰いたいです。
浄土真宗にとって、すごい発見ではないでしょうか?

私は、どういう訳か、このHPには書き込むことすら出来なくなった。

>いろいろ考えますと、現時点では高森先生から直接聞かれるのがいいと思います。
>その上でのご不明な点は、こちらにコメントをいただければいつでもお答え致します。無常の身ですから、あちらこちらと足を運ぶ時間もないなら、一人に絞った方がいいと思います。

上記の一文で、山も山さんは、高森氏に信順しておられるようですね。

●re.4
愚老
北陸の男性
[ 108 ] Re1:親鸞聖人 御遺言鈔 2008/09/03 (Wed) 11:16 △up ▽down
菩提心さま
9月に入っても梅雨のような陽気で蒸し暑い日々です
初めて山も山さんの問答拝読させて頂きました。親鸞会には多くの念仏聞法のお方々が居られると聞き居りましたが後生の一大事(信心決定)には同じく心血を注いで求めて居られる人ばかりですね。親鸞聖人・噫、弘誓の強縁は、多生にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信は、億劫にも獲がたし。遇(たまたま)、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。若しまた、此のたび、疑網に覆蔽(ふくへい)せられなば、更りて、また、昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ ・親鸞会にて宿縁の人,尊い聞法も結構ですが真実信心はどこに隠れているのでしょう?知る人ぞ知る、人も投稿ですね。
>山も山さんの最新の日記を久しぶりに眺めてみた。

>http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

>当流は廃立肝要なり。(親鸞聖人・御遺言鈔)

>早速、ヤフー検索で掛けてみたら、3件
>グーグル検索で掛けてみたら 238件
>
>http://kindai.ndl.go.jp/index.html (近代デジタルライブラリー 国立国会図書館)
>
>で検索掛けてみたら、該当図書には当てはまりません。
>
>これって、どういうことですか?
>
>>浄土真宗(当流)は、すてるもの、立てるもの(廃立)をハッキリとさせ、捨てるべきものは捨て、立てるべきものは立てる、それが最も大事(肝要)なのです。

>どうして、真宗聖教大辞典まで載っている場所に、上記の御遺言鈔がないのですか?
>高森氏が個人的に持っておられたら、一度見せて貰いたいです。
>浄土真宗にとって、すごい発見ではないでしょうか?
釈迦如来,七高祖,法然聖人、親鸞聖人,蓮如聖人,尊いお言葉からは無数に有ると思いますが他力と自力・・立てるもの他力・捨てるもの自力,真宗の要はこれ肝要

>私は、どういう訳か、このHPには書き込むことすら出来なくなった。
他力は知る人ぞ知る・・読ませて頂きました。変わり果てた人との問答・HPの書きこみも出来ない残念無念でしょうが標語、腹が立ったら合掌せよとあります、二度の臨終・蓮如聖人のお文にはソノ名号ヲ聞クトイヘルハ,南無阿弥陀仏ノ六字ノ名号ヲ無名無実ニ聞クニアラズ、善智識ニアイテ、ソノオシエヲウケテ、コノ南無阿弥陀仏ノ名号ヲ南無トタノベバ、カナラズ阿弥陀仏ノタスケタマフ道理ナリ、コレヲ経ニハ信心歓喜トトカレタリ(1−15)とあります。これは六字の不思議な働きを現わしたお文であります。この不思議な誓願によって仏心と凡心を一体になし給い、眞の念仏者とさせていただいたならば、後念相続に励むべきです・一度他力の信を得た人は正定聚に住むとも等正覚に至るとも弥勒に等しいともと仰せられています。信心一定とは一期に一度の信心獲得の時である,お文(4−4)この本願をただ一念
無疑に至心帰命し奉れば、わずらいもなくそのとき臨終せば往生治定業成のこころなるべし・・
とありこのお文は信心獲得の時刻を表してあり臨終というのである。この臨終の境のない人は他力に救われた人でなく信前信後の区別を知らない人は他力の念仏者とは言えない。
祖師聖人著、愚禿鈔の中に(前念命終なり、後念即往生)と有りますから。信心獲得の時はそれまでの永い間迷い続けてきた魂(煩悩)の臨終なのであります。寿命つきて穢身を捨てる時も臨終で有るから念仏行者には臨終が二度有る事になります。この信前信後の区別のない信心は自らの心に我が身勝手につくり上げた信心であるから往生極楽の用には立たない。信心獲得は弥陀の子として生まれ変わることでありお文には(先達、先輩師匠より承りし如く弥陀如来の真実信心をば、いくたびも他力よりさずけられるところの佛智の不思議なりと心得て、一念をもっては往生治定の時刻と定めてその時の命のぶれば自然と多念におよぶ道理なり(2−2)とある。
往生治定の時刻とゆうのは,何月何日の何時何分と言うことであり信前信後の境目である。
自然とは自我の計らいのないことであり、仏の光明のはたらきによると言うことなり。
多念とは信心得た後は自然と多く念仏できることで如来の広大なご恩を報謝の念仏を称え衆生済度のお手伝いをさせていただくこと指しております。
人間に生まれて(何年何月何日何分)又極楽往生(何年何月何日)のお得を頂き無量壽の光明の世界にご縁としか喜ばずに人として生きる目的は有りません。
菩提心さまの尊い真実の声は阿弥陀様が必ず聞き届けてくださいます。
>>いろいろ考えますと、現時点では高森先生から直接聞かれるのがいいと思います。
>>その上でのご不明な点は、こちらにコメントをいただければいつでもお答え致します。無常の身ですから、あちらこちらと足を運ぶ時間もないなら、一人に絞った方がいいと思います。
>
>上記の一文で、山も山さんは、高森氏に信順しておられるようですね。
後生一代の解決は人夫々の因果因縁です・親鸞会も素晴らしい教を聞かせて頂ける所と思います・・・有縁の知識に依らずば、いかでが易行の一門に入らず・・嘆異抄。序文・合掌
>

●re.5
菩提心
非公開の非公開
[ 109 ] Re2:親鸞聖人 御遺言鈔 2008/09/04 (Thu) 05:24 △up ▽down
愚老様

お返事有難うございます。

私も、どうしてこうも親鸞会に拘るのだろうと思いますが、でも、母の姿の影響が大きいと思います。

本当に、苦しんで来た母でした。

この道、探して歩いている時、そういう苦しみの声を聞いてきました。

私にも、それぞれ縁ですから、私が計らうことは出来ないと思います。

ただ、自分で、調べて欲しいと思ったのです。

自分で調べて行くうちに、その呪縛から目覚める人もおられると思ったのです。

私も、その一人です。

そして、今は、この掲示板で皆さんからご助言頂ける身になりました。

とっても有り難いと思います。

このように書いておけば、いつか誰かが目をとおして、気がついて下さる人もおられるかなと思って書いてきました。

今は、決して親鸞会を恨んでいるのでは有りません。

親鸞会を縁にして救われた私は、むしろ親鸞会で聞いてきたことが、私の信心決定するための道だったと思います。

愚老様、有難うございます。

●re.6
菩提心
非公開の非公開
[ 126 ] 御文章 2帖目 7通 2009/10/04 (Sun) 10:36 △up ▽down
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/
山も山さんのHP  教学で知らねばならないこと

『抑、その信心をとらんずるには、更に智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰するをもって本意とす。(御文章2帖目7通 男子も女人も)』

どうして、こんなところで区切るのかな?

御文章 2帖目 7通
中途で区切ると、山も山さんの都合のよい解釈になってくるんですね。


(2帖目第7通)
しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄花にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者常離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。
そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもって本意とす。
その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。
この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。
されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまいらする「信心ひとつ」にて、極楽に往生すべし。
あら、こころえやすの安心や。また、あら、ゆきやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。
かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。
                   文明六年三月三日これを清書す。

ここわね、「五戒・易往」とか「易往無人章」って言われているのよ。

だから、苦笑(本物)さんにも、苦笑されちゃうのよね。
どうして、勝手な解釈ばっかり、性懲りも無く続けられるのかしら?


>『知恵も、才能も学問も、金持ちも、貧窮している人も、善人も、悪人も、男だとか、女だとかそういうことは、真実信心をとることには関係ない、ただ、もろもろの雑行を棄てて、正行に帰することなのだといわれています。
>愚かな人が、知恵を身につけたら、
>学問がないひとが、学問を身につけたら
>金持ちになったら、いや、財産を手放して貧乏になったら
>善人になったら、いや悪人になったら、今の自分にない何かを足して、不足分を補ったら信をとることができるのではありません。
>白谷さんの言われているとおりです。
>最近学んでいて、阿弥陀仏を信じきることによって、救われることができると考えているのですが、それには教学が必要だと思うのです。私の周りでも、もう歳で、教学が覚えられないから無理だ、と言っている人がいます。私もそのように考えることがあります。』


山も山さんの解釈、よく読めば可笑しいでしょう。

蓮如上人は、人間に生れるということは、五戒を守ってきた人。
それも、なかなか稀なことなのだから、やっと人間に生れてきたのだから、信心決定して、浄土往生してもらいたいという思いでこの章を書かれたのに、どうして教学が必要な場所に変化するんでしょうね。
勉強なんて必要ないから、智慧も才学もいらずと書いてあるのに、山も山さんの解釈だと、いつの間にか、教学が必要だ、に変化する。

生れたばかりの赤子はどうなのですか?
身体障害者で生れた子供はどうなるのですか?
病気や怪我で、脳に損傷した人は、阿弥陀様のお慈悲から外れてしまうのですか?
山も山さんの解釈だとそうなるでしょう。

親鸞会で聴聞に極まるというお言葉を、その字のまま教え込まれてきたからではありませんか。

私達の心=凡夫の心で、どのように一心に弥陀に向かうことができるのですか?
どのように雑行を捨てることが出来るというのですか?
阿弥陀様を信じきるのに教学が必要なんですか?

ずっと、そのまま臨終まで、どのように雑行を捨てられるか、やってみればいいのです。
絶対、捨てられませんから。

でも、それは貴方だけで充分でしょう。

親鸞会から離れても、色々な道を歩むのは、その人の御縁だから仕様がないことだけど、

★われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして一生はむなしくすぎゆくやうに候こと、まことに自損損他のとがのがれたく候。 (御文1−1)

★相伝もなきしらぬえせ法門をいひて、人をもまどはしあまさへ法流をもけがさんことまことにあさましき次第にあらずや  (御文3−10)

★あまさへ相伝もせざる聖教を、わが身の字ぢからをもてこれをみて、自他の門徒中を経廻して虚言をかまへ、結句本寺よりの成敗と号して、人をたぶろかし物をとりて、当流の一義をけがす条、真実々々あさましき次第にあらずや (御文3−11)

★みな人のなにを不足ありてか、相伝もなきしらぬえせ法門をいひて人をまどはし、また無常の法流をもけがさんことまことにもてあさましき次第なり  (御文3−13)

★当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずば、いたづらごとなるべし。  (御文4−1)

★当流門人のなかに、おほく祖師のさだめをかるるところの聖教の初判になきえせ法門を沙汰して法義をみだす条、もてのほかの次第なり  (御文4−6)

もっと、もっと、勉強するというのなら、御文を読むと、その道も見えてくることでしょう。
でも、やはり往相の人に尋ねることが、一番最短距離ですが、これも、強制は出来ませんよね。

●re.7
愚老
北陸の男性
[ 127 ] Re1:御文章 2帖目 7通 2008/09/19 (Fri) 19:29 △up ▽down
菩提心さま。
山の山さん解釈文ですが
御文章 2帖目 7通
◎中途で区切ると、山も山さんの都合のよい解釈になってくるんですね。
おっしゃられる前後のお文の部分・易行の要どころが説明されず・大変申し訳御座いませんが
有縁の知識に依らずば易行の一門に入る事叶わず。
結果として全く自見の覚悟を以って他力の宗旨を乱れることなかれと云われる所以ですね。
難思の教書の教学も信決定の後には感涙して頂けると考えられますが。先ず破れちぎれる程の
蓮如聖人さまの御文章を拝読して有縁の善友のご縁が後生の一大事の解決が先と思いますが・・これも飽く迄ご縁の事、強制し誹謗の元と為しては高祖方、弥蛇さまに申し訳立ちません。抑止文故。

●re.8
菩提心
非公開の非公開
[ 136 ] 雑行をこのむ心とは 2009/10/04 (Sun) 11:46 △up ▽down
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/

山も山さんのメールアドレスに、若し送信したら、親鸞会へ筒抜けですか?
ちょっと怖いので、ここから、私は勝手に感想書いています。

雑行をこのむ心とは・・・・

>『「もろもろの雑行をこのむ心を捨て」(御文章1帖目10通 吉崎)とも、いわれています。
>(中略)
>わかりやすくいいますと、「もろもろの雑行をこのむ心」とは、自分がなにかをすることで、そのご利益として弥陀の救いが頂けると思う心をいいます。
>初詣で大勢の人が、神社で賽銭を投げて、手を合わせてご利益を願っています。それと同じ心なのです。
>阿弥陀仏を信ずるという「信心」と、ご利益宗教の信心は全く違います。』

私の勉強嫌いなものでも、
雑行をそんな風には聞いて来なかったように思います。

正行に対して雑行ですよね。(ちょっと、わかりやすく過ぎませんか?)

http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/02_01_15.html
浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)の中にも詳しく書いてありました。

山も山さんには悪いけれど、私みたいな、学歴もなく、親鸞会で落ちこぼれでも、
有り難いことに、
「それ、八万の法蔵を知るといふとも後世を知らざる人を愚者とす、たとひ一文不知の尼入道なりといふとも後世を知るを智者とすと言へり、然れば当流の意はあながちにもろもろの聖教を読み、物を知りたりといふとも、一念の信心の謂れを知らざる人はいたづら事なりと知るべし・・・・」御文5−2

蓮如上人様には、智者と褒め称えられ、親鸞聖人様には、御同行、御同朋とかしずかれ、釈尊には親友と呼ばれ、この身は、それも、救われたら御恩報謝の御念仏だけでいいんだから、こんな楽な事はないよね。
もう、地獄に堕ちようにも絶対堕ちない「摂取不捨」のお約束を、そのまま信じられたんだもの。

山も山さん、そんなに御文を、好きなように切って解釈しないで欲しいです。

御文は何の計らいも入れずに、読むことの方が大事だと思います。

そして、信心決定してから御文を拝読させて頂けば頂くほど、こんな極悪人が救われた事が有り難くなってきます。

山も山さん、何だか山も山さんの書き込みに反応してしまって、ちょっと、苦笑(本物)さんのHPの見すぎかな。ごめんね。

●re.9
菩提心
非公開の非公開
[ 163 ] 懐かしいお名前 2009/10/03 (Sat) 13:41 △up ▽down
「林遊@なんまんだぶつ 」さんのお名前だ。

ずっとパソコン眺めていて、どこかに真実信心教える人がおられるだろうかと探していた。

ある夜、パソコンの画面が明るい。

ビックリした。

この人の本名と電話番号がパソコンの画面に表示してある。

早速、メモした。

突然に画面が消えた。

何日かして、恐る恐るお電話してみた。

「貴女は信心決定していますよ」と電話の向こうで言われたが、全然ピンと来なかった。

御紹介頂いたお寺にも顔を出してみた。

「次第相承の善知識」様を探していますと尋ねてみた。

とても由緒あるお寺で、御住職もよく勉強されておられた。

初めて御挨拶に伺い、奥様もとても優しそうだった。

しかし、必死に探すと、科学の時代であっても不思議な現象が起こるものだと感慨深いものがある。

勧めて下さった梯實圓氏のお話は結局御縁がなかった。

御著書は持っている。

親鸞聖人の教えを親鸞会の教義を通して比較検討できるのは、有難いことだと思う。

インターネットさまさま。


南无阿彌陀佛



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