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[ 2740 ] Re1:すみません
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2012/05/16 (Wed) 00:35
△up ▽down
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りささま、はじめまして。
当麻曼陀羅についてはあまりよくわかりませんが、二河白道については普段から少し気に 留めておりますので、私も何かコメントできることがあるかもしれません。
当麻曼陀羅は浄土を示すもののように思えますが、それに対して二河白道は、この穢土か ら浄土に向かうプロセスを示すものです。
当麻曼陀羅はよくわからないのでさておき、二河白道は、善導大師の「観経疏(散善義)」 に出てくるたとえ話です。親鸞聖人も、これを「教行信証(信巻)」で引用しています。 それは、おおよそ次のようなお話です。
--------ここから---------------------------------------------------------------- ある人が西に向かって歩いて行こうとすると、目の前に2つの河が現れてきました。ひと つは南側に火の河、もうひとつは北側に水の河です。そして、この2つの河の中間に一本 の白い道が通っていて、その長さは百歩で、その幅は約12〜15cmくらいしかありません。 その白い道には、南側から火の波が覆いかぶさり、北側からは水の波が覆いかぶさり休む 間がありません。
その人はそれまで広々としたところをやってきたのですが、まったく人影はなく、悪党や ケダモノばかりがいて、その人を殺そうとして追いかけてきました。死を恐れて西に逃げ て来たところで、突然、この大河にぶつかったのです。引き返そうとしても悪党やケダモ ノがだんだん近づいてくる、南北に回ろうとしてもケダモノや毒虫が競って近づいてくる、 西に向かってこの細い道を渡ろうとすれば、おそらく水の河か火の河に落ちてしまうだろ う。「自分はきょうここで死んでしまうのだ」と思ったときの恐れと慄きは、とても口で 言い表すことのできないものでした。
そこでその人は思いました。「私は今、引き返しても死ぬだろう。留まっても死ぬだろう。 このまま進んで行っても死ぬだろう。どうやっても死を免れることができないのならば、 私はこれまでもこの道を進んできたのだし、狭くても目の前に道があるのだから、このま ま真っ直ぐに進んで、この道を渡るべきだ。」そう思ったとき、突然、河の東岸から声が 聞こえてきました。「ただ心を決めてこの道をたどって行きなさい。そうすれば死ぬこと はないでしょう。もしここに留まれば死んでしまいます。」また西岸からも大きな声が聞 こえてきました。「一心に正しく念じてまっすぐに歩いて来なさい。私はあなたを護って あげましょう。水の河と火の河に堕ちることを恐れてはいけません。」
その大声を聞いて、その人はその声を自らの身心に刻み込み、決心して道をたどってまっ すぐに進み、疑い怯れて尻込みする心を生じませんでした。そうすると東岸の悪党どもが こう言います。「きみ、戻ってきたまえ。この道はけわしい。通り過ぎることなどできな いよ。必ず死んでしまうことは疑いがない。私たちは、だれも悪い心があって、あなたに そう言っているわけではないんだよ。」この人は、その大声を聞きましたが、返りみませ んでした。一心に念じてまっすぐに進んで行くと、ほんのわずかな間に西岸にたどり着い て、末永くもろもろの難を離れることができ、善き友と顔を見合わせて、慶びと楽しみの 止むことがないのでした。 --------ここまで----------------------------------------------------------------
これは、例え話です。善導大師の「観経疏(散善義)」では、引き続きこれを次のように 解説しています。
--------ここから---------------------------------------------------------------- 東岸というのは、この娑婆のたとえです。西岸というのは、極楽のたとえです。悪党やケ ダモノが偽って寄ってくるというのは、衆生のこの世での感覚、感覚器官、意識、物質な どのたとえです。人影のない広々としたところというのは、常に悪友にしたがって、真の 善知識に会わないことのたとえです。水火の二河というのは、衆生の貪りは水のようであ り、怒りは火のようであることにたとえています。中間の約12〜15cmの白い道というのは、 衆生の貪りと怒りのなかに、清らかな往生を願う心を生じさせることことにたとえていま す。また、水の波が常に道を湿すというのは、執着心が常に起こって善心を染汚すること にたとえています。また、火焔が常に道を焼くというのは、怒りの心が、功徳の法財を焼 くことにたとえています。
人が道の上をまっすぐ西に向かうというのは、さまざまな行業をせずに、まっすぐ西方に 向かうことにたとえるものです。東岸の人の声は、釈迦がすでに亡くなったものの、なお 教法が残っていて、それを尋ねることができるということにたとえています。悪党たちが 呼び戻すというのは、自力の人や誤った見解の人たちが、みだりに見解を説いて、惑わせ 乱して、自ら罪を造って退失するというたとえです。西岸の人が叫ぶというのは、弥陀の 願意にたとえるものです。間もなく西の岸にたどりついて善友と顔を見合わせて喜ぶとい うのは、衆生が長く生死に沈んで、輪回し迷倒して、自ら縛られて解脱する手段がないの に、釈迦の勧めを受け、弥陀の悲心に招かれて、二尊の御心に信順して、水火の二河を顧 みず、かの願力の道に乗じて、命を捨てた後に、かの国に生まれて、仏と対面して喜ぶこ とが何と感極まるものかということのたとえです。 --------ここまで----------------------------------------------------------------
以下、少し私見を述べさせていただきます。
この人が悪党やケダモノに追われて逃げてきたさきに「白い道」があったのは、その人の 宿縁だったのだと思います。この道がとても危なっかしく見えるので、渡ろうか渡るまい か迷ったときに「どのみち死ぬのなら、今来た方角にまっすぐ進もう」と決心しました。 そして、釈尊と弥陀の勧めに身を任せたわけです。
この「白い道」が一見危なっかしく見えるところが面白いですね。悪党やケダモノに追い 詰められて“絶体絶命のピンチ”にでもならなければ、進んで入ろうとは思わないような 道に、身を捨てる思いで飛び込んだのだと思います。
そうして飛び込んでみると、波にさらわれることもなく、火に焼かれることもなく、河に 落ちることもなく、渡りきることができるというのは阿弥陀様のご加護なのでしょう。 問題は、その道に歩みを進み入れることができるのかどうかだと思います。
ご質問にたいするお答えにはなっていないものと思いますが、何かのご参考になればと 思い書き込みをさせていただきました。
南无阿彌陀佛
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