親鸞会について

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●No.15
菩提心
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[ 84 ] 蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/13 (Wed) 07:22 △up ▽down
私は「蓮如上人御一代記説教」という百年前に、本願寺で説教されていた本を拝読させて頂く御縁を得ました。
そんな御著書に巡り合えた事に感謝したいと思います。
この御著書を初め、親鸞会で聞いてこない内容の御著書を拝読させて頂く度に、今生で救われたことの不思議を有り難いと思います。
そして、蓮如上人の御苦労を一緒に味わえたらと思い、少し抜粋してみたいと思います。
原文は、旧仮名なのですが、現代仮名と漢字に直しました。(若し、御縁ある方は原文をお読み下さい)


はしがきの一部にはこのように書いてあります。
「善事にもせよ悪事にもせよ時移り世かわりて年月を経ると、とんと分からぬようになる。
依ってその事柄を筆に任せて書き残して置くと千万年の末までもその様子が詳うに分る。
此れが伝記と云うもの。独り燈火の本に文(ふ)みを開きて見ぬ世の人を友とすと古人も云うて置かれた。実にそうじゃ、夜の寝覚めにもランプや行燈の火をかゝげて、その人の事蹟を記した書物を開いてみれば寝ながらにして百年千年昔の人と膝付き合せて話をするも同然、その有様をまのあたり見るも同様、今四百年有余年の昔に蓮如さまが現れたまい、捨たれたる浄土真宗を引き起こして祖師在世に相替らぬ御繁昌に押移るように御引き立てなさるゝに付いては、いやはや容易ならぬ御苦労を下さりたことじゃ。
それを知らずに居るは何んと、勿体無い、その様子を一々聞かせて貰うて見りゃ、あなたの御在世に生れ合わせも同然、その御苦労をまのあたり拝んだも同様、一同に聞いて御ろうじ。
その御恩の広大なる事は迷廬八万の頂きにも(須弥山のこと)越え、滄溟(そうめい=あおあおとした広い海)三千の底にもすぎて、海とも山とも数え尽さるゝことではない。
その海山こえた御大恩とても報じ尽くす事は出来ませぬがせめて九牛の大毛大海の一滴なりとも報じさせて頂くのが、この度中興上人の四百年前の御遠忌に巡り合わせて頂いたその身々の仕合せなり。
袖の振合も多生の縁と云う。往来の四辻で一寸袖が当るのでさえ因縁事。況や中興上人の御遠忌に稀に値せて頂いたは、余程の目出度い因縁に違いない。」

●re.1
菩提心
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[ 85 ] Re1:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/13 (Wed) 07:26 △up ▽down
御開山が「こりゃやい蓮位此の度ひびやあかぎれ位はおろかなこと、今より百五十年の後には此の法が絶え絶えになる、その時親鸞は又来るが今度は剣の中の命がけ長刀疵を追されて辛抱苦労せねばこの真宗再興は出来ぞよ、その災難に逢うは今よりニ百年の後、この事汝の家の記録を残し置け」、
こう言うて御遺言遊ばしたから蓮位坊がその事を委しく家の記録に書いて置れたこの蓮位坊より子々孫々本願寺の家老職が伝わり・・・・下間法橋夢の内に御真影様が枕の元に来らせられ「下間々々」と御呼び遊ばした
下間は夢心に某を呼ぶは誰なるかとひょっと頭を挙げて見れば、恐れ多くも檀上御厨子の内の御真影さまが光明赫々と放せられ、御厨子の内より態々(わざわざ)御出まし遊ばして枕の元に忽然と端座し玉う。
これは何事なるかと両手を付いて頭を下げ、じっと御敬い申していた所が御真影さまは妙なる御声を挙げさせられ「こりゃやい下間よ、汝が家の記録に残せし如く恥ずかしながら親鸞は又来たぞよ、法が絶え絶えになりしゆえ真宗再興のため予て蓮位と約束の通り恥ずかしながら親鸞は又来たぞよ」・・・・・
御遺言に違はず御真影より親鸞又来たぞよの御告げをなさりた聖者の来現は皆この通り奇瑞不思議のあるは御定り弥陀観音大勢至大願の船に乗じてぞ、生死の海に浮かみつヽ有情を呼ぼうて乗せたまう。
思い回せば勿体ない、慈悲の主さの観音さまが聖徳太子と現れて初めて日本へ仏法広め和国の教主とならせられた
、智慧の主さの勢至菩薩は法然上人と現れて南無阿弥陀仏の大法を日本一宗を御広めなされ念仏の元祖とならせられた、
本師本佛の阿弥陀様御開山と現れて肉食妻帯在家同時と身を崩して浄土真宗をお開きなされ開闢の大祖とならせられた、
然るに法が絶え絶えになりしゆへ又もや蓮如様と現れて浄土真宗を引き起し中興開基とならせられた、
それ弥陀観音大勢至極楽浄土の三尊が大願の船に棹指したまい、生死の海に乗り出して有情を呼ぼうて乗せたまう、来いよ来たれよ待って居ると呼んで招いて乗せて下さるる・・
必ず渡しける懐(だい)てかかえて乗せこんで西方浄土の港まで花の京(みやこ)の極楽に連れて帰りてやるぞよの大悲の御恩・・・」


私は『御消息集』の最後のお言葉が好きです。
「また来の字は衆生利益のためには「きたる」と申す、方便なり、覚を開きては「かへる」と申す、時にしたがひて「きたる」とも「かえる」とも申すと見えて候」

初めて、ジャンヌを読んで、泥凡夫様より、親鸞聖人が蓮如上人として再度生れられたことを知って、其の当時、驚きと共に感激した思いがした。どこでお知りになったのか私は知らないが、この説教本を拝読させて頂いて、本願寺ではお話されていたのだなと思った。

昨晩、この道に来るのに、最初に御縁頂いた方とお話させて頂いた。
極最近、私はその方から、真言密教の高僧の方のメッセージのまま、私はこの道を辿っているのだという。
どうして、浄土真宗の私が、真言密教の高僧と御縁があるのか、分らなかった。
その方は、宗教って言っても、全て釈尊の教えからだよ。
私は、ジャンヌでも何度も泥凡夫様より「有縁の道がその人の道」と教えて頂いていたので、その方の説明がすぐ納得できた。

私は、毎日本当に愚痴ばかりの生活をしている。
どうしてこんなに苦しいんだろうかと思う。
でも、修行も出来ない私だからこそ、阿弥陀様が救って下さったのだと思うと、愚痴の中から喜び、懺悔となって御念仏が出て来る。
それさえも、懈怠な私なのだ。全て阿弥陀様の一人働き。有り難い。
南无阿彌陀佛

●re.2
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 86 ] Re2:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/14 (Thu) 11:02 △up ▽down
菩提心 様

苦しみ多き、この人生ですね。

そして、その苦しみは、自らの悪業に原因があるはずです。

どうしても、悪業を重ねてしまう自分。

苦しくて悪しき意業を出してしまい、悪循環から抜けられず、ひたすら流転してきました。

そのような悪業ばかりの自分に、輝く弥陀の南无阿彌陀佛です。

どんなに苦しくとも、すべてを良くしてくださる南无阿彌陀佛。

真実信心をいただけるのは、希にも希なことと聞きます。

なぜか、私にその時期が来たのですが、あまりにももったいないことであると思います。

このしあわせは、何のためなのか。

もちろん、微力ながら、「他のしあわせのために尽くせ」ということだと思います。

人によって、おかれている位置はさまざまであり、弥陀の救いについて話せる方は、恒河沙中の砂金程、あるいは、それ以下の数であると思います。

それでも、永い流転の旅の中、宿善となることを願います。

南无阿彌陀佛

●re.3
菩提心
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[ 87 ] Re3:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/16 (Sat) 19:18 △up ▽down
毎日様

お久しぶりです。

毎日様もご存知の、ごくごく身近の人(女)から、電話が有り、

>もちろん、微力ながら、「他のしあわせのために尽くせ」ということだと思います。

と同じ様な事を云っていました。

人のしあわせを思うような人が、阿弥陀様に御縁あるのかも知れないと云っていました。

自分の欲に振り回されてしまうような私達でも、
阿弥陀様に救われたのは、阿弥陀様の手足となって少しでも、お手伝い出来るからかも知れませんね。

今日も、初めて御縁頂いたお方からお電話頂いて、色々お話をお聞きする中から、
人を救うのには、色々な面で、犠牲を払っておられると知りました。
その密教の高僧も、体力的には私には分らないくらいの御修行をされておられるらしいです。

そういうお話を伺うと、阿弥陀様は凄いな〜と、つくづく思いました。
見返りも考えず、ただ十方衆生を救おうと、兆歳永劫の間の御修行をされて私達に廻向下される。
それが、今生で頂いている私がとても有り難いです。
そして、それもなかなか信じられない法を信じられた事が有り難いです。

>人によって、おかれている位置はさまざまであり、弥陀の救いについて話せる方は、恒河沙中の砂金程、あるいは、それ以下の数であると思います。

とても実感できます。
毎日様達とお話できることは夢のようです。
嬉しいです。有り難いです。

南无阿彌陀佛

●re.4
菩提心
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[ 88 ] Re4:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/18 (Mon) 15:24 △up ▽down
第ニ席、第三席
蓮師一代の事跡の奇瑞あるを以て権者の来現たるを知るの弁

これらの所作は中々凡夫に真似の出来ることでは無い。こんな話を並べ立て申すときは尽期際限あるべからず。御旧跡巡拝の人に問うて見なされ。かようにそれ御開山の奇瑞、蓮如様の奇瑞。同様の不思議を現わして御見せなさるるが。則ち権者の来現なることを知らせて下さるのじゃ、和光同塵は結縁の初め極楽浄土の本師の如来が三十ニ相の佛体を五尺の体に縮めたまい。行きつ戻りつ入れ代り、五濁の塵に交わりて悪世の中に現れて。こりゃやい衆生よ悪人よ、この親鸞もこの蓮如も凡夫の相(すが)たを現わしてはおれど迷った凡夫じゃないぞ。さとり開いた仏じゃぞよ。説いて教える一言半句さとして聞かす法のお助け。
両眼開いて見たよりもまだまだ慥(たし)かに信じてくれよ。
両手を出して握ったよりも堅固に丈夫に思うてくれよと。御一生のその間だち、よいよいと奇瑞不思議を現わして、愚かな凡夫を御済度なさりて下さるる。・・・・・・・・・・

法然様は勢至の化身。御開山は弥陀の化身。蓮如様は祖師の再来。それゆえ色々手を替え品を替え。方便摂化の手をのばし。種々の奇瑞をあらわしてそれを済度の手綱として。ある時は邪見、邪悪の悪者を御済度なされ。ある時は餓鬼大蛇幽霊を御済度なされ。これ見よ、これ邪悪の悪者も弥陀の本願では助かるぞよ。これ見よ、これ鬼も大蛇も餓鬼も幽霊も。南無阿弥陀仏で助るぞよ、見えぬ未来を疑うゆえに。見えるこの世を顕して鬼や大蛇を救うて見せる。餓鬼や幽霊を助けて見せる。
仏教界の神通力を疑う衆生が居るゆえに。凡夫世界のこの土において種々な不思議を見せてやる。娑婆で現わす奇瑞でさえ合点は行くまい分るまい。
智慧なき凡夫ということはこれを以て得心せよ。
まして況や不思議解脱の極楽世界。変化自在の証の所作は愚かな凡夫に分ろう道理はありはせぬぞよ。
分らぬとて怪しむな、合点がゆかぬとて疑うな。
このゆえに三十二相の仏身を五尺の体に縮めて現れ。五濁の塵に交わりて種々の不思議を現わして。愚かな凡夫に感心させ。それを済度の手綱として。花の京の極楽へ連れて帰してやるぞよーが。祖師や蓮師の権化方便というものじゃ。

何箇所も出て来る、蓮如上人は御開山の再来。
こんな御説法が百年前には、本願寺でお話して下さっておられた。

そんな時代の御説法の御著書を音読させて頂いている。
とっても有り難い。
救われてからよく思い浮かべる言葉がある。
「感謝」すること。
心より感謝出来る人に成りたいと思う。
そして、素直に有り難うって云える人で有りたいと思う。

南无阿彌陀佛

●re.5
愚老
北陸の男性
[ 89 ] Re5:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/17 (Sun) 10:02 △up ▽down
菩提心さま
親鸞会のページは愚老初めてです、愚老、親鸞会とはご縁有りませんでしたが、40数年前より有ったことは存じて居りました,当時は高岡駅裏に現在の大きい規模になるとは想像外でした。
愚老の縁の知識様は当時時々高森氏のことは話しして下さいました。

>これらの所作は中々凡夫に真似の出来ることでは無い。こんな話を並べ立て申すときは尽期際限あるべからず。御旧跡巡拝の人に問うて見なされ。かようにそれ御開山の奇瑞、蓮如様の奇瑞。同様の不思議を現わして御見せなさるる.

40数年もの間,各地参拝させて頂き、御開山,蓮如さまの奇瑞は旧跡を参拝致しますと本当に多くて南無阿弥陀仏の六字の尊さに但々感涙致します。

>この親鸞もこの蓮如も凡夫の相(すが)たを現わ
>両眼開いて見たよりもまだまだ慥(たし)かに信じてくれよ。
>両手を出して握ったよりも堅固に丈夫に思うてくれよと。御一生のその間だち、よいよいと奇瑞不思議を現わして、愚かな凡夫を御済度なさりて下さるる。・・・・・・・・・・

愚痴三昧の悪凡夫、欲寂静、是れ最も勝れたり,多欲の人は利を求めることが多くゆえに苦悩も又多し,少欲の人は無求無欲なれば即ちこの患いなしと言われるが娑婆に汚世に負けて欲心の絶えない凡夫後生の一大事解決させて頂き無上の喜びです。

>法然様は勢至の化身。御開山は弥陀の化身。蓮如様は祖師の再来。それゆえ色々手を替え品を替え。方便摂化の手をのばし。種々の奇瑞をあらわしてそれを済度の手綱として。ある時は邪見、邪悪の悪者を御済度なされ。ある時は餓鬼大蛇幽霊を御済度なされ。これ見よ、これ邪悪の悪者も弥陀の本願では助かるぞよ。これ見よ、これ鬼も大蛇も餓鬼も幽霊も。南無阿弥陀仏で助るぞよ、見えぬ未来を疑うゆえに。見えるこの世を顕して鬼や大蛇を救うて見せる。餓鬼や幽霊を助けて見せる。
>仏教界の神通力を疑う衆生が居るゆえに。凡夫世界のこの土において種々な不思議を見せてやる。娑婆で現わす奇瑞でさえ合点は行くまい分るまい。
>智慧なき凡夫ということはこれを以て得心せよ。
>まして況や不思議解脱の極楽世界。変化自在の証の所作は愚かな凡夫に分ろう道理はありはせぬぞよ。
>分らぬとて怪しむな、合点がゆかぬとて疑うな。

尊いお言葉、御念相続、如来大悲の恩得は身を粉にしても報ずべし、師知識の恩徳は骨を砕きても謝すべし,有縁無縁神通方便を以って六道四生の衆生を済度がご恩報謝の最上の功徳を得ると感じる日々です。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。



●re.6
菩提心
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[ 90 ] Re6:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/17 (Sun) 22:33 △up ▽down
愚老様

今晩は

今日、乗鞍スカイラインに行ってきました。
とても、好天に恵まれ、道中、どこらあたりに愚老様はおられるのだろうと思っておりました。

北陸自動車道路では、大きい親鸞会の看板を見てビックリしてしまいました。
先日は、某宗の大きな落慶広告記事を読んで、色々と教えの違う宗教が一杯あるんだなと思いました。
私は私の有縁の道を、こうしてこの掲示板で少しでも語れたら、すごく幸せだと思います。

又、この続きを少しずつでも書いていけたらと思います。

お書込み有難うございます。
愚老様の長年の真実信心のお言葉を頂けることも、とても楽しみです。

南无阿彌陀佛

●re.7
菩提心
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[ 91 ] Re7:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/19 (Tue) 23:28 △up ▽down
第四席
信孝卿石山観音より一子を授かるの弁
蓮前姫本願寺へ入嫁し玉う弁
観音より石山別当職へ霊告あるの弁

・・石山の観音が、蓮前姫と現れて蓮如様の母君とならせられたのと、一宗開闢のその時六角堂の観音が玉日の宮と現れて、御開山と御夫婦に御成りなさりたとの二つ。

この玉日の宮と現れ玉いたることは。御伝鈔に、六角堂の救世菩薩顔容端厳の聖僧の形を示現して白衲の袈裟を着服せしめ広大の白蓮花に端座して善信に告命してのたまわく。
白衲の袈裟は白い御袈裟。
広大の白蓮花とは白い御蓮台。六角堂の観音が、白いお姿で白き蓮花に乗らせられ御開山へ御告げをなさりた。
今石山の観音もまた白いお姿で、白い蓮花に乗らせられ、男子に縁なし女子に縁あり。吾れ、今女身となりて汝じが子に生るゝぞよと御告げ遊ばした。
何ゆえにどちらも白い揃いで現れたかと云うに、これが則ち観音の御誓願である。
紙でも絹でも木綿でも竹でも何でもかんでも白地なれば何の色にでも染む。
千変万化するは白の色に限る。観音の誓願は下は無間地獄のどん底より、上は欲界色界の天上界まで、千変万化と姿を替えて、一切衆生を自由に御済度なさりて下さるゝ。
その手広い利益を現わすために、わざと白のお袈裟に白い蓮花を踏んで現れさせられた。
・・・・石山寺の観音様が蓮前姫と現れて、蓮如上人を生み落とし、絶え絶えの真宗を再び弘めて下さりた。
・・・極楽浄土の楽屋では、共に平等大悲の仏と仏。然るに娑婆の舞台に御出ましなされては、上求菩提も南無阿弥陀仏の大芝居。下化衆生も南無阿弥陀仏の大狂言。妻となり夫となり親となり子となり。
方便摂化の役割は、本師の如来が男の役、観音様が女の役。本師の如来が子と生まれ、観音様が母となり、種々に善巧方便して、われらが無上の信心を発起せしめて下さるゝが、権化方便の仏のお慈悲というものじゃ。


★上求菩提、下化衆生・・・上に向っては菩提を求め、下に向っては衆生を化益することで、菩薩の菩提心を顕わす語である。即ち上求菩提は自利の行であり、下化衆生は利他の行である。(真宗辞典より)

●re.8
菩提心
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[ 92 ] Re8:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/20 (Wed) 22:25 △up ▽down
第五席
布袋丸誕生並びに御成長の弁
母公(きみ)鹿児の絵姿を持て石山へ帰り玉うの弁
探偵社紫の雲を印に石山寺へ尋ね行くの弁

・・・布袋丸さまの鹿児の御影が、三ヶ所にまで残してあるは、これ全くその母君は石山寺の観世音菩薩じゃと云う慥かな証拠である。石山寺及び本誓寺、浄土寺へ参詣のときあらばこの由来を尋ねて見なされ。
何と御同行有り難いことじゃありませぬか。
生みし母御は大慈大悲の観世音、生まれし御子は本師法皇の阿弥陀さま。これを一宗開闢の昔に引き上げて云うと、六角堂の観音さんが、九条殿兼実公の御娘子玉日の宮と現れ玉い、御開山と夫婦の契りを御結びなさりた。

兼実公が法然上人の御前に於いて、「一寸御尋ね申します。在家の念仏と出家の念仏と、勝劣が御ざいますか」こう云うて御尋ねなさりた。勝劣と云うては分らぬ御衆があろう。平らに云うと出家の称る念仏は勝れ、在家の称る念仏は劣る、念仏の利益に幾分か、替り目がございますかと云うことよ。
上人「やーそんなことは有りませぬ、自身自力の才学で称る念仏なら、その利益は千差万別なれども、今源空が勧る所は、佛智廻向の信心に催うされて、自然と浮かぶ他力の称名。出家も在家も、男子も女人も、この利益には少しも替りはありませぬ。」
「へー左様でございますか、然れば申し上げます、上人を初め数多のお弟子方まで、皆な精進潔斎、一生不犯の清僧の御方ばかり、然るときは末代の妻にほだされ子にまとわれ、口に魚鳥の肉を味わい、貪い欲の煩悩に取り巻かれた、吾々如き在家の者は、必ず往生に疑いを起すでございましょう、依て私一つ御無心がございます、お弟子の中、精進潔斎の御出家を、一人私に御下げ下さいませぬか、さすれば吾が娘と夫婦の契りを結ばせ、それを末代衆生の手本に致し度う存じます」と申し上げられた。
法然上人いかさま尤も千万委細承知致しました。此れにはきっと子細も御座候と速やかに御受け合いなさりた。直に御開山を御呼び遊ばし、「善信房貴僧殿下の所望に応じられよ」との仰せ、御開山は外の御弟子方の前にはばからせられ、一応御断りを仰やりた。上人「いや々これにはきっと子細も候、貴僧はすぎし夏、六角堂の観音より四句の偈文を授かりて居らるゝ。」それはこの通りなりと、さらさらっと紙に書いて御見せなさりた。御開山はいかにも求世観音の告命を受けし、先達ての夢はこのことでありたかと、涙にむせんで謹んで御了承遊ばした。それより九条殿下へ養子に御入れなされ、玉日の宮と夫婦の契りを結ばせられた。

これが肉食妻帯在家同事の御宗旨を、御開きなさるゝ糸口である。さー、このときは連れ添う夫との御開山は、極楽の阿弥陀さま、付き添う妻の玉日の宮は、六角堂の観音さま、御開山がこの肉食妻帯と身を崩し玉いた時分は聖道自力の御宗旨から、余程笑わしゃりた、謗らしゃったあ、善信坊の様を見し、袈裟衣をかけながら頭を丸めて居りながら、女房持つやら肴喰うやら、善信坊はなまぐさ坊主じゃ、親鸞は仏法の規則破りじゃ、祖門の罪人仏門の大敵などと、悪口の云い流しで有た。然るに御開山は「笑わば笑え、誹らば誹しれ、末代衆生はこれでなくては済度は出来ぬ、兎角はないぞ親鸞はなまぐさ坊主じゃ、兎角はないぞよ親鸞は仏法の規則破りじゃ、斬るものをも御見捨てないが弥陀の本願。聖道自力の御宗旨では、妻は地獄の使いなり、子は三界の首かせじゃとむごたらしうに見切りて捨てる。
吾がこの浄土真宗では、妻も浄土の道連れじゃ、子供も浄土の道連れじゃ、親鸞が先き案内する程に、末世の悪人凡夫これを手本に後をしたえよが即ち御開山の一流。・・・・

七百年の昔には御開山と玉日の宮、四百年の昔には蓮前姫と蓮如上人。或るときは浄土へ帰りまた或る時は娑婆へ御出まし、行きつ戻り遊ばすは何事か、可愛い衆生が娑婆の古巣に居るゆえじゃ、各私等に他力信心のえばみをさせ度い計りじゃ、和光同塵は結縁の始め、仏の姿じゃ寄り付かぬで、凡夫の出家と現れ玉い、五障の女人と変化させられ、逃げる衆生をより付かせ、縁なき吾等に因縁結び、法なき所に仏法ひろめ、種々に手をかえ品をかえ、西方極楽の本覚の京へ連れ帰りて下さるゝが、摂化方便の如来のお慈悲と云うものじゃ。

●re.9
愚老
北陸の男性
[ 93 ] Re9:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/21 (Thu) 13:04 △up ▽down
菩提心様
蓮如,親鸞,法然,高祖方のお話愚老も聞きましたが,何遍聞かせていただいても有り難いことです。
>第五席
>布袋丸誕生並びに御成長の弁
>母公(きみ)鹿児の絵姿を持て石山へ帰り玉うの弁
>探偵社紫の雲を印に石山寺へ尋ね行くの弁
>>・・・布袋丸さまの鹿児の御影が、三ヶ所にまで残してあるは、これ全くその母君は石山寺の観世音菩薩じゃと云う慥かな証拠である。石山寺及び本誓寺、浄土寺へ参詣のときあらばこの由来を尋ねて見なされ。

布袋丸さまの母君,石山寺,観音菩薩様の化身、誠に尊いことですね。愚老も今まで3度、石山寺
訪ねました。最初35年も前ですが・・・蓮如堂にて鹿の子の小袖が宝物として拝見致しました
もう500年も昔の物です・住職の説明も聞き、不思議やら尊いことで唯、合掌しておりました

>何と御同行有り難いことじゃありませぬか
>生みし母御は大慈大悲の観世音、生まれし御子は本師法皇の阿弥陀さま。これを一宗開闢の昔に引き上げて云うと、六角堂の観音さんが、九条殿兼実公の御娘子玉日の宮と現れ玉い、御開山と夫婦の契りを御結びなさりた。

800年前の当時としては親鸞様も大変な苦悩の中(しかし夢想のお告げも有り)決断された事と思います。若き親鸞さまの前に現れた一人の女人,親鸞様,親鸞様、お尋ね致します、比叡の山には夫婦の鳥や鹿が居ませんか?女人禁制のお山に女人は救われないのでしょうか?
青年の親鸞上人の心揺るがす一人の美しい女性・・悶絶するでしょうね?

>兼実公が法然上人の御前に於いて、「一寸御尋ね申します。在家の念仏と出家の念仏と、勝劣が御ざいますか」こう云うて御尋ねなさりた。勝劣と云うては分らぬ御衆があろう。平らに云うと出家の称る念仏は勝れ、在家の称る念仏は劣る、念仏の利益に幾分か、替り目がございますかと云うことよ。
>上人「やーそんなことは有りませぬ、自身自力の才学で称る念仏なら、その利益は千差万別なれども、今源空が勧る所は、佛智廻向の信心に催うされて、自然と浮かぶ他力の称名。出家も在家も、男子も女人も、この利益には少しも替りはありませぬ。」
>「へー左様でございますか、然れば申し上げます、上人を初め数多のお弟子方まで、皆な精進潔斎、一生不犯の清僧の御方ばかり、然るときは末代の妻にほだされ子にまとわれ、口に魚鳥の肉を味わい、貪い欲の煩悩に取り巻かれた、吾々如き在家の者は、必ず往生に疑いを起すでございましょう、依て私一つ御無心がございます、お弟子の中、精進潔斎の御出家を、一人私に御下げ下さいませぬか、さすれば吾が娘と夫婦の契りを結ばせ、それを末代衆生の手本に致し度う存じます」と申し上げられた。
>法然上人いかさま尤も千万委細承知致しました。此れにはきっと子細も御座候と速やかに御受け合いなさりた。直に御開山を御呼び遊ばし、「善信房貴僧殿下の所望に応じられよ」との仰せ、御開山は外の御弟子方の前にはばからせられ、一応御断りを仰やりた。上人「いや々これにはきっと子細も候、貴僧はすぎし夏、六角堂の観音より四句の偈文を授かりて居らるゝ。」それはこの通りなりと、さらさらっと紙に書いて御見せなさりた。御開山はいかにも求世観音の告命を受けし、先達ての夢はこのことでありたかと、涙にむせんで謹んで御了承遊ばした。それより九条殿下へ養子に御入れなされ、玉日の宮と夫婦の契りを結ばせられた。

御開山の決断が無かったら。在家老若男女が救われなかったでしょうね。

>これが肉食妻帯在家同事の御宗旨を、御開きなさるゝ糸口である。さー、このときは連れ添う夫との御開山は、極楽の阿弥陀さま、付き添う妻の玉日の宮は、六角堂の観音さま、御開山がこの肉食妻帯と身を崩し玉いた時分は聖道自力の御宗旨から、余程笑わしゃりた、謗らしゃったあ、善信坊の様を見し、袈裟衣をかけながら頭を丸めて居りながら、女房持つやら肴喰うやら、善信坊はなまぐさ坊主じゃ、親鸞は仏法の規則破りじゃ、祖門の罪人仏門の大敵などと、悪口の云い流しで有た。然るに御開山は「笑わば笑え、誹らば誹しれ、末代衆生はこれでなくては済度は出来ぬ、兎角はないぞ親鸞はなまぐさ坊主じゃ、兎角はないぞよ親鸞は仏法の規則破りじゃ、斬るものをも御見捨てないが弥陀の本願。聖道自力の御宗旨では、妻は地獄の使いなり、子は三界の首かせじゃとむごたらしうに見切りて捨てる。
>吾がこの浄土真宗では、妻も浄土の道連れじゃ、子供も浄土の道連れじゃ、親鸞が先き案内する程に、末世の悪人凡夫これを手本に後をしたえよが即ち御開山の一流。・・・・
>
>七百年の昔には御開山と玉日の宮、四百年の昔には蓮前姫と蓮如上人。或るときは浄土へ帰りまた或る時は娑婆へ御出まし、行きつ戻り遊ばすは何事か、可愛い衆生が娑婆の古巣に居るゆえじゃ、各私等に他力信心のえばみをさせ度い計りじゃ、和光同塵は結縁の始め、仏の姿じゃ寄り付かぬで、凡夫の出家と現れ玉い、五障の女人と変化させられ、逃げる衆生をより付かせ、縁なき吾等に因縁結び、法なき所に仏法ひろめ、種々に手をかえ品をかえ、西方極楽の本覚の京へ連れ帰りて下さるゝが、摂化方便の如来のお慈悲と云うものじゃ。

元祖法然上人ー親鸞上人ー蓮如上人ー次第相乗の善智識のお蔭様・宿善開発して有縁の知識に依り五重の義,成就して正に正真の菩薩様のご縁を結ばされて頂く、唯々阿弥陀如来のお計らいと言え有り難いことです。南無阿弥陀仏。
>

●re.10
菩提心
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[ 94 ] Re10:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/22 (Fri) 05:45 △up ▽down
愚老様

>元祖法然上人ー親鸞上人ー蓮如上人ー次第相乗の善智識のお蔭様・宿善開発して有縁の知識に依り五重の義,成就して正に正真の菩薩様のご縁を結ばされて頂く、唯々阿弥陀如来のお計らいと言え有り難いことです。南無阿弥陀仏。

そうですね、先達の次第相承の善知識様のお陰で、私も、一味同行の身になりました。

そして、このように書かせて頂いていることが有難いです。

これからが、いよいよ蓮如上人の御苦労の御説法が始まります。

私は、前に御縁頂いたおじさんから、親鸞聖人や蓮如上人が、比叡山や白山や豊原寺の追っ手から逃れた場所を案内して貰っていたので、拝読させて頂く度に、その情景と重なり、大変な思いをして、衆生済度をされたのだなと感極まり、思わず涙が出てきます。

2年前に、実家のお墓参りの時、何気に隣のお墓を見てビックリしました。
そのお墓の名盤に、○○の善知識のお陰で、孫、ひ孫の代まで云々と書いてありました。

そして、今年、その方達3名の連名で、本家のお墓が新しく建っていました。
私は、この道来るまで、あまりお墓参りはしていませんでした。
息子が急に、父の夢を見てから、地元に帰る度にお墓参りに出かけました。
牛に引かれ善光寺参りではありませんが、息子に引かれて、お墓参りするようになり、その都度本家のお墓も磨くようになりました。(本家は1300年続いていましたが、昭和初期に絶えてしまいましたが、祖父達分家で墓を建てた事がお墓に記載して有りました)

お墓参りする度に、きっと御先祖の方の中に篤信者がおられた御縁で、私も信心決定できたと喜んでいます。
そして、蓮如上人が御苦労して歩かれただろう道を五百年の後の私も、歩かせて頂いていると思うと、その御縁が有難くなります。
ちょっとした事で、愚痴っている自分が、恥ずかしいです。
でも、愚痴ってしまいます。
だからこそ、このような御著書を読んで、反省しています。

愚老様のお言葉が添えてありますので、尚一層嬉しく拝読させて頂いています。
有難うございます。

南无阿彌陀佛

●re.11
菩提心
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[ 95 ] Re11:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/22 (Fri) 05:51 △up ▽down
第六席
本山払底にして父御上人の困難を示すの弁
布袋丸継母のために非常の憎みを受け玉うの弁
御得度の際広橋中納言を仮親となし玉う夫れにつき継母公より種々厳禁の事を申し渡しの弁
登山入学已来学資乏しくして必死の困難を究め玉ふ弁


さて御本山が極々御払底(物がすっかり無くなること)、ずーっと零落(おちぶれること)させられ,いよ々御困窮の真っ最中に、御生まれなさりたが蓮如さまじゃ。そこでいやはや幼いときから、恐れながら乞食非人の子にも劣るほどの御難儀を遊ばした。父御の存如上人の御在世より、蓮如さまが御住職を御執り遊ばす頃までは、世上一般が穏やかに無い。
そのことは御文章にも「諸国往来の通路に至るまでも、たやすからざる時分なれば、仏法世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて霊佛霊社参詣の諸人なし」と御歎きなさりてある。あの名所旧跡の沢山ある、京都の霊佛霊社へ、参詣するもの一人も無しというてよろしい程のこと、殊に真宗の法は絶え絶えになり、有りて無きが如しの哀れなる有様。・・・・
その時分の大谷本願寺は阿弥陀堂が三間四面、御影堂が五間四面、廊下も玄関もそれ相応な小さい建物、庫裏は粗末な小家。・・・・

七の御年に広橋中納言兼定卿の御妹君五月の前というが、父御存如上人の御妻に入りせられた。・・・
この五月の前と申すは上つ方に不似合いな、邪見嫉妬の強い御生まれ付き、物を充分に持って入らせたを鼻にかけて、御自分の実子が御出来なさるると、継子の蓮如さまを憎み出さしゃった。継子憎いは天下の習い。・・・
幼子の蓮如さまへ着物も六々に御着せなさらぬ。食事も十分には差し上げ玉わぬ。或るとき食物に毒を仕込んで毒害に仕掛けられた。・・・・
着物の綿の中に数千本の絹針の折れたが仕込んである。・・・
常並の子供なら六つや七つではまだ悪さをして遊びたい計り。折り々母の膝元でヤンチャ出す時分。
然るに蓮如さまは幼な子の時から、母君の妬みをお受け遊ばして、お膝の元のヤンチャどころか、寒の師走にゃ薄着をさせられて、ピリ々振るうてまします。
暑の六月には日笠の一本も無ければ、御出ましの時も炎天の暑さに照り付けられ玉う。
それでもジーッと堪えて・・・・陰では泣いて御歎き遊ばしても、表には一寸もその顔はなさらぬ。朝に夕に紅葉のような手を付いて、おかかさん々と大切に御孝行なさりて在した。なんと御同行あなたの御心底を察して御ろうじ。実に涙のこぼれた、御痛わしいことじゃありませぬか。・・・・

●re.12
菩提心
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[ 96 ] Re12:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/22 (Fri) 05:44 △up ▽down
江州金ケ森の弥七は継母の仕方の悪いを聞き、アー御痛わしいや年行せられぬ御新発意(出家したばかりの人)、大切なる御身がそういう情けない目に、お逢い遊ばすものー、それを知りつゝ知らぬ顔をしておりてはならぬ、只の一日も半時も御本山には置かれぬと、直にお連れ申して菅原安人(やすんど)という人を頼んで、読本手習の業をつかしめた。そのお世話申し上げる弥七も、これまた喰うや喰わずの貧乏人、何の手立ても出来ぬ。
わずか墨筆位なもの、買い求めるほどの小銭も持ってはおらぬ。
よって手習い遊ばすにも、ゴズイをといて墨の代りになさりたこともあれば、藤葛の根を噛み砕いて、筆の代りと遊ばしたこともある。
この藤葛の筆を以て、お書きなされた名号を、「藤筆の尊号」という、大和の教行寺に一幅、加賀の国にニ幅残っておるそうである。一を以て万を知れと、凡て何もかもそういうふつつかなこと、かかる哀れな有様で御育ちなされたが、八代目の善知識じゃ。

・・・・「然るに私は十七歳の今日まで、得度もすまず仏門の学問もせず、あだに月日を送りておること、実に残念に存じます。然れども父上様に於いてはこの場合余に御払底の御難儀をなされてましますから、どうも気兼ねで遠慮で、今日まで何とも申し上げませなんだ、つくづく思い回して見ますれば、私の得度が一ケ年後れましたら、仏法弘通も一ケ年後れます。私の学問が一ケ月延びましたら、衆生済度も一カ月延びまする、そこを思えば私の心は駆け馬の鞭、急いで々叶いませぬ仰ぎ願わくば一日も早く、先例に任せて、粟田口にて得度を済め、叡山にて学問修行させて下さいませ」・・・・

法然上人は勧覚坊徳行阿闍梨を、取親として叡山にお登りなされ、御開山は伯父御の範綱卿を養父として、登山出家を御遂げなされた。・・・・・
さて継母君の兄御、広橋中納言を取親と頼み入れに相成た、蓮如上人粟田口青蓮院の禅室に入らせられた、・・・御実名は父御の存如上人が、観音変化の貴婦人より、蓮華の一茎を授からせられ、貴僧一子を設け玉わば、これを以て名とせよの、御指図もありたることなれば、その由来を以て自ら蓮如と名乗らせられた。

●re.13
菩提心
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[ 97 ] Re13:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/23 (Sat) 06:36 △up ▽down
さて蓮師御得度相済んで叡山へ御学問にお登り遊ばすけれども、御困窮の御本山、なお継母君より厳しき御申し付けもあれば、御登山遊ばすと云うても何の御支度も出来やせぬ。着物が一枚、衣が一枚、その着物も本山でこしらえて御貰いなさったのじゃない、下間の奥さんの白むくの古手の洗い張りして差し上げられた。
勿体ない本願寺の御新発意でありながら、けがらわしい婦人の古着を御貰いなされた。それを御召し遊ばして麻の衣に墨の袈裟。御聖教を破れ風呂敷へ御包みなされ、草履を召して、たったお独りでサッと出て行かせられた。
この頃の小寺の番僧坊主よりもまだまだ哀れなこと、一宗の大法統御開山より八代目を御相承なさるゝ大善知識がかかる哀れな有様で御登山遊ばした。・・・

本願寺の善知識がわずかな小銭が儲けたさに一山の大衆にかゝるむごたらしい事を云われながら、じーっと堪えて、ヘーコラ々両手を付いて頭を下げて御辛抱遊ばしたのぞよ。
さて外の御弟子方が蓮如はくさい々と云うて笑わっしゃる、謗らっしゃる、嫌わっしゃる、そこで蓮如さまも、今は大衆の前を憚らせられ、御痛たわしや、一山の交わりをトント御止めなされ、北谷へ向けてお越しなされた。
北谷は北受けの所極々寒いで寺も無いが家も無い。その北谷で小さい小屋掛けを遊ばし、壁の代りに板囲い、戸障子の代りにあらごもを下げ、土間にむしろ敷いて、破れ机の上に御聖教をお開きなされ、たったお独りの御学問。

・・・・九夏三伏の夏の夜は、蛍を集めて燈火の代りと遊ばしたり、厳冬素雪の冬の夜は、雪を積んでその光を借りて御聖教をお読みなさりた事もある。これが蛍雪の勤めというもの。こんな話を聞くにつけても、この者ゆへに書くまでも御苦労なさりて下さりたかと、受けた御恩の万分の一を報じさせて貰わねばならぬ。

・・・・増して況やお互いが娑婆の浮世に逗留して、万事思うように行く道理がない。
表を眺めりゃみんな立派げな風をしておれど、小内を調べりゃ十人十色。種々様々心配苦労は皆ある。これじゃもてぬ、これじゃ叶わぬ、何程、機を痛めても、前生より持って生れた約束だけの難儀苦労はしてしまわちゃ、僅かな境界が果てられぬ。
今生の善悪は過去の宿業によると明らめて。それを御縁に吾身の仕合せを喜びなされ。これが前生の因縁じゃ、これが前の生の約束じゃ、これでこそ悪世界、これでこそ娑婆界じゃ。
一宗の大法統たる大善知識でさえ聞いて見りゃ、いやはや種々様々な御難儀なさりたことがある。まして況や吾れ々が身においてをや。どんな難儀があろうとも堪えーでなりましょうかい。こんな浮世はもう少しじゃ。

ここからが私の気持ちの慰めところ。

難儀苦労は今しばし泣いて暮すも暫時の間だ。追っ付け浄土へ参ったなら、前生の因縁も消え、今生の因縁も消え、今度は南無阿弥陀仏を因縁に蓮花の上で弥陀同体。「舎利弗彼土何故名為極楽其国衆生無有衆苦但受諸楽故名極楽」と阿弥陀経に御説きなされて、極楽浄土に楽しみ揃え、苦しみと云うことを夢にも見ぬ。娑婆の浮世の苦しみ揃えは今生限り。
極楽世界の楽しみ揃えはたった今。見えぬ眼に天眼自在、无量の世界を咏(なが)めて楽しみ。
聞こえぬ耳に天耳自在。无量の声を聞いて楽しみ。鼻で楽しむ栴檀沈水の香り。舌で喜ぶ百味の飲食。
神足自在の足を挙げては无量の世界を飛び歩き。他心徹鑑の通力で、一切衆生の心を知り、娑婆の不足の衆の苦しみある事無し。
三明六通无得自在の諸々の楽しみを受けるが故に、西方の弥陀の浄土を極楽と名づくるぞと説いてお聞かせくださるる。

●re.14
愚老
北陸の男性
[ 98 ] Re13:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/23 (Sat) 06:40 △up ▽down
菩提心様
毎回蓮師さまの尊い書きこみ多分、涙しながら書いておられると思います。
>江州金ケ森の弥七は継母の仕方の悪いを聞き、アー御痛わしいや年行せられぬ御新発意(出家したばかりの人)、大切なる御身がそういう情けない目に、お逢い遊ばすものー、それを知りつゝ知らぬ顔をしておりてはならぬ、只の一日も半時も御本山には置かれぬと、直にお連れ申して菅原安人(やすんど)という人を頼んで、読本手習の業をつかしめた。そのお世話申し上げる弥七も、これまた喰うや喰わずの貧乏人、何の手立ても出来ぬ。

戦後,食料難の時代に生きた愚老。配給のいも、やら砂糖,わずかな米,豆で日暮した子供時代思い浮かべます・・しかし当時より460年も昔。飢饉が訪れ一杯の粥をうすめて家族が分け合った蓮如様も子供,今の本願寺から考えると想像もつきませんね。
継母いじめ現代社会にもありますが、もっと陰険な物でしたのでしょう、着物に縫い針入れて着せられれば針疑獄です。
>わずか墨筆位なもの、買い求めるほどの小銭も持ってはおらぬ。
>よって手習い遊ばすにも、ゴズイをといて墨の代りになさりたこともあれば、藤葛の根を噛み砕いて、筆の代りと遊ばしたこともある。
>この藤葛の筆を以て、お書きなされた名号を、「藤筆の尊号」という、大和の教行寺に一幅、加賀の国にニ幅残っておるそうである。一を以て万を知れと、凡て何もかもそういうふつつかなこと、かかる哀れな有様で御育ちなされたが、八代目の善知識じゃ。
>
>・・・・「然るに私は十七歳の今日まで、得度もすまず仏門の学問もせず、あだに月日を送りておること、実に残念に存じます。然れども父上様に於いてはこの場合余に御払底の御難儀をなされてましますから、どうも気兼ねで遠慮で、今日まで何とも申し上げませなんだ、つくづく思い回して見ますれば、私の得度が一ケ年後れましたら、仏法弘通も一ケ年後れます。私の学問が一ケ月延びましたら、衆生済度も一カ月延びまする、そこを思えば私の心は駆け馬の鞭、急いで々叶いませぬ仰ぎ願わくば一日も早く、先例に任せて、粟田口にて得度を済め、叡山にて学問修行させて下さいませ」・・・・

叡山にお登りの蓮如様・・着たきりの何年ものご修行,同輩の者から、臭くて乞食坊主となじられ比叡山の北方の一角に追い出されむしろ掛けの御難な修行,金森道宗様がお尋ねの居り余りの変わり様にて我が着ていた着物引き換えにお茶や、にぎりをお与えになり感涙の涙で帰られたこと出てましたね。比叡山に団体様と訪ね北の蓮如堂(今も粗末な御堂〕訪ねました往時思いだし涙で声にもなりませんでした。
>法然上人は勧覚坊徳行阿闍梨を、取親として叡山にお登りなされ、御開山は伯父御の範綱卿を養父として、登山出家を御遂げなされた。・・・・・
>さて継母君の兄御、広橋中納言を取親と頼み入れに相成た、蓮如上人粟田口青蓮院の禅室に入らせられた、・・・御実名は父御の存如上人が、観音変化の貴婦人より、蓮華の一茎を授からせられ、貴僧一子を設け玉わば、これを以て名とせよの、御指図もありたることなれば、その由来を以て自ら蓮如と名乗らせられた。
>
観音変化から頂いた蓮の一字やはり尊い人は違います。あり難い事です.南無阿弥陀仏・

●re.15
菩提心
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[ 99 ] Re14:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/23 (Sat) 08:28 △up ▽down
この道探し尋ねて歩く時、色々なお寺のご住職と御縁を頂いた。

お手紙を差し上げたり、メールを差し上げたり、直接、尋ねて行ったりもした。
皆さん、大変喜んで下さった。

色々な親鸞会で聞いて来なかったお話を沢山して下さったので、ただパソコンを最初眺めていた時よりも、直に、仏教のお話を聞けるのがとても新鮮であった。

しかしお手次のお寺に過去帳を見せて頂こうと、事前に電話を入れて、お伺いした時の状況は落胆の一語である。
まず、もう弟が県外に行ってしまって、地元のそのお寺と疎遠になっていたからかも知れない。
菓子箱を、お仏壇にお供えしようと、仏壇の前に行ってびっくりしてしまった。
御仏花は、枯れてしまっている。仏壇の中は埃だらけであった。
通された部屋は、机の上も、うっすらと埃がかぶってあった。

私と息子が夢を見て、どうしてもご先祖の供養をしたいと言ったら、
「浄土真宗ではそのような迷信は信じておりません」と断られてしまった。
私達を、そのまま部屋に置いて、さっさと外に出て行ってしまわれた。

やむなく外に出て、そのあたりを眺めていると、ひときは大きなお墓が目に入った。
私は、そのお墓の南無阿弥陀仏の六字が、吉崎御坊で見ていた、蓮如上人の六字の筆跡と同じなので、すごい信心深い人もいるのだと、小走りに眺めに行った。
とてもガッカリした。
小さなお墓に囲まれた中心にあったのはそこの住職の墓だった。まだ建って新しかった。
その情景を見て、先ほどの私達への態度も考えて、この寺とは縁が切れて良かったのだと思った。

私は、親鸞会で本願寺云々と聞かされてきたけれど、全部が全部ではないけれど、当っている所もあるんだと知った。

奇瑞の話を、百年前には、本願寺の説教でもお話されておられたのに、全く迷信の一言で片付けてしまわれる。
西本願寺の御影堂の修復も終わり、50年振りに黄金の輝きを再現されたという。
黄金の輝きもいいけれど、世界平和を叫ぶのもいいけれど、どうして過去の先達方の御著書を読んで、真宗を再現しないのだろう。

私は、友達の家で、御文章を見せて頂いた事がある。
80通全部載って居なかった。(本願寺から頂いたものだと聞かされた)。
又、本願寺聖人親鸞伝絵(御伝鈔)においても、不拝読と言って、上下巻の五段は省くそうだ。
私は反って興味があって拝読させて頂いた。
成るほどなと思った。
「真宗の肝要・念仏の奥義」「見る者諭り易し」とか
「今比、いにしへ口決をつたへ面受をとげし門徒等」「唯有浄土一門可通入路」などの
説明は、出来ないのだろうと思った。
ここは、次第相承の善知識様より、お聞きして、一味同行になって知らされる場所だからだ。
今度、友達宅に行って、御文章の何処が抜けているのか、探してみたいと思った。
『往生の鏡』である、御文章は、どこもかしこも、ただ私達の後生を案じて書かれているのだから、一つも省かれるものではない。

私は、親鸞聖人さえも明治時代に清沢満之によって、世に知られるようになったと知った。
又、親鸞会では、法然上人が浄土宗の開祖で、親鸞聖人は、だから真の字を付けられて浄土真宗の開祖だと聞いていたので、善導大師→法然上人→親鸞聖人→蓮如上人、その他次第相承の善知識の法脈、血脈の流れがある事も知らなかった。

凡ての歴史が正しい訳でないと思う。
その当時、その当時の学者、研究者はおられても、浄土の道は真実信心を得て、顕かにされてこそ、私達の道も間違うことなく、極楽浄土に往けるのだと思う。
知識で往ける道ではないから、
法然上人も「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じて智者の振る舞をせずして」とか
親鸞聖人も「末法悪世のかなしみは、南都・北嶺の仏法者の輿かく僧達・力者法師・高位をもてなす名としたり」
蓮如上人も「八万の法蔵を知るといふとも、後世を知らざる人を愚者とす、たとひ一文不知の尼入道なりといふとも後世を知るを智者とすいへり」
とお示し下される。

「自力作善」「自損損他」「自障障他」の意味をどのように捉えるのだろうか。

静かに、しかし確かに、法滅の日まで、この教えは脈々と途切れることなく、宿善開発の人を待って居られるのだと思う。それが阿弥陀仏の大慈悲心だと思う。
決して、強制する道でもなく、その人その人の仏縁を温かく見守って下さっているような気がする。

●re.16
菩提心
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[ 100 ] Re15:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/24 (Sun) 10:53 △up ▽down
第七席
登山学問中本山と蓮師と音信普通に付き、弥七諸家中を叱るの弁
上人を労りて弥七登山するに付き、妹妙三麦粉青茶の支度をする弁
亦た両人裏は反古にして、綿の替に麻屑を入れたる着物を拵えて、上人へ送るの弁

・・・・「この浄土真宗がなかりたら、私らがような浅ましい女の身は、無間地獄へずだ走りするより外に仕様がない。それに宗旨も多い其の中に真宗では女子が正客。それほど尊い本願を聞かせて下さるゝために、五年の間も喰わず飲まずの御学問。
青茶くらいのお見舞はお恥ずかしい次第じゃが、それでも貧乏なら仕様がない。
・・・これが則ち貧者の一灯というもの。品はわずかに青茶が一袋にハッタイの麦の粉一袋、けれどもその功徳は長者の万灯にも勝るであろう。
この金ケ森の弥七は音にも名高い同行、後に蓮如さまの御弟子となりて法名を道西と頂いた。・・・・弥七妙三の道心堅固の話を聞くにつけても、お互いに法のためなれば大小にはかぎらぬ。

(貧者の一灯のお話はよく親鸞会でも聞いてきたが、こういう御説法を初めて知って、私はとても感動した)

お釈迦様がある時、御鉢に御出まし遊ばした所が路の傍らに四、五人の幼子が遊んで居る。砂を集めて小砂の極々立派な分を米と名づけ、荒い所を麦と名づけ、木や竹を以て庫の如きものをこしらえ、その米と名づける小砂を庫に収めるという遊びごとじゃ。そこへ釈迦如来が通りかからしゃりた。その時一人の子が仏の相好円満の御姿を見るなり、子供心にもアー勿体無いと思うたか、大地にべったり座りて可愛らしや。紅葉のような手を合わせ、ややしばらく拝んでいたが、その大切なる米と名づけし小砂を両手ですくうて、「へい如来さんこれをあげましょう」と言うて差し上げた。
如来さまはニッコと微笑みを含ませられ、「アーようこそ呉れるかたじけない、こりゃ、坊よ好子じゃなー」と言いつゝ、頭の髪を撫で御鉢をお受け遊ばした、その小砂が、あなたの御鉢に入るなり、不思議なるかな。結搆清浄なる米と転じた。お弟子方に向はせられ、あの粗末な砂もあの幼子のためには、大人が金銀米穀を大事にするが如く。おれに供養を致したゆえこれを見よ、これ砂は転じて米となりた。
この福徳空しからず、あの子一人は次生再び人間と生まれ、今おれに大切なる砂を供養致したる大善根力によりて、一国の大王となるぞよと仰せられたことが御経に説いてある。
思うてみなされ物がらは砂にもせよ、くれ手は子供にもせよ、アー貴い如来様と仏の相好円満のお徳に感じて、大切な砂を供養したその善心は、次生一国の大王と生るゝ善因縁となりた。
体は幼い子供にもせよ、その志の殊勝さは中々六十七十の爺婆も叶わぬ程の事。
これまた長者の万灯より貧者の一灯というもの。

●re.17
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 101 ] Re16:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/08/26 (Tue) 02:48 △up ▽down
菩提心 様

いつも御書き込みありがとうございます。

しばらくネットへの接続が不安定だったのですが、ようやく接続が安定しました。(あれこれ設定を直していたのです。)

貧者の一灯、本当ですね。

そこにこもる気持ちこそが、真実のお布施であるからだと思います。

そして、最大の布施こそが、無上善たる一念帰命であると思います。

徳の面からすれば、貧乏にも貧乏な私です。

その私の一灯を、如来はバカにせず、受け取ってくださいました。

尊い限りです。

南无阿彌陀佛

●re.18
菩提心
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[ 106 ] Re17:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/03 (Wed) 05:38 △up ▽down
第八席
蓮師筵ろ屏風のわび住居、芝の煙りを立て、菓(このみ=木の実や果実)の食事をなして北谷に御学問のとき、弥七青茶麦粉を持参して対面す、図らず悲歎の涙に咽ぶの弁

蓮如上人十七歳の四月十日叡山へ御登りなされ、東塔南谷無動寺の僧正を師匠と遊ばし、五年の間の御学問、御払底の御本山御召替もないゆえ、夏冬共に一枚の着物、外のお弟子方「蓮如はくさい々」と云うて、謗っしゃる、そこで蓮如さまも今は大衆の前を憚からせられ、御いたわしいや、山の交わりをトンとお止めなされ、北谷へ向けてお越しなさりた。
さて、金ケ森の弥七、十一月の二日蓮如様をお見舞に叡山へ登る。・・・・
行て見りゃ叡山三千坊のあまたの寺方、乱世の時とは云いながら、十二万石の知行所なれば、御払底の御本山とはトントことが違い、巍々堂々たる勢い、段々とあちらこちらを見物して回り、なお学問して御座る御方々の室を覗いてみれば、各々皆錦き緞子(どんす)の布団の上で、朱塗りの机に金屏風、台司に鉄瓶、上茶や上菓子を構え茶器を揃え、床には草木の花を活け、立派な香炉に沈香の煙りがポーリ々々クスリ居る。実に栄耀栄華の有様。・・・・
本願寺のあの貧乏たれがと、謗られたまうほどのことならさぞや御難儀なさりて在すに違いない、五年の間も音信不通。こんな結構な日暮しして御座る、一山の大衆とお付き合いの出来ぬは御尤も、そうこそあろう、あなたの御難儀は兼ねて腹の虫が知せて居る、アー恐れおおいや御いたわしや、さすればもう一時も早く北谷へ向けてお尋ね申そうと、又弥七は気違いの如くになって北谷に越しました。
素より北受けの所なら寺もない家もない、アー上人様はどこにどうして在すやら、谷へ下り手見たり峰に上りてみたり、道に尋ねる人もなし、ただ耳にふるゝものは林にさえずる鳥の声。・・・・
尋ねる内に、向こうの谷合いの大木の下に獅子小屋がある。ポーリ々煙りが立っておる。よしあそこに誰やら居る。一つ尋ねて見よう、それからそこに行き、こもの破れから覗いて見れば、若い御出家がただ独り、色青ざめにやつれさせられ、髪をのばしていがぐり頭。破れ机の上に書物を開いて一心に学問してござる。そのそばに土の手鍋に小石のくど、茶碗が一つに箸が一膳、土瓶の下には木の株いがポーリ々ふすりおる。弥七はまだ蓮如様とは露知らず。ひょいとこもをはぐりて「ちょっと、お頼み申します、私は京の者、若し御出家さん、あの本願寺の蓮如というお方がこの北谷に在すとかいう事、あなたは御承知ではございませぬか」ヒョットこうねじむかっしゃった。「本願寺の蓮如とは恥ずかしながら、おれじゃぞよ、ありゃこれその方は弥七ではないか、久しぶりじゃなー」とおっしゃた。弥七はビックリ仰天。アー上人様で御座いましたかというなりバッタリそこに打ちたおれ、物をも言わず、暫らくは泣いてばかり居りたげな。

●re.19
愚老
北陸の男性
[ 107 ] Re18:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/03 (Wed) 06:59 △up ▽down
菩提心さま
・・・・以前尋ねた北谷、小さな蓮如堂思いだし・・・・・
書けません・・・涙

●re.20
菩提心
非公開の非公開
[ 110 ] Re19:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/04 (Thu) 05:55 △up ▽down
愚老様

私、そこを尋ねたことが有りませんが、今でもそうなのですか?

私は、この御著書を書き写しながら、どこを削除しようか迷いながら書きました。

本当は、全てを書き写したい思い一杯です。

親鸞聖人の衆生済度や御一生のお姿は、親鸞会を始め、よく著名人が本に著しておられます。

私は、初めてこの御著書を拝読させて頂いて驚いたのは、百年前に、本願寺でこのように御説法されていたことと、蓮如上人が親鸞聖人の再来と書いてあったことです。

そのような根拠をお示しの御著書は、まだ私はこれ一冊でしたので、ここよりの引用になってしまいます。

でも、書き写すだけで、その時の状況が想像できて、もう涙が止まりません。

あるところのHPのコメント欄にも書きましたが、

私は、親鸞会で聞いていても、親鸞聖人や、蓮如上人を心底有り難いと思ったことはありませんでした。
ただ、勉強して知識を得ていただけだと思います。

しかし、前の会で知り合ったおじさんから、
あちらこちらの、ゆかりの地を案内されていたお陰で、その御苦労が実感できました。

そのおじさんが案内してくれた場所は、有名な場所では有りませんでした。
小さな碑だけがポツンと残っているような場所でした。
本にも載っていない場所でした。(もう一度行けと言われても行けません)

かの有名な吉崎の嫁脅しの場所は、まさに廃屋でした。
おじさんの話では、もっと前は整っていたそうですが、その時、寄せて頂いた時は、竹が家の中から生えていて、玄関先にも行けない有様でした。

又、ある所の家が処分されるということで、同じように前の会の別な方が尋ねたところ、
蓮如上人が吉崎におられた時の版木が出てきたそうで、見せて頂きました。

このように、探せば、色々と出てくるような土地柄でしょうが、
おじさんが言われるように、今は末法の時代だからね。仏法を信じる人は少ないだろうとおっしゃていましたが、そのような中で、親鸞会から縁を得、そして今真実信心を頂けたのも、蓮如上人のお陰だと思っています。

私は、そのおじさんが亡くなったら、そういうところも消えていってしまうのだろうと思っています。
そういう点では、そのおじさんと御縁頂き、有り難いと思っています。

少しずつでも、蓮如上人の威徳を偲びたいと思います。

●re.21
愚老
北陸の男性
[ 111 ] Re20:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/04 (Thu) 07:17 △up ▽down
菩提心さま
色々蓮如記一代お書き下さって,過去あちこち訪ねました。今年も兄弟会で盆行事で蓮如様が静養された山中温泉の由緒の寺寺も,比叡山には年間何十万否,何百萬人の観光客が来訪されますが多分法然堂,蓮如堂までお訪のお方は少ないと思います。蓮如堂と言っても小さな御堂です。
北谷の冬は叡山でも最も厳しい所と思います。当時のむしろ掛けの生活を思うと本当に頭が下がります。ご苦労のお蔭あったらこそ、尊い御文が出来末世の我々が弥陀の金言釈迦の直説と喜ばせて頂けます。北谷と言えども春は来ます、ウグイスが鳴いて法聞け法聞けと蓮如様も癒されたと思います。

>私、そこを尋ねたことが有りませんが、今でもそうなのですか?
http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/enryaku-ji.htm

>私は、初めてこの御著書を拝読させて頂いて驚いたのは、百年前に、本願寺でこのように御説法されていたことと、蓮如上人が親鸞聖人の再来と書いてあったことです。
>
>そのような根拠をお示しの御著書は、まだ私はこれ一冊でしたので、ここよりの引用になってしまいます。
>
>でも、書き写すだけで、その時の状況が想像できて、もう涙が止まりません。

吉崎御坊の嫁おどしの場所は今度訪ねて見たいと思います。これからも蓮如記一代楽しみに読ませて頂きます宜しく願います。合掌。

●re.22
菩提心
非公開の非公開
[ 116 ] Re21:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/09 (Tue) 05:13 △up ▽down
re.18の続き

・・・これもひとえに衆生済度の御方便、誰あろう本願寺の大法統、御開山より八代目をお継ぎなさるゝあなたさまが、いかに時とは言いながら、月漏る埴生の小屋の下。筵ろ屏風のその中で、勿体ない、荒ごもの上にお座りなされ、土の手なべに小石のくど(かまど)、柴の煙りをおふすべなされ、草木の菓みをお上がりなされ、非人乞食にも劣り果てたるこの有様で、御学問なさりて下さるゝも私故でございまする。

当時、絶え絶えの浄土真宗。追っ付け、これを引き起こし、お流れ汲んだ御門徒を、花の京の御浄土へ連れて帰りてやりたいの、お慈悲の上の御艱難、ヤレヤレ恐れ入りまする。
ア〜邪見慳貪なこの奴が居りませずばかくまでの御難儀はあけかけますまいものー。私、済度の御苦労と万々お察し申しますと、弥七は再びそこにひれ伏して、狂い回ってご挨拶を申し上げた。

蓮如様は「これこれ弥七よ、この身のことを歎いてくれな。今年でもはや五年間不自由な癖がついて、今では吾身は何ともない。ただ、明けてもくれても苦になるは父上様の御身のこと、乱世の折柄なれば御払底の御困難。尚、女の浅い心から母者人の仕方が悪い。彼につけこれにつけ父上様には実に非常の御心配をなさりて在すであろうかと、夜の夢にもうつつにも唯そのことが思い出されて、御いたわしゅうて叶わぬわやい。ちょっとご機嫌伺いに帰って見たいは山々なれど、母者人の憎まれ子継子となった悲しさには、ちょっとでもおれが本山に帰ると御かかさんの機嫌が悪い、そうすると又、御ととさんの機が痛む。これを思い彼を思うて五年の間これ弥七、御真影様へも父上様へも、おおきに御無沙汰申した訳じゃわい、この義は万々推量せよ、どうぞそなたもこの上は父の御心の休まるよう、お世話申し上げてくれよかし、こりゃ弥七おれが一生の頼みはただこれぞよ」と涙ながらに山々の御物語。

「・・・最初この叡山に来た時は、御師匠より度々米の御まゝも頂き、又大衆方の小使いをして、少々の小銭も貰いおりたが、一年ニ年と立つうちに着物は破れる垢はつく。蓮如はくさいと大衆方が嫌わしゃっる。それより五穀は夢にも見ず、草木の菓みでようやく命をつないで居た。然るに今日は五穀の中の煎り麦の粉こりゃ、弥七、七五三の御馳走に出合うた心地がするわやい」と誠にお喜び遊ばした。
さて妙三がくれた茶を上人自ら煎じさせられ、はったいの粉を御自身も御上がりなされ、弥七にも手自らお勧めなさりた。弥七は、あ〜有り難い、勿体ない。本願寺第八世の大善知識より、手自ら授かるこの御茶こそ、極楽の阿弥陀如来より、百味の御食を直々に頂戴するも同然と押し頂いて喜んだ。

蓮如様が青茶麦粉の見舞をまことにお喜び遊ばしたので、その由来を以って、弥七は自分の存命中、年々蓮如様へ青茶の御取持を致しおりた。又この弥七は後に出家して道西と法名を頂いた。この道西の寺は金ケ森の立善寺なり、この寺より毎年二月廿八日に御本山へ青茶をお供え申し、そのお下がりを持ちかえり、有志の同行相集り、お茶相伴講という講を組んで、その茶を煎じて飲み、蓮師登山御難儀の御恩を思い浮かべて、大切に法義相続する例式を行い居たという。

http://www.netwave.or.jp/~shinsyu1/anrakuji/bukken301.html

若し、他に愚老様、御存知の事有りますか?

今も、このような御説法が続いていたなら、もっと、蓮如上人の偉大さが分り、御文の有り難さも分るのでしょうね。

この箇所を書き写しながら、ついつい娑婆の姿の善知識様を思い、救われた有り難さを忘れていた事が恥ずかしいと思いました。

還相廻向されておられる善知識様、有り難いですね。

●re.23
愚老
北陸の男性
[ 117 ] Re22:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/09 (Tue) 08:16 △up ▽down
菩提心さま
蓮如聖人一代記の比叡山でのご苦労の続き読むたび感涙致します。
金ケ森の道西(弥七)さまのお心も身に沁みる尊い妙妙人のお方でしょう。
青茶、麦粉,頂かれた蓮如様・・・小さい子供頃・鹿の子の小袖を持って去られた母から頂いた
恩食思い出され・・久しく美味い、美味しいと叫ばれたと思います。
父思い、継母との中まで考えると帰れない比叡山の生活・辛いね。

>蓮如様が青茶麦粉の見舞をまことにお喜び遊ばしたので、その由来を以って、弥七は自分の存命中、年々蓮如様へ青茶の御取持を致しおりた。又この弥七は後に出家して道西と法名を頂いた。この道西の寺は金ケ森の立善寺なり、この寺より毎年二月廿八日に御本山へ青茶をお供え申し、そのお下がりを持ちかえり、有志の同行相集り、お茶相伴講という講を組んで、その茶を煎じて飲み、蓮師登山御難儀の御恩を思い浮かべて、大切に法義相続する例式を行い居たという。

当地では今も続いています。バタバタ茶の謂れ。「真宗本願寺第8世蓮如上人が文明4年(1472年)新川郡清水に堂宇を構え説法す」の記録があり、説法にともなう、酒・飯・茶の一つとして、既にこの地、富山県朝日町の蛭谷(びるだん)地区で飲まれています黒茶を利用した茶とされています。
http://homepage2.nifty.com/TEA/batabata.htm
又続きのお謂れ楽しみです、

●re.24
菩提心
非公開の非公開
[ 119 ] Re23:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/13 (Sat) 03:16 △up ▽down
第九席

弥七登山のとき継母君をざん言して、蓮師より叱りを受るの弁

・・・・一宗の大法統と御成り遊ばす御新発意がこの有様は何事なるか、これに付ても恨しいは継母君、どうした無慈悲な仕方であろうか、こんな邪見な女がようもようも天下(あまがした)にありたことヨ。
サテモ悪人サテモ悪性と蓮如さまが労しさのあまりに、前後不覚に大音あげて継母君を謗り、嘲りた。

ところが、上人それを御聞き遊ばし、直ちに顔色をお替えなされ、「こりゃ、弥七何事を言うか、口は禍の門、舌は禍の根と。古人が書き残して置かれたが、今その方が述べるところ全く禍の門なり、禍の根なり。
思うて見よ、天にも地にる俺が為には、取替えのないたった独りの大切な母君。それを失礼千万サテモ悪人、サテモ悪性とは何事か、念佛称えるその口で、そんな悪口して済むか、佛祖の御冥見が恥ずかしゅないか、以後はきっと慎めよ」と厳しくお叱りになさりた。

弥七は、ハッと両手を付いて頭を下げ、「恐れ入りまして御座いまする、相済まぬことを申しました御堪えなさりて下さいませ」と、厚く御断りを申し上げた。

上人重ねての給うようは、「こりゃ、弥七、蓮如がこんな情けない目に逢うも前業の所感なれば仕様がない、決して母者人を恨んでくれるな、恨むべきは吾身の前生。世の中の人にあしきがあらばこそ人のわろきは吾がわろきなり」」と、口ずさみ遊ばして、今生の善悪は過去の宿業による、何事も前生の約束。決して人を恨むものではないぞよ」と御ねんごろに御教化遊ばした。

実に祖師の再来たる蓮如様は、御互いとはとんと心の置き場が違いますわい。こんな話を聞くにつけてもむやみに人を憎むの、謗るの、嘲るのという悪心を起してはならぬ。
お互いになるだけ慎ませて貰いましょうぞよ、世の中になる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍、然るに世間を御ろうじ、姑の仕方が悪いと云うて、嫁が余所の他人に小言を繰るやら、嫁の心得がようないと姑が隣に行き聞いて貰うやら、或いは、人の身の上に針ほどの過ちがあれば、それを棒ほどに大きにいいなして、その人の恥を世間に広める。謗りたり、謗られたり、恨みたり、恨みられたり、実に犬猫の寄り合い、畜生同然の哀れな有様。
蓮如さまは継母君のために、非人にも劣る情けない目にお逢いなされながら、母君のことを怪我にも悪口は仰せられぬ。またその上に弥七がサテモ悪人、サテモ悪性と、あなたへひいきの余に一言母君を謗りたら、却ってあなたの思召しに叶わず厳しく御叱り遊ばした。

●re.25
愚老
北陸の男性
[ 120 ] Re24:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/13 (Sat) 07:06 △up ▽down
菩提心さま
久しぶり、蓮如ご苦労の一代記・拝読致しました・
矢張り尊い人は尊いね。
幼子の蓮如さまへ着物も六々に御着せなさらぬ。食事も十分には差し上げ玉わぬ。或るとき食物に毒を仕込んで毒害に仕掛けられた。・・・・
着物の綿の中に数千本の絹針の折れたが仕込んである
このような恐ろしい仕打ちにもかかわらず、心開かれ弥七の悪口を戒められ継母君を心されるとは・・
今世間・・子供投げ捨てて殺す。食事も与えない餓死させる。暴力、
親を・・・家ごと焼き殺す。バットで殴り殺す。刺し殺す.首絞める
人に・・・ナイフで刺し殺す、殺してミンチにする。重石つけて沈める。轢き殺す。
因果と言え、情無い世の中恐ろしいですね。

●re.26
菩提心
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[ 121 ] Re25:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/14 (Sun) 05:48 △up ▽down
愚老様

でも、みんな知らず知らずに犯している罪でもあるんだと思います。

私、今でも、絶対忘れられない事件が有ります。
それを云うと、妹は「もう辞めて」って云うのですが、あの女子高生を生きたままドラム缶に押し込め、殺害した事件です。
私は、去年、インターネットで改めて読んで、その内情の凄さに身震いしました。

私は兎を飼っていました。
東京行きの高速バスの中のニュースで、三人の高校生が、一羽の兎をすり鉢状の場所に連れ込んで、逃げる兎を執拗に追いかけて殺したのです。

東京に行くまで、女子高校生とその兎の姿が同じ様に思えて、心が張り裂けそうでした。
その中の、誰か一人でも気付いて、勇気を持って止めていたら、
この女子高生も、その兎も命があったかも知れません。

でも、それを過去世の悪業の結果だと言ってもいいのでしょうか?
私達の目に見える、善行や悪行は、今生ばかりでないと思います。

せめて、気が付いたら、一日も早く改めてやり直そうとする方が尊いと思います。

このような殺伐とした世の中だからこそ、
仏と縁があった私は、とても有り難いです。

そして、ここで、愚老様の御言葉を頂けることが、有り難いです。

●re.27
菩提心
非公開の非公開
[ 122 ] Re26:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/14 (Sun) 06:10 △up ▽down
弥七着物を脱いで上人に奉る。上人釈尊並びに祖師御苦労の事を述べて辞退したまう。妙三之を聞きて氷の池に飛び込み弁

・・・・・「こりゃ弥七、身を大切にしても少し生きて居りて呉れよ、追っ付け本願寺へ帰り、力有りっ丈衆生済度して見せる、この時蓮如が片腕となるはその方が一人、その方も大切な身じゃ、風邪を引いて病気でも起してはならぬ。着物は要らぬ、着て帰れ」と仰っせられた。・・・・

「こりゃ弥七思うて見よ。その方は娑婆執着の在家の身、おれは今学問修行の唯中、他宗で言わば仏道修行の真っ最中じゃ、昔釈迦如来悉達多太子と申した時、檀特山にて苦行楽行十二年、別して阿羅々伽羅々という二人の仙人に御事へなさりたその時は、藤葛の皮を経糸として織調えた御衣を召し、雪山の雪の中で六年間も凌がせられた。

又、我が祖師当山御修行のそのときは極寒の闇の夜に谷川の氷を打ち砕き水ご離を取らせられ、大乗院の観音の宝前において、末代有縁の法をお祈りなさりたは七夜の間だ。
又六角堂御通いの時は、寒風烈しき山嵐、雪や氷の鴨川を杖を力にお渡りなされ、「白妙のあけの血汐に染なすは思ふ願ひの叶ふしるしぞ」と道の雪が血汐に染むを御覧じては、衆生済度の好結果を御喜びなさりた。
その御苦労が百夜の間だ。彼れを思い、此れを思うてみれば、蓮如が身にまとう袷せ一枚も実に冥加に余る。
こりゃ、弥七、綿の入りたるものを着て、ぬくぬくと学問しては祖師の御苦労に対して恐れ入る。志は忝いが、おれは入用に無いから、その方着て帰れ」と仰せられた。

・・・我々は着たいままに着、喰いたいままに喰い、家の下で楽々と法を聞かせて貰うとは、何たる大悲のはたらきか、どうした我が身はしあわせものか・・・
あんたが着物を脱いで凍えちゞけて、それを御縁に善知識の御恩を喜ばっしゃりゃ、私も御恩を喜ばして貰いましょうと、直ぐに真っ裸になって、裏の氷の解けかけた池の中にザブーンと飛び込み、アーさむひナーアー、冷たいナー、これでさえ難儀なもの、上人様は寒風烈しき叡山北谷の雪の中で、破れ着物一枚着て、非人に劣る有様で、寒の極月を御しのぎなされ、御学問なさりて下さるゝも私ゆえでございます。

さてもさても御念佛を喜んだ、実に弥七と妙三は評していわば、御法義キチガイというてよろしい程の者。御恩が御恩と知られたらそうありそうなこと「一日三捨恒沙之身尚不能盡一句力」毎日三返づつ、恒河の砂の数ほどの命や身体を捨てても、一返聞かせて頂いた法の御恩が送られぬぞよと、摩訶止観という御聖教にお示しなされてある。・・・

★ 摩訶止観  https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/0112.html

●re.28
菩提心
非公開の非公開
[ 123 ] Re27:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/14 (Sun) 06:50 △up ▽down
・・・その年数は七年間、即ち文安四年の七月、蓮如上人三十三歳の御時迄なり、それより衆生済度の道が開けた、然るに大木が一本斃(たおる=(意)からだがやぶれて死ぬこと)るゝと、小木千本が一所に斃るゝが如く、或いは、一疋の馬が狂い出すと、千疋が騒ぎ出すが如く、御自身の御安心の勧め方に間違いがあると、日本の六十余州の同行が残らず迷う、それゆえ祖師の御安心の手渡しと、御自分の御安心と、割符が合うか合わぬか、聖者の指図に預かりたいとの思し召し。幸に石山の観音は吾が母の本地なり。祖師は六角堂の観音に告げに依りて、肉食妻帯在家同時の身を崩して、末代衆生の御先達をなさりた。

吾は石山の観音より、他力安心の保証を預かりたいと、三日三夜石山寺に御籠りなされ、祖師相承の宗義と、吾が勧むるところの安心と、割符が合うか合わぬか、慥(たしか=(意)そそくさと急場をつくろう気持のこと)に保証したまへと心に念じさせられた。
ところが不思議なる哉。
三夜に満ずる暁に、異香四方に薫じ渡りて、ゾッと身の毛イヨ立ち来れり、蓮師奇異の思いをなしたまい、何事ならんと、待って御出で遊ばしら、何(いづ)くともなく年頃十八、九とも見ゆる、気高き女姓一人忽然と現れたまい、「師は何くの人なるか」とお尋ねなさりた。

蓮師は「エー、私は本願寺の蓮如と申す僧である」とお答えなさりた。
「如何なる心願ありてこの山に籠りたまうか」と重ねてお尋ね。

「私は本願寺第八世の住職となりて祖師相承の安心を弘めんと欲す、然るにその相承の宗義と、吾が勧むる所の安心と、符号するかせざるかの保証を取らざれば、末代衆生の疑いの闇晴れ難し、故に大悲観世音に向てこの義を上願する者なり」とお答えなさりた。

「いかにもそぞか、然れば今は何をか包むべき、吾れは観音変化の女性にして則ち汝が母なり」
蓮如さまはびっくり遊ばし、
「あ〜懐かしや母上様か」と両手をついて畏まり在した。

女性のたまうは、「吾れ観音に代りて、汝が勧むる所の安心を試に問う、先ずその宗祖親鸞聖人一流の御勧化の趣は何と勧めらるるか」
蓮師答えて
「信心を以って本とせられ候なりと勧めます」
女性問うて、
「その信心はいかように説き諭して愚かな凡夫へ得心させるか」
蓮師答えて
「諸々の雑行をすてて一心に弥陀に帰命すれば不可思議の願力として佛の方より往生は治定せしめたまう、さとして聞かせます」
女姓問うて、
「その信心決定の位い取りはいかがさとさるるか」
蓮師答えて
「一念発起の処に正定聚の位いに入るとさとします。」
女姓問うて、
「その上の、称名念佛はいかがさとさるるか」
蓮師答えて
「如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念佛とさとします」

その時、女性姿に踊躍歓喜の色を現したまい、口に柔軟大悲の声を発したまい
「あ〜嬉しや祖師相承の宗義、今汝が勧むる処の安心に露いささかも相違なし、然れば汝こそ真宗再興の大知識なり。
闇夜に燈火を得たるが如く、渡りに舟を得たるが如く、衆生済度に怠るべからず。
然ればいよいよ吾が大願ここに満足せり」と、告げ終わりてかき消す如く消え失せたまいた。
その時、蓮如さまは覚えず知らず、大音を挙げさせられ
「あ〜、嬉しや、勿体無い、今の女性は紛れもなく観音の変化、吾が母君でありた。
闇夜に燈火渡りの舟」と喜びたまいしは、全く吾が勧むるところの安心は、大悲観世音の御心に叶い、宗祖親鸞の御意に符合する保証に立ちたまう。

然れば、いよいよ真宗相承の他力安心の門開き。
衆生済度の吉日良辰なり。

さても嬉しや、嬉しやと身の置き所もなく御喜び遊ばした。
それから、大谷本願寺にお帰りなさるる。その途中に於いて、金ケ森の道西にお逢い遊ばした。
道西は道の傍らに両手をつき、「いやこれはしたり上人は早朝より何方お越しなされましたか」とお尋ね申したら、蓮師されば「祖師相承の宗義を取り調べのため、三日三晩石山の観音に懇念をこめた。然るにこりゃ道西喜んでくれよ、吾が勧る処の安心。祖師相承の宗義に、紛れもなく符合せり、その保証のため観音変化の女性一人、則ち吾が母君、忽然と現れたまい」。
かようかようと、委しくことの様子をお話遊ばしたら、道西は横手を打ちて、「ほんに左様でございましたか、然れば、数多の門徒疑いなく慮りなく、速やかに祖師相承の安心を頂戴して、目出度く安養浄土の往生を遂ぐるで御座いましょう、さすれば一日も早く、この御趣意を一通の御文に御認め下さりて、有縁の門徒に聞かせてやって下さいませ」と、道西はそのまま、上人を我が家にお迎え申した。
蓮師御年三十三歳文安四年七月。金ケ森道西が宅において御制作なさりたが、あの「聖人一流の御文章」である。

至て短い御詞ば、覚えのエー御衆は覚えておりなさるで有ろう、しかし様子を知らねば、御趣意の有り難さも分らぬでありましょう。
八十余通の御文章何れも愚かはなけれども、別してこの御文は蓮師、観音の宝前において、祖師相承の宗義を御正しなされ、観音変化の母君より、一々御試験に御逢いなさりて御作りなさりたのじゃ、故に之を【ニ尊合体の御文】とも云う。
思うて御ろうじ、仏は三明六通無碍自在、内も外もお見通しじゃ、然るに仏と仏が現れて、問ひつ答えつ遊ばして、他力安心の趣きを、間違いないぞよ、紛れはないぞよと、御懇ろに御諭しなさりて下さるるのじゃ、そこでこの御文章をよく気をつけて聴聞してごろうじ。
則ち、ニ尊合体の御文なることは、愚か衆にも分るように御認めに相成りてある。

先ず、初めに聖人一流の御勧化の趣はと、御問いなされたら、信心をもて本とせられ候と。お答えなさりた。
その故はと御問いなさりたら、もろもろの雑行をなげすてて一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として佛のかたより。往生は治定せしめたまうとのお答え。
その位はと、御問いなさりたら、一念帰命発起入正定之聚とも釈しとのお答え。
その上の称名念佛はと、御問いなさりたら、如来わが往生をさだめたまひし、御恩報尽の念佛とこころふべきなりと、お答えなさりた。

浄土真宗祖師相承の宗義は、この御文章で残る所はありませぬ。
思い回せば勿体無い、往生浄土の物因の他力信心が大事な故、露いささかも違わぬように、問いて尋ねて下さりたのは誰か。観音変化の母君の女性。
それを答えて説いて諭して、下さりたのは誰か。

弥陀の化身の蓮如さま、問いし御方は大慈大悲の観世音、答えし御方は本師本佛の阿弥陀様。弥陀観音の大悲より問い手も仏、答えても仏。二尊合体して御製作なさりたが、聖人一流の御文なり。

★ようやく出てきました。
「割符」「祖師相承」の御言葉。
この御著書から、この御言葉を見つけた時の喜び、感激は今でも忘れません。
ジャンヌ掲示板を信じて、探して、今は親鸞聖人、蓮如上人と一味同行。
有り難いと思います。

●re.29
愚老
北陸の男性
[ 124 ] Re28:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/14 (Sun) 18:06 △up ▽down
菩提心さま
石山観音の化身、蓮如聖人のお母上は蓮如堂訪ねし折鹿の子小袖(宝物)拝観の時より存じて居りましたが・・
幸に石山の観音は吾が母の本地なり。
>その時、女性姿に踊躍歓喜の色を現したまい、口に柔軟大悲の声を発したまい
>「あ〜嬉しや祖師相承の宗義、今汝が勧むる処の安心に露いささかも相違なし、然れば汝こそ真宗再興の大知識なり。
>闇夜に燈火を得たるが如く、渡りに舟を得たるが如く、衆生済度に怠るべからず。
>然ればいよいよ吾が大願ここに満足せり」と、告げ終わりてかき消す如く消え失せたまいた。
>その時、蓮如さまは覚えず知らず、大音を挙げさせられ
>「あ〜、嬉しや、勿体無い、今の女性は紛れもなく観音の変化、吾が母君でありた。
>闇夜に燈火渡りの舟」と喜びたまいしは、全く吾が勧むるところの安心は、大悲観世音の御心に叶い、宗祖親鸞の御意に符合する保証に立ちたまう。
>
>然れば、いよいよ真宗相承の他力安心の門開き。
>衆生済度の吉日良辰なり。
>
>さても嬉しや、嬉しやと身の置き所もなく御喜び遊ばした。
>それから、大谷本願寺にお帰りなさるる。その途中に於いて、金ケ森の道西にお逢い遊ばした。
>道西は道の傍らに両手をつき、「いやこれはしたり上人は早朝より何方お越しなされましたか」とお尋ね申したら、蓮師されば「祖師相承の宗義を取り調べのため、三日三晩石山の観音に懇念をこめた。然るにこりゃ道西喜んでくれよ、吾が勧る処の安心。祖師相承の宗義に、紛れもなく符合せり、その保証のため観音変化の女性一人、則ち吾が母君、忽然と現れたまい」。
>かようかようと、委しくことの様子をお話遊ばしたら、道西は横手を打ちて、「ほんに左様でございましたか、然れば、数多の門徒疑いなく慮りなく、速やかに祖師相承の安心を頂戴して、目出度く安養浄土の往生を遂ぐるで御座いましょう、さすれば一日も早く、この御趣意を一通の御文に御認め下さりて、有縁の門徒に聞かせてやって下さいませ」と、道西はそのまま、上人を我が家にお迎え申した。
>蓮師御年三十三歳文安四年七月。金ケ森道西が宅において御制作なさりたが、あの「聖人一流の御文章」である。
>
>至て短い御詞ば、覚えのエー御衆は覚えておりなさるで有ろう、しかし様子を知らねば、御趣意の有り難さも分らぬでありましょう。
>八十余通の御文章何れも愚かはなけれども、別してこの御文は蓮師、観音の宝前において、祖師相承の宗義を御正しなされ、観音変化の母君より、一々御試験に御逢いなさりて御作りなさりたのじゃ、故に之を【ニ尊合体の御文】とも云う。
>思うて御ろうじ、仏は三明六通無碍自在、内も外もお見通しじゃ、然るに仏と仏が現れて、問ひつ答えつ遊ばして、他力安心の趣きを、間違いないぞよ、紛れはないぞよと、御懇ろに御諭しなさりて下さるるのじゃ、そこでこの御文章をよく気をつけて聴聞してごろうじ。
>則ち、ニ尊合体の御文なることは、愚か衆にも分るように御認めに相成りてある。
>
>先ず、初めに聖人一流の御勧化の趣はと、御問いなされたら、信心をもて本とせられ候と。お答えなさりた。
>その故はと御問いなさりたら、もろもろの雑行をなげすてて一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として佛のかたより。往生は治定せしめたまうとのお答え。
>その位はと、御問いなさりたら、一念帰命発起入正定之聚とも釈しとのお答え。
>その上の称名念佛はと、御問いなさりたら、如来わが往生をさだめたまひし、御恩報尽の念佛とこころふべきなりと、お答えなさりた。
>
>浄土真宗祖師相承の宗義は、この御文章で残る所はありませぬ。
>思い回せば勿体無い、往生浄土の物因の他力信心が大事な故、露いささかも違わぬように、問いて尋ねて下さりたのは誰か。観音変化の母君の女性。
>それを答えて説いて諭して、下さりたのは誰か。
>
>弥陀の化身の蓮如さま、問いし御方は大慈大悲の観世音、答えし御方は本師本佛の阿弥陀様。弥陀観音の大悲より問い手も仏、答えても仏。二尊合体して御製作なさりたが、聖人一流の御文なり。

>★ようやく出てきました。
>「割符」「祖師相承」の御言葉。
はい。上記のお言葉勿体無いやら、嬉しくて歓喜致します。知りませんでした。
蓮如様他力の教え利益のため教えを歪めた事や、金儲けを企む僧侶が真宗の教えを腐敗させてしまわないように蓮如様。九人の門徒に眞の教えを賜ったと聞いた覚え有ります・
其の内の一人が金ヶ森道西房と聞きました。
>この御著書から、この御言葉を見つけた時の喜び、感激は今でも忘れません。
>ジャンヌ掲示板を信じて、探して、今は親鸞聖人、蓮如上人と一味同行。
>有り難いと思います。
尊いことです.益々有り難い知恵頂きます。合掌

●re.30
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 125 ] Re29:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/16 (Tue) 00:08 △up ▽down
菩提心 様

>弥陀の化身の蓮如さま、問いし御方は大慈大悲の観世音、答えし御方は本師本佛の阿弥陀様。弥陀観音の大悲より問い手も仏、答えても仏。二尊合体して御製作なさりたが、聖人一流の御文なり。

ありがたいことですね。

これほどもったいないものをもらいうけ、しあわせの身にしていただいていること、つくづく感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.31
菩提心
非公開の非公開
[ 128 ] Re30:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/20 (Sat) 06:37 △up ▽down
第十席
関東、北国御巡回後、備後へ御下向の際、存如法主御病気に付き至急御呼び返しに相成る、而して父御の遷化((意)=高僧が死ぬこと)を悲歎したまう弁

蓮如上人文安四年三十三の御年より、大谷本廟において御勧化遊ばすに、道俗男女雲霞の如くに集りて門前市をなす。
その参詣のおびただしきことは、御釈迦様が忉利天((意)=六欲天の下から二番目の天、帝釈天がその中心に住み、周囲の四つの峰にそれぞれ八天がいる)へ御上りなさりて、一夏九十日の御説法を済んで、再び天竺へお帰りなさりた時も、かくやあらんという程の御繁昌でありた。
宝徳元年上人三十五の御年に祖師の御旧蹟を御巡拝なされ度思し召し、尚、辺鄙田舎の姥嬶に、南無阿弥陀仏の大法を説いて聞かせてやりたなら、さぞや喜ぶであろうと思い付かせられて、関東北国へ御下向の御支度。御供には教聞坊が只独り。御巡化の次第は、加賀の金沢専立寺、越前ニ岐の本誓寺、越中井波の瑞泉寺、越後の国分蒲原、鳥屋野、信州戸隠山の善光寺、関東、常陸等と御巡化遊ばしたが、大慈大悲の生如来、吾も々と涙を浮べてあなたの御徳をしたい、・・・・それより再び京こへ御帰りなさりて、京都地方の同行を御化導下さりた。

http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=2&pastno=0&vine=3&page=0#34
この場所を思い起こせそうです。

四十二歳の御時、下間丹後法橋が申し上げるようは、「エー上人の母公は石山の観世音菩薩に在せども、以前鹿の兒の御影を手に持ちて、御親子御別れのとき、吾が本国は西国備後なりと仰せらたとのこと、私、今つくゞ思うて見まするに、備後尾道浄土寺の観世音菩薩は、石山の観音の一体分身の霊像であるということ、然れば本国は西国備後なりと仰せられた全く尾道浄土寺のことに違いはございませぬ、依って上人において母御の本地を拝礼のために、尾道浄土寺へ御参詣なさりては如何でございましょうか、さすれば備後地方の同行も親しく御化導に預かりて、大きに利益を得る義でございます」と申し上げたら、上人誠に御満足に思し召し、「これ法橋そなたならこそ好うこそ云うてくれる、祖師聖人は関東北国のみ御経回遊ばして、西国地方へは御縁があらせられなんだ、おれは母の所縁を幸に、西国備後へ下向して母の本地に御礼をとげ、尚有縁の同行に法の話をして聞かそう、さすれば両手の花の幸じゃ」と仰せられて、直ちに御発足遊ばした。・・・・・

今一言申し置く、「こりゃ蓮如おれは生涯不徳なり、尚乱世の折柄にして思うままの化益が出来なんだ、おれが死んだら一時も早くそなたが本願寺の住職となり、真宗相承の安心を諭し、あまたの門徒の手を引いて、祖師の御跡を慕わせてくれよかし、臨終の遺言唯この事なり」と・・・
上は大聖世尊より初めて下は悪逆の提婆に至るまで逃れがたきは無常なり、誰が身にも無常の二字は逃れられぬ。終に六十二歳を一期として六月十八日に、父御の存如上人は念佛の息絶え終らせられた。
蓮如さまは消え入るほどの心地遊ばして涙の袖を絞らせられ、アー名残り惜しや、身は一つ、親子の愛念は凡夫の常、別して病気患いの時は必ず吾が子は懐かしいもの、父上様には御老体の死の病い、さぞやこの身を懐かしく思し召したに違いない、その父御の心底を察してみれば、お傍に居って十分に御介抱申しなんだが残念なこと、畳に喰いついて御歎き遊ばしたが、しかし六親眷属集りて歎き悲しめどもさらにその甲斐あるべからずが娑婆のならい、どうも仕様があらせられぬ。御丁寧に葬儀を行せられ、野辺の送りを遊ばして、父の尊骸は一天の煙りと上り、一塵の灰と消えておしまいなさりた。

御文5−16
「白骨の章」のくだりを拝読させて頂いているようです。
きっと、蓮如上人は、このような御心で御文を認められたのでしょうね。

●re.32
愚老
北陸の男性
[ 129 ] Re31:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/21 (Sun) 06:56 △up ▽down
菩提心さま、
蓮如上人の御苦労えお偲んで・・拝読させて頂きますと色々他方遠路に渡っての御布教、心に沁みます京から北陸路に至る所は随分蓮如さまの足跡訪ね喜ばせていただいて居りますが・
今度是非機会が有れば・・下記の所、
>四十二歳の御時、下間丹後法橋が申し上げるようは、「エー上人の母公は石山の観世音菩薩に在せども、以前鹿の兒の御影を手に持ちて、御親子御別れのとき、吾が本国は西国備後なりと仰せらたとのこと、私、今つくゞ思うて見まするに、備後尾道浄土寺の観世音菩薩は、石山の観音の一体分身の霊像であるということ、然れば本国は西国備後なりと仰せられた全く尾道浄土寺のことに違いはございませぬ、依って上人において母御の本地を拝礼のために、尾道浄土寺へ御参詣なさりては如何でございましょうか、さすれば備後地方の同行も親しく御化導に預かりて、大きに利益を得る義でございます」と申し上げたら、上人誠に御満足に思し召し、「これ法橋そなたならこそ好うこそ云うてくれる、祖師聖人は関東北国のみ御経回遊ばして、西国地方へは御縁があらせられなんだ、おれは母の所縁を幸に、西国備後へ下向して母の本地に御礼をとげ、尚有縁の同行に法の話をして聞かそう、さすれば両手の花の幸じゃ」と仰せられて、直ちに御発足遊ばした。・・・・・
   おだやかな
     瀬戸の波風
       御仏の
      慈愛に満ちた
         浄土寺
聖徳太子開創の中国地方屈指の古刹らしいね。
秘仏の十一面観世音菩薩さまは拝見叶わずとも・蓮如さま御母上縁の寺阿弥陀如来像初め聖徳太子三尊像等多くの宝物が保存されて居り・・・
是非、訪ねて参拝させて頂きたい思いです。

>上は大聖世尊より初めて下は悪逆の提婆に至るまで逃れがたきは無常なり、誰が身にも無常の二字は逃れられぬ。終に六十二歳を一期として六月十八日に、父御の存如上人は念佛の息絶え終らせられた。
>蓮如さまは消え入るほどの心地遊ばして涙の袖を絞らせられ、アー名残り惜しや、身は一つ、親子の愛念は凡夫の常、別して病気患いの時は必ず吾が子は懐かしいもの、父上様には御老体の死の病い、さぞやこの身を懐かしく思し召したに違いない、その父御の心底を察してみれば、お傍に居って十分に御介抱申しなんだが残念なこと、畳に喰いついて御歎き遊ばしたが、しかし六親眷属集りて歎き悲しめどもさらにその甲斐あるべからずが娑婆のならい、どうも仕様があらせられぬ。御丁寧に葬儀を行せられ、野辺の送りを遊ばして、父の尊骸は一天の煙りと上り、一塵の灰と消えておしまいなさりた。
>
>御文5−16
>「白骨の章」のくだりを拝読させて頂いているようです。
>きっと、蓮如上人は、このような御心で御文を認められたのでしょうね。
親鸞聖人さまも幼少の時ご両親を亡くされ・・嘆異抄・五條、父母孝養の為、云々
蓮如さまもお文白骨の章・人、無常の想でお書き残された一行
蓮師さま自身のお父上の御老体、死の病・感涙の思いで一行、・・・無常ですね。
時代は末法
・子は両親殺害
・親は子殺害・・因果と故、恐ろしい娑婆です。

●re.33
菩提心
非公開の非公開
[ 130 ] Re32:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/23 (Tue) 08:38 △up ▽down
>時代は末法
>・子は両親殺害
>・親は子殺害・・因果と故、恐ろしい娑婆です。

つい先日も、わが子を殺した事件がありましたが、もう今は、当たり前のような感覚です。怖ろしい世の中ですね。
でも、まだ、日本は戦争が有りません。世界を見渡せば、戦争、飢餓、差別、大きい問題が山積です。
そのような中で、仏法に身を沈められるこの日本は、やはり仏教の教えが根底にあるからかも知れません。
戦争も体験せず、苦労のどん底にも落ちず、考えてみれば、親鸞会で、38年間聞いてこれたのも、ご加護の賜物かも知れません。
その間に、大病もせず、一応聴きに行けるお金はあったわけですから。(でも、続けて聴いてこれたことが、やっぱり阿弥陀様のお導きかも知れません。途中、何度も辞め様と思ってきたからです)


如円尼公と下間と跡目相続の義を争う、この時朝旨を以て蓮師と八世の住職に任ぜらる。尼公諸道具を引き上げて本山に困難を与う。上人十八銅の御書を製したまう等の弁

継母公の五月の前、これをこの時より如円尼公と申し奉る。・・・・色々下間並びに諸家中の人々へ御相談をなさりた。然る所越中中井波の瑞泉寺の御住職、青光院宣祐上人と申すは、蓮如さまの叔父御に当らせらるゝ、その御方が右の様子を御聞き遊ばし、さてもそれは大事件。
祖師の再来たる蓮如法師が、本願寺の住職を取らずば、御真影の思し召しにも叶わず前住上人の遺言にも背く、終には本願寺滅亡の基いとなる。然れば一日もこのこと捨ておきがたしと、宣祐上人は夜に日に接で御上京なされ、真っ先に継母君に対面して、種々申しなだめられたが、どうしても聞かしゃやらぬ。依てよんどころなく朝廷へ奏聞を遂げ、「何卒、勅命を以て本願寺の住職を、蓮如に仰せ付けられ下さるべきよう」と願い込まれた。朝廷に在りても、蓮如上人の御徳の勝れて在すことはかねて御承知、それゆえ早速御聞き届けに相成り、天子より直々に勅命を以て、本願寺跡目相続の義は、父存如の遺言に任せ、長男の蓮如たるべき旨仰せ出された。

江州堅田の光徳寺に蓮師十八銅の御書というがある。
「今日もかはりなふ暑く候、余儀なきことに候長目十八銅此者に御越し頼み入れ候。かの人々の偏執にて身の置きところもなく、偏に故上人の御苦労思ひ出され候。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、佛恩のほど御忘れなく、本願の不思議を信じたまふべく候、あなかしこあなかしこ」と書いてある。
これは、前住上人の御祥月の御逮夜に、蝋燭を買せらるゝ銭がない、マー一宗の本山の哀れなことよ、依て光徳寺という寺へ十八文の銭を借りに御やりなされた。そのお手紙を十八銅の御書という。

・・・・娑婆は則ち堪忍世界、堪えてみれば堪えられぬことはない、世の中に成る堪忍はたれもするならぬ堪忍するが堪忍、どんな不足があらうことも堪えにゃならぬぞと、八代目の善知識が、わきまえのないお互いへ辛抱だらぬこの奴に、堪忍第一の手本を出して御見せなさりて下さるる。然れば一同こんな話を聞くにつけても、無理な癇癪起さぬよう、非我の思いを出さぬように慎ませて貰いなされ、それが信心決定の上からの法義相続する同行の心得という。

●re.34
愚老
北陸の男性
[ 131 ] Re33:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/23 (Tue) 16:39 △up ▽down
菩提心さま・
本願寺八代目住職を巡って跡目相続が絶えなかった、蓮如さまも心痛められた事でしょう。
しかし瑞泉寺の御住職、青光院宣祐上人、(蓮如さまの叔父御に当らせらるゝ)お方で無事本願寺の住職に就かれましたが、ナイナイずくしのご苦労が、又一層のご苦労が・・
前住上人の御祥月の御逮夜に、蝋燭を買せらるゝ銭がない光徳寺にまでお借り受けされる等・
以前私も光徳寺に参拝して来ました・涙なしでは聞けない堅田源兵衛親子のお話
堅田源兵衛の首(殉教)
真宗の中興の祖蓮如が、1465(寛正6)年に京都大谷の本願寺が焼き討ちされた時、宗祖親鸞の木像を三井寺に預けて北陸へ逃げた。旅から帰ってこの像の返却を求めたところ、三井寺の衆徒が「人間の生首二つと交換しよう」と難題をふっかけた。これを聞いた堅田に住む漁師の源左衛門が息子の首を切り三井寺に差し出し、この像を取り返したという殉教物語がある。
等正寺・・このお寺にも宿泊した時住職さんが源兵衛さんの縁起スライド映写で聞かせて頂きましたが。本堂に御厨子に源兵衛様の生首骨が・光徳寺さんの本堂にも同じ生首が御厨子に納められていました。聞くところによると三井寺にも供養の生首が??源兵衛さん三人?はて
当時源兵衛親子は光徳寺の門徒として蓮如聖人さま、阿弥陀如来さま、親鸞聖人さま・・真宗門徒として首の一つや二つ何の患いも無し差し出される心がけ・尊いね
指1本も出せない情け無い愚老ですが・・蓮如さまのご苦労には涙致します。
  如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし
     師主知識の恩徳は骨を砕きても謝すべし・・合掌

娑婆は則ち堪忍世界、堪えてみれば堪えられぬことはない、世の中に成る堪忍はたれもするならぬ堪忍するが堪忍、どんな不足があらうことも堪えにゃならぬぞと、八代目の善知識が、わきまえのないお互いへ辛抱だらぬこの奴に、堪忍第一の手本を出して御見せなさりて下さるる。然れば一同こんな話を聞くにつけても、無理な癇癪起さぬよう、非我の思いを出さぬように・・
このように尊いお言葉,短気は損気・・堪忍袋の緒が切れたなんて馬鹿なこと言わずに感謝感謝の日暮致したく思います。
全て阿弥陀様お蔭様お蔭様、この如何にもならない悪凡夫愚老一人目当ての南無阿弥陀仏でした。合掌


●re.35
菩提心
非公開の非公開
[ 132 ] Re34:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/24 (Wed) 07:06 △up ▽down
愚老様

堅田源兵衛の首(殉教)のお話、ずっと後に出てきます。

すごいですよね。

親鸞聖人にも、蓮如上人にも、素晴らしい御同行が居られたゆえ、私にもこの法が伝えられたと思います。

愚老様のご縁の善知識様もそうでしょうが、私のご縁の善知識様の御祖父様も、このご説法のようなお話をされてこられたのだと思います。
味わいの処でも書きましたが、菩提心の名前も、その次第相承の善知識様の御著書より拝借させて頂きました。

このように、次第相承の善知識様は、全国津々浦々、有縁の人を弥陀の浄土に連れて帰られるお仕事をされておられるのでしょう。

ただ、我は善知識なりと看板を上げている訳ではないので、分らないだけですね。

「十方微塵世界の 念佛の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」  (浄土和讃  弥陀経意)

●re.36
菩提心
非公開の非公開
[ 133 ] Re35:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/26 (Fri) 21:16 △up ▽down
第十一席
蓮師第八世を相承して真宗再興せられしに、偶然応仁の乱に懸かりて、御身を三州に忍ばせられ、所々御巡化のみぎり三大名帰依の弁

・ ・・御真影より恥ずかし乍ら親鸞又きたぞよの、御告げがありて御誕生なさりた蓮如上人。
祖師の玉体((意)天子や貴人のからだ、また相手を敬ってそのからだをいう)は、一百余歳の昔に栴檀の煙とのぼらせられ、徳音は遥かに無常の風に隔てられ、いま世にはましまさねども、その実語を相承なさるゝ大知識、為物大悲の生如来と、仰ぎたまう蓮如さま、それゆえ尊方の御威徳は、普く一天四海に充渡り、流れを汲し幾万の門徒、親しく金句の直説を頂き、渇仰肝に銘じて、歓喜の涙袖を潤す。踊躍の踵を並べ、報謝の袂を交えて、貴賤巷に溢れる門前市をなして、道俗男女の群集は、満年数立錐の地なしというほどの御繁昌は長禄二年より文正元年まで、その年数凡そ九年の間に、魔事なく御化導遊ばしたが、応仁元年に至て偶然、大戦争が起り、いやはや京都洛中は大騒動。山名宗全というは西山に籠もり、細川勝元というは東山に陣取り、何れも足利尊氏公の御家来にして一国の大名。日にも毎日竜虎の争い、互いに何千何百の兵を置いて、切るやら打つやら飛ばすやら、それについて名ある神社仏閣も、焼くやら砕くやら致して、その事を御文章にも
「諸国往来の通路に至るまで、たやすからざる時分なれば、仏法世法につけても千万迷惑のをりふしなり、これ霊佛、霊社、参詣の諸人もなし」とお嘆きなさりてある。
あの、名所旧跡の沢山ある京都の霊佛、霊社へ参詣するものはなくなりてしもうた。そこで御本山も同様。
参詣人は一人もない。蓮如さまは「あ〜情けない、時の災難には勝たれぬ、ま〜ま〜この場合は田舎になりと下りて、縁あるものを済度してやろう」、応仁元年の五月に佐々木如光独りをお連れ遊ばして、三河の国へ御下向なさりた。
・・・・安藤帯刀(あんどうたてわき)、渡辺半蔵(わたなべはんぞう)、石井金吾(いしいきんご)といえる三人の大名が御帰依申された。・・・・本願寺あらん限り吾家あらん限り、子々孫々の末まで、粉骨砕身、身を粉にし骨を砕いても御加勢申し、佛恩師恩の万分の一を報ずるでございましょう。・・・・
果たして後日叡山僧が本願寺を攻めたとき、この三大名より諸家中を差し向けて御加勢申し上げられた。また蓮師御往生より七十五年目、かの石山戦争の時も、この三大名の末孫が御加勢を申し上げている。かように一国の大名衆が厚く御帰依なされたで、なお々蓮如さまの御威徳が現れ、いやはや三河の国は誠に真宗が大繁盛になりた。

●re.37
菩提心
非公開の非公開
[ 134 ] Re36:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/26 (Fri) 21:25 △up ▽down
再び御帰京あらせられ、御正忌の法会執行の際、参詣の諸人甚だ乏しく、之を悲嘆したまうに、道西驚いて有縁の同行を誘い立て、俄かに本願寺の繁昌を来たすの弁

さて上人五十五の御歳文明元年に至りて、追々京都の戦も治まりよほど世上が静かになりた。・・・
依て十一月二十七日御正忌の大逮夜に、御本山への参詣たった十二三人。蓮如様は内陣へ御出まし遊ばしてじーっと咏めて在したが、両眼よりパラパラーと涙を流したまい、
「あ〜無念や口惜しいや、今宵は年に一度の大逮夜、久しぶりに御つとまりなさるゝ祖師の御正当。定めてにぎにぎしう御営み申して呉るであろうと思いしに、案に相違の僅かな参詣、どうした情けないことであろうか、在世の昔を思うて見りゃ、九歳の春から満九十歳の夕べまで徒歩や跣(はだし)の御艱難命がけの御心配、その御苦労がありたらこそ、吾がこの浄土真宗が一天四海の充ち渡り、念佛弘通の御綸旨は、祖師匠の上人より授かせられ、大谷の本廟は、亀山天皇より御建立なさりて下さりた。然るに時移り世下りて法が絶え絶えになりしゆえ、真宗再興のため、予が八世の住職を賜りて、再び衆生済度の端緒を開きしところ、計らず応仁の乱に懸かり、一時諸人の困窮を来したゆえ、法の衰えも無理はない、然るにかくまでの哀れな事に押し移ろうとは思いもそめぬこと、あ〜残念や、予が婦徳のなすところか、この成り行きのままでは、実語を相承血脈して八世の住職に直りし甲斐はない」と、大音あげて泣き入らせられた。
参詣の面々あ〜御尤もでございます、と皆が暫らくは貰い泣きしていた。ところがその晩のお参り、人数は僅かあんれども、選り切りの有り難い同行ばかり、殊に金ケ森の道西は名高い仰信者、「さてもさても吾吾れがじっとしておらりょう・・・・ところが心配すればしただけの功のあるもの。翌朝二十八日の御晨朝(あさじ)には、五六百人の大参り、蓮如さまは前夜のお嘆きに引き替えて、
「あ〜嬉しいや、ようこそ心配してくれた。これ真宗繁昌の根元なり」誠に御喜び遊ばして、それより力を尽くして御化導下さりた。
もとより親鸞又来たぞよの御告げがありて現れたまいた蓮如さま。銘々らがような凡夫の坊主とは違いますわい。やにわに満ち潮の浜辺を埋めるが如く、どーっとお参りが増してきた。貴賤長柄を巡らし、門前市をなす。道俗袂を交えて群集山なすという程の勢い、時の帝も百官群臣の人々も、厚く上人へ御帰依遊ばし、実に立つ鳥も落るという程の繁昌。

●re.38
愚老
北陸の男性
[ 135 ] Re37:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/09/27 (Sat) 08:56 △up ▽down
菩提心さま
第11席になりますと蓮如聖人ご活躍の場面ですね。それに付け次ぎから次ぎのご心労
本願寺八代目住職を巡って跡目相続が絶えなかった蓮如さま,当時応仁の乱、跡目相続が元で京都洛北中は戦乱に巻き込まれ蓮如様,三河の国に御下向された。
三河の国での有縁の大名,同族男女,衆生済度のご苦労、蓮如様蓮如様と厚く御帰依なされ真宗が大繁盛。尊い事です。
戦乱も収まり再び御帰京・十一月二十七日御正忌(報恩講)最後には実に立つ鳥も落るという程の繁昌目出度し、ですね。
もう北陸地方もニヶ月もすると木枯らし粉雪が舞う報恩講の時節です、当地では御萬座(ごまんざ)荒れと言い海は寒波の寄り波が大荒れで寒ぶりの当来です。
昔の人は吹雪舞う中、マントを羽織り,頭にはほうたん被りした善男善女道俗袂を交えて群集山なすという位本願寺東西別院本堂が賑わいました。特に大逮夜にはデカロウソク(高さ2メートルも有るかと思う程)が赤々と灯され夜中一杯同行の人々の仏法談義で明かされた位でした。
時代も変わり近年は佛とも法とも廃れやれゲートボールやらパークゴルフ等若きも老人も今,今、の娑婆世界に追われ尊い如来大悲の恩徳、親鸞,蓮如高祖方のご恩も本堂のさびさびとした姿の報恩講見るに付けて考えさせられます。悲しいことですね。





>再び御帰京あらせられ、御正忌の法会執行の際、参詣の諸人甚だ乏しく、之を悲嘆したまうに、道西驚いて有縁の同行を誘い立て、俄かに本願寺の繁昌を来たすの弁
>
>さて上人五十五の御歳文明元年に至りて、追々京都の戦も治まりよほど世上が静かになりた。・・・
>依て十一月二十七日御正忌の大逮夜に、御本山への参詣たった十二三人。蓮如様は内陣へ御出まし遊ばしてじーっと咏めて在したが、両眼よりパラパラーと涙を流したまい、
>「あ〜無念や口惜しいや、今宵は年に一度の大逮夜、久しぶりに御つとまりなさるゝ祖師の御正当。定めてにぎにぎしう御営み申して呉るであろうと思いしに、案に相違の僅かな参詣、どうした情けないことであろうか、在世の昔を思うて見りゃ、九歳の春から満九十歳の夕べまで徒歩や跣(はだし)の御艱難命がけの御心配、その御苦労がありたらこそ、吾がこの浄土真宗が一天四海の充ち渡り、念佛弘通の御綸旨は、祖師匠の上人より授かせられ、大谷の本廟は、亀山天皇より御建立なさりて下さりた。然るに時移り世下りて法が絶え絶えになりしゆえ、真宗再興のため、予が八世の住職を賜りて、再び衆生済度の端緒を開きしところ、計らず応仁の乱に懸かり、一時諸人の困窮を来したゆえ、法の衰えも無理はない、然るにかくまでの哀れな事に押し移ろうとは思いもそめぬこと、あ〜残念や、予が婦徳のなすところか、この成り行きのままでは、実語を相承血脈して八世の住職に直りし甲斐はない」と、大音あげて泣き入らせられた。
>参詣の面々あ〜御尤もでございます、と皆が暫らくは貰い泣きしていた。ところがその晩のお参り、人数は僅かあんれども、選り切りの有り難い同行ばかり、殊に金ケ森の道西は名高い仰信者、「さてもさても吾吾れがじっとしておらりょう・・・・ところが心配すればしただけの功のあるもの。翌朝二十八日の御晨朝(あさじ)には、五六百人の大参り、蓮如さまは前夜のお嘆きに引き替えて、
>「あ〜嬉しいや、ようこそ心配してくれた。これ真宗繁昌の根元なり」誠に御喜び遊ばして、それより力を尽くして御化導下さりた。
>もとより親鸞又来たぞよの御告げがありて現れたまいた蓮如さま。銘々らがような凡夫の坊主とは違いますわい。やにわに満ち潮の浜辺を埋めるが如く、どーっとお参りが増してきた。貴賤長柄を巡らし、門前市をなす。道俗袂を交えて群集山なすという程の勢い、時の帝も百官群臣の人々も、厚く上人へ御帰依遊ばし、実に立つ鳥も落るという程の繁昌。
>

●re.39
菩提心
非公開の非公開
[ 137 ] Re38:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/10/04 (Sat) 08:38 △up ▽down
叡山の覚祐法師、真宗の繁昌を妬み一揆を企て、本願寺伐(うち)取りの連判書を促すの弁

・・・覚祐法師はびっくり仰天、はてなーこれはまーどうしたことか、「これこれそこの人よ本願寺は何事か、」「はいこの節は真宗の祖師親鸞聖人の御正忌の大法会でございます、御勧化は当代の善知識蓮如上人、この上人は祖師の再来にして凡人ならぬ御方ゆえ、百官群臣の上つ方まで厚く御帰依遊ばし洛中洛外の道俗男女はこれぞ極楽の阿弥陀様、生身の如来が直々の衆生済度に御出でましなさりて下さりた・・・・」というて話した。
覚祐法師はむっくりさっしゃった。こいつ待てよ、法然親鸞の在世に変わらぬ繁昌というは、またもや昔の如く叡山の法を押したおしてしまう、さすれば一宗の妨害これより大いなるはなし、一時も捨て置き難しと、直ぐにその足で飛んで叡山へ立ち返り、
・・・・・・「一時もはやくあの蓮如坊主を、死罪か流罪かぼったてるかどうかしてやらねば、吾が叡山僧の頭があがらぬ。」条約書を拵えて、同意の人から先に判をなされいと帳面を投げ出された。もとより我儘偏執の悪僧共二も三もありゃせぬ、各皆決心同意してべたべた判をおしやった。


無動寺の覚成阿闍利、真宗の教義諸宗に妨げなしと申立て。種々説諭を加えて、山門の一揆を鎮撫(ちんぶ)するの弁


無動寺の大僧正覚成阿闍利、この御方は蓮如様が叡山で御学問のときの御師匠。・・・「専修念佛は後鳥羽天皇より、宜しく我が国に於いて開示すべしと云う勅状が下りてあるぞ、又本願寺は亀山天皇の勅願所なるぞ、その勅願所の第八世を相承するが即ち蓮如である。念佛弘通の勅状を以て勝手に弘むる浄土真宗。正法を謗るに非ず、国家を妨るに非ず、かかる罪なきものを死罪・流罪の処分に行うとは、何事か、そりゃつまり真宗の繁昌がねたましいからのこと、俗にいう職ぜりじゃ、そんな卑しい根性で出家の道がどこで立つか、姿に恥よ、墨染めの袖、身に着ている袈裟や衣に対しても恥ずかしゅはないか、神仏の御冥見が恐ろしゅはないか、よくよく考えて見られよ」道理の棒を以て我慢の頭をピッシやりぶたれしゃた。
覚祐法師は・・・・「それでも僧正さんあの蓮如は、諸宗諸法を謗り神明仏陀をかろしむると云う噂でございます」
「・・そりゃ嫉妬の強い悪僧らの悪口と云うもの、そんな証拠のないげな話を取り上げるよりは、現にこの節本願寺に於いて蓮如が説法して居る、諸宗を謗るか神仏を軽しむるか、聞いてみるに限る、サー聴きに行こう御ざしゃれ」と、四・五人の坊さん達を引き連れて、無動寺の大僧正が、忍び々に本願寺に聴きに行かれた。

所が素より蓮如様の落ち度のない御勧化、大勢の人を相手に高座に上らせられ、他力信心はかようぞよ、これは内心にたくわえて、諸宗諸法を謗るなよ、諸神、諸佛、菩薩を疎かにするなよ、王法国法を相守れ、親に向っては孝行せよ、君に向うては忠義を尽くせ、夫婦なかよく家内むつまじ、上を敬い下を哀れみ、自分々の職業を忘れてはならぬぞ、もうー針でついた程も非の入れ様のない有り難い御教化

・・・・ ・我慢偏執の悪僧ども、残念で口惜しいては叶わぬけれど、一時泣き寝入りに静まりてしまった。
何と、御同行どうじゃ、「劫濁、見濁、煩悩濁」世が末なるにしたがって人間が邪険になる、嫉妬癇癪の煩悩が強くなる。御和讃に「大集経にときたまふ、この世は第五の五百年、闘諍堅固なるゆへに、白法隠滞したまへり」(正像末和讃)御釈迦様が御隠れ遊ばして二千年以後を第五の五百年と云う。二千年の末法の時になると袈裟や衣の坊主まで在家同様の我慢を募り、種々の争いしだすのが闘諍堅固というものよ、向こうの店が繁昌すればこちらの店からそれを憎んで、何ぞ話のついでにその店の品を悪口云う、甲の人が立身すると乙の人がそれを羨ましい思いで、何ぞ落度があらったらと、鵜の目鷹の目になって睨んでいる、これが勝るを妬む世の習い。凡ての人の情。世が末になりたら坊主も俗も誰も彼も皆この通り、かかる
劫濁、見濁、煩悩濁の我慢嫉妬の世の中、この仏法を弘めたまうはなかなか以て容易なことではありませぬ。
之を、法然様の御在世で云うと「浄土真宗に因て聖道門廃退す、これ空師の所為なりとてたちまち罪過せらるべきよし南北の碩才憤り申しけり」と御伝鈔にお示しなさりてある。

●re.40
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 138 ] Re39:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/10/04 (Sat) 14:03 △up ▽down
菩提心 様

>所が素より蓮如様の落ち度のない御勧化、大勢の人を相手に高座に上らせられ、他力信心はかようぞよ、これは内心にたくわえて、諸宗諸法を謗るなよ、諸神、諸佛、菩薩を疎かにするなよ、王法国法を相守れ、親に向っては孝行せよ、君に向うては忠義を尽くせ、夫婦なかよく家内むつまじ、上を敬い下を哀れみ、自分々の職業を忘れてはならぬぞ、もうー針でついた程も非の入れ様のない有り難い御教化

御文様、そのままでございますね。

ありがたいです。ありがとうございます。

南无阿彌陀佛

●re.41
愚老
北陸の男性
[ 139 ] Re40:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/10/04 (Sat) 14:59 △up ▽down
菩提心 様

V向こうの店が繁昌すればこちらの店からそれを憎んで、何ぞ話のついでにその店の品を悪口云う、甲の人が立身すると乙の人がそれを羨ましい思いで、何ぞ落度があらったらと、鵜の目鷹の目になって睨んでいる、これが勝るを妬む世の習い。凡ての人の情。世が末になりたら坊主も俗も誰も彼も皆この通り、かかる
劫濁、見濁、煩悩濁の我慢嫉妬の世の中、この仏法を弘めたまうはなかなか以て容易なことではありませぬ。

法然様は初め高祖方が一番人間の醜い様をついておられます。仏法弘通の難しさ、。

隣近所が憎くてならぬ
其れならパンパン,バンバン,布団叩いて、大声出して罵声して。
それも足らぬで。糞尿撒き散らす。ガンガンラジオの大音声。アア恐ろしい鬼かかや。

隣が貧乏すりゃガンの味がする。

●re.42
菩提心
非公開の非公開
[ 140 ] Re41:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/10/05 (Sun) 08:08 △up ▽down
毎日様

愚老様

この頃、こういう風に思うことがあります。
仏法とか、仏教って聞くと、何だか、仰々しく聞こえますけど、

やっぱり人間、一人では生きていけないのだから、
同じ人生を歩むなら、
相手の人生も尊重し、また自分の人生も大事にしたい

そうするには、道徳、倫理は、とても大事だなと思います。
人間が考える、道徳、倫理以上の仏様の悟りの境地の道徳は、素晴らしいと思います。

凡夫の私には、何の御恩報謝も出来ませんが、
きっと、阿弥陀様は、それでもいいんだよって温かく包んで下さるから
返って、勇気も出てこのように書けているんだと思います。

この長くても、百年ぐらいの命を、もっともっと大事にして感謝できる人生で有りたいと思います。
そういう思いが出てくるのも、全て阿弥陀様から、真実信心頂いたお陰だと思います。

蓮如上人の御説法をただ写しているだけですが、とても有り難いです。

阿弥陀様から、「やって御覧」って言われているようです。
私には、真などないからです。
真がないから、反省する為にも、この時間がとても有り難いです。

南无阿彌陀佛

●re.43
菩提心
非公開の非公開
[ 141 ] Re42:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/10/24 (Fri) 08:06 △up ▽down
続き

この度、法然房が専修念仏を弘めだしたから、叡山南都の聖道自力の法が捨たりてしもうた。・・・・・
御堂を焼き払いにおあいなされ、御足に長刀疵を負わせられ、近江の国を始め加賀越前地方へお逃げなさりて、御難儀遊ばず原因となりたのじゃ・・・・釈迦如来には提婆が障り、聖徳太子には守屋が障りた、法然さまや御開山並びに蓮如さまには、叡山南都の悪僧の障り、顕如上人へは織田信長が障り、その御在世に生まれ合わせた心ある同行は、度毎に大事な生身を血汐で染め、命を野辺の叢(くさむら)に捨て、身体を野山の露に晒して、法の御取り持ちを申して居が、今日のこの座の各方はどうじゃ、法のために命をはめた覚えがあるか、後生のために血汐を流した例があるか、命をはめ所か血汐を流すところか、僅か一丁二丁の寺参りをするのでさへ退屈が起りて眠りが来るやら、欠伸が出るやら、かかる浅ましき取り得のない吾身知らずのこの奴が居たらこそ、祖師や蓮師に剣ぎの中で、命がけの御苦労を懸けましたと、積もる御慈悲が分りたり、重なる御恩が知られたら命をはめる代わりには、家業度世のまんくり致し、血汐を流す代りには、参り下向の足手を運び、柔軟大悲の御影に向かい、御在世の御苦労をおもい浮かべ、七重八重御慈悲の綱を打ちかけ、ようこそ御苦労下さりました。大いにお世話になりましたと、仰ぎ上げては南無阿弥陀仏、ひれ臥しては御恩の称名を相続しなされ。

●re.44
菩提心
非公開の非公開
[ 142 ] Re43:蓮如上人の御苦労を偲んで 2008/11/06 (Thu) 12:01 △up ▽down
図書館で、本を借りて来た。

「御文に学ぶ」 田代俊孝氏 法蔵館

その中に『蓮淳記』と書いてあったので、早速インターネットで探して見た。

『福井県史』通史編2

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-05-01-01.htm

第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      吉崎の地

蓮如上人が吉崎御坊での御布教ぶりが分ったようで、勉強の嫌いな私も興味深く読むことができた。



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