親鸞会について

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●No.1
おやおや
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[ 1 ] 被害家族の掲示板について 2007/11/25 (Sun) 17:35 △up ▽down
「了解しました」の書込みには、色々の含みを込めています。

毎日様の分析、僕の思いと合致しております。

ただ、あれあれさんに対しては、あれあれさんが、書いたコメントに対し、その指摘が正しいと思える事もあるのです。

僕は、完全に親鸞会と縁が切れましたが、
被害家族の会の書込みの中で、まじめな方はこのようなHPを見ないような書き込みがありましたが、僕はそういう考え方はおかしいと思います。

人生を真面目に考えるからこそ、おかしいと気がついたのであり、又、傷ついている人もいるのだと思います。

何故なら、中の活動を必死にやってきた者こそ、中のおかしな点に気がついたのです。
気がついていない人は、盲信的に信じているか、信じ込もうとしているかだと思います。

毎日様もご指摘のとおり、誰を相手の相談なのか掴めないHPを相手にするよりも、このように立ち上げて下さり、本当に傷ついた人が眺められ、又親鸞聖人の教えと親鸞会の教えの違いに一日も早く気が付いて欲しいと思っています。

僕は、「被害」と書いてあったので、ついつい書き込んでいましたが、時間の無駄だと気が付きました。
僕も無常の身です。
同じ時間を使うなら、少しでも有縁の人の役にたちたいと思います。


●re.1 admin 
毎日
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[ 2 ] Re1:被害家族の掲示板について 2007/11/25 (Sun) 17:51 △up ▽down
おやおや 様

実際、あちらの掲示板に書き込んでみますと、「被害者の方を助けたい」という意図よりも、「自分たちの側に取り込みたい」というような意図を感じる場所だと思いました。

もちろん、そのような方もお救いするのが弥陀ですので、私としては、被害の会の方へのメッセージと、また、検索エンジンから来訪している有縁の方へのメッセージとしても書いております。

深刻なのは、真剣に信を取りたいけれども、その道がわからず、どうして良いかわからないままで、「善行」に取り組み、最後にはあきらめて、臨終時の弥陀の来訪を待つことになってしまうような方々です。

そのループから抜け出ることを助けなければならないと思っています。(六道輪廻のように、現世の中でループしてしまっています。)

そのようなことも含めまして、正信に辿り着く事は、至難中の至難です。

しかし、求める気持ちのある方は、そのすべてを乗り越えまして、信に辿り着くのです。

弥陀を向いている方には、必ずご縁が現れる謂れがあるからであり、その道が、三願転入の道でもあります。

●re.2 admin 
毎日
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[ 3 ] Re2:被害家族の掲示板について 2007/11/25 (Sun) 18:01 △up ▽down
おやおや 様

あれあれ様の書き込みには、私も真実を見ています。

正直な気持ちで批難しているときには、真実を語り、自らの側に取り込もうと意図するときには、虚言になってしまうのでしょう。

本当に疑問に思うときに、その疑問を表すのは、むしろ良いことです。

◎蓮如上人仰せられ候ふ。一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことばにて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり(聞書74)

安心していないのに、「これで安心しました〜」「ありがたいです〜」「よくわかりました!」と言っている方の方が、信から遠いでしょうし、そういう方を見て、「こんなのでは救われない。偽善である」と見ている方の方が、よく見ている方であると思います。

また、親鸞会様の方法にしても、おかしいところもあるはずですので、その部分につきましても、適切な箇所も多いのだろうと思います。


●re.3
おやおや
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[ 4 ] Re3:被害家族の掲示板について 2007/11/26 (Mon) 22:50 △up ▽down
毎日様

今、被害家族のジョーさんの書込みを読んで、どうしてそういう発想になるのだろうと思いました。
これも、過去世からの宿業の差なのですか?

僕は、親鸞会で聞いてきても、一度も蓮如会と思ったことはないですね。
むしろ、蓮如上人に親しみまで覚えました。
それよりも、「絶対の幸福」「相対の幸福」という、聖典に載ってもいない言葉を、さも有る様にしたことの方が重大だと思います。
又、必堕無間と言って、信心決定しないものは全て地獄に堕ちると言われ、本当にこのまま死んだらどうしようという気持の方が大きかったと思います。

今日、偶然にも、元親鸞会の講師をされていた人の親御さんを知っているという人と話をしました。
僕も、その親鸞会にいたんですよ、と言いましたら、
「大変なところらしいですね。すごくお金がいるらしいですね。その専任講師の親御さんは、随分子供さんに期待されていたそうですよ。性格も良い子がなんで、あんな風になってしまったのだろうと嘆いていましたよ。そこに貴方もいたんですか?」とすごく同情されました。

僕も、最近まで、友人にはあまり親鸞会の事は言えませんでした。
本当に仲の良かった友人から、おかしな宗教に走っていると陰口を言われました。(僕はそれでも、自分の信じている宗教は正しいと思っていましたので、信頼していた友人からそのように見られていたと知って、それからは余り、親鸞会以外の人には言えませんでした)

しかし、親鸞会を聞き始めた時は、有頂天でした。絶対崩れない幸福になれる。それも誰も知らない教えを今聞いていると思ったからです。
破邪顕正も、財施も一生懸命にやりましたが、とても僕には無理でした。

今、僕は僕なりに思ったことを、この掲示板をお借りして書いて行きたいと思います。
僕と同じ様な疑問を持った人が、読んでくれればと思います。




●re.4 admin 
毎日
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[ 5 ] Re4:被害家族の掲示板について 2007/11/27 (Tue) 04:55 △up ▽down
おやおや 様

被害家族の掲示板の方々ですが、あの方たちには、何らかの都合があるのではないかと思います。

ですから、その心がやわらぐまで、なかなか素直に耳を傾けることは、難しいと思います。

蓮如様の教えに従うならば、他でも信心の沙汰をして良いわけですし、不信は問う事が良いのですから、伝え聞いている限りは、私にも「蓮如会」とは思えません。

もし、本当に蓮如会であるならば、信仰心に満ち、信を取っている方もたくさんいる、素晴らしい会になるはずだと思います。

「親鸞会」にしても、「蓮如会」にしても、その名称の通りの活動をするならば、すばらしい会になるはずであると思います。

親鸞聖人や、蓮如上人は、ふつうの方ではないと思います。極楽浄土から、私たちを救いにきてくださった方たちです。

他の方はともかくとして、おやおや様は、その尊さを感じることができるのであれば、その宿縁をよろこび、信を得ることできましたら、その強縁を、本当によろこんでください。

「ああ、これを目指して、永劫の流転を重ねてきたのだなあ」と、感慨深いものがあると思います。

「弥陀は、私の袖を引いてくださっていたのだ」ということも、わかると思います。

こちらの掲示板にては、おやおや様に、安心して、書き込んでいただけたらと思います。

真実信心抱いている方が、異安心と呼ばれることが多いであろうご時世です。しかし、それは実は昔からそうであったのだと思います。だからこそ、法然上人も、親鸞聖人も、流罪にあっているのだと思います。

もともと、この法は、難信之法なのです。ですから、もし自分が信をいただけたなら、弥陀のお育てのおかげであると、よろこぶことができるのです。

ご縁ある方には伝えてゆかねばなりませんが、無宿善の機も、多くいます。しかし、その中に、求めている方がまぎれている可能性もあります。

真宗は、今の世において求められていると私は思います。

●re.5 admin 
毎日
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[ 6 ] Re5:被害家族の掲示板について 2007/11/27 (Tue) 04:55 △up ▽down
おやおや 様

>しかし、親鸞会を聞き始めた時は、有頂天でした。絶対崩れない幸福になれる。それも誰も知らない教えを今聞いていると思ったからです。

おやおや様は、そのようにして、弥陀の本願海に引き入れられようとしているのですから、とても大切なご縁だったと思います。

「絶対の幸福」「相対の幸福」も、弥陀にいただく真実信(金剛心)と、自力の信心を、わかりやすく言い換えようとしたのだと思います。

おやおや様が、親鸞会様を通られたのも、すべて弥陀のご方便だと思います。

おやおや様のように、財施を一生懸命やられる方もいらっしゃいます。反対に、お金儲けに精を出す方もいらっしゃって、それでは満足できない方が、弥陀をたのまれるのだと思います。

ご聖典をわかりやすく言い換えることは、(原典の存在をきちんと教えている限り)あまり問題はないと思いますが、ご聖典を利用して、自らの教えを説こうとすれば、おかしな方向になってゆくと思います。

私としては、はやくおやおや様に救われてほしいです。

そうなれば、とても落ち着いた気持ちで、生きてゆくことができるでしょう。

今生において為すべきことは、既に成し遂げたからです。

他力信の不思議は、信を得た後、信後相続において、今生のうちに、わかります。

この不思議とは、いわゆる奇跡とは違うのです。(そのような不思議な話も、耳にはしますが。)

易行の門は確かに仏法であったと、わかると思います。

南无阿彌陀佛

●re.6 admin 
毎日
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[ 8 ] Re6:被害家族の掲示板について 2007/11/27 (Tue) 05:18 △up ▽down
おやおや 様

>僕も、最近まで、友人にはあまり親鸞会の事は言えませんでした。
>本当に仲の良かった友人から、おかしな宗教に走っていると陰口を言われました。(僕はそれでも、自分の信じている宗教は正しいと思っていましたので、信頼していた友人からそのように見られていたと知って、それからは余り、親鸞会以外の人には言えませんでした)

本当の意味での友人というのは、釈尊も「親友」とおっしゃっていますが、法の友なのだと思います。

◎聞法能不忘。見敬得大慶、則我善親友。
「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」(大経)

ご聖典も、もちろん大好きですが、お経は、やはり別格だと思います。この箇所の周辺を読んでいても、とてつもないことが書いてあると思います。

今では法の友もいただきまして、お講にも出ることできますから、弥陀からのとても大切な恵みだと思い、感謝しているのです。

慶喜心も、歓喜心も、後念相続にて、いくらでも、開発することができると思います。

為すべきことを成し遂げ、正定聚の位もいただき、命終を迎えたら、即極楽往生、今生にて、菩薩行(お手引き)もできるようになります。

ご聖典を見ても、「本当に、正信いただくことができたんだ・・・」と、うれしくなります。

信前は、そのようなことはできませんから、本当に、大きな恵みをいただけるのだと思いますし、これらすべて、如来からの廻向であると思います。

南无阿彌陀佛

●re.7 admin 
毎日
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[ 12 ] Re1:親友について 2007/11/27 (Tue) 08:51 △up ▽down
おやおや 様

釈尊から「親友」と呼んでいただける、それだけでも、信じられぬ程の慶びであると私は思いました。

ご開山も、そう思ったのだと思います。

◎また諸仏の真実信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひとしきものなりと説かせたまひて候ふなり。『大経』(下)には、釈尊のみことばに「見敬得大慶則我善親友」とよろこばせたまひ候へば、信心をえたるひとは諸仏とひとしと説かれて候ふめり(御消息)

◎他力の信心うるひとを
 うやまひおほきによろこべば
 すなはちわが親友ぞと
 教主世尊はほめたまふ(和讃)

しかし、これを表面的に読むだけでは、一応の義です。
 
おやおや様には、次のようなよろこびも、お伝えしたく思います。 

それは、この「親友」とは、

◎曾更見世尊、則能信此事。
「曾(むか)し更(かつ)て世尊を見しもの、すなわち能くこの事を信ず」(大経)

と対応しており、釈尊は昔、私たちに、縁を結んでくださっており、そして、ついに私たちが信を得たときに、「よくぞ弥陀に救い摂られた、友よ」と、およろこびくださっているおことばだということです。

釈尊は、昔々、私たちに縁を結んでくださったときから、私たちのことを「友」として接してくださっており、そして、その友が、ついに救われたことを、よろこんでくださっているのです。

この深い深い思いやり、まさに四無量心であり、涙無くして読めない箇所であります。


>僕は、どうしても阿弥陀様のお側に行きたいのです。
>もう、流転輪廻するのは、今生で終わりにしたいのです。
>そして、「うつくしい仏」に成りたいのです。

このお気持ちが、本当に尊いです。

正信は、本当にあります。

阿弥陀如来も、生きて、活動していらっしゃいます。

おやおや様が、弥陀をおたのみ申し上げるとき、弥陀はよろこんで、そのからだから光明を発して、救い摂ってくださいます。

私も、永劫の流転から抜けることできました。なんと自由な事でしょう。

弥陀は求める人を必ず救います。

◎寿命甚難得。仏世亦難値。人有信慧難。若聞精進求。聞法能不忘。見敬得大慶、則我善親友。是故当発意。設満世界火、必過要聞法。会当成仏道、広度生死流。
「寿命甚だ得難く、仏(ぶつ)の世(よ)また値い難し。人、信慧(しんえ)あること難し。若し聞かば精進に求めよ。法を聞きて能く忘れず、見て敬い、得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親友(しんぬ)なり。是の故に当に意(こころ)を発(おこ)すべし。たとい世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要(もと)めて法を聞かば、会(かなら)ず当に仏道を成じ、広く生死(しょうじ)の流(ながれ)を度(ど)すべし」(大経)

お経様の通りです。こうして、また救われる方がいらっしゃるかと思うと、弥陀の素晴らしさに、釈尊の素晴らしさに、手を合わせずにはおれません。

「会当成仏道、広度生死流」かならず、とのお約束です。

仏道を成じるのは、おやおや様です。ですから、「広く度す」のは、おやおや様が、衆生を度すのです。これにより、仏菩薩と等しくなるのです。

南无阿彌陀佛



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