浄土真宗の教義について

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●No.135
ボン
関東の男性
[ 1595 ] 教行信証・学習ノート2 2009/09/06 (Sun) 01:07 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
諸仏称名願。大経言。設我得仏。十方世界無量諸仏。不悉咨嗟称我名者。不取正覚。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
諸仏称名の願。『大経』に言わく、設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、
ことごとく咨嗟して我が名を称せずは、正覚を取らじと。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

初に願文の中に「設我得仏」は即ちこれ願なり。弘誓心堅く成仏決定す。然りといえども、
因に在りて極果を欣求す。辞〈こと〉聊爾にあらざるが故に且く設という。

「諸仏」というは、問う、報化の中にはこれ何の身ぞや。

答う、報化に亘るべし。証誠の仏の如し。「不取正覚」は即ちこれ誓なり。願の首尾を
合してこれを誓願という。諸願かくの如し。

●re.1
ボン
関東の男性
[ 1596 ] Re1:教行信証・学習ノート2 2009/09/06 (Sun) 01:08 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>諸仏称名願。大経言。設我得仏。十方世界無量諸仏。不悉咨嗟称我名者。不取正覚。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>諸仏称名の願。『大経』に言わく、設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、
>ことごとく咨嗟して我が名を称せずは、正覚を取らじと。
>-----------------------------------------------------------------------------

  諸仏称名の願。『大経』では次のように述べる。仮に私が仏となったとしたら、十方
  世界の数え切れないもろもろの仏が、ことごとく私の名前をほめたたえるということ
  がなければ、私は正しい覚りを開かないであろう。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>初に願文の中に「設我得仏」は即ちこれ願なり。弘誓心堅く成仏決定す。然りといえども、
>因に在りて極果を欣求す。辞聊爾にあらざるが故に且く設という。

  初めに願文の中で「設我得仏(仮に私が仏となったとしたら)」とあるのは、これはす
  なわち(宝蔵菩薩の)「願い」だからである。(宝蔵は)衆生を救おうという誓いの心が
  堅く、仏となることが決まって動くことがない。とは言っても、そのときはまだ
  「因(仏となる種を植えている)」の状態にあって、最高の悟りを求め願っているとこ
  ろである。(宝蔵は)言葉に軽はずみなところがないので、とりあえず「設(かりに)」
  と言っているのである。

  大辞林より
    弘誓
      菩薩が自ら悟りをひらき、あらゆる衆生を救って彼岸に渡そうとする広大な
      誓願。四弘誓願など。浄土宗・真宗では阿弥陀の四十八願、特に第十八願を
      さすことが多い。
    極果
      最高、無上の悟り。究極の証果。大乗の仏果、小乗の阿羅漢果。

  WikiArcより
    弘誓
      ひろきちかいという意。一切衆生を救おうという誓い。弘願と同意。

>「諸仏」というは、問う、報化の中にはこれ何の身ぞや。

  問う。ここで「諸仏」というのは、報身・化身でいうならば、どちらにあたるのか。

  WikiArcより
    報化・・・報身と化身
      報身
        三身の一。因位の願行に報いて成就した仏身。光明無量、寿命無量の徳
        をもつ阿弥陀仏はその代表である。
      化身
        (1)仏身を法身・報身・応身・化身の四種(四身説)に分類したなかの一で、
         教化すべき相手に応じて、仏が忽然としてさまざまな姿をあらわすこと。
         応化身ともいう。
        (2)仏身を法身、報身、応身の三種(三身説)に分類した中の応身のことを
         化身という場合もある。


>答う、報化に亘るべし。証誠の仏の如し。「不取正覚」は即ちこれ誓なり。願の首尾を
>合してこれを誓願という。諸願かくの如し。

  答える。報身・化身のどちらにもまたがっている。それは、真実を証明する仏のよう
  なものである。「不取正覚(正しい覚りを開かない)」というのは、これはすなはち
  「誓(ちかい)」である。「願(ねがい)」の全体とあわせて、これを誓願という。
  「諸願」もこのようなものである。

●re.2
ボン
関東の男性
[ 1597 ] Re2:教行信証・学習ノート2 2009/09/09 (Wed) 06:23 △up ▽down

-----------------------------------------------------------------------------
又言。我至成仏道。名声超十方。究竟靡所聞。誓不成正覚。為衆開宝蔵。広施功徳宝。
常於大衆中説法師子吼。抄要。
-----------------------------------------------------------------------------
(大経)また言わく、我、仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆる
ところなくは、誓う、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施し、
常に大衆の中にして説法師子吼せんと。抄要。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次の文は重誓の願の文なり。六八の願の上に重ねてこの誓あり。この故にこの偈を重誓
偈という。しかるに十一行の偈文の中に、今の所引は、第三行と第八行となり。問う、
この二行を引く、その要はいかん。

答う、十一行の中に初の一行は総じて六八の願の決定して満足せんことを望む。次の二
は行して別して次の如く衆生の苦を済い、名の十方に聞えんことを望欲す。

義寂の云わく「三種の果を望む。一には満願の果を望む。二には大施の果を望む。三に
は名聞の果を望む」已上。この三誓に依りて、この偈をまた名づけて三誓偈という。

第三行を引くことは、今、咨嗟の願の意を宣説せんと欲するに、今の偈はこれ当願の意
たるが故に。

第八行を引くことは、十一行の内に第四行の下は、その仏徳を挙げて順求する中に、
仏の自行化他の功徳を嘆ずるに、その重重あり。今の文は重ねて化他の徳を挙ぐ。これ
最要なり。寂の意の如きは、第四行より第十行に至るまでは七種の果を望む。今、その
中に於いて五に無畏方便の果を求むる文なり。

「説法師子吼」とは、これ則ち無畏の徳なり。『大論』の七に云わく「また師子の四足
の獣の中に独歩無畏にして能く一切を伏するが如く、仏もまたかくの如し。九十六種の
外道の中に於いて一切降伏す。故に人師子と名づく」已上。

梵には迦羅という。此には無畏という。また師子という。その法蔵を開きて功徳の宝を
施したもう。これ則ち諸の善法を摂し、諸の徳本を具するが故なり。

問う、経には「法蔵」といい、今は「宝蔵」という、いかん。

答う、所覧の本にその異あるか。また法は即ち法。宝はこれ喩に寄す。法喩違せず。
その義に失なし。

●re.3
ボン
関東の男性
[ 1598 ] Re3:教行信証・学習ノート2 2009/10/24 (Sat) 08:37 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>又言。我至成仏道。名声超十方。究竟靡所聞。誓不成正覚。為衆開宝蔵。広施功徳宝。
>常於大衆中説法師子吼。抄要。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(大経)また言わく、我、仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆる
>ところなくは、誓う、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施し、
>常に大衆の中にして説法師子吼せんと。抄要。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (大経)また次のように述べる。私が仏の道を成就するにいたれば、私の名声が十方
  に響き渡るであろう。それは絶対で最上であり、もしそれが衆生に聞こえないのであ
  れば、私は、正しい覚りを開くまいと誓う。そして、衆正のために、宝の蔵を開いて、
  広く功徳の宝を施し与え、常に大衆の中にあって、大いに説法しようと(誓う)。抄要。

  大辞林より
    宝蔵
      (1)寺院で、経典を入れておく建物。経蔵。
      (2)衆生を苦から救う仏の法。
    獅子吼
      (1)釈迦の説法・教説。獅子がほえて、百獣を恐れさせる威力にたとえていう。
      (2)熱弁をふるって真理・正義を説くこと。

  WikiArcより
    獅子吼
      仏の説法を獅子のほえる声に喩えた語。獅子の吼える声が百獣を畏伏させる
      ように、仏の説法はすべての衆生を信順させるという意をあらわす。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の文は重誓の願の文なり。六八の願の上に重ねてこの誓あり。この故にこの偈を重誓
>偈という。しかるに十一行の偈文の中に、今の所引は、第三行と第八行となり。問う、
>この二行を引く、その要はいかん。

  次の文は、重ねて誓う願いの文である。48願のうえに重ねて、この誓いがある。この
  ために、この偈を「重誓偈」という。ところで、11行の偈文のなかに、今の引用箇所
  は、第3行と第8行である。そこで問う。この二つの行を引く、その要点はどのような
  ことか。


>答う、十一行の中に初の一行は総じて六八の願の決定して満足せんことを望む。次の二
>は行して別して次の如く衆生の苦を済い、名の十方に聞えんことを望欲す。

  答える。11行のなかで最初の一行は、全体として48願が間違いなく達成されることを
  望んでいる。次の2行は、個別に、次のように衆生の苦しみを済い、(弥陀の)名が
  十方に聞えることを強く望んでいる。


>義寂の云わく「三種の果を望む。一には満願の果を望む。二には大施の果を望む。三に
>は名聞の果を望む」已上。この三誓に依りて、この偈をまた名づけて三誓偈という。

  義寂では次のように述べる。「三種類の『果』を望む。一つには、願いが成就される
  という『果』を望む。二つには、大きな施しという『果』を望む。三つには、名号が
  あらゆるところに聞こえわたるという『果』を望む。」この三つの誓いによって、
  この偈を「三誓偈」と名づける。

  WikiArcより
    名聞
      T 名号のいわれがあらゆるところに聞えること。(証巻 P.317) 
      U 自らの名声を求める心。名誉欲。


>第三行を引くことは、今、咨嗟の願の意を宣説せんと欲するに、今の偈はこれ当願の意
>たるが故に。

  第三行目を引用するのは、いままさに、「咨嗟の願」の意(こころ)を述べて解き明か
  そうとするときに、この偈が当願(咨嗟の願)の意(こころ)であるがためである。


>第八行を引くことは、十一行の内に第四行の下は、その仏徳を挙げて順求する中に、
>仏の自行化他の功徳を嘆ずるに、その重重あり。今の文は重ねて化他の徳を挙ぐ。これ
>最要なり。寂の意の如きは、第四行より第十行に至るまでは七種の果を望む。今、その
>中に於いて五に無畏方便の果を求むる文なり。

  第8行目を引用することについて言えば、全11行のなかで、第4行からあとは、仏の徳
  を列挙して順々に求め願いつつ、仏の「自行化他(自ら行じ他を化かす)」の功徳を重
  ね重ね賞賛している。この文(八行目)は、まさに、重ねて「化他の徳」を取り上げて
  いる。そして、ここは最も重要である。寂(義寂)の見方によれば、第四行から第十行
  までの7行は、七種類の「果」を望んだものである。今この文は、その中の五番目に
  「無畏方便」の「果」を求める文章なのである。

  WikiArcより
    自行化他
      自分のために為すことを自行、他人を化益することを化他という。自ら仏教
      を信じて実践し、他の人を教化して仏道に入らしめること。
    無畏
      何事にも恐れることのない智慧をもって説法すること。仏、菩薩の徳の一。
    四無畏(四無所畏)・・・仏が説法するにあたり畏れるところのない自信
      (1)正等覚無所畏・・・一切の法をさとっているとの自信
      (2)漏永尽無所畏・・・煩悩をすべて断じ尽したという自信
      (3)説障道無所畏・・・さとりを妨げる法(煩悩のこと)を説いて畏れなき自信
      (4)説出道無所畏・・・さとりに入る正道を説いたという自信。
    方便
      梵語ウパーヤの漢訳。近づく、到達するの意で、巧みな方法を用いて衆生を
      導くこと。

  大辞林より
    方便
      (ア)仏が衆生を教化・救済するために用いるさワざまな方法。
      (イ)真実の教えに至る前段階として教化される側の、宗教的能力に応じて
        説かれた教え。

  漢和辞典より
    順・・・したがう、道理にかなう、うけいれる、すなお、おだやか、順序、順番
    求・・・もとめる、さがす、ねがう


>「説法師子吼」とは、これ則ち無畏の徳なり。『大論』の七に云わく「また師子の四足
>の獣の中に独歩無畏にして能く一切を伏するが如く、仏もまたかくの如し。九十六種の
>外道の中に於いて一切降伏す。故に人師子と名づく」已上。

  「説法師子吼」とは、「無畏の徳」のことである。『大論』の七で次のように述べる。
  「また、獅子が四足の獣のなかで唯一恐れを知らず、すべてのものを降伏させるする
  ことができるように、仏もまた同様である。96種の外道のなかにあって、すべてのも
  のを降伏させる。だから人は『師子』と名づけるのである。」


>梵には迦羅という。此には無畏という。また師子という。その法蔵を開きて功徳の宝を
>施したもう。これ則ち諸の善法を摂し、諸の徳本を具するが故なり。

  梵(梵語?)には「迦羅」という。ここでは「無畏」という。また「師子」ともいう。
  その法蔵を開いて功徳の宝を施し与える。これは、もろもろの善法を取り込んで、
  もろもろの徳本(功徳のもと)を備えているからである。

  WikiArcより
    善法
      人々を安穏ならしめるような善き行いのことで、とくに六波羅蜜行のような
      自他ともに仏に成ることのできる善行のことをいう。


>問う、経には「法蔵」といい、今は「宝蔵」という、いかん。

  問う。経には「法蔵」といい、ここでは「宝蔵」という。なぜか。


>答う、所覧の本にその異あるか。また法は即ち法。宝はこれ喩に寄す。法喩違せず。
>その義に失なし。

  答える。見るところの根本に、その違いはあるだろうか。また「法」は「法」である。
  「宝」というのは、たとえているのである。法のたとえに違いはない。その考え方に
  間違いはない。

●re.4
ボン
関東の男性
[ 1599 ] Re4:教行信証・学習ノート2 2009/09/17 (Thu) 01:03 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
願成就文経言。十方恒砂諸仏如来。皆共讃嘆無量寿仏威神功徳不可思議。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
(大経)願成就の文、経に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の
威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に願成就の文に就きて、「十方」というは、問う、『弥陀経』の中には説きて六方と
為し、今は十方という。差別いかん。

答う、これ開合の異なり。彼此爽〈たが〉うことなし。『阿弥陀経』には合して六方と
為し、今この『大経』には開きて十方と為し、『称讃浄土』にはまた十方と説く。
この故に慈恩の『弥陀経疏』に六方の証誠を釈して云わく「称讃浄土経には十方諸仏と
いう。此には略して六方を挙ぐ」已上。

高祖の解釈もまた以て宜しきに随う。『礼讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて証した
もう。専ら名号を称して西方に至る」と已上。『法事讃』に云わく「十方恒沙の仏は、舌を
舒べて我、凡夫の安楽に生ぜんことを証したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸仏は
共に釈迦を讃じて、舌を舒べて遍く三千を覆いて往生を得ることの謬にあらざることを証
したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸の世尊は、慈悲巧方便を捨てずして共に弥陀
弘誓の門を讃じたまう」已上。『般舟讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて、定んで九品
を判じて還帰することを得と証したもう」已上。これ等の諸文はみな十方と判ず。

『法事讃』に云わく「六方の如来は、みな釈迦の出現の甚だ逢い難きことを讃嘆したも
う」已上。また云わく「六方の如来は不虚を証したもう」已上。また云わく「六方の諸仏
は信心を護念したもう」已上。これ等の諸文はみな六方という。また『礼讃』に云わく
「十方の如来は舌を舒べて証したもう」。或いは「六方」という。異本の不同なり。

「威神功徳」というは、『観経』の中に仏の功徳を説きて云わく「為に阿弥陀仏の十力
威徳を説き、広く彼の仏の光明神力を説き、また戒定慧解脱知見を讃ず」已上。

これに就きてこれを思うに、「威」とは十力威徳なり。これはこれ如来不共の勝徳、自在
の妙用なり。一一の名義は下に至りて詳にすべし。「神」とは光明神力・滅罪生善・抜苦
与楽等の利益なり。これ則ち十二光仏の功能なり。戒等は乃ちこれ五分法身の功徳ならく
のみ。これ私の料簡なり。智者思択せよ。

●re.5
ボン
関東の男性
[ 1600 ] Re5:教行信証・学習ノート2 2009/09/17 (Thu) 16:19 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>願成就文経言。十方恒砂諸仏如来。皆共讃嘆無量寿仏威神功徳不可思議。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(大経)願成就の文、経に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の
>威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (大経)経の「願成就の文」では次のように述べている。十方の数限りない諸仏や
  如来は、みなこぞって、無量寿仏の神々しい威光とその功徳が、心で思いはかるこ
  とができないものであると賞賛している。

  大辞林より
    十方
      (1)四方(東西南北)・四隅(東南・東北・西南・西北)と上下。
      (2)あらゆる場所・方角。残るくまもないところ。
    六方
      六つの方向。東西南北の四方と天地をいう。
    不可思議
      言葉で表したり、心でおしはかったりできないこと。
      仏の智慧や神通力についていう。不思議。


  WikiArcより
    威神
      神々しい威光。絶対なる威力。
    威神功徳
      名号の功徳のこと。衆生を自在に救うことのできる不可思議な働きをいう。
    不可称不可説不可思議
      たたえつくすことも、説きつくすことも、心で思いはかることもできないこと。
      名号の功徳のはかりしれないことをいう。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に願成就の文に就きて、「十方」というは、問う、『弥陀経』の中には説きて六方と
>為し、今は十方という。差別いかん。

  次に「願成就の文」で「十方」ということについて問う。『弥陀経』の中には「六方」
  と説き、ここでは「十方」という。この違いは何か。


>答う、これ開合の異なり。彼此爽〈たが〉うことなし。『阿弥陀経』には合して六方と
>為し、今この『大経』には開きて十方と為し、『称讃浄土』にはまた十方と説く。
>この故に慈恩の『弥陀経疏』に六方の証誠を釈して云わく「称讃浄土経には十方諸仏と
>いう。此には略して六方を挙ぐ」已上。

  答える。これは開(わける)と合(あわせる)の差異である。それとこれの間に違いはな
  い。『阿弥陀経』では合わせて「六方」とし、今この『大経』では分けて「十方」と
  し、『称讃浄土経』でもまた「十方」と説く。このために、慈恩の『弥陀経疏』に
  「六方」が真実であることの証明を解釈して次のように述べる。「称讃浄土経には
  十方諸仏という。ここでは略して六方を挙げる。」


>高祖の解釈もまた以て宜しきに随う。『礼讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて証した
>もう。専ら名号を称して西方に至る」と已上。『法事讃』に云わく「十方恒沙の仏は、舌を
>舒べて我、凡夫の安楽に生ぜんことを証したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸仏は
>共に釈迦を讃じて、舌を舒べて遍く三千を覆いて往生を得ることの謬にあらざることを証
>したもう」已上。また云わく「十方恒沙の諸の世尊は、慈悲巧方便を捨てずして共に弥陀
>弘誓の門を讃じたまう」已上。『般舟讃』に云わく「十方の如来は舌を舒べて、定んで九品
>を判じて還帰することを得と証したもう」已上。これ等の諸文はみな十方と判ず。

  高祖(善導大師)の解釈もまたそのようなものである。『礼讃』では次のように述べる。
  「十方の如来は舌をのべて次のことが真実であるとを証明する。もっぱら名号を称し
  て西方に至る。」『法事讃』では次のように述べる。「十方の数限りない仏は、舌を
  のべて、自らが、凡夫を安楽の地にに生まれさせることを証明する。」また次のよう
  にも述べる。「十方の数限りないもろもろの仏は、みな釈迦を賞賛して、舌をのべて
  あまねく三千大千世界をおおって、往生を得ることが間違いでないことを証明する。」
  また次のようにも述べる。「十方の数限りないもろもろの世尊は、慈悲と巧みな方便
  を堅持して、ともにみな、弥陀の広い誓いが示す入り口を賞賛している。」『般舟讃』
  では次のように述べる。「十方の如来は舌をのべて、みな一様に、衆生の九つの品格
  を判断して、それぞれが還り帰することができることを証明なされる。」これらの
  諸文は、みな「十方」としている。

  WikiArcより
    舌を舒<の>べて
      仏の舌は広く長いので広長舌相(三十二相の一)といわれる。
      仏が舌を出すのは説法の真実であることを証明するという意味を持つ。
    九品
      『観経』に説く九つの階位。阿弥陀仏の浄土へ往生を願う衆生を、
      修めるべき行法の程度によって九種に分類したもの。
        上品上生・上品中生・上品下生・・・大乗の善(行福)を修める凡夫
        中品上生・中品中生・・・・・・・・小乗の善(戒福)を修める凡夫
        中品下生・・・・・・・・・・・・・世俗的な善(世福)を行う凡夫
        下品上生・下品中生・下品下生・・・罪悪の凡夫とする。

  大辞林より
    三千大千世界
      一人の仏の教化する世界。須弥山・日・月・四大州・上天の一世界を千集め
      たものを小千世界、それを千集めたものを中千世界、中千世界を千集めたも
      のを三千大千世界という。三界。
    三千世界
      「三千大千世界」の略。


>『法事讃』に云わく「六方の如来は、みな釈迦の出現の甚だ逢い難きことを讃嘆したも
>う」已上。また云わく「六方の如来は不虚を証したもう」已上。また云わく「六方の諸仏
>は信心を護念したもう」已上。これ等の諸文はみな六方という。また『礼讃』に云わく
>「十方の如来は舌を舒べて証したもう」。或いは「六方」という。異本の不同なり。

  『法事讃』では次のように述べる。「六方の如来は、みな釈迦の出現に遭遇すること
  がとても難しいということを賞賛している。」また次のように述べる。「六方の如来
  は、それが作り事ではないことを証明する。」また次のように述べる。「六方の諸仏
  は信心のものを心にかけて守る。」これらの諸文はみな「六方」という。また『礼讃』
  では次のように述べる。「十方の如来は、舌をのべて証明する」。あるいは「六方」
  という。それは異本の間で異なっている点である。

  大辞林より
    護念
      仏・菩薩が行者を守ること。


>「威神功徳」というは、『観経』の中に仏の功徳を説きて云わく「為に阿弥陀仏の十力
>威徳を説き、広く彼の仏の光明神力を説き、また戒定慧解脱知見を讃ず」已上。

  「威神功徳」については、『観経』のなかで、仏の功徳を次のように説明している。
  「そのために、阿弥陀仏の十力の威厳と徳望を説き、広くは、彼の仏(阿弥陀仏)の
  光明の不思議な力を説き、またその戒・定・慧・解脱・知見を賞賛する。」

  大辞林より
    威徳
      威厳と徳望。勢力があり、しかも徳の高いこと。

  WikiArcより
    十力
      仏が具えている十種の力。
       処非処智力・・・・・・道理・非理を知る力。
       業異熟智力・・・・・・業とその果報との因果関係を知る力。
       静慮解脱等持等至智力・禅定や三昧を知る力。
       根上下智力・・・・・・衆生の能力や性質の優劣を知る力。
       種種勝解智力・・・・・衆生の意欲や望みをあきらかに知る力。
       種種界智力・・・・・・衆生の本性を知る力。
       遍趣行智力・・・・・・衆生の人・天等の諸世界に趣く行の因果を知る力。
       宿住随念智力・・・・・自他の過去世のことを思い起す力。
       死生智力・・・・・・・衆生の未来の生死・善悪の世界を知る力。
       漏尽智力・・・・・・・煩悩を滅した涅槃の境地と、それに到達するため
                  の手段を知る力。
    神力
      1. 威神力のこと。不思議な力。
      2.はかりしれないつよいはたらき。神通力のこと。
    戒・定・慧・解脱・解脱知見
      最高のさとりの境地に至ったものが具備する五つの功徳のこと。すなわち、
      戒律をたもち、禅定に入り、智慧を磨き、あらゆる煩悩から解放されて、
      心の安らかさを自覚するという五つの功徳。
      その功徳を具備するものを五分法身という。


>これに就きてこれを思うに、「威」とは十力威徳なり。これはこれ如来不共の勝徳、自在
>の妙用なり。一一の名義は下に至りて詳にすべし。「神」とは光明神力・滅罪生善・抜苦
>与楽等の利益なり。これ則ち十二光仏の功能なり。戒等は乃ちこれ五分法身の功徳ならく
>のみ。これ私の料簡なり。智者思択せよ。

  これについて思うに、「威」とは十力の威厳と徳望である。これは如来だけが持ち合
  わせているすぐれた功徳であり、自由自在になる妙なる行いである。一つ一つの名義
  については、このあと詳しく述べる。「神」とは「光明の神力」「罪を滅ぼし善い種
  を生ずる」「苦を抜き楽を与える」などの利益のことである。これは、十二光仏の
  すぐれた特性である。「戒」等は、五分法身の功徳なのである。
  これは、私の考えである。知恵のある者は、十分に考えよ。

  WikiArcより
    勝徳
      すぐれた功徳
    十二光仏
      阿弥陀仏の十二種の異名
    功能
      すぐれたはたらき。すぐれた特性。
    思択
      深く思いをめぐらすこと。十分に考えること。

  大辞林より
    滅罪生善
      現世の罪障を消滅し、死後に善報のもととなるものをつくること。

  漢和辞典より
    用・・・もちいる、職につかせる、おこなう、はたらき

●re.6
ボン
関東の男性
[ 1601 ] Re6:教行信証・学習ノート2 2009/09/20 (Sun) 02:12 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
又言。無量寿仏威神無極。十方世界無量無辺不可思議諸仏如来。莫不称嘆於彼。已上
-----------------------------------------------------------------------------
(大経)また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の
諸仏如来、彼を称嘆せざるはなしと。已上
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次の文は摂聖の徳を讃嘆する文の初なり。謂く上の三輩に摂凡の徳を讃じ、今この文に
至りて摂聖の徳を嘆ず。

憬興の云わく「凡小をして欲生の意を増さしめんと欲す。故にすべからく彼の国土の
勝れたることを顕わすべし」已上。

義寂は初めこの文より、終わり「四維上下亦復如是」に至るまでを取りて一科と為す。
釈して云わく「自下は仏土の荘厳功徳成就を観ずることを顕示す。まず直説を以て略して
讃じ、後には偈頌を以て広く讃ず。直説の讃の中に威神功徳は二事を以て顕わす。一には
十方の諸仏は同じく称嘆したもうが故に。二には十方の菩薩はみな彼の所に詣でて道化を
受くるが故に」已上。

その中に今また諸仏称嘆の文これなり。これ則ち当願成就の意なり。またこの文に於いて、
その二の意あり。初の八字は釈迦の讃嘆なり。「十方」以下は諸仏の讃嘆なり。

問う、「於彼」の二字は下の東方に属するを、その言の便を得ん。これに依りて浄影は
「於彼」の下は大聖の往詣という。何ぞ今、上に属するや。

答う、影の釈然なり。但し憬興師はこの二字を以て上の句の末に属す。今は興の意に依り
て引用することかくの如し。

●re.7
ボン
関東の男性
[ 1602 ] Re7:教行信証・学習ノート2 2009/09/21 (Mon) 11:45 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>又言。無量寿仏威神無極。十方世界無量無辺不可思議諸仏如来。莫不称嘆於彼。已上
>-----------------------------------------------------------------------------
>(大経)また言わく、無量寿仏の威神、極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の
>諸仏如来、彼を称嘆せざるはなしと。已上
>-----------------------------------------------------------------------------

(大経)また次のように述べる。無量寿仏の絶対なる威力は、極まるところがない。
ありとあらゆる世界の計り知れず想像だにできないもろもろの仏や如来が、
彼を賞賛しないことはない。

  大辞林より
    無量無辺
      はかり知れないこと。数限りないこと。
    無量
      はかり知れないほどに多いこと。数知れないほどあること。また、そのさま。
    無辺
      広々と限りのないこと。際限のないこと。また、そのさま。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の文は摂聖の徳を讃嘆する文の初なり。謂く上の三輩に摂凡の徳を讃じ、今この文に
>至りて摂聖の徳を嘆ず。

  次の文は、「摂聖(聖者を摂取すること)」の徳を賞賛する文の始まりである。上で述
  べた三輩(上輩・中輩・下輩)に「摂凡(凡夫を摂取すること)」の徳を賞賛し、今この
  文にいたって「摂聖の徳」を賞賛する、と言うわけである。

  WikiArcより
    三輩
      『大経』に、浄土往生を願う三種のともがらをその修行の別によって上輩・
      中輩・下輩の三種に区別したもの。
        @上輩
          出家して沙門となり、さとりを求める心をおこしてひたすらに
          無量寿仏を念じ、諸の功徳を修めるもの。
        A中輩
          沙門となって大いに功徳を修めることはできないが、さとりを求め
          る心をおこしてひたすらに無量寿仏を念じ、多少に善を修めるもの。
        B下輩。
          たださとりを求める心をおこして、ひたすら無量寿仏を念ずるもの。


>憬興の云わく「凡小をして欲生の意を増さしめんと欲す。故にすべからく彼の国土の
>勝れたることを顕わすべし」已上。

  憬興は次のように述べる。「愚かな凡夫が浄土に生れようと願う心を増大させようと
  望む。それゆえに、彼の国土(弥陀の浄土)が優れていることを顕わしている、とみる
  のが適当だ。」

  WikiArcより
    凡小
      愚かな凡夫
    欲生
      阿弥陀仏の浄土に生れようと願う心。

  大辞林より
    凡小
      (1)平凡で心などの小さいこと。また、その人。
      (2)凡夫と小乗の人。


>義寂は初めこの文より、終わり「四維上下亦復如是」に至るまでを取りて一科と為す。
>釈して云わく「自下は仏土の荘厳功徳成就を観ずることを顕示す。まず直説を以て略して
>讃じ、後には偈頌を以て広く讃ず。直説の讃の中に威神功徳は二事を以て顕わす。一には
>十方の諸仏は同じく称嘆したもうが故に。二には十方の菩薩はみな彼の所に詣でて道化を
>受くるが故に」已上。

  義寂は、この文から「四維上下亦復如是(四維・上下もまたまたかくのごとし)」まで
  を一つの区分としている。それを解釈して次のように述べる。「以下は、仏土を荘厳
  した功徳の成就を心静かに眺めることをはっきりと示している。まず直説によってあ
  らましを賞賛し、後に偈頌によって詳しく賞賛する。直説の讃辞のなかの威神功徳は
  二つのことを現している。一つには、十方の諸仏が同じくほめたたえるからである。
  二つには、十方の菩薩がみな彼のところに詣でて、仏道への導きを受けて化益を受け
  る(化かされて利益を受ける)からである。」

  大辞林より
    観ずる
      心を静めてありのままを正しくながめる。心静かに瞑想して悟る。
    偈頌
      「偈」に同じ。
    偈
      経文で、仏徳をたたえ、または教理を説く詩。多く四句からなる。頌文。

  WikiArcより
    道化を宣布す
      阿弥陀仏の教法を、十方世界の人々(衆生)に広く説きのべるという意。

  仏説無量寿経 巻下
    「仏、阿難に告げたまはく、『無量寿仏の威神極まりなし。十方世界の無量無辺
    不可思議の諸仏如来、かれを称歎せざることなし。東方恒沙仏国の無量無数の
    諸菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろも
    ろの菩薩・声聞の大衆に及ぼさん。経法を聴受し、道化を宣布す。南・西・北方
    ・四維・上・下〔の菩薩衆〕、またまたかくのごとし』と。」


>その中に今また諸仏称嘆の文これなり。これ則ち当願成就の意なり。またこの文に於いて、
>その二の意あり。初の八字は釈迦の讃嘆なり。「十方」以下は諸仏の讃嘆なり。

  そのなかで、今また、諸仏がほめたたえることを示す文章がこれである。これはすな
  わち、当願が成就されるという意味である。また、この文章において、そこには二つ
  の意味がある。初めの八字は、釈迦がほめたたえているのである。「十方」以下は、
  諸仏がほめたたえているのである。


>問う、「於彼」の二字は下の東方に属するを、その言の便を得ん。これに依りて浄影は
>「於彼」の下は大聖の往詣という。何ぞ今、上に属するや。

  問う。「於彼」の二字は、下の「東方」に属させるのが、その言葉の便宜を得ている。
  これによって浄影は「於彼」以下は「大聖の往詣」であるという。どうしてここでは、
  上に属させるのか。


>答う、影の釈然なり。但し憬興師はこの二字を以て上の句の末に属す。今は興の意に依り
>て引用することかくの如し。

  答える。浄影の解釈は、確かにそのとおりである。ただし、憬興師は、この二字を上
  の句の文末に帰属させている。ここでは、憬興師の考えによって、このように引用し
  ているのである。

●re.8
ボン
関東の男性
[ 1603 ] Re8:教行信証・学習ノート2 2009/09/21 (Mon) 11:53 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
又言。其仏本願力。聞名欲往生。皆悉到彼国。自致不退転。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
(大経)また言わく、その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごと
くかの国に到りて自ずから不退転に致ると。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次の文は即ちこれ彼の偈の中の文なり。浄影の意に依るに、彼の偈の中に仏の讃嘆を明か
し、往覲の益を挙ぐるにその五の益を明かす。一には神通の益。二には受記の益。三には
不退の益。四には起願の益。五には供仏の益。今の偈は第三に不退の益を明かす経文なり。
これに因りて今の一四句の偈を以て上の住正定聚の義に合す。憬興もまた同じ。今の諸句
の中にこの偈を引く意〈こころ〉は、仏の讃嘆の中に名号の称歎、これその最要なり。
これ則ち専ら当願の意たるが故なり。

問う、今言う所の「本願力」とは、何れの願を指すや。

答う、第十七を指して本願力という。

問う、六八願の中に第十八を以て仏本願とすること、自他共に許す。更に異義なし。
第十七の願、何ぞその言に関〈あずか〉らん。

答う、十七・十八更に相い離れず。行信・能所・機法一なり。総じてこれを言わば、
四十八願は皆これ本願なり。別してこれを言わば第十八を以てその本願と為ること誰か
以て諍を成さん。願王たるが故に。但し今の経文、至要たるが故に、十七・十八両願は
倶に存し、所行・能信共に以て周備す。第一の句は第十七を指す。これ名号なるが故に。
第二・第三の両句は第十八を指す。これ信心を明し往生を説くが故に。第四の一句は
第十一を指す。不退を明かすが故に。今当巻に引くことは口称を本と為す。第十七の意
なり。総じてこれを言う時、この文は専ら十八の願の意たること、置きて論ぜず。

問う、いう所の不退はこれ何の位ぞや。

答う、もし摂凡に約せばこれ処不退なり。もし摂聖に約せば行不退あり。また平生業成の
義を存し、また護念不退の意に依る。隠にまた即得往生不退の義あるべきものなり。

問う、今の偈頌はこれ摂聖の益を明かす。何の故に摂凡に約する義あらんや。

答う。摂聖の益を明かすことは、共に意は凡夫小聖欲生の心を勧めんが為なり。故に摂聖
の中にこの文ありといえども、その意は専ら摂凡の益に在り。凡夫人を摂するは仏の本意
なるが故に。

●re.9
ボン
関東の男性
[ 1604 ] Re9:教行信証・学習ノート2 2009/09/23 (Wed) 17:38 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>又言。其仏本願力。聞名欲往生。皆悉到彼国。自致不退転。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(大経)また言わく、その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごと
>くかの国に到りて自ずから不退転に致ると。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (大経)また次のように述べる。その仏の本願力は、その名号を聞いて往生したい
  と望めば、みなことごとくその国にいたって、自然と「不退転」にいたる、という
  ことである。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の文は即ちこれ彼の偈の中の文なり。浄影の意に依るに、彼の偈の中に仏の讃嘆を明か
>し、往覲の益を挙ぐるにその五の益を明かす。一には神通の益。二には受記の益。三には
>不退の益。四には起願の益。五には供仏の益。今の偈は第三に不退の益を明かす経文なり。
>これに因りて今の一四句の偈を以て上の住正定聚の義に合す。憬興もまた同じ。今の諸句
>の中にこの偈を引く意〈こころ〉は、仏の讃嘆の中に名号の称歎、これその最要なり。
>これ則ち専ら当願の意たるが故なり。

  次の文は、その偈のなかの文章である。浄影の意(こころ)によれば、その偈のなかで
  仏の讃嘆について明らかにし、往生し仏をみる利益を示すのにあたって、その五つの
  益を明らかにしている、ということである。一つには神通の益。二つには受記の益。
  三つには不退の益。四つには起願の益。五には供仏の益である。この偈は第三の
  「不退の益」を明らかにする経文である。このようにして、この14句の偈は、上記の
  住正定聚の義に結び付けられる。憬興もまた同じである。この諸句のなかで、この偈
  を引用する意(こころ)は、「仏の讃嘆」のなかで「名号の称歎」こそが、最も重要だ
  ということである。これこそがひとえに当願の意(こころ)であるというわけである。

  WikiArcより
    讃嘆
      仏徳をほめたたえること。
    往覲
      往生し仏をみたてまつる
    神通
      超人間的で自由自在な不可思議な力のはたらき。五神通(天眼通・天耳通・
      他心通・神足通・宿命通)、また六神通(五神通に漏尽を加えたもの)があ
      るとされる。
    授記
      仏が修行者に対して、未来に最高のさとりを得るであろうことを予言、
      約束すること。
    不退
      すでに得たさとりや功徳、地位を決して失わないこと。菩薩の修道が進んで
      仏になることが定まり、再び悪趣や二乗(声聞・縁覚)や凡夫の位に退歩し
      たり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、またその位をいう。
    正定聚
      浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏にな
      ることが決定しているともがらをいう。
    称歎
      ほめたたえること。

  大辞林より
    供仏
      仏に物を供えること。仏を供養すること。
    称歎
      感心してほめたたえること。


>問う、今言う所の「本願力」とは、何れの願を指すや。

  問う。ここで言う「本願力」とは、どの願を指すのか。


>答う、第十七を指して本願力という。

  答える。第17を指して本願力という。


>問う、六八願の中に第十八を以て仏本願とすること、自他共に許す。更に異義なし。
>第十七の願、何ぞその言に関〈あずか〉らん。

  問う。48願のなかで第18願をもって仏の本願とすることは、自他ともに認められてい
  るところである。それについてまったく異義はない。どうしてここで第17願について
  言及するのであろうか。


>答う、十七・十八更に相い離れず。行信・能所・機法一なり。総じてこれを言わば、
>四十八願は皆これ本願なり。別してこれを言わば第十八を以てその本願と為ること誰か
>以て諍を成さん。願王たるが故に。但し今の経文、至要たるが故に、十七・十八両願は
>倶に存し、所行・能信共に以て周備す。第一の句は第十七を指す。これ名号なるが故に。
>第二・第三の両句は第十八を指す。これ信心を明し往生を説くが故に。第四の一句は
>第十一を指す。不退を明かすが故に。今当巻に引くことは口称を本と為す。第十七の意
>なり。総じてこれを言う時、この文は専ら十八の願の意たること、置きて論ぜず。

  答える。第17願と第18願とは、相互にまったくかけ離れたものではない。「行と信」
  「能(主体)と所(客体)」「機と法」は一つである。全体として言えば、48願はすべて
  本願である。また、個別にいえば第18願を本願とすることは、争う余地がない。それ
  が願のなかの王であるからである。ただし、この経文は、きわめて重要であるがため
  に、17願と18願の両願がともに存在して、「所行(行ずるともろのもの)」と「能信(信
  ずる主体)」がともに整いそろっているのである。「第一の句(其仏本願力)」は第17願
  を指す。これは名号であるからである。「第二・第三の両句(聞名欲往生・皆悉到彼国)」
  は第18願を指す。これは、信心を明らかにして、往生を説いているからである。
  「第四の一句(自致不退転)」は第11願を指す。不退を明らかにしてからである。
  今ここで、当巻に引用するのは「口称(口で称すること)」を基本としている。それは
  第17願の意(こころ)である。全体として言えば、この文はもっぱら18願の意(こころ)
  であることについては、ひとまず置いて論じない。


>問う、いう所の不退はこれ何の位ぞや。

>問う。ここで言うところの「不退」というのは、どのような位であるか。


>答う、もし摂凡に約せばこれ処不退なり。もし摂聖に約せば行不退あり。また平生業成の
>義を存し、また護念不退の意に依る。隠にまた即得往生不退の義あるべきものなり。

  答える。もし「摂凡(凡夫を摂する)」に限っていえば、それは「処不退」である。
  それをもし、「摂聖(聖者を摂する)」に限っていえば、それは「行不退」あある。
  また、「平生業成」の義があり、また「護念不退(仏・菩薩に守られて不退となる)」
  の意(こころ)による。また、「隠」に「即得往生不退」の意味があると考えるのが
  適当である。

  WikiArcより
    処不退
      浄土に生まれて、そこから退転しないこと。
    行不退
      念仏の行をはげみ、その功徳によって浄土往生が決定するという立場。
    平生業成
      臨終を待つまでもなく、平生に他力の信心をえたそのときに浄土に生れる
      ことが確定すること。
    顕彰隠密
      浄土真宗で、『観経』と『小経』の説相を解釈するのに用いる名目で略して
      隠顕といい、顕を顕説、隠を隠彰ともいう。顕説とは顕著に説かれている
      教義で、『観経』では定散諸行往生すなわち要門の教義であり、『小経』で
      は自力念仏往生すなわち真門の教義である。隠彰とは隠微にあらわされてい
      る真実義で、両経ともに他力念仏往生の法すなわち弘願法である。
    即得往生
      信心をいただくと同時に、正定聚の位につき定まることをいう。
    正定聚
      浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏にな
      ることが決定しているともがらをいう。
      第十八願の信心の行者のこと。また、浄土に往生して仏のさとりを開いた者
      が示現する相(広門示現相)を指すばあいもある。

  大辞林より
    護念
      仏・菩薩が行者を守ること。
    顕彰隠密
      浄土真宗の教説の一。浄土三部経で観無量寿経や阿弥陀経など他力念仏以外
      の修行による往生を説く部分は方便だが、そこにも奥には他力念仏の教えが
      説かれていること。

    『玄義分』の講義(釈真玄師)
      「今、伝聞の旨にまかせて四字の義をつぶさに示さば、凡そ顕彰隠密という
      は、顕というは謂く顕露なり、明白に義を開く、彰とは微彰なり、幽玄に意
      を著す(聖人ご草稿の本に彰字に『うちにあらわす』と左訓したまえり、
      彰字、うちにあらわすとあれば顕は外にあらわすなるべし、内外に彰すの心、
      しるべきなり)隠とは謂く隠覆し伏蔵して見えざるなり、密は謂く秘密なり、
      堅守して開かざる故に、顕は即ち密に対し、彰はまた隠に対す。顕は謂く
      顕すべきを即ち顕す。密は謂く密すべきを即ち密す。隠は謂く顕すべきを
      然も隠す。彰は謂く隠すべきを然も彰す。」

        顕・・・顕露、明白に義を開く(外にあらわす)・・・顕すべきを顕す
        彰・・・微彰、幽玄に意を著す(内にあらわす)・・・顕すべきを隠す
        隠・・・隠覆、伏蔵して見えざる・・・・・・・・・隠すべきを彰す
        密・・・秘密、堅守して開かざる・・・・・・・・・密すべきを密す


>問う、今の偈頌はこれ摂聖の益を明かす。何の故に摂凡に約する義あらんや。

  問う。この偈頌はこれ「摂聖(聖者を摂する)」の益を明らかにするものである。
  どうして「摂凡(凡夫を摂する)」に限って述べる意味があるのか。


>答う。摂聖の益を明かすことは、共に意は凡夫小聖欲生の心を勧めんが為なり。故に摂聖
>の中にこの文ありといえども、その意は専ら摂凡の益に在り。凡夫人を摂するは仏の本意
>なるが故に。

  答える。「摂聖(聖者を摂する)」の益をを明らかにするのは、それもその意(こころ)
  は、凡夫や小聖の浄土に生まれようとする心を勧めようとしているからである。
  だから「摂聖(聖者を摂する)」のなかにこの文があるといっても、その意(こころ)は
  もっぱら「摂凡(凡夫を摂する)」の益にあるのである。それは凡夫人を摂するのが、
  仏の本意だからである。

  WikiArcより
    小聖
      1.地前三賢位の菩薩(十信・十行・十回向)および小乗のさとりを得た聖者。
      2.小乗の聖者。また仏を大聖というのに対して、小乗の果を得た聖者、
       および大乗十地までの菩薩をいう。

●re.10
ボン
関東の男性
[ 1605 ] Re10:教行信証・学習ノート2 2009/09/26 (Sat) 12:31 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
無量寿如来会言。今対如来発弘誓。当証無上菩提因。若不満足諸上願。不取十力無等尊。
心或不堪常行施。広済貧窮免諸苦。利益世間使安楽。乃至。最勝丈夫修行已。
於彼貧窮為伏蔵。円満善法無等倫。於大衆中師子吼。已上抄出。
-----------------------------------------------------------------------------
『無量寿如来会』に言わく、いま如来に対して弘誓を発せり。当に無上菩提の因を証す
べし(証 諸応の反 験なり)。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取ら
じと。心あるいは常行に堪ざらんものに施せん。広く貧窮を済いてもろもろの苦を免れ
しめん。世間を利益して安楽ならしめんと。乃至。最勝丈夫修行し已りて、かの貧窮に
おいて伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆の中にして師子吼せんと。
已上抄出。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に『宝積』の文の中に、初の四句は『無量寿経』の重誓偈の中の第一行の意なり。
次の三句は第二行の意なり。次の四句は前に引く所の第八行の意なり。

その文の中に就きて、「今、如来に対して」とは、世饒王仏を指す。「弘誓を発す」とは
四十八願なり。「十力無等尊」とは、無上仏果の位を指す。十力というは仏の不共の徳な
り。『倶舎論』の第二十七に見えたり。今は文を出さず。ほぼ大綱を示す。

一には処非処智力なり。この処をこの処と知り、非処を非処と知る。この智通じて一切の
情と非情の境とを縁ず。

二には業異熟智力なり。この智は一切の種類業因所感の異熟を分別するなり。

三には等持等至智力なり。いわゆる実の如く諸の三昧静慮の相を知るなり。

四には根上下智力なり。謂わく有情の信等の諸根上下の相を知るなり。信等というは、
信・進・念・定及び慧これなり。

五には種種勝解力なり。謂わく有情の勝意楽の別を知るなり。

六には種種界智力なり。諸の有情の前際無始所成の志性随眠および諸法の種種の相を知る
なり。

七には遍趣行智力なり。謂わく実の如く生死の因果を知るなり。

八には宿住随念智力なり。謂わく実の如く自他宿住の諸の事を知るなり。

九には死生智力なり。諸の有情の未来世の此死生彼を知るなり。

十には漏尽智力なり。謂わく漏尽身の所得の智なり。

●re.11
ボン
関東の男性
[ 1606 ] Re11:教行信証・学習ノート2 2009/09/26 (Sat) 12:33 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>無量寿如来会言。今対如来発弘誓。当証無上菩提因。若不満足諸上願。不取十力無等尊。
>心或不堪常行施。広済貧窮免諸苦。利益世間使安楽。乃至。最勝丈夫修行已。
>於彼貧窮為伏蔵。円満善法無等倫。於大衆中師子吼。已上抄出。
>-----------------------------------------------------------------------------
>『無量寿如来会』に言わく、いま如来に対して弘誓を発せり。当に無上菩提の因を証す
>べし(証 諸応の反 験なり)。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取ら
>じと。心あるいは常行に堪ざらんものに施せん。広く貧窮を済いてもろもろの苦を免れ
>しめん。世間を利益して安楽ならしめんと。乃至。最勝丈夫修行し已りて、かの貧窮に
>おいて伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆の中にして師子吼せんと。
>已上抄出。
>-----------------------------------------------------------------------------

  『無量寿如来会』では次のように述べる。いま如来に対して弘誓(48願)を申し述べた。
  それは、まさにこの上ない仏のさとりの因(たね)の証拠(あかし)となるであろう。
  (証shou 発音は諸shoと応ouの接合 意味は「験」である)。もし、もろもろの
  上述の願を満足させないならば、十力をそなえた比類のない尊者になるまい(と誓っ
  たのである)。心(精神)に対して、あるいは絶え間ない修行に耐えられない者に対し
  て、これを施そうと思う。智慧も能力も貧しい者を広く救済して、もろもろの苦を免
  れさせようと思う。世間を利益して安楽にさせようと思う。〈中略〉最もすぐれた志
  をもって精進する者としての修行を成し遂げて、あの智慧も能力も貧しい者に対して、
  隠れた宝の蔵となろうと思う。それに匹敵するものがだれもいないほどの「善法(善
  き行い)」を完全に成就しようと思う。大衆のなかに飛び込んで、威厳を持って説法
  しようと思う。以上、部分引用。

  WikiArcより
    無上菩提
      無上最高のさとり。この上ない仏のさとり。
    十力無等尊
      仏のこと。十種の力をそなえてならびないので無等尊という。
    貧苦(びんぐ)
      智慧も能力も貧しい者。
    最勝丈夫
      最もすぐれた勇気あるもの。
    丈夫
      すぐれた志をもって精進する者。菩薩。
    伏蔵
      地中に隠された宝の蔵。
    善法
      人々を安穏ならしめるような善き行いのことで、とくに六波羅蜜行のような
      自他ともに仏に成ることのできる善行のことをいう。
    等倫
      ひとしい者。等しきともがら。

  大辞林より
    証
      1.証拠。しるし。
      2.悟り。悟ること。修行や仏事の成果を示すこと。
    験
      仏道・修験道などの修行を積んだ効果。修行や祈りの結果あらわれるふしぎ
      なしるし。
    常行
      修行などを休みなくおこなうこと。
    心
      対象を捉え、思惟するはたらきをもつもの。主観。精神。
    円満
       悟り・智慧・往生・願いなどが完全に実現すること。成就すること。

  漢和辞典より
    験・・・しらべる、こころみ、ききめ、あかし、証拠


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『宝積』の文の中に、初の四句は『無量寿経』の重誓偈の中の第一行の意なり。
>次の三句は第二行の意なり。次の四句は前に引く所の第八行の意なり。

  次に『宝積経』のなかの『無量寿如来会』の文のなかで、初の四句は『無量寿経』の
  重誓偈のなかの一行目の意(こころ)である。次の三句は、二行目の意(こころ)である。
  次の四句は、前にも引用した八行目の意(こころ)である。

  大宝積経(宝積経)
    120巻49会の独立した教典類の集大成で、「宝積部」と呼ばれる大蔵経中の
    一部門の根幹となっている教典。「宝積」(ラトナ・クータ)とは、法の宝の
    集積の意。本来は「迦葉品」のみを指す。『無量寿如来会』は『宝積経』の一部。


>その文の中に就きて、「今、如来に対して」とは、世饒王仏を指す。「弘誓を発す」とは
>四十八願なり。「十力無等尊」とは、無上仏果の位を指す。十力というは仏の不共の徳な
>り。『倶舎論』の第二十七に見えたり。今は文を出さず。ほぼ大綱を示す。

  その文のなかで、「今、如来に対して」というのは、世饒王仏を指している。「弘誓
  を発す」というのは48願のことである。「十力無等尊」とは、このうえない仏果の位
  を指す。十力というのは、仏だけが持ちうる徳である。『倶舎論』の第27で、それを
  見ることができるが、ここでは文を出さず、おおよその大綱を示す。


>一には処非処智力なり。この処をこの処と知り、非処を非処と知る。この智通じて一切の
>情と非情の境とを縁ず。

  一つには「処非処智力」である。この道理をこの道理と知り、道理でないことを道理でな
  いことと知る。この智を通じて、いっさいの我執と我執でないことの境界をふちどる。

  WikiArcより
    処・・・ことわり、道理
    情・・・我執。我情。自己の感情。


>二には業異熟智力なり。この智は一切の種類業因所感の異熟を分別するなり。

  二つには「業異熟智力」である。この智は、あらゆる種類の業因がしかるべき結果を
  生ずるという「異熟」ということを理解するのである。

  大辞林より
    異熟
      善または悪と定めうる行為が原因となって、それ自体は善でも悪でもない
      中性的な結果である楽や苦を生ずること。果報。
    業因
      未来に善悪の報いを生じる原因となる善悪一切の所業。
    所感
      過去の行為が結果を生ずること。また、その結果。

  WikiArcより
    先業の所感
      前世の業因による報い。前世の行為に引かれたもの。

  http://mind-only.wetpaint.com/page/%E7%95%B0%E7%86%9F+vip%C4%81ka
    異熟
      異熟とは、過去または現在の行為を因として、その果報が因とは異なった形
      で熟することで、アーラヤ識のことを意味する。


>三には等持等至智力なり。いわゆる実の如く諸の三昧静慮の相を知るなり。

  三つには「等持等至智力」である。いわば如実に、もろもろの「三昧」「静慮」の
  相(すがた)を知ることである。

  WikiArcより
    三昧
      梵語サマーディの音写。
      心を一処にとどめて散り乱れぬ安らかで静かな状態になること。

  大辞林より
    三昧
      心を一つのものに集中させて、安定した精神状態に入る宗教的な瞑想。
      また、その境地。三摩地。三摩提。定。正受。等持。
    静慮
      心を落ち着けて静かにおもいをめぐらすこと。

  (参考)http://homepage2.nifty.com/ych_ysd/page03.htm
    「ヨーガ・スートラ」の八部門
      禁戒・勧戒・坐法・調気・制感・凝念・静慮・三昧


>四には根上下智力なり。謂わく有情の信等の諸根上下の相を知るなり。信等というは、
>信・進・念・定及び慧これなり。

  四つには「根上下智力」である。有情の「信」などの諸根の上下の相(すがた)を知る
  ことである、といわれる。「信」などというは、信・進・念・定・慧である。

  大辞林より
    有情
      〔梵 sattva 生存するもの、の意〕
      人間や動物など心・感情・意識をもつもの。衆生。薩。

  WikiArcより
    有情
      梵語サットヴァ(sattva)の漢訳。情を有するもの。生きとし生けるもの。
      旧訳では衆生、新訳では有情と漢訳する。
    諸根
      1.五根のこと。
      2.六根のこと。
    五根
      1.眼(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・身(触覚)の感覚器官および機能
      2.信・精進・念・定・慧の五無漏根(五つの仏道実践徳目)をいう。これらは
       煩悩をおさえてさとりを開かせる勝れたはたらきがあるから根といわれる。
    六根
      六識の依りどころとなり、対象を認識するための六種の器官。
      眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五つの感覚器官と、前刹那の意識である意根。


>五には種種勝解力なり。謂わく有情の勝意楽の別を知るなり。

  五つには「種種勝解力」なり。有情のそれぞれの勝(すぐれたところ)・意(こころ)・
  楽(ねがい、たのしみ)の異なっていることを知ること、といわれる。

●re.12
ボン
関東の男性
[ 1607 ] Re12:教行信証・学習ノート2 2009/09/26 (Sat) 12:36 △up ▽down
(つづき)

>六には種種界智力なり。諸の有情の前際無始所成の志性随眠および諸法の種種の相を知る
>なり。

  六つには「種種界智力」である。もろもろの有情の、始りのない過去から生ずるとこ
  ろの志性(こころざしとさが)、随眠(煩悩のたね)、および、もろもろの法のさまざま
  な相(すがた)を知ることである。

  大辞林より
    三際(前際・中際・後際)
      過去・現在・未来。また、前世・現世・来世。三世。
    無始
      ある時点から始まったのではなく、永遠の過去から存在すること。

  漢和辞典より
    志・・・こころざす、ねがい、ねらい、おぼえる
    性・・・さが、うまれつき、本性、たち、性格、いのち

  志性について
    『地蔵菩薩功徳経』に「志性無定」という言葉が出てくる
      「志性無定 習悪者多」(志性が定まらず、習わしの悪い者が多い)

  随眠(ずいめん)について
    http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013987990?fr=rcmd_chie_detail
      随眠の解釈は仏法において阿頼耶識に内在する煩悩の種子であるとしています。

    http://oshiete1.goo.ne.jp/qa404921.html
      出典は小乗仏教の理論書である「倶舎論」の中の「随眠品」という章です
      (“随眠”とは煩悩の別名)。
      まず6随眠と呼ばれる根本的な煩悩があります。
     「貪、瞋、痴、慢、疑、見」がそれで、最後の「見」をさらに細かに5分類す
     ることで10随眠が定義されます。
     仏教には四諦(苦、集、滅、道)という真理の定義分類があるのですが、
     10随眠のうち8随眠について、このいずれを縁として生みだされる煩悩であるか
     によってさらに細かく分類され、32の随眠が定義されます。これらは全て
     “見惑”といい、正しいものの見方によって断てる煩悩とされます。
     これに加えて“修惑”、すなわち正しい修行によって断てる煩悩に4種があり、
     総じて36の随眠が生まれます。これが三界のうち最下層の欲界における煩悩の
     総数です。
     三界のあとふたつの上層世界、色界と無色界には“瞋”が存在しないとされる
     ため、それぞれ31の煩悩があるとされます。
     従って三界の随眠は合計36+31+31=98随眠となります。これが倶舎論の定義する
     煩悩の総数です。

    http://www.geocities.jp/tsukapi2000/lenma.html
      「随眠」という言葉は稀な言葉で「阿毘達磨倶舎論」という仏典注釈論に頻出す
      る思想で、明確に「煩悩」とは趣を異にする根本・深層煩悩として書かれていま
      す。「煩悩」が荒波うねる浅い海だとすれば「随眠」は静かな深海てところでし
      ょうか。

    ウィキペディアより
      世親『阿毘達磨倶舎論』(略して『倶舎論』)
        1.界品(かいぼん)・・・・・・存在の種類
        2.根品(こんぼん)・・・・・存在現象の活動
        3.世間品(せけんぼん)・・・・世界の構成
        4.業品(ごうぼん)・・・・・・有情の輪廻の原因となる業
        5.睡眠品(ずいめんぼん)・・・有情の煩悩
        6.賢聖品(けんしょうぼん)・・悟りの段階
        7.智品(ちぼん)・・・・・・・智慧
        8.定品(じょうぼん)・・・・・禅定
        9.破我品(はがぼん)
          界品・根品で基礎的範疇を説明し、
          世間品・業品・随眠品で迷いの世界を解明し、
          賢聖品・智品・定品で悟りに至る道を説く。
          最後に付録の破我品で異説を論破する。


>七には遍趣行智力なり。謂わく実の如く生死の因果を知るなり。

  七つには「遍趣行智力」である。いわば如実に、生死の因果を知ることである。


>八には宿住随念智力なり。謂わく実の如く自他宿住の諸の事を知るなり。

  八つには「宿住随念智力」である。いわば如実に、自分や他者の過去世の姿のもろも
  ろのことを知ることである。

    漢和辞典より
      宿・・・やどる、とどめる、以前からの
      住・・・すむ、すまい、とどまる

    ※「宿住」(宿る住まい)とは、どうやら「過去世の姿」のことらしい


>九には死生智力なり。諸の有情の未来世の此死生彼を知るなり。

  九つには「死生智力」である。もろもろの有情の未来世における
  「此死生彼(ここで死に、彼の地に生まれる様子)」を知ることである。


>十には漏尽智力なり。謂わく漏尽身の所得の智なり。

  十には「漏尽智力」である。いわゆる、煩悩が尽きた身のものが得るところの智である。

  大辞林より
    漏尽通
      六神通の一。煩悩を打ち消して悟りの境地に至っていることを知る超人的能力。

  WikiArcより
    六神通
      梵語シャド・アビジュニャーの漢訳。六通ともいう。すぐれた智慧に基礎づ
      けられた自由自在な活動能力。
        1.神足通。欲する所に自由に現れることができる能力。
        2.天眼通。人々の未来を予知する能力。
        3.天耳通。世間一切の苦楽の言葉、遠近の一切の音を聞くことができる能力。
        4.他心通。他人の考えていることを知る能力。
        5,宿命通。自己や他人の過去のありさまを知る能力。
        6.漏尽通。煩悩ぼんのうを滅尽させる智慧。
           六通のうち前の五は凡夫にも得られるが、第六の漏尽通は聖者の
           みが得るといわれる。

●re.13
ボン
関東の男性
[ 1608 ] Re13:教行信証・学習ノート2 2009/09/28 (Mon) 00:52 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
又言。阿難。以此義利故。無量無数不可思議無有等等無辺世界諸仏如来。
皆共称讃無量寿仏所有功徳。已上
-----------------------------------------------------------------------------
(如来会)また言わく、阿難、この義利をもってのゆえに、無量無数不可思議無有
等等無辺世界の諸仏如来、みな共に無量寿仏の所有の功徳を称讃したまうと。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次の文は同経願成就の文なり。文意、見つべし。

●re.14
ボン
関東の男性
[ 1609 ] Re14:教行信証・学習ノート2 2009/09/28 (Mon) 00:53 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>又言。阿難。以此義利故。無量無数不可思議無有等等無辺世界諸仏如来。
>皆共称讃無量寿仏所有功徳。已上
>-----------------------------------------------------------------------------
>(如来会)また言わく、阿難、この義利をもってのゆえに、無量無数不可思議無有
>等等無辺世界の諸仏如来、みな共に無量寿仏の所有の功徳を称讃したまうと。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (如来会)また次のようにのべる。阿難よ、このような利益があるがために、計り
  知れず、数限りなく、その有る無しを思いはかることもできない、等々の、限りな
  い世界のもろもろの仏や如来が、みなともに、無量寿仏の持っている功徳を称讃な
  さっているのである。

  WikiArcより
    義利
      利益
    有無
      1.有と無、肯定と否定、存在と非存在。
      2.有見と無見。あらゆる事物を、実に有りとみなすことと無しとみなすこと。
       いずれも誤った見解なので邪見という。
    有
      1.無・空に対する語。存在を意味する。
      2.有情としての生存。また迷えるものの存在の世界。

  大辞林より
    無有
      無と有。ないこととあること。有無。
    有無
      すべての存在するものとしないもの。
    無
      事物も現象も全く存在しないこと。
    有
      存在。存在物。事物。実在。
    無辺
      広々と限りのないこと。際限のないこと。また、そのさま。
    無辺世界
      無限の世界。虚空世界。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の文は同経願成就の文なり。文意、見つべし。

次の文は、同経(無量寿如来会)の願成就の文である。文の意(こころ)を見てください。

●re.15
ボン
関東の男性
[ 1610 ] Re15:教行信証・学習ノート2 2009/09/30 (Wed) 10:15 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏檀過度人道経言。第四願。使某作仏時。
令我名字皆聞八方上下無央数仏国。皆令諸仏各於比丘僧大衆中説我功徳国土之善。
諸天人民[ケン06]飛蠕動之類。聞我名字莫不慈心。歓喜踊躍者皆令来生我国。
得是願乃作仏。不得是願終不作仏。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(大阿弥陀経)に言わく、第四に
願ずらく、それがし作仏せしむ時、我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に
聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を
説かしめん。諸天・人民・ケン飛・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きて慈心せ
ざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我国に来生せしめん。この願を得ていまし作仏
せん。この願を得ずは、終に作仏せじと。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次の文は『大阿弥陀経』の文なり。挙ぐる所の経名はこれ梵語なり。『貞元録』に云わ
く「阿弥陀経二巻。註に云わく、上巻の題に云わく、仏説請仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀
過度人道経、また無量寿経と名づく」已上。諸と請と、那と耶と、本に異あるか。

この願は十七・十八両願の意を含容す。いわゆる初より「之善」というに至るまでは
第十七の意なり。「諸天」以下は第十八の意なり。「ケン飛」というは、畜生蠢蠢の
種類なり。

ケンは『玉篇』に云わく「於犬於沿二の切。蜀の貌」。ナンは『広韻』に云わく
「而エンの切。虫動」。同じく『大経』にはただ「十方衆生」という。
畜類に及ばず。相違いかん。

答う、誰か謂う、十方衆生の言は畜類に及ばずとは、畜は至心信楽に関らずといえども、
これまた随分の益なきにあらず。故に『大経』に云わく「もし三途勤苦の処に在りても
この光明を見れば、みな休息を得て、また苦悩なし。寿終の後にみな解脱を蒙る」と已上。

●re.16
ボン
関東の男性
[ 1611 ] Re16:教行信証・学習ノート2 2009/09/30 (Wed) 16:14 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>仏説諸仏阿弥陀三那三仏薩楼仏檀過度人道経言。第四願。使某作仏時。
>令我名字皆聞八方上下無央数仏国。皆令諸仏各於比丘僧大衆中説我功徳国土之善。
>諸天人民[ケン06]飛蠕動之類。聞我名字莫不慈心。歓喜踊躍者皆令来生我国。
>得是願乃作仏。不得是願終不作仏。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(大阿弥陀経)に言わく、第四に
>願ずらく、それがし作仏せしむ時、我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に
>聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を
>説かしめん。諸天・人民・ケン飛・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きて慈心せ
>ざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我国に来生せしめん。この願を得ていまし作仏
>せん。この願を得ずは、終に作仏せじと。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(大阿弥陀経)では次のように述べて
  いる。第四に次のように願う。私が仏になろうとするときに、私の名字が、八方上下
  の数え切れない仏国のすべてに聞こえるようにしようと思う。もろもろの仏が、みな
  それぞれに比丘僧や大衆の中にあって、私の功徳や国土の良さを説くようにさせよう
  と思う。諸天・人民・虫けらなどが、私の名字を聞いて、情け深い心を持たないもの
  がないようにしようと思う。身も心もよろこんで踊り跳ねようとする者は、みな我国
  に来て生を受けるようにしようと思う。この願いを成就して、まさに今、仏になろう
  と思う。この願いが成就しないならば、いつまでたっても仏になることはないだろう。

  WikiArcより
    無央数(むおうしゅ) ⇒ 阿僧祇(あそうぎ)
    阿僧祇(あそうぎ)
      梵語アサンキャの音写。無数・無央数(央は尽きるの意)と漢訳する。数える
      ことができないという意。無量の数。また非常に大きな数の単位を表す。
    蠕動の類
      足を持たずに動くもので、みみずなどのように身体を屈伸して地をはう虫の類
    歓喜
      往生を得ることをよろこぶこと。必ず往生できるとよろこぶ心。
      また歓は身によろこぶことであり、喜は心によろこぶことであるという。
    歓喜踊躍
      踊躍は、おどりはねること。往生を得ることをよろこぶ心のきわまりない
      すがたを歓喜踊躍という。

  大辞林より
    比丘
      出家して、定められた戒を受け、正式な僧となった男子。僧。
    僧
      〔梵 sagha の音訳「僧伽(そうぎや)」の略。衆または和合衆と訳す。仏門に
      はいって仏道を修行する者の団体の意から〕出家し、仏門にはいって修行す
      る人。僧侶。出家。法師。沙門。
    慈心
      慈悲深い心。情け深い心。
    歓喜
      説法を聞いたり、仏の功徳を見たりして、信心を得て非常によろこぶこと。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の文は『大阿弥陀経』の文なり。挙ぐる所の経名はこれ梵語なり。『貞元録』に云わ
>く「阿弥陀経二巻。註に云わく、上巻の題に云わく、仏説請仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀
>過度人道経、また無量寿経と名づく」已上。諸と請と、那と耶と、本に異あるか。

  次の文は『大阿弥陀経』の文である。ここで取り上げている経の名前は、梵語(の音写
  )である。『貞元録』では次のように述べる。「阿弥陀経二巻。註で次のように述べる。
  上巻の題に次のように述べる。仏説請仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経、また
  無量寿経と呼ばれる。」「諸」と「請」、「那」と「耶」、本に違いがあるようだ。

  WikiArcより
    貞元の新定釈教の目録
      三十巻。唐の徳宗の貞元十六年(800)、沙門円照が勅命によって編集した経
      典目録。略して『貞元録』といわれる。新定というのは開元年間に智昇によ
      る『開元録』と呼ばれるものがあるため。なお貞元は通常「じょうげん」と
      いう。


>この願は十七・十八両願の意を含容す。いわゆる初より「之善」というに至るまでは
>第十七の意なり。「諸天」以下は第十八の意なり。「ケン飛」というは、畜生蠢蠢の
>種類なり。

  この願は、17・18両願の意(こころ)を、そのなかに含んでいる。初めから「之善」ま
  では、第17願の意(こころ)である。「諸天」以下は、第18願の意(こころ)である。
  「ケン飛」というは、畜生や蠢めく虫のたぐいである。

  ※「ケン飛」の「ケン」は、虫偏に員と書くが、パソコンで日本語変換ができない。

  漢和辞典より
    含・・・ふくむ、口にいれる、中にもつ、心におもう
    容・・・いれる、盛る、おさめる、なかみ、すがた

  大辞林より
    蠢蠢
      虫のうごめくさま。もののむくむくとうごめくさま。


>ケンは『玉篇』に云わく「於犬於沿二の切。蜀の貌」。蠕は『広韻』に云わく
>「而エンの切。虫動」。同じく『大経』にはただ「十方衆生」という。
>畜類に及ばず。相違いかん。

  ケンは『玉篇』では次のように述べている。「音は犬と沿の接合。毛虫のすがた」。
  蠕は『広韻』に云わく「而とエンの接合。虫の動き」。同じことにつて『大経』では
  ただ「十方衆生」とだけいっている。畜類には言及していない。この違いは何か。

  漢和辞典より
      蜀・・・あおむし、いもむし、毛虫
      貌・・・かたち、すがた、顔だち、外に表れたようす、動作、態度


>答う、誰か謂う、十方衆生の言は畜類に及ばずとは、畜は至心信楽に関らずといえども、
>これまた随分の益なきにあらず。故に『大経』に云わく「もし三途勤苦の処に在りても
>この光明を見れば、みな休息を得て、また苦悩なし。寿終の後にみな解脱を蒙る」と已上。

  答える。誰かが次のように言っている。「十方衆生」という言葉が「畜類」には及ば
  ないということについていえば、「畜(けだもの)」は「至心信楽」に関わらないとは
  いっても、これもまた、それ相応の利益がないというわけでもない。だから『大経』
  では次のように述べる。「もし、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)にあって苦しみにさいな
  まれていたとしても、この光明を見れば、みな一時の安らぎを得て、また苦悩もなく
  なる。そして、寿命がつきたあとに、みな解脱が与えられる。」

  WikiArcより
    三途
      三悪道・三悪趣のこと。猛火に焼かれる火途(地獄)、刀・杖で迫害される
      刀途(餓鬼)、互いに食いあう血途(畜生)をいう。
    解脱
      煩悩(ぼんのう)の束縛から解放され、迷いの苦から脱すること。

  大辞林より
    三途
      〔「途」は道・境界の意〕
      死者が悪行のために生まれる三つの場所。すなわち火途(地獄道)・血途
      (畜生道)・刀途(餓鬼道)の総称。三悪道。
    解脱
      煩悩の束縛から解放されて、安らかで自由な悟りの境地に達すること。
      悟ること。涅槃。

●re.17
ボン
関東の男性
[ 1612 ] Re17:教行信証・学習ノート2 2009/10/03 (Sat) 02:17 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
無量清浄平等覚経巻上言。我作仏時。令我名聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中
嘆我功徳国土之善。諸天人民蠕動之類。聞我名字皆悉踊躍来生我国。不爾者我不作仏。
我作仏時。他方仏国人民。前世為悪聞我名字。及正為道欲来生我国。寿終皆令不復更
三悪道。則生我国在心所願。不爾者我不作仏。
-----------------------------------------------------------------------------
『無量清浄平等覚経』巻上に言わく、我作仏せん時、我が名をして八方・上下・無数の
仏国に聞かしめん。諸仏、おのおの弟子衆の中にして我が功徳・国土の善を嘆ぜん。
諸天・人民・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、
我が国に来生せしめん。しからずは我作仏せじと。我作仏せん時、他方仏国の人民、
前世に悪のために我が名字を聞き、および正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。
寿終えてみなまた三悪道に更らざらしむ。すなわち我が国に生まれんこと、
心の所願にあらん。しからずは我作仏せじと。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に『覚経』の文なり。説相は大略『宝積経』に同じ。「令我名聞」等とは、十七の願の
意なり。「来生我国」等とは、十八の願の意なり。「前世為悪」等とは、また聞名の益を
説くなり。

●re.18
ボン
関東の男性
[ 1613 ] Re18:教行信証・学習ノート2 2009/10/04 (Sun) 00:24 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>無量清浄平等覚経巻上言。我作仏時。令我名聞八方上下無数仏国。諸仏各於弟子衆中
>嘆我功徳国土之善。諸天人民蠕動之類。聞我名字皆悉踊躍来生我国。不爾者我不作仏。
>我作仏時。他方仏国人民。前世為悪聞我名字。及正為道欲来生我国。寿終皆令不復更
>三悪道。則生我国在心所願。不爾者我不作仏。
>-----------------------------------------------------------------------------
>『無量清浄平等覚経』巻上に言わく、我作仏せん時、我が名をして八方・上下・無数の
>仏国に聞かしめん。諸仏、おのおの弟子衆の中にして我が功徳・国土の善を嘆ぜん。
>諸天・人民・蠕動の類〈たぐい〉、我が名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、
>我が国に来生せしめん。しからずは我作仏せじと。我作仏せん時、他方仏国の人民、
>前世に悪のために我が名字を聞き、および正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。
>寿終えてみなまた三悪道に更らざらしむ。すなわち我が国に生まれんこと、
>心の所願にあらん。しからずは我作仏せじと。
-----------------------------------------------------------------------------

  『無量清浄平等覚経』巻上では次のように述べている。私が仏になろうとするとき
  に、私の名が八方・上下・無数の仏の国に聞こえるようにしよう。もろもろの仏が、
  それぞれの弟子たちのなかで、私の功徳・国土の良さを賞賛するであろう。諸天・
  人民・虫けらなどが、私の名字を聞いて、(その喜びに)躍り上がろうとするものは、
  私の国に来て生を受けるようにしよう。もしそうでなかったら私は仏になろうと思わ
  ない。私が仏になろうとするときに、ほかの仏の国の人民が、前世に悪事を行ったも
  のの、我が名字を聞き、そして正しく(さとりへの)道を行い、我が国に来て生を受け
  たいと欲したとしよう。寿(いのち)を終えて、みなが、また三悪道に帰らないように
  しようと思う。すなわち、彼らが我が国に生まれようとすることは、心の願うところ
  である。もしそうならなかったら、私は仏になろうとは思わない。

  漢和辞典より
    為・・・なす、行う、なる、治める、つくる、まねする、・・・のために

  前世為悪聞我名字(前世に悪のために我が名字を聞き)
  前世為悪聞我名字(前世に悪をなし、我が名字を聞く)

  正為道欲来生我国(正しく道のために我が国に来生せんと欲わん)
  正為道欲来生我国(正しく道をなし、我が国に来生せんと欲わん)


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『覚経』の文なり。説相は大略『宝積経』に同じ。「令我名聞」等とは、十七の願の
>意なり。「来生我国」等とは、十八の願の意なり。「前世為悪」等とは、また聞名の益を
>説くなり。

  次は『覚経』の文である。説の様子は、おおよそ『宝積経』に同じである。
  「令我名聞」等というのは、第17願の意(こころ)である。「来生我国」等というのは、
  第18願の意(こころ)である。「前世為悪」等というのは、また、(仏の)名を聞くこと
  の利益を説くものである。

●re.19
ボン
関東の男性
[ 1614 ] Re19:教行信証・学習ノート2 2009/10/04 (Sun) 00:25 △up ▽down

みなさま、こんばんは。
今回、以下の部分の理解のしかたで、説明をようすると思いましたので補足します。

-------------------------------------------------------
前世為悪聞我名字。及正為道欲来生我国。
-------------------------------------------------------
前世に悪のために我が名字を聞き、
および正しく道のために我が国に来生せんと欲わん。
-------------------------------------------------------

「前世為悪聞我名字」は「前世に悪のために我が名字を聞き」と読み下し、
「正為道欲来生我国」は「正しく道のために我が国に来生せんと欲わん」と読み
下しています。

つまり、「為」を「〜のために」と読み下しているわけです。
この点は、本願寺出版社の聖典でも、明治書院の島地大等編の聖典でも同様です。

しかし、私はその字面を追うことはできても、「前世に悪のために我が名字を聞き」と
はどういうことなのか、また、「正しく道のために我が国に来生せんと欲わん」とはど
ういうことなのか、残念ながら、理解ができませんでした。

そこで、「為」の字の意味を調べてみると、「〜のために」のほかに
「〜をなす(行う)」という意味もあることがわかります。

そうすると、「前世為悪聞我名字」は「前世に悪をなし、我が名字を聞く」とも読み
下せるし、「正為道欲来生我国」は「正しく道をなし、我が国に来生せんと欲わん」
とも読みくだせるわけです。

また、本願寺出版社の聖典の「前世に悪のために我が名字を聞き」の部分の脚注に
以下のような記述があります。

「『悪のために・・・』 仏教を誇るためや名聞利養のために名号の法を聞くという
意か。あるいは『悪をなして」と読み、悪をなしたことが縁となって名号を聞くという
説もある。」

さらに、石田瑞麿氏の現代語訳では、当該箇所は次のようになっている。
「前世にわたしをそしろうと思って私の名を聞いたにせよ、あるいはまた、正しく道を
求めてわたしの国に来たいと思ったにせよ、・・・」

どちらにしても、何かしっくりと来ないのですが、少なくとも「為」を「〜をなす」と
読み下してもよさそうだ、ということはわかります。

なお、この直前のところでも引用されていた「大阿弥陀経」のなかに、以下の記述が
あるようです。

「第五に願ずらく。某をして作仏せしめん時、八方・上下の諸の無央数の天・人民及び
ケン飛・蠕動之類、若し前世に悪を作すに、我が名字を聞きて我が国に来生せんと欲はん
者は、即便ち正に返りて自ら過を悔い、道の為に善を作し、便ち経戒を持して、願じて我
が国に生まれんと欲ひて断絶せずば、寿終りて皆泥犁(地獄)・禽獣(畜生)・薜茘(餓鬼)に
復らず、即ち我が国に生れて心の所願に在ら令めん。この願を得ば乃ち作仏し、この願を
得ざれば終に作仏せず。」

ここでは、「前世に悪事を働いたとしても、我が名字を聞いて、我が国に来生したいと思
ったものは、・・・三悪道にかえらない。」とはっきりと書いています。「悪を作す」は
「悪をなす」に通じる意味合いのものと思います。

このようなわけで、「為」を「〜をなす」と読み下すことが経の趣旨にも合うし、
意味が通りやすいように感じました。

南无阿彌陀佛

●re.20
ボン
関東の男性
[ 1615 ] Re20:教行信証・学習ノート2 2009/10/04 (Sun) 23:53 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
阿闍世王太子及五百長者子。聞無量清浄仏二十四願。皆大歓喜踊躍。心中倶願言。
令我等復作仏時皆如無量清浄仏。仏則知之告諸比丘僧。是阿闍世王太子及五百長者子。
却後無央数劫皆当作仏如無量清浄仏。仏言。是阿闍世王太子五百長者子。
作菩薩道以来。無央数劫皆各供養四百億仏已。今復来供養我。
是阿闍世王太子及五百人等。皆前世迦葉仏時。為我作弟子。今皆復会。
是共相値也。則諸比丘僧聞仏言。皆心踊躍莫不歓喜者。乃至。
-----------------------------------------------------------------------------
(平等覚経)阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、
みな大いに歓喜し踊躍して、心中にともに願じて言わまく、我等また作仏せん時、
みな無量清浄仏のごとくならしめんと。仏すなわちこれを知ろしめして、もろもろの
比丘僧に告げたまわく、この阿闍世王太子および五百の長者子、無央数劫を却後す。
みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべしと。仏の言わく、この阿闍世王太子・
五百の長者子、菩薩の道を作してこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養し
已りて、今また来りて我を供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に
迦葉仏の時、我がために弟子と作れりき。今みなまた会して、これ共にあい値えるなり。
すなわちもろもろの比丘僧、仏の言〈みこと〉を聞きて、みな心に踊躍して歓喜せざる
者なけんと。乃至
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「阿闍世王太子」以下は聞経の益を説きて宿命の事を述ぶ。

●re.21
ボン
関東の男性
[ 1616 ] Re21:教行信証・学習ノート2 2009/10/05 (Mon) 18:49 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>阿闍世王太子及五百長者子。聞無量清浄仏二十四願。皆大歓喜踊躍。心中倶願言。
>令我等復作仏時皆如無量清浄仏。仏則知之告諸比丘僧。是阿闍世王太子及五百長者子。
>却後無央数劫皆当作仏如無量清浄仏。仏言。是阿闍世王太子五百長者子。
>作菩薩道以来。無央数劫皆各供養四百億仏已。今復来供養我。
>是阿闍世王太子及五百人等。皆前世迦葉仏時。為我作弟子。今皆復会。
>是共相値也。則諸比丘僧聞仏言。皆心踊躍莫不歓喜者。乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(平等覚経)阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、
>みな大いに歓喜し踊躍して、心中にともに願じて言わまく、我等また作仏せん時、
>みな無量清浄仏のごとくならしめんと。仏すなわちこれを知ろしめして、もろもろの
>比丘僧に告げたまわく、この阿闍世王太子および五百の長者子、無央数劫を却後す。
>みな当に作仏して無量清浄仏のごとくなるべしと。仏の言わく、この阿闍世王太子・
>五百の長者子、菩薩の道を作してこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養し
>已りて、今また来りて我を供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に
>迦葉仏の時、我がために弟子と作れりき。今みなまた会して、これ共にあい値えるなり。
>すなわちもろもろの比丘僧、仏の言〈みこと〉を聞きて、みな心に踊躍して歓喜せざる
>者なけんと。乃至
>-----------------------------------------------------------------------------

  (平等覚経)阿闍世王太子と五百人の長者の子供たちは、無量清浄仏の24願を聞いて、
  みな大いに身も心もよろこんで踊り上がって、心の中に願って次のように言った。
  「私たちも仏になろうとするときは、みな無量清浄仏のようになるようにしよう。」
  仏は、このことを知って、もろもろの比丘僧に次のように告げた。「この阿闍世王太
  子と五百人の長者の子供たちは、その後、数え切れない長い歳月をへて、みなまさに
  仏となって、無量清浄仏のようになるにちがいない。」仏は次のように言った。
  「この阿闍世王太子と五百人の長者の子供たちは、菩薩の道を修めて、それから今ま
  での数え切れない長い歳月に、みなそれぞれに四百億の仏を供養し終わって、今また
  ここに来て私を供養した。この阿闍世王太子と五百人のものたちは、みな前世において、
  私が迦葉仏のときに、私のために弟子となった。そして今、みなまたここに再会して、
  顔を合わせたのである。」そこで、もろもろの比丘僧は、仏のお言葉を聞きて、みな
  心のなかで躍り上がって歓喜しないものはなかったのである。(中略)

  却後無央数劫
    無央数劫を却後す
    のち無央数劫を却(さ)りて・・・・・本願寺出版社の聖典
    後(のち)無央数劫を却(さ)りて・・・明治書院の島地大等編の聖典

  漢和辞典より
    値・・・あう、遭遇する、かなう、一致する、あたいする


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「阿闍世王太子」以下は聞経の益を説きて宿命の事を述ぶ。

  「阿闍世王太子」以下は、経を聞くことの利益を説いて、宿命について述べている。

●re.22
ボン
関東の男性
[ 1617 ] Re22:教行信証・学習ノート2 2009/10/07 (Wed) 00:45 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
如是人聞仏名 快安穏得大利 吾等類得是徳 諸此刹獲所好 無量覚授其決 
我前世有本願 一切人聞説法 皆悉来生我国 吾所願皆具足 従衆国来生者 
皆悉来到此国 一生得不退転 速疾超便可到 安楽国之世界 至無量光明土 
供養於無数仏 非有是功徳人 不得聞是経名 唯有清浄戒者 乃還聞斯正法 
悪驕慢蔽懈怠 難以信於此法 宿世時見仏者 楽聴聞世尊教 人之命希可得
仏在世甚難値 有信慧不可致 若聞見精進求 聞是法而不忘 便見敬得大慶 
則我之善親原 以是故発道意 設令満世界火 過此中得聞法 会当作世尊将 
度一切生老死。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
(平等覚経)かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして、大利を得ん。
我等が類、この徳を得ん。もろもろのこの刹〈くに〉に好きところを獲ん。無量覚、
その決を授け、我、前世に本願あり、一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとく
我が国に来生せん。吾が願ずるところ、みな具足せん。もろもろの国より来生せん者、
みなことごとくこの国に来到して、一生に不退転を得ん。速やかに疾く超えて、
すなわち、安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。
この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有〈たも〉
てる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と驕慢と蔽と懈怠のものは、もってこの法を
信ずること難し。宿世の時、仏を見たてまつる者、楽〈この〉んで世尊の教を聴聞せん。
人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値〈もうあ〉いがたし。
信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、精進して求めよ。この法を聞きて忘れず、
すなわち見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親厚なり。これをもってのゆえ
に道意を発せよ。たとい世界に満てらん火とも、この中を過ぎて法を聞くことを得ば、
かならず当に世尊と作りて、将に一切生老死を度せんとすべしと。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「如是人」の下の六言の偈は、また聞名の徳なり。「非有是」の下は、あるいはその功徳
に因りて経を聞くことを説き、あるいはその宿善に因りて法を聞くことを説き、あるいは
キョウ慢蔽懈怠の機はこの法を信じ難き等の義趣を説くこと、しかしながら『大経』に
同じ。その文、見つべし。

●re.23
ボン
関東の男性
[ 1618 ] Re23:教行信証・学習ノート2 2009/10/07 (Wed) 00:45 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>如是人聞仏名 快安穏得大利 吾等類得是徳 諸此刹獲所好 無量覚授其決 
>我前世有本願 一切人聞説法 皆悉来生我国 吾所願皆具足 従衆国来生者 
>皆悉来到此国 一生得不退転 速疾超便可到 安楽国之世界 至無量光明土 
>供養於無数仏 非有是功徳人 不得聞是経名 唯有清浄戒者 乃還聞斯正法 
>悪驕慢蔽懈怠 難以信於此法 宿世時見仏者 楽聴聞世尊教 人之命希可得
>仏在世甚難値 有信慧不可致 若聞見精進求 聞是法而不忘 便見敬得大慶 
>則我之善親原 以是故発道意 設令満世界火 過此中得聞法 会当作世尊将 
>度一切生老死。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(平等覚経)かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして、大利を得ん。
>我等が類、この徳を得ん。もろもろのこの刹〈くに〉に好きところを獲ん。無量覚、
>その決を授け、我、前世に本願あり、一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとく
>我が国に来生せん。吾が願ずるところ、みな具足せん。もろもろの国より来生せん者、
>みなことごとくこの国に来到して、一生に不退転を得ん。速やかに疾く超えて、
>すなわち、安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。
>この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有〈たも〉
>てる者、いまし還りてこの正法を聞く。悪と驕慢と蔽と懈怠のものは、もってこの法を
>信ずること難し。宿世の時、仏を見たてまつる者、楽〈この〉んで世尊の教を聴聞せん。
>人の命、まれに得べし。仏、世にましませども、はなはだ値〈もうあ〉いがたし。
>信慧ありて致るべからず。もし聞見せば、精進して求めよ。この法を聞きて忘れず、
>すなわち見て敬い得て大きに慶ばば、すなわち我が善き親厚なり。これをもってのゆえ
>に道意を発せよ。たとい世界に満てらん火とも、この中を過ぎて法を聞くことを得ば、
>かならず当に世尊と作りて、将に一切生老死を度せんとすべしと。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (平等覚経)このような人は、仏の名を聞いて、快く安らかで穏やかになって、大き
  な利益(仏のさとり)を得るだろう。私たちのようなものも、この徳(めぐみ)を得る
  だろう。もろもろの仏の国で、好むところのものを獲得するであろう。無量覚(阿弥
  陀仏)は、その決(未来に必ず仏となるという予言)を授けた。「私は前世にかねてか
  らの願いがあった。すべての人が説法を聞けば、みなことごとく我が国に来て生を受
  けるであろう。私の願いは、すべて完全に実現するであろう。もろもろの国から生ま
  れ変わって来るものは、みなことごとくこの国にやってきて、一生に不退転を得るで
  あろう。」速やかに素早く超えてきて、安楽国の世界に到達するべきである。無量光
  明土(阿弥陀仏の浄土)にやってきて、無数の仏を供養するであろう。この功徳のない
  人は、この経の名を聞くことができない。ただ清浄に戒を保つ者は、それとは反対に
  この正法を聞く。悪と驕慢(おごりたかぶる心)と蔽(邪見)と懈怠(怠慢)のものは、
  この法を信ずることが難しい。前世のときに、仏を見たものは、よろこんで世尊の教
  を聴聞するであろう。人の命は、まれにしか得られない。仏は世においでになっても、
  はなはだ出会うことが難しい。信心の智慧というものがあったとしても、そこに致る
  ことはない。もし(仏を)聞いたり見たりしたならば、勤め励んでそれを求めなさい。
  この法を聞いて忘れなければ、すなわち、見て敬い、それを得て大いに喜ぶならば、
  すなわち私のよき親友である。これをもって、菩提心を起こしなさい。たとえ世界中
  に火が燃え盛っていても、この中を過ぎて法を聞くことができたなら、かならず、
  まさに世尊(仏)となって、一切の生・老・死を救済しようとするだろう。

  WikiArcより
    大利
      大きな利益、すなわち無上涅槃(仏のさとり)に至ること。
    無量覚
      阿弥陀仏のこと。阿弥陀を無量、仏を覚とする。この偈頌では、他に阿弥陀仏
      を最勝尊・無上尊・安養仏等と表現している。
    決
      未来に必ず仏となることを予言すること。記に同じ。
    本願
      梵語プラニダーナまたはプールヴァ・プラニダーナの漢訳で、以前からの願
      いという意。菩薩が因位の時におこした衆生救済の誓いをいう。また衆生救済
      のためのまさしく根本となる願。阿弥陀仏の四十八願中、とくに第十八願を
      本願と称する。
    具足
      梵語プールナジットの漢訳。富那迦などと音写し、円満などと漢訳する。
      ヴァーラーナシー(ベナレス)の富商の子であった耶舎(名聞)の友人。釈尊の弟子。
      耶舎の出家を聞いて、離垢、善実、牛王とともに出家した。
    無量光明土
      『平等覚経』に説かれる阿弥陀仏の浄土のこと。如来の浄土は、はかりなき
      光明の世界であるということ。
    功徳
      梵語グナの漢訳。すぐれた徳性。善い行為の結果。善の結果として報いられ
      た果報。修行の功によって得た徳。
    戒
      梵語シーラの漢訳。尸羅と音写する。
        1.行いを慎むための戒め。仏教に帰依した者が守るべき規則で、
          自発的な努力にまつことを特徴とする。
        2.三学(戒・定・慧)・六波羅蜜の一。
    驕慢
      おごりたかぶる心。根本煩悩の一。また自力にとらわれる心を指すこともある。
    蔽
      邪見のこと。
    信慧
      信心の智慧。
    親厚
      親しい友人。
    道意
      菩提心のこと。

  大辞林より
    徳
      めぐみ。神仏の慈悲。加護。おかげ。
    来生
      衆生の死後生まれかわる生。未来の生。後生。
    驕慢
      おごりたかぶって相手をあなどり、勝手気ままにふるまう・こと(さま)。
    懈怠
      なまけること。おこたること。怠慢。
      善を修めることを努力しない心の状態。

  漢和辞典
    刹・・・仏の国、仏の地、寺、寺院
    還・・・かえる、もどる、しりぞく、むくいる、かえって、逆に、反対に


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「如是人」の下の六言の偈は、聞名の徳なり。「非有是」の下は、あるいはその功徳
>に因りて経を聞くことを説き、あるいはその宿善に因りて法を聞くことを説き、あるいは
>キョウ慢蔽懈怠の機はこの法を信じ難き等の義趣を説くこと、しかしながら『大経』に
>同じ。その文、見つべし。

  「如是人」以下の六言の偈は、(仏の)名を聞くことの徳(めぐみ)をうたっている。
  「非有是」以下は、あるいは、その功徳によって経を聞くことを説き、あるいは、
  その宿善によって法を聞くことを説き、あるいは、驕慢・蔽・懈怠のものはこの法を
  信じ難いなどといった教義のおもむきを説いている。しかしながら、これは『大経』
  に同じである。その文を見てください。

●re.24
ボン
関東の男性
[ 1619 ] Re24:教行信証・学習ノート2 2009/10/07 (Wed) 01:58 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
悲華経大施品之二巻言。曇無讖三蔵訳。願我成阿耨多羅三藐三菩提已。
無量無辺阿僧祇余仏世界所有衆生。聞我名者。修諸善本欲生我界。
願其捨命之後必定得生。唯除五逆誹謗聖人廃壊正法。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
『悲華経』大施品の二巻に言わく(曇無讖三蔵の訳)願わくは、我、阿耨多羅三藐三
菩提を成り已らんに、無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、
もろもろの善本を修して我が界に生まれんと欲す。願わくはそれ捨命の後、必定して
生を得しめん。ただ、五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かんと。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に『悲華』の文。文相の如きは十八の願か。しかるに名号得生の益を説く。
故に今これを引く。

●re.25
ボン
関東の男性
[ 1620 ] Re25:教行信証・学習ノート2 2009/10/07 (Wed) 01:59 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>悲華経大施品之二巻言。曇無讖三蔵訳。願我成阿耨多羅三藐三菩提已。
>無量無辺阿僧祇余仏世界所有衆生。聞我名者。修諸善本欲生我界。
>願其捨命之後必定得生。唯除五逆誹謗聖人廃壊正法。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>『悲華経』大施品の二巻に言わく(曇無讖三蔵の訳)願わくは、我、阿耨多羅三藐三
>菩提を成り已らんに、無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、我が名を聞かん者、
>もろもろの善本を修して我が界に生まれんと欲す。願わくはそれ捨命の後、必定して
>生を得しめん。ただ、五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かんと。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  『悲華経』(曇無讖三蔵の訳)大施品の二巻では次のように述べる。願わくは、私が、
  阿耨多羅三藐三菩提(この上ない仏のさとり。)を成し遂げたとき、計り知れず際限が
  なく数え切れない他の仏の世界にいる衆生であって、私の名前を聞くものは、もろも
  ろの善本(功徳のたね)を修めて、私の世界に生まれたいと望むように。また、願わく
  は、命を捨てた後、必ず仏になると定まって生を得るようにしよう。ただ、五逆と、
  聖人を誹謗しようとするもの、正法を廃れさせ壊そうとするものは除外する。

  WikiArcより
    阿耨多羅三藐三菩提
      梵語アヌッタラ・サンヤク・サンボーディの音写。阿耨菩提と音略され、
      無上正等正覚・無上正真道・無上正遍知などと漢訳する。この上ない仏の
      さとり。
    善本
      1.本は因の意味、勝れた果を得るための因となる善根。
      2.阿弥陀仏の名号のこと。一切の善の根本であるからこのようにいう。
        この場合は本は根本の意味。
    善根
      梵語クシャラ・ムーラの漢訳。善本、徳本とも漢訳する。諸善を生ずるもと
      のこと。功徳のたね。無貪・無瞋・無痴を三善根、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴
      を三不善根という。
    必定
      必ず仏になると定まった位。必ず往生することに定まること。

  大辞林より
    捨命
      悟りのために命を捨てること。
    廃壊
      すたれついえること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『悲華』の文。文相の如きは十八の願か。しかるに名号得生の益を説く。
>故に今これを引く。

  次に『悲華経』の文である。文の様子は、第十八願のようである。しかし、名号得生
  (名号を聞いて生まれることを得る)の利益を説く。だから、ここでこれを引用している。

●re.26
ボン
関東の男性
[ 1621 ] Re26:教行信証・学習ノート2 2009/10/07 (Wed) 22:43 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
爾者称名能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。称名則是最勝真妙正業。
正業則是念仏。念仏則是南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏則是正念也。可知。
-----------------------------------------------------------------------------
(御自釈)しかれば称名は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を
満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。
念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、
知るべし。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に私の釈の中に、「称名」以下、「志願」というに至るまでの十八字は、『論の註』
の下に「如彼名義欲如実修行相応」の論文を釈する文の意なり。

●re.27
ボン
関東の男性
[ 1622 ] Re27:教行信証・学習ノート2 2009/10/08 (Thu) 17:24 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>爾者称名能破衆生一切無明。能満衆生一切志願。称名則是最勝真妙正業。
>正業則是念仏。念仏則是南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏則是正念也。可知。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)しかれば称名は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を
>満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。
>念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なりと、
>知るべし。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)このように、称名は、衆生のすべての無明をなくし、衆生のすべての志願
  を満足させるものである。称名は、すなわち、最も勝れた真実の妙なる正業である。
  正業は、すなわち、念仏である。念仏は、すなわち、南無阿弥陀仏である。
  南無阿弥陀仏は、すなわち、正念であると、知るべきである。

  WikiArcより
    無明
      梵語アヴィドヤーの漢訳。真理に暗く、道理事象を明らかに理解できない
      精神状態をいう。最も根本的な煩悩。迷いの根源。また浄土真宗では、
      本願を疑い仏智を明らかに信じないことを無明という場合もある。
    志願
      往生成仏の願い。
    正業
      1.八聖(正)道の一。
      2.正定業のこと。
      3.仏の言説に具わる六種の利益、六正の一。
        仏の言説は衆生に正しい業因を成就せしめるから正業という。
    正定業
      正しく衆生の往生が決定する業因。善導大師は阿弥陀仏の浄土へ往生する行と
      して五正行をあげ、その中第四の称名は、本願の行であるから正定業とされる。
    五正行
      善導大師の「散善義」に説く浄土往生の行業。
        1.読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
        2.観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
        3.礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
        4.称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
        5.讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、
                衣食香華などをささげて供養すること。
    正念
      1.他力信心のこと。
      2.臨終正念の意。死に臨んで、妄案を起こすことなく、
       正しく阿弥陀仏を念じていること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に私の釈の中に、「称名」以下、「志願」というに至るまでの十八字は、『論の註』
>の下に「如彼名義欲如実修行相応」の論文を釈する文の意なり。

  次に、(聖人の)私的な釈のなかで、「称名」から「志願」までの18字は、『論註』の
  下巻に「如彼名義欲如実修行相応」の論文を解釈した文の意(こころ)である。

  ※「如彼名義欲如実修行相応」については、信巻で詳しく出てくるようです。

●re.28
ボン
関東の男性
[ 1623 ] Re28:教行信証・学習ノート2 2009/10/10 (Sat) 22:35 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
十住毘婆沙論曰。有人言。般舟三昧及大悲名諸仏家。従此二法生諸如来。
此中般舟三昧為父。又大悲為母。復次般舟三昧是父。無生法忍是母。如助菩提中説。
般舟三昧父。大悲無生母。一切諸如来。従是二法生。家無過咎者家清浄。
故清浄者六波羅蜜四功徳処。方便般若波羅蜜。善慧。般舟三昧大悲諸忍。
是諸法清浄無有過。故名家清浄。是菩薩以此諸法為家故無有過咎。

転於世間道入出世上道者。世間道名即是凡夫所行道。転名休息。
凡夫道者不能究竟至涅槃。常往来生死。是名凡夫道。出世間者。
因是道得出三界故名出世間道。上者妙故名為上。入者正行道故名為入。
以是心入初地名歓喜地。
-----------------------------------------------------------------------------
『十住毘婆沙論』(入初地品)に曰わく、ある人の言わく、般舟三昧および大悲を諸仏
の家と名づく、この二法よりもろもろの如来を生ず。この中に般舟三昧を父とす、また
大悲を母とす。また次に、般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。『助菩提』
の中に説くがごとし。「般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この
二法より生ず」と。家に過咎なければ家清浄なり。故に清浄は六波羅蜜と四功徳処と
方便と般若波羅蜜と善慧と般舟三昧と大悲と諸忍となり。この諸法清浄にして過〈とが〉
あることなし。故に「家清浄」と名づく。この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえ
に、過咎あることなし。

「世間道を転じて、出世上道に入る」とは、世間道をすなわちこれ凡夫所行の道と名づ
く。転は休息と名づく。凡夫道とは究竟して涅槃に至ることあたわず。常に生死に往来
す。これを凡夫道と名づく。出世間とはこの道に因って三界を出ずることを得るがゆえ
に、出世間道と名づく。上というは、妙なるがゆえに、名づけて上とす。入というは、
正しく道を行ずるがゆえに、名づけて入とす。この心をもって初地に入るを歓喜地と
名づくと。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に『十住毘婆沙論』の文に就きて、問う、所引の文は名号の徳にあらず。ただ菩薩登地
の益を説く。何ぞこれを引くや。

答う、下に引く所の「仏法に無量の門あり」等とは、難易の道を明かして称名易行の徳を
讃嘆す。已上の文は当用にあらずといえども、前後を明かさんが為に委しくこれを引くか。
はたまた二行同じく欣趣する所は共に不退の位、即ちこれ初地なり。今、初地見道の相を
明かす。最もこれ要須なり。故に広くこれを引く。

この中に「般舟三昧」というは、『般舟讃』に云わく「梵語には般舟と名づく。此には
翻じて常行道と名づく。西国の語、此には翻じて名づけて定と為す。乃至。また立定見
諸仏と名づくるなり」已上。また『止観』には仏立三昧と名づく。

「六波羅密」というは、いわゆる六度なり。一には檀那、此には布施という。二には尸羅、
此には翻じて戒と為す。三にはセン提、此には忍辱という。四には毘梨耶、此には精進と
いう。五には禅那、此には禅定という。

「諸忍」というは、『仁王経』の中に説きて五忍と為す。浄影の『観経義疏』に釈して
云わく「一には伏忍。種姓解行位の中に在りて、諸法を覚観して、能く煩悩を伏す。故に
名づけて伏と為す。二には信忍。初・二・三地に無生の理に於いて信心決定するを名づけ
て信忍と為す。三には順忍。四・五・六地に、相を破し如に入りて無生に趣順するを名づ
けて順忍と為す。四には無生忍。七・八・九地に実を証し相を離るるを無生忍と名づく。
五には寂滅忍。十地已上に相を破し、畢竟じて冥心至寂にして大涅槃を証するを寂滅忍と
名づく」已上。

●re.29
ボン
関東の男性
[ 1624 ] Re29:教行信証・学習ノート2 2009/10/10 (Sat) 22:36 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>十住毘婆沙論曰。有人言。般舟三昧及大悲名諸仏家。従此二法生諸如来。
>此中般舟三昧為父。又大悲為母。復次般舟三昧是父。無生法忍是母。如助菩提中説。
>般舟三昧父。大悲無生母。一切諸如来。従是二法生。家無過咎者家清浄。
>故清浄者六波羅蜜四功徳処。方便般若波羅蜜。善慧。般舟三昧大悲諸忍。
>是諸法清浄無有過。故名家清浄。是菩薩以此諸法為家故無有過咎。

>転於世間道入出世上道者。世間道名即是凡夫所行道。転名休息。
>凡夫道者不能究竟至涅槃。常往来生死。是名凡夫道。出世間者。
>因是道得出三界故名出世間道。上者妙故名為上。入者正行道故名為入。
>以是心入初地名歓喜地。
>-----------------------------------------------------------------------------
>『十住毘婆沙論』(入初地品)に曰わく、ある人の言わく、般舟三昧および大悲を諸仏
>の家と名づく、この二法よりもろもろの如来を生ず。この中に般舟三昧を父とす、また
>大悲を母とす。また次に、般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。『助菩提』
>の中に説くがごとし。「般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この
>二法より生ず」と。家に過咎なければ家清浄なり。故に清浄は六波羅蜜と四功徳処と
>方便と般若波羅蜜と善慧と般舟三昧と大悲と諸忍となり。この諸法清浄にして過〈とが〉
>あることなし。故に「家清浄」と名づく。この菩薩、この諸法をもって家とするがゆえ
>に、過咎あることなし。

>「世間道を転じて、出世上道に入る」とは、世間道をすなわちこれ凡夫所行の道と名づ
>く。転は休息と名づく。凡夫道とは究竟して涅槃に至ることあたわず。常に生死に往来
>す。これを凡夫道と名づく。出世間とはこの道に因って三界を出ずることを得るがゆえ
>に、出世間道と名づく。上というは、妙なるがゆえに、名づけて上とす。入というは、
>正しく道を行ずるがゆえに、名づけて入とす。この心をもって初地に入るを歓喜地と
>名づくと。
-----------------------------------------------------------------------------

  『十住毘婆沙論』(入初地品)では次のように述べる。「ある人の言うところでは、
  般舟三昧と大悲を諸仏の家と名づける。この二つの法から、もろもろの如来が生み出
  される。このなかで、般舟三昧を父とし、また大悲を母とする。また次に、般舟三昧
  は父であり、無生法忍は母である。これは、『助菩提』のなかで説いているとおりで
  ある。そこでは「般舟三昧の父、大悲無生の母、すべてのもろもろの如来は、この二
  つの法から生ずる。」と。家に過ちとつみとががなければ、その家は清浄である。
  ゆえに、清浄は、六波羅蜜と四功徳処と方便と般若波羅蜜と善慧(良い知恵)と般舟三昧
  と大悲と諸忍(もろもろの忍)とである。これらのもろもろの法は、清浄にして過ちが
  ない。ゆえに「家清浄」と名づける。この菩薩は、これらの諸法を家としているために、
  過ちとつみがないのである。

  「世間道を転じて、出世上道に入る」についていえば、「世間道」を「凡夫が行うと
  ころの道」と名づける。「転」は「休息」と名づける。「凡夫道」では、結局のところ
  涅槃に至ることができない。常に、生と死とを行ったり来たりする。これを「凡夫道」
  と名づける。「出世間」とは、この道によって三界を抜け出ることができるために、
  「出世間道」と名づける。「上」というは、奥深く優れているために「上」と名づけ
  る。「入」というのは、正しく道を行ずるがために、「入」と名づける。この心をもっ
  て初地に入ることを「歓喜地」と名づける。

  WikiArcより
    般舟三昧
      梵語プラテュトパンナ・ブッダ・サンムカーヴァスティタ・サマーディの訳。
      諸仏現前三昧・仏立三昧ともいう。この三昧を得れば、十方の諸仏をまのあ
      たりに見ることができるという。
    無生法忍
      真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。
      三法忍の一。
    三法忍
      音響忍・柔順忍・無生法忍をいう。
    過咎
      あやまち。つみとが(罪科)。
    助菩提
      龍樹菩薩の著『菩提資糧論』のこと。
    六波羅蜜
      波羅蜜は梵語パーラミターの音写。度、到彼岸と漢訳する。
      大乗の菩薩の修めねばならない六種の行業のことで六度ともいう。
        1.布施。施しをすること。
        2.持戒。戒律を守ること。
        3.忍辱。たえ忍ぶこと。
        4.精進。すすんで努力すること。
        5.禅定。精神を統一し、安定させること。
        6.智慧。真実の智慧を得ること。前五波羅蜜の根拠ともなる無分別智。
    四功徳処
      菩薩が法を説くのに必要な四つの功徳。
        1.諦。真実をあらわす。
        2.捨。すべてを施す。
        3.滅。悪業煩悩を滅す。
        4.慧。智慧を完成する。
    般若波羅蜜
      一切諸法の真空の理に達した智慧によってさとりの岸に至ること。
      六波羅蜜の智慧波羅蜜のこと。

  大辞林より
    大悲
      衆生の苦しみを救おうとする仏・菩薩の広大な慈悲の心。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『十住毘婆沙論』の文に就きて、問う、所引の文は名号の徳にあらず。ただ菩薩登地
>の益を説く。何ぞこれを引くや。

  次に『十住毘婆沙論』の文について問う。引用されて文は、名号の徳についてのもの
  ではない。ただ菩薩が登る地の利益を説いているだけである。どうしてこれを引用す
  るのか。

>答う、下に引く所の「仏法に無量の門あり」等とは、難易の道を明かして称名易行の徳を
>讃嘆す。已上の文は当用にあらずといえども、前後を明かさんが為に委しくこれを引くか。
>はたまた二行同じく欣趣する所は共に不退の位、即ちこれ初地なり。今、初地見道の相を
>明かす。最もこれ要須なり。故に広くこれを引く。

  答える。この後に引用される「仏法に無量の門あり」などは、難しい道や易しい道の
  あることを明らかにして、(仏の)名を称える易しい行の徳(めぐみ)を褒め讃えている。
  うえの文は、当面の必要はないとはいうものの、前後を明らかにするために、こと細
  かに引用をしているのであろう。または、二つの行が、同じく喜んでおもむくとこ
  ろは、ともに「不退の位」、すなわち「初地」である。ここでは、初地・見道の
  相(すがた)を明らかにしているが、これが最も必要なことである。だから、広くこれ
  を引用するのである。

  WikiArcより
    欣趣
      欣求趣入。浄土をねがい往生すること。
    初地
      菩薩の階位五十二位のうちの十地の第一をいう。歓喜地に同じ。

  大辞林より
    見道
      真理を知るための、煩悩に汚されることのない智慧を起こして、仏教の基本
      的真理である四諦を、知性的な理解ではなく、直観的に明瞭に見る位。
      この位に入ると、凡夫から聖者に変わる。

  大辞泉
    仏道修行を三段階に分けた最初の段階。初めて聖者の仲間に入り、根本真理であ
    る四諦を明らかに理解する位。見諦道。見諦

  漢和辞典より
      欣・・・よろこぶ、楽しむさま
      趣・・・おもむき、わけ、考え、ようす、こころもち、おこない、おもむく

●re.30
ボン
関東の男性
[ 1625 ] Re30:教行信証・学習ノート2 2009/10/10 (Sat) 22:37 △up ▽down
(つづき)

>この中に「般舟三昧」というは、『般舟讃』に云わく「梵語には般舟と名づく。此には
>翻じて常行道と名づく。西国の語、此には翻じて名づけて定と為す。乃至。また立定見
>諸仏と名づくるなり」已上。また『止観』には仏立三昧と名づく。

  このなかの「般舟三昧」については、『般舟讃』では次のように述べている。「梵語
  では『般舟』と名づける。ここでは翻訳して『常行道』と名づける。西国(インド)の
  言語(梵語)を、ここでは翻訳して『定』と名づける。(中略)また、これを立定見諸仏
  (定に立って諸仏を見る)と名づける。」また『止観』には仏立三昧と名づく。

  WikiArcより
    常行
      修行などを休みなくおこなうこと。
    止観
      『摩訶止観』のこと。
    摩訶止観
      十巻。略して『止観』ともいう。天台大師智の講述を弟子章安が記した書。
      天台三大部の一で、一念三千という円頓止観を説いたもの。


>「六波羅密」というは、いわゆる六度なり。一には檀那、此には布施という。二には尸羅、
>此には翻じて戒と為す。三にはセン提、此には忍辱という。四には毘梨耶、此には精進と
>いう。五には禅那、此には禅定という。

  「六波羅密」というのは、いわゆる「六度」である。一つには檀那、ここでは布施と
  いう。二つには尸羅、ここでは戒と翻訳する。三つにはセン提、ここでは忍辱という。
  四つには毘梨耶、ここでは精進という。五つには禅那、ここでは禅定という。

    梵語:檀那(ダーナ)・・・・・・・布施
    梵語:尸羅(シーラ)・・・・・・・戒
    梵語:セン提(シャンティー)・・・忍辱
    梵語:毘梨耶(ヴィーリヤ)・・・・精進
    梵語:禅那(ディヤーナ)・・・・・禅定

    ※「セン提」の「セン」の字は「門がまえに單」


>「諸忍」というは、『仁王経』の中に説きて五忍と為す。浄影の『観経義疏』に釈して
>云わく「一には伏忍。種姓解行位の中に在りて、諸法を覚観して、能く煩悩を伏す。故に
>名づけて伏と為す。二には信忍。初・二・三地に無生の理に於いて信心決定するを名づけ
>て信忍と為す。三には順忍。四・五・六地に、相を破し如に入りて無生に趣順するを名づ
>けて順忍と為す。四には無生忍。七・八・九地に実を証し相を離るるを無生忍と名づく。
>五には寂滅忍。十地已上に相を破し、畢竟じて冥心至寂にして大涅槃を証するを寂滅忍と
>名づく」已上。

  「諸忍」については、『仁王経』のなかで五忍と説いている。浄影の『観経義疏』で
  は次のように釈している。「一つには伏忍。種姓・解行の位にあって、もろもろの法
  を理解し、よく観察することにより、煩悩を押さえ込むことができる。だから、伏と
  名づける。二つには信忍。十地のなかの初地・二地・三地の位にあって、無生の理
  (ことわり)によって信心を決定することを信忍と名づける。三つには順忍。四地・
  五地・六地の位にあって、相(すがた・かたち)を破り、如(一如・真如)に入って、
  無生におもむき従うことを順忍と名づける。四つには無生忍。七地・八地・九地の位
  にあって、真実を明らかにし、相(すがた・かたち)を離れることを無生忍と名づく。
  五には寂滅忍。十地より上の位にあって、相(すがた・かたち)を破り、最終的におく
  深い心が寂に至って、大涅槃を明らかにすることを寂滅忍と名づける。」

  諸忍
    伏忍・信忍・順忍・無生忍・寂滅忍

  漢和辞典より
    伏・・・ふせる、かくれる、したがう
    覚・・・おぼえる、わかる、さとる、意識する、さめる
    観・・・みる、よくみる、ながめる
    相・・・たがい、ただす、ことなる、かたち、すがた
    如・・・ごとし、おなじ、及ぶ、いたる、あるいは
    趣・・・おもむき、わけ、考え、ようす、こころもち、おこない、おもむく
    順・・・したがう、道理にかなう、うけいれる、すなお、おだやか
    冥・・・くらい、やみ、おろか、おく深い、死後の世界

  WikiArcより
    忍
      認可決定の意で、ものをはっきりと確かめて決めこむこと。
    種姓
      氏族。家柄。
    解行
      智解と修行。宗義を領解し行を実践すること。
    無生
      1.生じないこと。本来生滅変化を超えていること。涅槃の異名。
       また浄土のさとりをいう。
      2.無生法忍のこと。
    如
      一如、真如のこと。
    一如
      一は絶対不二の意。如は梵語タタターの漢訳。真如のこと。
    真如
      梵語タタターの漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありの
      ままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の
      本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。
    実
      実体
    冥
      暗闇の世界。くらがり。

  大辞林より
    寂
      煩悩を離れ、悟りに達すること。涅槃。

  http://homepage3.nifty.com/huayan/doctrine/kanmon.htm
    覚観・・・覚察と観達

●re.31
ボン
関東の男性
[ 1626 ] Re31:教行信証・学習ノート2 2009/10/14 (Wed) 01:35 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
問曰。初地何故名為歓喜。答曰。如得於初果究竟至涅槃。菩薩得是地。心常多歓善。
自然得増長諸仏如来種。是故如此人。得名賢善者。

如得初果者。如人得須陀オン道。善閉三悪道門。見法入法。得法住堅牢法。不可傾動。
究竟至涅槃。断見諦所断法故。心大歓喜。設使睡眠懶堕。不至二十九有。
如以一毛為百分以一分毛分取大海水。若二三H苦已滅。如大海水余未滅者。
如二三H心大歓喜。

菩薩如是。得初地已。名生如来家。一切天龍夜叉乾闥婆。乃至。声聞辟支等。
所共供養恭敬。何以故。是家無有過咎。故転世間道入出世間道。但楽敬仏。
得四功徳処。得六波羅蜜果報。滋味不断諸仏種故心大歓喜。是菩薩所有余苦如二三水H。
雖百千億劫得阿耨多羅三藐三菩提。於無始生死苦如二三水H。所可滅苦如大海水。
是故此地名為歓喜。
-----------------------------------------------------------------------------
(十住毘婆沙論)問うて曰わく、初地を何がゆえぞ名づけて歓喜とするや。答えて
曰わく、初果の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心常に
多く歓喜す。自然に諸仏如来の種を増上することを得。このゆえに、かくのごときの人
を賢善者と名づくことを得。

初果を得るがごとしというは、人の須陀オン道を得るがごとし。善く三悪道の門を閉ず。
法を見、法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動すべからず、究竟して涅槃に至る。
見諦所断の法を断ずがゆえに、心大いに歓喜す。たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に
至らず。一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を分かち取るがごとき
は、二三Hの苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三H
のごとき心、大いに歓喜せん。

菩薩もかくのごとく、初地を得已るを如来の家に生ずと名づく。一切の天・龍・夜叉・
乾達婆。乃至。声聞・辟支仏等、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。
この家、過咎あることなし。故に世間道を転じて出世間道に入る。ただ楽て仏を敬すれ
ば四功徳処を得、六波羅蜜の果報の滋味を得ん。もろもろの仏種を断たざるがゆえに、
心大きに歓喜す。この菩薩の所有の余苦は、二三の水Hのごとし。百千億劫に阿耨多羅
三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水Hのごとし。滅すべき
ところの苦は大海の水のごとし。このゆえにこの地を名づけて歓喜とす。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「初果を得るが如し」とは、これ声聞の須陀オンを得るに況して、彼の菩薩の歓喜地を
得るを顕わす。初果・初地、通別二惑所断は異なるといえども、断道は同じき故に。
須陀オンとは即ち四果の中にその初果なり。

四果というは、一には須陀オン、此には預流という。初めて聖の流に預るが故に預流と
いう。この位に頓に三界の八十八使の見惑を断ず。次下に見諦所断の法を断ずとは、
即ちこれ見惑なり。この見惑とは八十八使なり。謂わく四諦に於いて三界に異あり。
欲に三十二、色と無色とに各二十八、合して八十八使の数を成ず。

二には斯陀含。此には一来という。欲界の九品の修惑の中に前の六品を断ず。後の三品
に因りて一たび欲界に来るが故に一来という。

三には阿那含。此には不還という。後の三品を断じて欲の修惑を尽くす。故に欲界に還ら
ざるを以て名と為す。

四には阿羅漢。此には無生という。色・無色二界の修惑を断ず。生として受くべきなし。
故に無生という。

「二十九有」とは、問う、何等を指すや。

答う、二十五有とは四州・四悪趣・六欲並びに梵天・四禅・四無色・無想・五那含なり。
これ五那含は合して一種と為す。五那含を開して以て二十九有の数を成ずるのみ。

「一毛を以て百と為すが如し」等とは、その文点に依りて義理を解すべし。言う所の文点
に口伝あるべし。

●re.32
ボン
関東の男性
[ 1627 ] Re32:教行信証・学習ノート2 2009/10/14 (Wed) 01:37 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>問曰。初地何故名為歓喜。答曰。如得於初果究竟至涅槃。菩薩得是地。心常多歓善。
>自然得増長諸仏如来種。是故如此人。得名賢善者。

>如得初果者。如人得須陀オン道。善閉三悪道門。見法入法。得法住堅牢法。不可傾動。
>究竟至涅槃。断見諦所断法故。心大歓喜。設使睡眠懶堕。不至二十九有。
>如以一毛為百分以一分毛分取大海水。若二三H苦已滅。如大海水余未滅者。
>如二三H心大歓喜。

>菩薩如是。得初地已。名生如来家。一切天龍夜叉乾闥婆。乃至。声聞辟支等。
>所共供養恭敬。何以故。是家無有過咎。故転世間道入出世間道。但楽敬仏。
>得四功徳処。得六波羅蜜果報。滋味不断諸仏種故心大歓喜。是菩薩所有余苦如二三水H。
>雖百千億劫得阿耨多羅三藐三菩提。於無始生死苦如二三水H。所可滅苦如大海水。
>是故此地名為歓喜。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(十住毘婆沙論)問うて曰わく、初地を何がゆえぞ名づけて歓喜とするや。答えて
>曰わく、初果の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心常に
>多く歓喜す。自然に諸仏如来の種を増上することを得。このゆえに、かくのごときの人
>を賢善者と名づくことを得。

>初果を得るがごとしというは、人の須陀オン道を得るがごとし。善く三悪道の門を閉ず。
>法を見、法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動すべからず、究竟して涅槃に至る。
>見諦所断の法を断ずがゆえに、心大いに歓喜す。たとい睡眠し懶堕なれども二十九有に
>至らず。一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を分かち取るがごとき
>は、二三Hの苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三H
>のごとき心、大いに歓喜せん。

>菩薩もかくのごとく、初地を得已るを如来の家に生ずと名づく。一切の天・龍・夜叉・
>乾達婆。乃至。声聞・辟支仏等、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。
>この家、過咎あることなし。故に世間道を転じて出世間道に入る。ただ楽て仏を敬すれ
>ば四功徳処を得、六波羅蜜の果報の滋味を得ん。もろもろの仏種を断たざるがゆえに、
>心大きに歓喜す。この菩薩の所有の余苦は、二三の水Hのごとし。百千億劫に阿耨多羅
>三藐三菩提を得といえども、無始生死の苦においては、二三の水Hのごとし。滅すべき
>ところの苦は大海の水のごとし。このゆえにこの地を名づけて歓喜とす。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (十住毘婆沙論)次のように問う。どうして初地を歓喜と名づけるのか。次のように
  答える。(声聞の)初果のものが結局のところ涅槃に至る、というのと同じことである。
  菩薩がこの地(初地)を得れば、心は常にはなはだしく歓喜する。自然と諸仏如来の種
  を増大させることができる。だから、このような人を賢善者と名づけることができる。

  WikiArcより
    初地
      菩薩の階位五十二位のうちの十地の第一をいう。歓喜地に同じ。
    歓喜地
      菩薩五十二位の修行階位のうちの第四十一位。十地の初位(初地)。
      菩薩がこの位に至れば真如をさとるから、再び退転することなく必ず
      成仏できることが定まり、歓喜が生ずるので歓喜地という。
      浄土真宗では現生正定聚のことをいう。
    初果
      声聞乗に説く四果の修道階位の中の最初の位。須陀オン果(預流果)のこと。
    須陀オン(オンの字は、三水偏に亘)
      梵語スロータ・アーパンナの音写。預流と漢訳する。はじめて法の流れに
      入ったものの意。声聞の修道階位、四向四果の中の初位で、三界の見惑
      (分別によって起す知的なまよい)を断じつつある位を須陀オン向(見道)とい
      い、断じ尽した位を須陀オン果(修道)という。
    四向四果
      部派仏教や大衆部仏教における修行の階位で、預流向、預流果、一来向、
      一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果のことをいう。
      「向」とは修行の目標、「果」は到達した境地を示す。向と果の名称が同じ、
      八種の段階にある人ということで、八輩ともいう。
      預流とは聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれ
      ば悟りを開く位。一来とは1回人と天の間を往来して悟りに至る位。不還は
      欲界には再び還らず色界に上って悟りに至る位。阿羅漢は今生の終りに悟り
      涅槃に至り再び三界には生れない位をいう。
    八輩
      四向四果(声聞の修道階位)の聖者のこと。四向四果とは
        須陀オン向  預流向
        須陀オン果  預流果、初果
        斯陀含向   一来向
        斯陀含果   一来果
        阿那含向   不還向
        阿那含果   不還果
        阿羅漢向   阿羅漢向
        阿羅漢果   阿羅漢果

  「初果を得るがごとし」というのは、人(声聞)の須陀オン道を得るようなものである。
  そうすれば、三悪道への門を閉じることができる。法を見て、法に入り、法を得て、
  堅く壊れることのない法に住して揺るがない、そうして最後には涅槃に至る。見諦道
  にいたって断ち切られる煩悩がなくなるために、心は大いに歓喜する。(初果にいたれ
  ば)たとえ、眠りこけて、おこたりなまけたとしても、迷いの世界に二十九回目の生を
  受けることはない。(つまり、二十八回の生死の後に涅槃に入ることができるという
  こと)それは、一本の毛を百に分割して、その分割した一つの毛を使って、大海の水
  を分かち取るようなものである。二三滴ばかりの苦しみがすでに消滅しても、それ以
  外の大海の水ほどの苦しみは未だ消滅していないが、二三滴ばかりの苦しみを消滅さ
  せた心が大いに歓喜してるようなものなのである。

  WikiArcより
    見諦所断の法
      無漏智をもって四諦の道理を見るときに断ちきられる煩悩。
    四諦
      釈尊が最初の説法で示された四つの真理。四聖諦の略。
        1.苦諦。人生は苦であるという真理。
        2.集諦。苦を招き集める原因は煩悩であるという真理。
        3.滅諦。煩悩を滅尽することによって、苦のない涅槃寂静の境地が実現
         するという真理。
        4.道諦。涅槃寂静の境地に至るためには、八聖道(八正道,八聖道分)を
         実践せねばならないという真理。
          このうち1.2.は迷いの因と果、3.4.はさとりの因と果をあらわす。
    睡眠増
      意識がぼんやりして身心の反応がおこりにくい状態。心の鈍重なこと。
      煩悩の一。
    懶堕
      おこたりなまけること。
    二十九有
      1.二十九回目の生。初果の聖者(須陀オン果を得たもの)は、人間界に七生、
       天上界に七生、またそれぞれ生の終りから次の生を得るまでの中有の状態
       (死と生の間の中間的存在)の十四生、合せて二十八生を経れば、さらに
       二十九回目の生をうけず、完全な涅槃に入ることができるとされる。
      2.二十五有のうち浄居天をさらに無煩・無熱・善現・善見・色究竟天の五つ
       に分けて二十九としたもの。迷いの生存のすべて。

  大辞泉より
    見道
      仏道修行を三段階に分けた最初の段階。初めて聖者の仲間に入り、根本真理
      である四諦を明らかに理解する位。見諦道。見諦。

  大辞林より
    見道
      真理を知るための、煩悩に汚されることのない智慧を起こして、仏教の基本
      的真理である四諦を、知性的な理解ではなく、直観的に明瞭に見る位。
      この位に入ると、凡夫から聖者に変わる。

  菩薩もまた同様に、初地を獲得し終わることを「如来の家に生ず」と名づける。それ
  は、いっさいの天・龍・夜叉・乾達婆、ないし、声聞・縁覚などが、ともに供養し、
  つつしみ敬うところである。なぜかといえば、この家には過ちがないからである。
  だから、世間道から転じて出世間道に入るというのである。ただよろこんで仏を敬え
  ば四功徳処を得て、六波羅蜜の果報の深い味わいを得ることだろう。もろもろの仏と
  なる種が断えないために、心は大いに歓喜する。この菩薩が有するところのそれ以外
  の苦しみは、二三の水滴のようなものである。百千億劫の長い歳月をかけて「阿耨多
  羅三藐三菩提(この上ない仏のさとり)」を得たとしても、始まりのない大昔から繰り
  返してきた生死の苦しみに比べれば、それは二三の水滴のようなものである。これか
  らなくなるであろう苦しみは、大海の水のようである。だから、この地を歓喜と名づ
  ける。

  WikiArcより
    夜叉
      梵語ヤクシャの音写。勇健・威徳・暴悪などと漢訳する。羅刹とならび称せ
      られる鬼神。人を傷害し食らう暴悪な鬼神。
      また仏法を護持する八部衆(八種の善神)の一。毘沙門天の眷属として衆生を
      守護するとされる。
    辟支仏
      縁覚に同じ。
    恭敬
      敬い、つつしむこと。うやうやしくすること。
    世間
      世の中。煩悩に束縛されて存在しているもの。生きものを有情(または衆生)
      世間といい、生きものを住まわせている山河大地などを器世間という。
    仏種
      仏となる因種(たね)

  http://homepage3.nifty.com/banmaden/india.htm#ガンダルヴァ
    乾達婆(ガンダルヴァ)
      天界の楽師。黄金の翼を持つ鳥。ヴァルナの使者。空中や水の中に棲む精霊
      です。太陽、虹、月、ソーマ、雲などを神格化したものだと云われ、それら
      に深い関わりを持ちます。ヴェーダ神話ではソーマの番人を務め、アプサラ
      スを妻とし、後代インドラの宮廷に楽師として仕えるようになりました。

●re.33
ボン
関東の男性
[ 1628 ] Re33:教行信証・学習ノート2 2009/10/14 (Wed) 01:38 △up ▽down
(つづき)

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「初果を得るが如し」とは、これ声聞の須陀オンを得るに況して、彼の菩薩の歓喜地を
>得るを顕わす。初果・初地、通別二惑所断は異なるといえども、断道は同じき故に。
>須陀オンとは即ち四果の中にその初果なり。

  「初果を得るが如し」というのは、声聞が須陀オンを得ることに対比して、菩薩が
  歓喜地を得るということを明らかにしている。初果と初地とについていえば、通と別
  とで二惑がさまたげるところは異なるとはいっても、道を妨げるということについて
  は同じだからである。須陀オンとは、四果のなかの初めての果報である。

  WikiArcより
    二惑
      分別によっておこす知的な煩悩である見惑と生れつきもっている事象に迷う
      煩悩である思惑のこと。前者は見道(須陀オン)、後者は修道(斯陀含以上)
      で滅することができる。

  大辞林より
    見惑
      仏教の真理に迷うこと。思想・観念上の誤り。けんなく。
    思惑
      「修惑」に同じ。
    修惑
      修行によって打ち消すべき煩悩。また、人が生まれながらにもっている煩悩。

  http://www.ohaka-im.com/bukkyo/zou.html
    蔵・通・別・円(化法四教)
     蔵(教)
       三蔵教、いわゆる小乗とされるものです。世界には不変の存在である構成
       要素(法)からなっており、そのような世界のあり方を分析することで煩悩
       を克服し、この世界から離れることが解脱であると説きます。
     通(教)
       声聞・縁覚・菩薩に共通する教えという意味で、万物は空であると説くも
       のです。蔵教と異なるのは、世界の構成要素とされるものも不変ではなく、
       世界そのものが幻のようなものだとすることです。
     別(教)
       菩薩のためにある教えのことです。ここでは積極的に利他行が説かれます。
     円(教)
       煩悩はそのままで悟りであり、生死もそのままで涅槃であることを説くも
       のです。ここでは否定されるものは何もありません。苦として捨て去るべ
       き生死も煩悩もないのです。これが究極の教えとして、諸教の四類型も結
       局はこの一つの真理に帰するのであるとされます。


>四果というは、一には須陀オン、此には預流という。初めて聖の流に預るが故に預流と
>いう。この位に頓に三界の八十八使の見惑を断ず。次下に見諦所断の法を断ずとは、
>即ちこれ見惑なり。この見惑とは八十八使なり。謂わく四諦に於いて三界に異あり。
>欲に三十二、色と無色とに各二十八、合して八十八使の数を成ず。

  四果というのは、一つには「須陀オン」、ここ(漢訳)では「預流」という。初めて
  聖(ひじり)の流れに預(あずか)るために「預流」という。この位になると速やかに
  三界の八十八使の見惑を断ち切る。その次の下に「見諦所断の法を断ず」というの
  は、これは見惑のことである。この見惑というのは、八十八使(88の働き)である。
  四諦については、三界で違いがあると言われる。欲界に32、色界と無色界に
  それぞれ28、合わせ88の働きの数となる。

  WikiArcより
    聖(ひじり)
      真理をさとった人。覚者。

  四諦と三界については以下を参照
  http://www.citydo.com/newyear/column2009/bonno02.html


>二には斯陀含。此には一来という。欲界の九品の修惑の中に前の六品を断ず。後の三品
>に因りて一たび欲界に来るが故に一来という。

  二つには「斯陀含」。ここ(漢訳)では「一来」という。欲界の九品の修惑のうち、
  前の六品を断ち切っている。しかし、後の三品の修惑があるために、もう一度、
  欲界に来ることから「一来」という。


>三には阿那含。此には不還という。後の三品を断じて欲の修惑を尽くす。故に欲界に還ら
>ざるを以て名と為す。

  三つには「阿那含」。ここ(漢訳)では「不還」という。後の三品の修惑を断ち切って、
  欲界の修惑をなくする。そのために欲界に還らないということが、その名の由来でと
  なっている。


>四には阿羅漢。此には無生という。色・無色二界の修惑を断ず。生として受くべきなし。
>故に無生という。

  四つには「阿羅漢」。ここ(漢訳)では「無生」という。色・無色の二界の修惑を断ち
  切っている。(迷いの世界の)生として受けるべき形のものがない。
  だから、無生という。

    生
      四生のこと。
    四生
      衆生が生れる四種の形態。母胎から生れる胎生、卵から生れる卵生、湿気か
      ら生れる湿生、依りどころなく、ただ業力によって忽然と生れる化生。
      一切衆生はみなこの四種の出生形態におさめられるから、
      迷いの世界の総称ともされる。


>「二十九有」とは、問う、何等を指すや。

  問う。「二十九有」とは、何などを指すのか。


>答う、二十五有とは四州・四悪趣・六欲並びに梵天・四禅・四無色・無想・五那含なり。
>これ五那含は合して一種と為す。五那含を開して以て二十九有の数を成ずるのみ。

  答える。二十五有とは、四州・四悪趣・六欲、ならびに、梵天・四禅・四無色・無想
  ・五那含である。五那含を、合わせて一種とする。五那含を、分割して、二十九有の
  数となるのである。

  WikiArcより
    二十五有
      有とは迷いの境界のことで、衆生の流転する迷いの世界(三界)を二十五種に
      分けたもの。すなわち
      欲界に、四悪趣、四洲、六欲天の十四有。(4+4+6=14)
      色界に、四禅天と無想浄居:大梵天の七有。
      無色界に、四空処天の四有(7+4=11)
      の二十五(14+11)。三界のすべてをいう。


>「一毛を以て百と為すが如し」等とは、その文点に依りて義理を解すべし。言う所の文点
>に口伝あるべし。

  「一毛を以て百と為すが如し」などとは、その文章構成(文体)によって、書かれてい
  る意味を理解すべきである。言う所の文章構成(文体)に口伝があるにちがいない。

  WikiArcより
    文点
      文章構成。文体。
    義理
      筋道。書かれている意味。道理。
    口伝
      口伝えに受けた教え。じきじきの教え。

●re.34
ボン
関東の男性
[ 1629 ] Re34:教行信証・学習ノート2 2009/10/16 (Fri) 00:02 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
問曰。初歓喜地菩薩。在此地中名多歓喜。為得諸功徳故歓喜為地。法応歓喜。
以何而歓喜。

答曰。常念於諸仏及諸仏大法。必定希有行。是故多歓喜。如是等歓喜因縁故。
菩薩在初地中心多歓喜。

念諸仏者。念然灯等過去諸仏・阿弥陀等現在諸仏・弥勒等将来諸仏。
常念如是諸仏世尊如現在前。三界第一無能勝者。是故多歓喜。

念諸仏大法者。略説諸仏四十不共法。一自在飛行随意。二自在変化無辺。
三自在所聞無礙。四自在以無量種門知一切衆生心。乃至。

念必定諸菩薩者。若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提記。入法位得無生忍。
千万億数魔之軍衆不能壊乱。得大悲心成大人法。乃至。是名念必定菩薩。

念希有行者。念必定菩薩第一希有行。令心歓喜。一切凡夫所不能及。
一切声聞辟支仏所不能行。開示仏法無礙解脱及薩婆若智。

又念十地諸所行法。名為心多歓喜。是故菩薩得入初地名為歓喜。
-----------------------------------------------------------------------------
(十住毘婆沙論・地相品)
問うて曰わく、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳
を得るをもってのゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜すべし。何をもって歓喜するや。

答えて曰わく、常に諸仏および諸仏の大法を念ずるは、必定して希有の行なり。このゆ
えに歓喜多し。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に
歓喜多し。

諸仏を念ずというは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏
を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。
三界第一にして、よく勝れたる者〈ひと〉ましまさず。このゆえに歓喜多し。

諸仏の大法を念ずとは、略して諸仏の四十不共法を説かん。一には自在の飛行、意に随う。
二には自在の変化、辺なし。三には自在の所聞、無碍なり。四には自在に無量種の門を
もって、一切衆生の心を知ろしめす。乃至。

必定のもろもろの菩薩を念すとは、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位
に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたわず。大悲心を得て
大人法を成ず。乃至。これを念必定の菩薩と名づく。

希有行を念ずというは、必定の菩薩の第一希有の行を念じて、心に歓喜せしむ。一切凡夫
の及ぶことあたわざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたわざるところな
り。仏法無碍解脱および薩婆若智を開示す。

また十地のもろもろの所行の法を念ずるを、名づけて心多歓喜とす。このゆえに、
菩薩初地に入ることを得れば名づけて歓喜とす。
-----------------------------------------------------------------------------

●re.35
ボン
関東の男性
[ 1630 ] Re35:教行信証・学習ノート2 2009/10/16 (Fri) 20:53 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>問曰。初歓喜地菩薩。在此地中名多歓喜。為得諸功徳故歓喜為地。法応歓喜。
>以何而歓喜。

>答曰。常念於諸仏及諸仏大法。必定希有行。是故多歓喜。如是等歓喜因縁故。
>菩薩在初地中心多歓喜。

>念諸仏者。念然灯等過去諸仏・阿弥陀等現在諸仏・弥勒等将来諸仏。
>常念如是諸仏世尊如現在前。三界第一無能勝者。是故多歓喜。

>念諸仏大法者。略説諸仏四十不共法。一自在飛行随意。二自在変化無辺。
>三自在所聞無礙。四自在以無量種門知一切衆生心。乃至。

>念必定諸菩薩者。若菩薩得阿耨多羅三藐三菩提記。入法位得無生忍。
>千万億数魔之軍衆不能壊乱。得大悲心成大人法。乃至。是名念必定菩薩。

>念希有行者。念必定菩薩第一希有行。令心歓喜。一切凡夫所不能及。
>一切声聞辟支仏所不能行。開示仏法無礙解脱及薩婆若智。

>又念十地諸所行法。名為心多歓喜。是故菩薩得入初地名為歓喜。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(十住毘婆沙論・地相品)
>問うて曰わく、初歓喜地の菩薩、この地の中にありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳
>を得るをもってのゆえに、歓喜を地とす。法を歓喜すべし。何をもって歓喜するや。

  (十住毘婆沙論・地相品)
  次のように問う。初歓喜地の菩薩は、この地のなかにあって多歓喜と名づけられる。
  もろもろの功徳を得ることから、歓喜を地とする。法を歓喜すべきである。何をもっ
  て歓喜するのか。


>答えて曰わく、常に諸仏および諸仏の大法を念ずるは、必定して希有の行なり。このゆ
>えに歓喜多し。かくのごとき等の歓喜の因縁のゆえに、菩薩、初地の中にありて心に
>歓喜多し。

  次のように答える。常に諸仏および諸仏の大法を念ずることは、決まって、非常に珍
  しい行である。だから歓喜が多い。このような歓喜の因縁のために、菩薩は、初地の
  なかにあって、心に歓喜が多い。

  大辞林より
    大法
      すぐれた教え。仏の教え。
    必定
      必ずそうなるに決まっていること。そうなることが避けられないこと。
      また、そのさま。
  WikiArcより
    必定
      必ず仏になると定まった位。
      必ず往生することに定まること。


>諸仏を念ずというは、然燈等の過去の諸仏・阿弥陀等の現在の諸仏・弥勒等の将来の諸仏
>を念ずるなり。常にかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。
>三界第一にして、よく勝れたる者〈ひと〉ましまさず。このゆえに歓喜多し。

  諸仏を念ずというのは、然燈などの過去の諸仏、阿弥陀などの現在の諸仏、弥勒など
  の将来の諸仏を念ずることである。常にこのような諸仏世尊を念ずれば、現に前にお
  られるようである。これらは、三界で第一の方であって、これより勝れている者は
  存在しない。だから、歓喜が多いのである。


>諸仏の大法を念ずとは、略して諸仏の四十不共法を説かん。一には自在の飛行、意に随う。
>二には自在の変化、辺なし。三には自在の所聞、無碍なり。四には自在に無量種の門を
>もって、一切衆生の心を知ろしめす。乃至。

  諸仏の大法を念ずということについて、略して、諸仏の四十の特質(不共法)を説明しよう。
  一つには、自由自在に飛行することが、思いのままである。二つには自由自在な変化に、
  かぎりがない。三つには、自由自在に聞くところに、妨げがない。四つには、自由自在に
  計り知れない種々の門(ポイント?)をもちいることによって、すべての衆生の心を知るこ
  とができる。(中略)

  WikiArcより
    四十不共法
      仏のみに具わっている四十種類のすぐれた特質。

  WikiDharmaより
    不共法


>必定のもろもろの菩薩を念すとは、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位
>に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたわず。大悲心を得て
>大人法を成ず。乃至。これを念必定の菩薩と名づく。

  必定のもろもろの菩薩を念すとは、もし菩薩が、阿耨多羅三藐三菩提(この上ない仏
  のさとり)の記(予言・あかし)を得れば、法位(不退転の位)に入って、無生忍を得る
  のである。千万億数の魔の軍衆も、これを壊し乱すことはできない。大悲心を得て
  大人法をなしとげる。(中略)これを「念必定の菩薩(必定の菩薩を念ず)」と名づけ
  る。

  WikiArcより
    記
      記別ともいう。将来さとりを開くに違いないと仏が与える予言。
      成仏することの証言、あかし。
    法位
      不退転の位。
    大人法
      菩薩の行う自利・利他の法、あるいは仏のさとりの法の意か。
    必定の菩薩
      かならず仏に成ると定まった菩薩。元来は初地以上の菩薩のことであるが、
      親鸞聖人は第十八願の行者のこととする。


>希有行を念ずというは、必定の菩薩の第一希有の行を念じて、心に歓喜せしむ。一切凡夫
>の及ぶことあたわざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたわざるところな
>り。仏法無碍解脱および薩婆若智を開示す。

  希有行を念ずというのは、必定の菩薩が、第一希有の行を念じて、心を歓喜させるこ
  とである。それは、どんな凡夫も、到達することことのできないところである。どん
  な声聞や辟支仏(縁覚)も、行ずることのできないところである。それは、仏法、無碍、
  解脱、および、いっさいの仏智を明らかに示すのである。

  WikiArcより
    第一希有の行
      十地の菩薩が修める十波羅蜜の行。ここでは本願の大行を指す。
    無碍解脱
      無碍道(無間道)と解脱道。前者は煩悩を断ずる位、後者は煩悩を断ち終って
      無為を得る位。
    薩婆若智
      薩婆若は梵語サルヴァ・ジュニャの音写。一切智と漢訳する。仏の智慧のこと。

  Wikipediaより
    十波羅蜜
      六波羅蜜に、方便・願・力・智の4つを加えたもの。六波羅蜜の般若波羅蜜
      より派生した4つの波羅蜜。唯識論ではこの十波羅蜜を立てて十勝行と称す。
      菩薩の五十二位の中の十行のことともいわれる。また菩薩は十地において
      正しくこの十波羅蜜を順次に習得するという。


>また十地のもろもろの所行の法を念ずるを、名づけて心多歓喜とす。このゆえに、
>菩薩初地に入ることを得れば名づけて歓喜とす。

  また、十地において行ずるところのもろもろの法を念ずることを、「心多歓喜」と
  名づける。だから、菩薩が初地に入ることができれば、それを「歓喜」と名づける。

  WikiArcより
    十地
      菩薩の五十二位の修行階位の中、四十一位より五十位までをいう。
-------------------------------------------------------------------------------

  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません。

●re.36
ボン
関東の男性
[ 1631 ] Re36:教行信証・学習ノート2 2009/10/16 (Fri) 23:11 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
問曰。有凡夫人未発無上道心。或有発心者未得歓喜地。是人念諸仏及諸仏大法。
念必定菩薩及希有行亦得歓喜。得初地菩薩歓喜。与此人有何差別。

答曰。菩薩得初地。其心多歓喜。諸仏無量徳。我亦定当得。得初地必定菩薩。
念諸仏有無量功徳。我当必得如是之事。何以故。我已得此初地入必定中。
余者無有是心。是故初地菩薩多生歓喜。余者不爾。何以故。余者雖念諸仏。
不能作是念。我必当作仏。

譬如転輪聖子生転輪王家。成就転輪王相。念過去転輪王功徳尊貴作是念。
我今亦有是相。亦当得是豪富尊貴。心大歓喜。若無転輪王相者無如是喜。
必定菩薩若念諸仏及諸仏大功徳威儀尊貴。我有是相。必当作仏。即大歓喜。
余者無有是事。定心者深入仏法心不可動。
-----------------------------------------------------------------------------
(十住毘婆沙論)
問うて曰わく、凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり。あるいは発心する者あり、未だ
歓喜地を得ざらん。この人、諸仏および諸仏の大法を念じてん。必定の菩薩および希有
の行を念じて、また歓喜を得て、初地を得る菩薩の歓喜と、この人と、何の差別あるや。

答えて曰わく、菩薩、初地を得つれば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、我また定んで
当に得べし。初地を得る必定の菩薩は、諸仏を念じて無量の功徳をたもつ。我当に必ず
かくのごときの事を得べし。何をもってのゆえに。我すでにこの初地を得、必定の中に
入れり。余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩、多く歓喜を生ず。余はし
からず。何をもってのゆえに。余は諸仏を念ずといえども、この念を作すことあたわず。
我必ず当に作仏すべしと。

たとえば、転輪聖子の、転輪王の家に生まれて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王
の功徳の尊貴なることを念じて、この念を作さん、我今またこの相あり、また当にこの
豪富尊貴を得べしと。心大きに歓喜せん。もし転輪王の相なくんば、かくのごときの喜
びなからんがごとし。必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずる
に、我この相あり、必ず当に作仏すべしと。すなわち大いに歓喜せん。余はこの事ある
ことなけん。定心とは深く仏法に入りて心動ずべからず。
-----------------------------------------------------------------------------

●re.37
ボン
関東の男性
[ 1632 ] Re37:教行信証・学習ノート2 2009/10/16 (Fri) 23:12 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>問曰。有凡夫人未発無上道心。或有発心者未得歓喜地。是人念諸仏及諸仏大法。
>念必定菩薩及希有行亦得歓喜。得初地菩薩歓喜。与此人有何差別。

>答曰。菩薩得初地。其心多歓喜。諸仏無量徳。我亦定当得。得初地必定菩薩。
>念諸仏有無量功徳。我当必得如是之事。何以故。我已得此初地入必定中。
>余者無有是心。是故初地菩薩多生歓喜。余者不爾。何以故。余者雖念諸仏。
>不能作是念。我必当作仏。

>譬如転輪聖子生転輪王家。成就転輪王相。念過去転輪王功徳尊貴作是念。
>我今亦有是相。亦当得是豪富尊貴。心大歓喜。若無転輪王相者無如是喜。
>必定菩薩若念諸仏及諸仏大功徳威儀尊貴。我有是相。必当作仏。即大歓喜。
>余者無有是事。定心者深入仏法心不可動。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(十住毘婆沙論)
>問うて曰わく、凡夫人の未だ無上道心を発せざるあり。あるいは発心する者あり、未だ
>歓喜地を得ざらん。この人、諸仏および諸仏の大法を念じてん。必定の菩薩および希有
>の行を念じて、また歓喜を得て、初地を得る菩薩の歓喜と、この人と、何の差別あるや。

  (十住毘婆沙論)
  次のように問う。凡夫人で、いまだにこの上ないさとりを求める心をおこさないもの
  が、あるとする。あるいは、その心を起こすものがあっても、未だ歓喜地を得ていな
  いとしよう。この人も、諸仏および諸仏の大法を念じているだろう。必定の菩薩およ
  び希有の行を念じて、また歓喜を得て、初地を得る菩薩の歓喜と比べて、この人は、
  どのような違いがあるのか。

  WikiArcより
    無上道心
      この上ないさとりを求める心。菩提心のこと。


>答えて曰わく、菩薩、初地を得つれば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、我また定んで
>当に得べし。初地を得る必定の菩薩は、諸仏を念じて無量の功徳をたもつ。我当に必ず
>かくのごときの事を得べし。何をもってのゆえに。我すでにこの初地を得、必定の中に
>入れり。余はこの心あることなけん。このゆえに初地の菩薩、多く歓喜を生ず。余はし
>からず。何をもってのゆえに。余は諸仏を念ずといえども、この念を作すことあたわず。
>我必ず当に作仏すべしと。

  次のように答える。菩薩は、初地を得れば、その心に歓喜が多い。諸仏の計り知れな
  い徳を、自分もまた、まさに得ることが確定している。初地を得る必定の菩薩は、諸
  仏を念じて無量の功徳をたもつ。自分が、まさに必ず如是(このようなこと)を得るに
  違いない。それはなぜか。自分は、すでにこの初地を得て、必定のなかに入っている。
  ほかの者は、この心がない。だから、初地の菩薩は、多くの歓喜を生ずるが、ほかの
  者はそうではない。それはなぜかといえば、ほかの者は、諸仏を念ずるとはいっても、
  この念のとおりになることができないからである。自分(初地の菩薩)は、必ずまさに
  仏になるのである。


>たとえば、転輪聖子の、転輪王の家に生まれて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王
>の功徳の尊貴なることを念じて、この念を作さん、我今またこの相あり、また当にこの
>豪富尊貴を得べしと。心大きに歓喜せん。もし転輪王の相なくんば、かくのごときの喜
>びなからんがごとし。必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずる
>に、我この相あり、必ず当に作仏すべしと。すなわち大いに歓喜せん。余はこの事ある
>ことなけん。定心とは深く仏法に入りて心動ずべからず。

  たとえば、転輪王の子どもが、転輪王の家に生まれて、転輪王の相(すがた)を身にま
  とって、過去の転輪王の功徳の尊く気高いことを念じて、この念をなすとしよう。
  自分にもまたこの相(すがた)があり、また、まさにその大きな富と尊さを我が物とす
  ることが間違いないとしよう。そう思えば、心は大いに歓喜するに違いない。もし、
  転輪王の相(すがた)がないとしたら、このような喜びもない、というのとこれは同じ
  ことである。必定の菩薩は、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずるに、
  自分にもこの相(すがた)があり、必ずまさに仏となるに違いない。そう思えば、大い
  に歓喜するであろう。そのほかのものには、このようなことがない。定心というのは、
  深く仏法に入って、心が動ずることがないのである。

  大辞林より
    転輪王
      インド神話で、正義によって世界を治める理想的帝王。仏教では三十二相・
      七宝を具備するとされ、天から感得した輪宝を転がして四州を治める。輪宝
      の種類により、鉄輪王・銅輪王・銀輪王・金輪王の四輪王がいる。転輪聖王。
      輪王。

>-----------------------------------------------------------------------------

  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません。

●re.38
ボン
関東の男性
[ 1633 ] Re38:教行信証・学習ノート2 2009/10/17 (Sat) 21:48 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
又云。信力増上者。何名有所聞見必受無疑増上名殊勝。

問曰。有二種増上。一者多。二者勝。今説何者。

答曰。此中二事倶説。菩薩入初地得諸功徳味故。信力転増。
以是信力籌量諸仏功徳無量深妙能信受。是故此心亦多亦勝。

深行大悲者。愍念衆生徹入骨体故名為深。為一切衆生求仏道故名為大。
慈心者常求利事安穏衆生。慈有三種。乃至。

-----------------------------------------------------------------------------
(十住毘婆沙論・浄地品)
また云わく、信力増上はいかん。聞見するところありて、必ず受けて疑いなきに名
づく。増上は殊勝に名づくと。

問うて曰わく、二種の増上あり、一には多、二には勝なり。今の説なにものぞと。

答えて曰わく、この中の二事ともに説かん。菩薩、初地に入ればもろもろの功徳の味
わいを得るがゆえに、信力転増す。この信力をもって諸仏の功徳無量深妙なるを籌量
〈籌 はからう〉して、よく信受す。このゆえにこの心また多なり、また勝なり。

深く大悲を行ずるとは、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて深と
す。一切衆生のために仏道を求むるがゆえに、名づけて大とす。慈心とは、常に利事
を求めて衆生を安穏せしむ。慈に三種あり。乃至。

-----------------------------------------------------------------------------

●re.39
ボン
関東の男性
[ 1634 ] Re39:教行信証・学習ノート2 2009/10/17 (Sat) 21:48 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>又云。信力増上者。何名有所聞見必受無疑増上名殊勝。

>問曰。有二種増上。一者多。二者勝。今説何者。

>答曰。此中二事倶説。菩薩入初地得諸功徳味故。信力転増。
>以是信力籌量諸仏功徳無量深妙能信受。是故此心亦多亦勝。

>深行大悲者。愍念衆生徹入骨体故名為深。為一切衆生求仏道故名為大。
>慈心者常求利事安穏衆生。慈有三種。乃至。

>-----------------------------------------------------------------------------
>(十住毘婆沙論・浄地品)
>また云わく、信力増上はいかん。聞見するところありて、必ず受けて疑いなきに名
>づく。増上は殊勝に名づくと。

  また次のように述べる。信力増上とは、どのようなものか。聞いたり見みたりした
  ことを、必ず受け入れて疑わないことに名づける。増上は殊勝に名づける。


>問うて曰わく、二種の増上あり、一には多、二には勝なり。今の説なにものぞと。

  次のように問う。二種類の増上があって、一には多、二には勝である。この説は
  どのようなものか。


>答えて曰わく、この中の二事ともに説かん。菩薩、初地に入ればもろもろの功徳の味
>わいを得るがゆえに、信力転増す。この信力をもって諸仏の功徳無量深妙なるを籌量
>して、よく信受す。このゆえにこの心また多なり、また勝なり。

  次のように答える。この中の二つのこと(多と勝)を両方ともあわせて説明しよう。
  菩薩は、初地に入ればもろもろの功徳の味わいを得るために、信力が増加に転じる。
  この信力によって、諸仏の功徳が計り知れず奥深くすぐれていることをはからい知っ
  て、それを信じて受け入れることができる。だから、この心は、多(量が多いこと)で
  あり、また同時に勝(質が優れていること)である。

  WikiArcより
    籌量
      ものごとのよしあしをはからい知ること。


>深く大悲を行ずるとは、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆえに、名づけて深と
>す。一切衆生のために仏道を求むるがゆえに、名づけて大とす。慈心とは、常に利事
>を求めて衆生を安穏せしむ。慈に三種あり。乃至。

  深く大悲を行ずるというのは、衆生をあわれむことが骨身に染み通っているために、
  深と名づける。いっさいの衆生のために仏道を求めていることから、大と名づける。
  慈心とは、常に衆生の利益を求めて、衆生を安らかで穏やかにさせるものである。
  慈に三種がある。(中略)

  WikiArcより
    骨体に徹入する
      骨身にまでしみとおる。
    利事
      衆生を利益すること。

-----------------------------------------------------------------------------

  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません。

●re.40
ボン
関東の男性
[ 1635 ] Re40:教行信証・学習ノート2 2009/10/17 (Sat) 22:14 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
又曰。仏法有無量門。如世間道有難有易。陸道歩行則苦。水道乗船則楽。
菩薩道亦如是。或有懃行精進。或有以信方便易行疾至阿惟越致者。乃至。
-----------------------------------------------------------------------------
(十住毘婆沙論・易行品)
また曰わく、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行は
すなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくの
ごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く
阿惟越致に至る者あり。乃至。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「仏法に無量の門あり」等とは、具に難行易行の之道を挙げて、正しく二道の期する
所は共に不退の位に在ることを明かす。その不退の位は、難行は至りがたく、易行は
至り易し。これ難行に対して念仏を易と為す。

●re.41
ボン
関東の男性
[ 1636 ] Re41:教行信証・学習ノート2 2009/10/17 (Sat) 22:15 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>又曰。仏法有無量門。如世間道有難有易。陸道歩行則苦。水道乗船則楽。
>菩薩道亦如是。或有懃行精進。或有以信方便易行疾至阿惟越致者。乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(十住毘婆沙論・易行品)
>また曰わく、仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行は
>すなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくの
>ごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもって疾く
>阿惟越致に至る者あり。乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (十住毘婆沙論・易行品)
  また次のように述べる。仏法には、数限りない門(教え)がある。世間の道に難があり、
  易がある。陸の道の歩行は苦しく、水上の道の乗船は楽しい、というようなものであ
  る。菩薩の道もまた、それと同様である。行を勤めて精進するものがあれば、信心を
  方便とする易行によって素早く不退転にいたる者もある。(中略)

  WikiArcより
    門
      法門、教えのこと。
    信方便の易行
      信心を方便(方途・道筋)とする易行。あるいは「方便の易行を信じて」とも
      読める。
    阿惟越致
      梵語アヴァイヴァルティカまたアヴィニヴァルタニーヤの音写。
      無退・不退・不退転と漢訳する。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「仏法に無量の門あり」等とは、具に難行易行の之道を挙げて、正しく二道の期する
>所は共に不退の位に在ることを明かす。その不退の位は、難行は至りがたく、易行は
>至り易し。これ難行に対して念仏を易と為す。

  「仏法に無量の門あり」等とは、具体的に難行と易行の道を取り上げて、正しく、
  二つの道の期待するところは、ともに不退の位にあるということを明らかにしている。
  その不退の位には、難行では至りがたく、易行では至りやすい。ここに、難行に対し
  て、念仏を易行であるとしている。

●re.42
ボン
関東の男性
[ 1637 ] Re42:教行信証・学習ノート2 2009/10/17 (Sat) 22:46 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
若人疾欲至不退転地者。応以恭敬心執持称名号。若菩薩欲於此身得至阿惟越致地成阿耨
多羅三藐三菩提者。応当念是十方諸仏。称名号如宝月童子所問経阿惟越致品中説。乃至。

西方善世界仏号無量明。身光智慧明。所照無辺際。其有聞名者。即得不退転。乃至。
過去無数劫。有仏号海徳。是諸現在仏。皆従彼発願。寿命無有量。光明照無極。
国土甚清浄。聞名定作仏。乃至。
-----------------------------------------------------------------------------
(十住毘婆沙論・易行品)
もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、まさに恭敬心をもって執持して名号を称すべし。
もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと
欲せば、まさにこの十方諸仏を念じ、名号を称すべし。『宝月童子所問経』の
「阿惟越致品」の中に説くがごとし。乃至

西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧明らかにして、照らすところ辺際なし。
それ名を聞くことある者は、すなわち不退転を得と。乃至 過去無数劫に仏まします、
海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みな彼に従って願を発せり。寿命量ることなし。
光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞かば定んで仏に作らんと。
乃至。
-----------------------------------------------------------------------------

●re.43
ボン
関東の男性
[ 1638 ] Re43:教行信証・学習ノート2 2009/10/17 (Sat) 22:47 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>若人疾欲至不退転地者。応以恭敬心執持称名号。若菩薩欲於此身得至阿惟越致地成阿耨
>多羅三藐三菩提者。応当念是十方諸仏。称名号如宝月童子所問経阿惟越致品中説。乃至。

>西方善世界仏号無量明。身光智慧明。所照無辺際。其有聞名者。即得不退転。乃至。
>過去無数劫。有仏号海徳。是諸現在仏。皆従彼発願。寿命無有量。光明照無極。
>国土甚清浄。聞名定作仏。乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(十住毘婆沙論・易行品)
>もし人疾く不退転地に至らんと欲わば、まさに恭敬心をもって執持して名号を称すべし。
>もし菩薩この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと
>欲せば、まさにこの十方諸仏を念じ、名号を称すべし。『宝月童子所問経』の
>「阿惟越致品」の中に説くがごとし。乃至

>西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧明らかにして、照らすところ辺際なし。
>それ名を聞くことある者は、すなわち不退転を得と。乃至 過去無数劫に仏まします、
>海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みな彼に従って願を発せり。寿命量ることなし。
>光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞かば定んで仏に作らんと。
>乃至。
-----------------------------------------------------------------------------

  (十住毘婆沙論・易行品)
  もし、人が素早く不退転の地に至りたいと願うのならば、まさにつつしみ敬う心を
  しっかりと保って名号を称すべきである。もし、菩薩がその身に不退転に至ること
  を得て、阿耨多羅三藐三菩提(この上ない仏のさとり)を成就しようと望むのならば、
  まさにこの十方の諸仏を念じて、名号を称すべきである。それは『宝月童子所問経』
  の「阿惟越致品」の中に説いているとおりである。(中略)

  西方の善い世界の仏を無量明と呼ぶ。身の光と智慧が明らかであって、その照らすと
  ころに際限がない。それ名を聞くことがある者は、不退転を得る。(中略)過去の数
  え切れない劫の昔に仏がおられて、その名を海徳と呼ぶ。もろもろの現在の仏は、
  みな彼に習って願を発したのである。その寿命は、計り知れない。光明は、照らして
  極まりがない。国土は、はなはだ清浄である。その名を聞けば、間違いなく仏になる
  であろう。(中略)

  WikiArcより
    恭敬の心
      つつしみ敬う心。ここでは他力の信心のこと。
    執持
      しっかりととりたもつこと。
      親鸞聖人はこれを阿弥陀仏の名号を信じ称えることと解釈された。


      ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません。

●re.44
ボン
関東の男性
[ 1639 ] Re44:教行信証・学習ノート2 2009/10/22 (Thu) 00:42 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
問曰。但聞是十仏名号執持在心。便得不退阿耨多羅三藐三菩提。為更有余仏余菩薩名
得至阿惟越致邪。

答曰。阿弥陀等仏及諸大菩薩。称名一心念。亦得不退転如是。阿弥陀等諸仏。
亦応恭敬礼拝称其名号。今当具説無量寿仏。世自在王仏、乃至、有其余仏是諸仏世尊。
現在十方清浄世界。皆称名憶念阿弥陀仏本願如是。若人念我称名自帰。
即入必定得阿耨多羅三藐三菩提。是故常応憶念。以偈称讃。

無量光明慧。身如真金山。我今身口意。合掌稽首礼。乃至。人能念是仏。無量力功徳。
即時入必定。是故我常念。乃至。若人願作仏。心念阿弥陀。応時為現身。是故我帰命。
彼仏本願力。十方諸菩薩。来供養聴法。是故我稽首。乃至。若人種善根。疑則華不開。
信心清浄者。華開則見仏。十方現在仏。以種種因縁。嘆彼仏功徳。我今帰命礼。乃至。
乗彼八道船。能度難度海。自度亦度彼。我礼自在人。諸仏無量劫。讃揚其功徳。
猶尚不能尽。帰命清浄人。我今亦如是。称讃無量徳。以是福因縁。願仏常念我。抄出。
-----------------------------------------------------------------------------
(十住毘婆沙論・易行品)
問うて曰わく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在〈お〉けば、すなわち
阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして阿惟越致に
至ることを得とせんや。

答えて曰わく、阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を
得ることかくのごとし。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。いま
当につぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏、乃至その余の仏まします、この諸仏世尊、
現に十方の清浄世界に在します。みな阿弥陀仏の本願を称名憶念することかくのごとし。
もし人、我を念じ名を称して自ずから帰しなば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩
提を得、このゆえに常に憶念すべしと。偈をもって称讃せん。

無量光明慧、身は真金の山のごとし。我いま身口意をもって合掌し稽首し礼したてまつる
と。乃至。人よくこの仏の無量力の功徳を念ずれば、即のときに必定に入るなり。このゆ
えに我常に念じたてまつる。乃至。もし人、作仏を願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれ
ば、時に応じてために身を現ぜん。このゆえに我、かの仏の本願力を帰命す。十方のもろ
もろの菩薩も来りて供養し法を聴く。このゆえに我稽首したてまつると。乃至。もし人
善根を種えて、疑えばすなわち花開けず。信心清浄なる者は、花開きてすなわち仏を見た
てまつる。十方現在の仏、種種の因縁をもって、かの仏の功徳を嘆じたまう。我いま帰命
し礼したてまつる。乃至。かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。自ら度しまた彼を
度せん。我、自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫に、その功徳を讃揚せんに、なお尽く
すことあたわず。清浄人を帰命したてまつる。我いままたかくのごとし。無量の徳を称讃
す。この福の因縁をもって、願わくは仏、常に我を念じたまえと。抄出。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

また易行念仏の中に於いて、弥陀を念ずるを以てその本と為ることを顕わすこと、彼の論
の説はその意分明なり。いわゆるその易行を釈する中に、先ず東方善徳仏等の十方十仏を
挙げて、次に阿弥陀等の仏及び諸の大菩薩は、名を称して一心に念ずれば、また不退転を
得と云う。次に世自在王仏等の一百余仏を挙げて、判じて、阿弥陀仏の本願はかくの如し、
もし人が我を念じ名を称して自ら帰すれば、即ち必定に入りて阿耨菩提を得と云う。次に
三十行の偈を以て広く弥陀の功徳を讃ず。今の所引の偈は即ち彼の偈文なり。次に善意等
の一百四十余仏を挙げて易行道と為す。

問う。彼の論の中に具さに諸仏の名号を挙げて、その名を称するを以て易行道と為す。
何ぞ弥陀を以て易行道と為すや。

答う。挙ぐる所の名は諸仏に亙るといえども、或いは「阿弥陀仏本願はかくの如し」と
云い、或いは「もし人が我を念じて名を称して自ら帰すれば」と云い、或いは「名を称し
て一心に念ずれば、また不退転を得」と云う。専ら弥陀に約す。これに依りて彼の弥陀の
章に於いては、余仏菩薩の章よりも委し。蓋しこれ諸教に讃る所、多く弥陀に在るが故
なり。

問う。彼の論の所判は、難行に対する時、これ易行の益はこれ此土所得の不退とやせん、
これ他土所得の不退とやせん。はたまた言う所の往生と不退とは同なりや、異なりや。

答う。総じて三義あり。一に云わく、此土の不退なり。これ則ち行に於いてその難易を
論じ、機に於いて精進・ニョウ弱と分かつといえども、至る所は共にこれ阿惟越致、即ち
これ不退なり。この故に此土の不退ならくのみ。二に云わく、他土の往生なり。然る所以
は、弥陀の本願は本これ往生なり。弥陀の益は往生たらば、諸仏もまた同じ。論文には既
に「阿弥陀等の仏、及び諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得」という。
故に知りぬ、今、不退転というは、これ往生して不退を得るを指すなり。三に云わく、
余仏の益は此土の不退なり。弥陀の益は浄土の往生なり。余仏の益は不退たるべきことは、
その義は第一の義に同じかるべし。弥陀の益は往生たるべきことは、その義は第二の義に
同じかるべし。

問う。今家の意は三義の中に何れの義に依るや。

答う。第一の義を以て論の正意と為す。故にこれを用うべし。

問う。論の正意たること、その義いかん。

答う。彼の論の所説、称名の利益は、不退転を以てその所期と為すこと、諸文に分明なり。
謂く、その文に云わく「名を称して一心に念ずれば、また不退転を得」と已上。また云わ
く「名を称して自ら帰すれば、即ち必定に入る」と已上。「弥陀章」に云わく「人能くこ
の仏の無量力功徳を念ずれば、即の時、必定に入る。この故に我は常に念ず」と已上。
「十仏章」に云わく「もし人、疾く不退転地を得んと欲すれば、応に恭敬の心を以て執持
して名号を称すべし」と已上。また云わく「もし菩薩は、この身に於いて阿惟越致地に至
ることを得て、阿耨菩提を成ぜんと欲わば、まさにこの十方の諸仏を念じて、その名号を
称すべし」と已上。或いは即時と云い、或いはこの身と云う。これ此土の不退を以て本と
為す。種種の異義等あるといえども、今家の意料簡はかくの如し。長行・偈頌は多くの文
あるといえども、ほぼこの趣を得て論の意を解すべし。

●re.45
ボン
関東の男性
[ 1640 ] Re45:教行信証・学習ノート2 2009/10/22 (Thu) 00:44 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>問曰。但聞是十仏名号執持在心。便得不退阿耨多羅三藐三菩提。為更有余仏余菩薩名
>得至阿惟越致邪。

>答曰。阿弥陀等仏及諸大菩薩。称名一心念。亦得不退転如是。阿弥陀等諸仏。
>亦応恭敬礼拝称其名号。今当具説無量寿仏。世自在王仏、乃至、有其余仏是諸仏世尊。
>現在十方清浄世界。皆称名憶念阿弥陀仏本願如是。若人念我称名自帰。
>即入必定得阿耨多羅三藐三菩提。是故常応憶念。以偈称讃。

>無量光明慧。身如真金山。我今身口意。合掌稽首礼。乃至。人能念是仏。無量力功徳。
>即時入必定。是故我常念。乃至。若人願作仏。心念阿弥陀。応時為現身。是故我帰命。
>彼仏本願力。十方諸菩薩。来供養聴法。是故我稽首。乃至。若人種善根。疑則華不開。
>信心清浄者。華開則見仏。十方現在仏。以種種因縁。嘆彼仏功徳。我今帰命礼。乃至。
>乗彼八道船。能度難度海。自度亦度彼。我礼自在人。諸仏無量劫。讃揚其功徳。
>猶尚不能尽。帰命清浄人。我今亦如是。称讃無量徳。以是福因縁。願仏常念我。抄出。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(十住毘婆沙論・易行品)
>問うて曰わく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在〈お〉けば、すなわち
>阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして阿惟越致に
>至ることを得とせんや。

>答えて曰わく、阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を
>得ることかくのごとし。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。いま
>当につぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏、乃至その余の仏まします、この諸仏世尊、
>現に十方の清浄世界に在します。みな阿弥陀仏の本願を称名憶念することかくのごとし。
>もし人、我を念じ名を称して自ずから帰しなば、すなわち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩
>提を得、このゆえに常に憶念すべしと。偈をもって称讃せん。

>無量光明慧、身は真金の山のごとし。我いま身口意をもって合掌し稽首し礼したてまつる
>と。乃至。人よくこの仏の無量力の功徳を念ずれば、即のときに必定に入るなり。このゆ
>えに我常に念じたてまつる。乃至。もし人、作仏を願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれ
>ば、時に応じてために身を現ぜん。このゆえに我、かの仏の本願力を帰命す。十方のもろ
>もろの菩薩も来りて供養し法を聴く。このゆえに我稽首したてまつると。乃至。もし人
>善根を種えて、疑えばすなわち花開けず。信心清浄なる者は、花開きてすなわち仏を見た
>てまつる。十方現在の仏、種種の因縁をもって、かの仏の功徳を嘆じたまう。我いま帰命
>し礼したてまつる。乃至。かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。自ら度しまた彼を
>度せん。我、自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫に、その功徳を讃揚せんに、なお尽く
>すことあたわず。清浄人を帰命したてまつる。我いままたかくのごとし。無量の徳を称讃
>す。この福の因縁をもって、願わくは仏、常に我を念じたまえと。抄出。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (十住毘婆沙論・易行品)
  次のように問う。ただこの十方十仏の名号を聞いてしっかりと心に保っておけば、
  阿耨多羅三藐三菩提(この上ない仏のさとり)から退くことがないのか。また更に、
  ほかの仏やほかの菩薩の名があるために、阿惟越致(不退転)に至ることができると
  いうことなのか。

  十住毘婆沙論・易行品より
    十仏
      東方の善徳仏
      南方の檀徳仏
      西方の無量明仏
      北方の相徳仏
      東南の無憂徳仏
      西南の宝施仏
      西北の華徳仏
      東北の三乗行仏
      下方の明徳仏
      上方の広衆徳仏

  WikiArcより
    十方諸仏
      「易行品」の原文では、東方無憂世界の善徳仏をはじめとする十方十仏。
      親鸞聖人はそのうち西方善世界の無量明仏のみをここに示している。


  次のように答える。阿弥陀などの仏および諸々の大菩薩の名を称し一心に念ずれば、
  不退転を得るということは、そのとおりである。阿弥陀などの諸仏を、つつしんで敬
  い礼拝をして、その名号を称すべきである。今まさに、詳しく無量寿仏について説明
  しようと思う。世自在王仏(中略)そのほかの仏がおられて、この諸仏や世尊は、
  現に十方の清浄な世界におられる。彼らがみな、称名して阿弥陀仏の本願を心に念じ
  て忘れないことは、次のとおりである。「もし人が、私(阿弥陀仏)を念じて名を称し
  て、自然と帰依するならば、必ず仏になると定まった位について、阿耨多羅三藐三菩
  提(この上ない仏のさとり)を得る。だから、常に心に念じて忘れないようにしなけれ
  ばならない。」と。これを、偈文をもって称讃しよう。

  WikiArcより
    礼拝
      仏や菩薩に対して、恭敬・信順の心をもって敬礼すること。『浄土論』には
      五念門の一に、「散善義」には五正行の一に数えられている。
    憶念
      心に思いたもつこと。心に念じて忘れないこと。
      浄土真宗では、とくに阿弥陀仏の本願を信ずること、また本願のいわれを聞
      いて心にたもち常に思い出して忘れないこととして用いられる。


  (阿弥陀仏は)はかり知れない智慧の光明であり、身は真金の山(須弥山)のようである。
  私はいま、身口意をもって合掌し、稽首して、礼拝したてまつる。(中略)人がこの
  仏の計り知れない力の功徳(めぐみ)を念ずれば、ただちに必定(必ず仏になると定まっ
  た位)に入る。このために、私は常に念じたてまつる。(中略)もし人が、仏となるこ
  とを願って、心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じて、そのために身を現わすだ
  ろう。だから、私は、かの仏の本願力を帰命する(信じ順う)。十方のもろもろの菩薩
  もやって来て供養し法を聴く。だから、私は、稽首したてまつる。(中略)もし人が
  善根を種えて、疑えば花は開かない。信心の清浄なる者は、花が開いて、仏を見たて
  まつる。十方に現におられる仏は、種々の因縁によって、かの仏の功徳を賞賛する。
  私はいま、帰命して、礼拝したてまつる。(中略)かの八聖道の船に乗って、難度海
  を渡ることができる。自らを救い、また彼(他者)をも救済しようとする。私は、自在人
  (阿弥陀仏)を礼拝したてまつる。もろもろ仏が計り知れないほど長い劫のあいだ、そ
  の功徳をほめたたえようとしているが、それでもなお、たたえ尽くすことができない。
  清浄人(阿弥陀仏)を帰命したてまつる。私はいま、また、このようなものである。
  計り知れない徳を称讃する。この福の因縁をもって、願わくは仏よ、常に私を念じた
  まえ。(抜粋)

  WikiArcより
    無量光明慧
      はかり知れない智慧の光明。
    真金の山
      須弥山のこと。
    稽首
      ひざまずいて額を地につけ、さらに仏・菩薩・師長の足を額におしいただく
      礼拝法、またひざまずいて額を地につけるだけの礼拝法を指す場合もある。
    帰命
      梵語ナマスの漢訳。南無と音写する。心から信じうやまう意。浄土真宗では、
      本願に帰せよとの阿弥陀如来の勅命の意とし、またその勅命に帰順する
      (信じ順う)意とする。「おほせにしたがふ」(浄土和讃異本左訓)と釈さ
      れている。また帰命には礼拝の意味もある。
    善根
      梵語クシャラ・ムーラの漢訳。善本、徳本とも漢訳する。諸善を生ずるもと
      のこと。功徳のたね。無貪・無瞋・無痴を三善根、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)
      を三不善根という。
    八道の船
      八聖道の行は迷いの海を渡して涅槃に至らせるからこれを船に喩える。
    自在人,清浄人,無量徳
      「易行品」から抄出した阿弥陀仏の徳号。

  大辞林
    供養
      仏・法・僧の三宝を敬い、これに香・華・飲食物などを供えること。
    難度海
      渡ることが難しい迷いの海。


●re.46
ボン
関東の男性
[ 1641 ] Re46:教行信証・学習ノート2 2009/10/22 (Thu) 00:46 △up ▽down
(つづき)

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>また易行念仏の中に於いて、弥陀を念ずるを以てその本と為ることを顕わすこと、彼の論
>の説はその意分明なり。いわゆるその易行を釈する中に、先ず東方善徳仏等の十方十仏を
>挙げて、次に阿弥陀等の仏及び諸の大菩薩は、名を称して一心に念ずれば、また不退転を
>得と云う。次に世自在王仏等の一百余仏を挙げて、判じて、阿弥陀仏の本願はかくの如し、
>もし人が我を念じ名を称して自ら帰すれば、即ち必定に入って阿耨菩提を得と云う。次に
>三十行の偈を以て広く弥陀の功徳を讃ず。今の所引の偈は即ち彼の偈文なり。次に善意等
>の一百四十余仏を挙げて易行道と為す。

  また、易行の念仏のなかでも、弥陀を念ずることが根本であるということを明らかに
  すること、その論(十住毘婆沙論)の説では、その意(こころ)が明白である。いわゆる
  その易行を解釈するなかで、まず、東方の善徳仏などの十方十仏をあげて、次に、
  阿弥陀などの仏、および、もろもろの大菩薩について述べる。その名を称して一心に
  念ずれば、また不退転を得る。次に、世自在王仏などの百あまりの仏をあげて、阿弥
  陀仏の本願は次のようなものであると見きわめている。もし、人が私を念じ、名を称
  して自然と帰依すれば、すなわち、必定(必ず仏になると定まった位)に入って、阿耨
  菩提(この上ない仏のさとり)を得る。次に、三十行の偈によって、広く弥陀の功徳を
  賞賛する。ここで引用する偈は、すなわち、あの偈文である。次に、善意などの140
  あまりの仏をあげて易行道とする。


>問う。彼の論の中に具さに諸仏の名号を挙げて、その名を称するを以て易行道と為す。
>何ぞ弥陀を以て易行道と為すや。

  問う。その論(十住毘婆沙論)のなかで、具体的に諸仏の名号を挙げて、その名を称す
  ることを易行道としている。どうして弥陀をもって易行道とするのか。


>答う。挙ぐる所の名は諸仏に亙るといえども、或いは「阿弥陀仏本願はかくの如し」と
>云い、或いは「もし人が我を念じて名を称して自ら帰すれば」と云い、或いは「名を称し
>て一心に念ずれば、また不退転を得」と云う。専ら弥陀に約す。これに依りて彼の弥陀の
>章に於いては、余仏菩薩の章よりも委し。蓋しこれ諸教に讃る所、多く弥陀に在るが故
>なり。

  答える。取り上げた名は諸仏にわたるとはいえ、「阿弥陀仏本願はかくの如し」と言
  い、また、「もし人が我を念じて名を称して自ら帰すれば」と言い、または、「名を
  称して一心に念ずれば、また不退転を得」とも言う。もっぱら弥陀に集約している。
  このように、弥陀についての文章は、ほかの仏や菩薩についての文章よりも詳しい。
  おそらく、これは、もろもろの教えで賞賛するところが、多くは、弥陀にあるからで
  ある。

  大辞林より
    章
      経典の教義を注釈・解説したもの。


>問う。彼の論の所判は、難行に対する時、これ易行の益はこれ此土所得の不退とやせん、
>これ他土所得の不退とやせん。はたまた言う所の往生と不退とは同なりや、異なりや。

  問う。その論(十住毘婆沙論)が見極めたところでは、難行に対して、易行の利益は、
  この土で得ることのできる不退であるとするのか、または、他の土で得ることのでき
  る不退であるとするのか。はたまた、言うところの往生と不退とは、同じであるのか、
  あるいは、違ったものなのか。


>答う。総じて三義あり。一に云わく、此土の不退なり。これ則ち行に於いてその難易を
>論じ、機に於いて精進・ニョウ弱と分かつといえども、至る所は共にこれ阿惟越致、即ち
>これ不退なり。この故に此土の不退ならくのみ。二に云わく、他土の往生なり。然る所以
>は、弥陀の本願は本これ往生なり。弥陀の益は往生たらば、諸仏もまた同じ。論文には既
>に「阿弥陀等の仏、及び諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得」という。
>故に知りぬ、今、不退転というは、これ往生して不退を得るを指すなり。三に云わく、
>余仏の益は此土の不退なり。弥陀の益は浄土の往生なり。余仏の益は不退たるべきことは、
>その義は第一の義に同じかるべし。弥陀の益は往生たるべきことは、その義は第二の義に
>同じかるべし。

  答える。総じて三つの意味がある。第1にいえば、この土の不退である。これはすな
  わち、行においてはその難易を論じ、機においては精進するものと弱々しいものとに
  分けられるとはいうものの、行き着く先はどちらも阿惟越致、すなわち不退の位であ
  る。だから、この土の不退なのである。第2にいえば、他の土の往生である。その訳
  は、弥陀の本願の根本は、往生だからである。弥陀の利益が往生であるならば、諸仏
  もまた同じである。論文には、すでに「阿弥陀等の仏、及び諸大菩薩、名を称し一心
  に念ずれば、また不退転を得」という。したがって、次のことが知られる。今ここで、
  不退転というのは、これ往生して不退を得るを指すなり。第3にいえば、他の仏の
  利益は、この土の不退なり。弥陀の利益は、浄土の往生である。他の仏の益が不退で
  あるべきことについて、その意味は第1の意味に同じであるに違いない。弥陀の利益
  が往生であるべきことは、その意味は第2の意味に同じであるに違いない。

    ※ニョウ弱のニョウは、人偏に寧の字


>問う。今家の意は三義の中に何れの義に依るや。

  問う。この一門(当流)の意(こころ)は、三つの意味のうち、どの意味によっているのか。


>答う。第一の義を以て論の正意と為す。故にこれを用うべし。

  答える。第一番目の意味をもって、論の正しい意図であるとする。だから、これを
  採用すべきである。


>問う。論の正意たること、その義いかん。

  問う。(第一番目が)論の正しい意図であるとのことであるが、その意味はどのような
  ものか。


>答う。彼の論の所説、称名の利益は、不退転を以てその所期と為すこと、諸文に分明なり。
>謂く、その文に云わく「名を称して一心に念ずれば、また不退転を得」と已上。また云わ
>く「名を称して自ら帰すれば、即ち必定に入る」と已上。「弥陀章」に云わく「人能くこ
>の仏の無量力功徳を念ずれば、即の時、必定に入る。この故に我は常に念ず」と已上。
>「十仏章」に云わく「もし人、疾く不退転地を得んと欲すれば、応に恭敬の心を以て執持
>して名号を称すべし」と已上。また云わく「もし菩薩は、この身に於いて阿惟越致地に至
>ることを得て、阿耨菩提を成ぜんと欲わば、まさにこの十方の諸仏を念じて、その名号を
>称すべし」と已上。或いは即時と云い、或いはこの身と云う。これ此土の不退を以て本と
>為す。種種の異義等あるといえども、今家の意料簡はかくの如し。長行・偈頌は多くの文
>あるといえども、ほぼこの趣を得て論の意を解すべし。

  答える。その論(十住毘婆沙論)が説く称名の利益について、不退転がその期待する
  ものであるということは、いろいろな文で明らかになっている。言うところでは、
  その文では次のように述べる。「名を称して一心に念ずれば、また不退転を得る。」
  また、次のように述べる。「名を称して自然と帰依すれば、すなわち必定(必ず仏に
  なると定まった位)に入る。」(十住毘婆沙論・易行品の)「弥陀章」では次のように
  述べる。「人がこの仏の計り知れない力と功徳(めぐみ)を念ずることができれば、
  ただちに、必定に入る。だから、私は常に念ずる。」「十仏章」では次のように述べ
  る。「もし人が、すばやく不退転の地を得ようと望めば、まさにつつしんで敬う心を
  もって、しっかりと保って名号を称すべきである。」また次のように述べる。「菩薩
  がもし、この身において阿惟越致(不退転)の地に至ることができて、阿耨菩提(この上
  ない仏のさとり)を成就しようと望むならば、まさにこの十方の諸仏を念じて、その
  名号を称すべきである。」あるいは“即時(ただちに)”と言い、あるいは“この身”
  と言う。これは、この土の不退をもって本旨とするということである。種々の異なっ
  た解釈などがあるとはいうものの、この一門(当流)の意(こころ)と料簡(教義的解釈)
  はこのようなものである。長行(散文)と偈頌(詩文)は、多くの文があるけれども、
  ほぼこの趣旨によって論の意(こころ)を理解すべきである。

●re.47
ボン
関東の男性
[ 1642 ] Re47:教行信証・学習ノート2 2009/10/24 (Sat) 00:28 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
浄土論曰。我依修多羅真実功徳相。説願偈総持。与仏教相応。観仏本願力。
遇無空過者。能令速満足功徳大宝海。
-----------------------------------------------------------------------------
『浄土論』に曰わく、我、修多羅 真実功徳相に依りて、願偈総持を説きて、
仏教と相応せりと。仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし。
よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむと。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に『浄土論』、「我依」等とは偈の前の註に云わく「次に優婆提舎の名を成ず。
また上を成じ下を起こす偈」已上。また偈の後に云わく「この一行、云何ぞ優婆提舎の
名を成ずるや。云何ぞ上の三門を成じ下の二門を起こすや。偈に我依修多羅与仏教相応
という。修多羅はこれ仏経の名、我は仏経の義を論じて経と相応す。仏法の相に入るを
以ての故に優婆提舎と名づく。名を成じ竟んぬ。上の三門を成じ下の二門を起こす」已上。
これ等の義趣、次下の「何所依」以下、「函蓋相称」に至るまで、下にこれを引かる。
仍て今はこれを略す。宜しく彼の文を見るべし。

「観仏」等とは、『論』に二十九句の荘厳を明かす。その中に如来八種の功徳荘厳の内、
第八の荘厳不虚作住持功徳荘厳の文なり。註に云わく「この四句を荘厳不虚作住持功徳成
就と名づく。仏本何が故ぞ、この荘厳を起したもう。ある如来を見ればに、ただ声聞を以
て僧と為て、仏道を求むる者なし。或いは仏に値いて而も三塗を免れざるあり。善星・
提婆達多・居迦離等これなり。また人、仏の名号を聞きて無上道心を発せども、悪の因縁
に遇いて、退して声聞・辟支仏地に入る者、かくのごとき等の空しく過る者、退没せん者
あり。この故に願じて言く、我成仏せん時、我に値遇せん者をして、皆速かに疾く無上の
大宝を満足せしめん」已上。

●re.48
ボン
関東の男性
[ 1643 ] Re48:教行信証・学習ノート2 2009/11/03 (Tue) 11:43 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>浄土論曰。我依修多羅真実功徳相。説願偈総持。与仏教相応。観仏本願力。
>遇無空過者。能令速満足功徳大宝海。
>-----------------------------------------------------------------------------
>『浄土論』に曰わく、我、修多羅 真実功徳相に依りて、願偈総持を説きて、
>仏教と相応せりと。仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし。
>よく速やかに功徳の大宝海を満足せしむと。
>-----------------------------------------------------------------------------

  『浄土論』では次のように述べる。私は、修多羅(仏経)と真実の功徳の相(すがた)に
  もとづいて、「願生偈」という総持(キーとなる短い言葉)を説き、仏の教えと相応し
  た(一体となった)。仏の本願力をよく思い見れば、(本願力に)遭遇した場合、そのま
  ま何事もなく空しく通り過ぎてしまう者はいない。速やかに、功徳(めぐみ)の大きな
  宝の海を我が物とすることができるのである。

  WikiArcより
    修多羅
      梵語スートラの音写。経と漢訳する。また経は常の意味で、真理の永遠不変
      のことをいう。またよく真理にかない、衆生の根機にかなうから契経とも
      漢訳する。
    十二部経
      仏の説かれた経典を形式、内容から十二に分類したもの。十二分経(十二分教)
      ともいう。
         1.修多羅(契経)
         2.祇夜(重頌)
         3.和伽羅那(授記)
         4.伽陀(孤起頌)
         5.優陀那(無問自説)
         6.尼陀那(因縁)
         7.阿波陀那(譬喩)
         8.伊帝目多伽(本事)
         9.闍陀伽(本生)
        10.毘仏略(方広)
        11.阿浮陀達磨(未曾有)
        12.優婆提舎(論議)
    真実功徳相
      無量寿経(浄土三部経)に説かれた如来浄土の功徳が、真如にかなって衆生を
      救うはたらきをもっていることをいう。
      真実の功徳の相。真如法性にかない(不顛倒)、衆生を浄土に入らしめる
      (不虚偽)はたらきをもつ。
        1.極楽浄土の三種荘厳(仏荘厳・菩薩荘厳・国土荘厳)のこと。
        2.無碍光如来のこと。
        3.南無阿弥陀仏の名号のこと。
    願偈総持
      願偈は「願生偈」のこと。総持は種々の義理をたもち散失せしめない意。
      すなわち「願生偈」は『大経』にあらわされた広博な義理を要約したもので
      あることをいう。
    願生偈
      本書は、天親菩薩の著『無量寿経優婆提舎願生偈』から、諷誦に用いられる
      偈頌を別出したものである。『願生偈』とは、天親菩薩ご自身が無量寿経
      (浄土三部経)によって浄土を願生する旨を述べた偈頌という意味である。
      偈頌は五字一句、四句一行で全部で24行になっている。
      その内容は、初めに、天親菩薩自身が、一心に尽十方無礙光如来(阿弥陀仏)
      に帰命し、浄土の往生を願う旨を述べられる。ついで、無量寿経(浄土三部経)
      に示されている真実功徳相によってこの偈を説き、仏の教えにかなう旨を述
      べられる。
      さらに、安楽浄土の国土荘厳十七種と仏荘厳八種と聖衆荘厳の四種と、合せて
      三厳二十九種の荘厳功徳が讃詠されている。そして最後に回向の意を示して
      結ばれている。すなわち菩薩自身が願生するだけでなく、あまねく多くの人々
      とともに往生することを願う旨を示されているのである。
    総持
      梵語ダーラニーの漢訳。陀羅尼と音写。仏の教えの精要をわずかな言語にお
      さめた章句のこと。
        1.広博な経の文意を総摂して短い偈のなかにおさめたもつこと。
        2.よくすべてをおさめ保って忘れない力。ひとつのことがらを記憶する
         ことによって、あらゆることがらを連想して忘れない記憶術。
        3.万善万行を欠けることなく円(まど)かに供えた名号のこと。
        4.智慧のこと。

  大辞林より
    相応
      複数の事柄が親しく和合していたり、統一されていたりすること。

  相応について(WikiArcより)
    如実修行相応
      真如の理にしたがって修行し、その信ずるところ、修するところが真如にか
      なうこと。また、阿弥陀仏の本願に相応し、教のごとくに修行して法に違わ
      ないこと。
    相応一念
      真如に相応する一念。親鸞聖人は、本願に相応する信の一念とみなされた。
    一念に相応して
      本願に相応する一念の信を得るという意。
    名義に相応す
      名号(みょうごう)のいわれにかなう。

    《感想》
      このように見てみると、真宗では「相応」という言葉が、とても大事な
      キーワードのように思えてきます。我々はまさに、仏の本願に遭遇して、
      そして「相応」したのではないのかと・・・。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『浄土論』、「我依」等とは偈の前の註に云わく「次に優婆提舎の名を成ず。
>また上を成じ下を起こす偈」已上。また偈の後に云わく「この一行、云何ぞ優婆提舎の
>名を成ずるや。云何ぞ上の三門を成じ下の二門を起こすや。偈に我依修多羅与仏教相応
>という。修多羅はこれ仏経の名、我は仏経の義を論じて経と相応す。仏法の相に入るを
>以ての故に優婆提舎と名づく。名を成じ竟んぬ。上の三門を成じ下の二門を起こす」已上。
>これ等の義趣、次下の「何所依」以下、「函蓋相称」に至るまで、下にこれを引かる。
>仍て今はこれを略す。宜しく彼の文を見るべし。

  次に『浄土論』について。「我依・・・」などについては、偈(詩文)の前の註に次の
  ように述べている。「次に優婆提舎の名を成ず。また上を成じ下を起こす偈」また、
  偈の後には次のように述べる。「この一行は、どのようにして、優婆提舎(論議)の名
  となるのか。どのようにして、上の三門を成じ、下の二門を起こすのか。偈に『我依
  修多羅与仏教相応(私は修多羅により仏の教えと相応する)』という。『修多羅』は
  仏の経の名前であり、私は仏の経の義(意味)を論じて経と相応する。仏法の相に入る
  ことから、優婆提舎と名づける。これで名を成じ終える。上の三門を成じ、下の二門
  を起こす。」これらの趣旨については、次に続く段の「何所依」から「函蓋相称」ま
  でに、これを引用している。したがって、ここではこれを省略するので、そちらの文
  を見ていただきたい。

  WikiArcより
    一行
      1.念仏の一行を指す。
      2.唯一絶対のはたらきのこと。涅槃の異名。

●re.49
ボン
関東の男性
[ 1644 ] Re49:教行信証・学習ノート2 2009/10/24 (Sat) 00:30 △up ▽down
(つづき)

>「観仏」等とは、『論』に二十九句の荘厳を明かす。その中に如来八種の功徳荘厳の内、
>第八の荘厳不虚作住持功徳荘厳の文なり。註に云わく「この四句を荘厳不虚作住持功徳成
>就と名づく。仏本何が故ぞ、この荘厳を起したもう。ある如来を見ればに、ただ声聞を以
>て僧と為て、仏道を求むる者なし。或いは仏に値いて而も三塗を免れざるあり。善星・
>提婆達多・居迦離等これなり。また人、仏の名号を聞きて無上道心を発せども、悪の因縁
>に遇いて、退して声聞・辟支仏地に入る者、かくのごとき等の空しく過る者、退没せん者
>あり。この故に願じて言く、我成仏せん時、我に値遇せん者をして、皆速かに疾く無上の
>大宝を満足せしめん」已上。

  「観仏・・・」などについては、『浄土論』において、二十九句の荘厳を明らかにし
  ている。そのなかで、如来の八種の功徳荘厳のうち、第八の『荘厳不虚作住持功徳荘
  厳』の文が、それである。註では次のように述べている。「この四句を『荘厳不虚作
  住持功徳成就』と名づける。仏は、もともと、どうして、この荘厳を起こされたのか。
  ある如来について見れば、ただ声聞を僧となすだけで、そこには仏の道を求むる者は
  いない。あるいは、仏に出会って、それでも三塗(三悪道)を免れることのできないも
  のもある。善星・提婆達多・居迦離などが、それである。また、人が、仏の名号を聞
  いて、無上道心(菩提心)を起したとしても、悪の因縁に遭遇して、退いて声聞や縁覚
  の地に入る者、このような空しく過ぎる者や、退いて沈んでしまう者がある。このよ
  うなわけで、願いを込めて次のように述べる。私が成仏しようとするときに、私に
  出会ったものが、みな速やかに素早く、この上ない大きな宝を自分のものとする
  ようにさせたい。」

  WikiArcより
    荘厳
      うるわしく身や国土を飾ること。身・口・意の三業をととのえて清浄にする
      こと。天親菩薩の『浄土論』には、阿弥陀仏の浄土のうるわしさについて
      二十九種荘厳を説く。大別して依報荘厳に十七種、正報荘厳の中、仏荘厳に
      八種、菩薩荘厳に四種ある。
    三種の荘厳
      国土の荘厳
         1.荘厳清浄功徳
         2.荘厳無量功徳
         3.荘厳性功徳
         4.荘厳形相功徳
         5.荘厳種種事功徳
         6.荘厳妙色功徳
         7.荘厳触功徳
         8.荘厳三種功徳
         9.荘厳雨功徳
        10.荘厳光明功徳
        11.荘厳妙声功徳
        12.荘厳主功徳
        13.荘厳眷属功徳
        14.荘厳受用功徳
        15.荘厳無諸難功徳
        16.荘厳大義門功徳
        17.荘厳一切所求満足功徳
      仏の荘厳
         1.荘厳座功徳
         2.荘厳身業功徳
         3.荘厳口業功徳
         4.荘厳心業功徳
         5.荘厳大衆功徳
         6.荘厳上首功徳
         7.荘厳主功徳
         8.荘厳不虚作住持功徳
      菩薩の荘厳
         1.不動遍至功徳
         2.時遍至功徳
         3.無余供養功徳
         4.遍示三法功徳
    荘厳不虚作住持功徳成就
      仏荘厳八種の第八荘厳。阿弥陀仏の願力は虚妄なものでなく、衆生を完全に
      救いとげるものであるということを示す。
    善星
      梵名スナクシャトラの漢訳。出家して釈尊の弟子となったが、後に釈尊にそ
      むき、因果の道理を否定する邪見を起したため、生きながら無間地獄に堕ち
      たといわれる。『涅槃経』では釈尊の子供とされる。
    提婆達多
      梵名デーヴァダッタの音写。調達ともいう。また提婆とも略す。釈尊の従弟
      で阿難の兄。仏弟子となったが、後に釈尊にそむき、五百人の弟子を率いて
      独立した。阿闍世王をそそのかして父王を殺して王位につかせ、次いで釈尊
      をも害して教権を握ろうとしたが失敗し、生きながら地獄に堕ちたと伝えら
      れている。
    無上道心
      この上ないさとりを求める心。菩提心のこと。

●re.50
ボン
関東の男性
[ 1645 ] Re50:教行信証・学習ノート2 2009/10/24 (Sat) 13:11 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
又曰。菩薩入四種門自利行成就。応知。菩薩出第五門回向利益他行成就。応知。
菩薩如是修五門行。自利利他。速得成就阿耨多羅三藐三菩提故。抄出。
-----------------------------------------------------------------------------
(浄土論)また曰わく、菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまえり、知るべし
と。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまえりと、知るべし。菩薩はかく
のごとく五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就する
ことを得たまえるがゆえにと。抄出。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「又曰菩薩」等とは、『論註』の意に依るに、解義分の中に分ちて十重と為す。その
中に第十利行満足の章の終わりの文なり。委しく知らんと欲わば『註』の文を看るべし。

●re.51
ボン
関東の男性
[ 1646 ] Re51:教行信証・学習ノート2 2009/10/24 (Sat) 13:12 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>又曰。菩薩入四種門自利行成就。応知。菩薩出第五門回向利益他行成就。応知。
>菩薩如是修五門行。自利利他。速得成就阿耨多羅三藐三菩提故。抄出。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(浄土論)また曰わく、菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまえり、知るべし
>と。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまえりと、知るべし。菩薩はかく
>のごとく五門の行を修して、自利利他して、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就する
>ことを得たまえるがゆえにと。抄出。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (浄土論)また次のように述べる。菩薩は、四種の門に入って「自利(自ら利する)」
  の行を成就すると知るべきである。そして、菩薩は、第五門を出て、「回向利益他」
  の行を成就すると知るべきである。菩薩は、このように五門の行を修して、「自利
  利他(自ら利し、他を利する)」して、速やかに「阿耨多羅三藐三菩提(この上ない仏
  のさとり)」を成就することができるからである。(抜粋)

  WikiArcより
    自利
      1.自らを利するの意。自らの修行によってもたらされる利益を自分ひとり
       に受け取ること。
      2.浄土真宗では、自力の意にも用いられる。
    回向利益他
      衆生に功徳を施して利益を与えること。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「又曰菩薩」等とは、『論註』の意に依るに、解義分の中に分ちて十重と為す。その
>中に第十利行満足の章の終わりの文なり。委しく知らんと欲わば『註』の文を看るべし。

  「又曰菩薩・・・」等についていうと、『論註』の意(こころ)によれば、(浄土論の
  なかの)「解義分」を十に分けることができる。これは、そのなかの第十「利行満足」
  の章の終わりの文である。詳しく知りたいならば、『註』の文を見ることである。

  WikiArcより
    利行満足
      自利利他の二利の行が満足する菩薩行の完成を明かす。

●re.52
ボン
関東の男性
[ 1647 ] Re52:教行信証・学習ノート2 2009/10/24 (Sat) 21:43 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
論註曰。謹案龍樹菩薩十住毘婆沙云。菩薩求阿毘跋致有二種道。
一者難行道。二者易行道。
-----------------------------------------------------------------------------
『論の註』に曰わく、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆娑』を案ずるに、云わく、
菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次に「論註曰」等とは、彼の『註』の最初に『論』の大意を標する発端の釈なり。
鸞師は深く『十住論』の意を得て難易の道を判ず。その文は少しき異なれども、
その義は大いに同じ。

●re.53
ボン
関東の男性
[ 1648 ] Re53:教行信証・学習ノート2 2009/10/24 (Sat) 21:44 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>論註曰。謹案龍樹菩薩十住毘婆沙云。菩薩求阿毘跋致有二種道。
>一者難行道。二者易行道。
>-----------------------------------------------------------------------------
>『論の註』に曰わく、謹んで龍樹菩薩の『十住毘婆娑』を案ずるに、云わく、
>菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり。
-----------------------------------------------------------------------------

  『論の註』では次のように述べている。つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆娑』を考え
  てみるに、その言うところでは、菩薩が阿毘跋致(不退転の位)を求めるにあたって、
  二種類の道がある。一つは難行道であり、もう一つは易行道である。

  WikiArcより
    論註
      二巻。曇鸞大師(476-542?)の著。『無量寿経優婆提舎願生偈註』のこと。
      『往生論註』『浄土論註』『註論』とも略称する。天親菩薩の『浄土論』を
      註釈したもので、上巻には論の偈頌を解釈し、下巻には論の長行を解釈して、
      浄土に往生し成仏する要因はすべて阿弥陀仏の本願力によることを説き明か
      している。浄土思想発展に大きな影響を与えた書。七祖聖教の一。
    十住毘婆娑論
      十七巻。龍樹菩薩(150-250頃)造、鳩摩羅什訳。『華厳経』の「十地品」
      (もしくは『十地経』)のうち、初地と二地とを解釈したもの。全三十五品の
      うち第九「易行品」には、阿弥陀仏の浄土へ往生する易行が説かれている。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に「論註曰」等とは、彼の『註』の最初に『浄土論』の大意を標する発端の釈なり。
>鸞師は深く『十住論』の意を得て難易の道を判ず。その文は少しき異なれども、
>その義は大いに同じ。

  次に「論註曰・・・」等とは、その『論註』の最初に、『浄土論論』の大意を表わす
  発端となる釈である。鸞師は、深く『十住論』の意(こころ)を理解して、難易の道を
  見きわめている。その文は、少し異なっているけれども、その意味はだいたい同じで
  ある。

●re.54
ボン
関東の男性
[ 1649 ] Re54:教行信証・学習ノート2 2009/10/25 (Sun) 22:41 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
難行道者。謂於五濁之世無仏時。求阿毘跋致為難。此難乃有多途。粗言五三以示義意。
一者外道相(修醤反)善乱菩薩法。二者声聞自利障大慈悲。三者無顧悪人破他勝徳。
四者顛倒善果能壊梵行。五者唯是自力無他力持。如斯等事。触目皆是。
譬如陸路歩行則苦。易行道者。謂但以信仏因縁願生浄土。乗仏願力便得往生彼清浄土。
仏力住持即入大乗正定之聚。正定即是阿毘跋致。譬如水路乗船則楽。
-----------------------------------------------------------------------------
(論註)難行道とは、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。
この難にいまし多くの途〈みち〉あり。ほぼ五三を言うて、もって義の意を示さん。
一には、外道の相善〈相 修醤の反〉、菩薩の法を乱る。二には、声聞は自利にして
大慈悲を障う。三には、無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には、顛倒の善果よく梵行を
壊す。五には、ただこれ自力にして他力の持つなし。このごとき等の事、目に触るるに
みな是なり。たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。易行道とは、いわく、
ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなわちかの
清浄の土に往生することを得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。
正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路の乗船はすなわち楽しきがごとし。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「五濁世」とは、五濁悪世は在滅を分かたず。「無仏時」とは、滅後の時を指す。これ
則ち具さに時処の難を挙ぐ。「五三」というは、少少と称する詞、内外典の中に多くその
例あり。問う。五種の難の大意はいかん。答う。澄或の『註十疑』に云わく「前の四種の
難は凡を非し小を斥〈きら〉う。一の難は大乗の行は唯自にして他なし。大いに外縁を
闕く。故にまた難なり」已上。

「外道」等とは、同じき註に云わく「我が仏の正法、小乗には則ち無常・無我・寂滅法印
あり。大乗には則ち一実相印あり。これに依りて行ずれば必ず聖果に登る。外道は則ち然
らず。迷惑邪見所説の法は、その相は善に似て而も実に善にあらず。邪を以て正を乱る。
人、甄〈あら〉わし分くること能わず。深く障道を成ず」已上。

「声聞の自利は大慈悲を障う」とは、『十住論』に云わく「もし声聞地及び辟支仏地に堕
するは、これを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失す」已上。『荘厳論』に云わく「恒
に地獄に処すといえども、大菩提を障えず。もし自利の心を起こすは、これ大菩提の障な
り」已上。大乗の諸経に多くこの説あり。具さに挙ぐるに遑あらず。

「無顧の悪人、他の勝徳を破す」とは、同じき註に云わく「濁世の悪人は修道の者を見て
は人の美を成ずること能わず。反りて毀破の言を宣ぶ」已上。『漢書』の註に云わく「江准
の間に、小児子の詐多く狡獪なるを謂いて、無顧と名づく」已上。彼の身子が乞眼の縁に
逢いて菩薩の行を退せしが如き、これその類なり。

「顛倒の善果はよく梵行を壊す」とは、同じき註に云わく「人天の果は無漏の善にあらず。
暫く楽にして還りて苦なるを顛倒と為す。梵行は浄行なり」。また『論註』に云わく「人天
の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒なり、みなこれ虚偽なり」已上。『定善義』
に云わく「人天の楽は猶し電光のごとし。須臾に即ち捨つ。還りて三悪に入りて長時に苦
を受く」已上。彼の妙荘厳王の本事の如き、これその類なり。

「唯これ自力にして他力の持つなし」とは、『十疑』に云わく「譬えば跛〈あしなえ〉た
る人の歩より行くときは一日に数里に過ぎず。極めて大いに辛苦するが如きを自力と謂う
なり。易行道とは、謂わく仏語を信ずるが故に念仏三昧を行じて、浄土に生ぜんと願ずれ
ば、弥陀の願力の摂持に乗じて、決定して往生すること疑わざるなり。人の水路に船の力
に因るが故に須臾に即ち千里に至るが如きを他力という」已上。

「易行道とは、謂わく但」等とは、問う、上に述ぶるが如きは、難易の二道の所行は異る
といえども、所期の益は共にこれ不退なり。その不退とは同じく此土に於いて得る所の益
なり。而るに今の文の如きは、不退というは往生の後に得る所の益たること、その文炳然
なり、いかん。答う。本より三義あり。諸師の意はおのおの一義を存す。況んやまた生後
の義を存すといえども、現生不退の益を遮するにあらず。位は未だ不退の地に至らずとい
えども、光触を蒙る者は心不退の義、摂取不捨、横超断四流、あに以て空しからんや。
これ等の明文は虚説にあらざれば、不退の義は何ぞ成ぜざらんや。三不退にあらず、
処不退にあらず、ただこれ信心不退の義なり。

●re.55
ボン
関東の男性
[ 1650 ] Re55:教行信証・学習ノート2 2009/10/25 (Sun) 22:43 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>難行道者。謂於五濁之世無仏時。求阿毘跋致為難。此難乃有多途。粗言五三以示義意。
>一者外道相(修醤反)善乱菩薩法。二者声聞自利障大慈悲。三者無顧悪人破他勝徳。
>四者顛倒善果能壊梵行。五者唯是自力無他力持。如斯等事。触目皆是。
>譬如陸路歩行則苦。易行道者。謂但以信仏因縁願生浄土。乗仏願力便得往生彼清浄土。
>仏力住持即入大乗正定之聚。正定即是阿毘跋致。譬如水路乗船則楽。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(論註)難行道とは、いわく五濁の世、無仏の時において、阿毘跋致を求むるを難とす。
>この難にいまし多くの途〈みち〉あり。ほぼ五三を言うて、もって義の意を示さん。
>一には、外道の相善〈相 修醤の反〉、菩薩の法を乱る。二には、声聞は自利にして
>大慈悲を障う。三には、無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には、顛倒の善果よく梵行を
>壊す。五には、ただこれ自力にして他力の持つなし。このごとき等の事、目に触るるに
>みな是なり。たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。易行道とは、いわく、
>ただ信仏の因縁をもって浄土に生まれんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなわちかの
>清浄の土に往生することを得しむ。仏力住持して、すなわち大乗正定の聚に入る。
>正定はすなわちこれ阿毘跋致なり。たとえば、水路の乗船はすなわち楽しきがごとし。
-----------------------------------------------------------------------------

  (論註)難行道については、言われるところでは、五つの濁りに満ちた末世に、また、
  仏のいないときに、阿毘跋致(不退転の位)を求めることを難とする。そこで、この難
  には多くの筋道がある。その一部を述べて、その意味を示そうと思う。まず一つには、
  外道(仏教以外の教え)の良さそうな相(みかけ)は、菩薩の法を乱す。二つには、声聞
  は自分を利するばかりで、大慈悲を妨げる。三つには、反省を知らない悪人は、他人
  のすぐれた功徳を壊してしまう。四つには、煩悩に惑わされた誤った考えによる
  “良い結果”は、清浄な行を壊すことになる。五つには、ただ自力ばかりで、他力を
  身につけることがない。これらのことは、よく見かけるものであり、みなそのとおり
  なのである。たとえば、陸路の歩行は苦しい、というようなものである。易行道につ
  いては、言うところでは、ただ仏を信じる因縁によって浄土に生まれたいと願えば、
  仏の願力に乗じて、かの清浄の土に往生することができるということある。仏の力を
  とどめ保って、大きな乗物の乗って「正定聚(正しく行き先の定まった者たち)」の
  仲間入りをするのである。「正定」とは「阿毘跋致(不退転の位)」のことである。
  たとえば、水路の乗船は楽しい、というようなものである。

  WikiArcより
    五濁
      末世においてあらわれる避けがたい五種の汚れのこと。
        1.劫濁。時代の汚れ。飢饉や疫病、戦争などの社会悪が増大すること。
        2.見濁。思想の乱れ。邪悪な思想、見解がはびこること。
        3.煩悩濁。貪・瞋・痴等の煩悩が盛んになること。
        4.衆生濁。衆生の資質が低下し、十悪をほしいままにすること。
        5.命濁。衆生の寿命が次第に短くなること。
    外道
      仏教を内道というのに対する語で、仏教以外の教えをいう。
    相善
      相似の善(菩薩の行とすがたが似ている善)あるいは有相の善(差別の相にと
      らわれた善)の義といわれる。
    勝徳
      すぐれた功徳。
    住持
      とどめたもち、支えること。
    正定聚
      浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏にな
      ることが決定しているともがらをいう。
      第十八願の信心の行者のこと。また、浄土に往生して仏のさとりを開いた者
      が示現する相(広門示現相)を指すばあいもある。

  大辞林より
    有相
      姿形をもって存在している事物。姿形をもって存在しているというありかた。
      また、その姿形。
    無相
      すべての事物・現象は本来空で、固定した姿をもたないこと。
    顛倒
      煩悩のために誤った考えやあり方をすること。
    梵行
      梵は清浄の意。清浄な行。

  漢和辞典より
    持・・・もつ、とりおこなう、身につける、まもる、もちこたえる


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「五濁世」とは、五濁悪世は在滅を分かたず。「無仏時」とは、滅後の時を指す。これ
>則ち具さに時処の難を挙ぐ。「五三」というは、少少と称する詞、内外典の中に多くその
>例あり。問う。五種の難の大意はいかん。答う。澄或の『註十疑』に云わく「前の四種の
>難は凡を非し小を斥〈きら〉う。一の難は大乗の行は唯自にして他なし。大いに外縁を
>闕く。故にまた難なり」已上。

  「五濁世」についていうと、五濁悪世というのは、仏がまだいる世の中であるのか、
  または、その滅後であるのかを区別していない。「無仏時」というのは、仏の滅後の
  時を指す。これは、具体的に時(とき)と処(ところ)の難を示している。「五三」とい
  うのは、「少々」という言葉で、仏教書や仏教以外書物のなかに、多くその用例を見
  ることができる。問う。五種類の難の大まかな意(こころ)はどのようなものであるか。
  答える。澄或の『註十疑』では次のように述べる。「前の四種の難は、凡小を拒み嫌
  う。一つの難については、大乗の行はただ自力であって他力がない。大いに外からの
  縁というものが欠如している。だから、これもまた難なのである。」

  WikiArcより
    内典外典
      内典は仏教の典籍、外典は仏教以外の儒教などの典籍。

  大辞林より
    外縁
      外から力を与えて物の生起を助ける要因。がいえん。縁。

>「外道」等とは、同じき註に云わく「我が仏の正法、小乗には則ち無常・無我・寂滅法印
>あり。大乗には則ち一実相印あり。これに依りて行ずれば必ず聖果に登る。外道は則ち然
>らず。迷惑邪見所説の法は、その相は善に似て而も実に善にあらず。邪を以て正を乱る。
>人、甄〈あら〉わし分くること能わず。深く障道を成ず」已上。

  「外道・・・」等とは、同じ「論註」では次のように述べる。「我が仏の正法では、
  小乗には無常・無我・寂滅の法印(法のしるし)がある。大乗には一つの実相という印
  (しるし)がある。これによって行ずれば、必ず聖なる果報に登ることができる。
  しかし、外道はそうではない。迷い、惑う、よこしまな見解の説くところの法は、
  その相(すがた)は善に似ているが、その実は善ではない。邪によって、正を乱すもの
  である。人は、それをはっきりと見分けることができない。深く道を妨げるものとな
  っている。」

  WikiArcより
    無常
      縁起しているものは、生滅変化して少しの間もとどまらないこと。永遠性の
      ないことを諸行無常といい、仏教の根本特徴である三宝印の一。
    無我
      梵語アナートマンまたはニラートマンの漢訳。非我とも漢訳する。
        1.我とは、常住であり(常)、唯一のものであり(一)、万物の主体であり
         (主)、支配者である(宰)ような実体的な存在をいう。すべてのものに
         はこのような実体的な我が内在していると説く有我説を否定するのが
         無我説である。仏教の根本特徴である三法印の一に諸法無我を説く。
        2.我執のないこと。我執を離れたこと。
        3.自力のとらわれのないこと。
    寂滅
      涅槃の異名。あらゆる煩悩が滅した寂静の境地。
    法印
      仏教を他の教派から区別する標識となる根本的な教義。
      小乗仏教では三法印、大乗仏教では諸法実相の一法印がよく説かれる。
    実相
      名号は仏のさとった諸法実相の徳が含まれているので、
      仏の名号のことを実相という。

  大辞林より
    三法印
      仏教の思想を特徴づける三つの基本的な主張。
      諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三つ。

●re.56
ボン
関東の男性
[ 1651 ] Re56:教行信証・学習ノート2 2009/10/25 (Sun) 22:44 △up ▽down
(つづき)

>「声聞の自利は大慈悲を障う」とは、『十住論』に云わく「もし声聞地及び辟支仏地に堕
>するは、これを菩薩の死と名づく。則ち一切の利を失す」已上。『荘厳論』に云わく「恒
>に地獄に処すといえども、大菩提を障えず。もし自利の心を起こすは、これ大菩提の障な
>り」已上。大乗の諸経に多くこの説あり。具さに挙ぐるに遑あらず。

  「声聞の自利は大慈悲を障う」について、『十住論』では次のように述べる。「仮に
  声聞地および辟支仏(縁覚)地に落ちることは、これを菩薩の死と名づける。すなわち、
  いっさいの利益を失うからである。」『荘厳論』では次のように述べる。「常に地獄
  にあったとしても、大菩提(無上菩提)の妨げにはならない。仮に自利の心を起こすな
  らば、これは大菩提の妨げとなる。」大乗の諸経のなかに、このような説が多くある。
  しかし、それを具体的に取り上げる暇(いとま)はない。

  WikiArcより
    菩提
      梵語ボーディの音写。智・道・覚と漢訳する。迷いから目覚めたさとりの智慧
      のこと。菩薩・縁覚・声聞の菩提のうち、とくに菩薩のうる菩提を阿耨多羅三
      三菩提と名づけ、漢訳して無上正等正覚・無上菩提などという。
    自利
      1.自らを利するの意。
       自らの修行によってもたらされる利益を自分ひとりに受け取ること。
      2.浄土真宗では、自力の意にも用いられる。


>「無顧の悪人、他の勝徳を破す」とは、同じき註に云わく「濁世の悪人は修道の者を見て
>は人の美を成ずること能わず。反りて毀破の言を宣ぶ」已上。『漢書』の註に云わく「江准
>の間に、小児子の詐多く狡獪なるを謂いて、無顧と名づく」已上。彼の身子が乞眼の縁に
>逢いて菩薩の行を退せしが如き、これその類なり。

  「無顧の悪人、他の勝徳を破す」について、同じく「論註」では次のように述べる。
  「濁世の悪人は、道を修める者を見ても、人としての良いことを行うことができない。
  かえって、それを傷つけて壊すような言葉を述べる。」『漢書』の註では次のように
  述べる。「江准の間に、小さな子供の詐(いつわり)が多く、その悪賢いことを、無顧
  と名づける。」あの身子(舎利弗)が、乞眼(眼を乞う)の縁に逢って、菩薩の行を退い
  たようなもので、これがその類(たぐい)である。

  ※修行中の舎利弗が乞眼の婆羅門に出会って退転した逸話は、もともと何が出典とな
   っているのかはわかりませんが、そのあらましを下記ページで知ることができます。
   (ただし、そこから汲み取る教訓は、他力の真宗とは正反対のものになっています。)
    http://d.hatena.ne.jp/nakinomacchan/20090601/p1


>「顛倒の善果はよく梵行を壊す」とは、同じき註に云わく「人天の果は無漏の善にあらず。
>暫く楽にして還りて苦なるを顛倒と為す。梵行は浄行なり」。また『論註』に云わく「人天
>の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒なり、みなこれ虚偽なり」已上。『定善義』
>に云わく「人天の楽は猶し電光のごとし。須臾に即ち捨つ。還りて三悪に入りて長時に苦
>を受く」已上。彼の妙荘厳王の本事の如き、これその類なり。

  「顛倒の善果はよく梵行を壊す」について、同じく「論註」では次のように述べる。
  「人間と天人の果報は、無漏の善ではない。しばらくは楽であっても、かえって苦と
  なることを顛倒とする。梵行は浄行である」。また『論註』では次のように述べる。
  「人間と天人の果報、因も、果も、みな顛倒であり、虚偽である。」『定善義』では
  次のように述べる。「人間と天人の楽は、まるで電光のようなものである。少しの間
  に捨てられる。かえって、三悪道に入って、長いあいだに苦を受ける。」
  あの妙荘厳王の本事品のようなもので、これがその類(たぐい)である。

  WikiArcより
    無漏
      有漏(煩悩)に対する語。煩悩に全く汚されていない清浄な状態をいう。
    有漏
      煩悩をもつもの。漏とはもれ出るもの、汚れの意で煩悩の異名。
    妙荘厳王
      『法華経』「妙荘厳王本事品」に出る国王。婆羅門の教えを信受していたが、
      浄蔵・浄眼の二子、浄徳夫人の導きによって仏道に帰依し、
      雲雷音宿王華智仏のもとを訪ねて出家したという。


>「唯これ自力にして他力の持つなし」とは、『十疑』に云わく「譬えば跛〈あしなえ〉た
>る人の歩より行くときは一日に数里に過ぎず。極めて大いに辛苦するが如きを自力と謂う
>なり。易行道とは、謂わく仏語を信ずるが故に念仏三昧を行じて、浄土に生ぜんと願ずれ
>ば、弥陀の願力の摂持に乗じて、決定して往生すること疑わざるなり。人の水路に船の力
>に因るが故に須臾に即ち千里に至るが如きを他力という」已上。

  「唯これ自力にして他力の持つなし」について、『十疑』では次のように述べる。
  「譬えば足の不自由な人の歩みで行くときは、一日に数里に過ぎない。極めて大いに
  苦労するようなものを自力という。易行道とは、仏語を信ずるがために念仏三昧を
  行じて、浄土に生まれたいと願えば、弥陀の願力による摂取に乗じて、決定して往生
  することに疑いがない、ということである。人が水路に船の力によるがために、少し
  の間に千里に至るようなことを他力という。」。


>「易行道とは、謂わく但」等とは、問う、上に述ぶるが如きは、難易の二道の所行は異る
>といえども、所期の益は共にこれ不退なり。その不退とは同じく此土に於いて得る所の益
>なり。而るに今の文の如きは、不退というは往生の後に得る所の益たること、その文炳然
>なり、いかん。答う。本より三義あり。諸師の意はおのおの一義を存す。況んやまた生後
>の義を存すといえども、現生不退の益を遮するにあらず。位は未だ不退の地に至らずとい
>えども、光触を蒙る者は心不退の義、摂取不捨、横超断四流、あに以て空しからんや。
>これ等の明文は虚説にあらざれば、不退の義は何ぞ成ぜざらんや。三不退にあらず、
>処不退にあらず、ただこれ信心不退の義なり。

  「易行道とは、謂わく但・・・」等について、問う。上に述べるようなことは、難易
  の二道の行く道は異るものの、期するところの利益はどちらも不退である。その不退
  というのは同じくこの土において得るところの利益である。ところが、今の文による
  と、不退というのは往生の後に得るところの利益であること、その文に明白であるが、
  いかがか。答える。もとより三つの義がある。いろいろな先生がたの意(こころ)には
  それぞれ一つの意義がある。ましてやまた、生後意義があるといっても、それは現生
  において不退を得るという利益をさえぎるものではない。位は未だ不退の地に至らな
  くとも、光に触れた者は、心の不退の義であって、摂取して捨てず、横超にして四流
  (生老病死)を断つわけだから、どうして空しいことがあろうか。これらの明らかな文
  は、虚しい説ではなのだから、不退の義はどうして実現しないことがあろうか。
  三不退ではなく、処不退でもなく、ただこれは、信心不退の義である。

    三不退
      不退の三位態。
        1.位不退。修得した仏道の位から退転しないこと。
        2.行不退。修めた行法を退失しないこと。
        3.念不退。正念(邪念のない正しいおもい)を退失しないこと。
    処不退
      浄土に生まれて、そこから退転しないこと。
    横超
      横は他力浄土門のこと。超は頓教のこと。
      他力浄土門の中の頓教、他力不思議によって往生と同時に仏のさとりを開く
      第十八願(弘願)の法を指す。
    竪超
      竪は自力のこと、超は速やかに生死の迷いを超えること。自力聖道門の中の
      頓教。自力の修行によって直ちにさとりをひらく華厳・天台・真言・禅の
      各宗を指す。
    頓教
      すみやかに仏果をさとり得る教法をいう。あるいは説法の形式上から言えば、
      相手を考慮せずに、はじめから直ちに深い内容の教えを説く説き方をいう。
      漸教に対する。
    漸教
      漸次に修行して、長時間の後に仏果を得ることを説く教え。あるいは説法の
      形式上からいえば、浅い内容のものから次第に深い教えへと進んで行く説き
      方をいう。頓教に対する。
    四流
      四暴流のこと。親鸞聖人は生老病死の意ともされる。

●re.57
ボン
関東の男性
[ 1652 ] Re57:教行信証・学習ノート2 2009/10/26 (Mon) 00:21 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
此無量寿経優婆提舎。蓋上エン之極致。不退之風航者也。
-----------------------------------------------------------------------------
(論註)この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍〈衍 口且反。楽なり〉の極致、
不退の風航なるものなり。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「蓋上エンの極致」とは、流布の本はエン。今はエン〈カン〉の字たり。異本あるか。
衍は『宋韻』に云わく「易浅の切、達なり。また大衍は易〈えき〉の数なり」。今衍と
いうは、これ等の訓にあらず。これ梵語なり。此には乗の義と為す。摩訶衍とはこれ
大乗なるが故に。カンとは『玉篇』に云わく「口且の切。カンは楽なり」。『広韻』に
云わく「苦肝の切、楽なり」。また云わく「苦旱の切、信の言なり」。今、エンを用ゆ
るは、上は即ち上乗、エンは即ち信の言なり。この論説を信じて安楽を生ずべき義なら
くのみ。「風航」というは、航は『玉篇』に云わく「可当の切。船なり」。『広韻』に
云わく「洪郎の切。船なり」。

●re.58
ボン
関東の男性
[ 1653 ] Re58:教行信証・学習ノート2 2009/10/26 (Mon) 00:22 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>此無量寿経優婆提舎。蓋上エン之極致。不退之風航者也。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(論註)この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍〈衍 口且反。楽なり〉の極致、
>不退の風航なるものなり。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (論註)この『無量寿経優婆提舎』は、思うに、大乗の極致であり、不退の風に
  乗った船である。

  WikiArcより
    上衍
      すぐれた乗り物。大乗のこと。衍は梵語ヤーナの音写で乗り物の意。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「蓋上エンの極致」とは、流布の本はエン。今はエン〈カン〉の字たり。異本あるか。
>衍は『宋韻』に云わく「易浅の切、達なり。また大衍は易〈えき〉の数なり」。今衍と
>いうは、これ等の訓にあらず。これ梵語なり。此には乗の義と為す。摩訶衍とはこれ
>大乗なるが故に。カンとは『玉篇』に云わく「口且の切。カンは楽なり」。『広韻』に
>云わく「苦肝の切、楽なり」。また云わく「苦旱の切、信の言なり」。今、[エン]を用ゆ
>るは、上は即ち上乗、[エン]は即ち信の言なり。この論説を信じて安楽を生ずべき義なら
>くのみ。「風航」というは、航は『玉篇』に云わく「可当の切。船なり」。『広韻』に
>云わく「洪郎の切。船なり」。

  「蓋上エンの極致」については、流布している本では「エン」の字を使っている。
  ここでは「エン〈カン〉」の字である。異本はあるか。衍は『宋韻』では「易浅の
  接合で、意味は達である。また大衍は易の数である」ここで衍というのは、これらの
  訓ではない。これは梵語である。ここでは「乗」の意味である。摩訶衍は大乗である
  から。カンとは『玉篇』に云わく「口且の接合。カンは楽である」『広韻』では
  「苦肝の接合で、意味は楽である」また言うところでは「苦旱の接合で、信の言であ
  る」ここでエンを用いるは、上は即ち上乗、エンは信の言である。この論説を信じて、
  安楽を生ずべき義なのである。「風航」については、航は『玉篇』では「可当の接合。
  意味は船である」『広韻』では「洪郎の接合。意味は船である」となっている。

  WikiArcより
    摩訶衍
      1.龍樹菩薩の著『大智度論』のこと。
      2.梵語マハーヤーナの音写。大乗と漢訳する。

  ※『宋韻』『玉篇』『広韻』は、すべて中国の辞書。

●re.59
ボン
関東の男性
[ 1654 ] Re59:教行信証・学習ノート2 2009/10/26 (Mon) 21:06 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
無量寿是安楽浄土如来別号。釈迦牟尼仏在王舎城及舎衞国。於大衆之中説無量寿仏
荘厳功徳。即以仏名号為経体。後聖者婆薮槃頭菩薩。服膺(一升反)如来大悲之教。
傍経作願生偈。已上。
-----------------------------------------------------------------------------
(論註)「無量寿」はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および
舎衛国にましまして、大衆の中にして、無量寿仏の荘厳功徳を説きたまうに、すなわち、
仏の名号をもって経の体としたまえり。後の聖者・婆薮般豆菩薩、如来大悲の教を服膺
して〈膺 一升の反〉〈服膺 したがいもちゆる〉、経に傍えて願生の偈を作る。已上。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「無量寿はこれ安楽」等とは、論の名義を解す。「在王舎城及舎衛(王舎城および舎衛国
にましまして)」とは、具に三経の説処を挙ぐるのみ。この文に依らば、鸞師の意は、
今この論を以て、以て三部通申の論と為す。義寂・宗暁は同じく三部通申の義に依る。
智昇・智光は共に大経別申の義を存す。

●re.60
ボン
関東の男性
[ 1655 ] Re60:教行信証・学習ノート2 2009/10/26 (Mon) 21:07 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-----------------------------------------------------------------------------
>無量寿是安楽浄土如来別号。釈迦牟尼仏在王舎城及舎衞国。於大衆之中説無量寿仏
>荘厳功徳。即以仏名号為経体。後聖者婆薮槃頭菩薩。服膺(一升反)如来大悲之教。
>傍経作願生偈。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(論註)「無量寿」はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および
>舎衛国にましまして、大衆の中にして、無量寿仏の荘厳功徳を説きたまうに、すなわち、
>仏の名号をもって経の体としたまえり。後の聖者・婆薮般豆菩薩、如来大悲の教を服膺
>して〈膺 一升の反〉〈服膺 したがいもちゆる〉、経に傍えて願生の偈を作る。已上。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (論註)「無量寿」は、安楽浄土の如来の別名である。釈迦牟尼仏は、王舎城および
  舎衛国におられて、大衆のなかあって、無量寿仏のうるわしい功徳を説かれるにあた
  って、仏の名号をもって経の体(本質)となされた。後の聖者である婆薮般豆菩薩は、
  如来大悲の教えを受けいれ保って、経に添えて願生の偈(詩文)を作る。

  WikiArcより
    王舎城
      梵名ラージャグリハの漢訳。釈尊在世の頃の中インドにあったマガダ国の
      首都の名。紀元前六世紀ごろ頻婆娑羅王が築き、韋提希夫人やその子阿闍世王
      などが登場した都。釈尊説法の中心地で『大経』『法華経』等がこの郊外の
      耆闍崛山で説かれた。現在のラージギルにあたる。
    舎衛国
      梵名シュラーヴァスティーの音写。釈尊在世の頃の中インドにあったコーサラ
      国の首都(現在のサヘート・マヘートの地と推定される)。祇園精舎は、この
      城西にあり、釈尊は二十五回の雨安居をこの地で送られたといわれている。
    服膺
      受けいれ持(たも)つこと。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「無量寿はこれ安楽」等とは、論の名義を解す。「在王舎城及舎衛(王舎城および舎衛国
>にましまして)」とは、具に三経の説処を挙ぐるのみ。この文に依らば、鸞師の意は、
>今この論を以て、以て三部通申の論と為す。義寂・宗暁は同じく三部通申の義に依る。
>智昇・智光は共に大経別申の義を存す。

  「無量寿はこれ安楽・・・」等についていうと、これは論の名義を解したものである。
  「在王舎城及舎衛(王舎城および舎衛国にましまして)」については、具体的に三経
  の説くところを取り上げるだけである。この文によると、鸞師(曇鸞)の意(こころ)は、
  今この論をもって、三部経の全体を述べる論とする。義寂・宗暁は、同じく三部経の
  全体を述べる義による。智昇・智光は、ともに大経を個別に述べる義がある。

  WikiArcより
    名義
      名号の実義、いわれ。
    三経
      『大経』『観経』『小経』の浄土三部経。
    智昇
      (8世紀頃)唐代の僧で経論に通じ、律を宗とした。長安の崇福寺に住し、
      『開元釈教録』『集諸経礼懺儀』『続大唐内典録』など多くの著述を
      残している。

  Yahoo!百科事典より
    義寂(919-987)
      中国、五代〜宋の天台宗の僧。浄光大師。螺渓尊者と号す。温州永嘉(浙江
      省温州府永嘉県)の人。天台山国清寺にて清竦法師より天台を学び、のち、
      呉越の忠懿王銭弘俶に迎えられて伝法院に住した。安史の乱(755〜763)、
      会昌の廃仏(845)などのため、当時の天台宗の典籍はほとんど散逸してしまっ
      たので、義寂は日本や高麗にまで使者を遣わして図書の収集に努めた。高麗
      からは諦観が請に応じて赴いた。天台中興の祖と称され、多くの弟子を養っ
      たが、とくに弟子の義通の系統からのちに知礼が現れ、天台の正統となった。

  http://www.yamadera.info/seiten/e/syuugyou.htm
    宗暁(1151-1214)
      南宋代、 四明(現在の浙江省寧波)の人。 石芝と号す。 十八歳で具足戒を受け、
      具菴強公・雲菴洪公に師事し、 昌国 (現在の浙江省定海県) の翠羅寺の主と
      なったが、 のち西山に退隠し、 「法華経」の読誦を日課とした。 著書に「法
      華経顕応録」二巻「楽邦文類」五巻などがある。

  Wikipediaより
    智光(和銅2年(709年)? - 宝亀11年(780年)?)
      奈良時代の三論宗の僧。俗性は鋤田連。河内国安宿郡の出身。頼光とともに
      元興寺の智蔵に師事して三論を学び、聖教を周覧して「般若心経述義」「浄
      名玄論略述」など多くの書物を著した。「日本霊異記」によると、行基が大
      僧正に任じられたのを妬んで行基を誹謗したため、病を得て没して地獄に落
      ちたが、懺悔して蘇り行基に帰依したという。また、学友の頼光が没した後、
      頼光が智光の夢に現れ阿弥陀浄土に往生を遂げているのを見て、画工に描か
      せたのが、現在奈良元興寺極楽坊の残る「智光曼荼羅」と呼ばれる浄土変相
      図である。以後智光は浄土信仰に徹している。

●re.61
ボン
関東の男性
[ 1656 ] Re61:教行信証・学習ノート2 2009/10/26 (Mon) 23:14 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
又云。又所願不軽。若如来不加威神。将何以達。乞加神力。所以仰告。我一心者。
天親菩薩自督之詞。言念無礙光如来願生安楽。心心相続無他想間雑。乃至。
-----------------------------------------------------------------------------
(論註)また云わく、また所願軽からず。もし如来、威神を加せずは、まさに何を
もってか達せん。神力を乞加す。このゆえに仰いで告げたまえり。「我一心」とは、
天親菩薩の自督の詞なり〈督 冬毒の反。勧なり。率なり。正なり。俗にトクと作る〉。
言うこころは、無碍光如来を念じて安楽に生まれんと願ず。心心相続して他想間雑なし。
乃至。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「また所願、軽からず」等とは、論偈の第一行の文を釈す。文の意、見るべし。督の字の
註は『広韻』の詞なり。同詞にまた云わく「察なり。目痛なり。また姓」。また『玉篇』
に云わく「都谷の切。正なり。目痛なり」。これ等の訓の中に今の釈は正と勧との義に叶
うべし。次に「間雑」の下、「帰命」の上に「乃至」というは、我の一字に就きて一の
問答を設くる三行余の文これなり。

●re.62
ボン
関東の男性
[ 1657 ] Re62:教行信証・学習ノート2 2009/10/26 (Mon) 23:14 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>----------------------------------------------------------------------------
>又云。又所願不軽。若如来不加威神。将何以達。乞加神力。所以仰告。我一心者。
>天親菩薩自督之詞。言念無礙光如来願生安楽。心心相続無他想間雑。乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(論註)また云わく、また所願軽からず。もし如来、威神を加せずは、まさに何を
>もってか達せん。神力を乞加す。このゆえに仰いで告げたまえり。「我一心」とは、
>天親菩薩の自督の詞なり〈督 冬毒の反。勧なり。率なり。正なり。俗にトクと作る〉。
>言うこころは、無碍光如来を念じて安楽に生まれんと願ず。心心相続して他想間雑なし。
>乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (論註)また、次のように述べる。また、(天親の)願うことは、軽いものではない。
  もし、如来が絶大なる威力を施さなかったら、(天親は)何を達成することができただ
  ろう。(如来は)不思議な強い力を与え施したのである。だから、(天親は如来を)仰い
  で告げたのである。「我一心」とは、天親菩薩が自らを正して仕向けた言葉である。
  〈督 冬毒の接合。その意味は、勧であり。率であり。正である。俗にトクと作る〉
  その言うこころは、「無碍光如来を念じて安楽に生まれたいと願う。」その心が心へ
  と持続して、他の想いが間に混じることがない。(中略)

  WikiArcより
    天親
      (5世紀頃)梵名ヴァスバンドゥの旧訳。新訳では世親と漢訳する。北インドの
      ガンダーラに生れ、はじめ部派仏教の説一切有部・経量部に学び、『倶舎論』
      を著した。その後、兄無着の勧めで大乗仏教に帰し、瑜伽行唯識学派の根底
      を築いた。『唯識二十論』『唯識三十頌』『十地経論』『浄土論』等多くの
      著書があり、千部の論師といわれている。七高僧の第二祖。
    威神
      神々しい威光。絶対なる威力。
    神力
      1.威神力のこと。不思議な力。
      2.はかりしれないつよいはたらき。神通力のこと。
    自督
      自己の領解。みずからをすす(勧)め、ひきい(率)、正してゆく(正)ような
      はたらきをもつ信心のこと。
    心々相続して他想間雑することなし
      一心帰命の信が持続して他のおもい(自力疑心)がまじわらないという意。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「また所願、軽からず」等とは、論偈の第一行の文を釈す。文の意、見るべし。督の字の
>註は『広韻』の詞なり。同詞にまた云わく「察なり。目痛なり。また姓」。また『玉篇』
>に云わく「都谷の切。正なり。目痛なり」。これ等の訓の中に今の釈は正と勧との義に叶
>うべし。次に「間雑」の下、「帰命」の上に「乃至」というは、我の一字に就きて一の
>問答を設くる三行余の文これなり。

  「また所願、軽からず・・・」等とは、論偈(願生偈)の第一行の文を解釈したもので
  ある。文の意(こころ)を見てください。督の字の註は『広韻』の言葉である。同じ
  (『広韻』の)言葉に、次のようにも述べている。「察なり。目痛なり。また姓」
  また『玉篇』では次のように述べている。「都谷の接合。正なり。目痛なり」これら
  の訓(意味)のなかで、ここの釈では、正と勧とが義に叶うと思われる。次に「間雑」
  のあと、「帰命」の上に(中略)とあるのは、我の一字について、一つの問答を設け
  た三行あまりの文のことである。

●re.63
ボン
関東の男性
[ 1658 ] Re63:教行信証・学習ノート2 2009/10/28 (Wed) 00:46 △up ▽down
-----------------------------------------------------------------------------
帰命尽十方無礙光如来者。帰命即是礼拝門。尽十方無礙光如来即是讃嘆門。何以知。
帰命是礼拝。龍樹菩薩造阿弥陀如来讃中。或言稽首礼。或言我帰命。或言帰命礼。
此論長行中。亦言修五念門。五念門中。礼拝是一。天親菩薩既願往生。豈容不礼。
故知。帰命即是礼拝。然礼拝但是恭敬。不必帰命。帰命是礼拝。若以此推。帰命為重。
偈申己心。宜言帰命。論解偈義汎談礼拝。彼此相成。於義弥顕。何以知。
尽十方無礙光如来是賛嘆門。下長行中言。云何讃嘆。謂称彼如来名。
如彼如来光明智相。如彼名義。欲如実修行相応故。乃至。天親今言尽十方無礙光如来。
即是依彼如来名。如彼如来光明智相讃嘆。故知此句是賛嘆門。願生安楽国者。
此一句是作願門。天親菩薩帰命之意也。乃至。
-----------------------------------------------------------------------------
(論註)「帰命尽十方無碍光如来」とは、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、
「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。何をもってか知らん、帰命はこれ
礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れる中に、あるいは「稽首礼」と言い、
あるいは「我帰命」と言い、あるいは「帰命礼」と言えり。この『論』の長行の中に、
また「五念門を修す」と言えり。五念門の中に礼拝はこれ一なり。天親菩薩すでに
往生を願ず。あに礼せざるべけんや。故に知りぬ、帰命はすなわちこれ礼拝なりと。
しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。
もしこれをもって推するに、帰命を重とす。偈は己心を申ぶ、宜しく帰命と言うべし
〈命 眉病の反。教なり、道なり、信なり、召なり〉。『論』に偈義を解するに、
ひろく礼拝を談ず。彼・此あい成ず、義においていよいよ顕れたり。何をもってか知ら
ん、「尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なり」とは、下の長行の中に言わく「いかんが
讃嘆する。いわく、かの如来の名を称す〈称 処陵の反。軽重を知るなり、『説文』に
曰わく、「詮なり、是なり、等なり。俗に秤に作る。斤両〈力雨〉を正すをいうなり〉。
かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲うが
ゆえに」と。乃至。天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり。すなわちこれ、かの如来
の名に依って、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句はこれ
讃嘆門なりとは。「願生安楽国」とは、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の意
なり。乃至。
-----------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

「相応故」の下、「天親今」の上に「乃至」というは、『小経』の説に依りて阿弥陀如来
の名義を解す。また光照に就きて一の問答ありてその利益を顕わし、また一仏・諸仏の
世界を主領する広狭を弁じて、その小乗・大乗の所談の差別を明かす等の十一行余の文
これなり。「之意也」の下、「問曰」の上に「乃至」というは「その安楽の義は具に下の
観察門の中に在り」という十一字なり。

●re.64
ボン
関東の男性
[ 1659 ] Re64:教行信証・学習ノート2 2009/10/28 (Wed) 22:58 △up ▽down
>-----------------------------------------------------------------------------
>帰命尽十方無礙光如来者。帰命即是礼拝門。尽十方無礙光如来即是讃嘆門。何以知。
>帰命是礼拝。龍樹菩薩造阿弥陀如来讃中。或言稽首礼。或言我帰命。或言帰命礼。
>此論長行中。亦言修五念門。五念門中。礼拝是一。天親菩薩既願往生。豈容不礼。
>故知。帰命即是礼拝。然礼拝但是恭敬。不必帰命。帰命是礼拝。若以此推。帰命為重。
>偈申己心。宜言帰命。論解偈義汎談礼拝。彼此相成。於義弥顕。何以知。
>尽十方無礙光如来是賛嘆門。下長行中言。云何讃嘆。謂称彼如来名。
>如彼如来光明智相。如彼名義。欲如実修行相応故。乃至。天親今言尽十方無礙光如来。
>即是依彼如来名。如彼如来光明智相讃嘆。故知此句是賛嘆門。願生安楽国者。
>此一句是作願門。天親菩薩帰命之意也。乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------
>(論註)「帰命尽十方無碍光如来」とは、「帰命」はすなわちこれ礼拝門なり、
>「尽十方無碍光如来」はすなわちこれ讃嘆門なり。何をもってか知らん、帰命はこれ
>礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の讃を造れる中に、あるいは「稽首礼」と言い、
>あるいは「我帰命」と言い、あるいは「帰命礼」と言えり。この『論』の長行の中に、
>また「五念門を修す」と言えり。五念門の中に礼拝はこれ一なり。天親菩薩すでに
>往生を願ず。あに礼せざるべけんや。故に知りぬ、帰命はすなわちこれ礼拝なりと。
>しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、必ずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。
>もしこれをもって推するに、帰命を重とす。偈は己心を申ぶ、宜しく帰命と言うべし
>〈命 眉病の反。教なり、道なり、信なり、召なり〉。『論』に偈義を解するに、
>ひろく礼拝を談ず。彼・此あい成ず、義においていよいよ顕れたり。何をもってか知ら
>ん、「尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なり」とは、下の長行の中に言わく「いかんが
>讃嘆する。いわく、かの如来の名を称す〈称 処陵の反。軽重を知るなり、『説文』に
>曰わく、「詮なり、是なり、等なり。俗に秤に作る。斤両〈力雨〉を正すをいうなり〉。
>かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲うが
>ゆえに」と。乃至。天親いま「尽十方無碍光如来」と言えり。すなわちこれ、かの如来
>の名に依って、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆえに、知りぬ、この句はこれ
>讃嘆門なりとは。「願生安楽国」とは、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の意
>なり。乃至。
>-----------------------------------------------------------------------------

  (論註)「帰命尽十方無碍光如来」について、「帰命」は礼拝門であり、「尽十方無
  碍光如来」は讃嘆門である。帰命は礼拝であるとは、何をもってか知れるのだろうか。
  龍樹菩薩は、阿弥陀如来をたたえる讃のなかで、「稽首礼」と言ったり、「我帰命」
  と言ったり、「帰命礼」と言ったりしている。この『論』の長行(散文)のなかで、
  「五念門を修す」とも言っている。礼拝は、五念門のなかの一つである。天親菩薩は、
  すでに往生を願った。どうして礼をしないことがあろうか。だから、帰命は礼拝であ
  ると知ることができる。ところが、礼拝はただつつしみ敬うことであって、必ずしも
  それが帰命であるとは限らない。しかし、帰命は必ず礼拝である。もしこれによって
  推察するならば、帰命をより重いものであるとしなければならない。偈(詩文)は自己
  の領解を述べるものだから、帰命と言うべきである。〈命 音は眉病の接合。意味は
  教であり、道であり、信であり、召である。〉『論』において偈(詩文)の義を解釈す
  るにあたって、ひろく礼拝について語っている。あれこれあいなって、その義(意味)
  がいよいよ明らかになってきた。「尽十方無碍光如来は讃嘆門である」とは、何によ
  って知ることができるだろうか。あとの長行(散文)のなかで、次のように述べている。
  「どのように讃嘆するのか。言われるところでは、かの如来の名を称することである。
  〈称 音は処陵の接合。意味は、軽いか重いかを知ることれあり、『説文』にいうに
  は、詮であり、是であり、等である。俗に秤に作る。目方を正すことをいう。〉あの
  如来の光明智相(知恵の光)のように、また、あの名号のいわれのように、実のごとく
  修行して相応したいと願っためである。」(中略)天親は、いま「尽十方無碍光如来」
  と言った。これは、かの如来の名によって、かの如来の光明智相(知恵の光)のように
  讃嘆するからである。そこで、この句が讃嘆門であると知ることができる。
  「願生安楽国」について言えば、この一句は作願門であり、天親菩薩の
  帰命の意(こころ)である。(中略)

  WikiArcより
    五念門
      阿弥陀仏の浄土に往生するための行として、天親菩薩の『浄土論』に示された
      五種の行。
        @礼拝門。身に阿弥陀仏を敬い拝むこと。
        A讃嘆門。光明と名号のいわれを信じ、口に仏名を称えて阿弥陀仏の功徳
         をたたえること。
        B作願門。一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと。
        C観察門。阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の荘厳を思いうかべること。
        D回向門。自己の功徳をすべての衆生にふりむけて共に浄土に生れたいと
         願うこと。
          親鸞聖人は曇鸞大師の『論註』を通して、これら五種の行が、すべて
          法蔵菩薩所修の功徳として名号にそなわって衆生に回向されるとみられた。
    己心
      自己の領解。みずからの信心。
    光明智相
      光明の本質は智慧であり、智慧のすがたは光明であることをいったもの。
      智慧を本質とする光明が、十方を照らして衆生の迷いを除く。
    名義
      名号の実義、いわれ。
    如実修行相応
      真如の理にしたがって修行し、その信ずるところ、修するところが真如にか
      なうこと。また、阿弥陀仏の本願に相応し、教のごとくに修行して法に違わ
      ないこと。

  「入出二門偈」より
     如実修行相応といふは、名義と光明と随順するなり。 この信心をもつて
     一心と名づく。

  大辞林より
    讃
     1.漢文の文体の一。人や物をほめたたえる際の文体。多く四字一句とし韻を踏む。
     2.仏・菩薩の功徳をほめたたえた言葉。梵讃・和讃の類。
    斤
     目方または重さの単位。普通は、1斤を160匁(もんめ)とし、尺貫法では1斤=
     160匁=600グラムとした。
    両
     近世の通貨単位。一両は銀50匁(のち60匁)、銭四貫。金貨で1分の四倍、1朱
     の16倍。ただし、市中では常に変動した。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「相応故」の下、「天親今」の上に「乃至」というは、『小経』の説に依りて阿弥陀如来
>の名義を解す。また光照に就きて一の問答ありてその利益を顕わし、また一仏・諸仏の
>世界を主領する広狭を弁じて、その小乗・大乗の所談の差別を明かす等の十一行余の文
>これなり。「之意也」の下、「問曰」の上に「乃至」というは「その安楽の義は具に下の
>観察門の中に在り」という十一字なり。

  「相応故」と「天親今」の間の「乃至(中略)」の部分は、『小経』の説によって阿弥
  陀如来の名号のいわれを解釈している。また、光が照らすことについて、一つの問答
  があって、そこでその利益を明らかにし、また、一仏と諸仏について、世界を治める
  広さと狭さを語って、小乗と大乗の違いを明らかにするなどの11行あまりの文が、
  それである。「之意也」と「問曰」の間の「乃至(中略)」は、「その安楽の義は具に
  下の観察門の中に在り」という11字である。

  「相応故」と「天親今」の間の省略部分(『往生論註』より)
    舎衛国所説の『無量寿経』(小経)によらば、仏、阿弥陀如来の名号を解したまは
    く、「なんがゆゑぞ阿弥陀と号する。かの仏の光明無量にして、十方国を照らし
    たまふに障礙するところなし。このゆゑに阿弥陀と号す。またかの仏の寿命およ
    びその人民も、無量無辺阿僧祇なり。ゆゑに阿弥陀と名づく」と。
    問ひていはく、もし無礙光如来の光明無量にして、十方国土を照らしたまふに障礙
    するところなしといはば、この間の衆生、なにをもつてか光照を蒙らざる。光の照
    らさざるところあらば、あに礙あるにあらずや。答へていはく、礙は衆生に属す。
    光の礙にはあらず。たとへば日光は四天下にあまねけれども、盲者は見ざるがごと
    し。日光のあまねからざるにはあらず。また密雲の洪きにソソ{灌なり}げども、
    頑石の潤はざるがごとし。雨の洽{シュなり}さざるにはあらず。
    もし一仏、三千大千世界を主領すといはば、これ声聞論のなかの説なり。もし諸仏
    あまねく十方無量無辺世界を領すといはば、これ大乗論のなかの説なり。

●re.65
ボン
関東の男性
[ 1660 ] Re65:教行信証・学習ノート2 2009/11/01 (Sun) 01:36 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
問曰。大乗経論中。処処説衆生畢竟無生如虚空。云何天親菩薩言願生邪。答曰。
説衆生無生如虚空有二種。一者如凡夫所謂実衆生。如凡夫所見実生死。
此所見事畢竟無所有。如亀毛如虚空。二者謂諸法因縁生故即是不生。無所有如虚空。
天親菩薩所願生者是因縁義。因縁義故仮名生。非如凡夫謂有実衆生実生死也。

問曰。依何義説往生。答曰。於此間仮名人中修五念門。前念与後念作因。
穢土仮名人浄土仮名人。不得決定一。不得決定異。前心後心亦如是。何以故。
若一則無因果。若異則非相続。是義観一異門。論中委曲。釈第一行三念門竟。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------
(論註)問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」
と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。答えて曰わく、「衆生無生にして
虚空のごとし」と説くに、二種あり。一には、凡夫の実の衆生と謂〈おも〉うところの
ごとく、凡夫の所見、実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛
のごとく、虚空のごとし。二には、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生
にして所有なきこと、虚空のごとし。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。
因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがご
ときにはあらざるなり。

問うて曰わく、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰わく、この間の仮名の人の中
において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の
人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもって
のゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。
この義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲なり。
第一行の三念門を釈し竟りぬと。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

問曰等者有二問答。初問答意。就願生言顕不生義。次問答者。就往生義顕一異意。
註家本是四論碩徳。故依中論八不法門有此釈也。言八不者。中観論観因果品云。
不常亦不断。不一亦不異。不来亦不去。不生亦不滅。已上。是義観一異門者。
就八不中且明其一異。論中委曲者指彼論也。或連読有云可読観一異門論之一義。
是就所説法門十二門論及中観論可得此名 云云。

「問うて曰わく」等とは、二の問答あり。初の問答の意は願生の言に就きて不生の義を
顕わす。次の問答は往生の義に就きて一異の意を顕わす。註家は本これ四論の碩徳なり。
故に『中論』の八不の法門に依りてこの釈あるなり。八不というは、『中観論』の
観因果品に云わく「常ならず、また断ならず。一ならず、また異ならず。来らず、また
去らず。生ならず、また滅ならず」已上。「この義は一異を観ずる門なり」とは、八不の
中に就きて且くその一異を明かす。「論の中に委曲なり」とは、彼の論を指すなり。
或いは連読して「観一異門論」と読むべしという一義あり。これ所説の法門に就きて
『十二門論』及び『中観論』のこの名を得べしと云云。

●re.66
ボン
関東の男性
[ 1661 ] Re66:教行信証・学習ノート2 2009/11/01 (Sun) 01:36 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>問曰。大乗経論中。処処説衆生畢竟無生如虚空。云何天親菩薩言願生邪。答曰。
>説衆生無生如虚空有二種。一者如凡夫所謂実衆生。如凡夫所見実生死。
>此所見事畢竟無所有。如亀毛如虚空。二者謂諸法因縁生故即是不生。無所有如虚空。
>天親菩薩所願生者是因縁義。因縁義故仮名生。非如凡夫謂有実衆生実生死也。
>
>問曰。依何義説往生。答曰。於此間仮名人中修五念門。前念与後念作因。
>穢土仮名人浄土仮名人。不得決定一。不得決定異。前心後心亦如是。何以故。
>若一則無因果。若異則非相続。是義観一異門。論中委曲。釈第一行三念門竟。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(論註)問うて曰わく、大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」
>と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。答えて曰わく、「衆生無生にして
>虚空のごとし」と説くに、二種あり。一には、凡夫の実の衆生と謂〈おも〉うところの
>ごとく、凡夫の所見、実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて所有なきこと、亀毛
>のごとく、虚空のごとし。二には、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生
>にして所有なきこと、虚空のごとし。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。
>因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂うがご
>ときにはあらざるなり。
>
>問うて曰わく、何の義に依って往生と説くぞや。答えて曰わく、この間の仮名の人の中
>において、五念門を修せしむ。前念と後念と因と作る。穢土の仮名の人・浄土の仮名の
>人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。何をもって
>のゆえに。もし一ならばすなわち因果なけん。もし異ならばすなわち相続にあらず。
>この義、一異を観ずる門なり。『論』の中に委曲なり。
>第一行の三念門を釈し竟りぬと。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (論註)問う。大乗の経や論の所どころに、「衆生は、結局のところ、無生(生まれる
  ことがない)であり、虚空(何もない空)のようなものである」と説いている。それなの
  に、どうして天親菩薩は、願生(生まれることを願う)と言うのか。答える。「衆生は、
  無生であり、虚空のようなものである」と説くのには、二種類がある。一つには、凡夫
  が「実の衆生」があると思ったり、また、凡夫が「実の生死」があると見たりするよう
  なものである。この見方は、結局は「有る」とはいえないものであって、亀の毛のよう
  なものであり、また虚空のようでもある。二つには、よく言われるように、もろもろの
  法は因縁生(因と縁をもとにして生が起こる)であるから、すなわちこれは、不生(生ま
  れない)ということである。有るところがないというのは、まるで虚空のようである。
  天親菩薩が願生(生まれることを願う)というのは、因縁をもとにした意味である。
  因縁をもとにした意味であるから、“仮に”「生」と名けるのである。これは、凡夫が
  「実の衆生」や「実の生死」があると思うのとは違うのである。

  問う。どのような意味で往生と説くのか。答える。この世のなかに仮に存在するとされ
  る人のなかに、五念門を修するものがある。そのときに、前念は後念の因となっている。
  穢土に仮に存在する人と浄土に仮に存在する人とは、同一のものであるとはっきり決ま
  っているわけでもなく、また、はっきりと違っているわけでもない。前心と後心もまた
  同様である。それはなぜか。もしそれが同一のものならば、因果はないということにな
  るだろう。もしそれが異なったものであるならば、それは相続(連続)ではない。このこ
  とは、同一性と異質性を考察したものであるが、これについては『論』のなかで詳細に
  述べられている。これで第一行の三念門を釈し終わった。(中略)

  WikiArcより
    無生
      生じないこと。本来生滅変化を超えていること。涅槃の異名。
      また浄土のさとりをいう。
    虚空
      一切のものが存在する場としての空間。無碍(さわりがないこと)と無障(さま
      たげがないこと)を特徴とする。その意味から真如のことをいう場合もある。
    亀毛
      亀の身についた藻を毛と誤認するように、本来ないものを実在するかのよう
      に思ってとらわれること。
    仮名の人
      仮名とは実体のないものに仮につけた名という意で、人といっても五蘊が
      因縁によって仮に和合したものであるから、仮名人という。
    五蘊(ごうん)
      五陰(ごおん)ともいう。五種類の要素の集まり。
        色(しき)(物質)
        受(じゅ)(感受作用)
        想(そう)(知覚表象作用)
        行(ぎょう)(受・想・識蘊以外の「思」などに代表される心作用)
        識(しき)(識別作用)
      の五種のこと。
      仏教ではこの五種の要素が因縁によって仮に和合したものであると説く。
      とくにわれわれ個人の存在についていえば、肉体面(色蘊)と精神面(受・想・
      行・識の四蘊)との仮の集まりにすぎないので、実体として執着すべき独立の
      我は存在しないと説かれる。

  Wikidharmaより
    縁起(因縁生)
      縁起の原語 pratiitya-samutpaada の原意は、「因縁生起」の略と考えられ、
      「他との関係が縁となって生起すること」の意味で、関係の中の生起の意味で
      ある。この縁起という思想こそは、仏教の根本思想を示し、仏教教理の土台で
      ある。釈迦の証悟(さとり)の内容は、この縁起の理に他ならない。

  大辞林より
    虚空
      (1)何も存在しない空間。空(くう)。
      (2)[仏] 諸事物の存在する場としての空間。それ自体は事物に何の影響も
        与えない。
    仮名
      すべてのものには本来実体がないのに、この世では仮に存在するものとされ
      ていること。また、そのような事物に与えられた名称。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>問曰等者有二問答。初問答意。就願生言顕不生義。次問答者。就往生義顕一異意。
>註家本是四論碩徳。故依中論八不法門有此釈也。言八不者。中観論観因果品云。
>不常亦不断。不一亦不異。不来亦不去。不生亦不滅。已上。是義観一異門者。
>就八不中且明其一異。論中委曲者指彼論也。或連読有云可読観一異門論之一義。
>是就所説法門十二門論及中観論可得此名 云云。
>
>「問うて曰わく」等とは、二の問答あり。初の問答の意は願生の言に就きて不生の義を
>顕わす。次の問答は往生の義に就きて一異の意を顕わす。註家は本これ四論の碩徳なり。
>故に『中論』の八不の法門に依りてこの釈あるなり。八不というは、『中観論』の
>観因果品に云わく「常ならず、また断ならず。一ならず、また異ならず。来らず、また
>去らず。生ならず、また滅ならず」已上。「この義は一異を観ずる門なり」とは、八不の
>中に就きて且くその一異を明かす。「論の中に委曲なり」とは、彼の論を指すなり。
>或いは連読して「観一異門論」と読むべしという一義あり。これ所説の法門に就きて
>『十二門論』及び『中観論』のこの名を得べしと云云。

  「問うて曰わく・・・」等については、二つの問答がある。初めの問答の意(こころ)は、
  「願生」の言葉について「不生」の意味を明らかにしている。次の問答は、「往生」の
  意味について同一と異質の意(こころ)を明らかにしている。註家(註釈をするもの、
  ここでは曇鸞)は、本来、四論に通じた徳の高い人である。したがって、『中論』の
  八不の法門によって、この釈を行っている。八不については、『中観論』の観因果品
  では次のように述べている。「常ならず、また断ならず。一ならず、また異ならず。
  来らず、また去らず。生ならず、また滅ならず」「この義は一異を観ずる門なり」とは、
  八不によって、とりあえず、その同一と異質を明らかにする。「論の中に委曲なり」
  とは、あの「論(中観論)」を指す。あるいは、ここは続けて読んで「観一異門論」と
  読むべきだという一つの考え方もある。ここで説くところの法門については、
  『十二門論』および『中観論』のなかで、この名(語句?)を拾うきである。云々。

    四論
      龍樹菩薩造の『中論』『十二門論』『大智度論』と提婆菩薩造の『百論』を
      指す。これらは空の思想を明らかにしたもので、四論宗の所依の論である。

  大辞林より
    碩徳
      広大な徳のある人。徳の高い僧。
    八不
      不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去(または不出)の総称。八つの誤った
      理解を否定したもの。「中論」で説かれ、三論宗の中核をなす考え。

●re.67
ボン
関東の男性
[ 1662 ] Re67:教行信証・学習ノート2 2009/11/03 (Tue) 11:15 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
我依修多羅真実功徳相説願偈総持与仏教相応。乃至。何所依。何故依。云何依。何所依者。
依修多羅。何故依者。以如来即真実功徳相故。云何依者。修五念門相応故。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------
(論註)「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」とのたまえりと。乃至。
「何れの所にか依る」「何の故にか依る」「云何が依る」と。「何れの所にか依る」とは、
修多羅に依るなり。「何の故にか依る」は、如来すなわち真実功徳の相なるをもってのゆ
えに。「云何が依る」は、五念門を修して相応せるがゆえに。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

我依四句偈之前後。言乃至者。是成優婆提舎之名。又解成上起下之釈。上出之訖。問。
此我依修一四句偈上既引之。当巻之中重被引之。繁重之失難遁如何。答。誠以爾也。
但此文体自元只是文集体也。仍当用時不憚繁重不限此文。余処又有重引之例。皆可準拠。
但聊非無其差別歟。謂上所引龍樹天親鈎鎖引之。仍唯限論。今所引者引註之時不載論者
其義難顕。是故引之。本論与註所引別也。

「我依」の四句の偈の前後に「乃至」というは、これ優婆提舎の名を成じ、また上を成じ
下を起こすことを解する釈は、上にこれを出だし訖りぬ。問う。この「我依修」の一四句
の偈は上に既にこれを引く。当巻の中に重ねてこれを引かるるは、繁重の失を遁れ難し、
如何。答う。誠に以て爾なり。ただこの文体は元よりただこれ文集の体なり。仍て当用の
時は繁重を憚らざること、この文に限らず。余処にまた重引の例あり。皆準拠すべし。
ただ聊か差別なきにあらざるか。謂く上の所引は龍樹・天親鈎鎖してこれを引く。仍て
ただ論に限る。今の所引は註を引く時に論を載せずば、その義は顕わし難し。この故に
これを引く。本論と註と、所引別なり。

●re.68
ボン
関東の男性
[ 1663 ] Re68:教行信証・学習ノート2 2009/11/03 (Tue) 12:35 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>我依修多羅真実功徳相説願偈総持与仏教相応。乃至。何所依。何故依。云何依。何所依者。
>依修多羅。何故依者。以如来即真実功徳相故。云何依者。修五念門相応故。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(論註)「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」とのたまえりと。乃至。
>「何れの所にか依る」「何の故にか依る」「云何が依る」と。「何れの所にか依る」とは、
>修多羅に依るなり。「何の故にか依る」は、如来すなわち真実功徳の相なるをもってのゆ
>えに。「云何が依る」は、五念門を修して相応せるがゆえに。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (論註)「我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応」と、おっしゃった。
  (中略)「どのようなところによるのか」「どんな理由によるのか」「どのような方法
  によるのか」と。「どのようなところによるのか」と言えば、修多羅(仏経)に依る。
  「どんな理由によるのか」と言えば、如来が真実の功徳(めぐみ)の相(すがた)である
  からである。「どのような方法によるのか」と言えば、五念門を修めて、それにあい
  応ずるからである。(中略)

  WikiArcより
    修多羅
      梵語スートラの音写。経と漢訳する。また経は常の意味で、真理の永遠不変
      のことをいう。またよく真理にかない、衆生の根機にかなうから契経とも
      漢訳する。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「我依」の四句の偈の前後に「乃至」というは、これ優婆提舎の名を成じ、また上を成じ
>下を起こすことを解する釈は、上にこれを出だし訖りぬ。問う。この「我依修」の一四句
>の偈は上に既にこれを引く。当巻の中に重ねてこれを引かるるは、繁重の失を遁れ難し、
>如何。答う。誠に以て爾なり。ただこの文体は元よりただこれ文集の体なり。仍て当用の
>時は繁重を憚らざること、この文に限らず。余処にまた重引の例あり。皆準拠すべし。
>ただ聊か差別なきにあらざるか。謂く上の所引は龍樹・天親鈎鎖してこれを引く。仍て
>ただ論に限る。今の所引は註を引く時に論を載せずば、その義は顕わし難し。この故に
>これを引く。本論と註と、所引別なり。

    「我依・・・」から始まる四句の偈(詩文)の前後に(中略)として省略している部分に
  ついて、優婆提舎(論議)の名を成り立たせ、また、上(三門)を成立させ下(二門)を引
  き起こすということを解く解釈は、上の記述ですでに出だし終わった。問う。この
  「我依修」の一四句の偈(詩文)は上に既にこれを引用している。当巻のなかで重ねて
  これを引用するのは、繁雑に重複しているという欠点をまぬがれることができないと
  思うが、どうか。答える。まったくそのとおりである。ただ、この文体は、もともと
  ただ文を集めた体裁のものである。したがって、当面の必要に応じる場合は繁雑に重複
  していることをはばからないということは、この文に限らない。ほかのところでもまた
  重複した引用の例はある。みな、それを拠り所として従うのがよいだろう。ただ、
  いささかほかと違いがないこともない。言われるように、上の引用箇所は、龍樹と天親
  がともにこれを引用している。したがって、これは「論」に限る。この引用箇所につ
  いては、「論註」を引用するときに、「論註」のなかで引用された「論」を載せなかっ
  たら、その意味をあらわしにくい。だから、これを引用するのである。この「論」と
  「論註」とでは、引用箇所は別である。

●re.69
ボン
関東の男性
[ 1664 ] Re69:教行信証・学習ノート2 2009/11/06 (Fri) 01:31 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
修多羅者。十二部経中直説者名修多羅。謂四阿含三蔵等外大乗諸経亦名修多羅。
此中言依修多羅者。是三蔵外大乗修多羅。非阿含等経也。

真実功徳相者。有二種功徳。一者従有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善。人天果報。
若因若果。皆是顛倒。皆是虚偽。是故名不実功徳。二者従菩薩智慧清浄業起荘厳仏事。
依法性入清浄相。是法不顛倒不虚偽。名真実功徳。云何不顛倒。依法性順二諦故。
云何不虚偽。摂衆生入畢竟浄故。

説願偈総持与仏教相応者。持名不散不失。総名以少摂多。乃至。願名欲楽往生。乃至。
与仏教相応者。譬如函蓋相称也。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------
(論註)「修多羅」とは、十二部経の中の直説のものを修多羅と名づく。いわく四阿含
・三蔵等の外の大乗の諸経をまた修多羅と名づく。この中に「依修多羅」と言うは、これ
三蔵の外の大乗修多羅なり、『阿含』等の経にはあらざるなり。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には、有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわ
ゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽
なり。このゆえに不実の功徳と名づく。二には、菩薩の智慧・清浄の業より起こりて仏事
を荘厳す。法性に依りて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と
名づく。いかんが顛倒せざる、法性に依り二諦に順ずるがゆえに。いかんが虚偽ならざる、
衆生を摂して畢竟浄に入るがゆえなり。

「説願偈総持 与仏教相応」とは、「持」は不散不失に名づく。「総」は、少をもって多
を摂するに名づく。乃至。「願」は欲楽往生に名づく。乃至。「与仏教相応」は、たとえ
ば函蓋相称するがごとしとなり。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

十二部経中等者。問。十二部者。其相如何。答。十二名義諸典解之。其中且出戒度律師正
観記説。彼記文云。今依大論略出梵語。一修多羅。此云法本。亦云契経。二祇夜。
此云重頌。三和伽羅那。此云授記。四伽陀。此云孤起偈。五優陀那。此云無問自説。
六尼陀那。此云因縁。七阿波陀那。此云譬喩。八伊帝曰多伽。此云本事。九闍陀伽。
此云本生。十毘仏略。此云方広。十一阿浮陀達摩。此云未曾有。十二優婆提舎。此云論義。
最初修多羅名有通別。通則十二部皆云修多羅。別乃十二部中第一是故。已上。
今云直説即第一也。摂多之下。願名之上。言乃至者。偈字釈也。往生之下。与仏之上。
言乃至者。説総持釈。相称也下。言乃至者。五念門中観察以下。乃至。下巻解義分釈。
十重之中第二起観生信之内。初四門也。

「十二部経中」等とは、問う。十二部とは、その相、如何。答う。十二の名義は諸典にこ
れを解す。その中に且く戒度律師の『正観記』の説を出だす。彼の記の文に云わく「今、
『大論』に依りて略して梵語を出だす。一には修多羅、此には法本という。また契経とい
う。二には祇夜、此には重頌という。三には和伽羅那、此には授記という。四には伽陀、
此には孤起偈という。五には優陀那、此には無問自説という。六には尼陀那、此には因縁
という。七には阿波陀那、此には譬喩という。八には伊帝曰多伽、此には本事という。九
には闍陀伽、此には本生という。十には毘仏略、此には方広という。十一には阿浮陀達摩、
此には未曾有という。十二には優婆提舎、此には論義という。最初の修多羅は、名に通別
あり。通は則ち十二部みな修多羅という。別は乃ち十二部の中に第一これなり」已上。今、
直説というは即ち第一なり。「摂多」の下、「願名」の上に「乃至」というは、偈の字の
釈なり。「往生」の下、「与仏」の上に「乃至」というは、説と総持との釈なり。
「相称也」の下に「乃至」というは、五念門の中の観察以下、乃至、下巻の解義分の釈の
十重の中に第二の起観生信の内の初の四門なり。

●re.70
ボン
関東の男性
[ 1665 ] Re70:教行信証・学習ノート2 2009/11/06 (Fri) 01:31 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>修多羅者。十二部経中直説者名修多羅。謂四阿含三蔵等外大乗諸経亦名修多羅。
>此中言依修多羅者。是三蔵外大乗修多羅。非阿含等経也。

>真実功徳相者。有二種功徳。一者従有漏心生不順法性。所謂凡夫人天諸善。人天果報。
>若因若果。皆是顛倒。皆是虚偽。是故名不実功徳。二者従菩薩智慧清浄業起荘厳仏事。
>依法性入清浄相。是法不顛倒不虚偽。名真実功徳。云何不顛倒。依法性順二諦故。
>云何不虚偽。摂衆生入畢竟浄故。

>説願偈総持与仏教相応者。持名不散不失。総名以少摂多。乃至。願名欲楽往生。乃至。
>与仏教相応者。譬如函蓋相称也。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(論註)「修多羅」とは、十二部経の中の直説のものを修多羅と名づく。いわく四阿含
>・三蔵等の外の大乗の諸経をまた修多羅と名づく。この中に「依修多羅」と言うは、これ
>三蔵の外の大乗修多羅なり、『阿含』等の経にはあらざるなり。

>「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には、有漏の心より生じて法性に順ぜず。いわ
>ゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽
>なり。このゆえに不実の功徳と名づく。二には、菩薩の智慧・清浄の業より起こりて仏事
>を荘厳す。法性に依りて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と
>名づく。いかんが顛倒せざる、法性に依り二諦に順ずるがゆえに。いかんが虚偽ならざる、
>衆生を摂して畢竟浄に入るがゆえなり。

>「説願偈総持 与仏教相応」とは、「持」は不散不失に名づく。「総」は、少をもって多
>を摂するに名づく。乃至。「願」は欲楽往生に名づく。乃至。「与仏教相応」は、たとえ
>ば函蓋相称するがごとしとなり。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (論註)「修多羅」についていうと、十二部経のなかの(仏の)直説のものを修多羅と
  名づける。よく言われるところでは、四阿含・三蔵など以外の大乗の諸経をも、また
  修多羅と名づける。このなかで「依修多羅(修多羅による)」と言う場合、これは、
  三蔵以外の大乗の修多羅のことであり、『阿含』などの経ではない。

  「真実功徳相」については、二種類の功徳がある。一つは、有漏の心より生じて法性
  に順じないものである。いわゆる凡夫や人天の諸善、人天の果報、あるいは因、ある
  いは果、これらはすべて顛倒しており、すべて虚偽である。だから、不実の功徳と名
  づける。二つに、菩薩の智慧や清浄の業より起こって、仏事(衆生救済の仕事)を荘厳
  するものである。これは、法性によっており、清浄の相(すがた)に入るものである。
  この法は顛倒せず、虚偽でもなく、真実の功徳と名づけるものである。どうして顛倒
  しないのか。それは、法性により、二諦に順じているためである。どうして虚偽では
  ないのか。それは、衆生を摂取して、最終的に浄に入るためである。

  「説願偈総持 与仏教相応(願偈を説きて総持し、 仏教と相応せん)」についていうと、
  「持」は不散不失に名づけられる。「総」は、少(短い言葉)によって多(多くの意味)
  を包摂することに名づけられる。(中略)「願」は「欲楽往生(往生を願うこと)」に
  名づけられる。(中略)「与仏教相応」は、たとえば箱と蓋がピタリとはまるような
  ものである。(中略)

  WikiArcより
    四阿含
      阿含は梵語アーガマの音写。来るという意で、伝えられてきた教え、伝承、
      聖典を指す。四阿含とは、小乗仏教の根本聖典である長阿含経(二十二巻)・
      中阿含経(六十巻)・増一阿含経(五十一巻)・雑阿含経(五十巻)の総称である。
      四含ともいう。
    三蔵
      仏教聖典の総称。釈尊の教説を集めた経蔵、釈尊が制定された生活規則を集
      めた律蔵、教説を組織体系づけて論述した論蔵をいう。また、小乗の教えを
      総称して三蔵という場合もある。
    法性
      梵語ダルマターの漢訳。法の法たる性という意で、一切の存在の真実常住なる
      本性を指す。真如・実相・法界などの異名として用いられる。
    真如
      梵語タタターの漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありの
      ままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の
      本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。
    実相
      名号は仏のさとった諸法実相の徳が含まれているので、
      仏の名号のことを実相という。
    法界
      梵語ダルマ・ダーツの漢訳。意識の対象となるすべてのものごと。全宇宙。
      あるがままの理法の世界などを指し、とくに大乗仏教では存在の根源の意味に
      用いて、一切の存在を真理のあらわれと見、法界を真如と同義語に使う。
    二諦
      真諦と俗諦。ここでは、浄土の種々の荘厳相が有色有形のものであることを
      俗諦といい、しかもその荘厳相が真如法性の理にかなって無相であることを
      真諦という。
    真諦俗諦
      仏法と世俗の法(王法)。
    函蓋相称
      はこ(函)とふた(蓋)とがぴたりと合うように、浄土三部経の所説と願生偈の
      意が合致していることをいう。

  大辞林より
    常住
      生滅変化せず、永遠に存在すること。(⇔無常)
    二諦
      真諦(第一義諦・勝義諦)と俗諦(世俗諦)。すなわち、絶対的真理と世間的真理。

  漢和辞典より
    称・・・はかる、となえる、たたえる、かなう、つりあう


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「十二部経中」等とは、問う。十二部とは、その相、如何。答う。十二の名義は諸典にこ
>れを解す。その中に且く戒度律師の『正観記』の説を出だす。彼の記の文に云わく「今、
>『大論』に依りて略して梵語を出だす。一には修多羅、此には法本という。また契経とい
>う。二には祇夜、此には重頌という。三には和伽羅那、此には授記という。四には伽陀、
>此には孤起偈という。五には優陀那、此には無問自説という。六には尼陀那、此には因縁
>という。七には阿波陀那、此には譬喩という。八には伊帝曰多伽、此には本事という。九
>には闍陀伽、此には本生という。十には毘仏略、此には方広という。十一には阿浮陀達摩、
>此には未曾有という。十二には優婆提舎、此には論義という。最初の修多羅は、名に通別
>あり。通は則ち十二部みな修多羅という。別は乃ち十二部の中に第一これなり」已上。今、
>直説というは即ち第一なり。「摂多」の下、「願名」の上に「乃至」というは、偈の字の
>釈なり。「往生」の下、「与仏」の上に「乃至」というは、説と総持との釈なり。
>「相称也」の下に「乃至」というは、五念門の中の観察以下、乃至、下巻の解義分の釈の
>十重の中に第二の起観生信の内の初の四門なり。

  「十二部経中・・・」等について、問う。十二部とは、その相は、どのようなものか。
  答える。十二の名義(名前のいわれ)については、諸典において、これを解釈している。
  そのなかから、とりあえず、戒度律師の『正観記』の説を取り出だす。その記(正観記)
  の文では次のように述べている。「ここでは、『大論(大智度論)』によって、簡単に
  梵語を取りあげる。一つには修多羅、ここ(中国)では法本または契経という。二つに
  は祇夜、ここでは重頌という。三つには和伽羅那、ここでは授記という。四つには伽陀、
  ここでは孤起偈という。五つには優陀那、ここでは無問自説という。六つには尼陀那、
  ここでは因縁という。七つには阿波陀那、ここでは譬喩という。八には伊帝曰多伽、
  ここでは本事という。九には闍陀伽、ここでは本生という。十には毘仏略、ここでは
  方広という。十一には阿浮陀達摩、ここでは未曾有という。十二には優婆提舎、ここ
  では論義という。最初の修多羅は、その名に通別(通常と特別)がある。通では、十二部
  すべてを修多羅という。別では、十二部のなかの第一番目がこれである。」ここで直説
  というのは、第一番目のことである。「摂多」と「願名」の間の(中略)は、偈(詩文)
  の字の釈である。「往生」と「与仏」」の間の(中略)は、「説」と「総持」の釈である。
  「相称也」の次の(中略)というは、五念門のなかの観察からあと、下巻の解義分の釈の
  なかの「十重」のうち、第二番目「起観生信」のうちの初めの四門のついてである。

  WikiArcより
    戒度
      南宋時代の僧。字は拙庵。元照に律と浄土教を学び、晩年、余姚
      (現在の浙江省余姚県)の極楽寺に住した。著書に『観経疏正観記』三巻、
      『阿弥陀経義疏聞持記』三巻、『観経扶新論』一巻がある。

●re.71
ボン
関東の男性
[ 1667 ] Re71:教行信証・学習ノート2 2009/11/08 (Sun) 00:12 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
云何回向。不捨一切苦悩衆生。心常作願。回向為首得成就大悲心故。回向有二種相。
一者往相。二者還相。往相者。以己功徳廻施一切衆生。作願共往生阿弥陀如来安楽浄土。
抄出。
-------------------------------------------------------------------------------
(論註)「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、
回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」とのたまえり。回向に
二種の相あり、一には往相、二には還相なり。往相とは、己が功徳をもって一切衆生に
回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり。抄出。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

云何等者。第五回向之釈也。於中自初至大悲心故。二十七字本論之文。回向有下四十一
字註釈而已。問。於五念中引回向者。一段之文具可引之。何略還相回向釈耶。答。
当巻初云。謹按往相回向有大行有大信。大行者則称無礙光如来名。已上。
今就往相所明如此。仍且略之。

「云何」等とは、第五の回向の釈なり。中に於いて初より「大悲心故」に至るまでの
二十七字は本論の文なり。「回向有」の下の四十一字は註釈ならくのみ。問う。五念の
中に於いて回向を引かば、一段の文は具にこれを引くべし。何ぞ還相回向の釈を略する
や。答う。当巻の初に云わく「謹んで往相の回向を按ずるに、大行あり、大信あり。
大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり」已上。今、往相に就きて明す所は此
の如し。仍て且くこれを略す。

●re.72
ボン
関東の男性
[ 1668 ] Re72:教行信証・学習ノート2 2009/11/08 (Sun) 00:12 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>云何回向。不捨一切苦悩衆生。心常作願。回向為首得成就大悲心故。回向有二種相。
>一者往相。二者還相。往相者。以己功徳廻施一切衆生。作願共往生阿弥陀如来安楽浄土。
>抄出。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(論註)「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、
>回向を首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」とのたまえり。回向に
>二種の相あり、一には往相、二には還相なり。往相とは、己が功徳をもって一切衆生に
>回施して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまえるなり。抄出。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (論註)「どのように回向するのか。すべての苦悩する衆生を捨てずに、心に常に願
  うことには、回向をかなめとして大悲の心を成就したから・・・」といわれた。回向
  に二種類の相(すがた)がある。その一つには往相であり、二つには還相である。往相
  とは、自分の功徳をすべての衆生にまわし施して、願を起こして、ともに阿弥陀如来
  の安楽浄土に往生させることである。(抜粋)

  wikidharmaより
    大悲
      仏の衆生に対するいつくしみ。大智、すなわち悟り(自覚、自利)をあらしめ
      る智慧に対し、衆生済度(覚他、利他)をあらしめる原動力。仏に特有な18の
      徳性(十八不共法)の一つ。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「云何」等とは、第五の回向の釈なり。中に於いて初より「大悲心故」に至るまでの
>二十七字は本論の文なり。「回向有」の下の四十一字は註釈ならくのみ。問う。五念の
>中に於いて回向を引かば、一段の文は具にこれを引くべし。何ぞ還相回向の釈を略する
>や。答う。当巻の初に云わく「謹んで往相の回向を按ずるに、大行あり、大信あり。
>大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり」已上。今、往相に就きて明す所は此
>の如し。仍て且くこれを略す。

  「云何・・・」等については、第五の回向の釈である。そのなかで、初めより
  「大悲心故」までの二十七字は本論の文である。「回向有」の下の四十一字は註釈に
  すぎない。問う。五念のなかで回向を取り上げるのであれば、一段の文は、詳しくこ
  れを取り上げるべきである。どうして還相回向の釈を略するのか。答う。当巻の初め
  に次のように述べている。「謹んで往相の回向について考えてみるに、大行があり、
  大信がある。大行とは、すなわち無碍光如来の名を称することである」今、往相につ
  いて明かすのは、これと同様である。したがって、とりあえず、これを省略する。

●re.73
ボン
関東の男性
[ 1669 ] Re73:教行信証・学習ノート2 2009/11/12 (Thu) 22:08 △up ▽down
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安楽集云。観仏三昧経云。令勧父王行念仏三昧。父王白仏。仏地果徳真如実相第一義空。
何因不遣弟子行之。仏告父王。諸仏果徳有無量深妙境界神通解脱。非是凡夫所行境界故。
勧父王行念仏三昧。

父王白仏。念仏之功其状云何。仏告父王。如伊蘭林方四十由旬。有一科牛頭栴檀。
雖有根芽猶未出土。其伊蘭林唯臭無香。若有[タン03]其華菓。発狂而死。
後時栴檀根芽漸漸生長纔欲成樹。香気昌盛。遂能改変此林。普皆香美。
衆生見者皆生希有心。仏告父王。一切衆生在生死中念仏之心亦復如是。但能繋念不止。
定生仏前。一得往生。即能改変一切諸悪成大慈悲。如彼香樹改伊蘭林。所言伊蘭林者。
喩衆生身内三毒三障無辺重罪。言栴檀者。喩衆生念仏之心。纔欲成樹者。
謂一切衆生但能積念不断。業道成弁也。
-------------------------------------------------------------------------------
『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたま
う。父の王、仏に白さく、仏地の果徳、真如実相、第一義空なり。何に因ってか弟子をし
てこれを行ぜしめざると。仏、父王に告げたまわく、諸仏の果徳、無量深妙の境界、
神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆえに、父王を勧めて念仏三昧を
行ぜしめたてまつると。

父の王、仏に白さく、念仏の功、その状〈かたち〉いかんぞと。仏、父の王に告げたまわ
く、伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといえども、なお未だ
土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓をタンずる
〈なむる〉ことあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽漸漸に生長して、わずか
に樹にならんと欲す。香気昌盛にして、ついによくこの林を改変してあまねくみな香美な
らしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし。仏、父の王に告げたまわく、一切
衆生、生死の中にありて、念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繋けて止〈や〉ま
ざれば、定んで仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなわちよく一切の諸悪を改変し
て大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし。言うところの伊蘭林とは、
衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩う。栴檀と言うは、衆生の念仏の心に喩う。
わずかに樹に成らんと欲すというは、いわく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、
業道成弁するなり。
-------------------------------------------------------------------------------

  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません。

●re.74
ボン
関東の男性
[ 1670 ] Re74:教行信証・学習ノート2 2009/11/12 (Thu) 22:09 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>安楽集云。観仏三昧経云。令勧父王行念仏三昧。父王白仏。仏地果徳真如実相第一義空。
>何因不遣弟子行之。仏告父王。諸仏果徳有無量深妙境界神通解脱。非是凡夫所行境界故。
>勧父王行念仏三昧。

>父王白仏。念仏之功其状云何。仏告父王。如伊蘭林方四十由旬。有一科牛頭栴檀。
>雖有根芽猶未出土。其伊蘭林唯臭無香。若有[タン03]其華菓。発狂而死。
>後時栴檀根芽漸漸生長纔欲成樹。香気昌盛。遂能改変此林。普皆香美。
>衆生見者皆生希有心。仏告父王。一切衆生在生死中念仏之心亦復如是。但能繋念不止。
>定生仏前。一得往生。即能改変一切諸悪成大慈悲。如彼香樹改伊蘭林。所言伊蘭林者。
>喩衆生身内三毒三障無辺重罪。言栴檀者。喩衆生念仏之心。纔欲成樹者。
>謂一切衆生但能積念不断。業道成弁也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>『安楽集』に云わく、『観仏三昧経』に云わく、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたま
>う。父の王、仏に白さく、仏地の果徳、真如実相、第一義空なり。何に因ってか弟子をし
>てこれを行ぜしめざると。仏、父王に告げたまわく、諸仏の果徳、無量深妙の境界、
>神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆえに、父王を勧めて念仏三昧を
>行ぜしめたてまつると。

>父の王、仏に白さく、念仏の功、その状〈かたち〉いかんぞと。仏、父の王に告げたまわ
>く、伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといえども、なお未だ
>土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓をタンずる
>〈なむる〉ことあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽漸漸に生長して、わずか
>に樹にならんと欲す。香気昌盛にして、ついによくこの林を改変してあまねくみな香美な
>らしむ。衆生見る者、みな希有の心を生ぜんがごとし。仏、父の王に告げたまわく、一切
>衆生、生死の中にありて、念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繋けて止〈や〉ま
>ざれば、定んで仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなわちよく一切の諸悪を改変し
>て大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし。言うところの伊蘭林とは、
>衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩う。栴檀と言うは、衆生の念仏の心に喩う。
>わずかに樹に成らんと欲すというは、いわく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、
>業道成弁するなり。
>-------------------------------------------------------------------------------

  『安楽集』に言うところでは、『観仏三昧経』では次のように述べる。(仏は)父であ
  る王に勧めて念仏三昧を行わせた。父の王は、仏に次のように述べた。仏の位にとも
  なう果報としての功徳は、真如実相であり、第一義空である。どうして弟子にこれを
  行じさせないのか。仏は、父である王に次のように告げた。諸仏の果報としての功徳
  は、計り知れないほど深く妙なる境地であって、神通力をもって解脱したものである。
  これは、凡夫が行ずることのできる境地ではないので、父である王に勧めて念仏三昧
  を行わせたのである。

  父である王は、仏に次のように述べた。念仏の功徳や、そのかたちはどのようなもの
  か。仏は、父である王に次のように告げた。伊蘭の林が40由旬四方のわたって広がっ
  ているなかに、一本の牛頭栴檀がある。(その牛頭栴檀は)根から出た芽あるものの、
  まだ土から顔を出しておらず、その伊蘭の林はただ臭くて香ばしいことはない。もし
  その花や実を舐めることがあれば、発狂して死んでしまうであろう。後に栴檀の根芽
  がだんだんと生長して、わずかに樹になろうとする。その香気が盛んになってきて、
  ついにこの林を改変して、その全域にわたってかぐわしい香を広げるのである。これ
  を見る衆生は、みな希有の心を生ずるようなものである。仏は父である王に次のよう
  に述べた。すべての衆生が生死を繰り返してるなかで、念仏の心もまたこのようなも
  のである。ただよく念を繋けて止むことがなければ、仏の前に生まれることは間違い
  ない。ひとたび往生を得れば、一切の諸悪を改変して大慈悲を成ずるであろうことは、
  あの香しい樹が伊蘭の林を変えるようなものである。ここで言う伊蘭の林とは、衆生
  の身の内の三毒・三障、際限のない重罪をたとえたものである。栴檀と言うのは、
  衆生の念仏の心をたとえたものである。わずかに樹になろうとするというのは、言わ
  れるところでは、すべての衆生がただよく念を積んで断えることがなければ、その業
  (行い)の道が成し遂げられるのである。

  WikiArcより
    安楽集
      道綽禅師(562-645)の著。十二章からなる。『観経』にもとづいて浄土往生を
      勧めたもの。浄土教に対する疑難について問答を設けて解釈し、時機相応の
      法として念仏を勧める。七祖聖教の一。
    観仏三昧経
      『観仏三昧海経』のこと。十巻。東晋の仏駄跋陀羅訳。十二章(品)に分けて、
      仏の相好の功徳を観想する相状や利益を説く。
    念仏三昧
      心静かに専ら念仏を修すること。一般には仏の相好や功徳を心におもい観る
      観仏のこととするが、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じて、一心に名号を
      称する他力念仏のこととされる。
    三昧
      梵語サマーディの音写。心を一処にとどめて散り乱れぬ安らかで静かな状態
      になること。
    仏地の果徳
      仏のさとりにそなわる功徳。
    真如
      梵語タタターの漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありの
      ままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の
      本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。
    第一義空
      究極の真理である空。虚妄(こもう)なる凡夫の認識を離れた絶対的境地。
    伊蘭
      梵語エーランダの音写。インドの植物の一種。強い悪臭があり、芳香を放つ
      栴檀と対照される。
    由旬
      梵語ヨージャナの音写。インドの距離の単位。一由旬は帝王一日の行軍の
      距離、または牛車の一日の旅程とされる。およそ六十キロメートルともいわ
      れるが、種々の説がある。
    牛頭栴檀
      梵語ゴーシールシャ・チャンダナの音写。インドの摩羅耶山(牛頭山)に産す
      といわれる香木の一種。色は赤銅色で、栴檀の中で最も香気が高い。
    三毒
      三垢ともいい、三種の煩悩のこと。
        1.貪欲。むさぼり。
        2.瞋恚。いかり。
        3.愚痴。おろかさ
      衆生を害する悪の根元であるから三不善根ともいう。
    三障
      さとりへの道をさまたげ善心を害する三種。あわせて惑・業・苦という。
        @煩悩障。貪欲・瞋恚・愚痴等の惑。
        A業障。五逆・十悪 等の身・口・意の三業に悪業のみをなす障り。
        B報障。悪業の果報として受ける地獄・餓鬼・畜生 等の苦しみの報い。
    業事成弁
      業道成弁・業成ともいう。浄土往生の業因が成就して、必ず浄土に生れ得る
      ことが決定することをいう。
    成弁
      成就すること。完成すること。

  大辞林より
    実相
      この世界の真実でありのままの姿。法性や真如の別名とされる。

  大辞泉
    真如実相
      《「真如」と「実相」は、同体のものに異なる立場から名づけたもの》仏語。
      万有の本体であり、永久不変、平等無差別なもの。すなわち、涅槃・法身・
      仏性をいう。


  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません。

●re.75
ボン
関東の男性
[ 1671 ] Re75:教行信証・学習ノート2 2009/11/14 (Sat) 23:30 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
問曰。計一衆生念仏之功亦応一切知。何因一念之功力能断一切諸障。如一香樹改四十由
旬伊蘭林悉使香美也。答曰。依諸部大乗顕念仏三昧功能不可思議也。何者。如華厳経云。
譬如有人用師子筋以為琴絃。音声一奏。一切余絃悉皆断壊。若人菩提心中行念仏三昧者。
一切煩悩一切諸障悉皆断滅。亦如有人搆取牛羊驢馬一切諸乳置一器中。若将師子乳一H
投之。直過無難。一切諸乳悉皆破壊変為清水。若人但能菩提心中行念仏三昧者。一切悪魔
諸障直過無難。又彼経云。譬如有人持翳身薬処処遊行。一切余行不見是人。若能菩提心
中行念仏三昧者。一切悪神一切諸障不見是人。随諸処処無能遮障也。何故。能念此念仏
三昧。即是一切三昧中王故也。
-------------------------------------------------------------------------------
(安楽集)問うて曰わく、一切衆生の念仏の功を計して、また一切を知るべし。何に因り
てか、一念の功力よく一切の諸障を断つこと、一の香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、
ことごとく香美ならしむるがごとくならんや。答えて曰わく、諸部の大乗に依りて念仏
三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。いかんとならば、『華厳経』に云うがごとし、
たとえば人ありて、師子の筋をもって、もって琴の絃とせんに、音声ひとたび奏するに
一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれ
ば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅すと。また人ありて、牛・羊・驢馬
一切の諸乳を搆し取りて一器の中に置かんに、もし師子の乳一Hをもってこれを投ぐるに、
直ちに過ぎて難〈はばかり〉なし。一切の諸乳ことごとくみな破壊して変じて清水となる
がごとし。もし人ただよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに
過ぐるに難なし。またかの経に云わく、たとえば人ありて、翳身薬をもって処処に遊行す
るに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、
一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、もろもろの処処に随いてよく遮障することなし。
何がゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるに、すなわちこれ一切三昧の中の王なる
がゆえなりと。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次所引文。安楽集者上下二巻綽公述也。今於此集総有十二大門之中。上巻第一大門之内又
有九門。其中第四弁諸経宗旨不同之次引観仏経説三種益。其第三益為念仏故今故引之。
観仏三昧経覚賢三蔵訳。是第一巻観地品文。今之所引尽当章也。

次の所引の文『安楽集』は上下二巻、綽公の述なり。今、この集に於いて総じて十二大門
ある中に、上巻第一大門の内にまた九門あり。その中に第四に諸経の宗旨の不同を弁ずる
次に『観仏経』を引きて三種の益を説く。その第三の益は念仏たるが故に今ことさらこれ
を引く。『観仏三昧経』は覚賢三蔵の訳。これ第一巻観地品の文なり。今の所引は当章を
尽すなり。

●re.76
ボン
関東の男性
[ 1672 ] Re76:教行信証・学習ノート2 2009/11/14 (Sat) 23:31 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>問曰。計一衆生念仏之功亦応一切知。何因一念之功力能断一切諸障。如一香樹改四十由
>旬伊蘭林悉使香美也。答曰。依諸部大乗顕念仏三昧功能不可思議也。何者。如華厳経云。
>譬如有人用師子筋以為琴絃。音声一奏。一切余絃悉皆断壊。若人菩提心中行念仏三昧者。
>一切煩悩一切諸障悉皆断滅。亦如有人搆取牛羊驢馬一切諸乳置一器中。若将師子乳一H
>投之。直過無難。一切諸乳悉皆破壊変為清水。若人但能菩提心中行念仏三昧者。一切悪魔
>諸障直過無難。又彼経云。譬如有人持翳身薬処処遊行。一切余行不見是人。若能菩提心
>中行念仏三昧者。一切悪神一切諸障不見是人。随諸処処無能遮障也。何故。能念此念仏
>三昧。即是一切三昧中王故也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(安楽集)問うて曰わく、一切衆生の念仏の功を計して、また一切を知るべし。何に因り
>てか、一念の功力よく一切の諸障を断つこと、一の香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、
>ことごとく香美ならしむるがごとくならんや。答えて曰わく、諸部の大乗に依りて念仏
>三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。いかんとならば、『華厳経』に云うがごとし、
>たとえば人ありて、師子の筋をもって、もって琴の絃とせんに、音声ひとたび奏するに
>一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人、菩提心の中に念仏三昧を行ずれ
>ば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅すと。また人ありて、牛・羊・驢馬
>一切の諸乳を搆し取りて一器の中に置かんに、もし師子の乳一Hをもってこれを投ぐるに、
>直ちに過ぎて難〈はばかり〉なし。一切の諸乳ことごとくみな破壊して変じて清水となる
>がごとし。もし人ただよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障、直ちに
>過ぐるに難なし。またかの経に云わく、たとえば人ありて、翳身薬をもって処処に遊行す
>るに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心の中に念仏三昧を行ずれば、
>一切の悪神・一切の諸障この人を見ず、もろもろの処処に随いてよく遮障することなし。
>何がゆえぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるに、すなわちこれ一切三昧の中の王なる
>がゆえなりと。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (安楽集)問う。すべての衆生の念仏の功徳をおもんばかって、すべてを知るべきで
  ある。どういうわけで、一念の功徳の力が一切のもろもろの障(さわり)を断つことと
  いうことが、一つの香り高い樹木が四十由旬四方の伊蘭の林をことごとく麗しい香り
  にかえてしまうようなものである、といえるのか。答える。もろもろの部の大乗経典
  によって、念仏三昧の功能が不可思議であることを明らかにしよう。それはどうして
  かというと、『華厳経』に言うように、たとえば、ある人が獅子の筋を琴の絃として、
  ひとたび音を奏でると、すべてのほかの絃がことごとくみな切れてしまうようなもの
  である。このように、もし、人が菩提心をもって念仏三昧を行ずれば、すべての煩悩
  やもろもろの障(さわり)は、ことごとくみな断ち切られてしまうのである。また、
  もし人が牛・羊・驢馬などの乳を搾って一つ器の中に置き、そこに獅子の乳の落とす
  と、直ちに全体に染み渡る。そして、すべての乳がことごとくみな破壊されて、清水
  に変わってしまうようなものである。もし、人がただ菩提心をもって念仏三昧を行ず
  れば、すべての悪魔やもろもろの障(さわり)は、直ちに通り過ぎ、災難をこうむるこ
  とがない。また、その経(『華厳経』)では次のようにも述べている。たとえば、人が
  翳身薬(身体をみえなくすることができる薬)を使ってあちことに行き来すれば、ほか
  の人はだれもこの人が見えない、というようなものである。もし、菩提心をもって
  念仏三昧を行ずれば、すべての悪神やもろもろの障(さわり)のものがこの人を見るこ
  とができず、どこに行ってもさまたげられることがない。なぜならば、この念仏三昧
  を念ずることができるならば、これは、すべての三昧のなかの王であるからである。

  WikiArcより
    翳身薬
      身体をみえなくすることができる薬。
    三昧
      梵語サマーディの音写。心を一処にとどめて散り乱れぬ安らかで静かな状態
      になること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次所引文。安楽集者上下二巻綽公述也。今於此集総有十二大門之中。上巻第一大門之内又
>有九門。其中第四弁諸経宗旨不同之次引観仏経説三種益。其第三益為念仏故今故引之。
>観仏三昧経覚賢三蔵訳。是第一巻観地品文。今之所引尽当章也。

>次の所引の文『安楽集』は上下二巻、綽公の述なり。今、この集に於いて総じて十二大門
>ある中に、上巻第一大門の内にまた九門あり。その中に第四に諸経の宗旨の不同を弁ずる
>次に『観仏経』を引きて三種の益を説く。その第三の益は念仏たるが故に今ことさらこれ
>を引く。『観仏三昧経』は覚賢三蔵の訳。これ第一巻観地品の文なり。今の所引は当章を
>尽すなり。

  次に引用する『安楽集』は、上下二巻、綽公(道綽)の著述によるである。今、この集
  に総じて十二の大門があるなかで、上巻の第一大門のうちにまた九門がある。そのな
  かの第四に、諸経の宗旨の違いを述べた次に、『観仏経』を引いて三種の利益を説く。
  その第三の利益は念仏であるために、ここでことさらにこれを引用しているのである。
  『観仏三昧経』は覚賢三蔵の訳。これは、第一巻の観地品の文である。ここの引用
  箇所は当章を論じつくすものである。

  WikiArcより
    観仏三昧経(観仏経)
      『観仏三昧海経』のこと。十巻。東晋の仏駄跋陀羅訳。
      十二章(品)に分けて、仏の相好の功徳を観想する相状や利益を説く。

●re.77
ボン
関東の男性
[ 1673 ] Re77:教行信証・学習ノート2 2009/11/15 (Sun) 02:21 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。如摩訶衍中説云。諸余三昧非不三昧。何以故。或有三昧。但能除貪不能除瞋癡。
或有三昧。但能除瞋不能除癡貪。或有三昧。但能除癡不能除瞋。或有三昧。
但能除現在障不能除過去未来一切諸障。若能常修念仏三昧。
無問現在過去未来一切諸障皆除也。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(安楽集)また云わく、『摩訶衍』(智度論)の中に説きて云うがごとし、「諸余の三昧
も、三昧ならざるにはあらず。何をもってのゆえとならば、あるいは三昧あり、ただよく
貪を除いて、瞋痴を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて、痴貪を
除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて、瞋を除くことあたわず。
あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除いて、過去・未来の一切の諸障を除くことあた
わず。もしよく常に念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来を問うことなく、一切の諸障、
みな除くなり。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次所引者下巻文也。第四大門有三番料簡中。第三問答解釈。顕念仏三昧有種種利益。
有其五番。其中第二番釈也。其初文云。第二問曰。若勧常修念仏三昧。
与余三昧能有階降以不。答曰。念仏三昧勝相不可思議。此云何知。已上。
以下文言如今所引。摩訶衍者今指大論。第七巻文。文意易見。

次の所引は下巻の文なり。第四大門に三番の料簡ある中に、第三に問答解釈して念仏三昧
に種種の利益あること顕わすに、その五番あり。その中に第二番の釈なり。その初の文に
云わく「第二に問いて曰わく、もし常に念仏三昧を修することを勧めば、余の三昧と能く
階降有りや、いなや。答えて曰わく、念仏三昧の勝相は不可思議なり。これ云何ぞ知らん」
已上。以下の文言は今の所引の如し。「摩訶衍」とは今は『大論』を指す。
第七巻の文なり。文意見易し。

●re.78
ボン
関東の男性
[ 1674 ] Re78:教行信証・学習ノート2 2009/11/15 (Sun) 02:21 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。如摩訶衍中説云。諸余三昧非不三昧。何以故。或有三昧。但能除貪不能除瞋癡。
>或有三昧。但能除瞋不能除癡貪。或有三昧。但能除癡不能除瞋。或有三昧。
>但能除現在障不能除過去未来一切諸障。若能常修念仏三昧。
>無問現在過去未来一切諸障皆除也。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(安楽集)また云わく、『摩訶衍』(智度論)の中に説きて云うがごとし、「諸余の三昧
>も、三昧ならざるにはあらず。何をもってのゆえとならば、あるいは三昧あり、ただよく
>貪を除いて、瞋痴を除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて、痴貪を
>除くことあたわず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて、瞋を除くことあたわず。
>あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除いて、過去・未来の一切の諸障を除くことあた
>わず。もしよく常に念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来を問うことなく、一切の諸障、
>みな除くなり。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (安楽集)また次のように述べる。『摩訶衍』(智度論)に説かれるように、「もろも
  ろのほかの三昧も、三昧にほかならない。どうしてかといえば、ある三昧は、貪を除
  くことができるが、瞋痴を除くことはできない。ある三昧は、瞋くことができるが、
  痴貪を除くことはできない。ある三昧は、痴を除くことができるが、瞋を除くことは
  できない。また、ある三昧は、現在の障(さわり)を除くことができるが、過去・未来
  のすべてのもろもろの障を除くことはできない。もし、常に念仏三昧を修めることが
  できれば、現在・過去・未来を問わず、すべてのもろもろの障(さわり)が、みな除か
  れるのである。」

    貪・・・貪欲。むさぼり。
    瞋・・・瞋恚。いかり。
    痴・・・愚痴。おろかさ。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次所引者下巻文也。第四大門有三番料簡中。第三問答解釈。顕念仏三昧有種種利益。
>有其五番。其中第二番釈也。其初文云。第二問曰。若勧常修念仏三昧。
>与余三昧能有階降以不。答曰。念仏三昧勝相不可思議。此云何知。已上。
>以下文言如今所引。摩訶衍者今指大論。第七巻文。文意易見。

>次の所引は下巻の文なり。第四大門に三番の料簡ある中に、第三に問答解釈して念仏三昧
>に種種の利益あること顕わすに、その五番あり。その中に第二番の釈なり。その初の文に
>云わく「第二に問いて曰わく、もし常に念仏三昧を修することを勧めば、余の三昧と能く
>階降有りや、いなや。答えて曰わく、念仏三昧の勝相は不可思議なり。これ云何ぞ知らん」
>已上。以下の文言は今の所引の如し。「摩訶衍」とは今は『大論』を指す。
>第七巻の文なり。文意見易し。

  次の引用は下巻の文である。第四大門に三番の解釈あるなかで、第三番に問答解釈を
  して、念仏三昧にいろいろな利益あること明らかにするのに、五番がある。これは、
  そのなかで第二番の釈である。その初めの文では次のように述べている。「第二に
  次のように問う。もし、常に念仏三昧を修めることにはげめは、ほかの三昧と比べて
  上下があるのかどうか。答える。念仏三昧の優れた相(すがた)は不可思議である。
  これをどうして知ることがあろうか。」以下の文言は、今の引用のとおりである。
  「摩訶衍」とは、ここでは『大論』を指す。第七巻の文である。文意は分かりやすい。

●re.79
ボン
関東の男性
[ 1675 ] Re79:教行信証・学習ノート2 2009/11/16 (Mon) 01:26 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。大経讃云。若聞阿弥陀徳号歓喜賛仰心帰依。下至一念得大利。則為具足功徳宝。
設満大千世界火。亦応直過聞仏名。聞阿弥陀不復退。是故至心稽首礼。
-------------------------------------------------------------------------------
(安楽集)また云わく、『大経の讃』(讃阿弥陀仏偈)に云わく「もし阿弥陀の徳号を
聞きて、歓喜賛仰し、心に帰依すれば、下一念に至るまで大利を得、すなわち功徳の宝
を具足すとす。たとい大千世界に満てらん火をも、また直ちに過ぎて仏の名を聞くべし。
阿弥陀を聞かば、また退せず。このゆえに心を至して稽首し礼したてまつる」と。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次所引之大経讃者。第五大門有四番料簡中。第一汎明修道延促之段所安之讃。
鸞師所造流通文意。

次に所引の大経の讃とは、第五大門に四番の料簡ある中に、第一に汎く修道の延促を
明かす段に安ずる所の讃なり。鸞師の所造、流通の文の意なり。

●re.80
ボン
関東の男性
[ 1676 ] Re80:教行信証・学習ノート2 2009/11/16 (Mon) 01:27 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。大経讃云。若聞阿弥陀徳号歓喜賛仰心帰依。下至一念得大利。則為具足功徳宝。
>設満大千世界火。亦応直過聞仏名。聞阿弥陀不復退。是故至心稽首礼。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(安楽集)また云わく、『大経の讃』(讃阿弥陀仏偈)に云わく「もし阿弥陀の徳号を
>聞きて、歓喜賛仰し、心に帰依すれば、下一念に至るまで大利を得、すなわち功徳の宝
>を具足すとす。たとい大千世界に満てらん火をも、また直ちに過ぎて仏の名を聞くべし。
>阿弥陀を聞かば、また退せず。このゆえに心を至して稽首し礼したてまつる」と。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (安楽集)また次のように述べる。『大経の讃』(讃阿弥陀仏偈)では次のように述べ
  る。「もし、阿弥陀の功徳の名号を聞いて、歓喜して讃えて仰ぎ、心に帰依すれば、
  下(最少・ミニマム)は一念に至るまで大利を得る。すなわち、そうすれば功徳の宝を
  自分のものとするのである。たとえ、無数の世界に満ちているかもしれない火であっ
  ても、直ちに通り過ぎて、仏の名を聞くべきである。阿弥陀を聞けば、退くことがな
  い。だから、心を至して稽首して礼拝するのである。」

  WikiArcより
    上尽一形下至一念
      上一形を尽し、下一念に至る
    一形
      形は身体。人間の肉体の存続する間。一生涯のことをいう。
    稽首
      ひざまずいて額を地につけ、さらに仏・菩薩・師長の足を額におしいただく
      礼拝法、またひざまずいて額を地につけるだけの礼拝法を指す場合もある。

  西方指南抄
    信おば一念に生ととり、行おば一形をはげむべし

  口伝鈔
    「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、「上尽一形」は往生即得のう
    への仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念もともに
    往生のための正因たるやうにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。
    さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、他力の信をば一念に
    即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほど
    は念仏すべし。これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。

  御文章
    されば善導和尚の「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と釈せり。「下至一念」とい
    ふは信心決定のすがたなり、「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次所引之大経讃者。第五大門有四番料簡中。第一汎明修道延促之段所安之讃。
>鸞師所造流通文意。

>次に所引の大経の讃とは、第五大門に四番の料簡ある中に、第一に汎く修道の延促を
>明かす段に安ずる所の讃なり。鸞師の所造、流通の文の意なり。

  次に引用する大経の讃とは、第五大門に四番の解釈があるなかで、第一に広く道を修
  める際の延促(延長と極促)を明らかにする段に置かれた讃である。鸞師(曇鸞)の作と
  なる流通の文の意(こころ)である。

    延促
      延長(相続)と極促(初際)
        延長・・・延びて長いこと
        極促・・・極めて短いこと

●re.81
菩提心
非公開の非公開
[ 1677 ] Re81:教行信証・学習ノート2 2009/11/16 (Mon) 18:51 △up ▽down
ボン様

この場所は、分かります。

有難うございます。

南无阿彌陀佛

●re.82
ボン
関東の男性
[ 1678 ] Re82:教行信証・学習ノート2 2009/11/16 (Mon) 19:00 △up ▽down
菩提心さま、皆さま、こんばんは

ここの段はとても心に残りましたので、理解したところを少し説明したいと思います。

>  御文章
>    されば善導和尚の「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と釈せり。「下至一念」とい
>    ふは信心決定のすがたなり、「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。

御文章のここのところが、実は以前からよくわからなかったのです。
「下至一念」は「信心決定のすがた」だ、「上尽一形」は「仏恩報尽の念仏」だと言われ
ても、どうして「下至一念」は「信心決定のすがた」なのか、どうして「上尽一形」が
「仏恩報尽の念仏」なのか、すっきりしませんでした。

ところが、「形は身体」、一形は「人間の肉体の存続する間」ということが解ってみると
全体が実にすっきりと理解できるのが不思議なくらいです。つまり、こうですよね。

「上限(マックス)では肉体の存続する間を通して、下限(ミニマム)では一念だけでも」
というころですよね。つまり、「下限(ミニマム)の一念だけでも救われるんですよ」と
いうことですよね。

そして「口伝鈔」には、往生の正因は「多念(上尽一形)」ではなくて、「一念(下至一念)」
のほうだ、ということがはっきりと書かれています。

>  口伝鈔
>    「下至一念」は本願をたもつ往生決定の時剋なり、「上尽一形」は往生即得のう
>    への仏恩報謝のつとめなり。そのこころ、経釈顕然なるを、一念も多念もともに
>    往生のための正因たるやうにこころえみだす条、すこぶる経釈に違せるものか。
>    さればいくたびも先達よりうけたまはり伝へしがごとくに、他力の信をば一念に
>    即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほど
>    は念仏すべし。これすなはち「上尽一形」の釈にかなへり。

    「下至一念」は本願をたもつ往生決定の一瞬である。「上尽一形」は往生をすば
    やく獲得したうえでの仏恩に報謝するためのつとめである。その意図は、経釈に
    明白であるにもかかわらず、一念も多念もどちらも往生のための正因であるかの
    ように心得を乱すなどということは、まったく経釈に相違したものである。そう
    と解ったならば、何度も先達から承って伝へられてきたように、他力の信を一念
    に即得往生ととりさだめて、そのときに命が終わらなかったものは、命のある限
    り念仏すべきものである。これが「上尽一形」の釈にかなうものである。

ところが世間では「日々、信を新たに更新し、一念を継続することが、本願にかなうこと
である」というような解釈が、一部に流布されているようにもみえます。これは「一念」
と「多念」をまぜこぜにしたもののように思えます。

真宗において最も大切なものは「一念」の「極促(極めて短い一瞬)」であるという原点を、
この段であらためて確認できたことは、本当にうれしいかぎりです。

もし、理解に誤りがござましたら、何なりとご指摘ください。

南无阿彌陀佛

●re.83
ボン
関東の男性
[ 1679 ] Re83:教行信証・学習ノート2 2009/11/16 (Mon) 23:13 △up ▽down
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又云。又如目連所問経。仏告目連。譬如万川長流有草木。前不顧後。後不顧前。都会大海。
世間亦爾。雖有豪貴富楽自在。悉不得勉生老病死。只由不信仏経。後世為人更甚困劇。
不能得生千仏国土。是故我説。無量寿仏国易往易取。而人不能修行往生。
反事九十五種邪道。我説是人名無眼人。名無耳人。経教既爾。何不捨難依易行道矣。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(安楽集)また云わく、また『目連所問経』のごとし。仏、目連に告げたまわく、「たと
えば万川長流に草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがご
とし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死
を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるに由りて、後世に人となって、更にはなはだ
困劇して千仏の国土に生まるることを得ることあたわず。このゆえに我説かく、無量寿仏国
は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたわず。かえって九十五種の邪道
に事〈つか〉う。我この人を説きて、無眼人と名づく、無耳人と名づく」と。経教すでに
しかなり。何ぞ難を捨てて易行道に依らざらんと。已上。
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≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次所引者又上巻文。第三大門有四番料簡中。第四引聖教証成勧信求生。始引観仏三昧経文。
後引目連所問経文。今之所引是後文也。SYOZEN2-243/TAI2-423

次の所引は、また上巻の文なり。第三大門に四番の料簡ある中に、第四に聖教を引きて
証成して信を勧めて生を求めしむるに、始めに『観仏三昧経』の文を引き、後に
『目連所問経』の文を引く。今の所引はこれ後の文なり。

●re.84
ボン
関東の男性
[ 1680 ] Re84:教行信証・学習ノート2 2009/11/16 (Mon) 23:13 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。又如目連所問経。仏告目連。譬如万川長流有草木。前不顧後。後不顧前。都会大海。
>世間亦爾。雖有豪貴富楽自在。悉不得勉生老病死。只由不信仏経。後世為人更甚困劇。
>不能得生千仏国土。是故我説。無量寿仏国易往易取。而人不能修行往生。
>反事九十五種邪道。我説是人名無眼人。名無耳人。経教既爾。何不捨難依易行道矣。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(安楽集)また云わく、また『目連所問経』のごとし。仏、目連に告げたまわく、「たと
>えば万川長流に草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがご
>とし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死
>を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるに由りて、後世に人となって、更にはなはだ
>困劇して千仏の国土に生まるることを得ることあたわず。このゆえに我説かく、無量寿仏国
>は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたわず。かえって九十五種の邪道
>に事〈つか〉う。我この人を説きて、無眼人と名づく、無耳人と名づく」と。経教すでに
>しかなり。何ぞ難を捨てて易行道に依らざらんと。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (安楽集)また言うところでは、『目連所問経』のようである。仏は、目連に次のよ
  うに告げた。「たとえば、万の川の長い流れに草木があって、前の草木は後の草木を
  顧みず、後の草木は前の草木を顧みないで、そのすべてが大海にそそがれてから一緒
  になるようなものである。世間もまた同様である。豪貴富楽が思いのままなることが
  あったとしても、だれも生老病死をのがれることができない。ただ仏の経を信じない
  ために、後の世に人となって、なおいっそうはなはだしく悩み苦しみ、千の仏の国土
  に生まれることができないのである。だから私は次のように説く。無量寿仏の国は往
  きやすく、手に入れやすいのに、人は修行して往生することができない。かえって95
  種の邪道に仕える。私はこの人を、無眼人(眼のない人)と名づけ、無耳人(耳のない人)
  と名づける。」経教はすでにこのようになっている。どうして、難行道を捨てて易行道
  によらないのだろうか。

  WikiArcより
    困劇
      悩み苦しむこと。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次所引者又上巻文。第三大門有四番料簡中。第四引聖教証成勧信求生。始引観仏三昧経文。
>後引目連所問経文。今之所引是後文也。SYOZEN2-243/TAI2-423

>次の所引は、また上巻の文なり。第三大門に四番の料簡ある中に、第四に聖教を引きて
>証成して信を勧めて生を求めしむるに、始めに『観仏三昧経』の文を引き、後に
>『目連所問経』の文を引く。今の所引はこれ後の文なり。

  次の引用は、上巻の文である。第三大門に四番の解釈があるなかで、第四に聖教を
  引用して、それが真実であることを証明して、信(信心)を勧めて生(往生)を求めさせ
  るに、始めに『観仏三昧経』の文を引用し、後に『目連所問経』の文を引用する。
  この引用は後の文である。

  WikiArcより
    証成(証誠)
      真実であることを証明すること。

●re.85
ボン
関東の男性
[ 1681 ] Re85:教行信証・学習ノート2 2009/11/20 (Fri) 01:36 △up ▽down
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光明寺和尚云。又如文殊般若云。欲明一行三昧。唯勧独処空閑捨諸乱意。係心一仏不観相
貌。専称名字。即於念中得見彼阿弥陀仏及一切仏等。問曰。何故不令作観直遣専称名字者
有何意也。答曰。乃由衆生障重。境細心麁。識[ヨウ01]神飛。観難成就也。是以大聖悲憐直
勧専称名字。正由称名易故相続即生。問曰。既遣専称一仏。何故境現即多。此豈非邪正相
交一多雑現也。答曰。仏仏斉証。形無二別。縦使念一見多。乖何大道理也。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生礼讃)光明寺の和尚の云わく、また『文珠般若』に云うがごとし。一行三昧を明か
さんと欲わば、唯〈やや〉勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨て、心を一仏に
係けて、相貌を観ぜず、専ら名字を称すれば、すなわち念の中において、かの阿弥陀仏お
よび一切仏等を見ることを得といえり。問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、
直ちに専ら名字を称せしむるは、何の意かあるや。答えて曰わく、いまし衆生障重くして、
境は細なり、心は麁なり、識〈たましい〉アガり、神飛びて、観成就しがたきに由りてな
り。ここをもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名、
易きに由るがゆえに〈由 以周の反。行なり、経なり、従なり、用なり〉、相続してすな
わち生ず。問うて曰わく、すでに専ら一仏を称せしむるに、何がゆえぞ境、現ずることす
なわち多き。これ、あに邪正あい交わり、一多雑現するにあらずや。答えて曰わく、仏と
仏と斉しく証して、形、二の別なし。たとい一を念じて多を見ること、何の大道理にか乖
かんや。
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≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次光明寺和尚釈者。往生礼讃前序文也。問。彼礼讃中引文殊般若。其要何事耶。答。上具
釈成三心五念及四修已。結彼安心起行作業悉為称名一行之義。引用彼経一行三昧之文而已。
問。就今所引有二不審。一云見彼経説有二重義。初云仏言。法界一相。繋縁法界。是名一
行三昧。当先聞般若波羅蜜如説修学。然後能入一行三昧。如法界。縁不退不壊不思議無礙
無相。已上。後所説者今所用也。但文聊違。説此二義又結已云。如是一行三昧者。要知恒
沙仏法界無差別相。已上。如此等者。云一念法界。云無差別相。是経本意。何限称名云一
行耶。二云如経説者。応処空閑捨諸乱意不取相貌。繋心一仏専称名字。随仏方所端身正向。
能持一仏念念相続。已上。唯云一仏不謂弥陀何相違耶。答。先決初疑。経有理観専称二重。
各依所用取其一義。有何相違。是故天台約上理観。於彼常行三昧之下引之。今師約下専称
引之。経説二重各被機縁。次決後疑。経文之中雖不指名。意在弥陀。依之天台釈云。但専
以弥陀為法門主。妙楽又云。故以西方而為一準。何況大師以謂諸仏。既被弥陀。尤有其意。
般舟経中雖説過去諸仏持是三昧等。観念法門加阿弥陀三字。是又其義。問。就文殊般若二
重問答。初重問意可見。答中至云専称名字。是対前問。正由以下余二問歟如何。答。是探
仏意如此釈之。是仏密意。在開凡夫往生直路。或云説種種方便教門非一。但為我等倒見凡
夫。或云諸仏大悲於苦者。或云門門見仏得生浄土。処処解釈皆帯此意。可貴可貴。次問答
中。於其問詞含其意趣。一観経説若他観者名為邪観。違所観境是邪観故。若見弥陀若見諸
仏豈非邪耶。二見多仏其義是当多行三昧。其理已非一行三昧。答言中云。仏仏斉証形無二
別。二難共消。其義易見。


次に光明寺和尚の釈は『往生礼讃』の前序の文なり。問う。彼の『礼讃』の中に『文殊般若』
を引く。その要何事ぞや。答う。上に具に三心・五念及び四修を釈成し已わりて、彼の安心
・起行・作業は悉く称名一行のたる義を結すとして、彼の経の一行三昧の文を引用するのみ。

問う。今の所引に就きて二の不審あり。一に云わく、彼の経の説を見るに二重の義あり。
初に云わく「仏言わく、法界一相なり。縁を法界に繋ぐ、これを一行三昧と名づく。まさに
先ず般若波羅蜜を聞きて説の如く修学すべし。然して後に能く一行三昧に入りて、法界の如
く、不退・不壊・不思議・無礙・無相を縁ず」已上。後の所説は今の所用なり。ただ文は聊
か違す。この二義を説きて、また結し已わりて云わく「かくの如きの一行三昧は、要ず恒沙
の仏法界無差別の相を知る」已上。「かくの如き」等とは、一念法界といい、無差別相とい
う。これ経の本意なり。何ぞ称名に限りて一行というや。二に云わく、経説の如くとは、
「空閑に処して諸の乱意を捨して相貌を取らず、心を一仏に繋ぎて専ら名字を称し、仏の
方所に随いて端身正向し、能く一仏を持して念念に相続すべし」已上。ただ一仏といいて
弥陀といわず、何ぞ相違するや。

答う。先ず初の疑を決せば、経に理観・専称の二重あり。おのおの所用に依りてその一義
を取る。何の相違かあらん。この故に天台は上の理観に約して、彼の常行三昧の下に於い
てこれを引く。今師は下の専称に約してこれを引く。経に二重を説くこと、おのおの機縁
に被らしむ。次に後の疑を決せば、経文の中に名を指さずといえども、意は弥陀に在り。
これに依りて天台は釈して「ただ専ら弥陀を以て法門の主と為す」という。妙楽はまた
「故に西方を以て一準と為す」という。何に況んや大師は諸仏と謂うを以て既に弥陀に被
らしむ。尤もその意あり。『般舟経』の中に「過去の諸仏はこの三昧を持て」等と説くと
いえども、『観念法門』に阿弥陀の三字を加うるは、これまたその義なり。

問う。『文殊般若』二重の問答に就きて、初重の問の意は見つべし。答の中に「専称名字」
というに至るまでは、これ前の問に対す。「正由」以下は二問に余るか、如何。

答う。これ仏意を探りてかくの如くこれを釈す。これ仏の密意は、凡夫往生の直路を開く
に在り。或いは「種種の方便を説きて、教門は一にあらざることは、ただ我等倒見の凡夫
の為なり」といい、或いは「諸仏の大悲は苦者に於いてす」といい、或いは「門門見仏し
て浄土に生ずることを得」という。処処の解釈は皆この意を帯す。貴むべし貴むべし。

次の問答の中に、その問の詞に於いてその意趣を含む。一には『観経』に「もし他観する
を名づけて邪観と為す」と説く。所観の境に違するに、これ邪観なるが故に。もし弥陀を
見るに、もし諸仏を見れば、あに邪にあらずや。二には多仏を見るは、その義はこれ
多行三昧に当る。その理は已に一行三昧にあらず。答の言の中に「仏仏斉しく証して形に
二別なし」というに、二の難は共に消す。その義見易し。

●re.86
ボン
関東の男性
[ 1682 ] Re86:教行信証・学習ノート2 2009/11/20 (Fri) 01:38 △up ▽down
>-------------------------------------------------------------------------------
>光明寺和尚云。又如文殊般若云。欲明一行三昧。唯勧独処空閑捨諸乱意。係心一仏不観相
>貌。専称名字。即於念中得見彼阿弥陀仏及一切仏等。問曰。何故不令作観直遣専称名字者
>有何意也。答曰。乃由衆生障重。境細心麁。識[ヨウ01]神飛。観難成就也。是以大聖悲憐直
>勧専称名字。正由称名易故相続即生。問曰。既遣専称一仏。何故境現即多。此豈非邪正相
>交一多雑現也。答曰。仏仏斉証。形無二別。縦使念一見多。乖何大道理也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生礼讃)光明寺の和尚の云わく、また『文珠般若』に云うがごとし。一行三昧を明か
>さんと欲わば、唯〈やや〉勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨て、心を一仏に
>係けて、相貌を観ぜず、専ら名字を称すれば、すなわち念の中において、かの阿弥陀仏お
>よび一切仏等を見ることを得といえり。問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、
>直ちに専ら名字を称せしむるは、何の意かあるや。答えて曰わく、いまし衆生障重くして、
>境は細なり、心は麁なり、識〈たましい〉アガり、神飛びて、観成就しがたきに由りてな
>り。ここをもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名、
>易きに由るがゆえに〈由 以周の反。行なり、経なり、従なり、用なり〉、相続してすな
>わち生ず。問うて曰わく、すでに専ら一仏を称せしむるに、何がゆえぞ境、現ずることす
>なわち多き。これ、あに邪正あい交わり、一多雑現するにあらずや。答えて曰わく、仏と
>仏と斉しく証して、形、二の別なし。たとい一を念じて多を見ること、何の大道理にか乖
>かんや。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (往生礼讃)光明寺の和尚の言うとこるでは、また『文珠般若』に述べるとおりである。
  一行三昧を明らかにしようと思うならば、ただ次のように勧めるだけである。独り静
  かなところに身を置いて、もろもろの乱れた意(こころ)を捨てて、心を一仏(阿弥陀仏)
  に係けて、顔かたちを観ようとせず、もっぱら名字を称すれば、その念のなかで、
  その阿弥陀仏およびすべての仏などを見ることができるといえる。次のように問う。
  どうして「観」をなすことをしないで、直接に、もっぱら名字を称するように勧める
  のか。そこにはどんな意味があるのか。次のように答える。今となっては、衆生の障
  (さわり)は重く、境(観ぜられる対象)は細やかなのに心は粗末で、意識は舞い上がり、
  精神は飛び跳ねており、「観」を成就することは難しいからである。このようなわけ
  で、大聖(仏)はそれを悲しみ憐れんで、直接に、もっぱら名字を称するように勧めた
  のである。まさしく称名は容易であるがために、それを続けていって、(浄土に)生ず
  るのである。次のように問う。すでにもっぱら一仏(阿弥陀仏)を称しているのにもか
  かわらず、どうして境(観ぜられる対象)は、多く現われるのか。これでは、邪と正が
  混合し、一と多が雑然と現れることにはならないか。次のように答える。仏と仏とが
  均等に証して(仏果を得て)、その形に二とおりの区別があるわけではない。たとえ、
  一仏を念じて多くの仏を見ることになったとしても、どうして大きな道理に背くこと
  があろうか。

  WikiArcより
    光明寺
      長安(現在の陝西省西安)にあった善導大師(613-682)ゆかりの寺。三階院、
      浄土院などいくつかの院があった。道宣の『続高僧伝』巻二十七の記述によ
      り、善導大師の長安における布教活動の拠点であったことが知られる。
    一行三昧
      『文殊般若経』では、真如法界の平等一相を観ずることを一行三昧といい、
      この三昧に入るためにはもっぱら念仏せよとある。善導大師はこの意をう
      けてただ念仏の一行を修することを一行三昧とした。
    空閑
      静かなところ
    不二の心
      観ぜられる対象(境)の徳すなわち実相(絶対の真理)と、観ずる心とが境界
      不二となった心をいう。
    境現ずること
      一行三昧によって諸仏が現前することを指す。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に光明寺和尚の釈は『往生礼讃』の前序の文なり。問う。彼の『礼讃』の中に『文殊般若』
>を引く。その要何事ぞや。答う。上に具に三心・五念及び四修を釈成し已わりて、彼の安心
>・起行・作業は悉く称名一行のたる義を結すとして、彼の経の一行三昧の文を引用するのみ。

  次に光明寺の和尚の釈は『往生礼讃』の前序の文である。問う。その『礼讃』のなか
  で『文殊般若』を引用している。その要点は何か。答える。上に具体的に三心、五念、
  四修について釈を成し終わって、その安心・起行・作業は、ことごとく称名一行であ
  るという義に帰結するとして、その経(文殊般若)の一行三昧の文を引用しているにす
  ぎない。

  WikiArcより
    安心
      心を一処に安置して不動なこと。
        1.善導大師は『礼讃』に、起行、作業に対して願生の信心を確立するこ
         とを安心といわれた。
        2.その安心の相として至誠心・深心・回向発願心の三心を明かされたこ
         とから、三心即ち信心のことを安心ともいう。
        3.安心を「やすきこころ」と読み、他力の信心の取りやすく得やすいこ
         とを表す意とも解する。
    起行
      実践すること。行為。安心、作業に対する語。安心(信心)にもとづき、
      身・口・意の三業に起す。五念門または五正行をいう。
    作業
      行業を作すこと。安心・起行に対する語で、五念門あるいは五正行等の修し
      方のこと。すなわち、恭敬修・無余修・無間修・長時修の四修を指す。

●re.87
ボン
関東の男性
[ 1683 ] Re87:教行信証・学習ノート2 2009/11/20 (Fri) 01:39 △up ▽down
(つづき)

>問う。今の所引に就きて二の不審あり。一に云わく、彼の経の説を見るに二重の義あり。
>初に云わく「仏言わく、法界一相なり。縁を法界に繋ぐ、これを一行三昧と名づく。まさに
>先ず般若波羅蜜を聞きて説の如く修学すべし。然して後に能く一行三昧に入りて、法界の如
>く、不退・不壊・不思議・無礙・無相を縁ず」已上。後の所説は今の所用なり。ただ文は聊
>か違す。この二義を説きて、また結し已わりて云わく「かくの如きの一行三昧は、要ず恒沙
>の仏法界無差別の相を知る」已上。「かくの如き」等とは、一念法界といい、無差別相とい
>う。これ経の本意なり。何ぞ称名に限りて一行というや。二に云わく、経説の如くとは、
>「空閑に処して諸の乱意を捨して相貌を取らず、心を一仏に繋ぎて専ら名字を称し、仏の
>方所に随いて端身正向し、能く一仏を持して念念に相続すべし」已上。ただ一仏といいて
>弥陀といわず、何ぞ相違するや。

  問う。今の引用について二つの不審がある。一つは、その経の説を見ると二重の義が
  ある。初めに次のように述べる。「仏が言うには、法界は一つの相(すがた)である。
  縁を法界につなぐ、これを一行三昧と名づける。まさにまず、般若波羅蜜を聞いてそ
  の説のとおりに修学すべきである。そうした後に、一行三昧に入ることができて、
  それが法界のように、不退・不壊・不思議・無礙・無相の縁となる。」後の所説は、
  今の引用である。ただ文はいささか異なっている。この二つの義を説いて、また次の
  ように結論づける。「このような一行三昧は、無数の仏の法界が差別のない相(すがた)
  であると知ることを必要としている。」「このような・・・」等では、一念法界とい
  い、無差別の相(すがた)という。これは経の本意である。どうして称名に限って一行
  というのか。二つ目に次のように述べる。経説の如くとは、「静かなところに身を置
  いて、もろもろの乱意を捨てて、相貌(すがたかたち)を念頭に置かず、心を一仏に繋
  いで、もっぱら名字を称して、仏のおられる方角に向かって身をまっすぐに向けて、
  よく一仏を心に保って念々に相続すべきである」ただ一仏と言って弥陀とは言わない。
  これは何が違っているのか。

  WikiArcより
    法界
      梵語ダルマ・ダーツの漢訳。意識の対象となるすべてのものごと。全宇宙。
      あるがままの理法の世界などを指し、とくに大乗仏教では存在の根源の意味
      に用いて、一切の存在を真理のあらわれと見、法界を真如と同義語に使う。
    真如
      梵語タタターの漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありの
      ままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の
      本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。
    一行三昧
      『文殊般若経』では、真如法界の平等一相を観ずることを一行三昧といい、
      この三昧に入るためにはもっぱら念仏せよとある。善導大師はこの意をうけ
      てただ念仏の一行を修することを一行三昧とした。
    般若波羅蜜
      一切諸法の真空の理に達した智慧によってさとりの岸に至ること。六波羅蜜
      の智慧波羅蜜のこと。


>答う。先ず初の疑を決せば、経に理観・専称の二重あり。おのおの所用に依りてその一義
>を取る。何の相違かあらん。この故に天台は上の理観に約して、彼の常行三昧の下に於い
>てこれを引く。今師は下の専称に約してこれを引く。経に二重を説くこと、おのおの機縁
>に被らしむ。次に後の疑を決せば、経文の中に名を指さずといえども、意は弥陀に在り。
>これに依りて天台は釈して「ただ専ら弥陀を以て法門の主と為す」という。妙楽はまた
>「故に西方を以て一準と為す」という。何に況んや大師は諸仏と謂うを以て既に弥陀に被
>らしむ。尤もその意あり。『般舟経』の中に「過去の諸仏はこの三昧を持て」等と説くと
>いえども、『観念法門』に阿弥陀の三字を加うるは、これまたその義なり。

  答える。まず初めの疑問を解決するならば、経には、理観と専称の二重の見方がある。
  各自がその用いるところによって、その一つの見方を採用する。そこに何の相違があ
  るだろう。そういうわけだから、天台は前者の理観に絞って、あの常行三昧のもとに
  これを引用する。ここで師(善導大師)は、後者の専称に絞ってこれを引用する。経に
  二重の見方を説くことは、各自の機縁によるものである。次に後の疑問を解決するな
  らば、経文の中に名を指さないまでも、その意(こころ)は弥陀にある。これによって
  天台は釈して「ただ専ら弥陀を以て法門の主と為す」という。妙楽はまた「故に西方
  を以て一準と為す」という。ましてや、(善導)大師は、すでに諸仏ということを弥陀
  にあてはめている。もっとも、その意(こころ)はある。『般舟経』の中に「過去の
  諸仏はこの三昧を持て・・・」等と説いてはいるが、『観念法門』に阿弥陀の三字を
  加えるのは、これもまた、その義(いみ)である。

  WikiArcより
    般舟三昧
      梵語プラテュトパンナ・ブッダ・サンムカーヴァスティタ・サマーディの訳。
      諸仏現前三昧・仏立三昧ともいう。この三昧を得れば、十方の諸仏をまのあ
      たりに見ることができるという。
    観念法門
      一巻。善導大師(613-681)の著。『観経』『般舟三昧経』などによって、
      阿弥陀仏を観ずる形相・作法・功徳などが述べられている。なお現行本には
      『五種増上縁義』一巻が合本になっている。

  大辞林より
    理観
      教理によって示される抽象的真理を直接対象とする観法。
    常行三昧
      天台宗の摩訶止観に説く四種三昧の一。般舟三昧経に基づき、九〇日間、
      道場内で阿弥陀仏を念じて仏像の周囲を歩き回る。それによって諸仏が堂内
      に立ち並ぶのを見ることができるという。平安時代、浄土信仰の高まりにつ
      れて重視されるようになった。仏立三昧。般舟三昧。
    機縁
      本人に備わっている仏道に向かう能力(機根)がもたらす、
      教化を受ける機会(縁)。

  Wikipediaより
    湛然
      湛然(711年 - 782年)は中国・唐代の天台宗の僧侶。荊渓湛然と呼ばれ、
      また、妙楽大師と称された。天台宗の第6祖。


>問う。『文殊般若』二重の問答に就きて、初重の問の意は見つべし。答の中に「専称名字」
>というに至るまでは、これ前の問に対す。「正由」以下は二問に余るか、如何。

  問う。『文殊般若』の二重の問答について、初めの問いの意(こころ)を見るべきであ
  る。その答えのなかで、「専称名字」に至るまでは、前の問に対するものである。
  「正由」以下は、二つの問いを超えたものか、どうか。


>答う。これ仏意を探りてかくの如くこれを釈す。これ仏の密意は、凡夫往生の直路を開く
>に在り。或いは「種種の方便を説きて、教門は一にあらざることは、ただ我等倒見の凡夫
>の為なり」といい、或いは「諸仏の大悲は苦者に於いてす」といい、或いは「門門見仏し
>て浄土に生ずることを得」という。処処の解釈は皆この意を帯す。貴むべし貴むべし。

  答える。これは仏の意(こころ)を探って、そのとおりに釈したものである。仏の秘密
  の意(こころ)は、凡夫が往生する直接の路(みち)を開くことにある。「さまざまな
  方便を説き、教門が一つでないということは、ただ私たちのような見職のさかさまに
  なっているの凡夫のためである。」と言ったり、「諸仏の大悲は苦しい者に対するも
  のである。」言ったり、また「それぞれの法門において、仏を見て浄土に生ずること
  ができる」と言ったりもしている。それぞれの解釈は皆この(秘密の)意(こころ)を帯
  びている。くれぐれも、これを貴ぶべきである。


>次の問答の中に、その問の詞に於いてその意趣を含む。一には『観経』に「もし他観する
>を名づけて邪観と為す」と説く。所観の境に違するに、これ邪観なるが故に。もし弥陀を
>見るに、もし諸仏を見れば、あに邪にあらずや。二には多仏を見るは、その義はこれ
>多行三昧に当る。その理は已に一行三昧にあらず。答の言の中に「仏仏斉しく証して形に
>二別なし」というに、二の難は共に消す。その義見易し。

  次の問答のなかで、その問いの言葉に、その意(こころ)の趣きを含んでいる。一つに
  は『観経』に「もし、他を観ずることがあれば、それを邪観と名づける。」と説く。
  観るところの境(さかい)が違っていれば、これは邪観だからである。もし、弥陀を見
  ようとして、諸仏を見たとすれば、どうして邪ではないといえるだろうか。二つには
  多仏を見るというのは、その義(意味)は多行三昧に当る。その理由は、それがすでに
  一行三昧ではないからである。(しかし)答えの言葉のなかに「仏と仏は、等しく証し
  て、その形に違いはない。」ということで、二つの難点はともに消滅している。その
  義(意味)は分かりやすい。

●re.88
ボン
関東の男性
[ 1684 ] Re88:教行信証・学習ノート2 2009/11/21 (Sat) 02:27 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又如観経云。行勧座観礼念等。皆須面向西方者最勝。如樹先傾倒必随曲。
故必有事礙不及向西方者。但作向西想亦得。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生礼讃)また『観経』に云うがごとし。勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。みな須らく
面を西方に向かうは最勝なるべし。樹の先より傾けるが倒るるに、必ず曲がれるに随うが
ごとし。故に、必ず事の碍ありて西方に向かうに及ばずは、ただ西に向かう想を作すに、
また得たり。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

次言又如観経云者。一行三昧尊称之義。非唯文殊般若経説。於此観経又有其説。
是則随他之前雖説諸行。随自之後説念仏義。以此経説知彼経意。

次に「また観経にいうが如し」というは、一行三昧尊称の義は、ただ『文殊般若』の経説
のみにあらず、この『観経』に於いて、またその説あり。これ則ち随他の前には諸行を説
くといえども、随自の後には念仏の義を説く。この経の説を以て彼の経の意を知る。

●re.89
ボン
関東の男性
[ 1685 ] Re89:教行信証・学習ノート2 2009/11/21 (Sat) 02:28 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又如観経云。行勧座観礼念等。皆須面向西方者最勝。如樹先傾倒必随曲。
>故必有事礙不及向西方者。但作向西想亦得。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生礼讃)また『観経』に云うがごとし。勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。みな須らく
>面を西方に向かうは最勝なるべし。樹の先より傾けるが倒るるに、必ず曲がれるに随うが
>ごとし。故に、必ず事の碍ありて西方に向かうに及ばずは、ただ西に向かう想を作すに、
>また得たり。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (往生礼讃)また『観経』に述べるとおりである。勧めて、座観(座って観ずる)や
  礼念(礼拝と念仏)などを行わせる。それを行う者はみな、面(おもて)を西方に向ける
  べきであり、そうすることが最も勝れた方法である。それは、先端の傾いている樹が
  倒れるときに、必ず曲がっている方向にしたがって倒れるようなものである。そうい
  うわけだから、やむをえない事情があって、西方に向かうのとができない場合には、
  ただ西に向かう思いをなすだけでも、オーケーである。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次言又如観経云者。一行三昧尊称之義。非唯文殊般若経説。於此観経又有其説。
>是則随他之前雖説諸行。随自之後説念仏義。以此経説知彼経意。

>次に「また観経にいうが如し」というは、一行三昧尊称の義は、ただ『文殊般若』の経説
>のみにあらず、この『観経』に於いて、またその説あり。これ則ち随他の前には諸行を説
>くといえども、随自の後には念仏の義を説く。この経の説を以て彼の経の意を知る。

  次に「また『観経』に述べるとおりである」というのは、一行三昧と尊称(尊名を称す
  ること)の義は、ただ『文殊般若』の経説のみではなく、この『観経』にも、その説が
  あるということである。これは、随他意説の前には諸行を説くけれども、随自意説の
  後には念仏の義を説くということである。この経(観経)の説によって、
  その経(文殊般若)の意(こころ)を知るということである。

    随他意説
      仏が相手の意向や素質能力などに応じて説いた教え。
    随自意説
      仏がみずからの本意に随って説いた教え。

●re.90
ボン
関東の男性
[ 1686 ] Re90:教行信証・学習ノート2 2009/11/23 (Mon) 00:51 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
問曰。一切諸仏三身同証。悲智果円亦応無二。随方礼念課称一仏亦応得生。何故偏嘆西方
勧専礼念等。有何義也。

答曰。諸仏所証平等是一。若以願行来収〈取〉。非無因縁。然弥陀世尊本発深重誓願。
以光明名号摂化十方。但使信心求念。上尽一形下至十声一声等。以仏願力易得往生。
是故釈迦及以諸仏勧向西方為別異耳。亦非是称念余仏不能除障滅罪也。応知。
若能如上念念相続畢命為期者。十即十生。百即百生。何以故。無外雑縁得正念故。
与仏本願得相応故。不違教故。随順仏語故。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生礼讃)問うて曰わく、一切諸仏、三身同じく証し、悲智果円にして、また無二なる
べし。方に随いて一仏を礼念し課称せんに、また生まるることを得べし。何がゆえぞ、ひ
とえに西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、何の義があるや。

答えて曰わく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもって来し収むるに
〈取るに〉、因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明名号
をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声
・一声等に至るまで、仏の願力をもって往生を得易し。このゆえに釈迦および諸仏、勧め
て西方に向かうるを別異とするのみ。またこれ余仏を称念して、障を除き罪を滅すること
あたわざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念念相続して、畢命を期
とする者は、十即十生、百即百生なり。何をもってのゆえに。外の雑縁なくして、正念を
得るがゆえに、仏の本願と相応を得たるがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順す
るがゆえなりと。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
問曰一切諸仏等者。相対文殊般若観経。致此問也。所謂已云仏仏斉証形無二別。縦使念
一見多乖何大道理也。是述文殊般若之意。而問意者如観経者。偏嘆西方簡余九域。是故
上勧面向西方。然者何以相違之説成一義耶。是問意趣。就答詞中。問。既以仏仏平等之
義判云平等是一。何云若以願行等耶。答。果平等故。雖無勝劣。因差別故。即云本発深
重誓願。是以大乗止観下云。若離我執証得心体平等之時。実無十方三世之異。但本在因
地未離我執時。各別発願各修浄土。各化衆生。如是等業差別不同。薫於浄心心性依別薫
之力。故現此十方三世諸仏依正二報相別。非謂真如之体有此差別之相。以是義故。一切
諸仏常同常別古今法爾。已上。言以光明名号等者。六八願中十二十三両願意也。大集経
説諸仏出世有種種益。光明名号神通説法。但於其中。此土教主神通説法其利殊親。浄土
弥陀光明名号其益猶勝。但使等者十八願意。言信心者至心信楽。上尽等者乃至十念。仏
願力者若不生者誓願之意。易得往生即是願力成就故也。亦非等者。諸仏亦有除障滅罪随
分之益。然往生益唯在弥陀。若能如上念念等者。是明専雑二修得失。但今所引挙徳略失。
言如上者。問。三心五念四修皆悉可具足歟。随一往生可許之耶。答。一義云悉可具之。
若不具者不可往生。一義云。今約上輩求生浄土断貪瞋機。一切行者未必悉然。所謂二河
白道喩中。既云水火相交常無休息。於如此機争如上耶。念念相続無間修義。畢命為期長
時修養。但励自力念念難続。依他力益自然相続。十即十生百即百生。是顕仏願不虚之益。
是則荘厳所求満足功徳成就之故而已。第一得者。外者助業正定業外。雑者雑業。非唯助
業広亘雑行。其雑言者。対正対専共称雑故。縁者有三。謂教人処。第二得者。順弥陀仏
本願之義。第三得者。不違釈迦如来教義。第四得者。随順六方諸仏語義。各在其文。
不遑具述。
-------------------------------------------------------------------------------

「問うて曰わく、一切諸仏」等とは、『文殊般若』と『観経』とを相対して、この問を致
すなり。いわゆる已に「仏仏斉しく証して形に二別なし。たとい一を念じて多を見るとも、
何の大道理にか乖かん」というなり。これ『文殊般若』の意を述ぶ。而るに問の意は
『観経』の如しとは、偏に西方を嘆じて余の九域を簡〈きら〉う。この故に上に面を西方
に向うることを勧む。然れば何ぞ相違の説を以て一義を成ぜんや。これ問の意趣なり。
答の詞の中に就きて、問う、既に仏仏平等の義を以て判じて平等是一という。何ぞ「もし
願行を以て」等というや。答う。果は平等なるが故に勝劣なしといえども、因は差別せる
が故に即ち「もと深重の誓願を発して」という。これを以て『大乗止観』の下に云わく
「もし我執を離れて心体平等を証得する時は実に十方三世の異なし。ただし、もと因地に
在りて、未だ我執を離れざる時は、各別に願を発して、おのおの浄土を修し、おのおの
衆生を化す。かくの如き等の業の差別は不同なり。浄心に薫ずれば心性は別薫の力に依り
て、ことさらにこの十方三世の諸仏の依正二報の相の別なることを現ず。真如の体にこの
差別の相あるというにはあらず。この義を以ての故に、一切諸仏は常同常別なること古今
法爾なり」已上。

「光明名号を以て」等とは、六八の願の中に十二・十三両願の意なり。『大集経』に
「諸仏は出世して種種の益あり。光明名号神通説法なり」と説く。ただその中に於いて、
この土の教主は神通説法、その利、殊に親し。浄土の弥陀は光明名号、その益猶お勝れた
り。「但使」等とは十八願の意なり。「信心」というは至心信楽なり。「上尽」等とは
乃至十念なり。「仏願力」とは若不生者の誓願の意なり。「易得往生」は即ちこれ願力
成就の故なり。「亦非」等とは諸仏にまた除障滅罪随分の益あり。然も往生の益はただ
弥陀に在り。

「若能如上念念」等とは、これ専雑二修の得失を明かす。ただし今の所引は徳を挙げて失
を略す。「如上」というは、問う、三心・五念・四修は皆悉く具足すべきか。随一の往生
は、これを許すべきや。答う。一義に云わく、悉くこれを具すべし。もし具せざれば往生
すべからず。一義に云わく、今は上輩の浄土に求生し、貪瞋を断ずる機に約す。一切の
行者は未だ必ずしも悉く然らず。いわゆる二河の白道の喩の中に既に「水火あい交わって
常に休息することなし」という。かくの如きの機に於て、いかでか上の如くならんや。
「念念相続」は無間修の義なり。「畢命為期」とは長時修の義なり。ただし自力を励まば
念念に続きがたし。他力の益に依らば自然に相続して、十即十生・百即百生せん。これ
仏願不虚の益を顕わす。これ則ち荘厳所求満足功徳成就の故ならくのみ。

第一の得は、「外」とは助業・正定業の外なり。「雑」とは雑業なり。ただ助業のみにあ
らず、広く雑行に亘る。その雑の言は正に対し専に対す。共に雑と称するが故に。「縁」
とは三あり。謂く教と人と処となり。第二の得は、弥陀仏の本願に順ずる義なり。第三の
得は、釈迦如来の教に違せざる義なり。第四の得は、六方諸仏の語に随順する義なり。
おのおのその文に在り。具に述するに遑あらず。

●re.91
ボン
関東の男性
[ 1687 ] Re91:教行信証・学習ノート2 2009/11/23 (Mon) 00:56 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>問曰。一切諸仏三身同証。悲智果円亦応無二。随方礼念課称一仏亦応得生。何故偏嘆西方
>勧専礼念等。有何義也。

>答曰。諸仏所証平等是一。若以願行来収〈取〉。非無因縁。然弥陀世尊本発深重誓願。
>以光明名号摂化十方。但使信心求念。上尽一形下至十声一声等。以仏願力易得往生。
>是故釈迦及以諸仏勧向西方為別異耳。亦非是称念余仏不能除障滅罪也。応知。
>若能如上念念相続畢命為期者。十即十生。百即百生。何以故。無外雑縁得正念故。
>与仏本願得相応故。不違教故。随順仏語故。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生礼讃)問うて曰わく、一切諸仏、三身同じく証し、悲智果円にして、また無二なる
>べし。方に随いて一仏を礼念し課称せんに、また生まるることを得べし。何がゆえぞ、ひ
>とえに西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、何の義があるや。

>答えて曰わく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもって来し収むるに
>〈取るに〉、因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明名号
>をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声
>・一声等に至るまで、仏の願力をもって往生を得易し。このゆえに釈迦および諸仏、勧め
>て西方に向かうるを別異とするのみ。またこれ余仏を称念して、障を除き罪を滅すること
>あたわざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念念相続して、畢命を期
>とする者は、十即十生、百即百生なり。何をもってのゆえに。外の雑縁なくして、正念を
>得るがゆえに、仏の本願と相応を得たるがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順す
>るがゆえなりと。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (往生礼讃)
  次のように問う。すべての諸仏は、三身(法身・報身・応身)を仏果として同じように
  実現し、慈悲と智慧よりなる仏果の徳が欠けることなくそなわっていて、また、世に
  比類のないものである。そうであるならば、たまたま向いた方角にしたがって、一仏
  を礼拝し念じて、称することをつとめれば、それでもまた、(浄土に)生まれることが
  できるはずである。それなのにどうして、ひとえに西方を賞賛して、もっぱらそちら
  を礼拝し念ずることなどを勧めるのか。そこには、とのような義(意味)があるのか。

  次のように答える。諸仏が仏果として実現するものは平等で同一のものではあるが、
  もし、請願を立てて行を修めることによって来収(来取?)するにあたっては、そこに
  因縁(因と縁)がないということではない。そこで、弥陀世尊は、もとより深くて重い
  誓願を立てて、光明と名号によって十方の衆生を摂取し化益する。ただ衆生の信ずる
  心が念仏を求めるようにさせるならば、上は一生涯を尽くして念仏する者から、下は
  十声・一声などに至るまで、仏の願力によって簡単に往生を得ることができるのであ
  る。だから、釈迦および諸仏は、西方に向かうるように勧めることが、通常と異なっ
  ているいるだけである。また、ほかの仏を称念して、障(さわり)を取り除き、罪を消滅
  させることができないわけではないと、知るべきである。もし、上に述べたように念仏
  を持続させて、臨終を待つ者は、十人が十人とも浄土に生まれ、百人が百人とも浄土
  に生まれるのである。それはなぜかといえば、ほかの雑縁なくて、正念を得るためで
  あり、仏の本願と相応しているためであり、教えにたがわないためであり、仏の言葉
  にしたがっているためである。

  WikiArcより
    往生礼讃
      一巻。善導大師(613-681)の著。『往生礼讃偈』『六時礼讃偈』ともいう。
      日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中の六時にそれぞれ讃文を唱えて礼拝す
      る行儀を明かしたもの。
    悲智果円にして
      慈悲と智慧よりなる仏果の徳が欠けることなくそなわって。
    摂化
      摂取化益の略。衆生を救いとって、教化し利益をあたえること。
    畢命
      命がおわること。臨終。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「問うて曰わく、一切諸仏」等とは、『文殊般若』と『観経』とを相対して、この問を致
>すなり。いわゆる已に「仏仏斉しく証して形に二別なし。たとい一を念じて多を見るとも、
>何の大道理にか乖かん」というなり。これ『文殊般若』の意を述ぶ。而るに問の意は
>『観経』の如しとは、偏に西方を嘆じて余の九域を簡〈きら〉う。この故に上に面を西方
>に向うることを勧む。然れば何ぞ相違の説を以て一義を成ぜんや。これ問の意趣なり。
>答の詞の中に就きて、問う、既に仏仏平等の義を以て判じて平等是一という。何ぞ「もし
>願行を以て」等というや。答う。果は平等なるが故に勝劣なしといえども、因は差別せる
>が故に即ち「もと深重の誓願を発して」という。これを以て『大乗止観』の下に云わく
>「もし我執を離れて心体平等を証得する時は実に十方三世の異なし。ただし、もと因地に
>在りて、未だ我執を離れざる時は、各別に願を発して、おのおの浄土を修し、おのおの
>衆生を化す。かくの如き等の業の差別は不同なり。浄心に薫ずれば心性は別薫の力に依り
>て、ことさらにこの十方三世の諸仏の依正二報の相の別なることを現ず。真如の体にこの
>差別の相あるというにはあらず。この義を以ての故に、一切諸仏は常同常別なること古今
>法爾なり」已上。

  「次のように問う。すべての諸仏は・・・」等というのは、『文殊般若』と『観経』
  とを対比して、この問いを起こしている。すでに「仏と仏は同じように仏果を実現し
  て、その形に違いはない。たとえ一仏を念じて多仏を見たとしても、なんら大きな
  道理にそむくことはない。」と言っている。これは『文殊般若』の意(こころ)を述べ
  ている。そこで、問いの意(こころ)は、『観経』では、ひとえに西方を賞賛して、
  ほかの九つの区域を嫌っている。だから、上述のように、面(おもて)を西方に向ける
  ことを勧めている。だとすれば、どうして相い異なる説によって一義をなすことがで
  きるのか。これがこの問いの意趣である。答えの言葉について、問う。すでに「仏仏
  平等の義」から判断して、「平等是一」という。そこでどうして「請願を立てて行を
  修めることによって・・・」などと言うのか。答える。「果」は平等だから優劣がな
  いとはいうものの、「因」は差別があるために「もとより深くて重い誓願を立てて」
  というのである。このようわけだから『大乗止観』の下に次のように述べる。「もし、
  自分に対する執着を離れて、心体の平等を仏果として実現するときは、実に十方(どこ
  でも)三世(いつの世も)の違いはない。ただし、もとの因地(修行中の地位)にあるとき
  に、未だに自分に対する執着から離れていないときは、おのおの別に願を発して、お
  のおの浄土を修めて、おのおの衆生を教化する。このように「業」の差別はあって、
  みなな同じというわけではい。浄心において薫ずれば、心性は別の薫ずる力に依存す
  る。だから、この十方三世の諸仏の依正二報の相(すがた)が、異なるということがお
  こるのである。真如の体に、このような差別の相あるということではない。このよう
  なわけだから、すべての諸仏が、「常同常別(常に同じであって同じでない)」である
  はこと、古今の法のとおりである。」

  WikiArcより
    止観
      止は梵語シャマタの漢訳、観は梵語ヴィパシュヤナーの漢訳。もろもろのお
      もいを止めて心をひとつの対象に集中し(止)、それによって正しい智慧をお
      こして対象を観る(観)ことをいう。
    因地
       仏果をめざして修行中の菩薩の地位。因位ともいう。
    依正二報
      依報と正報の二種の果報。
        1.正報はまさしく過去の業の報いとして得た有情の心身をいい、
         依報はその心身のよりどころとなる国土・環境をいう。
        2.浄土の依正二報。阿弥陀仏と菩薩衆(聖衆)が正報にあたり、
         その国土が依報にあたる。
    真如
      梵語タタターの漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありの
      ままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の
      本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。

  大辞林より
    薫化
      徳によって人によい影響を与え、導くこと。
    薫育
      徳をもって人によい影響を与え、教え導くこと。薫陶化育。しつけ。
    薫陶
      人徳・品位などで人を感化し、よい方に導くこと。


>「光明名号を以て」等とは、六八の願の中に十二・十三両願の意なり。『大集経』に
>「諸仏は出世して種種の益あり。光明名号神通説法なり」と説く。ただその中に於いて、
>この土の教主は神通説法、その利、殊に親し。浄土の弥陀は光明名号、その益猶お勝れた
>り。「但使」等とは十八願の意なり。「信心」というは至心信楽なり。「上尽」等とは
>乃至十念なり。「仏願力」とは若不生者の誓願の意なり。「易得往生」は即ちこれ願力
>成就の故なり。「亦非」等とは諸仏にまた除障滅罪随分の益あり。然も往生の益はただ
>弥陀に在り。

  「光明と名号によって・・・」等というのは、48願のなかの12・13両願の意(こころ)
  である。『大集経』に「諸仏は世の出て、種々の益がある。それは光明・名号・神通
  ・説法である」と説く。ただ、そのなかで、この土の教主(釈尊)は、超人的な説法と
  その利益が、特に身近である。浄土の弥陀は光明と名号、その利益は、更に優れてい
  る。「但使・・・」等というのは十八願の意(こころ)である。「信心」というは
  「至心信楽(心を至して信じ楽う)」である。「上尽・・・」等というのは「乃至十念」
  である。「仏願力」とは「若不生者(もし生まれずば)」の誓願の意(こころ)である。
  「易得往生」というのは、願力が成就したためである。「亦非・・・」等というのは、
  諸仏にもまた、障(さわり)を除き、罪を滅ぼすという、それ相応の利益があるという
  ことである。そうであっても、往生の利益は、ただ弥陀にある。

  WikiArcより
    大集経
       『大方等大集経』のこと。六十巻。前二十六巻と「日密分」三巻は北涼の
       曇無讖訳、「無尽意品」四巻は智厳・宝雲共訳、「日蔵分」十二巻「月蔵分」
       十一巻「須弥蔵分」二巻は隋の那連提耶舎訳とされ、隋の僧就が一部とし
       てまとめたもの。
       仏が十方の仏・菩薩や諸天を集めて大乗の法を説いたもので、空思想に加
       えて、密教的要素が濃い。また「月蔵分」巻十には、五箇五百年(釈尊滅
       後の仏教の展開を五種の五百年に区切って表すもの)をあげ、末法のすが
       たを説く。

●re.92
ボン
関東の男性
[ 1688 ] Re92:教行信証・学習ノート2 2009/11/23 (Mon) 00:55 △up ▽down
(つづき)

>「若能如上念念」等とは、これ専雑二修の得失を明かす。ただし今の所引は徳を挙げて失
>を略す。「如上」というは、問う、三心・五念・四修は皆悉く具足すべきか。随一の往生
>は、これを許すべきや。答う。一義に云わく、悉くこれを具すべし。もし具せざれば往生
>すべからず。一義に云わく、今は上輩の浄土に求生し、貪瞋を断ずる機に約す。一切の
>行者は未だ必ずしも悉く然らず。いわゆる二河の白道の喩の中に既に「水火あい交わって
>常に休息することなし」という。かくの如きの機に於て、いかでか上の如くならんや。
>「念念相続」は無間修の義なり。「畢命為期」とは長時修の義なり。ただし自力を励まば
>念念に続きがたし。他力の益に依らば自然に相続して、十即十生・百即百生せん。これ
>仏願不虚の益を顕わす。これ則ち荘厳所求満足功徳成就の故ならくのみ。

  「上に述べたように念仏を持続させて・・・」等というところは、専修の長所と雑修
  の短所を明らかにしている。ただし、ここでの引用では、専修の長所を取り上げて、
  雑修の短所を省略している。そこで「上に述べたように」ということについて問う。
  三心・五念・四修は、みなことごとく満たさなければならないのだろうか。そのなか
  の一つだけに随って往生することは、許されるものだろうか。答える。ひとつの考え
  によれば、ことごとくこれを満たさなければならない。もし、それが満足されないな
  らば、往生はかなわない。しかし、もうひとちの考えによれば、これは、上輩が浄土
  に生まれようと求めて、貪と瞋を断ずる機に限って述べているということである。
  すべての行者が、ことごとくそのとおり(上輩)だとは、必ずしもいえない。いわゆる
  「二河の白道」のたとえのなかで既に「水と火があい交わって常に休息することがな
  い」と言っている。このような機が、どうして上のようになるだろうか。「念念相続」
  は「無間修」のことである。「畢命為期」は「長時修」のことである。ただし、自力
  を励むのであれば、念から念にと続けることは難しい。他力の利益によれば、自然と
  念仏が持続して、十人が十人とも、百人が百人とも浄土に生まれるであろう。これは、
  仏願がうそいつわりではないという利益を表わしている。これがすなわちち「荘厳所求
  満足功徳成就(求めるところが満足されることを荘厳する、その功徳が成就している)」
  といわれる理由なのである。

  WikiArcより
    専雑
      専修・雑修。
    専雑の得失
      専修の得と雑修の失。
    専修
      1.称名一行を修すること(他力)。
      2.称名一行を中心として五正行を相続すること(他力)。
      3.自力心をもって五正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)のうちの
       一行を専ら修すること(自力)。
    雑修
      いろいろの行を雑えて修し純一でないこと。専修に対する語。
      1.雑行を修すること。
      2.五正行中の正定業(称名)と助業(読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)を同格に
       みなして修すること。
      3.行は正行であっても、修する心が自力心である場合。
      4.専ら念仏を修しても、そのことをもって現世の福利を祈る場合。
    三心
      1.『大経』の三心。第十八願に誓われた至心・信楽・欲生。三信ともいう。
       この三心は、すべて信楽の一心に摂まる。
      2.『観経』に説く浄土往生に必要な三種の心。至誠心・深心・回向発願心。
       浄土真宗では、この三心について顕説と隠彰の両義を立て、顕の義では、
       自力の三心(諸善万行を修めて往生しようとするものの起す心)であるが、
       隠の義では利他、他力の三心であり、『大経』第十八願の三心と同一で
       ある(至誠心→至心、深心→信楽、回向発願心→欲生)とする。
    四修
      浄土教において行を修める四つのしかた。
        恭敬修。阿弥陀仏とその聖衆を恭敬礼拝すること。
        無余修。専ら仏の名を称え他の行いを雑えないこと。
        無間修。行を間断させず、また煩悩をまじえないこと。
        長時修。恭敬修・無余修・無間修を命終るまで修めつづけること。
    具足
      梵語プールナジットの漢訳。富那迦などと音写し、円満などと漢訳する。
    三輩
      『大経』に、浄土往生を願う三種のともがらをその修行の別によって上輩・
      中輩・下輩の三種に区別したもの。
        上輩
          出家して沙門となり、さとりを求める心をおこしてひたすらに
           無量寿仏を念じ、諸の功徳を修めるもの。
        中輩
          沙門となって大いに功徳を修めることはできないが、さとりを求め
          る心をおこしてひたすらに無量寿仏を念じ、多少に善を修めるもの。
        下輩
          たださとりを求める心をおこして、ひたすらに無量寿仏を念ずるもの。
      また、『観経』には九品の往生が説かれるが、その上三品を上輩、中三品を
      中輩、下三品を下輩としているから三輩の展開とみることができる。


>第一の得は、「外」とは助業・正定業の外なり。「雑」とは雑業なり。ただ助業のみにあ
>らず、広く雑行に亘る。その雑の言は正に対し専に対す。共に雑と称するが故に。「縁」
>とは三あり。謂く教と人と処となり。第二の得は、弥陀仏の本願に順ずる義なり。第三の
>得は、釈迦如来の教に違せざる義なり。第四の得は、六方諸仏の語に随順する義なり。
>おのおのその文に在り。具に述するに遑あらず。

  第一の得(外の雑縁なくして、正念を得るがゆえに)について言うと、「外」とは助業、
  つまり「正定業の外」である。「雑」とは雑業である。ただ助業というだけではなく、
  広く雑行にまでおよぶ。その「雑」という言葉は、「正」に対し、「専」に対する。
  (雑行も雑業も)ともに「雑」と言うからである。「縁」については、三つがある。
  それは、教と人と処と言われる。第二の得(仏の本願と相応を得たるがゆえに)は、
  弥陀仏の本願に順ずるという意味である。第三の得(教に違せざるがゆえに)は、釈迦
  如来の教えにたがわないという意味である。第四の得(仏語に随順するがゆえなりと)
  は、六方諸仏の語に従い順ずる意味である。おのおのが、その文にある。それについ
  ては、細かに述べるいとまがない。

  WikiArcより
    五正行
      善導大師の「散善義」に説く浄土往生の行業。
        1.読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
        2.観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
        3.礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
        4.称名正行。阿弥陀仏の名号(みょうごう)を称えること。
        5.讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげ
         て供養すること。
    助業
      五正行の中で、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆供養は、称名の助となり
      伴となる行業であるから助業という。
    正定業
      正しく衆生の往生が決定する業因。善導大師は阿弥陀仏の浄土へ往生する行と
      して五正行をあげ、その中第四の称名は、本願の行であるから正定業とされる。
    雑業
      専修念仏以外の雑多な行業。自力の雑行。
    雑行
      正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くこ
      とをめざす聖道門の行である諸善万行を往生行として転用したものであるか
      ら、このようにいう。化土の業因であるとされている。

●re.93
ボン
関東の男性
[ 1689 ] Re93:教行信証・学習ノート2 2009/11/23 (Mon) 20:13 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。唯観念仏衆生。摂取不捨故名阿弥陀。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生礼讃)また云わく、ただ念仏の衆生を観そなわして、摂取して捨てざるがゆえに、
阿弥陀と名づくと。已上。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云。唯観念仏等者。同六時中日没礼讃弥陀礼註。肝要文也。観経説云。光明遍照十方
世界念仏衆生。摂取不捨。已上。弥陀経云。彼仏光明無量照十方国無所障礙。
故名阿弥陀。已上。引合二経。顕其名義甚深利益。所謂観経雖説摂取不捨之益。
未顕弥陀名義之徳。阿弥陀経雖説弥陀名義之徳。未顕摂取不捨之益。
是故為顕小経所説之徳。無所障礙之光明者。為施摂取不捨之益。如此合説。其義応知。
-------------------------------------------------------------------------------

「又云。唯観念仏」等とは、同じき六時の中に、日没の礼讃の弥陀礼の註は肝要の文なり。
『観経』に説きて云わく「光明遍く十方世界の念仏の衆生を照らす。摂取して捨てたまわ
ず」已上。『弥陀経』に云わく「彼の仏の光明は無量にして十方国を照らして障礙する所
なし。故に阿弥陀と名づく」已上。二経を引き合わせて、その名義甚深の利益を顕わす。
いわゆる『観経』に摂取不捨の益を説くといえども、未だ弥陀の名義の徳を顕わさず。
『阿弥陀経』に弥陀の名義の徳を説くといえども、未だ摂取不捨の益を顕わさず。この故
に『小経』所説の徳、無所障礙の光明は、摂取不捨の益を施さんが為ためなることを顕わ
さんが為に、かくの如く合説す。その義知るべし。

●re.94
ボン
関東の男性
[ 1690 ] Re94:教行信証・学習ノート2 2009/11/23 (Mon) 20:14 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。唯観念仏衆生。摂取不捨故名阿弥陀。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生礼讃)また云わく、ただ念仏の衆生を観そなわして、摂取して捨てざるがゆえに、
>阿弥陀と名づくと。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (往生礼讃)
  また次のように述べる。ただ念仏の衆生を観て、摂取して捨てないことからに、
  阿弥陀と名づける。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「又云。唯観念仏」等とは、同じき六時の中に、日没の礼讃の弥陀礼の註は肝要の文なり。
>『観経』に説きて云わく「光明遍く十方世界の念仏の衆生を照らす。摂取して捨てたまわ
>ず」已上。『弥陀経』に云わく「彼の仏の光明は無量にして十方国を照らして障礙する所
>なし。故に阿弥陀と名づく」已上。二経を引き合わせて、その名義甚深の利益を顕わす。
>いわゆる『観経』に摂取不捨の益を説くといえども、未だ弥陀の名義の徳を顕わさず。
>『阿弥陀経』に弥陀の名義の徳を説くといえども、未だ摂取不捨の益を顕わさず。この故
>に『小経』所説の徳、無所障礙の光明は、摂取不捨の益を施さんが為ためなることを顕わ
>さんが為に、かくの如く合説す。その義知るべし。

  「又云。唯観念仏・・・」等についていうと、同じ六時(日没、初夜、中夜、後夜、
  晨朝、日中)のなかで、日没の礼讃の弥陀への礼拝のところの註(ここでの引用部分)
  は、重要な文である。『観経』では次のように説いている。「光明はあまねく、十方
  世界の念仏の衆生を照らす。摂取して捨てたまわず。」『弥陀経』では次のように述
  べる。「彼の仏の光明は、計り知れず、十方の国を照らして妨げられることがない。
  だから、阿弥陀と名づける。」この二つの経を引き合わせれば、その名義のはなはだ
  深い利益を明らかにする。いわゆる『観経』では摂取不捨の利益を説いてはいるが、
  弥陀の名義の徳を明らかにしているわけではない。それとは反対に『阿弥陀経』では
  弥陀の名義の徳を説いてはいあるが、摂取不捨の利益を明らかにしているわけではな
  い。だから、『小経』に説かれる徳である、妨げられることのない光明が、摂取不捨
  の利益を施そうとするものであることを明らかにするために、このようにふたつを合
  わせて説いている。その意味を理解すべきである。

    往生礼讃
      一巻。善導大師(613-681)の著。『往生礼讃偈』『六時礼讃偈』ともいう。
      日没、初夜、中夜、後夜、晨朝、日中の六時にそれぞれ讃文を唱えて礼拝す
      る行儀を明かしたもの。

●re.95
ボン
関東の男性
[ 1691 ] Re95:教行信証・学習ノート2 2009/11/23 (Mon) 21:08 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。弥陀智願海。深広無涯底。聞名欲往生。皆悉到彼国。設満大千火。直過聞仏名。
聞名歓喜讃。皆当得生彼。万年三宝滅。此経住百年。爾時聞一念。皆当得生彼。抄要。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生礼讃)また云わく、弥陀の智願海は深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと
欲えば、みなことごとくかの国に到ると。たとい大千に満てらん火をも、直ちに過ぎて
仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃すれば、みな当に彼に生ずることを得べし。万年に
三宝滅せんに、この経、住すること百年ならん。その時に聞きて一念せん、みな当に彼
に生ずることを得べしと。抄要。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次三偈者共是初夜礼讃之文。大経採集要文釈也。其中初偈採集本経。如来智慧海一四句偈。
其仏本願力一四句偈之解釈也。経云如来。釈云弥陀。是示諸仏即是弥陀。
弥陀乃是諸仏義也。観経説云。諸仏如来是法界身。礼讃釈云。弥陀身心遍法界等。
皆此義也。次之二偈其意可見。
-------------------------------------------------------------------------------

次の三偈は、共にこれ初夜の礼讃の文なり。『大経』の採集要文の釈なり。その中に初の
偈は本経の「如来智慧海」の一四句の偈、「其仏本願力」の一四句の偈を採集する解釈な
り。経には「如来」といい、釈には「弥陀」という。これ諸仏は即ちこれ弥陀、弥陀は乃
ちこれ諸仏なる義を示すなり。『観経』には説きて「諸仏如来はこれ法界の身なり」とい
い、『礼讃』には釈して「弥陀の身心は法界に遍す」等という。皆この義なり。次の二偈
は、その意、見つべし。

●re.96
ボン
関東の男性
[ 1692 ] Re96:教行信証・学習ノート2 2009/11/23 (Mon) 21:11 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。弥陀智願海。深広無涯底。聞名欲往生。皆悉到彼国。設満大千火。直過聞仏名。
>聞名歓喜讃。皆当得生彼。万年三宝滅。此経住百年。爾時聞一念。皆当得生彼。抄要。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生礼讃)また云わく、弥陀の智願海は深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと
>欲えば、みなことごとくかの国に到ると。たとい大千に満てらん火をも、直ちに過ぎて
>仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃すれば、みな当に彼に生ずることを得べし。万年に
>三宝滅せんに、この経、住すること百年ならん。その時に聞きて一念せん、みな当に彼
>に生ずることを得べしと。抄要。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (往生礼讃)
  また次のように述べる。弥陀の智願の海は、深くて広く、果てしなく底なしである。
  その名を聞いて往生しようと思えば、みなことごとく、かの国(極楽浄土)に到達する。
  たとえ大千世界に満ちているだろう火をも、直ちに通り過ぎて、仏の名を聞きなさい。
  その名を聞いて歓喜して讃嘆すれば、みなまさに彼(極楽浄土)に生ずることができる。
  一万年後に三宝(仏法僧)が消滅した後も、この経は、百年間は存続することになるだ
  ろう。その時に名を聞いて一念したとすると、みなまさに彼(極楽浄土)に生ずること
  ができる。抜粋。

  WikiArcより
    智願海
      阿弥陀仏の智慧からおこった本願(智願)の広大で深遠な徳を海に喩えていう。
    三宝
      仏教徒として帰依し供養すべき三つの宝。すなわち仏(さとりをひらいた人)
      ・法(その教え)・僧(その教えを受けてさとりをめざす集団)を三宝という。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の三偈は、共にこれ初夜の礼讃の文なり。『大経』の採集要文の釈なり。その中に初の
>偈は本経の「如来智慧海」の一四句の偈、「其仏本願力」の一四句の偈を採集する解釈な
>り。経には「如来」といい、釈には「弥陀」という。これ諸仏は即ちこれ弥陀、弥陀は乃
>ちこれ諸仏なる義を示すなり。『観経』には説きて「諸仏如来はこれ法界の身なり」とい
>い、『礼讃』には釈して「弥陀の身心は法界に遍す」等という。皆この義なり。次の二偈
>は、その意、見つべし。

  次の三っつ偈(詩文)は、どれも初夜の礼讃の文である。また。それは『大経』から採
  り集めた重要な文言の釈なり。そのなかの初めの偈は、本経(大経)の「如来智慧海」
  の14句の偈、「其仏本願力」の14句の偈を採り集めた解釈である。経では「如来」と
  言い、釈では「弥陀」と言う。これは、諸仏は弥陀であり、弥陀は諸仏であるという
  意味を示すものである。『観経』では、「諸仏如来は、法界の身である」と説き、
  『礼讃』では、「弥陀の身と心は、法界にあまねく存在する。」などと釈している。
  これはすべて、この意にである。その次の二偈は、その意(こころ)を、理解すべきで
  ある。

●re.97
ボン
関東の男性
[ 1693 ] Re97:教行信証・学習ノート2 2009/11/24 (Tue) 01:13 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。現是生死凡夫罪障深重輪回六道。苦不可言。今遇善知識得聞弥陀本願名号。
一心称念求願往生。願仏慈悲不捨本弘誓願。摂受弟子。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生礼讃)また云わく、現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪回せり。
苦しみ言うべからず。いま善知識に遇いて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。
一心称念して往生を求願す。願わくは、仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまわざれば、
弟子を摂受したまうべし。已上。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云現是生死等者。同発願文。或観念時。或睡眠時。勧心発願称仏之時可唱言也。
彼書引経粗明五種増上縁中。当段是明見仏縁釈。則次下云。不識弥陀仏身相光明。
願仏慈悲示現弟子身相観音勢至等相。[ドウ01]此語已。一心正念即随意入観及睡。
或有正発願時即得見之。或有睡眠時得見。除不至心。此願此来大有現験。已上。
-------------------------------------------------------------------------------

「また云わく、現にこれ生死」等とは、同じき発願の文なり。或いは観念の時、或いは
睡眠の時、心を勧めて願を発して仏を称する時、唱うべき言なり。彼の書に経を引きて、
ほぼ五種の増上縁を明かす中に、当段はこれ見仏縁を明かす釈なり。則ち次下に云わく
「弥陀仏の身相光明を識らず。願わくは仏の慈悲もて弟子に身相、観音・勢至等の相を
示現したまえ。この語をいい已わりて、一心正念にして、即ち意に随いて観に入り、
及び睡れ。或いは正しく願を発す時に即ちこれを見ることを得ることあり。或いは睡眠の
時に見ることを得ることあり。不至心を除く。この願、このごろ大いに現験あり」已上。

●re.98
ボン
関東の男性
[ 1694 ] Re98:教行信証・学習ノート2 2009/11/24 (Tue) 01:14 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。現是生死凡夫罪障深重輪回六道。苦不可言。今遇善知識得聞弥陀本願名号。
>一心称念求願往生。願仏慈悲不捨本弘誓願。摂受弟子。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生礼讃)また云わく、現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪回せり。
>苦しみ言うべからず。いま善知識に遇いて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。
>一心称念して往生を求願す。願わくは、仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまわざれば、
>弟子を摂受したまうべし。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (往生礼讃)
  また次のように述べる。現に、生死の凡夫の罪と障(さわり)は、深くて重く、六道を
  輪回する。その苦しみは、言いようがない。いま、善知識に会って、弥陀本願の名号
  を聞くことができた。一心に称念して、往生を求め願う。仏の慈悲が本弘誓願を捨て
  ず、弟子を包みこんで受け入れることを願う。

  WikiArcより
    本弘誓願
      阿弥陀仏が因位において弘く衆生を救おうと誓われた願。
    摂受
      慈悲心をもっておさめ取ること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「また云わく、現にこれ生死」等とは、同じき発願の文なり。或いは観念の時、或いは
>睡眠の時、心を勧めて願を発して仏を称する時、唱うべき言なり。彼の書に経を引きて、
>ほぼ五種の増上縁を明かす中に、当段はこれ見仏縁を明かす釈なり。則ち次下に云わく
>「弥陀仏の身相光明を識らず。願わくは仏の慈悲もて弟子に身相、観音・勢至等の相を
>示現したまえ。この語をいい已わりて、一心正念にして、即ち意に随いて観に入り、
>及び睡れ。或いは正しく願を発す時に即ちこれを見ることを得ることあり。或いは睡眠の
>時に見ることを得ることあり。不至心を除く。この願、このごろ大いに現験あり」已上。

  「また云わく、現にこれ生死・・・」等というのは、同じ発願の文である。観念の時
  や、睡眠の時に、心を勧めて願を発して仏を称する時に、唱うべき言葉である。彼の
  書(往生礼讃)で経を引用して、ほぼ五種類の増上縁を明らかにするなかで、当段は
  見仏の縁を明らかにした釈である。その次に続けて次のようにのべる。「弥陀仏の
  身相や光明を知らない。願わくは、仏の慈悲もって、弟子に(弥陀仏の)身相と、観音
  ・勢至などの相(すがた)を示し現わしたまえ。この言葉を言い終わって、一心に正念
  して、意(こころ)にしたがって観に入り、および、眠りなさい。もしかしたら、正し
  く願を発する時にこれを見ることができるかもしれない。または、眠っているときに
  それを見ることができるかもしれない。ただし、至心でない場合を除く。この願は、
  この時代においては、大いに現実的なききめがある」已上。

  WikiArcより
    発願
      浄土に生れたいという願いをおこすこと。
    観念
      心を静かにして真理または仏の相好や功徳などを観察思念すること。
    増上縁
      すぐれた因縁。
        1.縁となって果を引かせる強いはたらき。また因が果になることをさま
         たげないこと。
        2.浄土往生を得しめる阿弥陀仏の勝すぐれた力。
    一心正念
      第十八願文の三心十念のこと。
      一心とは他力の信心のこと。正念とは称名念仏のこと。
    至心
      まことの心。真実心。
        1.『大経』第十八願の三心の一。阿弥陀仏の衆生を救済せんとする真実心。
        2.『大経』第十九願・第二十願の至心。自力の真実心。

●re.99
菩提心
非公開の非公開
[ 1700 ] ボン様 すごいです。 2009/11/27 (Fri) 09:32 △up ▽down
ボン様

いつの間にか、新しいスレッドになっていました。

今度はプリントアウトじゃなくて、USBメモリに入れることにしました。

わたしには難しい内容ですが、でも分かるところも有ります。

有難うございます。

南无阿彌陀佛

●re.100
酒天童子
関東の男性
[ 1701 ] 学習ノートについて 2009/11/27 (Fri) 10:39 △up ▽down
ボン様

こんにちは、酒天童子です。

読んでいて、わずかな誤字に気づく以外は私にはご指摘できるような疑問も質問も今のところありませんので(それと余計な書き込みで文面を汚してはいけないともおもい)、書き込みいたしませんでしたがいつも楽しく読ませていただいています。

今後もこの様な意義のある活動を続けていただけるものと期待しております。

たとえ、反応は無くても私や菩提心様以外にもきっと、多くの方が読まれているに違いないと思います。

南无阿彌陀佛


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