浄土真宗の教義について

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[ 356 ] 果報を求めず 2008/01/27 (Sun) 17:30 △up ▽down
弥陀の救いは仏法である、ということについて、書いてゆこうと思います。

まず、「果報を求めず」ということについて。

「無条件の愛」(Unconditonal Love)のようなことが、一般的にも、言われます。

私もこのようなことを聞きまして、「でも、そんなの無理だよ」と思っておりました。

しかし、これも、廻向されます。

なぜなら、弥陀をたのむのは無上の善であり、それ以上の善は無く、もはや救われており、往生は治定しているからです。

果報は、もう受け取っています。

ですので、お手引きしたからと言って、それで善が加算されるわけでもなく、ただ、御恩報謝の気持ちで行うだけです。

それに、お手引きしたからと言って、自分が済度するわけではなく、救ってくださるのは、あくまでも弥陀です。1000人お手引きしても(そんな方は滅多にいないと思いますが・・・)ひとりも救っていません。

しかも、お手引きしたと言っても、ありがたいことに、難信之法です。ほとんどの方は受け付けないのですから、自分の言動によるのではなく、相手の宿善によるとわかります。

あくまでも、その方と弥陀の関係であって、私が介在するとしても、本当に単なる介在であり、だからこそ、菩薩行であり、遊戯するがごとし、いないがごとしです。

ですから、弥陀の本願をさまたげる悪など無いだけではなく、それにすぐる善も無いことも、大切です。不足していないのですから、円満ですから、足す必要が無いのです。

お手引きは義務ではありません。大悲の廻向によるのですから、その気持ちを育てる(自覚できるようにしてゆく)ことが、まずは大切です。

もちろん、それでも、凡夫ですから、名利を好む気持ちも、人師を好む気持ちも出るわけですけれども、信前と比べれば、はるかにゆるやかであるように思います。

弥陀の救いは無上方便であり、増上縁であると思います。

南无阿彌陀佛



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