浄土真宗の教義について

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●No.136
ボン
関東の男性
[ 1695 ] 教行信証・学習ノート3 2009/11/26 (Thu) 21:58 △up ▽down
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又云。問曰。称念礼観阿弥陀仏。現世有何功徳利益。答曰。若称阿弥陀仏一声。即能除滅
八十億劫生死重罪。礼念已下亦如是。十往生経云。若有衆生念阿弥陀仏願往生者。彼仏
即遣二十五菩薩擁護行者。若行若座若住若臥。若昼若夜。一切時一切処。不令悪鬼悪神
得其便也。又如観経云。若称礼念阿弥陀仏願往生彼国者。彼仏即遣無数化仏無数化観音
勢至菩薩護念行者。復与前二十五菩薩等。百重千重囲遶行者。不問行住座臥一切時処若
昼若夜。常不離行者。今既有斯勝益。可憑。願諸行者各須至心求往。又如無量寿経云。
若我成仏。十方衆生称我名号下至十声。若不生者不取正覚。彼仏今現在成仏。
当知本誓重願不虚。衆生称念必得往生。又如弥陀経云。若有衆生聞説阿弥陀仏。
即応執持名号。若一日若二日乃至七日。一心称仏不乱。命欲終時。阿弥陀仏与諸聖衆現
在其前。此人終時。心不顛倒即得往生彼国。仏告舎利弗。我見是利故説是言。若有衆生
聞是説者。応当発願願生彼国。次下説云。東方如恒河沙等諸仏。南西北方及上下。一一
方如恒河沙等諸仏。各於本国出其舌相。遍覆三千大千世界説誠実言。汝等衆生皆応信是
一切諸仏所護念経。云何名護念経。若有衆生称念阿弥陀仏。若七日及一日下至一声乃至
十声一念等。必得往生。証成此事故名護念経。次下文云。若称仏往生者。常為六方恒河
沙等諸仏之所護念。故名護念経。今既有此増上誓願。可憑。諸仏子等何不励意去也。
智昇法師集諸経礼懺儀下巻者。善導和尚礼懺也。依之。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生礼讃)また云わく、問うて曰わく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世にいかなる
功徳利益あるや。答えて曰わく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなわちよく
八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念已下もまたかくのごとし。

『十往生経』に云わく、もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すな
わち二十五菩薩を遣わして行者を擁護して、もしは行、もしは座、もしは住、もしは臥、
もしは昼、もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼悪神をしてその便りを得せしめざるなり。
また『観経』に云うがごとし、もし阿弥陀仏を称礼念してかの国に往生せんと願えば、
かの仏、すなわち無数の化仏・無数の化観音・勢至菩薩を遣わして、行者を護念したまう。
また前の二十五菩薩等と、百重千重、行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、
もしは夜を問わず、常に行者を離れたまわず。いますでにこの勝益まします、憑むべし。
願わくはもろもろの行者、おのおの至心を須いて往くことを求めよ。

また『無量寿経』に云うがごとし、もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん、
下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。かの仏、いま現にましまして成仏し
たまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからざることを、衆生称念すれば必ず往生を得と。

また『弥陀経』に云うがごとし、もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなわち
名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ、
命終わらんとする時、阿弥陀仏と、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。この
人終わらん時、心顛倒せず、すなわちかの国に往生することを得ん。仏、舎利弗に告げた
まわく、我、この利を見るがゆえに、この言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かん者は、
まさに願を発し、かの国に生まれんと願ずべし。次下に説きて云わく、東方如恒河沙等の
諸仏、南西北方および上下、一一の方に如恒河沙等の諸仏、おのおの本国にして、その
舌相を出だして、あまねく三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等
〈なんたち〉衆生、みなこの一切諸仏の護念したまうところの経を信ずべし。

いかんが護念経と名づくる。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、
一日、下至一声、乃至十声、一念等に及ぶまで、必ず往生を得と。この事を証成せるがゆ
えに、護念経と名づく。次下の文に云わく、もし仏を称して往生する者は、常に六万恒河
沙等の諸仏のために護念せらる。故に護念経と名づく。いますでにこの増上の誓願います。
憑むべし。もろもろの仏子等、何ぞ意を励まして去かざらんやと。

智昇法師『集諸経礼懴儀』下巻は善導和尚の礼懴なり、これに依る。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次所引等併如本文。初一問答。明滅罪縁。十往生経及観経説明護念縁。問。観経不見説護
念益之文如何。答。普観文云。無量寿仏化身無数。与観世音大勢至。常来至此行人之所。
已上。依此文也。問。雖言菩薩不挙二十五。雖言来至不謂護念如何。答。五五菩薩極楽聖
衆。観音勢至挙其上首。必可有之。理在絶言。又云常来不離之義。不離即是護念義也。

次大経文第十八願取意之文。明摂生縁。言摂生者即是往生。如来摂取衆生義也。問。
第十八願以至心等三信為要。何除至心信楽之句。今加称我名号句耶。此句願文無之云何。
答。此有深意。今所言之称我名号。則示本経至心信楽欲生之意。所以然者。至心等者
称仏名号得往生益。是仏本願。如此信知是名至心信楽欲生。故発此心。即是称我名号之義。
為顕此意除彼加此。其義可知。

次小経文明証生縁。言証生者。即是証誠。証凡夫之往生義也。言云何名護念等者。是指
六方諸仏証誠名護念也。次下文云若称等者指於汝意以下之文。是亘釈迦諸仏証誠。
下説汝等皆当信受我語及諸仏所説故也。問。五種増上縁之中。護念与今護念同異如何。
答。五中護念是現生益。今護念者出世益也。是則如云六方諸仏護念信心。
今経小経所云護念其意在斯。
-------------------------------------------------------------------------------

次に所引等、しかしながら本文の如し。初の一の問答は滅罪縁を明かし、『十往生経』
及び『観経』の説は護念縁を明かす。問う。『観経』に護念の益を説く文を見ず、いかん。
答う。普観の文に云わく「無量寿仏化身無数なり。観世音・大勢至と常にこの行人の所に
来至す」已上。この文に依るなり。問う。菩薩といえども二十五を挙げず。来至というと
いえども護念をいわず、いかん。答う。五五の菩薩は極楽の聖衆にして、観音・勢至はそ
の上首を挙ぐ。必ずこれあるべきこと理在絶言なり。また常来というは不離の義なり、
不離は即ちこれ護念の義なり。

次に『大経』の文、第十八の願、取意の文は、摂生縁を明かす。摂生というは、即ちこれ
往生なり。如来摂取衆生の義なり。問う。第十八願は至心等の三信を以て要と為す。何ぞ
至心信楽の句を除きて、今「称我名号」の句を加うるや耶。この句は願文にこれなし、
いかん。答う。これに深意あり。今いう所の称我名号は、則ち本経の至心信楽欲生の意を
示す。然る所以は、至心等とは、仏の名号を称して往生の益を得るなり。これ仏の本願な
り。かくの如く信知する、これを至心信楽欲生と名づく。故にこの心を発す。即ちこれ
称我名号の義なり。この意を顕さんが為に彼を除きてこれを加う。その義知りぬべし。

次に『小経』の文は証生縁を明かす。証生というは、即ちこれ証誠、
凡夫の往生を証する義なり。「いかんが護念と名づくる」等というは、これ六方の諸仏の
証誠を指して護念と名づくるなり。次下の文に「若称」等というは、「於汝意」以下の文
を指すなり。これは釈迦・諸仏の証誠に亘る。下に「汝ら皆、まさに我が語及び諸仏の
所説を信受すべし」と説くが故なり。問う。五種の増上縁の中の護念と今の護念と同異い
かん。答う。五の中の護念はこれ現生の益なり。今の護念は出世の益なり。これ則ち六方
の諸仏は信心を護念すというが如し。今経『小経』にいう所の護念は、その意ここに在り。

●re.1
ボン
関東の男性
[ 1696 ] Re1:教行信証・学習ノート3 2009/11/27 (Fri) 03:30 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。問曰。称念礼観阿弥陀仏。現世有何功徳利益。答曰。若称阿弥陀仏一声。即能除滅
>八十億劫生死重罪。礼念已下亦如是。十往生経云。若有衆生念阿弥陀仏願往生者。彼仏
>即遣二十五菩薩擁護行者。若行若座若住若臥。若昼若夜。一切時一切処。不令悪鬼悪神
>得其便也。又如観経云。若称礼念阿弥陀仏願往生彼国者。彼仏即遣無数化仏無数化観音
>勢至菩薩護念行者。復与前二十五菩薩等。百重千重囲遶行者。不問行住座臥一切時処若
>昼若夜。常不離行者。今既有斯勝益。可憑。願諸行者各須至心求往。又如無量寿経云。
>若我成仏。十方衆生称我名号下至十声。若不生者不取正覚。彼仏今現在成仏。
>当知本誓重願不虚。衆生称念必得往生。又如弥陀経云。若有衆生聞説阿弥陀仏。
>即応執持名号。若一日若二日乃至七日。一心称仏不乱。命欲終時。阿弥陀仏与諸聖衆現
>在其前。此人終時。心不顛倒即得往生彼国。仏告舎利弗。我見是利故説是言。若有衆生
>聞是説者。応当発願願生彼国。次下説云。東方如恒河沙等諸仏。南西北方及上下。一一
>方如恒河沙等諸仏。各於本国出其舌相。遍覆三千大千世界説誠実言。汝等衆生皆応信是
>一切諸仏所護念経。云何名護念経。若有衆生称念阿弥陀仏。若七日及一日下至一声乃至
>十声一念等。必得往生。証成此事故名護念経。次下文云。若称仏往生者。常為六方恒河
>沙等諸仏之所護念。故名護念経。今既有此増上誓願。可憑。諸仏子等何不励意去也。
>智昇法師集諸経礼懺儀下巻者。善導和尚礼懺也。依之。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生礼讃)また云わく、問うて曰わく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世にいかなる
>功徳利益あるや。答えて曰わく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなわちよく
>八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念已下もまたかくのごとし。

>『十往生経』に云わく、もし衆生ありて、阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すな
>わち二十五菩薩を遣わして行者を擁護して、もしは行、もしは座、もしは住、もしは臥、
>もしは昼、もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼悪神をしてその便りを得せしめざるなり。
>また『観経』に云うがごとし、もし阿弥陀仏を称礼念してかの国に往生せんと願えば、
>かの仏、すなわち無数の化仏・無数の化観音・勢至菩薩を遣わして、行者を護念したまう。
>また前の二十五菩薩等と、百重千重、行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、
>もしは夜を問わず、常に行者を離れたまわず。いますでにこの勝益まします、憑むべし。
>願わくはもろもろの行者、おのおの至心を須いて往くことを求めよ。

>また『無量寿経』に云うがごとし、もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん、
>下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。かの仏、いま現にましまして成仏し
>たまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからざることを、衆生称念すれば必ず往生を得と。

>また『弥陀経』に云うがごとし、もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなわち
>名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ、
>命終わらんとする時、阿弥陀仏と、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん。この
>人終わらん時、心顛倒せず、すなわちかの国に往生することを得ん。仏、舎利弗に告げた
>まわく、我、この利を見るがゆえに、この言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かん者は、
>まさに願を発し、かの国に生まれんと願ずべし。次下に説きて云わく、東方如恒河沙等の
>諸仏、南西北方および上下、一一の方に如恒河沙等の諸仏、おのおの本国にして、その
>舌相を出だして、あまねく三千大千世界に覆いて、誠実の言を説きたまわく、汝等
>〈なんたち〉衆生、みなこの一切諸仏の護念したまうところの経を信ずべし。

>いかんが護念経と名づくる。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、
>一日、下至一声、乃至十声、一念等に及ぶまで、必ず往生を得と。この事を証成せるがゆ
>えに、護念経と名づく。次下の文に云わく、もし仏を称して往生する者は、常に六万恒河
>沙等の諸仏のために護念せらる。故に護念経と名づく。いますでにこの増上の誓願います。
>憑むべし。もろもろの仏子等、何ぞ意を励まして去かざらんやと。

>智昇法師『集諸経礼懴儀』下巻は善導和尚の礼懴なり、これに依る。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (往生礼讃)
  また言うところでは、次のように問う。阿弥陀仏を称えて念じ、礼拝して、観察すれ
  ば、現世においてどのような功徳と利益あるのか。次のように答える。もし、阿弥陀仏
  を一声でも称すれば、八十億劫にわたり生死を繰り返すなかで作った重い罪を除滅す
  ることができる。礼拝や念仏の以下についても同様である。

  『十往生経』では次のように述べている。もし、衆生が、阿弥陀仏を念じて、往生を
  願ずれば、かの仏は二十五菩薩を遣わして、その行者を助けて守り、行動していると
  きも、座っているときも、とどまっているときも、臥せているときも、昼も、夜も、
  いっさいの時、いっさいのところに、悪鬼や悪神が影響をあたえることができないよ
  うにしている。また、『観経』で言うように、もし、阿弥陀仏を称し、礼拝し、念じ
  て、かの国に往生したいと願えば、その仏(阿弥陀仏)は、無数の化仏、無数の化観音
  や化勢至菩薩を遣わして、その行者を全力で守ってくれる。また、前述の二十五菩薩
  等とともに、百重にも千重にも行者を取り囲み、行住座臥に、いっさいの時と場所で、
  昼夜を問わず、常に行者から離れない。いますでに、このすぐれた利益が存在する。
  それを憑(たの)むべきである。願わくは、もろもろの行者、おのおのが至心に(浄土
  に)往くことを求めよ。

  WikiArcより
    十往生経
      『十往生阿弥陀仏国経』のこと。一巻。阿弥陀仏の浄土へ往生するのに十種
      の方法があること、またこの経を信ずるものは二十五菩薩の護持を受けるこ
      とが説かれている。『貞元禄』では疑経としている。
    行住座臥
      行は歩くこと、住はとどまること、座はすわること、臥は臥すこと。
      また、いつも、常にという意味にも用いる。

  また『無量寿経』に言うとおりである。もし、私が仏に成ろうとするときに、十方の
  衆生が、私の名号を称したとしたら、下は十声に至るまで、もし(浄土に)生まれなか
  ったとしたら、正しい覚(さとり)を開かないだろう。その仏が、いま現におられて仏
  となられた。まさに知るべきであえる。この誓いの重願がうそいつわりではないこと
  を、また、衆生が称し念ずれば必ず往生することができるということを。

  また『弥陀経』に言うとおりである。もし、衆生が阿弥陀仏を説くのを聞いて、名号
  をしっかりとたもつとしよう。仮に一日でも、二日でも、乃至、七日でも、一心に仏
  を称して乱れることがなければ、命が終わろうとする時に、阿弥陀仏と、もろもろの
  菩薩たちとが、その前に現れるであろう。この人が命を終えようとするときに、心が
  逆さまにならず、かの国に往生することができるであろう。仏は、舎利弗に告げて次
  のように述べる。私は、この利益を見ているから、この言を説くものである。もし、
  この説を聞こうとする衆生は、まさに願を発して、かの国に生まれようと願うべきで
  ある。次からあとに以下のように説く。東方の無数の諸仏、南西北方および上下の、
  一つ一つの方角の無数の諸仏が、それぞれの本国にあって、その舌相を出だして、
  あまねく三千大千世界にわたって、誠実の言葉で次のように説く。あなたがた衆生は、
  みなこの一切の諸仏が(あなたがた衆生を)こころを込めて守るという、この経を信じ
  るべきである。

  WikiArcより
    聖衆
      菩薩たち。
    舌相
      広長舌相は仏の三十二相の一。仏の舌は広く長くてその顔をおおうといわれ
      る。ここでは三千大千世界をおおうとされている。仏が舌を出すのは教説が
      真実であることを証明する意味を持つ。

  なぜこれ(阿弥陀経)を「護念経」と名づけるのか。もし、衆生が、阿弥陀仏を称念し
  て、七日でも、一日でも、下は一声に至いたるまで、ないし、十声、一念等に及ぶま
  で、必ず往生を得る。この事が真実であることを証明するために、「護念経」と名づ
  ける。次からあとの文に以下のように述べる。もし仏を称して往生する者は、常に
  無数の諸仏が心を込めて守っている。だから「護念経」と名づける。いますでに、
  この強力な誓願が存在している。これを憑(たの)むべきである。もろもろの仏の子ら
  は、どうして意を励まして(生死の世界から)去ろうとしないことがあろうか。

  智昇法師の『集諸経礼懴儀』下巻は、善導和尚の「往生礼讃」である。ここでは
  これによる。

  WikiArcより
    護念
      心にかけてまもること。

●re.2
ボン
関東の男性
[ 1697 ] Re2:教行信証・学習ノート3 2009/11/26 (Thu) 22:00 △up ▽down
(つづき)

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に所引等、しかしながら本文の如し。初の一の問答は滅罪縁を明かし、『十往生経』
>及び『観経』の説は護念縁を明かす。問う。『観経』に護念の益を説く文を見ず、いかん。
>答う。普観の文に云わく「無量寿仏化身無数なり。観世音・大勢至と常にこの行人の所に
>来至す」已上。この文に依るなり。問う。菩薩といえども二十五を挙げず。来至というと
>いえども護念をいわず、いかん。答う。五五の菩薩は極楽の聖衆にして、観音・勢至はそ
>の上首を挙ぐ。必ずこれあるべきこと理在絶言なり。また常来というは不離の義なり、
>不離は即ちこれ護念の義なり。

>次に『大経』の文、第十八の願、取意の文は、摂生縁を明かす。摂生というは、即ちこれ
>往生なり。如来摂取衆生の義なり。問う。第十八願は至心等の三信を以て要と為す。何ぞ
>至心信楽の句を除きて、今「称我名号」の句を加うるや耶。この句は願文にこれなし、
>いかん。答う。これに深意あり。今いう所の称我名号は、則ち本経の至心信楽欲生の意を
>示す。然る所以は、至心等とは、仏の名号を称して往生の益を得るなり。これ仏の本願な
>り。かくの如く信知する、これを至心信楽欲生と名づく。故にこの心を発す。即ちこれ
>称我名号の義なり。この意を顕さんが為に彼を除きてこれを加う。その義知りぬべし。

>次に『小経』の文は証生縁を明かす。証生というは、即ちこれ証誠、
>凡夫の往生を証する義なり。「いかんが護念と名づくる」等というは、これ六方の諸仏の
>証誠を指して護念と名づくるなり。次下の文に「若称」等というは、「於汝意」以下の文
>を指すなり。これは釈迦・諸仏の証誠に亘る。下に「汝ら皆、まさに我が語及び諸仏の
>所説を信受すべし」と説くが故なり。問う。五種の増上縁の中の護念と今の護念と同異い
>かん。答う。五の中の護念はこれ現生の益なり。今の護念は出世の益なり。これ則ち六方
>の諸仏は信心を護念すというが如し。今経『小経』にいう所の護念は、その意ここに在り。

  次に引用するところなどは、しかしながら本文のとおりである。初めの一つの問答は
  滅罪の縁を明らかにし、『十往生経』および『観経』の説は、護念(心を込めて守る)
  の縁を明らかにする。問う。『観経』に護念の利益を説く文を見ないが、どうか。
  答える。普観の文で次のように述べる。「無量寿仏の化身は無数である。観世音・
  大勢至とともに、常にこの行人の所にやってくる。」この文に依るものである。問う。
  菩薩とはいうが、二十五を挙げていない。「来至(やってくる)」とは言うものの、
  「護念(心を込めて守る)」とは言っていないが、どうか。答える。五五の菩薩は、
  極楽の聖なる衆であって、観音・勢至はその最上位のものである。必ずそのようであ
  ることは、理があり、あえて言うまでもないことである。また「常来(常にきている)」
  というのは「不離(離れない)」という意味であり、「不離(離れない)」は、すなわち
  「護念(心を込めて守る)」という意味である。

  WikiArcより
    普観
      観想者自身の浄土に往生するさまを観ずること。
    上首
      教団の指導的役割を果たす人、最上位にあるものをいう。


  次に『大経』の文、第十八の願の取意の文は、摂生の縁を明らかにしている。摂生と
  いうのは、これは往生である。「如来摂取衆生」という意味である。問う。第十八願
  は、至心などの三信が要となっている。どうして「至心信楽・・・」の句を除いて、
  ここでは「称我名号」の句を加えるのか。この句は、願文にはないが、どうか。答え
  る。これには深い意味がある。ここでいう「称我名号」は、本経の「至心信楽欲生」
  の意(こころ)を示すものである。その理由は、「至心・・・」等というのは、仏の
  名号を称して往生の利益を得ることである。これは仏の本願である。かくの如く信知
  する、これを「至心信楽欲生」と名づける。だから、この心をおこす。すなわち、
  これは「称我名号」の意味である。この意(こころ)を明らかにするために、そを除い
  てこれを加える。その意味を理解するべきである。

  次に『小経』の文は、証生の縁を明らかにしている。証生というのは、証誠(真実で
  あることの証明)、凡夫の往生を証明するという意味である。「いかんが護念と名づ
  くる」等については、六方の諸仏の証誠(真実であることの証明)を指し示して、護念
  と名づけている。次から下の文に「若称」等というは、「於汝意」以下の文を指して
  いる。これは、釈迦・諸仏の証誠にまで及ぶ。それは、そのあとに「あなたがたは、
  みな、まさに私の言葉や諸仏の説くところを信じて受け入れるべきである。」と説い
  ているからである。問う。五種の増上縁のなかの護念と、ここでの護念とは、同じで
  あるのか、それとも異なっているのか。答える。五種の増上縁のなかの護念は、現生
  の利益である。ここでの護念は出世間の利益である。これは、すなわち、六方の諸仏
  は信心を護念する、というようなものである。ここでいう経『小経』に言うところの
  護念について、その意(こころ)は、ここにある。

  WikiArcより
    三縁
      阿弥陀仏が念仏の衆生を摂取する三種の深いかかわりのこと。
        1.親縁
           衆生が口で仏名を称え、身で仏を礼拝し、意で仏を念ずるとき、
           これらを仏は聞き、見、知って衆生と仏とは互いに憶念し合うと
           いう密接不離の関係にあること。
        2.近縁
           衆生が仏を見たいと願えば目前にあらわれるという関係にあること。
        3.増上縁
           衆生が名号を称えれば多劫の罪を除き、命の終るときに仏は聖衆
           とともに来迎して、罪業の繋縛に障碍されず往生させること。
    増上縁
      すぐれた因縁。
        1.縁となって果を引かせる強いはたらき。また因が果になることをさま
         たげないこと。
        2.浄土往生を得しめる阿弥陀仏の勝すぐれた力。
    五種増上縁
      滅罪・護念・見仏・摂生・証生
    出世
      1.仏が世に出現すること。
      2.出世間の略。世間を超出した悟りの境界のこと。少しもけがれのないこと。
      3.世間を捨てて仏道に入ること。

●re.3
ボン
関東の男性
[ 1698 ] Re3:教行信証・学習ノート3 2009/11/27 (Fri) 01:29 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。言弘願者。如大経説。一切善悪凡夫得生者。莫不皆乗(食陵反、駕也、勝〈登〉
也、守也、覆也。)阿弥陀仏大願業力為増上縁也。
-------------------------------------------------------------------------------
(玄義分)また云わく、弘願と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずる
ことを得る者は、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて(乗=食陵の反、駕なり、勝〈登〉
なり、守なり、覆なり)、増上縁とせざるはなきなりと。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次言又云弘等者。問。上来文者是礼讃釈。今所引者是観経義玄義文也。何略書名言又云。
答。上所引初云光明寺和尚云訖。是故雖引何書解釈。共為大師之解釈者。更非相違。

言弘願者。弘願之称。総而言之可通六八。余処釈云願願皆発増上勝因故也。別而論之第
十八願。今之解釈明得生益故也。

大願業力者。願業力三。於因与果皆有其由。大言亘三。所謂大願五劫思惟超世無上殊勝願
是。大業即是不可思議。兆載永劫。六度万行。願行雖殊共是因位。言大力者果位神力。
光明摂取利益衆生。名之大力。増上縁者是強縁也。玄義分云。正由託仏願以作強縁。
已上。法事讃云。正由不遇好強縁。致使輪回難得度。已上。

問。増上縁者。名強縁義其証如何。答。大乗義章第三釈云。増上縁者起法功強。故曰増上。
為法縁故名増上縁。已上。又摂論云。如眼根為根識作増上縁。此有力増上縁也。
無力増上縁者。生有為無為諸法不作障礙也。
-------------------------------------------------------------------------------

次に「又云弘」等というは、問う、上来の文はこれ『礼讃』の釈なり。今の所引はこれ
『観経義』玄義の文なり。何ぞ書の名を略して「又云」というや。答う。上に引く所の
初に「光明寺和尚の云わく」と云い訖す。この故に何の書の解釈を引くといえども、共に
大師の解釈たらば、更に相違にあらず。

「弘願」というは、弘願の称は総じてこれをいわば六八に通ずべし。余処の釈に「願願
みな増上の勝因を発すと」いうが故なり。別してこれを論ぜば第十八の願なり。今の解釈
は得生の益を明かすが故なり。

「大願業力」とは、願と業と力との三は因と果とに於いて皆その由あり。大の言は三に
亘る。いわゆる大願は五劫思惟超世無上殊勝の願これなり。大業は即ちこれ不可思議兆載
永劫六度万行なり。願行は殊りといえども、共にこれ因位なり。大力というは、果位の
神力、光明摂取利益衆生、これを大力と名づく。増上縁とはこれ強縁なり。『玄義分』に
云わく「正しく仏願に託して以て強縁と作るに由る」已上。『法事讃』に云わく「正しく
好き強縁に遇ざるに由りて、輪回をして得度し難きことを致す」已上。

問う。増上縁とは、強縁に名づくる義、その証いかん。答う。『大乗義章』の第三の釈に
云わく「増上縁とは法の功を起すこと強し。故に増上という。法の為の縁なるが故に増上縁
と名づく」已上。また『摂論』に云わく「眼根は眼識の為に増上縁となるが如し」と。
これ有力増上縁なり。無力増上縁とは、有為無為の諸法を生ずるに障礙を作さざるなり。

●re.4
ボン
関東の男性
[ 1699 ] Re4:教行信証・学習ノート3 2009/11/27 (Fri) 01:33 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。言弘願者。如大経説。一切善悪凡夫得生者。莫不皆乗(食陵反、駕也、勝〈登〉
>也、守也、覆也。)阿弥陀仏大願業力為増上縁也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(玄義分)また云わく、弘願と言うは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずる
>ことを得る者は、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて(乗=食陵の反、駕なり、勝〈登〉
>なり、守なり、覆なり)、増上縁とせざるはなきなりと。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (玄義分)
  また次のように述べる。弘願と言うのは、『大経』の説のとおりである。すべての
  善悪の凡夫のなかで、(浄土に)生ずることができる者は、みな阿弥陀仏の大願業力
  (大いなる願と業と力)に乗じて、それを増上縁としないものはない。

  WikiArcより
    大願業力
      すぐれた願によって成就された阿弥陀仏の救済のはたらき。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に「又云弘」等というは、問う、上来の文はこれ『礼讃』の釈なり。今の所引はこれ
>『観経義』玄義の文なり。何ぞ書の名を略して「又云」というや。答う。上に引く所の
>初に「光明寺和尚の云わく」と云い訖す。この故に何の書の解釈を引くといえども、共に
>大師の解釈たらば、更に相違にあらず。

  次に「又云弘・・・」等について、問う。これまでの文は『礼讃』の釈である。この
  引用は『観経義』玄義の文である。どうして書の名を省略して「又云」というのか。
  答える。上に引用するところの初めに「光明寺和尚の云わく」と言いおよんでいる。
  だから、いずれの書の解釈を引用したとしても、それが同じ善導大師の解釈であるな
  らば、ことさらに相違しているというわけではない。


>「弘願」というは、弘願の称は総じてこれをいわば六八に通ずべし。余処の釈に「願願
>みな増上の勝因を発すと」いうが故なり。別してこれを論ぜば第十八の願なり。今の解釈
>は得生の益を明かすが故なり。

  「弘願」についていうと、弘願と呼ばれるものは、総じて48願に通ずるものである。
  ほかのところの釈に「願という願は、みな、行者を力づける優れた因を生み出す。」
  といっているのが、その理由である。しかし、これを別の角度から論ずるならば、
  「弘願」というのは第18願のことである。なぜなら、ここの解釈は、(浄土に)生を
  得ることの利益を明らかにしようとしているからである。

  WikiArcより
    弘願
      広弘の誓願の意。十方衆生を救済しようと誓った第十八願を指す。
    増上の勝因
      この上もなくすぐれた原因。


>「大願業力」とは、願と業と力との三は因と果とに於いて皆その由あり。大の言は三に
>亘る。いわゆる大願は五劫思惟超世無上殊勝の願これなり。大業は即ちこれ不可思議兆載
>永劫六度万行なり。願行は殊りといえども、共にこれ因位なり。大力というは、果位の
>神力、光明摂取利益衆生、これを大力と名づく。増上縁とはこれ強縁なり。『玄義分』に
>云わく「正しく仏願に託して以て強縁と作るに由る」已上。『法事讃』に云わく「正しく
>好き強縁に遇ざるに由りて、輪回をして得度し難きことを致す」已上。

  「大願業力」についていうと、願と業と力との三つは、因と果とにおいて、みなその
  いわくがある。大の言葉は、三つ(願と業と力)にわたる。いわゆる大願は、「五劫思
  惟超世無上殊勝の願(五劫にわたて思惟された世を超えてこの上なく殊に勝れた願)」
  のことである。大業は、すなはち、「不可思議兆載永劫六度万行(想像を絶する長い間
  におよぶ六波羅蜜の万行)」である。願と行は異なってはいても、これらはともに因位
  のことである。大力というのは、果位の神力のことで、「光明摂取利益衆生(光明が
  衆生を摂取して利益する)」、これを大力と名づける。増上縁とは、強い縁である。
  『玄義分』では次のように述べる。「まさしく仏願に(我が身を)託して、それが強縁
  となることによる。」『法事讃』では次のように述べる。「まさしく良い強縁に遭遇
  しないことによって、輪回をして、得度し難いという結果をまねく。」

  WikiArcより
    兆載永劫
      兆・載は非常に大きな数のこと。法蔵菩薩が本願を成就するために修行され
      た、非常に長い時間のこと。
    六度(=六波羅蜜)
      波羅蜜は梵語パーラミターの音写。度、到彼岸と漢訳する。大乗の菩薩の修
      めねばならない六種の行業のこと。
    因位
      因地ともいう。因の位という意で、果位に対する語。菩薩が仏のさとりをひ
      らくために修行している間をいう。
    果位
      菩薩が仏に成るために六波羅蜜等の因行を修し、それを成就して得た仏の位、
      仏果を指す。因位に対する語。
    得度
      度は、渡に通じ、生死の海を渡って彼岸に至ること。迷いの世界を渡り、
      さとりの世界に至ること。


>問う。増上縁とは、強縁に名づくる義、その証いかん。答う。『大乗義章』の第三の釈に
>云わく「増上縁とは法の功を起すこと強し。故に増上という。法の為の縁なるが故に増上縁
>と名づく」已上。また『摂論』に云わく「眼根は眼識の為に増上縁となるが如し」と。
>これ有力増上縁なり。無力増上縁とは、有為無為の諸法を生ずるに障礙を作さざるなり。

  問う。増上縁を強縁と名づける考え方について、その証拠はどのようなものか。答え
  る。『大乗義章』の第三の釈に次のように述べる。「増上縁は、強く仏法の功徳を引
  き起こす。だから、増上という。それが仏法のための縁となるために増上縁と名づけ
  る。」また『摂論』では、次のように述べる。「眼根が、眼識の増上縁となるような
  ものである。」これは、有力増上縁である。無力増上縁とは、有為無為の諸法を生ず
  るにあたって、その妨げとならないことである。

  WikiArcより
    六根
      六識の依りどころとなり、対象を認識するための六種の器官。眼根・耳根・
      鼻根・舌根・身根の五つの感覚器官と、前刹那の意識である意根。
    六識
      色(形あるもの)・声・香・味・触・法(認識の対象となるすべてのもの)の六種
      の対象(六境)を知覚し認識する眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識のこと。

  WikiDharmaより
    すべての原因を4種に分類したもの。「縁」は、ここでは原因の意味。
      1.因縁
        直接的・内的原因。
      2.等無間縁(次第縁)
        前の心が滅することが次の心を生じさせる原因となること。
      3.所縁縁(縁縁)
        認識の対象が認識を起こさせる原因となること。
      4.増上縁
        前の3種以外のすべての原因が含まれる。
        他のものが生ずるのに積極的に力を与える場合(有力増上縁)と、
        他のものが生ずるのを妨げないことが原因になるという消極的な場合
        (無力増上縁)の2種がある。

●re.5
ボン
関東の男性
[ 1702 ] Re5:教行信証・学習ノート3 2009/11/27 (Fri) 22:00 △up ▽down
菩提心様 酒天童子様 こんばんは。

コメントをいただき、ありがとうございます。

初めのうちは、ほとんどの言葉の意味がわからず、遅々として進みませんでしたが、
いくらか基本的な言葉の意味がわかってくにつれて、少しずつ読むスピードが速く
なってきて、なんだかうれしいような気がしております。

正直にいって、私自身も、単に現代語に置き換えてみたものの、はたしてそれは
いったいどんなことなのか理解できないことも、少なからずありますが、いちいち
ひっかかっていても解らないものは解りませんので、そこは割り切って先に進む
ようにしております。

ですから、不明な点やおかしな点は遠慮なくコメントしていただければ、
私自身の理解を深めるためにも役に立つものと思います。
どうぞご遠慮なく、コメントを入れていただければと思います。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.6
ボン
関東の男性
[ 1703 ] Re6:教行信証・学習ノート3 2009/11/27 (Fri) 22:31 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。言南無者。即是帰命。亦是発願回向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。
以斯義故必得往生。
-------------------------------------------------------------------------------
(玄義分)また云わく、南無と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義
なり。阿弥陀仏と言うは、すなわちこれ、その行なり。この義をもってのゆえに、
必ず往生を得と。
-------------------------------------------------------------------------------


  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません

●re.7
ボン
関東の男性
[ 1704 ] Re7:教行信証・学習ノート3 2009/11/27 (Fri) 22:32 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。言南無者。即是帰命。亦是発願回向之義。言阿弥陀仏者。即是其行。
>以斯義故必得往生。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(玄義分)また云わく、南無と言うは、すなわちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義
>なり。阿弥陀仏と言うは、すなわちこれ、その行なり。この義をもってのゆえに、
>必ず往生を得と。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (玄義分)
  また次のように述べる。南無と言うのは、すなわち、帰命である。また、
  発願回向の義である。阿弥陀仏と言うのは、すなわち、その行である。
  この義によって、必ず往生を得る。

  WikiArcより
    南無
      梵語ナマス(namas)の音写。帰命と漢訳する。仏・法・僧の三宝に帰順し、
      敬礼する意。
    帰命
      梵語ナマス(namas)の漢訳。南無と音写する。心から信じうやまう意。
      浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀如来の勅命の意とし、またその勅命
      に帰順する(信じ順う)意とする。「おほせにしたがふ」(浄土和讃異本左訓)
      と釈されている。また帰命には礼拝の意味もある。
    名号
      善導大師は、南無阿弥陀仏には願と行が具足しているからよく往生の行とな
      るといい・・・
    発願回向
      浄土往生を願う願をおこし回向すること。この言葉はもともと善導大師の
      六字釈(南無阿弥陀仏の六字の解釈)に出て来るもので、親鸞聖人はこれを、
      阿弥陀仏が衆生を救う本願をおこして、衆生に往生の行をあたえられること
      と解された。

  <感想>
    「おほせにしたがふ」というのは、「言うとおりにする」ということですよネ!
    「南無」とか、「帰命」とか漢字で表わすと、なにかとても深遠なことのようで
    すが、平たく言えば、それは単に「言うとおりにする」ということなのですね。


  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません

●re.8
ボン
関東の男性
[ 1705 ] Re8:教行信証・学習ノート3 2009/11/28 (Sat) 00:54 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。言摂生増上縁者。如無量寿経四十八願中説。仏言。若我成仏。十方衆生願生我国。
称我名字下至十声。乗我願力若不生者不取正覚。此即是願往生行人。命欲終時。願力摂得
往生。故名摂生増上縁。又云。欲使善悪凡夫回心起行尽得往生。此亦是証生増上縁。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(観念法門)また云わく、摂生増上縁と言うは、『無量寿経』の四十八願の中に説くがご
とし。仏の言わく、もし我、成仏せんに、十方の衆生、我が国に生ぜんと願じて我が名字
を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじと。
これすなわちこれ、往生を願ずる行人、命終わらんとする時、願力摂して往生を得しむ。
故に摂生増上縁と名づくと。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次所引文者。共是観念法門之釈。如次摂生証生両縁。
-------------------------------------------------------------------------------

次の所引の文は共にこれ『観念法門』の釈なり。次の如く摂生・証生の両縁なり。

●re.9
ボン
関東の男性
[ 1706 ] Re9:教行信証・学習ノート3 2009/11/28 (Sat) 00:54 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。言摂生増上縁者。如無量寿経四十八願中説。仏言。若我成仏。十方衆生願生我国。
>称我名字下至十声。乗我願力若不生者不取正覚。此即是願往生行人。命欲終時。願力摂得
>往生。故名摂生増上縁。又云。欲使善悪凡夫回心起行尽得往生。此亦是証生増上縁。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(観念法門)また云わく、摂生増上縁と言うは、『無量寿経』の四十八願の中に説くがご
>とし。仏の言わく、もし我、成仏せんに、十方の衆生、我が国に生ぜんと願じて我が名字
>を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじと。
>これすなわちこれ、往生を願ずる行人、命終わらんとする時、願力摂して往生を得しむ。
>故に摂生増上縁と名づくと。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (観念法門)
  また次のように述べる。摂生増上縁と言うのは、『無量寿経』の四十八願のなかで説
  いているとおりである。仏は次のように述べる。もし、私が仏に成ろうとするときに、
  十方の衆生が、我が国に生ばれたいと願って私の名字を称すること、下は十声に至る
  まで、私の願力に便乗して(私の国に)生ずるということがないのなら、私は正しい覚
  りを開かないであろう。これは、すなわち、往生を願う行人が命を終えようとすると
  きに、仏の願力が(衆生を)取り込んで往生することができるようにすることである。
  だから、摂生増上縁と名づける。

  WikiArcより
    摂生増上縁
      衆生をおさめとって浄土に往生せしめるすぐれたはたらき。『観念法門』に
      説かれる五種増上縁(滅罪・護念・見仏・摂生・証生)の一。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の所引の文は共にこれ『観念法門』の釈なり。次の如く摂生・証生の両縁なり。

  次の引用の文は、共にこれ『観念法門』の釈である。次に述べるように、摂生・証生
  の両縁である。

●re.10
ボン
関東の男性
[ 1707 ] Re10:教行信証・学習ノート3 2009/11/28 (Sat) 01:05 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。欲使善悪凡夫回心起行尽得往生。此亦是証生増上縁 已上
-------------------------------------------------------------------------------
(観念法門)また云わく、善悪の凡夫、回心起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。
これまたこれ証生増上縁なりと。已上。
-------------------------------------------------------------------------------


  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません。

●re.11
ボン
関東の男性
[ 1708 ] Re11:教行信証・学習ノート3 2009/11/28 (Sat) 01:05 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。欲使善悪凡夫回心起行尽得往生。此亦是証生増上縁 已上
>-------------------------------------------------------------------------------
>(観念法門)また云わく、善悪の凡夫、回心起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。
>これまたこれ証生増上縁なりと。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (観念法門)
  また次のように述べる。善悪の凡夫が、心をひるがえして、行を起し、ことごとく
  往生を得るようにさせようと望む。これまた、証生増上縁である。

    回心
      心をひるがえすこと。
        1.悪心を改めて仏の教えに帰すること。回心懺悔のこと。
        2.自力の心を捨てて本願他力に帰すること。
    証生増上縁
      五種増上縁の一。諸仏が衆生の念仏往生を保証し証明することをいう。


  ※ ここの段に六要鈔会本の注釈はありません

●re.12
ボン
関東の男性
[ 1709 ] Re12:教行信証・学習ノート3 2009/12/01 (Tue) 01:15 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。門門不同八万四。為滅無明果業因。利剣即是弥陀号。一声称念罪皆除。
微塵故業随智滅。不覚転入真如門〈覚=教音〉。得免娑婆長劫難。特蒙知識釈迦恩。
種種思量巧方便。選得弥陀弘誓門。已上抄要。
-------------------------------------------------------------------------------
(般舟讃)また云わく、門門不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんためなり。
利剣はすなわちこれ弥陀の号〈みな〉なり。一声称念するに、罪みな除こる。微塵の故業、
智に随いて滅す。覚〈おし〉えざるに〈覚=教の音〉真如門に転入す。娑婆長劫の難を免
るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種種の思量巧方便をもって、選び
て弥陀弘誓の門を得せしめたまえりと。已上抄要。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次言又云門門以下。十句文者。般舟讃釈。四句二句四句別文。言門門者諸教門也。
八万四者依大集意。一一衆生有八万四千諸行。所謂貪欲行二万一千。瞋恚行二万一千。
愚癡行二万一千。等分行二万一千。是為八万四千諸行。無明等者約十二支明滅罪益。
雖有異義試述短解。言無明者総標惑障。倶舎頌曰。無明諸有本。故別為一漏。已上。
果業因者。逆挙煩悩業苦三道。言利剣者。以其利用喩名号徳。微塵等者。故差曠劫。
業是業障。不覚等者示頓悟理。同下句云。大小僧祇恒沙劫亦如弾指須臾間。已上。
往生礼讃日中讃云無心領納自然知。已上。是其謂也。但覚字註者教音。此有二音。玉云。
有楽切。寤也。大也。宋云。古孝切。睡寤。曰覚醒。省也。
-------------------------------------------------------------------------------

次に「又云門門」という以下の十句の文は『般舟讃』の釈なり。四句と二句と四句と別の
文なり。「門門」というは諸教の門なり。「八万四」とは、『大集』の意に依るに、一一
の衆生に八万四千の諸行あり、いわゆる貪欲の行に二万一千、瞋恚の行に二万一千、愚痴
の行に二万一千、等分の行に二万一千、これを八万四千の諸行と為す。

「無明」等とは十二支に約して滅罪の益を明かす。異義ありといえども試みに短解を述ぶ。
「無明」というは総じて惑障を標す。『倶舎』の頌に云わく「無明は諸有の本なり。故に
別に一漏と為す」已上。「果業因」とは逆に煩悩・業・苦の三道を挙ぐ。

「利剣」というは、その利用を以て名号の徳に喩う。

「微塵」等とは、「故」は曠劫を差す。「業」はこれ業障なり。

「不覚」等とは頓悟の理を示す。同じき下の句に云わく「大小僧祇恒沙の劫、また
弾指須臾の間の如し」已上。『往生礼讃』の日中の讃に云わく「心に領納することなく
して自然に知る」已上。これその謂なり。

但し覚の字の註は教の音なり。これに二の音あり。『玉』に云わく「有楽の切、寤なり、
大なり」。『宋』に云わく「古孝の切、睡寤、覚醒という、省なり」。

●re.13
ボン
関東の男性
[ 1710 ] Re13:教行信証・学習ノート3 2009/12/01 (Tue) 01:16 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。門門不同八万四。為滅無明果業因。利剣即是弥陀号。一声称念罪皆除。
>微塵故業随智滅。不覚転入真如門〈覚=教音〉。得免娑婆長劫難。特蒙知識釈迦恩。
>種種思量巧方便。選得弥陀弘誓門。已上抄要。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(般舟讃)また云わく、門門不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんためなり。
>利剣はすなわちこれ弥陀の号〈みな〉なり。一声称念するに、罪みな除こる。微塵の故業、
>智に随いて滅す。覚〈おし〉えざるに〈覚=教の音〉真如門に転入す。娑婆長劫の難を免
>るることを得ることは、特に知識釈迦の恩を蒙れり。種種の思量巧方便をもって、選び
>て弥陀弘誓の門を得せしめたまえりと。已上抄要。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (般舟讃)
  また次のように述べる。それぞれの法門と法門は、それぞれ異なっており、八万四千
  の法門がある。それは、それによって無明と苦果と業因とをなくそうとしているから
  である。そのなかでも鋭利な剣は、弥陀の名号である。一声でも称念すると、罪はみ
  な除かれる。永遠の昔から積み重ねられてきた悪業による障りは、真実の智慧がつく
  にしたがって無くなっていく。教えないのに(覚えがないのに)真如の門に転入するよ
  うになる。娑婆での長い劫のあいだの困難を免れることができるのは、特に善知識で
  ある釈迦の恩をこうむったものである。種々の思ん量りによる巧みな方便によって、
  選んで弥陀が弘く誓った門を得させるのである。(抜粋)

  WikiArcより
    無明
      梵語アヴィドヤーの漢訳。真理に暗く、道理事象を明らかに理解できない
      精神状態をいう。最も根本的な煩悩。迷いの根源。また浄土真宗では、本願
      を疑い仏智を明らかに信じないことを無明という場合もある。
    業因
      生死の苦果をまねく因となる行為。
    果
      生死の苦果。
    微塵の故業
      無数の古い業。無始(永遠の昔)以来の悪業。
    智
      真実の智慧。
    娑婆
      梵語サハーの音写。忍土・堪忍土・忍界と漢訳する。この現実世界のこと。
      この土の衆生は、内にはもろもろの苦悩を忍んで受け、外には寒・暑・風・
      雨などの苦を受けて、これを堪え忍ばねばならないから、忍土・忍界などと
      いう。また聖者も、疲労や倦怠を忍んで教化するから、この土を堪忍土という。
    思量巧方便
      思慮たくみなてだて。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次言又云門門以下。十句文者。般舟讃釈。四句二句四句別文。言門門者諸教門也。
>八万四者依大集意。一一衆生有八万四千諸行。所謂貪欲行二万一千。瞋恚行二万一千。
>愚癡行二万一千。等分行二万一千。是為八万四千諸行。無明等者約十二支明滅罪益。
>雖有異義試述短解。言無明者総標惑障。倶舎頌曰。無明諸有本。故別為一漏。已上。
>果業因者。逆挙煩悩業苦三道。言利剣者。以其利用喩名号徳。微塵等者。故差曠劫。
>業是業障。不覚等者示頓悟理。同下句云。大小僧祇恒沙劫亦如弾指須臾間。已上。
>往生礼讃日中讃云無心領納自然知。已上。是其謂也。但覚字註者教音。此有二音。玉云。
>有楽切。寤也。大也。宋云。古孝切。睡寤。曰覚醒。省也。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に「又云門門」という以下の十句の文は『般舟讃』の釈なり。四句と二句と四句と別の
>文なり。「門門」というは諸教の門なり。「八万四」とは、『大集』の意に依るに、一一
>の衆生に八万四千の諸行あり、いわゆる貪欲の行に二万一千、瞋恚の行に二万一千、愚痴
>の行に二万一千、等分の行に二万一千、これを八万四千の諸行と為す。

  次に「又云門門」から以下の十句の文は、『般舟讃』の釈である。四句と二句と四句
  とは、それぞれ別の文である。「門門」というのは、諸教の門である。「八万四」と
  は、『大集』の意(こころ)によれば、一人一人の衆生に八万四千の諸行があるとされ
  る。いわゆる貪欲の行に二万一千、瞋恚の行に二万一千、愚痴の行に二万一千、それ
  ぞれに等しい程度の行に二万一千があり、これらを合計すれば八万四千の諸行となる。

  WikiArcより
    大集経
      『大方等大集経』のこと。六十巻。前二十六巻と「日密分」三巻は北涼の
      曇無讖訳、「無尽意品」四巻は智厳・宝雲共訳、「日蔵分」十二巻「月蔵分」
      十一巻「須弥蔵分」二巻は隋の那連提耶舎訳とされ、隋の僧就が一部として
      まとめたもの。
      仏が十方の仏・菩薩や諸天を集めて大乗の法を説いたもので、空思想に加え
      て、密教的要素が濃い。また「月蔵分」巻十には、五箇五百年(釈尊滅後の
      仏教の展開を五種の五百年に区切って表すもの)をあげ、末法のすがたを説く。


>「無明」等とは十二支に約して滅罪の益を明かす。異義ありといえども試みに短解を述ぶ。
>「無明」というは総じて惑障を標す。『倶舎』の頌に云わく「無明は諸有の本なり。故に
>別に一漏と為す」已上。「果業因」とは逆に煩悩・業・苦の三道を挙ぐ。

  「無明・・・」等のついて言うと、十二支縁起(十二因縁)に集約して、罪を滅ぼす
  利益を明らかにしている。異義もあるようではあるが、試みに短い解釈を述べる。
  「無明」というのは、総じて惑いや障(さわり)を示す。『倶舎』の頌(詩文)に次のよ
  うに述べる。「無明は、さまざまな迷いの世界の根本である。だから、別の表現では、
  一つの漏(煩悩)とする。」「果業因」というのは、逆に、煩悩・業・苦の三道を挙げ
  る。

  WikiArcより
    十二因縁
      十二縁相衆生の迷妄と苦悩が成立し、また消滅する、
        無明(無知)、
        行(潜在的形成力)、
        識(識別作用)、
        名色(心身)、
        六処(眼・耳・鼻・舌・身・意の心作用の成立する六つの感覚器官)、
        触(感官と対象との接触)、
        受(感受作用)、
        愛(根本の欲望)、
        取(執着)、
        有(生存)、
        生(生れること)、
        老死(無常なすがた)、
      という十二の条件の関係をいう。
    諸有
      あらゆるものみな。二十五有の迷いの境界。
    二十五有
      有とは迷いの境界のことで、衆生の流転する迷いの世界(三界)を二十五種に
      分けたもの。
    諸漏
      もろもろの煩惱。


>「利剣」というは、その利用を以て名号の徳に喩う。

  「利剣」というのは、その鋭い働きをもって名号の徳に例えたものである。


>「微塵」等とは、「故」は曠劫を差す。「業」はこれ業障なり。

  「微塵・・・」等について言うと、「故」はきわめて長い時間を指す。「業」は業障
  である。

  WikiArcより
    曠劫
      きわめて長い時間。無限の時。
    業障
      成仏をさまたげる悪業による障り。三障(煩悩障・業障・報障)、
      または四障(惑障・業障・報障・見障)の一。


>「不覚」等とは頓悟の理を示す。同じき下の句に云わく「大小僧祇恒沙の劫、また
>弾指須臾の間の如し」已上。『往生礼讃』の日中の讃に云わく「心に領納することなく
>して自然に知る」已上。これその謂なり。

  「不覚・・・」等というのは、「瞬時の悟り」の理(ことわり)を示す。同じ文章の下
  の句では次のように述べる。「大小の僧祇というとてつもなく長い間は、また指を弾
  くほんのわずかな間のようである。」『往生礼讃』の日中の讃では次のように述べる。
  「心で了解することではなく、自然に(おのづからしからしむように)知る。」これが、
  その謂(いわれ)である。

  大辞林より
    頓悟
      段階的な修行を踏むことなく、一挙に悟りを開くこと。
    僧祇
      「阿僧祇」の略。
    阿僧祇
      (1)数えられないこと。数えられないほど大きな数。
      (2)数の単位。一〇の六四乗。[塵劫記]

  WikiArcより
    須臾
      短い時間。ほんのわずかな間。
    領納
      領解すること。
    自然
      人為的なものに対して、人為をからず、おのずからそうなっていること。
      親鸞聖人は、「おのづからしからしむ」と読み、人間のはからいを超えた
      如来のはからいによる救いをあらわす語とされた。意味上三種に分類される。
        1.業道自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。
        2.願力自然。他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、救いをたのむ行者は、
         何のはからいをも用いないで本願力によっておのずから浄土に往生せ
         しめられることをいう。
        3.無為自然。さとりの世界は有無の分別をはなれ、分別による限定を超
         えた絶対無限の境地であることをいう。


>但し覚の字の註は教の音なり。これに二の音あり。『玉』に云わく「有楽の切、寤なり、
>大なり」。『宋』に云わく「古孝の切、睡寤、覚醒という、省なり」。

  ただし、「覚」の字の註は、「教」の音となっている。これには二つの音がある。
  『玉』では「音は有楽の接合、意味は、寤であり、大である」。『宋』では
  「音は古孝の接合、意味は、睡寤、覚醒という、省である」。

●re.14
ボン
関東の男性
[ 1711 ] Re14:教行信証・学習ノート3 2009/12/02 (Wed) 00:31 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
爾者南無之言帰命。帰言至也。又帰説也。説字。悦音。又帰説也。説字税音。悦税二音。
告也。述也。宣述人意也。命言業也。招引也。使也。教也。道也。信也。計也。召也。
是以帰命者本願。招喚之勅命也。
-------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)
しかれば、南無の言は帰命なり。帰の言は(至なり)、また帰説〈よりたのむなり〉なり。
説の字は(悦〈えち。よろこぶ〉の音)、また帰説〈よりかかるなり。説=さい〉なり、
説の字は(税〈さい〉の音、悦税〈えち・さい〉二つの音〈こえ〉、告ぐるなり、述ぶなり、
人の意を宣述るなり)。命の言は(業なり、招引〈まねきひく〉なり、使なり、教なり、
道なり、信なり、計うなり、召すなり)。ここをもって、帰命とは本願招喚
〈まねきよばう〉の勅命なり〈勅=おおせ〉。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
爾者以下八行余者。私被得上言南無者之文意釈。南無等者。於帰之字。至并説意未勘得之。
説字之音。玉篇広韻同註。三音今有二音。略始悦反。此是常音勿論故也。告述宣訓載在広
韻。命字之訓。玉篇中有教令使註。広韻中出使教召訓。業招引使道信計等追可勘之。
-------------------------------------------------------------------------------

「爾者」以下の八行余は、私に上の「言南無者」の文の意を得らるる釈なり。「南無」等
とは、「帰」の字に於いて、「至」并びに「説」の意は未だこれを勘得せず。「説」の字
の音は、『玉篇』『広韻』、註に同じ。三の音は、今、二の音あり。始悦の反は略す。
これはこれ常の音は勿論の故なり。告・述・宣の訓は載て『広韻』にあり。命の字の訓は
『玉篇』の中に教・令・使の註あり。『広韻』の中に使・教・召の訓を出す。業・招引・
使・道・信等は追ってこれを勘うべし。

●re.15
ボン
関東の男性
[ 1712 ] Re15:教行信証・学習ノート3 2009/12/02 (Wed) 00:32 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>爾者南無之言帰命。帰言至也。又帰説也。説字。悦音。又帰説也。説字税音。悦税二音。
>告也。述也。宣述人意也。命言業也。招引也。使也。教也。道也。信也。計也。召也。
>是以帰命者本願。招喚之勅命也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)
>しかれば、南無の言は帰命なり。帰の言は(至なり)、また帰説〈よりたのむなり〉なり。
>説の字は(悦〈えち。よろこぶ〉の音)、また帰説〈よりかかるなり。説=さい〉なり、
>説の字は(税〈さい〉の音、悦税〈えち・さい〉二つの音〈こえ〉、告ぐるなり、述ぶなり、
>人の意を宣述るなり)。命の言は(業なり、招引〈まねきひく〉なり、使なり、教なり、
>道なり、信なり、計うなり、召すなり)。ここをもって、帰命とは本願招喚
>〈まねきよばう〉の勅命なり〈勅=おおせ〉。
>------------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)
  そういうわけで、「南無」という言葉は「帰命」である。「帰」という言葉は「至」
  である。また、それは「帰説〈よりたのむ〉」である。「説」の字は「悦」の音であ
  り、また「帰説〈よりかかるなり。説=さい〉」である。「説」の字は「税」の音、
  悦税二つの音〈こえ〉、告ぐるであり、述ぶるであり、それは人の意(こころ)を宣述
  することである。「命」の言は「業」なり、「招引〈まねきひく〉」であり、使であ
  り、教であり、道であり、信であり、計うであり、召すである)。これをもって、
  「帰命」とは、本願が招喚〈まねきよばう〉ところの勅命である〈勅=おおせ〉。

  WikiArcより
    帰説(きえつ/きさい)
      T(きえつ)【右訓】「たよりのむといふ」【左訓】「よりたのむなり」
      U(きさい)【左訓】「よりかかるなり」(行巻 P.170)
    たのむ
      浄土真宗では、阿弥陀如来にむかって「お願いする」「請い求める」という
      祈願請求の意ではなく、阿弥陀如来の本願力を「たのみにする」という依憑
      (よりたのむ)の意味で、信順・帰命の和訓であり、本願の信楽にあたる。
      親鸞聖人は「よりたのむ」「よりかかる」「本願他力をたのみて、自力をはな
      れたる、これを唯信といふ」といわれている。
    招喚したまふの勅命
      衆生に帰せよと命じる如来の呼び声。

  以下に毎日様のコメントがあります。
    http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=1&pastno=0&vine=51&page=0


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「爾者」以下の八行余は、私に上の「言南無者」の文の意を得らるる釈なり。「南無」等
>とは、「帰」の字に於いて、「至」并びに「説」の意は未だこれを勘得せず。「説」の字
>の音は、『玉篇』『広韻』、註に同じ。三の音は、今、二の音あり。始悦の反は略す。
>これはこれ常の音は勿論の故なり。告・述・宣の訓は載て『広韻』にあり。命の字の訓は
>『玉篇』の中に教・令・使の註あり。『広韻』の中に使・教・召の訓を出す。業・招引・
>使・道・信等は追ってこれを勘うべし。

  「爾者」以下の八行あまりは、(聖人の)私見によって「言南無者」の文の意(こころ)
  を理解した釈である。「南無・・・」等については、「帰」の字が、「至」ならびに
  「説」であるとする意(こころ)は、未だに、(自分=存覚は)理解できていない。「説」
  の字の音については、『玉篇』『広韻』ともに、註が同じである。三つの音は、ここ
  では、二つの音である。それが「始悦の接合」であることについては省略する。これ
  は、これが常の音であることは勿論のことだからである。告・述・宣の訓については、
  『広韻』にその記載がある。「命」の字の訓(意味)については、『玉篇』のなかに教
  ・令・使の註がある。『広韻』のなかに、使・教・召の訓(意味)がでている。業・招引
  ・使・道・信などについては、追ってこれを調べるべきである。

  WikiArcより
    勘得
      かんがえ得ること。

●re.16
ボン
関東の男性
[ 1713 ] Re16:教行信証・学習ノート3 2009/12/02 (Wed) 02:39 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
言発願回向者。如来已発願回施衆生行之心也。言即是其行者。即選択本願是也。
言必得往生者。彰獲至不退位也。経言即得。釈云必定。即言由聞願力光闡報土真因決定
時剋之極促也。必言審也。然也。分極也。金剛心成就之貌也。
-------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)発願回向と言うは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。
即是其行と言うは、すなわち選択本願これなり。必得往生と言うは、不退の位に至ること
を獲ることを彰すなり。経には即得と言えり、釈には必定と云えり。即の言は、願力を聞
くに由りて、報土の真因決定する時剋の極促〈剋=きわむ〉を光闡せるなり。必の言は
(審〈つまびらか〉なり、然〈しからしむる〉なり、分極〈分=わかつ。極=きわむ〉
なり)金剛心成就の貌〈かおわせ〉なり。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
必字之註廣韻文也。
-------------------------------------------------------------------------------

必の字の註は『廣韻』の文なり。

●re.17
ボン
関東の男性
[ 1714 ] Re17:教行信証・学習ノート3 2009/12/02 (Wed) 02:39 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>言発願回向者。如来已発願回施衆生行之心也。言即是其行者。即選択本願是也。
>言必得往生者。彰獲至不退位也。経言即得。釈云必定。即言由聞願力光闡報土真因決定
>時剋之極促也。必言審也。然也。分極也。金剛心成就之貌也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)発願回向と言うは、如来すでに発願して、衆生の行を回施したまうの心なり。
>即是其行と言うは、すなわち選択本願これなり。必得往生と言うは、不退の位に至ること
>を獲ることを彰すなり。経には即得と言えり、釈には必定と云えり。即の言は、願力を聞
>くに由りて、報土の真因決定する時剋の極促〈剋=きわむ〉を光闡せるなり。必の言は
>(審〈つまびらか〉なり、然〈しからしむる〉なり、分極〈分=わかつ。極=きわむ〉
>なり)金剛心成就の貌〈かおわせ〉なり。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)
  「発願回向」と言うのは、如来がすでに発願して、「衆生の行」を回し施していただ
  く心のことである。「即是其行(すなわち、これ、その行)」と言うのは、すなわち選
  び抜かれた本願のことである。「必得往生」と言うのは、不退の位に至ることを獲得
  することを表わしている。経には即得と言い、釈には必定と言う。「即」の言葉は、
  願力を聞くことによって、報土に生まれる真の因(たね)が決定する、その極めて短い
  時間を明らかに説明するものである。「必」の言は(審〈つまびらか〉であり、然
  〈しからしむる〉であり、分極〈分=わかつ。極=きわむ〉である。)それは、金剛
  の心が成就するすがたかたちである。

    選択本願
      選択本願(第十八願)の行。名号が(乃至十念)の称名となって顕れていること
      を示す。阿弥陀仏が因位の法蔵菩薩の時に、十方諸仏の国土の中からその善妙
      なものを選び取り、粗悪なものを選び捨てて、衆生救済のためにたてられた
      誓願。阿弥陀仏の四十八願をいう。また四十八願の中、第十八願をまさしく
      根本とするから、親鸞聖人はとくに第十八願を指して用いられた。
    時剋の極促
      時間のきわまり。聞信の一念に往生浄土の因が定まることをいう。
    極促
      「時剋の極促」のこと。信を得、往生が定まった最初のとき。
    光闡
      教えを広く明らかに説き述べること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>必の字の註は『廣韻』の文なり。

  必の字の註は『廣韻』の文である。

●re.18
ボン
関東の男性
[ 1721 ] Re18:教行信証・学習ノート3 2009/12/06 (Sun) 00:08 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
浄土五会念仏略法事儀讃云。夫如来設教。広略随根。終帰乎実相。得真無生者。孰能与於
此哉。然念仏三昧是真無上深妙門矣。以弥陀法王四十八願名号。焉仏事願力度衆生。乃至。
如来常於三昧海中挙細綿乎〈網細綿手〉。謂父王曰。王今座禅但当念仏。豈同離念求乎無
念。離生求於無生乎。離相好求乎法身。離文求解脱。乃至。

爾大哉。至理真法。一如化物利人。弘誓各別故。我釈迦応生於濁世。阿弥陀出現於浄土。
方雖穢浄両殊。利益斉一。若易修易証。真唯浄土教門。然彼西方殊妙難比其国土。也厳以
百宝蓮。敷九品以收人其仏名号也。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------
(五会法事讃)
『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、根に随う。
終に実相に帰せしめんとなり。真の無生を得ん者には、たれかよくこれを与えんや。しか
るに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって、ここに
仏、願力を事として衆生を度したまう。乃至。如来常に三昧海の中において、細綿を挙げ
たまうをや〈網綿の手を挙て〉。父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏す
べしと。あに離念に同じて無念を求め、生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を
求め、文を離れて解脱を求めんや。乃至。

それ大なるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆえに、
我が釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまう。方に穢・浄両殊なりといえども、
利益は斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるに、
かの西方は殊妙にして、その国土に比びがたし。また厳るに百宝蓮をもってす。九品に敷
〈ひら〉いて、以て人を収むること、それ仏の名号なりと。乃至。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次五会讃。法照禅師之所述作。一巻書也。今所引文。是序初。流布之本。深妙之下。問答
之上。有禅一字。又焉或為彼此有差。有異本法事。於義不違。至度衆生是序文也。言乃至者。
序之所残。猶有五十余行是也。

次如来等者。是釈五会念仏文也。

次爾大等者是荘厳文。問。荘厳文在前五会釈居後。今之所引前後何違。答。所問誠爾。
試今推之。上云念仏三昧是真無上深妙禅門。今云如来常於三昧海中。上所標者念仏三昧。
下所挙者諸三昧海。故三昧中念仏三昧甚深之義。鈎鎖相連為成其理。如此次第。爾大等者。
又挙二尊大悲弘誓。方明浄穢斉一利益。其次引用諸経要文。是故能讃所讃有次非無其由。

問。引一巻文。以前為後以後為前有其例耶。答。其例多之。粗挙少分。礼讃初夜採集大経
下巻要文。於三十偈。最前一礼是其奥文。第二第三第四三礼。並是末後流通文也。此文是
則十四仏国菩薩衆等皆乗仏智悉往生者。弥陀智願深広故也。為顕其義引上引之。然後又還
引初偈文。加之後夜又有此例。能令速満足功徳大宝海者。如来八種功徳終也。而於菩薩四
種功徳之後讃之。又雨天楽華衣妙香等供養者。菩薩四種功徳之第三也。而加如来功徳之中
皆有其由。問。其由如何。答。能令等句。論約能持故属如来。釈約所持故属菩薩。雨天等
句。論依能供。釈拠所供。各存一義。共以不違。此等之釈皆其例也。
-------------------------------------------------------------------------------

次に『五会讃』法照禅師の述作する所、一巻の書なり。今の所引の文は、これ序の初なり。
流布の本に「深妙」の下、「問答」の上に禅の一字あり。また「焉」或いは「為」、彼此
に差あり、異本あるか。義に於いて違せず。「度衆生」に至るまでこれ序文なり。「乃至」
というは序の残る所にして、なお五十余行ある、これなり。

次に「如来」等とは、これ五会念仏を釈する文なり。

次に「爾大」等とは、これ荘厳の文なり。問う。荘厳の文は前に在り、五会の釈は後に居
す。今の所引の前後は何ぞ違せる。答う。所問は誠に爾なり。試みに今これを推するに、
上には「念仏三昧是真無上深妙禅門」といい、今は「如来常於三昧海中」という。上に標
する所は念仏三昧なり。下に挙ぐる所は諸三昧海なり。故に三昧の中に念仏三昧甚深の義。
鈎鎖相連してその理を成ぜんが為にかくの如く次第せり。「爾大」等とは、また二尊大悲
の弘誓を挙げ、まさに浄穢斉一の利益を明かす。その次に諸経の要文を引用す。この故に
能讃・所讃、次ありてその由なきにあらず。

問う。一巻の文を引くに、前を以て後と為し、後を以て前と為す、その例ありや。答う。
その例これ多し。ほぼ少分を挙ぐ。『礼讃』の初夜に『大経』の下巻の要文を採集するに、
三十偈に於いて、最前の一礼はこれその奥の文なり。第二・第三・第四の三礼は、並びに
これ末後流通の文なり。この文はこれ則ち十四仏国の菩薩衆等、みな仏智に乗じて悉く往生
するは、弥陀の智願深広の故なり。その義を顕わさんが為に引き上げてこれを引く。然し
て後にまた還りて初の偈の文を引く。しかのみならず後夜にまたこの例あり。「能令速満
足功徳大宝海」とは如来八種の功徳の終なり。而るに菩薩四種の功徳の後に於いてこれを
讃ず。また「雨天楽華衣妙香等供養」とは、菩薩四種の功徳の第三なり。而るに如来功徳
の中に加うる、皆その由あり。問う。その由は如何。答う。「能令」等の句は、論は能持
に約す。故に如来に属す。釈は所持に約するが故に菩薩に属す。「雨天」等の句は、論は
能供に依り、釈は所供に拠る。おのおの一義を存す。共に以て違せず。これ等の釈は皆そ
の例なり。

●re.19
ボン
関東の男性
[ 1722 ] Re19:教行信証・学習ノート3 2009/12/06 (Sun) 00:10 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>浄土五会念仏略法事儀讃云。夫如来設教。広略随根。終帰乎実相。得真無生者。孰能与於
>此哉。然念仏三昧是真無上深妙門矣。以弥陀法王四十八願名号。焉仏事願力度衆生。乃至。
>如来常於三昧海中挙細綿乎〈網細綿手〉。謂父王曰。王今座禅但当念仏。豈同離念求乎無
>念。離生求於無生乎。離相好求乎法身。離文求解脱。乃至。

>爾大哉。至理真法。一如化物利人。弘誓各別故。我釈迦応生於濁世。阿弥陀出現於浄土。
>方雖穢浄両殊。利益斉一。若易修易証。真唯浄土教門。然彼西方殊妙難比其国土。也厳以
>百宝蓮。敷九品以收人其仏名号也。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(五会法事讃)
>『浄土五会念仏略法事儀讃』に云わく、それ如来、教を設けたまうに、広・略、根に随う。
>終に実相に帰せしめんとなり。真の無生を得ん者には、たれかよくこれを与えんや。しか
>るに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもって、ここに
>仏、願力を事として衆生を度したまう。乃至。如来常に三昧海の中において、細綿を挙げ
>たまうをや〈網綿の手を挙て〉。父の王に謂いて曰わく、王いま座禅してただ当に念仏す
>べしと。あに離念に同じて無念を求め、生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を
>求め、文を離れて解脱を求めんや。乃至。

>それ大なるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆえに、
>我が釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまう。方に穢・浄両殊なりといえども、
>利益は斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるに、
>かの西方は殊妙にして、その国土に比びがたし。また厳るに百宝蓮をもってす。九品に敷
>〈ひら〉いて、以て人を収むること、それ仏の名号なりと。乃至。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (五会法事讃)
  『浄土五会念仏略法事儀讃』では次のように述べる。如来は、教えを設けるにあたっ
  て、教えを受ける者の資質に応じて、広い教えと簡略な教えとをお示しになる。それ
  は、(どのような資質のものであっても)最後には、実相に到達させようとするからで
  ある。真の無生を得る者には、だれがこれ(簡略な教え)を与えることができるだろう
  か。ところが、念仏三昧は真実のこの上ない深妙の門である。弥陀法王は、四十八願
  の名号をもって、仏はここに願力を働かせて、衆生を済度なさる。(中略)如来は、
  常に、三昧の海のなかにあって、網綿の手を挙て、父である王に次のように述べた。
  王よ、いまは座禅をして、ただまさに念仏すべきである。どうして、念を離れるのと
  同じようなことをして無念を求めようとするのか、また、生を離れて無生を求めよう
  とするのか。相好を離れて法身を求めようとするのか、また、文字(文章)を離れて
  解脱を求めようとするのか。(中略)

  WikiArcより
    根
      教えを受ける者の資質。
    実相
      名号は仏のさとった諸法実相の徳が含まれているので、仏の名号のことを
      実相という。
    無生
      1.生じないこと。本来生滅変化を超えていること。涅槃の異名。また浄土
       のさとりをいう。
      2.無生法忍のこと。
    網綿
      仏の三十二相の一。手足網縵相(指の間に水かきがある)のこと。
    無相離念
      1.浄土の事相・仏の相好等を観ぜず、真如法性の理を直接、観ずること。
      2.色も形もない真如法性の理を観じて、真理と一体になること。
    無念
      有念に対する語。
       1.無相離念の理観のこと。形相を離れて理を観じ、真理と一体になること。
        分別的な限定を超えた無相の真如にかなう無分別智のこと。
       2.定善のこと。定善は心がひとつの対象に集中していて、思慮分別がはた
        らかないから無念という。
    生
      四生のこと。
    四生
      衆生が生れる四種の形態。母胎から生れる胎生、卵から生れる卵生、湿気か
      ら生れる湿生、依りどころなく、ただ業力によって忽然と生れる化生。
      一切衆生はみなこの四種の出生形態におさめられるから、迷いの世界の総称
      ともされる。
    相好
      仏身に具わっている勝れた容貌形相のこと。この中で顕著なものを三十二相
      に分け、微細なものを八十種好に分け、この両者を合して相好という。

  大辞林より
    実相
      この世界の真実でありのままの姿。法性や真如の別名とされる。


  それは、なんと大きなことだろう。理を尽くした真(まこと)の法、それはただ一つの
  絶対究極のありかたであって、物を化(ばか)し、人を利益する。弘誓は各別であるが
  ために、我が釈迦は濁世に応じて生まれ、阿弥陀は浄土に出現なされた。それはまさ
  に穢と浄という二つの特殊なありかたではあるが、その利益は同じである。仮にも、
  修しやすく、また、結果が得やすいのは、まことにただ浄土の教門である。そのよう
  なわけで、かの西方は特に優れていて、その国土に比類するものはない。また、それ
  を厳かなものとするのに、百の宝の蓮を用いている。九品(上品・中品・下品)に対し
  て開かれていて、それによって人を収め取ること、それは仏の名号である。(中略)

  WikiArcより
    一如
      一は絶対不二の意。如は梵語タタターの漢訳。真如のこと。
    真如
      梵語タタターの漢訳。かくあること。衆生の虚妄分別を超えた存在のありの
      ままのすがた。形相を超えた絶対究極のありかた。すなわちすべての存在の
      本性が、あらゆる差別的な相を超えて絶対の一であることをいう。

●re.20
ボン
関東の男性
[ 1723 ] Re20:教行信証・学習ノート3 2009/12/06 (Sun) 00:10 △up ▽down
(つづき)

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『五会讃』法照禅師の述作する所、一巻の書なり。今の所引の文は、これ序の初なり。
>流布の本に「深妙」の下、「問答」の上に禅の一字あり。また「焉」或いは「為」、彼此
>に差あり、異本あるか。義に於いて違せず。「度衆生」に至るまでこれ序文なり。「乃至」
>というは序の残る所にして、なお五十余行ある、これなり。

  次の『五会法事讃』は、法照禅師の述作したもので、一巻の書である。ここの引用文
  は、序の初めである。流布している本では、「深妙」の下、「問答」の上に禅の一字
  がある。また「焉」あるいは「為」について、あちらとこちらで差があり、異本があ
  るようだ。しかし、その意味は変わらない。「度衆生」に至るまでが、序文である。
  「乃至」というのは、序の残る部分に、まだ五十余行があるからである。

    法照
      (8世紀頃)中国唐代の僧。五会念仏をすすめたので五会法師とも呼ばれた。
      また善導大師の生れかわりという意味で後善導ともいわれる。
      著書に『五会法事讃』がある。


>次に「如来」等とは、これ五会念仏を釈する文なり。

  次に「如来・・・」等というのは、五会念仏を釈する文である。


>次に「爾大」等とは、これ荘厳の文なり。問う。荘厳の文は前に在り、五会の釈は後に居
>す。今の所引の前後は何ぞ違せる。答う。所問は誠に爾なり。試みに今これを推するに、
>上には「念仏三昧是真無上深妙禅門」といい、今は「如来常於三昧海中」という。上に標
>する所は念仏三昧なり。下に挙ぐる所は諸三昧海なり。故に三昧の中に念仏三昧甚深の義。
>鈎鎖相連してその理を成ぜんが為にかくの如く次第せり。「爾大」等とは、また二尊大悲
>の弘誓を挙げ、まさに浄穢斉一の利益を明かす。その次に諸経の要文を引用す。この故に
>能讃・所讃、次ありてその由なきにあらず。

  次に「爾大・・・」等というのは、荘厳の文である。問う。荘厳の文は前にあり、
  五会の釈はその後に置かれている。この引用の前後は、どうして逆転しているのか。
  答える。その問いは、まったくもっともである。試みに、今これを推察するに、上に
  は「念仏三昧是真無上深妙禅門」といい、ここ(下)では「如来常於三昧海中」という。
  上に示すところは念仏三昧である。下に取り上げるところは諸三昧海なり。だから、
  三昧のなかでも念仏三昧が甚深であるということである。鈎鎖(カギとクサリ)をあい
  連ねてその理(ことわり)をなそうとして、このような次第となっている。「爾大・・」
  等というのは、また、二尊(阿弥陀如来と釈迦如来)の大悲の弘誓を取り上げて、まさ
  に浄土と穢土とで等しく変わらない利益を明らかにしている。その次に、諸経の重要
  な文言を引用する。だから、能讃(讃嘆をさせる教え)と所讃(讃嘆するところのもの
  =名号)が次にあって、その理由がないこともないのである。

  WikiArcより
    荘厳
      うるわしく身や国土を飾ること。身・口・意の三業をととのえて清浄にする
      こと。天親菩薩の『浄土論』には、阿弥陀仏の浄土のうるわしさについて
      二十九種荘厳を説く。大別して依報荘厳に十七種、正報荘厳の中、仏荘厳に
      八種、菩薩荘厳に四種ある。
    二尊
      阿弥陀如来と釈迦如来とをいう。

  常見寺データベースより(能讃・所讃について)
      標挙の「諸仏称名之願」は能讃の側を「称」とあらわし、所讃の側を「我名」
      とあらわして、「称名」の語において能所讃の両方があらわされいて、
      第十七願の全相が示されています。
        咨嗟称…………称……教(能讃)
        我名(名号)…名……行(所讃)
      このように第十七願は、「咨嗟称」の能讃の側を主とすれば「真実教」を誓っ
      た願となり、「教文類」の意となります。また所讃の側を主とすれば、救いの
      法たる「我名」を行法として誓った願となり、「行文類」の標挙となります。


>問う。一巻の文を引くに、前を以て後と為し、後を以て前と為す、その例ありや。答う。
>その例これ多し。ほぼ少分を挙ぐ。『礼讃』の初夜に『大経』の下巻の要文を採集するに、
>三十偈に於いて、最前の一礼はこれその奥の文なり。第二・第三・第四の三礼は、並びに
>これ末後流通の文なり。この文はこれ則ち十四仏国の菩薩衆等、みな仏智に乗じて悉く往生
>するは、弥陀の智願深広の故なり。その義を顕わさんが為に引き上げてこれを引く。然し
>て後にまた還りて初の偈の文を引く。しかのみならず後夜にまたこの例あり。「能令速満
>足功徳大宝海」とは如来八種の功徳の終なり。而るに菩薩四種の功徳の後に於いてこれを
>讃ず。また「雨天楽華衣妙香等供養」とは、菩薩四種の功徳の第三なり。而るに如来功徳
>の中に加うる、皆その由あり。問う。その由は如何。答う。「能令」等の句は、論は能持
>に約す。故に如来に属す。釈は所持に約するが故に菩薩に属す。「雨天」等の句は、論は
>能供に依り、釈は所供に拠る。おのおの一義を存す。共に以て違せず。これ等の釈は皆そ
>の例なり。

  問う。一巻の文を引用するにあたって、前を後とし、後を前とするような例はあるか。
  答える。その例は多い。大雑把に少しの例を挙あげる。『礼讃』の初夜で、『大経』
  の下巻の要点となる文章を採って集めるときに、三十偈において、最前の一礼はその
  奥の文である。第二・第三・第四の三礼は、どれも末後の流通の文である。この文は、
  すなわち、十四仏国の菩薩衆などが、みな仏智に乗じてあまねく往生するのは、弥陀
  の智願が深くて広ためであり、その義を明らかにするために、前に繰り上げて引用し
  ているのである。そうして後にまた、先に戻って初めの偈の文を引用している。それ
  ばかりでなく、後夜にもまたこのような例がある。「能令速満足功徳大宝海」という
  のは、如来の八種の功徳の終わりである。ところが、菩薩の四種の功徳の後において
  これを讃嘆している。また「雨天楽華衣妙香等供養」とは、菩薩の四種の功徳の第三
  である。ところが、如来の功徳のなかにこれを加えているが、それもみな理由がある。
  問う。その理由はなにか。答える。「能令・・・」等の句は、論では能持(保つ者)に
  集約される。だから、そでは如来に属することである。釈では所持(保たれる側)に
  集約されるために、それは菩薩に属することである。「雨天・・・」等の句は、論で
  は能供(与える者)に依り、釈は所供(与えられる者)に拠る。そのどちらも一理がある。
  どりらも違っているわけではない。これらの釈は、みなその例である。

  WikiArcより
    陀羅尼
      梵語ダーラニーの音写。総持、能持と漢訳する。種々の善法を保持し、悪法
      を起さしめない力のこと。
    総持
      梵語ダーラニーの漢訳。陀羅尼と音写。仏の教えの精要をわずかな言語にお
      さめた章句のこと。
        1.広博な経の文意を総摂して短い偈のなかにおさめたもつこと。
        2.よくすべてをおさめ保って忘れない力。ひとつのことがらを記憶する
         ことによって、あらゆることがらを連想して忘れない記憶術。
        3.万善万行を欠けることなく円(まど)かに供えた名号のこと。
        4.智慧のこと。

●re.21
ボン
関東の男性
[ 1724 ] Re21:教行信証・学習ノート3 2009/12/06 (Sun) 00:59 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
依称讃浄土経 釈法照 如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 
観音勢至自来迎 弥陀本願特超〈起〉殊 慈悲方便引凡夫 一切衆生皆度脱 
称名即得罪消除 凡夫若得到西方 曠劫塵沙罪消亡 具六神通得自在 永除老病離無常。
-------------------------------------------------------------------------------
(五会法事讃)『称讃浄土経』に依る。釈法照。如来の尊号は、はなはだ分明なり。
十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。
観音・勢至、自ずから来り迎えたまう。弥陀の本願特〈こと〉に超殊せり。慈悲方便して
凡夫を引く。一切衆生、みな度脱す。名を称すればすなわち、罪、消除することを得。
凡夫、もし西方に到ることを得れば、曠劫塵沙の罪消亡す。六神通を具し自在を得て、
永く老病を除き、無常を離る。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次同七言数首之中。云依称讃浄土経之三首文者。浄土楽讃一十九首。
其中第九并第十一第十五也。問。此等之讃依彼経之何文意耶。答。不指一文。
只讃本意。以下諸讃皆可准之。
-------------------------------------------------------------------------------

次に同じき七言数首の中に、「称讃浄土経に依る」との三首の文は、浄土楽の讃一十九首、
その中の第九并びに第十一・第十五なり。問う。これ等の讃は彼の経の何れの文の意に依
るや。答う。一文を指さず。ただ本意を讃ず。以下の諸讃も皆これに准ずべし。

●re.22
ボン
関東の男性
[ 1725 ] Re22:教行信証・学習ノート3 2009/12/06 (Sun) 01:00 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>依称讃浄土経 釈法照 如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 
>観音勢至自来迎 弥陀本願特超〈起〉殊 慈悲方便引凡夫 一切衆生皆度脱 
>称名即得罪消除 凡夫若得到西方 曠劫塵沙罪消亡 具六神通得自在 永除老病離無常。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(五会法事讃)『称讃浄土経』に依る。釈法照。如来の尊号は、はなはだ分明なり。
>十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。
>観音・勢至、自ずから来り迎えたまう。弥陀の本願特〈こと〉に超殊せり。慈悲方便して
>凡夫を引く。一切衆生、みな度脱す。名を称すればすなわち、罪、消除することを得。
>凡夫、もし西方に到ることを得れば、曠劫塵沙の罪消亡す。六神通を具し自在を得て、
>永く老病を除き、無常を離る。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (五会法事讃)
  『称讃浄土経』による。釈法照。
  如来の尊号は、はなはだ明白である。十方世界にあまねく行き渡って、行じられてい
  る。ただ名を称するのみで、みな往生することができる。観音と勢至が、自ずから来
  て迎えてくれる。弥陀の本願は、ことに非常に優れている。慈悲と方便によって凡夫
  を引き寄せる。一切の衆生は、みな度脱する。名を称すれば、すなわち、罪を消し除
  くことができる。もし凡夫が西方に到達することができれば、計り知れない長いあい
  だの数限りない罪が消し去られる。六つの神通をそなえて、自在を得て、末永く老病
  を除き、無常を離れるのである。

    方便
      梵語ウパーヤの漢訳。近づく、到達するの意で、巧みな方法を用いて衆生を
      導くこと。各宗の教学で種々に分類解釈されるが、浄土真宗では、権仮方便
      と善巧ほうべんとの二種類が用いられる。
    権仮方便
      真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便の願、方便の行信、
      方便仮身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入
      ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法
      といわれる。
    善巧方便
      仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに
      教化する大悲の具現としての手段、方法。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に同じき七言数首の中に、「称讃浄土経に依る」との三首の文は、浄土楽の讃一十九首、
>その中の第九并びに第十一・第十五なり。問う。これ等の讃は彼の経の何れの文の意に依
>るや。答う。一文を指さず。ただ本意を讃ず。以下の諸讃も皆これに准ずべし。

  次に、同じ文の七言数首のなかの、「称讃浄土経に依る」といわれる三首の文は、
  浄土楽の讃一十九首のなかの第九ならびに第十一・第十五である。問う。これらの讃
  は、その経のどの文の意(こころ)によるものか。答える。それは、一つの文を指すも
  のではない。ただその本意を讃嘆している。以下の諸讃も、みなこれに準ずるべきで
  ある。

●re.23
ボン
関東の男性
[ 1727 ] Re23:教行信証・学習ノート3 2009/12/08 (Tue) 01:48 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
依仏本行経 法照 何者名之為正法 若箇道理是真宗 好悪今時須決択 一一子細莫朦朧
正法能超出世間 持戒座禅名正法 念仏成仏是真宗 不取仏言名外道 撥無因果見為空 
正法能超出世間 禅律如何是正法 念仏三昧是真宗 見性了心便是仏 如何道理不相応。
略抄。
-------------------------------------------------------------------------------
(五会法事讃)『仏本行経』に依る。法照。何者をか、これを名づけて正法とする。もし
道理に箇〈よ〉らば、これ真宗なり。好悪いまの時、須らく決択すべし。一一に子細朦朧
〈朦=くらし。朧=こもる〉することなかれ。正法よく世間を超出す。持戒・座禅を正法
と名づく。念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるを外道と名づく。因果を撥無する見
を空とす。正法よく世間に超出す。禅律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧はこれ真宗な
り。性を見、心を了るは、すなわちこれ仏なり。いかんが道理、相応せざらん。略抄。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次依仏本行経三首正法楽讃。彼讃総有三十二首。今所引者第二十九及第三十第三十一。
正法能超出世間句皆在毎句之中間也。
-------------------------------------------------------------------------------

次に『仏本行経』に依る三首は正法楽の讃なり。彼の讃に総じて三十二首あり。今の所引
は第二十九及び第三十・第三十一なり。「正法能超出世間」の句は皆毎句の中間にあり。

●re.24
ボン
関東の男性
[ 1728 ] Re24:教行信証・学習ノート3 2009/12/08 (Tue) 01:48 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>依仏本行経 法照 何者名之為正法 若箇道理是真宗 好悪今時須決択 一一子細莫朦朧
>正法能超出世間 持戒座禅名正法 念仏成仏是真宗 不取仏言名外道 撥無因果見為空 
>正法能超出世間 禅律如何是正法 念仏三昧是真宗 見性了心便是仏 如何道理不相応。
>略抄。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(五会法事讃)『仏本行経』に依る。法照。何者をか、これを名づけて正法とする。もし
>道理に箇〈よ〉らば、これ真宗なり。好悪いまの時、須らく決択すべし。一一に子細朦朧
>〈朦=くらし。朧=こもる〉することなかれ。正法よく世間を超出す。持戒・座禅を正法
>と名づく。念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるを外道と名づく。因果を撥無する見
>を空とす。正法よく世間に超出す。禅律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧はこれ真宗な
>り。性を見、心を了るは、すなわちこれ仏なり。いかんが道理、相応せざらん。略抄。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (五会法事讃)
  『仏本行経』による。法照。
  何を正法と名づけるのか。もし道理によるならば、これは真宗である。好し悪しを、
  いまの時は、明らかに決め定めるべきである。一つ一つのいわれを曖昧にしてはいけ
  ない。正法は、この世の中を超え出ることができる。持戒と座禅を正法と名づける。
  仏を念じて仏となることは真宗である。仏の言葉を取り入れないものを外道と名づけ
  る。因果を否定する見方は、空見である。正法は、この世の中を超え出ることができ
  る。禅と律は、どうして正法であるのだろうか。念仏三昧は真宗である。本質を見て、
  心を理解するのは、仏である。どうして道理が、相応しないことがあろうか。(抜粋)

  WikiArcより
    仏本行経
      『仏本行讃伝』七巻のこと。劉宋の宝雲の訳。釈尊一代の行状を記したもの。
    決択
      明らかに決め定めること。
    子細
      わけ。いわれ。意味。事情。
    朦朧
      曖昧なこと。はっきりしないこと。
    持戒
      戒をたもつこと。釈尊が定められた戒律を守って犯さぬこと。
    撥無
      払いのけて用いないこと。否定すること。
    空
      空見。善悪因果の道理を空無とする邪見。
    律
      「四分律」のこと。後秦仏陀耶舎訳。法蔵部に伝持されていた律蔵で、戒法
      を四部に分類するためこの名がある。
    性
      T 本質、本性。
      U 仏性のこと。

  大辞林より
    禅律
      禅宗と律宗。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次依仏本行経三首正法楽讃。彼讃総有三十二首。今所引者第二十九及第三十第三十一。
>正法能超出世間句皆在毎句之中間也。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に『仏本行経』に依る三首は正法楽の讃なり。彼の讃に総じて三十二首あり。今の所引
>は第二十九及び第三十・第三十一なり。「正法能超出世間」の句は皆毎句の中間にあり。

  次に『仏本行経』による三首は、正法楽の讃である。その讃には、総じて三十二首が
  ある。ここでの引用箇所は、第二十九、および、第三十・第三十一である。
  「正法能超出世間」の句は、みなそれぞれの句の中間にある。

●re.25
ボン
関東の男性
[ 1734 ] Re25:教行信証・学習ノート3 2009/12/10 (Thu) 00:22 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
依阿弥陀経 西方進道勝娑婆 縁無五欲及邪魔 成仏不労諸善業 華台端座念弥陀 
五濁修行多退転 不如念仏往西方 到彼自然成正覚 還来苦界作津梁 万行之中為急要 
迅速無過浄土門 不但本師金口説 十方諸仏共伝証 此界一人念仏名 西方便有一蓮生 
但使一生常不退 此華還到此間迎。略抄。
-------------------------------------------------------------------------------
(五会法事讃)『阿弥陀経』に依る。西方は道に進むこと、娑婆に勝れたり。五欲および
邪魔なきに縁って、成仏するにもろもろの善業を労〈いたわ〉しくせず、華台に端座して、
弥陀を念ず。五濁の修行は多く退転す。念仏して西方に往くにはしかず。彼に到れば自然
に正覚を成る。苦界に還来〈かえ〉りて津梁と作らん。万行の中に急要たり。迅速なるこ
と、浄土門に過ぎたるはなし。ただ本師金口の説のみにあらず。十方諸仏共に伝え証した
まう。この界に一人、仏の名を念ずれば、西方すなわち一蓮ありて生ず。ただし一生常に
して不退ならしむれば、この華還りてこの間に到りて迎う。略抄。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次依小経四首文者。西方楽讃十五首中。第二第三並第十二及第十四皆最要文。
-------------------------------------------------------------------------------

次に『小経』に依る四首の文は、西方楽の讃の十五首の中に、第二・第三並びに第十二及
び第十四なり。みな最要の文なり。

●re.26
ボン
関東の男性
[ 1735 ] Re26:教行信証・学習ノート3 2009/12/10 (Thu) 00:23 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>依阿弥陀経 西方進道勝娑婆 縁無五欲及邪魔 成仏不労諸善業 華台端座念弥陀 
>五濁修行多退転 不如念仏往西方 到彼自然成正覚 還来苦界作津梁 万行之中為急要 
>迅速無過浄土門 不但本師金口説 十方諸仏共伝証 此界一人念仏名 西方便有一蓮生 
>但使一生常不退 此華還到此間迎。略抄。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(五会法事讃)『阿弥陀経』に依る。西方は道に進むこと、娑婆に勝れたり。五欲および
>邪魔なきに縁って、成仏するにもろもろの善業を労〈いたわ〉しくせず、華台に端座して、
>弥陀を念ず。五濁の修行は多く退転す。念仏して西方に往くにはしかず。彼に到れば自然
>に正覚を成る。苦界に還来〈かえ〉りて津梁と作らん。万行の中に急要たり。迅速なるこ
>と、浄土門に過ぎたるはなし。ただ本師金口の説のみにあらず。十方諸仏共に伝え証した
>まう。この界に一人、仏の名を念ずれば、西方すなわち一蓮ありて生ず。ただし一生常に
>して不退ならしむれば、この華還りてこの間に到りて迎う。略抄。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (五会法事讃)『阿弥陀経』に依る。
  西方は、仏道に進むことについては、娑婆(この世)よりも勝れている。そこでは五つ
  の欲および邪魔がないために、成仏するにあたって、もろもろの善業を労することな
  しに、蓮華の台に端座して、弥陀を念ずるようになるのである。五つの濁りにまみれ
  て修行をしても、その多くは退転する。念仏して西方に往くに越したことはない。
  そこに到達すれば、自然と正しい覚りが成就する。そして、苦界(この世)に還って来
  て、(西方への)架け橋となるであろう。万行のなかでも、緊急な要(かなめ)である。
  迅速であることについて、浄土門に勝るものはない。ただ単に、釈尊の口から出た
  教説であるというだけではない。十方の諸仏が、ともに伝え、そして、それを現実の
  ものとしているのである。この世界において、一人が仏の名を念ずれば、西方に一つ
  の蓮台が生ずる。ただし、一つの生が変わらずに不退であるようにさせたならば、
  この華(蓮台)は、この世間にもどってきてその人を迎えるのである。(抜粋)

  WikiArcより
    魔
      梵語マーラの音写。悪魔、人の生命を奪い善を障碍する悪鬼神。魔羅の略。
      欲界第六天の主である魔王。転じてさとりに至ることを妨げるもの、煩悩
      を指す。
    華台
      蓮華台
    津梁
      津は渡し場。梁は橋。
    本師金口の説
      釈尊の口から出た教説。

  大辞林より
    邪魔
      仏道修行のさまたげをする悪魔。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『小経』に依る四首の文は、西方楽の讃の十五首の中に、第二・第三並びに第十二及
>び第十四なり。みな最要の文なり。

  次に『小経』による四首の文は、西方楽の讃の十五首のなかの、第二・第三、
  ならびに、第十二、および、第十四である。みな最も重要な文である。

●re.27
ボン
関東の男性
[ 1739 ] Re27:教行信証・学習ノート3 2009/12/11 (Fri) 21:57 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
依般舟三昧経 慈愍和尚 
今日道場諸衆等 恒沙曠劫総経来 度此人身難値遇 喩若優曇華始開 正値希聞浄土教
正値念仏法門開 正値弥陀弘誓喚 正値大衆信心回 正値今日依経讃 正値結契上華台
正値道場無魔事 正値無病総能来 正値七日功成就 四十八願要相携 普勧道場同行者
努力回心帰去来 借問家郷何処在 極楽池中七宝台 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏
能令瓦礫変成金 寄語現前大衆等 同縁去者早相尋 借問相尋何処去 報ドウ弥陀浄土中
借問何縁得生彼 報ドウ念仏自成功 借問今生多罪障 如何浄土肯相容 報ドウ称名罪消滅
喩若明灯入闇中 借問凡夫得生否 如何一念闇中明 報ドウ除疑多念仏 弥陀決定自親近。
要抄。
-------------------------------------------------------------------------------
(五会法事讃)『般舟三昧経』に依る。慈愍和尚。
今日道場の諸衆等、恒沙曠劫よりすべて経来〈経=へ。来=かえ〉れり。この人身を度る
に値遇しがたし。たとえば優曇華の始めて開くがごとし。正にまれに浄土の教を聞くに値
えり。正しく念仏法門開けるに値えり。正しく弥陀の弘誓の喚いたまうに値えり。正しく
大衆信心あって回するに値えり。正しく今日、経に依って讃するに値えり。正しく契りを
上華台に結ぶに値えり。正しく道場に魔事なきに値えり。正しく無病にしてすべてよく来
〈かえ〉るに値えり。正しく七日功、成就するに値えり。四十八願、かならず相携う。
あまねく道場の同行の者とを勧む、ゆめゆめ回心して、帰去来〈いざいなん〉。借りに問
う、家郷はいずれの処にかある。極楽池の中、七宝の台なり。かの仏の因中に弘誓を立て
たまえり。名を聞きて我を念ぜば、すべて迎え来〈かえ〉らしめん。貧窮とまさに富貴と
を簡ばず。下智と高才とを簡ばず。多聞と浄戒を持てるとを簡ばず。破戒と罪根深きとを
簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫を変じて金と成すがごとくならしむ。
語〈ことば〉を現前大衆等に寄す。同縁去らん者〈ひと〉、早く相尋ねん。借りに問う、
いずれの処を相尋ねてか去〈ゆ〉かんと。報えていわく、弥陀浄土の中へ。借りに問う、
何に縁って、彼に生ずることを得ん。報えていわく、念仏自ずから功を成す。借りに問う、
今生に罪障多し、いかんぞ浄土にあえて相容らんや。報えていわく、名を称すれば罪消滅
す。たとえば明燈の闇中に入るがごとし。借りに問う、凡夫、生を得やいなや、いかんぞ
一念に闇中明らかならんや。報えていわく、疑いを除きて多く念仏すれば、弥陀決定して
自ずから親近したもうと。抄要。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次依般舟二十行者。即是般舟三昧楽讃。一行二句以為一首。総有三十八首之中。
第十七首以下至終。但於其中不簡下智与高才次。不簡多聞持浄戒上。二行四句有所除也。
-------------------------------------------------------------------------------

次に『般舟』に依る二十行は、即ちこれ般舟三昧楽の讃の一行二句を以て一首と為す。
総じて三十八首ある中に、第十七首以下、終に至るまでなり。ただしその中に於いて
「不簡下智与高才」の次、「不簡多聞持浄戒」の上の二行四句は除く所あるなり。

●re.28
ボン
関東の男性
[ 1740 ] Re28:教行信証・学習ノート3 2009/12/12 (Sat) 11:41 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>依般舟三昧経 慈愍和尚 
>今日道場諸衆等 恒沙曠劫総経来 度此人身難値遇 喩若優曇華始開 正値希聞浄土教
>正値念仏法門開 正値弥陀弘誓喚 正値大衆信心回 正値今日依経讃 正値結契上華台
>正値道場無魔事 正値無病総能来 正値七日功成就 四十八願要相携 普勧道場同行者
>努力回心帰去来 借問家郷何処在 極楽池中七宝台 彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
>不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏
>能令瓦礫変成金 寄語現前大衆等 同縁去者早相尋 借問相尋何処去 報ドウ弥陀浄土中
>借問何縁得生彼 報ドウ念仏自成功 借問今生多罪障 如何浄土肯相容 報ドウ称名罪消滅
>喩若明灯入闇中 借問凡夫得生否 如何一念闇中明 報ドウ除疑多念仏 弥陀決定自親近。
>要抄。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(五会法事讃)『般舟三昧経』に依る。慈愍和尚。
>今日道場の諸衆等、恒沙曠劫よりすべて経来〈経=へ。来=かえ〉れり。この人身を度る
>に値遇しがたし。たとえば優曇華の始めて開くがごとし。正にまれに浄土の教を聞くに値
>えり。正しく念仏法門開けるに値えり。正しく弥陀の弘誓の喚いたまうに値えり。正しく
>大衆信心あって回するに値えり。正しく今日、経に依って讃するに値えり。正しく契りを
>上華台に結ぶに値えり。正しく道場に魔事なきに値えり。正しく無病にしてすべてよく来
>〈かえ〉るに値えり。正しく七日功、成就するに値えり。四十八願、かならず相携う。
>あまねく道場の同行の者とを勧む、ゆめゆめ回心して、帰去来〈いざいなん〉。借りに問
>う、家郷はいずれの処にかある。極楽池の中、七宝の台なり。かの仏の因中に弘誓を立て
>たまえり。名を聞きて我を念ぜば、すべて迎え来〈かえ〉らしめん。貧窮とまさに富貴と
>を簡ばず。下智と高才とを簡ばず。多聞と浄戒を持てるとを簡ばず。破戒と罪根深きとを
>簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫を変じて金と成すがごとくならしむ。
>語〈ことば〉を現前大衆等に寄す。同縁去らん者〈ひと〉、早く相尋ねん。借りに問う、
>いずれの処を相尋ねてか去〈ゆ〉かんと。報えていわく、弥陀浄土の中へ。借りに問う、
>何に縁って、彼に生ずることを得ん。報えていわく、念仏自ずから功を成す。借りに問う、
>今生に罪障多し、いかんぞ浄土にあえて相容らんや。報えていわく、名を称すれば罪消滅
>す。たとえば明燈の闇中に入るがごとし。借りに問う、凡夫、生を得やいなや、いかんぞ
>一念に闇中明らかならんや。報えていわく、疑いを除きて多く念仏すれば、弥陀決定して
>自ずから親近したもうと。抄要。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (五会法事讃)『般舟三昧経』による。慈愍和尚。
  今日、道場にいる諸々の人々は、すべて、想像を絶する長い時間を経て戻ってきた。
  この人身を(浄土に)渡すところに遭遇することは難しい。たとえば、優曇華が初めて
  開くようなものである。まさに、まれに浄土の教えを聞くことに遭遇した。まさしく、
  念仏の法門が開いた場面に遭遇した。まさしく、弥陀が弘誓を叫ぶところに遭遇した。
  まさしく、大衆に信心があって回向されるところに遭遇した。まさしく、今日、経に
  よって讃嘆することに遭遇した。まさしく、契りを上華台に結ぶことに遭遇した。ま
  さしく、道場に魔事のないことに遭遇した。まさしく、みなに病がなく、かえってく
  ることに遭遇した。まさしく、七日の功徳が成就することに遭遇した。四十八願は、
  かならず連れ添っている。あまねく道場の同行の者を勧める。努めて回心して、さあ
  帰ろう。仮に問う。ふるさとは、どこにあるのか。それは、極楽の池のなかの七宝の
  台にある。かの仏(阿弥陀仏)は、因位のときに弘誓を立てた。名を聞いて私を念ずれ
  ば、すべてのものを迎えて、帰らせるようにしよう。貧しく窮乏していようと、富が
  あり高貴な生まれであろうと、それは問題ではない。智恵が低いのか、才能が高いの
  かも、問題ではない。仏の教説を数多く聞いてきたのか、正常な戒品を保ってきたの
  か、それも問題ではない。戒を破ろうが、罪根が深かろうが、問題ではない。ただ心
  をひるがえして、多く念仏をすれば、瓦礫を金に変えることができる、というような
  ものである。言葉を現前する大衆等に向ける。同じ縁にある去った人を、早く相い訪
  ねなさい。仮に問う。どこを訪ねてゆくのか。答える。弥陀の浄土の中へ。仮に問う。
  何によって、彼の土に生ずることができるのか。答える。念仏が自ずから功徳となる。
  仮に問う。今生では罪と障(さわり)が多い。どうして、浄土は、あえて受け入れるだ
  ろうか。答える。名を称すれば、罪は消滅する。たとえば、明るい灯かりが闇のなか
  に入るようなものである。仮に問う。凡夫が生を得たらすぐに、どうして、一念で闇
  のなかが明るくなるのだろうか。答える。疑いを除いて多く念仏すれば、弥陀は間違
  いなく、自ずから親しみ近づいてくださるのである。(抜粋)

  WikiArcより
    道場
      道とはさとりのことで、道場とはさとりを開く場所のこと。もとは釈尊がさとり
      を開いた場所、ブッダ・ガヤーの菩提樹下を指した(寂滅道場)。ひろく仏道修行
      の場をいうが、とくに浄土真宗の場合、門徒の集会場所としてつくった建物をいう。
    上華台
      すぐれた蓮華の台座(うてな)。
    帰去来
      さあ帰ろう。陶淵明(365-427)の「帰去来辞(ききょらいのじ)」の中の言葉。
      故郷に帰る決意を述べたものであるが、ここでは浄土に生れたいという意
      をあらわす。
    家郷
      ふるさと。
    多聞
      仏の教説を数多く聞くこと。
    回心
      心をひるがえすこと。
        1.悪心を改めて仏の教えに帰すること。回心懺悔のこと。
        2.自力の心を捨てて本願他力に帰すること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『般舟』に依る二十行は、即ちこれ般舟三昧楽の讃の一行二句を以て一首と為す。
>総じて三十八首ある中に、第十七首以下、終に至るまでなり。ただしその中に於いて
>「不簡下智与高才」の次、「不簡多聞持浄戒」の上の二行四句は除く所あるなり。

  次に『般舟』による二十行は、般舟三昧楽の讃の一行二句をもって一首としている。
  総じて三十八首あるなかで、第十七首から終に至るまでである。ただし、そのなか
  で「不簡下智与高才」の次から「不簡多聞持浄戒」の手前まで二行四句については、
  除かれているところがある。

●re.29
ボン
関東の男性
[ 1741 ] Re29:教行信証・学習ノート3 2009/12/14 (Mon) 01:26 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
依新無量寿観経 法照 十悪五逆至愚人 永劫沈淪在久塵 一念称得弥陀号 
至彼還同法性身。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(五会法事讃)『新無量寿観経』に依る。法照。
十悪五逆至れる愚人、永劫に沈淪〈しずみしずむ〉して久塵にあり。
一念、弥陀号を称得して、彼に至れば還りて法性身に同ずと。已上。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次新無量寿観経讃。一四句偈二十八首。今於其中此一首者第二十七下輩讃也。問。
新無量者指何経耶。答。是指観経。元照釈云。凡有両訳。前本已亡。今本乃彊良耶舎
訳(当巻之下被引載之)。今対前本所称新也。新字難思。然而彊良耶舎訳外。雖聞古
有其異訳本。欠不行世。只此一本流布世間。方知只指此覲経也。随而此讃始終皆讃今経
之意。但就新字試加料簡。今依寿前観後之義。以寿為旧。以観為新。為示其義如此題歟。
-------------------------------------------------------------------------------

次に『新無量寿観経』の讃、一四句偈二十八首。今その中に於いて、この一首は第二十七
下輩の讃なり。問う。『新無量』とは何れの経を指すや。答う。これ『観経』を指す。
元照の釈に云わく「凡そ両訳あり。前の本は已に亡ず。今の本は乃ち彊良耶舎の訳」
(当巻の下にこれを引き載せらる)。今は前の本に対して新と称する所なり。新の字は
思いがたし。然り而して彊良耶舎の訳の外に、古にその異訳の本あることを聞くと
いえども欠して世に行ぜず。ただこの一本、世間に流布す。まさに知りぬ、ただこの
『覲経』を指すなり。随いてこの讃の始終は皆今経の意を讃ず。ただ新の字に就きて
試みに料簡を加えば、今は寿前観後の義に依りて『寿』を以て旧と為し、
『観』を以て新と為して、その義を示さんが為に、かくの如く題するか。

●re.30
ボン
関東の男性
[ 1745 ] Re30:教行信証・学習ノート3 2009/12/14 (Mon) 01:27 △up ▽down
>-------------------------------------------------------------------------------
>依新無量寿観経 法照 十悪五逆至愚人 永劫沈淪在久塵 一念称得弥陀号 
>至彼還同法性身。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(五会法事讃)『新無量寿観経』に依る。法照。
>十悪五逆至れる愚人、永劫に沈淪〈しずみしずむ〉して久塵にあり。
>一念、弥陀号を称得して、彼に至れば還りて法性身に同ずと。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (五会法事讃)『新無量寿観経』による。法照。
  十悪五逆に至る愚かな人は、想像を絶する長い間、沈みに沈んで、ながく煩悩の塵に
  まみれている。一念、弥陀の名号を称して自分のものとして、彼の地に至れば、還っ
  て法性の身と同じとなる。

  WikiArcより
    久塵
      ながく煩悩の塵にまみれていること。
    法性
      梵語ダルマターの漢訳。法の法たる性という意で、一切の存在の真実常住な
      る本性を指す。真如・実相・法界などの異名として用いられる。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『新無量寿観経』の讃、一四句偈二十八首。今その中に於いて、この一首は第二十七
>下輩の讃なり。問う。『新無量』とは何れの経を指すや。答う。これ『観経』を指す。
>元照の釈に云わく「凡そ両訳あり。前の本は已に亡ず。今の本は乃ち彊良耶舎の訳」
>(当巻の下にこれを引き載せらる)。今は前の本に対して新と称する所なり。新の字は
>思いがたし。然り而して彊良耶舎の訳の外に、古にその異訳の本あることを聞くと
>いえども欠して世に行ぜず。ただこの一本、世間に流布す。まさに知りぬ、ただこの
>『覲経』を指すなり。随いてこの讃の始終は皆今経の意を讃ず。ただ新の字に就きて
>試みに料簡を加えば、今は寿前観後の義に依りて『寿』を以て旧と為し、
>『観』を以て新と為して、その義を示さんが為に、かくの如く題するか。

  次に『新無量寿観経』の讃、一四句偈二十八首である。ここで、そのなかで、この
  一首は第二十七の下輩の讃である。問う。『新無量』とは、どの経を指すのか。
  答える。これは『観経』を指す。元照の釈では次のようにのべる。「おおよそ二つ訳
  がある。前の本は、すでになくなっている。ここでの本は、彊良耶舎の訳である。」
  (当巻の下で、これを引用している)。ここ(元照の釈)では、前の本に対して、新と称
  するものである。(しかし)新の字は思いがたい。そのとおりであり、そうして、
  彊良耶舎の訳のほかに、昔に、その異訳の本があったことを聞いてはいるが、今では
  無くなってしまい、世に行き渡っていない。ただこの一つの本のみが、世間に流布し
  ているのである。まさに知られることは、それが、ただ『観経』を指すということで
  ある。したがって、この讃は、終始一貫して、みなこの経の意(こころ)を讃嘆してい
  る。ただ、新の字について試みに解釈を加えば、ここでは「寿前観後」の義によって
  『寿(大無量寿経)』を旧とし、『観(観無量寿経)』を新として、その意味を示すため
  に、このよう表題を付けるのだろうか。

●re.31
ボン
関東の男性
[ 1746 ] Re31:教行信証・学習ノート3 2009/12/14 (Mon) 22:45 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
憬興師云。如来広説有二。初広説如来浄土果即所行所成也。後広顕衆生往生果〈因果〉
即所摂所益也。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)憬興師の云わく、如来の広説に二あり。初めには広く如来浄土の果〈因果〉、
すなわち所行・所成を説きたまえるなり。後には広く衆生往生の因果、すなわち所摂・
所益を顕したまえるなり。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次憬興釈。大経疏文。彼疏名曰無量寿経連義述文賛。分為三巻。上中下也。今所引者中
巻文也。三段之中於正宗分(名曰問答広説分)有六文段。其中今言如来広説第六文段。
初説如来浄土因果(今無因字令脱落歟)。上巻所説。後顕衆生往生因果下巻所説。
-------------------------------------------------------------------------------

次に憬興の釈。『大経』の疏の文なり。彼の疏を名づけて『無量寿経連義述文賛』という。
分かちて三巻と為す。上・中・下なり。今の所引は中巻の文なり。三段の中に正宗分
(名づけて問答広説分という)に於いて六の文段あり。その中に今「如来広説」というは
第六の文段なり。初に如来浄土の因果を説くは(今「因」字なし、脱落せしむるか)、
上巻の所説なり。後に衆生往生の因果を顕わすは下巻の所説なり。

●re.32
ボン
関東の男性
[ 1747 ] Re32:教行信証・学習ノート3 2009/12/14 (Mon) 22:45 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>憬興師云。如来広説有二。初広説如来浄土果即所行所成也。後広顕衆生往生果〈因果〉
>即所摂所益也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)憬興師の云わく、如来の広説に二あり。初めには広く如来浄土の果〈因果〉、
>すなわち所行・所成を説きたまえるなり。後には広く衆生往生の因果、すなわち所摂・
>所益を顕したまえるなり。
>-------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  憬興師は次のように述べる。如来の広説には、二つがある。初めには、広く如来浄土
  の果〈因果〉、すなわち、所行・所成を説かれている。後には、広く衆生往生の因果、
  すなわち、所摂・所益を明らかにされている。

  WikiArcより
    所行所成
      法蔵菩薩の願行と願成就の相。
    所摂所益
      阿弥陀仏が衆生を摂化・利益するありさま。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次憬興釈。大経疏文。彼疏名曰無量寿経連義述文賛。分為三巻。上中下也。今所引者中
>巻文也。三段之中於正宗分(名曰問答広説分)有六文段。其中今言如来広説第六文段。
>初説如来浄土因果(今無因字令脱落歟)。上巻所説。後顕衆生往生因果下巻所説。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に憬興の釈。『大経』の疏の文なり。彼の疏を名づけて『無量寿経連義述文賛』という。
>分かちて三巻と為す。上・中・下なり。今の所引は中巻の文なり。三段の中に正宗分
>(名づけて問答広説分という)に於いて六の文段あり。その中に今「如来広説」というは
>第六の文段なり。初に如来浄土の因果を説くは(今「因」字なし、脱落せしむるか)、
>上巻の所説なり。後に衆生往生の因果を顕わすは下巻の所説なり。

  次に憬興の釈。これは『大経』を注釈した文である。その注釈の名は『無量寿経連義
  述文賛』という。それは、上・中・下の三巻分に分かれる。ここでの引用箇所は中巻
  の文である。。三段のなかの正宗分(名づけて問答広説分という)に、六つの文段が
  ある。その中で、ここに「如来広説」というのは、第六の文段である。初めに如来浄土
  の因果を説くのは(ここでは「因」の字がない、脱落したものか)、上巻の説くとこ
  ろである。後に衆生往生の因果を明らかにするのは下巻の説くところである。

  大辞林より
    疏(そ)
      (1)箇条書き。また、箇条書きにした上奏文。
      (2)経典などの注釈書。特に、語句に注釈を加えたもの。しょ。

●re.33
ボン
関東の男性
[ 1748 ] Re33:教行信証・学習ノート3 2009/12/16 (Wed) 01:25 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。悲華経諸菩薩本授記品云。爾時宝蔵如来讃転輪王言。善哉善哉。乃至。大王汝見
西方。過百千万億仏土有世界。名尊善無垢。彼界有仏。名尊音王如来。乃至。今現在為
諸菩薩説於正法。乃至。純一大乗清浄無雑。其中衆生等一化生。亦無女人及其名字。
彼仏世界所有功徳清浄荘厳。悉如大王所願無異。乃至。今改汝字為無量清浄。已上。

無量寿如来会云。広発如是大弘誓願。皆已成就。世間希有。発是願已。如実安住。
種種功徳具足。荘厳威徳広大清浄仏土。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、『悲華経』の「諸菩薩本授記品」に云わく、その時に宝蔵如来、
転輪王を讃めて言わく、善きかな、善きかな。乃至。大王、汝西方を見るに、百千万億の
仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。かの界に仏まします、尊音王如来と名づく。
乃至。いま現在にもろもろの菩薩のために、正法を説く。乃至。純一大乗清浄にして無雑
なり。その中の衆生、等一に化生なり。また女人およびその名字なし。かの仏世界の所有
の功徳、清浄の荘厳、ことごとく大王の所願のごとくして、異なけん。乃至。いま汝が
字〈な〉を改めて無量清浄とせんと。已上。

(述文賛)『無量寿如来会』に云わく、広くかくのごとき大弘誓願を発して、みなすでに
成就したまえり。世間に希有なり。この願を発し已りて、実のごとく安住し、種種の
功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳したまえりと。已上。
-------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次悲華経宝積二文。未勘得之。
-------------------------------------------------------------------------------

次に『悲華経』『宝積』の二文は未だこれを勘え得ず。

●re.34
ボン
関東の男性
[ 1749 ] Re34:教行信証・学習ノート3 2009/12/16 (Wed) 01:25 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。悲華経諸菩薩本授記品云。爾時宝蔵如来讃転輪王言。善哉善哉。乃至。大王汝見
>西方。過百千万億仏土有世界。名尊善無垢。彼界有仏。名尊音王如来。乃至。今現在為
>諸菩薩説於正法。乃至。純一大乗清浄無雑。其中衆生等一化生。亦無女人及其名字。
>彼仏世界所有功徳清浄荘厳。悉如大王所願無異。乃至。今改汝字為無量清浄。已上。

>無量寿如来会云。広発如是大弘誓願。皆已成就。世間希有。発是願已。如実安住。
>種種功徳具足。荘厳威徳広大清浄仏土。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、『悲華経』の「諸菩薩本授記品」に云わく、その時に宝蔵如来、
>転輪王を讃めて言わく、善きかな、善きかな。乃至。大王、汝西方を見るに、百千万億の
>仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。かの界に仏まします、尊音王如来と名づく。
>乃至。いま現在にもろもろの菩薩のために、正法を説く。乃至。純一大乗清浄にして無雑
>なり。その中の衆生、等一に化生なり。また女人およびその名字なし。かの仏世界の所有
>の功徳、清浄の荘厳、ことごとく大王の所願のごとくして、異なけん。乃至。いま汝が
>字〈な〉を改めて無量清浄とせんと。已上。

>(述文賛)『無量寿如来会』に云わく、広くかくのごとき大弘誓願を発して、みなすでに
>成就したまえり。世間に希有なり。この願を発し已りて、実のごとく安住し、種種の
>功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳したまえりと。已上。
-------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また言うところでは、『悲華経』の「諸菩薩本授記品」では次のように述べている。
  その時、宝蔵如来は、転輪王をほめて次のように述べた。「たいへん素晴らしい。
  (中略)大王よ、西方を見ると、百千万億の仏土を過ぎたところに世界があり、そこ
  を尊善無垢と名づける。その世界に仏がおられて、尊音王如来と名づける。(中略)
  いま現在、もろもろの菩薩のために、正法を説いている。(中略)純粋にただ一つ、
  大乗は清浄であって、雑じりけがない。そのなかの衆生は、等しく同一に化生である。
  また、女人およびその名や文字はない。その仏の世界の持つ功徳や、清浄の荘厳は、
  ことごとく大王の願いのとおりであって、それと異なるものではない。(中略)
  いま、あなたの名前を改めて、無量清浄としよう。

  WikiArcより
    宝蔵如来
      無諍念王(阿弥陀仏の因位)という転輪聖王が世を治めていた時、臣下の
      宝海梵志(釈尊の因位)の子が成仏して宝蔵如来と号した。無諍念王・宝海梵志
      はともにこの宝蔵如来のもとで発願して、成仏の記を授けられた。
    転輪王
      ここでは阿弥陀仏の因位の無諍念王のこと。
    無諍王
      無諍念王。『悲華経』に出る阿弥陀仏の因位の名。
    化生
      1.真実信心の行者が報土に生れること。本願の不思議により、疑城胎宮にと
       どまることなく自然に生滅を超えた無生の生を受けることをいう。この
       化生に対して、仏智を疑惑する者の往生(方便化土往生)を胎生と言う。
      2.衆生が生まれる四種の形態のうち、何のよりどころもなく業力によって
       忽然と生れること。迷界の四生の一。
    胎生
      1.方便化土の往生のこと。仏智の不思議を疑い、自己の力をたのんで善行や
       念仏をはげむ第十九願・第二十願の行者は、浄土に往生しても、五百年の
       間、仏に遇わず、法を聞かず、聖衆を見ることができない。それはあたか
       も母の胎内にあるがごとくであるから、これを喩えて胎生という。
      2.衆生が生れる四種の形態のうち母胎から生れるもの。四生の一。
    四生
      衆生が生れる四種の形態。母胎から生れる胎生、卵から生れる卵生、湿気か
      ら生れる湿生、依りどころなく、ただ業力によって忽然と生れる化生。
      一切衆生はみなこの四種の出生形態におさめられるから、
      迷いの世界の総称ともされる。
    無量清浄仏
      阿弥陀仏のこと。


  (述文賛)
  『無量寿如来会』では次のように述べる。広くこのような大弘誓願を発して、みなす
  でに成就なされた。世間に希有のものである。この願を発し終わって、真如の理にし
  たがって安住し、種々の功徳を具足して、威徳は広大で、清浄な仏土を荘厳なされた。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に『悲華経』『宝積』の二文は未だこれを勘え得ず。

  次に『悲華経』『宝積』の二文については、未だ、調べることができていない。

  WikiArcより
    悲華経
      十巻。北涼の曇無讖訳。また失訳『大乗悲分陀利経』八巻がある。諸仏、菩薩
      の浄土成仏を説き、同時に、釈尊の穢土成仏を讃嘆している。第四「諸菩薩本
      授記品」に説かれる無諍念王発願の因縁が、『大経』の説き方と類似している
      ため、浄土門の典籍にもしばしば引用される。

●re.35
ボン
関東の男性
[ 1750 ] Re35:教行信証・学習ノート3 2009/12/17 (Thu) 00:36 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。福智二厳成就故。備施等衆生行也。以己所修利衆生故。令功徳成。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、福智二厳成就したまえるがゆえに、つぶさに等しく衆生に行を施
したまえるなり。己が所修をもって衆生を利したまうがゆえに、功徳成ぜしめたまえり。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云福智二厳等者同巻文也。是解自経恭敬三宝至于功徳成就之文釈也。彼具文云。
恭敬三宝即福方便。奉事師長者則智方便。(以下如所引)仏所行外無衆生行。
如来回向成就義也。
-------------------------------------------------------------------------------

「また云わく、福・智の二厳」等とは同巻の文なり。これ経の「恭敬三宝」より
「功徳成就」の文に至るまでを解する釈なり。彼の具なる文に云わく「恭敬三宝は即ち
福の方便。奉事師長は則ち智の方便」。(以下、所引の如し)。仏の所行の外に衆生の
行なし。如来の回向成就の義なり。

●re.36
ボン
関東の男性
[ 1751 ] Re36:教行信証・学習ノート3 2009/12/17 (Thu) 00:36 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。福智二厳成就故。備施等衆生行也。以己所修利衆生故。令功徳成。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、福智二厳成就したまえるがゆえに、つぶさに等しく衆生に行を施
>したまえるなり。己が所修をもって衆生を利したまうがゆえに、功徳成ぜしめたまえり。
>------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。福と智という二つの厳かなことを成就したことで、もれなく
  等しく衆生に行を施すことができた。自分が修めたものによっと衆生を利益されるこ
  とによって、功徳を成し遂げたのである。

  WikiArcより
    福智の二厳
      福方便と智方便。『述文賛』の原文では、『大経』法蔵修行の
      「三宝を恭敬す」を福方便、「師長に奉事す」を智方便とする。
      福徳荘厳と智慧荘厳。福徳荘厳とは六波羅蜜行の中、布施・持戒・忍辱・
      精進・禅定の五をいい、智慧荘厳とは般若波羅蜜をいう。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云福智二厳等者同巻文也。是解自経恭敬三宝至于功徳成就之文釈也。彼具文云。
>恭敬三宝即福方便。奉事師長者則智方便。(以下如所引)仏所行外無衆生行。
>如来回向成就義也。
>-------------------------------------------------------------------------------

>「また云わく、福・智の二厳」等とは同巻の文なり。これ経の「恭敬三宝」より
>「功徳成就」の文に至るまでを解する釈なり。彼の具なる文に云わく「恭敬三宝は即ち
>福の方便。奉事師長は則ち智の方便」。(以下、所引の如し)。仏の所行の外に衆生の
>行なし。如来の回向成就の義なり。

  「また云わく、福・智の二厳・・・」等というのは、同じ巻の文である。これは、
  経の「恭敬三宝」から「功徳成就」までを解釈したものである。あの詳細な文では次
  のように述べる。「恭敬三宝は即ち福の方便。奉事師長は則ち智の方便」。(以下、
  引用のとおり)仏の行ずるところのほかに、衆生の行というのはない。これは、如来
  の回向が成就したことを意味する。

   (感想)
   『述文賛』からの引用に「衆生に行を施したまえるなり」とあるように、行は自ら
   行うものではなく、施されるものであるということがわかります。この「施される」
   ということを、「衆生が称えるべき名号を用意していただいた」と捉えることも確
   かに可能です。しかし、もしそれが純他力であるとするならば、名号を自ら称える
   と考えるのも不十分ではないかと思われます。

   ちなみに、「施す」には、「恵み与える」のほかに、「手を加える。手段をとる。」
   といった意味があります。いわゆる「施工」の「施」の字です。

●re.37
ボン
関東の男性
[ 1752 ] Re37:教行信証・学習ノート3 2009/12/17 (Thu) 01:45 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。籍久遠因値仏。聞法可慶喜故。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、久遠の因に籍りて仏に値〈もうあ〉いたてまつるなり。
法を聞きて慶喜すべきがゆえにと。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云籍久遠因等文。追可勘之。
-------------------------------------------------------------------------------

「また云わく、久遠の因に籍りて」等の文は追いてこれを勘うべし。

●re.38
ボン
関東の男性
[ 1753 ] Re38:教行信証・学習ノート3 2009/12/17 (Thu) 01:45 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。籍久遠因値仏。聞法可慶喜故。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、久遠の因に籍りて仏に値〈もうあ〉いたてまつるなり。
>法を聞きて慶喜すべきがゆえにと。
------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。久遠の昔の因の影響を受けて、仏に出会う。
  法を聞いて慶喜することができるからである。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「また云わく、久遠の因に籍りて」等の文は追いてこれを勘うべし。

  「また云わく、久遠の因に籍りて・・・」等の文については、追って考察するであろう。

●re.39
ボン
関東の男性
[ 1754 ] Re39:教行信証・学習ノート3 2009/12/22 (Tue) 22:33 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。人聖国妙。誰不尽力。作善願生。因善既成。不自獲果故云自然。
不簡貴賎皆得往生。故云箸無上下。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、人聖に、国妙〈たえ〉なり。たれか力を尽くさざらん。善を作
して生を願ぜよ。善に因りてすでに成じたまえり。自ら果を獲ざるが故に自然と云う。
貴賎を簡ばず、みな往生を得しむ。故に著無上下と云うと。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次言人聖国妙等者。是下巻文。次上文云。経曰何不力為善。至昇道無窮極者。述云。
第二正勧往生有二。此初直勧往生也。何不力為善者。勧修往生之因。力者
(自人聖至願生十二字。如所引)次下文云。故又力者力励。念道之自然者。修所得之利
(自因善至自然十二字。如所引。但自然上有念字)又次下云。唯能念道行徳者。
(自不簡至上下十四字。如所引。但著下有於字)又次下云。念字長読流至此故。已上。
-------------------------------------------------------------------------------

次に「人聖に、国妙なり」というは、これ下巻の文なり。次上の文に云わく「経に曰わく、
何不力為善より昇道無窮極に至るまでは、述して云わく、第二に正しく往生を勧むるに二
あり。これ初に直ちに往生を勧むるなり。何不力為善とは往生の因を修することを勧む。
力とは」(「人聖」より「願生」に至るまでの十二字は所引の如し)。次下の文に云わく
「故又力とは力励なり。念道之自然とは所得の利を修すれば」(「因善」より「自然」に
至るまでの十二字は所引の如し。ただし「自然」の上に念の字あり)。また次下に云わく
「ただよく道を念じ、徳を行ずれば」。(「不簡」より「上下」に至るまでの十四字は
所引の如し。ただし著の下に於の字あり)。また次下に云わく「念の字、長読して此に
流至するが故に」。已上。

●re.40
ボン
関東の男性
[ 1755 ] Re40:教行信証・学習ノート3 2009/12/22 (Tue) 22:34 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。人聖国妙。誰不尽力。作善願生。因善既成。不自獲果故云自然。
>不簡貴賎皆得往生。故云箸無上下。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、人聖に、国妙〈たえ〉なり。たれか力を尽くさざらん。善を作
>して生を願ぜよ。善に因りてすでに成じたまえり。自ら果を獲ざるが故に自然と云う。
>貴賎を簡ばず、みな往生を得しむ。故に著無上下と云うと。
>------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。(そこに住む)人は聖者であり、国は美しい。(そこに生まれる
  ために)力を尽くさないものがあろうか。善をなして生を願いなさい。(そこは)善によ
  って、すでに成じたものである。自ら果を獲るものではないので、それを自然という。
  貴賎をえらばずに、みな往生を得る。だから「著無上下」と云うのである。

  WikiArcより
    著無上下
      「上下なきことを著す」『大経』(下)取意の文。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に「人聖に、国妙なり」というは、これ下巻の文なり。次上の文に云わく「経に曰わく、
>何不力為善より昇道無窮極に至るまでは、述して云わく、第二に正しく往生を勧むるに二
>あり。これ初に直ちに往生を勧むるなり。何不力為善とは往生の因を修することを勧む。
>力とは」(「人聖」より「願生」に至るまでの十二字は所引の如し)。次下の文に云わく
>「故又力とは力励なり。念道之自然とは所得の利を修すれば」(「因善」より「自然」に
>至るまでの十二字は所引の如し。ただし「自然」の上に念の字あり)。また次下に云わく
>「ただよく道を念じ、徳を行ずれば」。(「不簡」より「上下」に至るまでの十四字は
>所引の如し。ただし著の下に於の字あり)。また次下に云わく「念の字、長読して此に
>流至するが故に」。已上。

  次に「人聖に、国妙なり」というのは、下巻の文である。次の上の文では次のように
  述べる。「経で言うところの『何不力為善』から『昇道無窮極』までは、次のように
  述べるものである。第二に、正しく往生を勧めるにあたって、二つのことがある。
  初めには、直ちに往生を勧めるものである。『何不力為善』というのは、往生の因を
  修めることを勧めている。力については」(「人聖」から「願生」までの十二字は
  引用したとおりである)次の下の文では次のように述べる。「『故又力』とは『力励
  (つとめて励む)』ということである。『念道之自然』とは、得るところの利益を修す
  れば」(「因善」より「自然」に至るまでの十二字は引用のとおりである。ただし
  「自然」の上に念の字がある)また次の下では次のように述べる。「ただよく道を念
  じ、徳を行ずれば」(「不簡」から「上下」までの十四字は引用のとおりである。
  ただし、「著」の下に「於」の字がある)また次の下では次のように述べる。「念の
  字、長読して、ここに流至するが故に」

  『何不力為善』から『昇道無窮極』まで(大経)
    何不力為善。念道之自然。著於無上下。洞達無辺際。宜各勤精進。努力自求之。
    必得超絶去。往生安養国。横截五悪趣。悪趣自然閉。昇道無窮極。

  『何不力為善』から『昇道無窮極』まで(大経・読み下し文)
    なんぞつとめて善をなして、道の自然なるを念じて、上下なく洞達して辺際なき
    ことを著さざらん。よろしくおのおのつとめて精進して、つとめてみづからこれ
    を求むべし。かならず超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣
    を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。

  不明なこと
    「念の字、長読して、ここに流至するが故に」が理解できません。
    「長読して」も「流至する」も、言葉の意味がまったくわかりません。

●re.41
ボン
関東の男性
[ 1756 ] Re41:教行信証・学習ノート3 2009/12/26 (Sat) 01:08 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。易往而無人。其国不逆違。自然之所牽。修因即往。無修生尠。修因来生。
終不違逆。即易往也。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、「易往而無人 其国不逆違 自然之所牽」と。因を修すれば
すなわち往く、修することなければ生ずること尠〈すく〉なし。因を修して来生するに、
終に違逆せざれば、すなわち易往なり。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云易往而無等者。次上文云。経曰。易往而無人。至寿楽無有極者。述云。此復傷嘆重勧
也。修因即往。故易往。無人修因。往生者尠。故無人。修因来生終不違逆。即前易往也。
正習纏蓋自然為之。牽伝不往故自然所牽。即無人也。有説。因満果熟不仮功用自然招致。
故自然所牽。義亦可也。上之二文。句数字数粗有増減是取意歟。為達前後更今引之。
-------------------------------------------------------------------------------

「又云易往而無」等とは、次上の文に云わく「経に曰わく、易往而無人より寿楽無有極に
至るまでは、述して云わく、これまた傷嘆重勧なり。因を修すれば即ち往く。故に易往な
り。人の因を修することなければ往生する者尠〈すく〉なし。故に無人なり。因を修すれ
ば来生す。終に違逆せず。即ち前の易往なり。正習纏蓋自然にこれが為に牽伝して往かざ
るが故に自然の牽く所なり。即ち無人なり。有が説かく、因満ち果熟すれば、功用を仮ら
ず。自然に招致す。故に自然の牽く所なり。義また可なり」。上の二文、句数・字数にほ
ぼ増減あり。これ取意なるか。前後を達せんが為に更に今これを引く。

●re.42
ボン
関東の男性
[ 1757 ] Re42:教行信証・学習ノート3 2009/12/26 (Sat) 01:08 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。易往而無人。其国不逆違。自然之所牽。修因即往。無修生尠。修因来生。
>終不違逆。即易往也。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、「易往而無人 其国不逆違 自然之所牽」と。因を修すれば
>すなわち往く、修することなければ生ずること尠〈すく〉なし。因を修して来生するに、
>終に違逆せざれば、すなわち易往なり。
>------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。「易往而無人(往き易くして人なし) 其国不逆違(その国逆違
  せず) 自然之所牽(自然の牽くところなり)。」因(往生の原因となること)を修めれば、
  すなわち、往生する。それを修めることがなければ、生ずることはまれである。因を
  修めて来生するときに、最後まで(理に)逆らい背くことがないから、すなわち、往生
  しやすいということである。

  WikiArcより
    易往而無人
      阿弥陀仏の本願力によるから浄土に往生することは容易であるが、自力の心
      をすてて真実信心をうる人は少ないから、浄土に往生する人は希(まれ)であ
      るということ。

  大辞林より
    因
      ある結果を引き起こす原因。特に、間接的・外的原因を縁というのに対し、
      直接的・内的原因をいう。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「又云易往而無」等とは、次上の文に云わく「経に曰わく、易往而無人より寿楽無有極に
>至るまでは、述して云わく、これまた傷嘆重勧なり。因を修すれば即ち往く。故に易往な
>り。人の因を修することなければ往生する者尠〈すく〉なし。故に無人なり。因を修すれ
>ば来生す。終に違逆せず。即ち前の易往なり。正習纏蓋自然にこれが為に牽伝して往かざ
>るが故に自然の牽く所なり。即ち無人なり。有が説かく、因満ち果熟すれば、功用を仮ら
>ず。自然に招致す。故に自然の牽く所なり。義また可なり」。上の二文、句数・字数にほ
>ぼ増減あり。これ取意なるか。前後を達せんが為に更に今これを引く。

  「又云易往而無・・・」等については、次の上の文でこう述べる。「経ではこう述べ
  る。『易往而無人』から『寿楽無有極』までについて言うと、これもまた「傷嘆重勧」
  である。因を修めれば、すなわち往生する。だから往きやすい。人の因を修めること
  がなければ往生する者は少ない。だから無人なのである。因を修めれば来生する。
  最後まで(理に)逆らい背くことがない。すなわち、前の「易往」である。正使と習気
  の二つの障りと纏蓋(煩悩)が自然に引き付ける力が伝わって、往生することができな
  いために、自然の引くところなのである。これがすわち、無人である。有が説くには、
  因が満ちて果が熟すれば、修行の努力を必要としない。自然に招きよせる。だから
  自然の引くところなのである。義もまた可である。」上の二文は、句数と字数にやや
  増減がある。これは、文の意(こころ)を取ったものでろうか。前後を達せんがために、
  更にここでこれを引用する。

  『易往而無人』から『寿楽無有極』まで(大経)
    易往而無人。其国不逆違。自然之所牽。何不棄世事。勤行求道徳。
    可獲極長生。寿楽無有極。

  『易往而無人』から『寿楽無有極』まで(大経・読み下し文)
    往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。
    なんぞ世事を棄てて勤行して道徳を求めざらん。極長の生を獲て、
    寿の楽しみ極まりあることなかるべし。

  傷嘆重勧
    教行信証を区分けした1章2節3項6科6目の文のことのようである。
    以下参照
      http://www.icho.gr.jp/seiten/html/f04_5.html

  大辞泉より
    傷嘆
      悲しみなげくこと。悲嘆。

  WikiArcより
    正習の二障
      正使と習気の二つの障り。正使は煩悩の体のこと。習気は、煩悩の体が断ぜ
      られても習慣となって残る煩悩のはたらきのこと。
    纏縛
      まとわりつかれ、しばられること。煩悩の異名。
    蓋
      はおおうの意。煩悩のこと。
    功用と無功用
      修行するうえで努力を要するものと、要しないもの。

●re.43
ボン
関東の男性
[ 1758 ] Re43:教行信証・学習ノート3 2009/12/30 (Wed) 13:25 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。本願力故 即往誓願之力。満足願故 願無欠故。明了願故 求之不虚故。堅固願故
縁不能壊故。究竟願故 必果遂故。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、本願力の故と(すなわち往くこと誓願の力なり)、満足願故
(願として欠くることなきがゆえに)、明了願故(これを求むるに虚しからざるがゆえに)、
堅固願故(縁として壊ることあたわざるがゆえに)、究竟願の故に(必ず果し遂ぐるがゆ
えに)。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云本願力故等者。上巻文也。是又文言聊有参差。為知正釈亦出本文。経曰。本願力故至
究竟願故者。述云。後願力獲利也。本願者即往誓願之力。他方菩薩聞名得忍。恐亦自土故。
願無欠故満足。求之不虚故明了。縁不能壊故堅固。願必遂果故究竟。由此願力生彼土者。
皆得三忍。已上。是明所以見道場樹皆見三忍。言三忍者。経云。一者音響忍。二者柔順忍。
三者無生法忍。已上。此三忍義諸師異解。興師破之。出自義云。尋樹音声従風而有。有而
非実故得音響忍。柔者無乖角義。順者不違空義。悟境無性。不違於有而順空故。云柔順忍。
観於諸法生絶四句故。云無生忍。已上。

問。所引本願力故句上。先有威神力故之句。何略之耶。答。興以彼句判為別科。
即名為之神力得忍。今殊欲顕本願利益。是故略彼引之而已。
-------------------------------------------------------------------------------

「又云本願力故」等とは上巻の文なり。これまた文言に聊か参差あり。正釈を知らんが為
に、また本文を出だす。「経に曰わく、本願力故より究竟願故に至るまでは、述して云わ
く、後に願力獲利なり。本願とは即ち往くこと誓願の力なり。他方の菩薩は名を聞きて忍
を得。恐らくはまた自土なるが故に、願として欠くることなきが故に満足なり。これを求
むるに虚しからざるが故に明了なり。縁として壊すること能わざるが故に堅固なり。願と
して必ず遂果するが故に究竟なり。この願力に由りて彼の土に生ずる者は、みな三忍を得」
已上。これ道場樹を見て、みな三忍を見る所以を明かす。三忍というは、経に云わく「一
には音響忍。二には柔順忍。三には無生法忍」已上。この三忍の義は諸師異解す。興師は
これを破して自義を出だして云わく「樹の音声を尋ぬるに、風に従りして有なり。有にし
て実にあらず。故に音響忍を得。柔とは乖角なき義なり。順の無性とは空に違せざる義な
り。境を悟するに、有に違せずして、しかも空に順ずるが故に柔順忍という。諸法を観ず
るに、生は四句を絶つが故に無生忍という」已上。

問う。所引の「本願力故」の句の上に、まず「威神力故」の句あり。何ぞこれを略するや。
答う。興は彼の句を以て判じて別科と為す。即ち名づけてこれを神力得忍となす。
今殊に本願の利益を顕わさんと欲す。この故に彼を略して、これを引くのみ。

●re.44
ボン
関東の男性
[ 1759 ] Re44:教行信証・学習ノート3 2009/12/30 (Wed) 13:25 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。本願力故 即往誓願之力。満足願故 願無欠故。明了願故 求之不虚故。堅固願故
>縁不能壊故。究竟願故 必果遂故。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、本願力の故と(すなわち往くこと誓願の力なり)、満足願故
>(願として欠くることなきがゆえに)、明了願故(これを求むるに虚しからざるがゆえに)、
>堅固願故(縁として壊ることあたわざるがゆえに)、究竟願の故に(必ず果し遂ぐるがゆ
>えに)。
>------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。本願の力であるために(すなわち、往生することは誓願の力
  である)、満足された願であるために(願として欠けているところがないために)、
  明らかに了解された願であるために(これを求めるにあたって虚しいところがないた
  めに)、堅固な願であるために(縁として壊れることがありえないために)、究極の
  願であるために(必ず果し遂げるために)。

  WikiArcより
    究竟
      きわまり。究極のこと。また究極の目的に到達すること。
      完成する。到達する。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「又云本願力故」等とは上巻の文なり。これまた文言に聊か参差あり。正釈を知らんが為
>に、また本文を出だす。「経に曰わく、本願力故より究竟願故に至るまでは、述して云わ
>く、後に願力獲利なり。本願とは即ち往くこと誓願の力なり。他方の菩薩は名を聞きて忍
>を得。恐らくはまた自土なるが故に、願として欠くることなきが故に満足なり。これを求
>むるに虚しからざるが故に明了なり。縁として壊すること能わざるが故に堅固なり。願と
>して必ず遂果するが故に究竟なり。この願力に由りて彼の土に生ずる者は、みな三忍を得」
>已上。これ道場樹を見て、みな三忍を見る所以を明かす。三忍というは、経に云わく「一
>には音響忍。二には柔順忍。三には無生法忍」已上。この三忍の義は諸師異解す。興師は
>これを破して自義を出だして云わく「樹の音声を尋ぬるに、風に従りして有なり。有にし
>て実にあらず。故に音響忍を得。柔とは乖角なき義なり。順の無性とは空に違せざる義な
>り。境を悟するに、有に違せずして、しかも空に順ずるが故に柔順忍という。諸法を観ず
>るに、生は四句を絶つが故に無生忍という」已上。

  「又云本願力故・・・」等とは、大経の上巻の文である。これもまた文言にいささか
  食い違いがある。正しい解釈を知るために、また「述文賛」の本文を取り上げる。
  「経では次のよに述べる。『本願力故』より『究竟願故』までは、以下のように述べ
  たものである。後に願力の獲得とその利益である。本願とは、すなはち往生を誓願す
  る力である。他方の菩薩は、名を聞いて忍を得る。おそらくは、また自土であるから、
  願として欠けるところがないために「満足」なのである。これを求めるにあたって虚
  しいところがないために「明了」なのである。縁として壊すことができないために
  「堅固」なのである。願として必ず成し遂げられるものであるから「究竟」なのであ
  る。この願力によって、彼の土に生ずる者は、みな三忍を得る。」これは、道場樹を
  見て、みな三忍を見るという所以を明らかにするものである。三忍について、経では
  次のように述べている。「一つには音響忍。二つには柔順忍。三つには無生法忍。」
  この三忍の意味については、諸師がそれぞれに解釈しているが、興師はこれを打ち砕
  いて、自分の理解するところを次のように述べている。「樹の音声を聞こうとすれば、
  樹は風にしたがって『有(存在)』である。『有(存在)』ではあるが『実(実体)』では
  ない。だから音響忍を得る。柔というのはそむかないという意味である。順とは空と
  違わないという意味である。境を悟るにあたって、『有(存在)』に違わずに、しかも
  空に順ずるために柔順忍という。諸法を観ずるにあたって、生は四句を絶つために
  無生忍という。」

  『本願力故』より『究竟願故』まで(大経)
    本願力故、滿足願故、明了願故、堅固願故、究竟願故。
    (満足願のゆえに、明了願のゆえに、堅固願のゆえに、究竟願のゆえなり。)

  WikiArcより
    参差
      入りまじっていること。くいちがっていること。
    道場樹
      仏のさとりを開く場所にある樹。菩提樹。
    有
      無・空に対する語。存在を意味する。
    空
      梵語シューニャターの漢訳。もろもろの事物は、因縁に依って仮に和合して
      存在しているのであって、固定的な実体はないことをいう。無自性と同意。
    忍(三忍)
      忍とは認可決定の意で、ものをはっきりと確かめて決めこむこと。
        1.三法忍。音響忍・柔順忍・無生法忍をいう。
        2.他力の信(無生法忍)のもつ三つの徳義。
           (1)喜忍。歓喜のおもい。
           (2)悟忍。仏智を領得すること。
           (3)信忍。仏力を信ずる。
    音響忍
      諸仏・菩薩の説法を聞き、驚き恐れることなく信認し受け入れること。
    柔順忍
      すなおに真理に随順し、さとること。
    無生法忍
      真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。


  WikiArcの用語解説によると、「三忍」って、結局、こういうこと?
    「仏菩薩の説法を聞いて、素直にしたがって、形相を超えて、さとる。」
    「音に響き、柔らかく順応し、姿・形を超える。」


>問う。所引の「本願力故」の句の上に、まず「威神力故」の句あり。何ぞこれを略するや。
>答う。興は彼の句を以て判じて別科と為す。即ち名づけてこれを神力得忍となす。
>今殊に本願の利益を顕わさんと欲す。この故に彼を略して、これを引くのみ。

  問う。引用された「本願力故」の句の上に、まず「威神力故」の句がある。どうして
  これを省略するのか。答える。興師は、その句は別の区分だと判断している。すなわ
  ち、これを「神力得忍」という。ここでは、特に本願の利益を明らかにしようとして
  いる。だから、それを省略して、これだけを引用しているのである。

●re.45
ボン
関東の男性
[ 1760 ] Re45:教行信証・学習ノート3 2010/01/04 (Mon) 23:41 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。総而言之。欲令凡小増欲往生之意故。須顕彼土勝。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、総じてこれを言わば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと
欲うがゆえに、須くかの土の勝ることを顕すべしと。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云総而言之等者。是下巻文。次上文云。経曰。東方恒沙至亦復如是者。述云。
是後勝聖共生也。(以下如所引)。
-------------------------------------------------------------------------------

「又云総而言之」等とは、これ下巻の文なり。次上の文に云わく「経に曰わく、
東方恒沙より亦復如是に至るまでは、述して云わく、これ後に勝聖共生なり」。
(以下、所引の如し)。

●re.46
ボン
関東の男性
[ 1761 ] Re46:教行信証・学習ノート3 2010/01/04 (Mon) 23:41 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。総而言之。欲令凡小増欲往生之意故。須顕彼土勝。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、総じてこれを言わば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと
>欲うがゆえに、須くかの土の勝ることを顕すべしと。
>------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。総じてこれを言うならば、愚かな凡夫にたいして、往生を欲
  する意(こころ)を増させようと願っているから、かの土の優れていることを明らかに
  すべきだ、ということである。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「又云総而言之」等とは、これ下巻の文なり。次上の文に云わく「経に曰わく、
>東方恒沙より亦復如是に至るまでは、述して云わく、これ後に勝聖共生なり」。
>(以下、所引の如し)。

  「又云総而言之・・・」等とは、下巻の文である。次の上の文にはこう述べる。
  「経で言うところでは、『東方恒沙』より『亦復如是』までについて述べると、
  これは後に勝聖共生である。」(以下は、引用のとおりである)

    勝聖共生
      教行信証を区分けした1章2節3項6科8目の文のことのようである。

●re.47
ボン
関東の男性
[ 1762 ] Re47:教行信証・学習ノート3 2010/01/04 (Mon) 23:57 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。既言於此土修菩薩行。即知。無諍王在於此方。宝海亦然。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、すでにこの土にして菩薩の行を修すと言えり。すなわち知りぬ、
無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云既言於此等者。同巻文也。是解経云。阿難白仏。彼二菩薩其号云何。仏言一名観世音。
二名大勢至。是二菩薩於比国土修菩薩行。命終転化生彼仏国之文釈也。無諍王者弥陀如来。
宝海梵士釈迦仏也。
-------------------------------------------------------------------------------

「又云既言於此」等とは、同巻の文なり。これ経に「阿難、仏に白さく、かの二菩薩、
その号いかんぞ。仏言わく、一りを観世音と名づく。二をば大勢至と名づく。この二菩薩
はこの国土にして菩薩の行を修して、命終転化して、かの仏国に生ず」といえる文を解す
る釈なり。「無諍王」とは弥陀如来なり。「宝海梵士」は釈迦仏なり。

●re.48
ボン
関東の男性
[ 1763 ] Re48:教行信証・学習ノート3 2010/01/04 (Mon) 23:57 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。既言於此土修菩薩行。即知。無諍王在於此方。宝海亦然。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、すでにこの土にして菩薩の行を修すと言えり。すなわち知りぬ、
>無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり。
>------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。すでに、この土にあって、菩薩の行を修める、と言った。
  すなわち、知る。無諍王が、この方におられますことを。宝海もまたそうのとおり
  である。

  WikiArcより
    無諍王
      無諍念王。『悲華経』に出る阿弥陀仏の因位の名。
    宝海
      宝海梵志。『悲華経』に出る釈尊の因位の名。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「又云既言於此」等とは、同巻の文なり。これ経に「阿難、仏に白さく、かの二菩薩、
>その号いかんぞ。仏言わく、一りを観世音と名づく。二をば大勢至と名づく。この二菩薩
>はこの国土にして菩薩の行を修して、命終転化して、かの仏国に生ず」といえる文を解す
>る釈なり。「無諍王」とは弥陀如来なり。「宝海梵士」は釈迦仏なり。

  「又云既言於此・・・」等というのは、同じ巻の文である。これは、経に「阿難が仏
  に申し上げるには、かの二菩薩は、その号はなんというのか。仏が言うには、ひとり
  を観世音と名づける。ふたりを大勢至と名づける。この二菩薩は、この国土にあって、
  菩薩の行を修めて、命の終わりに転化して、かの仏国に生ずる。」と言った文を解釈
  したものである。「無諍王」とは弥陀如来である。「宝海梵士」は釈迦仏である。

  WikiArcより
    転化
      娑婆世界の身を転じて、浄土へ化生すること。

●re.49
ボン
関東の男性
[ 1764 ] Re49:教行信証・学習ノート3 2010/01/05 (Tue) 00:13 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。聞仏威徳広大故。得不退転也。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(述文賛)また云わく、仏の威徳広大を聞くがゆえに、不退転を得るなり。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
又云聞仏威徳等者。未勘得之。
-------------------------------------------------------------------------------

「又云聞仏威徳」等とは、未だこれを勘得せず。

●re.50
ボン
関東の男性
[ 1765 ] Re50:教行信証・学習ノート3 2010/01/05 (Tue) 00:13 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。聞仏威徳広大故。得不退転也。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(述文賛)また云わく、仏の威徳広大を聞くがゆえに、不退転を得るなり。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (述文賛)
  また次のように述べる。仏の威徳が広大であることを聞くから、不退転を得るのである。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>「又云聞仏威徳」等とは、未だこれを勘得せず。

  「又云聞仏威徳・・・」等については、未だに、調べることができていない。

●re.51
ボン
関東の男性
[ 1766 ] Re51:教行信証・学習ノート3 2010/01/09 (Sat) 02:26 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
楽邦文類云。総官張リン云。仏号甚易持。浄土甚易往。八万四千法門。無如是之捷径。
但能輟清晨俛仰之暇。遂可為永劫不壊之資。是則用力甚微。而收功乃無有尽。衆生亦
何苦自棄而不為乎。噫夢幻非真。寿夭難保。呼吸之頃即是来生。一失人身。万劫不復。
此時不悟。仏如衆生何願。深念於無常。勿徒貽於後悔。浄楽居士張リン勧縁。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
『楽邦文類』に云わく、総官の張リン云わく、仏号はなはだ持ち易し、浄土ははなは
だ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくはなし。ただよく清晨俛仰の暇〈いとま〉
を輟〈や〉めて、ついに永劫不壊の資〈たすけ〉をなすべし。これすなわち、力を用う
ることは、はなはなだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。
衆生また何の苦しみあればか、自ら棄ててせざるや。ああ夢幻にして真にあらず、寿夭
にして保ちがたし。呼吸の頃〈あいだ〉、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いつ
れば、万劫にも復せず〈かえらず〉。この時悟らずは、仏もし衆生をいかんかしたまわ
ん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれと。
浄楽の居士張リン、縁を勧むと。已上
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次言楽邦文類等者。此書四明石芝沙門宗暁編次。部帙五巻。其第二巻総管張リン結蓮社
普勧文也。彼文一十八行余中。今之所引纔四行余。言俛仰者。俛是俯俛。ジ頭義也。
仰是偃仰。向上称也。言呼吸者。呼アイ。吸引。蓋是外内出入息也。
-------------------------------------------------------------------------------

次に「楽邦文類」等というは、この書は四明石芝の沙門宗暁編次す。部帙は五巻。その
第二巻は総管張リンの蓮社を結ぶ普勧の文なり。彼の文の一十八行余の中に、今の所引
は纔かに四行余なり。「俛仰」というは、「俛」はこれ俯俛、ジ頭の義なり。「仰」は
これ偃仰、上に向う称なり。「呼吸」とは、呼はアイ、吸は引、蓋しこれ外内出入の息
なり。

●re.52
ボン
関東の男性
[ 1767 ] Re52:教行信証・学習ノート3 2010/01/09 (Sat) 02:25 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>楽邦文類云。総官張リン云。仏号甚易持。浄土甚易往。八万四千法門。無如是之捷径。
>但能輟清晨俛仰之暇。遂可為永劫不壊之資。是則用力甚微。而收功乃無有尽。衆生亦
>何苦自棄而不為乎。噫夢幻非真。寿夭難保。呼吸之頃即是来生。一失人身。万劫不復。
>此時不悟。仏如衆生何願。深念於無常。勿徒貽於後悔。浄楽居士張リン勧縁。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>『楽邦文類』に云わく、総官の張リン云わく、仏号はなはだ持ち易し、浄土ははなは
>だ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくはなし。ただよく清晨俛仰の暇〈いとま〉
>を輟〈や〉めて、ついに永劫不壊の資〈たすけ〉をなすべし。これすなわち、力を用う
>ることは、はなはなだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。
>衆生また何の苦しみあればか、自ら棄ててせざるや。ああ夢幻にして真にあらず、寿夭
>にして保ちがたし。呼吸の頃〈あいだ〉、すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いつ
>れば、万劫にも復せず〈かえらず〉。この時悟らずは、仏もし衆生をいかんかしたまわ
>ん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれと。
>浄楽の居士張リン、縁を勧むと。已上
>------------------------------------------------------------------------------

  『楽邦文類』では次のように述べる。総官の張リンが言うには、仏の名号ははなはだ
  保持しやすく、浄土ははなはだ往きやすい。八万四千の法門も、この近道に勝るもの
  はない。ただ、清らかな夜明けに「俛仰のいとま(あっというまの人生)」をやめて、
  ついに永劫に壊れることのない資(たすけ・よりどころ)をなすべきである。これは、
  すなわち、力を用うることは、はなはなだわずかなものであって、功徳を手に入れる
  ことは、尽きることがない。衆生は、また何の苦しみがあって、自ら棄てて、これを
  することがないのであろうか。ああ、(この世は)夢幻にして真実ではない。命ははか
  なくもろく、長続きしない。呼吸あいだに、すなわち、これ来たりて生まれる。ひと
  たび人身を失えば、万劫の歳月を経ても返ることがない。この時に悟らなかったら、
  仏は衆生をどうすることができるだろう。願わくは、深く無常を念じて、いたずらに
  後悔を残してはならない。浄楽の居士、張リンは、「縁」を勧めている。

  WikiArcより
    張リン
      南宋代の人。浄楽と号す。高宗の頃、総官(軍事をつかさどる官名)となった。
      厚く念仏を尊び、晩年、自宅に道場を設け、慧遠の白蓮社にならい、妻子と
      ともに日課念仏を修した。
    寿夭
      命がはかなくもろいこと。

  漢和辞典より
    仰・・・あおぐ、首をあげる、見上げる
    俯・・・かがむ、うつむく
    資・・・もと、たから、よりどころ、たすける、与える、たよる

  大辞林より
    清晨
      きよらかな朝。すがすがしい朝。
    俯伏/俛伏
      うつむくこと
    暇(いとま)
      ひま、ゆっくりする、職をやめる

    「俯仰」または「俛仰」というのは、「僅かの間」という意味らしい。
    「俛仰の暇(いとま)」というのは、「あっというまの人世」ということらしい。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に「楽邦文類」等というは、この書は四明石芝の沙門宗暁編次す。部帙は五巻。その
>第二巻は総管張リンの蓮社を結ぶ普勧の文なり。彼の文の一十八行余の中に、今の所引
>は纔かに四行余なり。「俛仰」というは、「俛」はこれ俯俛、ジ頭の義なり。「仰」は
>これ偃仰、上に向う称なり。「呼吸」とは、呼はアイ、吸は引、蓋しこれ外内出入の息
>なり。

  次に「楽邦文類・・・」等についていうと、この書は、四明石芝の沙門、宗暁が順を
  追って編集したものである。部帙は五巻。その第二巻は、総管である張リンの蓮社を
  結ぶ普勧(普く勧める)の文である。彼の文の一十八行余りのなかに、ここに引用する
  ところは、わずかに四行余りである。「俛仰」についていうと、「俛」は俯俛(うつ
  むくこと)、ジ頭の意味である。「仰」はこれ偃仰、上に向う称である。「呼吸」と
  は、呼はアイ、吸は引、おそらく、これは外内出入(外と内に出入する?)の息である。

  漢和辞典より
    帙・・・書物をつつむおおい。帙入りの書物を数える単位。
    偃・・・あおむいて臥せる。寝る。たおれる。

  <感想>
    文章は非常に難解だが、「俛仰」と「呼吸」について、ことさらに言及している
    ことが興味深い。「俛仰」は「うつむいたり、あおむいたり」ということらしい。
    「呼吸」については、かつて「阿吽の呼吸」ということを聞いたことがある。
    「阿」は「あおむいて、アー」といい、「吽」は「うつむいて、ウン」という
    のだとか・・・。『楽邦文類』の「呼吸の頃〈あいだ〉、すなわちこれ来生なり」
    という記述とあわせて読むと面白い。

●re.53
ボン
関東の男性
[ 1768 ] Re53:教行信証・学習ノート3 2010/01/10 (Sun) 00:30 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
台教祖師山陰(慶文法師)云。良由仏名従真応身而建立故。従慈悲海而建立故。
従誓願海而建立故。従智慧海而建立故。従法門海而建立故。若但専称一仏名号。
則是具称諸仏名号。功徳無量。能滅罪障。能生浄土。何必生疑乎。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
台教の祖師山陰(慶文法師)の云わく、まことに仏名は真応の身よりして建立せるがゆ
えに、慈悲海よりして建立せるがゆえに、誓願海よりして建立せるがゆえに、智慧海よ
りして建立するがゆえに、法門海よりして建立せるに由るがゆえに、もしただ専ら一仏
の名号を称するに、すなわちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なれば、
よく罪障を滅す。よく浄土に生ず。何ぞ必ずしも疑いを生ぜんやと。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次山陰釈。言山陰者越地之名。言慶文者。号云慈雲法師是也。釈意可見。
-------------------------------------------------------------------------------

次に山陰の釈なり。「山陰」というは越の地の名なり。「慶文」というは、
号して慈雲法師というこれなり。釈の意、見つべし。

●re.54
ボン
関東の男性
[ 1769 ] Re54:教行信証・学習ノート3 2010/01/10 (Sun) 00:30 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>台教祖師山陰(慶文法師)云。良由仏名従真応身而建立故。従慈悲海而建立故。
>従誓願海而建立故。従智慧海而建立故。従法門海而建立故。若但専称一仏名号。
>則是具称諸仏名号。功徳無量。能滅罪障。能生浄土。何必生疑乎。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>台教の祖師山陰(慶文法師)の云わく、まことに仏名は真応の身よりして建立せるがゆ
>えに、慈悲海よりして建立せるがゆえに、誓願海よりして建立せるがゆえに、智慧海よ
>りして建立するがゆえに、法門海よりして建立せるに由るがゆえに、もしただ専ら一仏
>の名号を称するに、すなわちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なれば、
>よく罪障を滅す。よく浄土に生ず。何ぞ必ずしも疑いを生ぜんやと。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  台教の祖師山陰(慶文法師)は次のように述べる。まことに仏名は、真応の身から
  作り上げられたものであるから、慈悲の海から作り上げられたものであるから、誓願
  の海から作り上げられたものであるから、智慧の海から作り上げられたものであるか
  ら、法門の海から作り上げられたものであるから、もし、ただ専ら一仏の名号を称す
  れば、それは、もれなく諸仏の名号を称することにほかならない。その功徳は計り知
  れないものであるから、罪障を滅することができる。そして、浄土に生ずることがで
  きる。どうして疑いを起こす必要があろうか。

  WikiArcより
    慶文
      北宋代、会稽山陰の人。慈恵法師と号し、法を国清の宗cに受けたという。
      『往生正信決』一巻『浄土法門』一巻『示修浄土』二巻の著書があったという。
    真応の身
      報身のこと。真を法・報の二身、応を応身とする説もある。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次山陰釈。言山陰者越地之名。言慶文者。号云慈雲法師是也。釈意可見。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に山陰の釈なり。「山陰」というは越の地の名なり。「慶文」というは、
>号して慈雲法師というこれなり。釈の意、見つべし。

  次に山陰の釈である。「山陰」というのは、越の地名である。「慶文」というのは、
  慈雲法師と号している。釈の意(こころ)を、見てください。

  WikiArcより
    慈雲(964-1032)
      北宋の天台宗の僧。名は遵式。慈雲尊者といわれた。四明の義通などについ
      て天台を学び、同門の知礼と名をはせたが、のちに阿弥陀仏の大像を造り
      念仏三昧を修した。浄土教関係の著書としては『往生浄土懺願儀』
      『往生浄土決疑行願二門』各一巻が現存する。

●re.55
ボン
関東の男性
[ 1770 ] Re55:教行信証・学習ノート3 2010/01/11 (Mon) 01:06 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
律宗祖師元照云。況我仏大慈開示浄土。慇懃勧属遍諸大乗。目見耳聞特生疑謗。自甘
沈溺不慕超昇。如来説為可憐憫者。良由不知此法特異常途。不択賢愚不簡緇索〈緇素〉。
不論修行久近不問造罪重軽。但令決定信心即是往生因種。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(観経義疏)律宗の祖師元照の云わく、いわんや我が仏大慈、浄土を開示して慇懃にあま
ねくもろもろの大乗を勧嘱したまえり。目に見、耳に聞きて、特に疑謗を生じて、自ら
甘〈あまな〉うて沈溺して超昇を慕わず、如来説きて憐憫すべき者のためにしたまえり。
まことに、この法のひとり常途に異なることを知らざるに由ってなり。賢愚を択ばず、
緇索〈緇素〉を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問わず、ただ、決定の信心
ならしめよ。すなわちこれ往生の因種なり。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次元照釈。観経義疏大分為二。先列義門令知総意。然後入経分文分釈。初中有四。
初教興来致。二摂教分斉。三弁定宗旨。四料簡異同。其第四門又有五中。
五指濫伝之下釈也。指濫伝者。多挙有人謬解疑惑。示有自障障他之過。
述其悲憐之結釈也。二巻之中上巻文耳。
-------------------------------------------------------------------------------

次に元照の釈なり。『観経義疏』大に分かちて二と為す。まず義門を列ねて総意を知らし
む。然して後に経に入りて文を分かちて分釈す。初の中に四あり。初には教興の来致。
二には摂教の分斉。三には宗旨を弁定す。四には異同を料簡す。その第四門にまた五ある
中に、五に濫伝を指す下の釈なり。濫伝を指すとは、多く有人の謬解疑惑を挙げて自障
障他の過あることを示す。その悲憐を述ぶる結釈なり。二巻の中に上巻の文ならくのみ。

●re.56
ボン
関東の男性
[ 1771 ] Re56:教行信証・学習ノート3 2010/01/11 (Mon) 17:41 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>律宗祖師元照云。況我仏大慈開示浄土。慇懃勧属遍諸大乗。目見耳聞特生疑謗。自甘
>沈溺不慕超昇。如来説為可憐憫者。良由不知此法特異常途。不択賢愚不簡緇索〈緇素〉。
>不論修行久近不問造罪重軽。但令決定信心即是往生因種。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(観経義疏)律宗の祖師元照の云わく、いわんや我が仏大慈、浄土を開示して慇懃にあま
>ねくもろもろの大乗を勧嘱したまえり。目に見、耳に聞きて、特に疑謗を生じて、自ら
>甘〈あまな〉うて沈溺して超昇を慕わず、如来説きて憐憫すべき者のためにしたまえり。
>まことに、この法のひとり常途に異なることを知らざるに由ってなり。賢愚を択ばず、
>緇索〈緇素〉を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問わず、ただ、決定の信心
>ならしめよ。すなわちこれ往生の因種なり。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (観経義疏)
  律宗の祖師である元照は次のように述べる。言うまでもなく、我が仏の大慈は、浄土
  を開示して、丁寧に、あまねくもろもろの大乗を勧め嘱された。目に見、耳に聞いて
  いながら、ひとり疑いそしることをして、自らを甘やかして、沈み溺れてしまい、
  迷いを越えてさとりにいたることを願わない。如来は、憐れむべき者のためにお説き
  になったのである。それは、まったくもって、この法が唯一に通常の方途と異なって
  いることを知らないということによっている。賢いか愚かであるかを問わず、僧であ
  るか俗であるかを問わず、修行の長短を論ぜず、つくった罪の重軽を問わず、ただ、
  信心を決定させよ。すなわち、これが往生の因となる種である。

  WikiArcより
    元照(1048-1116)
      北宋代、余杭(現在の浙江省杭州)の人。字(あざな)は湛然、大智律師と呼ば
      れる。はじめ天台を学び、のち律宗に帰して『行事鈔資持記』十六巻を著し
      たが、晩年病にかかり自らの微力を知って深く浄土教に帰依した。
      『観無量寿経義疏』三巻『阿弥陀経義疏』一巻を著し、念仏往生をすすめた。
    超昇
      迷いを超えてさとりに至ること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次に元照の釈なり。『観経義疏』大に分かちて二と為す。まず義門を列ねて総意を知らし
>む。然して後に経に入りて文を分かちて分釈す。初の中に四あり。初には教興の来致。
>二には摂教の分斉。三には宗旨を弁定す。四には異同を料簡す。その第四門にまた五ある
>中に、五に濫伝を指す下の釈なり。濫伝を指すとは、多く有人の謬解疑惑を挙げて自障
>障他の過あることを示す。その悲憐を述ぶる結釈なり。二巻の中に上巻の文ならくのみ。

  次に元照の釈である。『観経義疏』は、大きく分けて二つとなる。まず、義門を列挙
  してて総意を知らせようとしている。そうした後に経に入って、文を分けて解釈する。
  初めの中に四つがある。第一に教えの起こりの来致である。第二に教えを取り入れる
  節度である。第三に宗旨を弁じて定める。第四に異同を推しはかり考えをめぐらす。
  その第四門に五つあるうち、五に濫りな伝承を指す下の解釈である。濫りな伝承を指
  すというのは、多くは、ある人の誤った理解や疑惑を挙げて、自障障他の過ちのある
  ことを示す。ここは、その悲憐を述べる結びの釈である。二巻のなかの、上巻の文で
  ある。

  WikiArcより
    自障障他
      みずからさまたげ、また他人をもさまたげること。

●re.57
菩提心
非公開の非公開
[ 1772 ] Re57:教行信証・学習ノート3 2010/01/11 (Mon) 10:09 △up ▽down
ボン様

明けましておめでとうございます。(もう七草がゆも終わってしまいましたが)


>自障障他
>みずからさまたげ、また他人をもさまたげること。

毎日様や泥凡夫様にお聞きしていた言葉なので、つい書き込んでしまいました。

ログ検索で、「自障障他」「自損損他」を引いて頂くと、第三者の人にも
分かってもらえると思って書き込みました。

いつも有難うございます。

南无阿彌陀佛

●re.58
ボン
関東の男性
[ 1773 ] Re58:教行信証・学習ノート3 2010/01/11 (Mon) 15:55 △up ▽down
菩提心さま、明けましておめでとうございます。

コメントありがとうございます。

ここでは、「濫伝」が「自障障他」だと述べているようですね。
「濫伝」とは、「みだりに伝える」と読めます。
国語辞典によると「みだりに」というのは「分別なく行うさま」または
「正当な理由や資格もなく行うさま」だということです。

つまり、「分別もなく、正当な理由や資格もないのに、自分の考えで伝承をすること」
が「自らもさまたげになるし、他人をもさまたげることになる」ということだと思います。
何をさまたげるかは、言うまでもないですよね。

ただ、ここで注目すべきことは、「自障障他の過ち」のある者にたいして、「決定の信心
ならしめよ」と述べていることです。仏は、自障障他の者に対して、「悲憐(悲しみを持っ
て憐れむ)」の情を示していただいている、ということがここでは述べられているのですね。

「悲しむほどに憐れ」というのは、いったいどれほどのことなのでしょうね。
想像するのも愚かですが、すべてを悟った仏様の冷静な目から、涙がポロリとこぼれる
姿を想像してしまいます。(畏れ多い話ですが・・・)

これは、我流の間違った考えを広めようとする人に対する言葉だとは思いますが、
長い歴史のなかでは、同行の中でも、我流の理解を流布しようとする者が皆無ではなかた
のではないかと思います。だから、「内心に深くたくわえて、外相にあらわすな」という
戒めの意図は、ひとつにはこのこともあったのでないかと思います。

「仏法は聞くものだ」と、かつて、繰り返し言われたことを記憶しております。
本来、仏法は確かなお師匠さんのもとで、口伝えで理解するものだと思います。
「自ら解釈しようとすれば、必ず間違える」とも言われました。「必ず」です。
とても怖い話です。

私は「教行信証」の学習を、いわば独学のようにして、そのプロセスをここに書き込ませて
いただいておりますが、それは、私の間違いを、ここに集う皆様がきっと正してくれるもの
と期待しているからです。おかしな点は、ぜひご指摘ください。

どうぞよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.59
ボン
関東の男性
[ 1774 ] Re59:教行信証・学習ノート3 2010/01/25 (Mon) 02:03 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。今浄土諸経並不言魔。即知。此法無魔明矣。山陰慶文法師正信法門弁之甚詳。
今為具引彼問曰。或有人云。臨終見仏菩薩放光持台。天楽異香来迎往生。並是魔事。
此説如何。答曰。有依首楞厳修習三昧。或発動陰魔。有依摩訶衍論修習三昧。或発動
外魔 謂天魔也 有依止観論修習三昧。或発動時魅。此等並是修禅定人。約其自力先
有魔種。被定撃発故現此事。儻能明識各用対治。即能除遣。若作聖解。皆被魔障 
上明此方入道。則発魔事 今約所修念仏三昧。乃憑仏力。如近帝王無敢干犯。蓋由阿弥陀
仏有大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼
遠見力・天耳遥聞力・他心徹監力・光明遍照摂取衆生力。有如是等不可思議功徳之力。
豈不能護持念仏之人。至臨終時令無障礙邪。若不為護持者。則慈悲力何在。若不能除
魔障者。智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力復何在邪。若不能監察被魔為障者。
天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹監力復何在邪。経云。阿弥陀仏相好光明。遍照十方世界。
念仏衆生摂取不捨。若謂念仏臨終被魔障者。光明遍照摂取衆生力復何在邪。況念仏人
臨終感相出自衆経。皆是仏言。何得貶為魔境乎。今為決破邪疑。当生正信。已上彼文。
-------------------------------------------------------------------------------
(元照・観経義疏)また云わく、今、浄土の諸経に並びに魔を言わず。すなわち知りぬ、
この法に魔なきこと明らけしと。山陰の慶文法師の正信法門にこれを弁ずること、はなは
だ詳らかなり。今ためにつぶさにかの問を引かん。曰わく、あるいは人ありて云わん、
臨終に仏菩薩の光を放ち、台を持し、天楽異香来迎せるを見るは、往生並びにこれ魔事な
りと。この説、いかんぞや。答えて曰わく、『首楞厳』に依りて三昧を修習して、あるい
は陰魔を発動することあり。『摩訶衍論』(大乗起信論)に依りて三昧を修習して、ある
いは外魔(天魔を謂うなり)を発動することあり。『止観論』に依りて三昧を修習して、
あるいは時魅を発動することあり。これ等は、ならびにこれ、禅定を修する人、その自力
に約して、まず魔種ありて、定んで撃発を被るがゆえにこの事を現ず。もしよく明らかに
識りておのおの対治を用いれば、すなわちよく除遣せしむ。もし聖の解を作せば、みな
魔障を被るなり(上にはこの方にして道に入るには、すなわち魔事を発すことを明かす)。
今、所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づくときは、あえて于
〈おかし〉犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏に大慈悲力・大誓願力・大智慧力・
大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明
遍照摂取衆生力ましますに由りてなり。かくのごとき等の不可思議功徳の力まします。
あに念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障碍なからしむることあたわざらんや。
もし護持をなさずは、すなわち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたわずは、
智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察すること
あたわずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、また
なんぞましまさんや。経に云わく、阿弥陀仏の相好の光明、あまねく十方世界を照らす。
念仏の衆生を摂取して捨てたまわずと。もし念仏して臨終に魔障を被ると謂わば、光明遍
照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。いわんや念仏の人、臨終の感相、衆経より出で
たり。みなこれ仏の言〈みこと〉なり。なんぞ貶して魔境とすることを得んや。今ために
邪疑を決破す。当に正信を生ずべしと。已上、かの文。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次所引文。同次上段。四解魔説之下釈也。当段初云。四解魔説。惑謂修西方浄業臨終感相。
皆是魔者。斯由未披教典不楽修持。喜以邪言障他正信。為害不浅故須弁之。

且魔有四種。一五陰魔。二煩悩魔。三死魔。四天魔。上三魔是汝身心。唯有天魔是外来耳。
安得不畏己魔但疑外魔乎。況魔居欲界天。乃是大権退悪進善有大功行。方可勤之。凡夫修
道内心不正。必遭魔擾。若心真実魔無能為。是知魔自汝心。非他所致。如世妖冶媚惑。
於人端心正色必不能近。縦情顧眄定遭所惑。今引衆説以絶群疑。

一云。大光明中決無魔事。猶如白昼奸盗難成。一云。此土観心反観本陰多発魔事。今観弥
陀果徳真実境界故無魔事。一云念仏之人皆為一切諸仏之所護念。既為仏護。安得有魔。
一云。修浄業人必発魔者。仏須捐破。如般若楞厳等。仏若不捐則誤衆生堕於魔納。
(今所引此次也)

又所引外次下文云。又楞厳云。禅定心中見盧舎那踞天光台十仏囲遶等。此名心魂霊悟所染。
心光研明照諸世界。暫得如是非為聖証。資中疏曰。若修念仏三昧斯境現前。与修多羅合名
為正相。若修余観設見仏形亦不為正。以心境不相応故。況観真如不取諸相。而有所著豈非
魔耶。資中揀判極為精当。仍具引前諸説永除疑障。已上。

一段之中。見文前後為令信解具所引也。正引文中。正信法門。山陰所造浄土文中。顕明正
信浄行二門。其中今引正信下釈。是故号曰正信法門。問答之中問意易見。答中有依首楞厳
者。彼経第九広弁魔事皆約自心入定精研。摩訶衍論馬鳴菩薩之所造也。通申一代大乗之教。
止観論者即天台説。彼第八巻又弁魔事。言時魅者天魔所化。

於私所引前後之文。先前文中就其四魔出対治者。大集出之。断集諦降煩悩魔。知苦諦降陰
魔。修道諦降天魔。証滅諦降死魔。此外対治諸典所訓其文是繁。不及具述。

後文之中。言資中者是蜀地名。弘允法師居彼蜀地。故称此名。作疏十巻解楞厳経。
当文魔境以下註解。粗依戒度正観記意大概記之。委如彼文。
-------------------------------------------------------------------------------

次の所引の文は同じき次上の段に、四に魔説を解する下の釈なり。当段の初に云わく
「四に魔説を解す。惑〈あるひと〉の謂わく、西方の浄業を修する臨終の相を感ずるは皆
これ魔といわば、これ未だ教典を披かざるに由りて、修持を楽わず、喜びて邪言を以て他
の正信を障う。害を為すこと浅からざるが故に須くこれを弁ずべし。

且く魔に四種あり。一には五陰魔、二には煩悩魔、三には死魔、四には天魔なり。上の
三魔はこれ汝が身心なり。ただ天魔のみありて、これ外より来るのみ。いずくんぞ己が魔
を畏れずして、ただし外魔を疑うことを得るや。況んや魔は欲界の天に居す。乃ちこれ
大権、悪を退け善を進むるに大功行あり、まさにこれを勤むべし。凡夫の修道内心正なら
ざれば必ず魔擾に遭う。もし心真実ならば魔は能く為することなけん。ここに知りぬ魔は
汝が心よりす。他の致す所にあらず。世の妖冶の人を媚惑するが如き、心を端くし、色を
正しくすれば、必ず近づくこと能わず。情を縦にして顧眄すれば定んで惑わす所に遭う。
今、衆説を引きて以て群疑を絶たん。

一に云わく、大光明の中には決して魔事なし。猶し白昼に奸盗の成し難きが如し。一に云
わく、此土の観心は反りて本陰を観ずるをもって多く魔事を発す。今、弥陀の果徳、真実
の境界を観ずるが故に魔事なし。一に云わく、念仏の人はみな一切諸仏の為に護念せらる。
既に仏の為に護らる。安ぞ魔あることを得ん。一に云わく、浄業を修する人、必ず魔を発
せば、仏は須らく捐破したもうべし。『般若』『楞厳』等の如し。仏もし捐せざれば則ち
衆生を誤りて魔網に堕せしめん」と。(今の所引はこの次なり)。

また所引の外、次下の文に云わく「また『楞厳』に云わく、禅定心の中に盧舎那の、天の
光台に踞して十仏囲遶する等を見る。これを心魂霊悟の所染と名づく。心光は研明にして
諸の世界を照らすに、暫くかくの如くなるを得るも聖証と為るにあらず。資中の疏に曰わ
く、もし念仏三昧を修すれば、この境現前す。修多羅と合するを名づけて正相と為す。
もし余観を修すれば、設い仏形を見れども、また正と為さず。心境の相応せざるを以ての
故に。況んや真如を観ずるに諸相を取らず、而るに所著あらば、あに魔にあらざるや。
資中の揀判は極めて精当と為す。よって具に前の諸説を引きて永く疑障を除く」已上。

一段の中に文の前後を見て信解せしめんが為に具に引く所なり。正しき引文の中に、正信
法門は山陰の所造の『浄土文』の中に正信・浄行の二門を顕明す。その中に今、正信の下
の釈を引く、この故に号して正信法門という。問答の中に問意は見易し。答の中に「有依
首楞厳」とは、彼の経の第九に広く魔事を弁ず、みな自心の入定精研に約す。『摩訶衍論』
は馬鳴菩薩の所造なり。通じて一代大乗の教を申ぶ。『止観論』は即ち天台の説なり。
彼の第八巻にまた魔事を弁ず。「時魅」というは天魔の所化なり。

私の所引の前後の之文に於いて、まず前の文の中に、その四魔に就きて対治を出ださば、
『大集』にこれを出だす。集諦を断じて煩悩魔を降し、苦諦を知りて陰魔を降し、道諦を
修して天魔を降し、滅諦を証して死魔を降す。この外の対治は諸典の訓うる所、その文こ
れ繁し。具に述ぶるに及ばず。

後の文の中に「資中」というは、これ蜀の地名なり。弘允法師は彼の蜀地に居す。故に
この名を称す。疏十巻を作りて『楞厳経』を解す。当文魔境以下の註解は、ほぼ戒度の
『正観記』の意に依りて大概これを記す。委しくは彼の文の如し。

●re.60
ボン
関東の男性
[ 1775 ] Re60:教行信証・学習ノート3 2010/01/25 (Mon) 02:04 △up ▽down
と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。今浄土諸経並不言魔。即知。此法無魔明矣。山陰慶文法師正信法門弁之甚詳。
>今為具引彼問曰。或有人云。臨終見仏菩薩放光持台。天楽異香来迎往生。並是魔事。
>此説如何。答曰。有依首楞厳修習三昧。或発動陰魔。有依摩訶衍論修習三昧。或発動
>外魔 謂天魔也 有依止観論修習三昧。或発動時魅。此等並是修禅定人。約其自力先
>有魔種。被定撃発故現此事。儻能明識各用対治。即能除遣。若作聖解。皆被魔障 
>上明此方入道。則発魔事 今約所修念仏三昧。乃憑仏力。如近帝王無敢干犯。蓋由阿弥陀
>仏有大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼
>遠見力・天耳遥聞力・他心徹監力・光明遍照摂取衆生力。有如是等不可思議功徳之力。
>豈不能護持念仏之人。至臨終時令無障礙邪。若不為護持者。則慈悲力何在。若不能除
>魔障者。智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力復何在邪。若不能監察被魔為障者。
>天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹監力復何在邪。経云。阿弥陀仏相好光明。遍照十方世界。
>念仏衆生摂取不捨。若謂念仏臨終被魔障者。光明遍照摂取衆生力復何在邪。況念仏人
>臨終感相出自衆経。皆是仏言。何得貶為魔境乎。今為決破邪疑。当生正信。已上彼文。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(元照・観経義疏)また云わく、今、浄土の諸経に並びに魔を言わず。すなわち知りぬ、
>この法に魔なきこと明らけしと。山陰の慶文法師の正信法門にこれを弁ずること、はなは
>だ詳らかなり。今ためにつぶさにかの問を引かん。曰わく、あるいは人ありて云わん、
>臨終に仏菩薩の光を放ち、台を持し、天楽異香来迎せるを見るは、往生並びにこれ魔事な
>りと。この説、いかんぞや。答えて曰わく、『首楞厳』に依りて三昧を修習して、あるい
>は陰魔を発動することあり。『摩訶衍論』(大乗起信論)に依りて三昧を修習して、ある
>いは外魔(天魔を謂うなり)を発動することあり。『止観論』に依りて三昧を修習して、
>あるいは時魅を発動することあり。これ等は、ならびにこれ、禅定を修する人、その自力
>に約して、まず魔種ありて、定んで撃発を被るがゆえにこの事を現ず。もしよく明らかに
>識りておのおの対治を用いれば、すなわちよく除遣せしむ。もし聖の解を作せば、みな
>魔障を被るなり(上にはこの方にして道に入るには、すなわち魔事を発すことを明かす)。
>今、所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づくときは、あえて于
>〈おかし〉犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏に大慈悲力・大誓願力・大智慧力・
>大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明
>遍照摂取衆生力ましますに由りてなり。かくのごとき等の不可思議功徳の力まします。
>あに念仏の人を護持して、臨終の時に至るまで障碍なからしむることあたわざらんや。
>もし護持をなさずは、すなわち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたわずは、
>智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察すること
>あたわずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、また
>なんぞましまさんや。経に云わく、阿弥陀仏の相好の光明、あまねく十方世界を照らす。
>念仏の衆生を摂取して捨てたまわずと。もし念仏して臨終に魔障を被ると謂わば、光明遍
>照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。いわんや念仏の人、臨終の感相、衆経より出で
>たり。みなこれ仏の言〈みこと〉なり。なんぞ貶して魔境とすることを得んや。今ために
>邪疑を決破す。当に正信を生ずべしと。已上、かの文。
>------------------------------------------------------------------------------

  (元照・観経義疏)
  また次のように述べる。今、浄土の諸経は、どれも同じように「魔」について言及し
  ていない。すなわち、次のことが知れる。この法に「魔」がないことは明らかである。
  山陰の慶文法師の「正信法門」に、これをたいへん詳しく語っている。ここで、具体的
  にその問いを引用しよう。その言うところでは、あるいは、ある人が次のように述べ
  たとしよう。臨終に仏菩薩が光を放ち、台を持つのを見て、また、天の音楽と異なる
  香りをともなって来迎し、往生するのは、どちらも魔のしわざであると。この説はど
  うだろう。答えて次のように述べる。『首楞厳経』によって三昧を修め習うにあたり、
  ときとして陰魔を発動させることがある。『摩訶衍論』(大乗起信論)によって三昧を
  修め習うにあたり、ときとして外魔(天魔のこと)を発動させることがある。『止観
  論』によって三昧を修め習うにあたり、ときとして時魅を発動させることがある。こ
  れらは、どれも、禅定を修める人が、その自力によるために、まず魔の種があって、
  必ずその攻撃を被るために、こういった事が現れるのである。もし、それを明らかに
  認識することができて、それぞれに対治をすれば、それを追い払うことができる。
  もし、聖なる解決をしようとすれば、みな魔の障(さわり)を被るのである。(以上は、
  この現世にあって聖道に入るときには、魔事を引き起こすことを明らかにしている。)
  今、修めるところの念仏三昧については、仏力を憑(たの)むものである。それは、帝王
  に近づくときは、あえてそれを犯すものがないようなものである。思うに、阿弥陀仏
  には、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・
  天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力などが、あるからである。
  このような不可思議な功徳の力がある。どうして、念仏が、人を護持して、臨終の時
  に至るまで障(さわり)や碍(さまたげ)のないようにすることができないものだろうか。
  もし、護持をしないならば、それは慈悲力などはないということだろう。もし、魔の
  障(さわり)を除くことができないならば、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力
  などは、どうしてあるといえるのだろうか。もし、それを見抜くことができずに、魔
  が障(さわり)をなすことを被るならば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力などは、
  またどうしてあるといえるのだろうか。経では次のように述べる。阿弥陀仏の優れた
  容貌が発する光明は、あまねく十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てること
  がない。もし念仏して臨終に魔の障(さわり)を被るというのならば、「光明遍照摂取
  衆生力(光明があまねく照らし衆生を摂取する力)」は、どうしてあるといえるだろう
  か。いわんや、念仏の人が、臨終に仏の相を感ずるということは、いろいろな経から
  出ていることである。これはすべて仏のお言葉である。どうして貶めて魔境とするこ
  とができるであろうか。今、そのために悪い疑いを打ち破る。まさに正信を生ずべき
  である。以上、かの(正信法門の)文である。

  WikiArcより
    首楞厳経
      1.『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』のこと。十巻。唐の
       般刺密帝訳。疑経ともいわれる。首楞厳は梵語シューランガマの音写で、
       一切事究竟堅固と漢訳し、三昧の名。『教行信証』には修行と摩障の関係
       を説くのに引用され、また第五巻に二十五聖の円通が説かれてあり、その
       中の第二十四に大勢至菩薩の念仏円通を説き明かす。
      2.『首楞厳三昧経』のこと。二巻。後秦の鳩摩羅什訳。仏が、堅意菩薩が
       菩提をすみやかに得る法を問うたのに対してこの三昧を説き、また舎利弗
       が魔境を遠離する道を問うたのに対して、魔境を現してこれを退治して
       証明せられたことを説いた経典である。
    陰魔
      五陰魔のこと。人間存在を構成している色(身体)・受(感受作用)・
      想(表象作用)・行(意志等の心作用)・識(認識作用)の五は、
      仏道修行のさまたげとなるから五陰魔という。
    外魔
      仏道修行者を悩ませたるために外部からくる悪魔。四魔中の天魔のこと。
    四種の魔
      五陰魔(五薀魔)・死魔・煩悩魔・天魔を指して四魔という。
    時魅
      時魅鬼(時媚鬼)のこと。昼夜十二時(一日の十二区分)の各時間帯によって
      種々にあらわれる鬼。
    相好
      仏身に具わっている勝れた容貌形相のこと。この中で顕著なものを三十二相
      に分け、微細なものを八十種好に分け、この両者を合して相好という。

  大辞林より
    退治/対治
      人々を仏道に専心させるため、煩悩の悪魔を降伏させること。
    干犯
      他に干渉してその権利を侵すこと。

●re.61
ボン
関東の男性
[ 1776 ] Re61:教行信証・学習ノート3 2010/01/25 (Mon) 02:05 △up ▽down
(つづき)

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>次の所引の文は同じき次上の段に、四に魔説を解する下の釈なり。当段の初に云わく
>「四に魔説を解す。惑〈あるひと〉の謂わく、西方の浄業を修する臨終の相を感ずるは皆
>これ魔といわば、これ未だ教典を披かざるに由りて、修持を楽わず、喜びて邪言を以て他
>の正信を障う。害を為すこと浅からざるが故に須くこれを弁ずべし。

  次の引用の文は、同じ次の上の段に、第四に魔説を解説する下の釈である。当段の初
  めに次のように述べる。「四に魔説を解説する。ある人はこう述べる。『西方の浄業
  を修めて、臨終の相を感ずるのは、すべて魔である。』というならば、これは、未だ
  教典を開かないことから、それを修めて保持することを願わず、喜んで邪悪な言葉を
  使って他の正しい信心を妨げるものである。その害が少なくないため、これについて
  語らなければならない。

  WikiArcより
    浄業
      浄土に往生する行業である念仏のこと。


>且く魔に四種あり。一には五陰魔、二には煩悩魔、三には死魔、四には天魔なり。上の
>三魔はこれ汝が身心なり。ただ天魔のみありて、これ外より来るのみ。いずくんぞ己が魔
>を畏れずして、ただし外魔を疑うことを得るや。況んや魔は欲界の天に居す。乃ちこれ
>大権、悪を退け善を進むるに大功行あり、まさにこれを勤むべし。凡夫の修道内心正なら
>ざれば必ず魔擾に遭う。もし心真実ならば魔は能く為することなけん。ここに知りぬ魔は
>汝が心よりす。他の致す所にあらず。世の妖冶の人を媚惑するが如き、心を端くし、色を
>正しくすれば、必ず近づくこと能わず。情を縦にして顧眄すれば定んで惑わす所に遭う。
>今、衆説を引きて以て群疑を絶たん。

  とりあえず、魔に四種類がある。一には五陰魔、二には煩悩魔、三には死魔、四には
  天魔なり。上の三魔は自分の身と心である。ただ、天魔だけは、これ外より来るもの
  である。どうして自分のなかの魔を恐れないで、外の魔を疑うことができるだろうか。
  ましてや、魔は欲界の天に住んでいる。すなわち、これは「大権(?)」であって、
  悪を退け善を進めるにあたって大きな功力のある行いであり、まさにこれに勤めるべ
  きである。凡夫の修道では、内心が正しくなければ、必ず魔の撹乱に遭遇する。もし
  心が真実ならば、魔は、その力を働かせることができない。ここに、魔は自分の心か
  ら起こることが知れる。他のいたすところではない。それは、世のなまめかしく美し
  いものが、人を惑わすようなものであり、心を真っ直ぐにし、色を正しくすれば、
  必ず魔は近づくことができない。情を縦にしてあたりを見渡せば、必ず惑わすものに
  遭遇する。今ここに、多くの人の説を引用して、多くの疑いを断ち切ろうとう思う。

  大辞林より
    顧眄(こべん)
      振り返って見ること。あたりを見ること。こめん。
    衆説
      多くの人の意見。多くの人の説。


>一に云わく、大光明の中には決して魔事なし。猶し白昼に奸盗の成し難きが如し。一に云
>わく、此土の観心は反りて本陰を観ずるをもって多く魔事を発す。今、弥陀の果徳、真実
>の境界を観ずるが故に魔事なし。一に云わく、念仏の人はみな一切諸仏の為に護念せらる。
>既に仏の為に護らる。安ぞ魔あることを得ん。一に云わく、浄業を修する人、必ず魔を発
>せば、仏は須らく捐破したもうべし。『般若』『楞厳』等の如し。仏もし捐せざれば則ち
>衆生を誤りて魔網に堕せしめん」と。(今の所引はこの次なり)。

  一つに、大光明の中には決して魔事がない。白昼に悪がしこい盗みを行いにくいよう
  なものである。一つに、この土における観心は、本陰を観ることによって、かえって
  魔事を多発させる。今ここに、弥陀の果徳は、真実の境界を観るために魔事がない。
  一つに、念仏の人はみな、一切の諸仏によって、心をかけて守られている。すでに、
  仏によって守られているのだから、どうしてそこに魔がありえようか。一つに、浄業
  を修める人は、必ず魔を発し、仏は破り捨てられるにちがいない。『般若』『楞厳』
  などのようなものである。もし、仏が捨て去られないのなら、衆生を誤って魔の網に
  堕落させるであろう。」(今の所引はこの次なり)

  大辞林より
    奸盗
      悪がしこい盗人。奸賊。
    観心
      自己の心の本性を観察し、その真実を明らかにすること。


>また所引の外、次下の文に云わく「また『楞厳』に云わく、禅定心の中に盧舎那の、天の
>光台に踞して十仏囲遶する等を見る。これを心魂霊悟の所染と名づく。心光は研明にして
>諸の世界を照らすに、暫くかくの如くなるを得るも聖証と為るにあらず。資中の疏に曰わ
>く、もし念仏三昧を修すれば、この境現前す。修多羅と合するを名づけて正相と為す。
>もし余観を修すれば、設い仏形を見れども、また正と為さず。心境の相応せざるを以ての
>故に。況んや真如を観ずるに諸相を取らず、而るに所著あらば、あに魔にあらざるや。
>資中の揀判は極めて精当と為す。よって具に前の諸説を引きて永く疑障を除く」已上。

  また引用箇所のほかに、次の下の文にこう述べる。「また『楞厳』ではこう述べる。
  禅定の心を保つなかで、盧舎那が天の光台に腰をおろして、十仏が囲遶する様子など
  を見るとする。これを心魂霊悟の染まったものと名づける。心光はひかり輝き、もろ
  もろの世界を照らすことが、しばらくはそうではあっても、それが聖なる証(あかし・
  さとり)となるわけではない。資中の疏(注釈書)ではこう述べる。もし念仏三昧を修め
  れば、この境が目の前に現れる。修多羅(経)と合致するものを正相(正しいすがた)
  と名づける。もしほかの観を修めれば、たとえ仏の形(かたち)を見たとしても、正と
  はならない。それは、心と境が相応しないからである。いわんや真如を観ずるにあた
  って諸相を取らず、それにもかかわらず著しいところがあるならば、どうしてそれが
  魔ではないといえるだろうか。資中の判断は、きわめて的を得たものである。だから、
  具体的に前の諸説を引用して、永く疑いの障(さわり)を取り除くものである。」

  WikiArcより
    心光
      色光に対する語で智光、内光ともいう。大智大悲の仏心をもって念仏の衆生
      をおさめとる摂取の光明のこと。
    境
      人間の感覚器官と心の認識能力の対象。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根それ
      ぞれによって認識される色・声(しよう)・香・味・触・法の六境。境界
    修多羅
      梵語スートラの音写。経と漢訳する。また経は常の意味で、真理の永遠不変
      のことをいう。またよく真理にかない、衆生の根機にかなうから契経とも
      漢訳する。

  漢和辞典より
    揀・・・選び出す、よりわける、ひろう


>一段の中に文の前後を見て信解せしめんが為に具に引く所なり。正しき引文の中に、正信
>法門は山陰の所造の『浄土文』の中に正信・浄行の二門を顕明す。その中に今、正信の下
>の釈を引く、この故に号して正信法門という。問答の中に問意は見易し。答の中に「有依
>首楞厳」とは、彼の経の第九に広く魔事を弁ず、みな自心の入定精研に約す。『摩訶衍論』
>は馬鳴菩薩の所造なり。通じて一代大乗の教を申ぶ。『止観論』は即ち天台の説なり。
>彼の第八巻にまた魔事を弁ず。「時魅」というは天魔の所化なり。

  一段の文の前後を見て、信じて理解をさせるために、具体的に引用するところである。
  正しい引用文のなかで、「正信法門」は、山陰の著作した『浄土文』のなかに正信・
  浄行の二門を明らかにしている。そのなかで今、正信の下の釈を引用する。このため
  に、「正信法門」というのである。問答のなかの問意は、わかりやすい。答の中に
  「有依首楞厳」とあるのは、その経の第九に、広く魔事を語っているからである。
  みな自らの心の入定精研に帰結する。『摩訶衍論』は馬鳴菩薩の著作である。全体を
  とおして一代大乗の教を述べている。『止観論』は、天台の説である。その第八巻に
  また魔事を論じている。「時魅」というのは、天魔が姿を変えたものである。

  大辞林より
    信解
      教法をまず信じて、のちに理解すること。


>私の所引の前後の之文に於いて、まず前の文の中に、その四魔に就きて対治を出ださば、
>『大集』にこれを出だす。集諦を断じて煩悩魔を降し、苦諦を知りて陰魔を降し、道諦を
>修して天魔を降し、滅諦を証して死魔を降す。この外の対治は諸典の訓うる所、その文こ
>れ繁し。具に述ぶるに及ばず。

  私が引用した前後の文において、まず前の文のなかの四魔について、それぞれの対治
  を挙げるとすれば、『大集経』から引用するのがよい。つまり、集諦を断って煩悩魔
  を降し、苦諦を知って陰魔を降し、道諦を修めて天魔を降し、滅諦を証して死魔を降
  す。このほかの対治は、諸典の教えるところであるが、その文は複雑でわずらわしい。
  詳しく述べるには及ばない。

  WikiArcより
    大集経
       仏が十方の仏・菩薩や諸天を集めて大乗の法を説いたもので、空思想に加
       えて、密教的要素が濃い。また「月蔵分」巻十には、五箇五百年(釈尊滅
       後の仏教の展開を五種の五百年に区切って表すもの)をあげ、末法のすが
       たを説く。
    四諦
      釈尊が最初の説法で示された四つの真理。四聖諦の略。
        (1)苦諦(くたい)。人生は苦であるという真理。
        (2)集諦(じったい)。苦を招き集める原因は煩悩であるという真理。
        (3)滅諦(めったい)。煩悩を滅尽することによって、苦のない涅槃寂静の
                 境地が実現するという真理。
        (4)道諦(どうたい)。涅槃寂静の境地に至るためには、八聖道(八正道,
                 八聖道分)を実践せねばならないという真理。
      このうち(1)(2)は迷いの因と果、(3)(4)はさとりの因と果をあらわす。


>後の文の中に「資中」というは、これ蜀の地名なり。弘允法師は彼の蜀地に居す。故に
>この名を称す。疏十巻を作りて『楞厳経』を解す。当文魔境以下の註解は、ほぼ戒度の
>『正観記』の意に依りて大概これを記す。委しくは彼の文の如し。

  後の文の中に「資中」とあるのは、蜀の地名である。弘允法師は、その蜀の地に住ん
  でいた。だから、この名を称したのである。疏(注釈書)の十巻を作って『楞厳経』を
  解釈した。当文の魔境以下の註解は、ほぼ、戒度の『正観記』の意(こころ)によって、
  おおまかに記述したものである。詳しくは、その文のとおりである。

●re.62
ボン
関東の男性
[ 1778 ] Re62:教行信証・学習ノート3 2010/02/02 (Tue) 01:01 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。元照律師弥陀経義文。一乗極唱終帰。咸指於楽邦。万行円修最勝。独推於果号。
良以従因建願。秉志躬行。歴塵点劫懐済衆之仁。無芥子地非捨身之処。悲智六度摂化以
無遺。内外両財随求而必応。機与縁熟。行満功成。一時円証於三身。万徳総彰於四字。
已上。
-------------------------------------------------------------------------------
また云わく、元照律師『弥陀経義』の文、一乗の極唱は、終帰ことごとく楽邦を指す。
万行の円修は、最勝を独り果号に推〈ゆず〉る。まことにもって因より願を建つ。志を
秉り行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐けり。芥子の地も捨身の処にあらざることな
し。悲智六度、摂化して、もって遺すことなし。内外の両財、求むるに随うて必ず応ず。
機と縁と熟し、行満じ功成り、一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰ると。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次又同師小経疏文。序初文也。一乗極唱終帰等者念仏一乗頓教極談。偏勧西方置而不論。
又一乗言本被法華。薬王流通終勧安楽。彼此帰一故云咸指。内外等者則分両異。言内財
者七種聖財等之類也。言外財者七宝衣服等之類也。施彼聖財謂之法施。施其世財言之財
施。機与等者与興有異愚按興字脇文体歟。
-------------------------------------------------------------------------------

次はまた同じき師の『小経疏』の文。序の初の文なり。「一乗極唱終帰」等とは念仏一乗
頓教の極談なり。偏に西方を勧むること置きて論ぜず。また一乗の言は、もと『法華』に
被しむ。薬王の流通に終に安楽を勧む。彼此、一に帰す、故に「咸指」という。「内外」
等とは、則ち両異を分かつ。内財というは七種の聖財等の類なり。外財というは七宝・
衣服等の類なり。彼の聖財を施する、これを法施という。その世財を施する、これを財施
という。「機与」等とは、与と興と異あり、愚按するに興の字が文体に脇うか。

●re.63
ボン
関東の男性
[ 1779 ] Re63:教行信証・学習ノート3 2010/02/02 (Tue) 01:01 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。元照律師弥陀経義文。一乗極唱終帰。咸指於楽邦。万行円修最勝。独推於果号。
>良以従因建願。秉志躬行。歴塵点劫懐済衆之仁。無芥子地非捨身之処。悲智六度摂化以
>無遺。内外両財随求而必応。機与縁熟。行満功成。一時円証於三身。万徳総彰於四字。
>已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>また云わく、元照律師『弥陀経義』の文、一乗の極唱は、終帰ことごとく楽邦を指す。
>万行の円修は、最勝を独り果号に推〈ゆず〉る。まことにもって因より願を建つ。志を
>秉り行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐けり。芥子の地も捨身の処にあらざることな
>し。悲智六度、摂化して、もって遺すことなし。内外の両財、求むるに随うて必ず応ず。
>機と縁と熟し、行満じ功成り、一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰ると。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  また次のように述べる。元照律師『弥陀経義』の文は、一乗を究極に唱えるものあっ
  て、その終わりに帰するところは、ことごとく楽邦(阿弥陀仏の浄土)を指すものであ
  る。多くの円満な修行であっても、それらは、最も勝れたものを、唯一の果号(弥陀の
  名号)にゆずるものである。まったくもって、弥陀は因(修行)のときから願を建てた。
  志(こころざし)をしっかりと守り、行をきわめ、はかりしれない長い時間を歴て、
  衆生を救済しようとする慈悲の心を懐いた。芥子(けし)ほどの地も、衆生救済のため
  にみずから身を捨てる処でないところはない。悲智六度を成し遂げ、摂化(摂取化益)
  して残すことがない。内と外の両方の財(たから)を、求めにしたがって必ず分け与え
  る。機と縁とが熟し、行が満たされ、功が成し遂げられ、一時(いっとき)に欠けるこ
  となく三身(法身・報身・応身)を証する。すべての徳がすべて四字(阿弥陀仏)となっ
  て表れるのである。

  WikiArcより
    一乗
      一仏乗ともいう。三乗に対する語。一は唯一無二、乗は乗物の意で、一切の
      衆生を載せてひとしくさとりに至らしめる唯一の教法のこと。
      大乗仏教の唯一にして最高の教え。浄土真宗では、とくに阿弥陀仏の本願の
      教えをもって一乗法であるとする。
      本願名号の功徳の深く広いことを海に喩えたもの。本願一乗海・弘誓一乗海
      などと称する。
    楽邦
      阿弥陀仏の浄土のこと。
    塵点劫
      はかりしれない長い時間。
    済衆の仁
      衆生を救済しようとする慈悲の心。
    捨身
      衆生救済のためにみずから身を捨てること。
    悲智六度
      布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六度(六波羅蜜)の中、
      前五は慈悲の行、後一は智慧の行で、六度は悲智に統摂される。
    摂化
      摂取化益の略。衆生を救いとって、教化し利益をあたえること。
    三身
      仏身の三位態。法身・報身・応身の三。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次又同師小経疏文。序初文也。一乗極唱終帰等者念仏一乗頓教極談。偏勧西方置而不論。
>又一乗言本被法華。薬王流通終勧安楽。彼此帰一故云咸指。内外等者則分両異。言内財
>者七種聖財等之類也。言外財者七宝衣服等之類也。施彼聖財謂之法施。施其世財言之財
>施。機与等者与興有異愚按興字脇文体歟。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次はまた同じき師の『小経疏』の文。序の初の文なり。「一乗極唱終帰」等とは念仏一乗
>頓教の極談なり。偏に西方を勧むること置きて論ぜず。また一乗の言は、もと『法華』に
>被しむ。薬王の流通に終に安楽を勧む。彼此、一に帰す、故に「咸指」という。「内外」
>等とは、則ち両異を分かつ。内財というは七種の聖財等の類なり。外財というは七宝・
>衣服等の類なり。彼の聖財を施する、これを法施という。その世財を施する、これを財施
>という。「機与」等とは、与と興と異あり、愚按するに興の字が文体に脇うか。

  次は、また同じ師の『小経疏』の文である。その序の初めの文である。「一乗極唱終
  帰・・・」などというのは、念仏の一乗である頓教の極めつけの談である。ひとえに
  西方を勧めることは、置いて論じない。また一乗の言は、もと『法華』からきている。
  『法華』の「薬王品」の流通分において、最後には安楽を勧める。あれもこれも、
  一つに帰着する。だから「咸指(ことごとく・・・指す)」という。「内外・・・」な
  どとは、すなわちふたつの異なったものを分かつものである。内財(内なるたから)
  というはの七種の聖財などの類である。外財(外なるたから)というは七宝・衣服等の
  類である。その聖財を施すこと、これを法施という。その世財(世間の財産)を施すこ
  と、これを財施という。「機与・・・」等とは、「与」と「興」と違いがあり、愚か
  な私見をのべれば、「興」の字が文体にかなうだろうか。

  WikiArcより
    頓教
      すみやかに仏果をさとり得る教法をいう。あるいは説法の形式上から言えば、
      相手を考慮せずに、はじめから直ちに深い内容の教えを説く説き方をいう。
      漸教に対する。
    七宝
      七つの宝物。七珍(しっちん)ともいう。
        1.自然の七宝。
           金・銀・瑠璃・玻璃・しゃこ・赤珠・瑪碯の七種の宝のこと。
           ただし、このほかに、珊瑚・琥珀・真珠・明月珠・摩尼珠などが
           適宜に加えられて七宝ということもある。
        2.転輪聖王の七宝。
           輪宝(輪形の武器で金・銀・銅・鉄の四種がある)・象・馬・珠
           ・玉女・主蔵臣(すぐれた大臣)・主兵臣(すぐれた将軍)の七。
    世財
      世間の財産。

  往生要集より
    「信・戒・施・聞・慧・慚・愧、かくのごとき七法を聖財と名づく。」

●re.64
ボン
関東の男性
[ 1780 ] Re64:教行信証・学習ノート3 2010/02/11 (Thu) 22:26 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。況我弥陀以名摂物。是以耳聞口誦。無辺聖徳攬入識心。永為仏種頓除億劫重罪。
獲証無上菩提。信知。非少善根。是多功徳也。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(元照・弥陀経義疏)また云わく、いわんや我が弥陀は名をもって物を摂したまう。
ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、
頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳
なりと。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次文同疏正宗文也。彼科釈云。第二正宗分大分三段。従初至倶会一処。先讃二報荘厳。
令生欣慕。二不可以少下。正示専念持名。教修行法。三如我今者下。後引諸仏同。
讃勧信受持。已上。於第二科。又分為三。文云。第二正示行法分三段。初至彼国。
簡余善不生。若有下。二正示修法。我見下。三結顕勧意。已上。又於第二子段有三。
文云。二中分三。初至不乱。専念持名。其人下。臨終感聖。是人下。三正念往生。已上。
而初専念持名之下。有三問答。今所引者。第三答也。其問言曰。四字名号凡下常聞。
有何勝能超過衆善。已上。所引之中答言略初。今私引加。其詞云。答。仏身非相果徳深
高。不立嘉名莫彰妙体。十方三世皆有異名。(以下如所引)所引文次引華厳経並薬師経
及瞻察経。嘆仏功徳。但彼経説亘諸仏名。仍結文云。諸余仏名聞持尚爾。況我弥陀有本
誓乎。已上。
-------------------------------------------------------------------------------

次の文は同じき疏の正宗の文なり。彼の科釈に云わく「第二に正宗分、大に三段を分かつ。
初より倶会一処に至るまでは、まず二報荘厳を讃じて、欣慕を生ぜしむ。二に不可以少の
下は正しく専念持名を示して修行の法を教う。三に如我今者の下は後に諸仏の同讃を引き
て勧信受持せしむ」已上。第二の科に於いて、また分かちて三と為す。文に云わく「第二
に正しく行法を示すに三段を分かつ。初より彼国に至るまでは余善の不生を簡ぶ。若有の
下は二に正しく修法を示す。我見の下は三に結して勧の意を顕わす」已上。また第二の子
段に於いて三あり。文に云わく「二が中に三を分かつ。初より不乱に至るまでは専念持名
なり。其人の下は臨終感聖なり。是人の下は三に正念往生なり」已上。而るに初に専念持
名の下に三の問答あり。今の所引は第三の答なり。その問の言に曰わく「四字の名号は凡
下常に聞く。何なる勝能ありてか衆善に超過せるや」已上。所引の中に答の言は初を略す。
今私に引き加う。その詞に云わく「答う。仏身は相にあらず、果徳深高なり。嘉名を立て
ずば妙体を彰わすことなけん。十方三世にみな異名あり」。(以下、所引の如し)。所引
の文の次に『華厳経』並びに『薬師経』及び『瞻察経』を引きて仏の功徳を嘆ず。ただし
彼の経の説は諸仏の名に亘る。よって結文に云わく「諸余の仏名は聞持すれば尚爾り。
況んや我弥陀に本誓あるをや」已上。

●re.65
ボン
関東の男性
[ 1781 ] Re65:教行信証・学習ノート3 2010/02/11 (Thu) 22:26 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。況我弥陀以名摂物。是以耳聞口誦。無辺聖徳攬入識心。永為仏種頓除億劫重罪。
>獲証無上菩提。信知。非少善根。是多功徳也。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(元照・弥陀経義疏)また云わく、いわんや我が弥陀は名をもって物を摂したまう。
>ここをもって耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて、
>頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。信に知りぬ、少善根にあらず、これ多功徳
>なりと。
>------------------------------------------------------------------------------

  (元照・弥陀経義疏)
  また次のように述べる。ましてや、我が弥陀は、その名によって物(人々)を摂取なさ
  れる。ここをもって、その名を耳に聞き、口に称えると、はてしないの聖なる徳が、
  衆生の心に入り満ちる。それが永く仏種となって、たちどころに億劫の重罪を取り除
  き、このうえない菩提を獲証する。まことに知ることができる。善根が少ないのでは
  なく、功徳が多いのだと。

  WikiArcより
    識心
      衆生の心。
    攬入
      入り満ちること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次文同疏正宗文也。彼科釈云。第二正宗分大分三段。従初至倶会一処。先讃二報荘厳。
>令生欣慕。二不可以少下。正示専念持名。教修行法。三如我今者下。後引諸仏同。
>讃勧信受持。已上。於第二科。又分為三。文云。第二正示行法分三段。初至彼国。
>簡余善不生。若有下。二正示修法。我見下。三結顕勧意。已上。又於第二子段有三。
>文云。二中分三。初至不乱。専念持名。其人下。臨終感聖。是人下。三正念往生。已上。
>而初専念持名之下。有三問答。今所引者。第三答也。其問言曰。四字名号凡下常聞。
>有何勝能超過衆善。已上。所引之中答言略初。今私引加。其詞云。答。仏身非相果徳深
>高。不立嘉名莫彰妙体。十方三世皆有異名。(以下如所引)所引文次引華厳経並薬師経
>及瞻察経。嘆仏功徳。但彼経説亘諸仏名。仍結文云。諸余仏名聞持尚爾。況我弥陀有本
>誓乎。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次の文は同じき疏の正宗の文なり。彼の科釈に云わく「第二に正宗分、大に三段を分かつ。
>初より倶会一処に至るまでは、まず二報荘厳を讃じて、欣慕を生ぜしむ。二に不可以少の
>下は正しく専念持名を示して修行の法を教う。三に如我今者の下は後に諸仏の同讃を引き
>て勧信受持せしむ」已上。第二の科に於いて、また分かちて三と為す。文に云わく「第二
>に正しく行法を示すに三段を分かつ。初より彼国に至るまでは余善の不生を簡ぶ。若有の
>下は二に正しく修法を示す。我見の下は三に結して勧の意を顕わす」已上。また第二の子
>段に於いて三あり。文に云わく「二が中に三を分かつ。初より不乱に至るまでは専念持名
>なり。其人の下は臨終感聖なり。是人の下は三に正念往生なり」已上。而るに初に専念持
>名の下に三の問答あり。今の所引は第三の答なり。その問の言に曰わく「四字の名号は凡
>下常に聞く。何なる勝能ありてか衆善に超過せるや」已上。所引の中に答の言は初を略す。
>今私に引き加う。その詞に云わく「答う。仏身は相にあらず、果徳深高なり。嘉名を立て
>ずば妙体を彰わすことなけん。十方三世にみな異名あり」。(以下、所引の如し)。所引
>の文の次に『華厳経』並びに『薬師経』及び『瞻察経』を引きて仏の功徳を嘆ず。ただし
>彼の経の説は諸仏の名に亘る。よって結文に云わく「諸余の仏名は聞持すれば尚爾り。
>況んや我弥陀に本誓あるをや」已上。

  次の文は、同じ疏(注釈書)の正宗の文である。その科の釈で次のように述べる。「第
  二に、正宗分を、大きく三段を分ける。初めより『倶会一処』までは、まず第一に、
  仏の二報荘厳を讃えて、それを願い慕う心を起こさせる。第二に、『不可以少』の下
  は、まさしく専念持名を示して、修行の仕方を教える。第三に、『如我今者』の下は、
  後に諸仏が同しく讃えていることを引き合いに出して、信を勧めて受持させようとし
  ている。」第二の科について、また三つに分ける。その文では次のように述べる。
  「第二に、まさしく行法を示すにあたり、三段に分ける。初めより『彼国』までは、
  ほかの善行では不生をえらぶ。『若有』の下は、第二に、まさしく修法を示す。
  『我見』の下は、第三に、結論として勧の意(こころ)を顕わす。」また、第二を、
  さらに三段にわける。その文では次のように述べる。「第二のなかを三つに分ける。
  初めより『不乱』までは専念持名である。『其人』の下は臨終感聖である。『是人』
  の下は、第三に正念往生である。」そうして、初めに専念持名の下に三つの問答があ
  る。今の引用は第三の答えである。その問いの言葉では次のように述べる。「四字の
  名号は、凡下(凡夫)が常に聞く。どんな優れた能量句あって衆善よりも超過している
  のであろうか。」引用箇所のなかの答えの言葉は、初めを省略している。今、私の考
  えによりに引用を加える。その詞(ことば)では次のように述べる。「答える。仏身は
  相(すがた)ではなく、その果徳は深く高い。もし、嘉名を立てなかったら、妙体を表
  わすことができないであろう。十方三世に、みなそれぞれ異名がある。」(以下、
  引用のとおりである)引用の文の次に『華厳経』『薬師経』『瞻察経』などを引用し
  て仏の功徳を賛嘆する。ただし、その経の説は諸仏の名にわたる。したがって、結び
  の文に次のように述べる。「諸余の仏名は、聞持すれば、なお、そのようである。
  ましてや、我弥陀には本誓があるのである。」

  WikiArcより
    正宗
      正宗分のこと。経典の主要な内容を説いた部分。
    二報荘厳
      正報(仏身)と依報(仏国土)の荘厳。
    欣慕
      ねがいしたうこと。
    衆善の仮門
      諸善万行を修めて往生を願う権仮ごんけの法門。

●re.66
ボン
関東の男性
[ 1784 ] Re66:教行信証・学習ノート3 2010/03/05 (Fri) 01:23 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。正念中。凡人臨終識神無主。善悪業種無不発現。或起悪念。或起邪見。或生繋恋。
或発猖狂悪相非一。皆名顛倒因。前誦仏罪滅障除。浄業内薫。慈光外摂。
脱苦得楽一刹那間。下文勧生。其利在此。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(元照・弥陀経義疏)また云わく、正念の中に、凡そ人の臨終は識神に主なし。善悪の
業種、発現せざることなし。あるいは悪念を起こし、あるいは邪見を起こし、あるいは
繋恋を生じ、あるいは猖狂悪相を発せんこと一にあらず。みな顛倒の因と名づく。前に仏
を誦して、罪滅し、障除こり、浄業内に熏じ、慈光外に摂すれば、苦を脱れ楽を得ること、
一刹那の間なり。下の文に生を勧む、その利、これにありと。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次言又云正念等者。上所言之小子段中第三段也。言正念者。是則指経是人終時心不顛倒
等之句也。言下文者。是指結顕勧意之文。即是我見是利以下意也。
-------------------------------------------------------------------------------

次に「又云正念」等とは、上に言う所の小子段の中に第三段なり。「正念」というは、
これ則ち経の「是人終時心不顛倒」等の句を指すなり。「下文」というは、これ結顕勧意
の文を指すなり。即ちこれ「我見是利」以下の意なり。

●re.67
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関東の男性
[ 1785 ] Re67:教行信証・学習ノート3 2010/03/05 (Fri) 01:24 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。正念中。凡人臨終識神無主。善悪業種無不発現。或起悪念。或起邪見。或生繋恋。
>或発猖狂悪相非一。皆名顛倒因。前誦仏罪滅障除。浄業内薫。慈光外摂。
>脱苦得楽一刹那間。下文勧生。其利在此。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(元照・弥陀経義疏)また云わく、正念の中に、凡そ人の臨終は識神に主なし。善悪の
>業種、発現せざることなし。あるいは悪念を起こし、あるいは邪見を起こし、あるいは
>繋恋を生じ、あるいは猖狂悪相を発せんこと一にあらず。みな顛倒の因と名づく。前に仏
>を誦して、罪滅し、障除こり、浄業内に熏じ、慈光外に摂すれば、苦を脱れ楽を得ること、
>一刹那の間なり。下の文に生を勧む、その利、これにありと。已上。
------------------------------------------------------------------------------

  (元照・弥陀経義疏)
  また次のように述べる。臨終正念にあたって、ほとんどの人の臨終は、識神(心)に
  主(あるじ)がない。善悪の業の種(たね)が、発現しないということがない。あるいは、
  悪念を起こし、あるいは邪見を起こし、あるいは愛着の情を生じ、あるいは猛りくる
  って恐ろしい人相を発することが多々ある。それらはみな顛倒の因(たね)となる。
  そうなる前に、仏名を称えて、罪が滅ぼされ、障が取り除かれ、浄業が内に熏じ、
  慈光が外を包み、苦をまぬがれて楽を得るようになるには、ほんの一瞬があればよい
  のである。下の文に往生を勧めているが、その利益は、こういうことなのである。

    正念
      T 他力信心のこと。
      U 臨終正念の意。死に臨んで、妄案を起こすことなく、
        正しく阿弥陀仏を念じていること。
    識神
      心。
    繋恋
      愛着の情。

  大辞林より
    猖狂
      たけり狂うこと。
    悪相
      恐ろしい人相。醜い顔つき。
    顛倒
      煩悩のために誤った考えやあり方をすること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次言又云正念等者。上所言之小子段中第三段也。言正念者。是則指経是人終時心不顛倒
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に「又云正念」等とは、上に言う所の小子段の中に第三段なり。「正念」というは、
>これ則ち経の「是人終時心不顛倒」等の句を指すなり。「下文」というは、これ結顕勧意
>の文を指すなり。即ちこれ「我見是利」以下の意なり。

  次に「又云正念・・・」等とは、上で言うところの小子段の中の第三段である。
  「正念」というのは、経の「是人終時心不顛倒」等の句を指すものである。
  「下文」というは、これ結顕勧意の文を指すものである。すなわち「我見是利」
  以下の意(こころ)なり。

●re.68
ボン
関東の男性
[ 1786 ] Re68:教行信証・学習ノート3 2010/03/10 (Wed) 00:59 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
慈雲法師云。天竺寺遵式。唯安養浄業捷真可修。若有四衆。欲復速破無明。永滅五逆十悪
重軽等罪。当修此法。欲得大小戒体遠復清浄。得念仏三昧成就菩薩諸波羅蜜。当学此法。
欲得臨終離諸怖畏身心安快。衆聖現前授子接引。初離塵労便至不退。不歴長劫即得無生。
当学此法等。古賢法語能無従乎。已上五門略標綱要。自余不尽。委在釈文。按開元蔵録。
此経凡有両訳。前本已亡。今本乃[キョウ04]良邪舎訳。僧伝云。[キョウ04]良邪舎此云時称。
宋元嘉初。建于京邑。文帝。
-------------------------------------------------------------------------------
(観経義疏)慈雲法師の云わく(天竺寺遵式)、ただ安養の浄業のみ捷真なり、修すべし。
もし四衆ありて、また速やかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲わば、
当にこの法を修すべし。大小の戒体、遠くまた清浄なることを得、念仏三昧を得しめ、
菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲わば、当にこの法を学すべし。臨終にもろもろの怖畏を離
れしめ、身心安快にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、初めて塵労を離れてす
なわち不退に至り、長劫を歴ず、すなわち無生を得んと欲わば、当にこの法等を学び、
古賢の法語に等しくすべし。よく従うことなからんや。已上の五門、綱要を略標す。自余
は尽くさず、くわしく釈文にあり。『開元の蔵録』を案ずるに、この経おおよそ両訳あり。
前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなわちキョウ良耶舎の訳なり。僧伝に云わく、
キョウ良耶舎ここには時称と云う。宋の元嘉の初めに京邑に建めたり。文帝のときなり。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次言慈雲法師云者。元照観経義疏引之。彼義疏上。上所引之指濫伝文。所云即是往生因種。
次下釈也。所引慈雲法師釈者。大弥陀懺序文也。已上五門者。前云二弁古今廃立之中又有
五是。五者所謂一明福観。二弁定散。三示地位。四解魔説。五指濫伝。所言五門篇目如斯。
委在釈文者。指入文別釈。抑時称下有所除詞一十三字。謂其言云。西域人性剛直寡耆欲。
善通三蔵。已上。又云建于京邑。本文建字為達。有異本歟。愚按達字其言有便。言文帝者。
宋第三帝元嘉主也。於彼時称。深加歎異崇重無双。
-------------------------------------------------------------------------------

次に「慈雲法師云」というは、元照の『観経義疏』にこれを引く。彼の『義疏』の上に上
に引く所の濫伝を指す文に「即是往生因種」という所の次下の釈なり。所引の慈雲法師の
釈とは『大弥陀懺』の序の文なり。「已上五門」とは、前に二に古今の廃立を弁ずる中に、
また五ありという、これなり。五とは、いわゆる一には福観を明かし、二には定散を弁じ、
三には地位を示し、四には魔説を解し、五には濫伝を指す。言う所の五門、篇目はかくの
如し。「くわしくは釈文にあり」とは入文別釈を指す。抑も「時称」より下に除く所の詞
は一十三字あり。謂わく、その言に云わく「西域の人。性は剛直にして耆欲寡なし。善く
三蔵に通ず」已上。また「建于京邑」というは、本文は「建」の字を「達」と為す。異本
あるか。愚按するに「達」字は、その言に便あり。「文帝」というは、宋の第三の帝、
元嘉主なり。彼の時称に於いて深く歎異を加えて崇重すること双なし。

●re.69
ボン
関東の男性
[ 1787 ] Re69:教行信証・学習ノート3 2010/03/10 (Wed) 00:59 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>慈雲法師云。天竺寺遵式。唯安養浄業捷真可修。若有四衆。欲復速破無明。永滅五逆十悪
>重軽等罪。当修此法。欲得大小戒体遠復清浄。得念仏三昧成就菩薩諸波羅蜜。当学此法。
>欲得臨終離諸怖畏身心安快。衆聖現前授子接引。初離塵労便至不退。不歴長劫即得無生。
>当学此法等。古賢法語能無従乎。已上五門略標綱要。自余不尽。委在釈文。按開元蔵録。
>此経凡有両訳。前本已亡。今本乃[キョウ04]良邪舎訳。僧伝云。[キョウ04]良邪舎此云時称。
>宋元嘉初。建于京邑。文帝。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(観経義疏)慈雲法師の云わく(天竺寺遵式)、ただ安養の浄業のみ捷真なり、修すべし。
>もし四衆ありて、また速やかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲わば、
>当にこの法を修すべし。大小の戒体、遠くまた清浄なることを得、念仏三昧を得しめ、
>菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲わば、当にこの法を学すべし。臨終にもろもろの怖畏を離
>れしめ、身心安快にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、初めて塵労を離れてす
>なわち不退に至り、長劫を歴ず、すなわち無生を得んと欲わば、当にこの法等を学び、
>古賢の法語に等しくすべし。よく従うことなからんや。已上の五門、綱要を略標す。自余
>は尽くさず、くわしく釈文にあり。『開元の蔵録』を案ずるに、この経おおよそ両訳あり。
>前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなわちキョウ良耶舎の訳なり。僧伝に云わく、
>キョウ良耶舎ここには時称と云う。宋の元嘉の初めに京邑に建めたり。文帝のときなり。
>------------------------------------------------------------------------------

  (観経義疏)
  慈雲法師(天竺寺の遵式)はこう述べる。ただ安養の浄業(念仏)だけが、真実の近道で
  あり、それを修めるべきである。もし四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)がいて、
  また速やかに無明を破り、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅そうとのぞむならば、まさ
  にこの法を修すべきである。大乗戒や小乗戒の戒体、そして、末永く清浄を保って、
  念仏三昧を得て、菩薩の諸波羅蜜を成就しようと望むならば、当にこの法を学ぶべき
  である。臨終にもろもろの怖畏を離れて、身心が安らかで心地よく、衆聖が目の前に
  現れて、手を取って連れられて、初めて塵労(煩悩)を離れて、すなわち不退に至り、
  とてつもない長い歳月をかけることなく無生を得ようと望むならば、まさに、この法
  などを学び、いにしえの賢人の法語と同じようにするべきである。それに従わないと
  いうことがあろうものだろうか。以上の五つの門は、綱要(おおもととなる大切なとこ
  ろ)を大まかに示している。そのほかのことは明言しないが、くわしくは釈文にある。
  『開元の蔵録』を考察してみると、この経にはおおよそ2つ訳がある。前本はすでに
  なくなっている。いまの本は、キョウ良耶舎の訳である。「僧伝」ではこう述べる。
  キョウ良耶舎は、ここでは時称という。宋の元嘉の初めに京にやってきた。文帝のと
  きである。

  WikiArcより
    慈雲(964-1032)
      北宋の天台宗の僧。名は遵式。慈雲尊者といわれた。四明の義通などについ
      て天台を学び、同門の知礼と名をはせたが、のちに阿弥陀仏の大像を造り
      念仏三昧を修した。浄土教関係の著書としては『往生浄土懺願儀』
      『往生浄土決疑行願二門』各一巻が現存する。
    安養
      梵語スカーヴァティーの漢訳。阿弥陀仏の浄土のこと。安養界・安養国・
      安養浄土・安養浄刹などともいう。
    浄業
      浄土に往生する行業である念仏のこと。
    捷真
      真実の近道。
    四衆
      四輩・四部・四部衆ともいう。仏教教団を構成する出家・在家の男女のこと
      で、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷をいう。
    大小の戒体
      大乗戒や小乗戒の戒体。戒体とは、受戒によって得られる防悪のはたらきで、
      それを戒の本体とみる。
    塵労
      心をけがし疲れさせるものを塵に喩えたものの意。煩悩の異名。
    開元の蔵録
      『開元釈教録』のこと。略して『開元録』ともいう。二十巻。
      後漢の唐の智昇の編。開元十八年(730)の成立。前十巻は総括群経録で、
      永平十年(67)から唐の開元十八年までに訳された2278部7046巻の仏教典籍を
      記録している。後十巻は別分乗蔵録で、標準入蔵録(内容による分類)・現蔵
      入蔵録(現に経蔵に収められている1076部5048巻の目録)・付属目録からなる。
    僧伝
       『高僧伝』のこと。十三巻。慧皎の著。『梁高僧伝』ともいう。

  大辞林より
    綱要
      おおもととなる大切なところ。多く著作の題に用いられる。

  ウィキペディアより
    キョウ良耶舎(意訳:時称 382年-443年)は、西域出身の訳経僧である。阿毘曇・律
    に通じ、禅観(止観)を専らとした。三蔵と呼ばれ、いくつかの経典を翻訳している。
    元嘉の初めに、劉宋の健康に入って、鐘山の道林精舎で、僧含に請われて『観薬
    王薬上二菩薩経』『仏説観無量寿経』などを訳した。443年(元嘉19年)四川方面
    に伝道の中途で、江陵にて没す。享年60。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次言慈雲法師云者。元照観経義疏引之。彼義疏上。上所引之指濫伝文。所云即是往生因種。
>次下釈也。所引慈雲法師釈者。大弥陀懺序文也。已上五門者。前云二弁古今廃立之中又有
>五是。五者所謂一明福観。二弁定散。三示地位。四解魔説。五指濫伝。所言五門篇目如斯。
>委在釈文者。指入文別釈。抑時称下有所除詞一十三字。謂其言云。西域人性剛直寡耆欲。
>善通三蔵。已上。又云建于京邑。本文建字為達。有異本歟。愚按達字其言有便。言文帝者。
>宋第三帝元嘉主也。於彼時称。深加歎異崇重無双。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に「慈雲法師云」というは、元照の『観経義疏』にこれを引く。彼の『義疏』の上に上
>に引く所の濫伝を指す文に「即是往生因種」という所の次下の釈なり。所引の慈雲法師の
>釈とは『大弥陀懺』の序の文なり。「已上五門」とは、前に二に古今の廃立を弁ずる中に、
>また五ありという、これなり。五とは、いわゆる一には福観を明かし、二には定散を弁じ、
>三には地位を示し、四には魔説を解し、五には濫伝を指す。言う所の五門、篇目はかくの
>如し。「くわしくは釈文にあり」とは入文別釈を指す。抑も「時称」より下に除く所の詞
>は一十三字あり。謂わく、その言に云わく「西域の人。性は剛直にして耆欲寡なし。善く
>三蔵に通ず」已上。また「建于京邑」というは、本文は「建」の字を「達」と為す。異本
>あるか。愚按するに「達」字は、その言に便あり。「文帝」というは、宋の第三の帝、
>元嘉主なり。彼の時称に於いて深く歎異を加えて崇重すること双なし。

  次に「慈雲法師云」というのは、元照の『観経義疏』に引用したものである。その
  『義疏』のなかで、上に引用するところの濫伝(濫りな伝承)を指す文で「即是往生
  因種」というところの次の下の釈である。引用の慈雲法師の釈とは『大弥陀懺』の
  序の文である。「已上五門」とは、前の第二に、古今の廃立を述べるなかで、「また
  五あり」といっていることを指している。五とは、一つには福観を明きらかにし、二
  つには定散を語り、三つには地位を示し、四つには魔説を解説し、五には濫伝を指す。
  言うところの五門の項目はこのようなものである。「くわしくは釈文にあり」とは、
  入文の別釈を指す。そもそも「時称」より下に、除かれている言葉は一十三字ある。
  その言葉とは「西域の人。性は剛直にして、むさぼる心が少ない。善く三蔵に通ず」
  である。また「建于京邑」については、本文は「建」の字を「達」としている。異本
  はあるのか。愚かな考えをめぐらせば「達」の字は、その言葉に便がある。「文帝」
  というのは、宋の第三の帝、元嘉主である。かの時称において、深く賞賛を加えて、
  尊び重んじることは、それに並ぶものがない。

  WikiArcより
    廃立
      二者を比較して優劣、または難易を分別して、一方を廃し、一方を真実とし
      て立てること。仮に用いた方便を廃し捨てて、真実を立てあらわすこと。

  漢和辞典より
    便・・・都合がよい、てだて、慣れる、すなはち、やすらぐ
    歎異・・すばらしいと感心する

  『論註』(下)
    「正直を方といひ、おのれを外にするを便といふ」

●re.70
ボン
関東の男性
[ 1788 ] Re70:教行信証・学習ノート3 2010/03/10 (Wed) 02:24 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
慈雲讃云。遵式也。了義中了義。円頓中円頓。已上。
大智唱云。元照律師也。円頓一乗純一無雑。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
慈雲の讃に云わく(遵式なり)、了義の中の了義なり。円頓の中の円頓なり。已上。
大智唱えて云わく(元照律師なり)、円頓一乗は、純一にして無雑なり。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次慈雲大智両師。解釈共是一言。各以易見。
-------------------------------------------------------------------------------

次に慈雲・大智両師の解釈は共にこれ一言なり。おのおの以て見易し。

●re.71
ボン
関東の男性
[ 1789 ] Re71:教行信証・学習ノート3 2010/03/10 (Wed) 02:24 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>慈雲讃云。遵式也。了義中了義。円頓中円頓。已上。
>大智唱云。元照律師也。円頓一乗純一無雑。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>慈雲の讃に云わく(遵式なり)、了義の中の了義なり。円頓の中の円頓なり。已上。
>大智唱えて云わく(元照律師なり)、円頓一乗は、純一にして無雑なり。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  慈雲(遵式)の讃にこう述べる。了義のなかの了義である。円頓のなかの円頓である。
  大智(元照律師)が唱えてこう述べる。円頓一乗は、純一にして無雑である。

  WikiArcより
    了義
      真実の義理のすべてを明らかに説いた説法のこと。
    円頓
      完全なさとりの境地にすみやかに到達することのできる教法のこと。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次慈雲大智両師。解釈共是一言。各以易見。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に慈雲・大智両師の解釈は共にこれ一言なり。おのおの以て見易し。

  次に慈雲・大智両師の解釈は、ともに一言である。それぞれ分かりやすい。

●re.72
ボン
関東の男性
[ 1790 ] Re72:教行信証・学習ノート3 2010/03/14 (Sun) 01:10 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
律宗戒度云。元照之弟子也。仏名乃是積劫薫修。攬其万徳総彰四字。是故称之獲益非浅。
已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(正観記)律宗の戒度の云わく(元照の弟子なり)、仏名はすなわちこれ、劫を積んで
薫修す。その万徳を攬るに、すべて四字に彰る。このゆえに、これを称するに益を獲る
こと、浅きにあらずと。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次戒度釈正観記文。是釈元照義疏典也。今釈下品上生之中並解経題仏名徳中。今所引者
嘆仏号釈。所引文上嘆題釈云。遇縁中題号難思者。蓋由経中所詮無非実相妙理。首題一
挙経意全彰。(所引文此次也)。問。今此文者是釈本書何文句耶。答。本書元照義疏下
云。臨終遇縁中知識開導有二。初聞法除業。二称名滅罪。経題仏号功力難思。滅罪劫数
文中趣挙。已上。校本末文可知其益。
-------------------------------------------------------------------------------

次に戒度の釈、『正観記』の文なり。これ元照の義疏を釈する典なり。今、下品上生を
釈する中に、並べて経題仏名の徳を解する中に、今の所引は仏号を嘆ずる釈なり。所引
の文の上に題を嘆ずる釈に云わく「遇縁の中に題号思い難しとは、蓋し経の中の所詮は
実相の妙理にあらざることなきに由りて、首題一たび挙るに経の意全く彰わる」。
(所引の文はこの次なり)。問う。今この文は、これ本書の何の文句を釈するぞや。
答う。本書の元照の義疏の下に云わく「臨終遇縁の中に知識の開導に二あり。初に聞法
除業。二に称名滅罪なり。経題仏号の功力は思い難し。滅罪の劫数は文の中に趣〈わず〉
かに挙ぐ」已上。本末の文を校して、その益を知るべし。

●re.73
ボン
関東の男性
[ 1791 ] Re73:教行信証・学習ノート3 2010/03/14 (Sun) 01:10 △up ▽down
>-------------------------------------------------------------------------------
>律宗戒度云。元照之弟子也。仏名乃是積劫薫修。攬其万徳総彰四字。是故称之獲益非浅。
>已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(正観記)律宗の戒度の云わく(元照の弟子なり)、仏名はすなわちこれ、劫を積んで
>薫修す。その万徳を攬るに、すべて四字に彰る。このゆえに、これを称するに益を獲る
>こと、浅きにあらずと。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (正観記)
  律宗の戒度(元照の弟子)はこう述べる。仏名は、長い歳月をかけて薫じ修められたも
  のである。その万徳がまとめられて、そのすべてが四字(仏名)に表れているのである。
  だから、これを称することによって得られる利益は、浅くはない。

  WikiArc
    戒度
      南宋時代の僧。字は拙庵。元照に律と浄土教を学び、晩年、余姚(現在の浙江
      省余姚県)の極楽寺に住した。著書に『観経疏正観記』三巻『阿弥陀経義疏聞
      持記』三巻『観経扶新論』一巻がある。
    薫修
      薫習に同じ。ものに香りが移りしみこむように、仏の成就された修行の徳が
      行者の身心に薫じついていること。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次戒度釈正観記文。是釈元照義疏典也。今釈下品上生之中並解経題仏名徳中。今所引者
>嘆仏号釈。所引文上嘆題釈云。遇縁中題号難思者。蓋由経中所詮無非実相妙理。首題一
>挙経意全彰。(所引文此次也)。問。今此文者是釈本書何文句耶。答。本書元照義疏下
>云。臨終遇縁中知識開導有二。初聞法除業。二称名滅罪。経題仏号功力難思。滅罪劫数
>文中趣挙。已上。校本末文可知其益。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に戒度の釈、『正観記』の文なり。これ元照の義疏を釈する典なり。今、下品上生を
>釈する中に、並べて経題仏名の徳を解する中に、今の所引は仏号を嘆ずる釈なり。所引
>の文の上に題を嘆ずる釈に云わく「遇縁の中に題号思い難しとは、蓋し経の中の所詮は
>実相の妙理にあらざることなきに由りて、首題一たび挙るに経の意全く彰わる」。
>(所引の文はこの次なり)。問う。今この文は、これ本書の何の文句を釈するぞや。
>答う。本書の元照の義疏の下に云わく「臨終遇縁の中に知識の開導に二あり。初に聞法
>除業。二に称名滅罪なり。経題仏号の功力は思い難し。滅罪の劫数は文の中に趣〈わず〉
>かに挙ぐ」已上。本末の文を校して、その益を知るべし。

  次に戒度の釈、『正観記』の文である。これは、元照の義疏(注釈書)を解釈する書物
  である。ここに、下品上生を解釈するなかで、ならびに、経題や仏名の徳を解説する
  なかで、この引用は仏号を賛嘆する解釈である。引用の文の上のところで題(経題)を
  賛嘆する解釈でこう述べる。「遇縁のなかにあっては題号(経の表題)を思い難いとい
  うのは、経のなかの内容が実相の妙理でないことはないためである。首題がひとたび
  挙げられると経の意(ここる)が完全に表れるのである。」(引用の文はこの次である)
  問う。ここでこの文は、本書の何の文句を解釈するものであろうか。答える。本書の
  元照の義疏(注釈書)の下にこう述べる。「臨終の遇縁のなかで、善知識の手引きに二
  つがある。初めに法を聞いて業を除く。二つに名を称えて罪を滅ぼす。経題と仏号の
  功徳の力は想像がつかないものがある。罪を滅ぼす劫数は、文の中にわずかに挙げる。」
  本(根本)と末(枝葉)の文を調べて、その利益を知るべきである。

  大辞林より
    経題
      経の題目。経典の名称。
    所詮
      言葉や文章・教えなどで表される意義・内容。

  WikiArcより
    実相
      名号は仏のさとった諸法実相の徳が含まれているので、仏の名号のことを実相
      という。
    開導
      手引きすること。
    臨終
      心の命終。覚如上人は『最要鈔』において、身心の二に命終の道理があると
      し、信一念の時を心(迷情の自力心)の命終とする。

  ※ 遇縁性とは、縁次第で「どうなるかわからない」ということらしい

●re.74
ボン
関東の男性
[ 1792 ] Re74:教行信証・学習ノート3 2010/03/18 (Thu) 23:53 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
律宗用欽云。元照之弟子也。今若以我心口称念一仏嘉号。則従因至果。無量功徳無不具
足。已上。

又云。一切諸仏歴微塵劫。了悟実相不得一切故。発無相大願。修無住妙行。証無得菩提。
住非荘厳国土。現無神通之神通故。舌相遍於大千。示無説之説。故勧信是経。豈容心思
口議邪。私謂。諸仏不思議功徳。須臾收弥陀二報荘厳。持名行法。彼諸仏中亦須收於弥
陀也。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
律宗の用欽の云わく(元照の弟子なり)、今もし我が心口をもって、一仏の嘉号を称念
すれば、すなわち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなしと。已上。

(用欽)また云わく、一切諸仏、微塵劫を歴て実相を了悟して、一切を得ざるがゆえに、
無相の大願を発して、修するに妙行に住することなし。証するに菩提を得ることなし。
住するに国土を荘厳するにあらず。現ずるに神通の神通なきがゆえに、舌相を大千に遍
くして、無説の説を示す。故にこの経を勧信せしむ。あに心に思い、口に議〈はか〉る
べけんや。私に謂わく、諸仏の不思議の功徳、須臾に弥陀二報荘厳に収む。持名の行法
は、かの諸仏の中に、また須らく弥陀を収むべきなりと。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次用欽師。二釈可見。
-------------------------------------------------------------------------------

次に用欽師なり。二釈見るべし。

●re.75
ボン
関東の男性
[ 1793 ] Re75:教行信証・学習ノート3 2010/03/18 (Thu) 23:54 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>律宗用欽云。元照之弟子也。今若以我心口称念一仏嘉号。則従因至果。無量功徳無不具
>足。已上。

>又云。一切諸仏歴微塵劫。了悟実相不得一切故。発無相大願。修無住妙行。証無得菩提。
>住非荘厳国土。現無神通之神通故。舌相遍於大千。示無説之説。故勧信是経。豈容心思
>口議邪。私謂。諸仏不思議功徳。須臾收弥陀二報荘厳。持名行法。彼諸仏中亦須收於弥
>陀也。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>律宗の用欽の云わく(元照の弟子なり)、今もし我が心口をもって、一仏の嘉号を称念
>すれば、すなわち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなしと。已上。

>(用欽)また云わく、一切諸仏、微塵劫を歴て実相を了悟して、一切を得ざるがゆえに、
>無相の大願を発して、修するに妙行に住することなし。証するに菩提を得ることなし。
>住するに国土を荘厳するにあらず。現ずるに神通の神通なきがゆえに、舌相を大千に遍
>くして、無説の説を示す。故にこの経を勧信せしむ。あに心に思い、口に議〈はか〉る
>べけんや。私に謂わく、諸仏の不思議の功徳、須臾に弥陀二報荘厳に収む。持名の行法
>は、かの諸仏の中に、また須らく弥陀を収むべきなりと。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  律宗の用欽(元照の弟子)はこう述べる。ここでもし、私の心と口をもって、一仏の
  嘉号を称念すれば、因から果にいたるまで、計り知れない功徳が十分にそなわらない
  ということはない。

  WikiArc
    用欽
      生没年代未詳。中国南宋の僧で、元照の門弟。律宗を学んだが浄土教の信奉者
      でもあった。この文と次の文は『阿弥陀経超玄記』によるともいわれるが、
      現存しない。


  (用欽)また、こう述べる。一切の諸仏は、はかり知れないほどの長い時間を経て実相
  をあきらかに悟り、そして、一切を得ない。だから、無相の大願を起こして、妙なる行
  に住しないことを修める。菩提を得ないということを証する。国土を荘厳しないことに
  住する。「無神通の神通」を現わすことから、舌相を三千大千世界にあまねく広げて、
  「無説の説」を示す。だから、この経を勧めて信じさせようとする。どうして、心に思
  たり、口に出して話し合ったりするべきであろうか。私見を述べれば、諸仏の不思議の
  功徳は、ほんのわずかな間に、弥陀の二報荘厳に収められている。名号を保つ行法は、
  その諸仏のなかに、弥陀を収めるべきである。

  大辞林より
    実相
      この世界の真実でありのままの姿。法性や真如の別名とされる。
    了悟
      あきらかに悟ること。

  WikiArc
    無相
      あらゆる相を離れていること。有無の相を超えたもの。執着すべき何ものも
      ない絶対平等の空そのものをいう。
    舌相
      仏の舌は広く長くてその顔をおおうといわれる。ここでは三千大千世界をお
      おうとされている。仏が舌を出すのは教説が真実であることを証明する意味
      を持つ。
    大千
      三千大千世界
    須臾
      短い時間。ほんのわずかな間。
    二報荘厳
      正報(仏身)と依報(仏国土)の荘厳。

  http://www.rinku.zaq.ne.jp/syamon-syokaku/youtei2.html
    「得神通」とは平常底(尽十方界真実)を実践する、即ち自然に任せることであり、
    「無神通」とは、解脱(感覚に引っ張り回されない生活)にも囚われないことである。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次用欽師。二釈可見。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に用欽師なり。二釈見るべし。

  次に用欽師である。二つ釈を見ることができる。

●re.76
ボン
関東の男性
[ 1794 ] Re76:教行信証・学習ノート3 2010/03/19 (Fri) 00:53 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
三論祖師嘉祥云。問。念仏三昧何因能得滅如此多罪邪。解云。仏有無量功徳。
念仏無量功徳故得滅無量罪。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(観経疏)三論の祖師、嘉祥の云わく、問う、念仏三昧は何に因ってか、よくかくのご
とき多罪を滅することを得るや。解して云わく、仏に無量の功徳まします。仏の無量の
功徳を念ずるがゆえに、無量の罪を滅することを得しむと。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次嘉祥釈。観経疏釈。滅罪勝益其理分明。是故禅林古徳十因衆罪消滅之段引之。其意易覚。
-------------------------------------------------------------------------------

次に嘉祥の釈は『観経疏』の釈なり。滅罪の勝益、その理分明なり。この故に禅林の
古徳の十因衆罪消滅の段にこれを引く。その意覚り易し。

●re.77
ボン
関東の男性
[ 1795 ] Re77:教行信証・学習ノート3 2010/03/21 (Sun) 00:02 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>三論祖師嘉祥云。問。念仏三昧何因能得滅如此多罪邪。解云。仏有無量功徳。
>念仏無量功徳故得滅無量罪。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(観経疏)三論の祖師、嘉祥の云わく、問う、念仏三昧は何に因ってか、よくかくのご
>とき多罪を滅することを得るや。解して云わく、仏に無量の功徳まします。仏の無量の
>功徳を念ずるがゆえに、無量の罪を滅することを得しむと。已上。
------------------------------------------------------------------------------

  (観経疏)
  三論の祖師、嘉祥はこう述べる。問う。念仏三昧は、どうして、このように多く
  の罪を滅ぼすことができるのだろうか。解釈して次のようにのべる。仏には計り知れ
  ない功徳がある。仏の計り知れない功徳を念ずることにより、計り知れない罪を滅ぼ
  すことができるのである。

  WikiArcより
    嘉祥(549-623)
      名は吉蔵。会稽の嘉祥寺に住したので嘉祥大師と呼ばれる。三論宗を大成し
      『観経義疏』一巻、『三論玄義』、『大乗玄論』等多くの著書がある。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次嘉祥釈。観経疏釈。滅罪勝益其理分明。是故禅林古徳十因衆罪消滅之段引之。其意易覚。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に嘉祥の釈は『観経疏』の釈なり。滅罪の勝益、その理分明なり。この故に禅林の
>古徳の十因衆罪消滅の段にこれを引く。その意覚り易し。

  次に嘉祥の釈は『観経疏』の釈である。滅罪の優れた利益について、その理(ことわり)
  は、明らかである。そのために、禅林(禅宗寺院)の古徳(いにしえの高僧)の「十因
  衆罪消滅」の段で、これを引用している。その意(こころ)は、分かりやすい。

  WikiArcより
    古徳の伝説
      古(いにしえ)の高徳方が伝え説かれたところ。
    十因
      『往生十因』のこと。一巻。東大寺永観撰。念仏が決定往生の行であること
      を十種の理由(因)をあげて証明し、一心に阿弥陀仏を称念すれば、必ず往生
      を得ると明かした書。

  ウィキペディアより
    禅林
      禅林とは、禅宗寺院のことで、禅院とも呼ばれている。また、叢林という
      名称で用いられる場合もあるが、日本において「叢林」は中世以後の五山制
      度及びそれに所属していた寺院(曹洞宗及び臨済宗大応派)を一括した総称
      としても用いられている。この場合には、五山叢林(五山派)などとも称せら
      れている。

●re.78
ボン
関東の男性
[ 1796 ] Re78:教行信証・学習ノート3 2010/03/22 (Mon) 01:02 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
法相祖師法位云。諸仏皆徳施名。称名即称徳。徳能滅罪生福。名亦如是。若信仏名。
能生善滅悪。決定無疑。称名往生此有何惑。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(大経義疏)法相の祖師、法位の云わく、諸仏はみな、徳を名に施す、名を称するは、
すなわち徳を称するなり。徳、よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし
仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること、決定して疑いなし。称名往生、これ
何の惑いかあらんや。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次法位釈。大経義疏上巻釈也。彼疏釈文有其四門。一明弥陀仏土是化非化。二明往生者
有得不得。三明修因有事有理。四開文解釈。此中今文。第三門下有其多重問答之内一箇
答也。其問言云。問曰。仏名有何神験。称名即得滅罪往生。已上。答曰之下有今引文。
又次下云。若疑惑不信。然由信罪福修習善本願生其国。尚得往生名曰胎生。況今決定
信楽。称仏名号十念相続。生彼不疑也。已上。
-------------------------------------------------------------------------------

次に法位の釈『大経義疏』上巻の釈なり。彼の疏の釈文に、その四門あり。一には弥陀仏
の土は是化・非化を明かし、二には往生の者の得・不得あることを明かし、三には修因に、
事あり、理あることを明かし、四には文を開きて解釈す。この中に今の文は第三門の下に、
その多重の問答ある内の一箇の答なり。その問言に云わく「問うて曰わく。仏名に何の
神験ありてか、名を称するに即ち罪を滅して往生することを得るや」已上。答曰の下に
今の引文あり。また次下に云わく「もし疑惑して信ぜざれども、然も罪福を信じ善本を
修習して、その国に生ぜんと願ずるに由りて、なお往生を得るを名づけて胎生という。
況んや今決定信楽して仏の名号を称すること十念相続せん、彼に生ずること疑わざるな
り」已上。

●re.79
ボン
関東の男性
[ 1797 ] Re79:教行信証・学習ノート3 2010/03/22 (Mon) 01:02 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>法相祖師法位云。諸仏皆徳施名。称名即称徳。徳能滅罪生福。名亦如是。若信仏名。
>能生善滅悪。決定無疑。称名往生此有何惑。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(大経義疏)法相の祖師、法位の云わく、諸仏はみな、徳を名に施す、名を称するは、
>すなわち徳を称するなり。徳、よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし
>仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること、決定して疑いなし。称名往生、これ
>何の惑いかあらんや。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (大経義疏)
  法相宗の祖師、法位はこう述べる。諸仏はみな、徳を名に施す。名を称することは、
  徳を称することである。徳は、罪を滅して福を生ずることができる。名もまた同様で
  ある。もし仏名を信ずれば、善を生じて悪を滅することができることは、まちがいな
  く疑いがない。名を称して往生する、これに何の惑いがあるだろうか。

  WikiArcより
    法相宗
      中国十三宗の一。唯識宗・慈恩宗ともいう。玄奘がインドの戒賢から伝えた
      護法系の唯識学説をうけて、その弟子慈恩大師窺基が法相宗として大成した。
      『解深密経』『成唯識論』『瑜伽師地論』を所依とし、一切の諸法は識の
      所変にほかならないことを説く。
      釈尊一代の教に有・空・中の三時教判を立て、衆生の機類を声聞定姓・縁覚
      定姓(声聞・縁覚の二乗の果を得ると定まっているもの)・菩薩定姓(仏果を得
      ると定まっているもの)・不定姓(いずれの果を得るとも定まっていないもの)
      ・無姓(仏果も二乗の果も得ることができないと定まっているもの)の五に
      分ける五姓各別を説く。
      日本には、道昭が白雉四年(653)入唐し、玄奘に教えを受け斉明七年(661)に
      帰国し伝えたのが最初で、以来四度にわたって伝来し南都六宗の一に数えら
      れる。



≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次法位釈。大経義疏上巻釈也。彼疏釈文有其四門。一明弥陀仏土是化非化。二明往生者
>有得不得。三明修因有事有理。四開文解釈。此中今文。第三門下有其多重問答之内一箇
>答也。其問言云。問曰。仏名有何神験。称名即得滅罪往生。已上。答曰之下有今引文。
>又次下云。若疑惑不信。然由信罪福修習善本願生其国。尚得往生名曰胎生。況今決定
>信楽。称仏名号十念相続。生彼不疑也。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に法位の釈『大経義疏』上巻の釈なり。彼の疏の釈文に、その四門あり。一には弥陀仏
>の土は是化・非化を明かし、二には往生の者の得・不得あることを明かし、三には修因に、
>事あり、理あることを明かし、四には文を開きて解釈す。この中に今の文は第三門の下に、
>その多重の問答ある内の一箇の答なり。その問言に云わく「問うて曰わく。仏名に何の
>神験ありてか、名を称するに即ち罪を滅して往生することを得るや」已上。答曰の下に
>今の引文あり。また次下に云わく「もし疑惑して信ぜざれども、然も罪福を信じ善本を
>修習して、その国に生ぜんと願ずるに由りて、なお往生を得るを名づけて胎生という。
>況んや今決定信楽して仏の名号を称すること十念相続せん、彼に生ずること疑わざるな
>り」已上。

  次に法位の釈『大経義疏』上巻の釈である。この疏の釈文に、四つの門がある。一つ
  には、弥陀仏の土が「化」であるか、「化」でないかを明らかにし、二つには、往生
  の者が「得(定まる)」であるのか「不得(定まらない)」であるのかを明かし、三つに
  は、往生の因となる行を修めるにあたって、事(いとなみ?)があり、理(ことわり)も
  あることを明かし、四つには、文を開いて解釈をする。このなかで、今の文は第三門
  の下に、その多重の問答あるうちの一箇の答えである。その問いの言葉にこう述べる。
  「問う。仏名にどのような不思議な霊験があって、名を称すると罪を滅して往生する
  ことができるというのだろうか。」『答曰(答えて曰く)』の下に、今の引文がある。
  また次の下にはこう述べる。「もし疑惑して信じなかったとしても、罪福(善因楽果、
  悪因苦果の道理)を信じて善本を修め習い、その国に生まれようと願うことによって、
  なお往生を得ることを、名づけて胎生という。いわんや、ここにまちがいなく信楽し
  て仏の名号を称し、そして、十念を相続したとしよう。そうすれば、彼の地に生ずる
  ことは、疑いの余地がない。」

  WikiArcより
    修因感果
      因となる行を修めて、それにふさわしい果を得ること。
    罪福
      罪とは苦果を招く悪業をいい、福とは楽果を招く善業をいう。
      すなわち善因楽果、悪因苦果の道理。
    善本
      本は因の意味、勝れた果を得るための因となる善根。

  大辞林より
    神験
      神の霊験。不思議な霊験。

●re.80
ボン
関東の男性
[ 1798 ] Re80:教行信証・学習ノート3 2010/03/23 (Tue) 03:07 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
禅宗飛錫云。念仏三昧善之最上万行元首。故曰三昧王焉。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(念仏三昧宝王論)禅宗の飛錫の云わく、念仏三昧は善の最上なり。万行の元首なるが
ゆえに、三昧王と曰う。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次飛錫釈。一句易解。
-------------------------------------------------------------------------------

次に飛錫の釈、一句解し易し。

●re.81
ボン
関東の男性
[ 1799 ] Re81:教行信証・学習ノート3 2010/03/23 (Tue) 03:07 △up ▽down
>-------------------------------------------------------------------------------
>禅宗飛錫云。念仏三昧善之最上万行元首。故曰三昧王焉。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(念仏三昧宝王論)禅宗の飛錫の云わく、念仏三昧は善の最上なり。万行の元首なるが
>ゆえに、三昧王と曰う。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (念仏三昧宝王論)
  禅宗の飛錫はこう述べる。念仏三昧は、善のなかの最も優れたものである。万行の
  元首であるから、これを三昧王と言う。

  WikiArcより
    飛錫
      唐中期(八世紀頃)の僧。草堂寺に住す。不空の翻訳事業に参画した。
    念仏三昧
      心静かに専ら念仏を修すること。一般には仏の相好や功徳を心におもい観る
      観仏のこととするが、親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じて、一心に名号を
      称する他力念仏のこととされる。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次飛錫釈。一句易解。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に飛錫の釈、一句解し易し。

  次に、飛錫の釈であるが、この一句は、解りやすい。

●re.82
ボン
関東の男性
[ 1800 ] Re82:教行信証・学習ノート3 2010/03/26 (Fri) 00:43 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
往生要集云。双巻経三輩之業雖有浅深。然通皆云一向専念無量寿仏。三四十八願中於
念仏門別発一願云。乃至十念若不生者不取正覚。四観経。極重悪人無他方便。
唯称弥陀得生極楽。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
『往生要集』に云わく、『双巻経』の三輩の業、浅深ありといえども、しかも通じてみ
な一向専念無量寿仏と云えり。三に、四十八願の中に念仏門において、別して一の願を
発して云わく、乃至十念若不生者不取正覚と。四に『観経』には、極重の悪人、他の
方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生まるることを得と。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

-------------------------------------------------------------------------------
次要集文。十門之中下巻文。大門第八念仏証拠門下略出十文。今於其中所挙。第三第四
第五文也。問。縦略後文尤可出初。何略第一。答。占察経文。専説観察所得之益。
今以称念為本意故。不標之歟。問。然者何標三四字耶。答。故略其初示不整足。
後亦標之還示初文為第一歟。
-------------------------------------------------------------------------------

次に『要集』文、十門の中に、下巻の文、大門第八念仏証拠門の下に略して十文を出だ
す。今その中に於いて挙ぐる所は、第三・第四・第五の文なり。問う。たとい後の文を
略すとも、尤も初を出だすべし。何ぞ第一を略するや。答う。『占察経』の文は専ら
観察所得の益を説く。今は称念を以て本意と為するが故に、これを標せざるか。問う。
然らば何ぞ三・四の字を標するや。答う。ことさらにその初を略して整足せざることを
示し、後にまた、これを標して、還りて初の文を第一と為すことを示すか。

●re.83
ボン
関東の男性
[ 1801 ] Re83:教行信証・学習ノート3 2010/03/26 (Fri) 00:44 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>往生要集云。双巻経三輩之業雖有浅深。然通皆云一向専念無量寿仏。三四十八願中於
>念仏門別発一願云。乃至十念若不生者不取正覚。四観経。極重悪人無他方便。
>唯称弥陀得生極楽。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>『往生要集』に云わく、『双巻経』の三輩の業、浅深ありといえども、しかも通じてみ
>な一向専念無量寿仏と云えり。三に、四十八願の中に念仏門において、別して一の願を
>発して云わく、乃至十念若不生者不取正覚と。四に『観経』には、極重の悪人、他の
>方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生まるることを得と。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  『往生要集』はこう述べる。『双巻経(大経)』のなかで、三輩(上輩・中輩・下輩)の
  業(行い)に、浅深があるとはいうものの、共通してみな「一向専念無量寿仏」と言う。
  第三に、四十八願のなかに、念仏門において、別して一つの願を発してこう述べる。
  「乃至十念若不生者不取正覚(ないし十念せん。もし生ぜずは正覚を取らじ)。」第四
  に『観経』にはこう述べる。「極めて罪の重い悪人は、他の方便がない。ただ、弥陀
  を称して極楽に生まるることができる。」

  WikiArcより
    三輩
      『大経』に、浄土往生を願う三種のともがらをその修行の別によって上輩・
      中輩・下輩の三種に区別したもの。
        @上輩。出家して沙門となり、さとりを求める心をおこしてひたすらに
         無量寿仏を念じ、諸の功徳を修めるもの。
        A中輩。沙門となって大いに功徳を修めることはできないが、さとりを
         求める心をおこしてひたすらに無量寿仏を念じ、多少に善を修めるも
         の。
        B下輩。たださとりを求める心をおこして、ひたすらに無量寿仏を念ず
         るもの。
    業
      梵語カルマンの漢訳。広い意味の行為のこと。通例、身口意(からだ・言葉・
      心)の三業に分ける。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>-------------------------------------------------------------------------------
>次要集文。十門之中下巻文。大門第八念仏証拠門下略出十文。今於其中所挙。第三第四
>第五文也。問。縦略後文尤可出初。何略第一。答。占察経文。専説観察所得之益。
>今以称念為本意故。不標之歟。問。然者何標三四字耶。答。故略其初示不整足。
>後亦標之還示初文為第一歟。
>-------------------------------------------------------------------------------

>次に『要集』文、十門の中に、下巻の文、大門第八念仏証拠門の下に略して十文を出だ
>す。今その中に於いて挙ぐる所は、第三・第四・第五の文なり。問う。たとい後の文を
>略すとも、尤も初を出だすべし。何ぞ第一を略するや。答う。『占察経』の文は専ら
>観察所得の益を説く。今は称念を以て本意と為するが故に、これを標せざるか。問う。
>然らば何ぞ三・四の字を標するや。答う。ことさらにその初を略して整足せざることを
>示し、後にまた、これを標して、還りて初の文を第一と為すことを示すか。

  次に『往生要集』の文である。十門のなかの、下巻の文で、大門第八念仏証拠門の下
  から、略して十文を取り出す。今その中で引用しているのは、第三・第四・第五の文
  である。問う。たとえ後の文を略したとしても、むしろ、初めの部分を取り上げるべ
  きである。どうして第一を略するのか。答える。『占察経』の文は、もっぱら、観察
  が得るところの利益を説く。今は、称念を本意とするために、これを示さなかったの
  だろう。問う。それならば、どうして三と四の字を示したのか。答える。ことさらに
  その初めの部分を略して、整い足りていないことを示し、後にまた、これを示して、
  還って初めの文を第一と為すことを示すのだろうか。

    占察経
      「占察善悪業報経」のこと。 二巻。 隋の菩提灯の訳とされるが、 内容・文体
      などからみて中国撰述の経典と考えられている。 地蔵菩薩が末法の衆生のた
      めに、 樹木の年輪によって吉凶善悪を占う法を説く。

●re.84
ボン
関東の男性
[ 1803 ] Re84:教行信証・学習ノート3 2010/04/01 (Thu) 01:08 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。応依心地観経六種功徳。一無上大功徳田。二無上大恩徳。三無足二足及以多足
衆生中尊。四極難値遇如優曇華。五独出三千大千界。六世出世間功徳円満。義依具如
此等六種功徳。常能利益一切衆生。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生要集)また云わく、『心地観経』の六種の功徳に依るべし。一には無上大功徳田、
二には無上大恩徳、三には無足二足および多足の衆生の中の尊なり。四には、極めて
値遇しがたきこと、優曇華のごとし。五には、独り三千大千世界に出でたまう。六には、
世・出世間の功徳円満せり。義の依なり。かくのごとき等の六種の功徳を具して、常に
よく一切衆生を利益したまう。
------------------------------------------------------------------------------

≪この段は、六要鈔会本の注釈がありません≫

●re.85
ボン
関東の男性
[ 1804 ] Re85:教行信証・学習ノート3 2010/04/01 (Thu) 01:08 △up ▽down
本文について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。応依心地観経六種功徳。一無上大功徳田。二無上大恩徳。三無足二足及以多足
>衆生中尊。四極難値遇如優曇華。五独出三千大千界。六世出世間功徳円満。義依具如
>此等六種功徳。常能利益一切衆生。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生要集)また云わく、『心地観経』の六種の功徳に依るべし。一には無上大功徳田、
>二には無上大恩徳、三には無足二足および多足の衆生の中の尊なり。四には、極めて
>値遇しがたきこと、優曇華のごとし。五には、独り三千大千世界に出でたまう。六には、
>世・出世間の功徳円満せり。義の依なり。このような六種の功徳を身に具えて、常に
>よく一切衆生を利益したまう。
>------------------------------------------------------------------------------

  (往生要集)
  また、こう述べる。『心地観経』の六種の功徳に依るべきである。一つには、無上大
  功徳田、二つには、無上大恩徳、三つには、無足(足のない生き物)、二足(二本足の
  生き物)、および、多足(足のたくさんある生き物)などの衆生のなかの最も尊い方で
  ある。四つには、極めて出会いがたいことは、優曇華のようである。五つには、ただ
  独り三千大千世界にお出でなされた。六つには、世(この世)と出世間(あの世)の功徳
  が欠けることなく具わっている。義の依である。このような六種の功徳を備えて、
  常に、一切の衆生を利益なさることができるのである。

  WikiArcより
    心地観経
      『大乗本生心地観経』のこと。八巻十三品。唐の般若三蔵の訳。
    世出世間の功徳
      世間の功徳(世俗の倫理的な善)と出世間の功徳(さとりの世界の功徳)。
    世間
      世の中。煩悩に束縛されて存在しているもの。生きものを有情(または衆生)
      世間といい、生きものを住まわせている山河大地などを器世間という。

  WikiDharmaより
    功徳田
      三福田の一つ。三宝のことをいう。三宝は無上の功徳を具足するものである
      から、それから衆生の功徳を生じる。あるいは、衆生が三宝を供養すれば
      無量の福報を生ずるから「田」という。

  大辞林より
    恩徳
      めぐみ。なさけ。恩恵。

  ※「義の依なり」は意味がわかりません。ギブアップ

≪この段は、六要鈔会本の注釈がありません≫

●re.86
ボン
関東の男性
[ 1811 ] Re86:教行信証・学習ノート3 2010/04/08 (Thu) 01:36 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
依此六種功徳。信和尚云。一応念一称南無仏皆已成仏道。故我帰命礼無上功徳田。
二応念慈眼視衆生平等如一子。故我帰命礼極大慈悲母。三応念十方諸大士恭敬弥陀尊。
故我帰命礼無上両足尊。四応念一得聞仏名過於優曇華。故我帰命礼極難値遇者。
五応念一百倶胝界二尊不並出。故我帰命礼希有大法王。六応念仏法衆徳海三世同一体。
故我帰命礼円融万徳尊。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
この六種の功徳に依って、信和尚の云わく(往生要集)、一には、一称南無仏と念ずべし、
皆已に仏道を成ずるがゆえに、我、無上功徳田を帰命し礼したてまつる。二には念ずべし、
慈眼をもって衆生を視そなわしたまう。平等にして一子のごとし。故に、我、極大慈悲母
を帰命し礼したてまつる。三に念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつるがゆ
えに、我、無上両足尊を帰命し礼したてまつる。四には念ずべし、ひとたび仏名を聞くこ
とを得ることは、優曇華よりも過ぎたり。故に我、極難値遇者を帰命し礼したてまつる。
五には念ずべし。一百倶胝界には二尊、並んで出でたまわず。故に我、希有の大法王を
帰命し礼したてまつる。六には念ずべし。仏法衆徳海は三世同じく一体なり。故に我、
円融万徳尊を帰命し礼したてまつると。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

------------------------------------------------------------------------------
次上巻文。大門第四正修念仏之下。明五念門之中。初礼拝門之解釈也。
------------------------------------------------------------------------------

次に上巻の文、大門第四正修念仏の下に、五念門を明かす中に、初の礼拝門の解釈なり。

●re.87
ボン
関東の男性
[ 1812 ] Re87:教行信証・学習ノート3 2010/04/10 (Sat) 10:12 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>依此六種功徳。信和尚云。一応念一称南無仏皆已成仏道。故我帰命礼無上功徳田。
>二応念慈眼視衆生平等如一子。故我帰命礼極大慈悲母。三応念十方諸大士恭敬弥陀尊。
>故我帰命礼無上両足尊。四応念一得聞仏名過於優曇華。故我帰命礼極難値遇者。
>五応念一百倶胝界二尊不並出。故我帰命礼希有大法王。六応念仏法衆徳海三世同一体。
>故我帰命礼円融万徳尊。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>この六種の功徳に依って、信和尚の云わく(往生要集)、一には、一称南無仏と念ずべし、
>皆已に仏道を成ずるがゆえに、我、無上功徳田を帰命し礼したてまつる。二には念ずべし、
>慈眼をもって衆生を視そなわしたまう。平等にして一子のごとし。故に、我、極大慈悲母
>を帰命し礼したてまつる。三に念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつるがゆ
>えに、我、無上両足尊を帰命し礼したてまつる。四には念ずべし、ひとたび仏名を聞くこ
>とを得ることは、優曇華よりも過ぎたり。故に我、極難値遇者を帰命し礼したてまつる。
>五には念ずべし。一百倶胝界には二尊、並んで出でたまわず。故に我、希有の大法王を
>帰命し礼したてまつる。六には念ずべし。仏法衆徳海は三世同じく一体なり。故に我、
>円融万徳尊を帰命し礼したてまつると。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  この六種の功徳によって、信和尚はこう述べる(往生要集)。一つには、念ずべきであ
  る。南無仏を一声称えれば、みなすでに仏道を成し遂げるであろうことを。だから、
  私は、この上ない功徳田に帰命し、礼拝したてまつる。二つには、念ずべきである。
  慈しみをもった眼が、平等に、まるでひとり子であるかのように、衆生を見ておられ
  ることを。だから、私は、極めて大いなる慈悲の母に帰命し、礼拝したてまつる。
  三つには、念ずべきである。十方のもろもろのすぐれた人が、弥陀尊を謹んで敬って
  いることを。だから、私は、この上ない両足尊(阿弥陀仏)に帰命し、礼拝したてまつ
  る。四つには、念ずべきである。ひとたび仏名を聞くことができるということは、
  優曇華を見るよりも優るということを。だから、私は、極難値遇者(阿弥陀仏)に帰命
  し、礼拝したてまつる。五つには、念ずべきである。一百倶胝界(三千大千世界)には
  二人の尊者が、並んで出でくるものではないということを。だから、私は、この希有
  で大いなる法王に帰命し、礼拝したてまつる。六つには、念ずべきである。仏法衆の
  徳海は三世同じく一体である。だから、私は、円融万徳尊(阿弥陀仏)に帰命し、
  礼拝したてまつる。

  WikiArcより
    両足尊
      人のなかにあって最もすぐれたものの意で、阿弥陀仏をたたえた呼び方。
    極難値遇者
      遇うことがきわめてむずかしい方の意。阿弥陀仏のこと。
    一百倶胝界
      倶胝は梵語コーティの音写、数の単位。一千万に当る。
      百倶胝界は三千大千世界に同じ。
    円融万徳尊
      完全自在であらゆる徳を具えた尊い方の意。阿弥陀仏のこと。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>------------------------------------------------------------------------------
>次上巻文。大門第四正修念仏之下。明五念門之中。初礼拝門之解釈也。
>------------------------------------------------------------------------------

>次に上巻の文、大門第四正修念仏の下に、五念門を明かす中に、初の礼拝門の解釈なり。

  次に上巻の文。大門の第四番目「正修念仏」の下に、「五念門」を明らかにする
  なかの、初めの「礼拝門」の解釈である。

●re.88
ボン
関東の男性
[ 1816 ] Re88:教行信証・学習ノート3 2010/04/11 (Sun) 00:41 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。波利質多樹華一日薫衣。瞻蔔華・波師迦華雖千歳薫所不能及。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生要集)また云わく、波利質多樹の華、一日衣に薫ずるに、瞻蔔華・波師迦華、
千歳薫ずといえども、及ぶことあたわざるところなり。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

------------------------------------------------------------------------------
次文第三作願門下。明菩提心。又有三門。一明行相。二明利益。三料簡也。
今釈明其利益之文中也。所引之上有譬如字。又所引文次下釈云。菩提花亦復如是。
一日所薫功徳香薫。徹十方仏所。声聞縁覚。以無漏智薫諸功徳。於百千劫所不能及。
已上。又於前後有多譬喩。不能委載。
------------------------------------------------------------------------------

次の文は第三作願門の下に菩提心を明かすに、また三門あり。一には行相を明かし、
二には利益を明かし、三には料簡なり。今の釈は、その利益を明かす文の中なり。
所引の上に「譬如」の字あり。また所引の文の次下の釈に云わく「菩提の花もまたかく
の如し。一日に薫ずる所の功徳の香薫は十方の仏所に徹す。声聞・縁覚は無漏智を以て
諸の功徳を薫ずること、百千劫に於いてすとも及ぶこと能わざる所なり」已上。また
前後に於いて多くの譬喩あり。委しく載すること能わず。

●re.89
ボン
関東の男性
[ 1817 ] Re89:教行信証・学習ノート3 2010/04/11 (Sun) 00:41 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。波利質多樹華一日薫衣。瞻蔔華・波師迦華雖千歳薫所不能及。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生要集)また云わく、波利質多樹の華、一日衣に薫ずるに、瞻蔔華・波師迦華、
>千歳薫ずといえども、及ぶことあたわざるところなり。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (往生要集)
  またこう述べる。波利質多樹の華が、一日間だけでも、衣に香り付けられると、
  瞻蔔華(金色華)や波師迦華(雨時花)が、千年間ものあいだ香り付けられたとしても、
  それに及ぶことができない。

  WikiArcより
    波利質多樹
      波利質多は梵語パリジャータの音写。香遍樹と漢訳する。とう利天にあると
      いう香木の名。
    瞻蔔華
      瞻蔔は梵語チャンパカの音写。金色華と漢訳する。強い香があるという。
    波師迦華
      波師迦は梵語ヴァールシカの音写。雨時花と漢訳する。雨季に咲く香気の高
      い花。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>------------------------------------------------------------------------------
>次文第三作願門下。明菩提心。又有三門。一明行相。二明利益。三料簡也。
>今釈明其利益之文中也。所引之上有譬如字。又所引文次下釈云。菩提花亦復如是。
>一日所薫功徳香薫。徹十方仏所。声聞縁覚。以無漏智薫諸功徳。於百千劫所不能及。
>已上。又於前後有多譬喩。不能委載。
>------------------------------------------------------------------------------

>次の文は第三作願門の下に菩提心を明かすに、また三門あり。一には行相を明かし、
>二には利益を明かし、三には料簡なり。今の釈は、その利益を明かす文の中なり。
>所引の上に「譬如」の字あり。また所引の文の次下の釈に云わく「菩提の花もまたかく
>の如し。一日に薫ずる所の功徳の香薫は十方の仏所に徹す。声聞・縁覚は無漏智を以て
>諸の功徳を薫ずること、百千劫に於いてすとも及ぶこと能わざる所なり」已上。また
>前後に於いて多くの譬喩あり。委しく載すること能わず。

  次の文は、第三の作願門の下に菩提心を明らかにするにあたり、また三つの門がある。
  一つには行相(行のすがた)を明らかにし、二つには利益を明らかにし、三つには料簡
  (教義的解釈)である。ここでの釈は、その利益を明らかにする文の中ものもである。
  引用箇所の上に「譬如(たとえて言えば)」の字がある。また、引用文の次の下の釈で
  はこう述べる。「菩提の花もまたこのようなものである。一日のうちに香り付けられ
  る功徳の香しい薫りは、十方の仏所に貫き徹る。声聞・縁覚は、無漏の智をもって、
  もろもろの功徳を香り付けることが、百千劫にわたったとしても、それに及ぶことが
  できない。」また、その前後に、多くの譬喩(たとえ)がある。それを詳しく載せるこ
  とはできない。

  WikiArcより
    無漏
      有漏(煩悩)に対する語。煩悩に全く汚されていない清浄な状態をいう。

●re.90
ボン
関東の男性
[ 1819 ] Re90:教行信証・学習ノート3 2010/04/12 (Mon) 22:10 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
又云。如一斤石汁能変千斤銅為金。雪山有草名為忍辱。牛若食者即得醍醐。
月利沙見昴星則出菓実。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
(往生要集)また云わく、一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて金となす。雪山に草あり、
名づけて忍辱とす。牛、もし食すればすなわち醍醐を得。尸利沙、昴星を見ればすなわち
菓実を出すがごとし。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

------------------------------------------------------------------------------
次文下巻大門第十問答料簡。略有十事。其中第五臨終念相明他力益。顕往生利。
或引書典。或加料簡載種種譬。集主先徳自加十喩。今於其中所出三也。石汁第三。
忍辱第五。尸利第七。或本以尸為月錯也。
------------------------------------------------------------------------------

次の文は下巻の大門第十問答料簡に略して十事あり。その中に第五の臨終の念相に他力
の益を明かし、往生の利を顕わすに、或いは書典を引き、或いは料簡を加えて種種の譬
を載するに、集主先徳、自ら十喩を加う。今はその中に於いて三を出だす所なり。
「石汁」は第三、「忍辱」は第五、「尸利」は第七なり。ある本には尸を以て月と為す、
錯なり。

●re.91
ボン
関東の男性
[ 1820 ] Re91:教行信証・学習ノート3 2010/04/12 (Mon) 22:11 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>又云。如一斤石汁能変千斤銅為金。雪山有草名為忍辱。牛若食者即得醍醐。
>月利沙見昴星則出菓実。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>(往生要集)また云わく、一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて金となす。雪山に草あり、
>名づけて忍辱とす。牛、もし食すればすなわち醍醐を得。尸利沙、昴星を見ればすなわち
>菓実を出すがごとし。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (往生要集)
  またこう述べる。一斤の石汁は、千斤の銅を金に変えることができる。雪山に忍辱と
  いう草がある。もし、牛が、これを食べると醍醐が得られる。尸利沙(ねむの木)が、
  昴星(スバル)を見れば、実をなすようなものである。已上。

  WikiArcより
    石汁
      錬金術に用いる薬の名。
    尸利沙
      梵語シリーシャの音写。ねむの木。
    昴星
      スバルのこと。

≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>------------------------------------------------------------------------------
>次文下巻大門第十問答料簡。略有十事。其中第五臨終念相明他力益。顕往生利。
>或引書典。或加料簡載種種譬。集主先徳自加十喩。今於其中所出三也。石汁第三。
>忍辱第五。尸利第七。或本以尸為月錯也。
>------------------------------------------------------------------------------

>次の文は下巻の大門第十問答料簡に略して十事あり。その中に第五の臨終の念相に他力
>の益を明かし、往生の利を顕わすに、或いは書典を引き、或いは料簡を加えて種種の譬
>を載するに、集主先徳、自ら十喩を加う。今はその中に於いて三を出だす所なり。
>「石汁」は第三、「忍辱」は第五、「尸利」は第七なり。ある本には尸を以て月と為す、
>錯なり。

  次の文は、下巻の大門の第十に、問答の料簡(教義的解釈)に略して十事がある。その
  なかの第五「臨終念相」のところで、他力の益を明らかにし、往生の利を顕わすにあ
  たって、書典を引いたり、料簡(教義的解釈)を加えたりして、種々の譬(たとえ)を掲載
  するに、主な先徳(過去の徳人)を集めて、自ら十の比喩を加える。ここでは、そのなか
  から三つを取り出している。「石汁」は第三、「忍辱」は第五、「尸利」は第七である。
  ある本には「尸」を「月」としているが、それは間違いである。

●re.92
ボン
関東の男性
[ 1821 ] Re92:教行信証・学習ノート3 2010/04/12 (Mon) 22:47 △up ▽down
-------------------------------------------------------------------------------
選択本願念仏集(源空集)云。南無阿弥陀仏往生之業念仏為本。

又云。夫速欲離生死。二種勝法中。且閣聖道門。選入浄土門。欲入浄土門。正雑二行中。
且抛諸雑行。選応帰正行。欲修於正行。正助二業中。猶傍於助業。選応専正定。
正定之業者。即是称仏名。称名必得生。依仏本願故。已上。
-------------------------------------------------------------------------------
『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とすと。

(選択集)また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、
しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の
中に、しばらくもろもろの雑行を抛すてて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと
欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らにすべし。正定の業
とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生ずることを得、仏の本願に依る
がゆえにと。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

------------------------------------------------------------------------------
次選択文。初文題後文前要義。後文流通一部総結。正雑分別正助決判往生安心。二文最要。
------------------------------------------------------------------------------

次に『選択』の文。初の文は題の後文の前の要義、後の文は流通一部の総結なり。
正雑分別、正助決判、往生の安心。二文は最要なり。

●re.93
ボン
関東の男性
[ 1822 ] Re93:教行信証・学習ノート3 2010/04/12 (Mon) 22:47 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>-------------------------------------------------------------------------------
>選択本願念仏集(源空集)云。南無阿弥陀仏往生之業念仏為本。

>又云。夫速欲離生死。二種勝法中。且閣聖道門。選入浄土門。欲入浄土門。正雑二行中。
>且抛諸雑行。選応帰正行。欲修於正行。正助二業中。猶傍於助業。選応専正定。
>正定之業者。即是称仏名。称名必得生。依仏本願故。已上。
>-------------------------------------------------------------------------------
>『選択本願念仏集』源空集に云わく、南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とすと。

>(選択集)また云わく、それ速やかに生死を離れんと欲わば、二種の勝法の中に、
>しばらく聖道門を閣きて、選びて浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲わば、正雑二行の
>中に、しばらくもろもろの雑行を抛すてて、選びて正行に帰すべし。正行を修せんと
>欲わば、正助二業の中に、なお助業を傍にして、選びて正定を専らにすべし。正定の業
>とは、すなわちこれ仏の名を称するなり。称名は必ず生ずることを得、仏の本願に依る
>がゆえにと。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  『選択本願念仏集』(源空集)ではこう述べる。南無阿弥陀仏、往生の業は、念仏を
  本(根本、本旨、肝要)とする。

  (選択集)またこう述べる。速やかに生死を離れようと思うなら、二種類の勝れた法
  のなかでも、しばらく聖道門は置いおいて、浄土門を選びんで、そこに入るべきであ
  る。浄土門に入ろうと思ったら、正行と雑行の二行のうち、もろもろの雑行をしばら
  く投げすてて、正行を選んで、それに帰すべきである。正行を修しようと思うなら、
  正業と助業の二業のうち、なお助業を傍に措いて、正定業を選びんで、これに専念す
  るべきである。正定の業とは、すなわち、仏の名を称することである。称名は、必ず
  往生を得るものである。それは、仏の本願によるものだからである。

  WikiArcより
    五正行
      (1)読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
      (2)観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
      (3)礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
      (4)称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
      (5)讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて
        供養すること。
      この五正行をさらに正定業と助業に分ける。
    正定業
      正しく衆生の往生が決定する業因。善導大師は阿弥陀仏の浄土へ往生する行
      として五正行をあげ、その中第四の称名は、本願の行であるから正定業とさ
      れる。
    助業
      五正行の中で、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆供養は、称名の助となり
      伴となる行業であるから助業という。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>------------------------------------------------------------------------------
>次選択文。初文題後文前要義。後文流通一部総結。正雑分別正助決判往生安心。二文最要。
>------------------------------------------------------------------------------

>次に『選択』の文。初の文は題の後文の前の要義、後の文は流通一部の総結なり。
>正雑分別、正助決判、往生の安心。二文は最要なり。

  次に『選択集』の文である。初めの文は、題の後、文の前の要義である。後の文は、
  流通一部の総結である。正雑の分別、正助の決判、往生の安心。この二つの文は最も
  重要である。

●re.94
ボン
関東の男性
[ 1824 ] Re94:教行信証・学習ノート3 2010/04/14 (Wed) 01:56 △up ▽down
------------------------------------------------------------------------------
明知。是非凡聖自力之行。故名不回向之行也。大小聖人・重軽悪人。
皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。

是以論註曰。彼安楽国土。莫非阿弥陀如来正覚浄華之所化生。同一念仏無別道故。已上。
------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。故に不回向の行と名づくるなり。
大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して、念仏して成仏すべし。

ここをもって『論註』に曰わく、かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するとこ
ろにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえにとのたまえり。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

------------------------------------------------------------------------------
次私御釈。是非凡夫自力等者。経云令諸衆生功徳成就。釈云阿弥陀仏者即是其行。念仏
只是弥陀功徳。更非凡夫有漏行。故不借機功得往生益。偏是自然不可思議。此集本意此
深旨也。所引論註所釈荘厳眷属功徳成就文也。問。胎生辺地是非化生。何因総云莫非化
生。答。胎生辺地非報土相。今言正覚華化生者。正報土相。同一等者。一義云。釈彼土
相。非此土行。故智論云。無量寿仏国人生自然能念仏。又小経云。皆悉念仏。今義不然。
於彼念仏非敢所争。経説論判分明之上。華台端座念弥陀釈亦以炳然。但今文者指此土行。
所以然者。当句次上文云。凡是雑生世界。若胎若卵若湿若化。眷属若干苦楽万品。
以雑業故。已上。此釈之意。雑生世界能生苦因雑業異故四生不同。安楽国土。念仏一行
為正因故。純一化生。以之思之。浄穢相対因果必然。言無別道。又次下云。遠通夫四海
之内皆為兄弟也。已上。彼論語言有此妙談。言四海者非浄土相。閻浮同行同一仏子。
勧其相親称之兄弟。兼標可為来生倶会一処親厚而已。
------------------------------------------------------------------------------

次に私の御釈なり。「是非凡夫自力」等とは、経には「諸の衆生をして功徳成就せしむ」
といい、『釈』には「阿弥陀仏は即ちこれその行なり」という。念仏はただこれ弥陀の
功徳なり。更に凡夫有漏の行にあらず。故に機の功を借らずして往生の益を得。偏にこ
れ自然不可思議なり。この集の本意はこの深旨なり。所引の『論註』の荘厳眷属功徳成就
を釈する所の文なり。問う。胎生辺地はこれ化生にあらず。何に因りてか総じて「化生
するところにあらざることなし」というや。答う。胎生辺地は報土の相にあらず。今
「正覚華化生」というは正しく報土の相なり。「同一」等とは、一義に云わく、彼の土
の相を釈す、此土の行にあらず。故に『智論』に云わく「無量寿仏の国は人生まれて自然
に能く念仏す」。また『小経』に云わく「皆ことごとく仏を念ず」。今の義は然らず。
彼に於いて念仏することは敢て争う所にあらず。経説論判分明の上、華台端座念弥陀の釈、
また以て炳然なり。ただし、今の文は此土の行を指す。然るゆえんは、当句の次上の文に
云わく「凡そこの雑生の世界は、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこば
くにして、苦楽万品なり。雑業を以ての故なり」已上。この釈の意は、雑生の世界は能生
の苦因雑業異るが故に四生同じからず。安楽国土は念仏の一行を正因と為すが故に純一に
化生す。これを以てこれを思うに、浄穢相対して因果必然なるを無別道という。また次下
に云わく「遠く通ずれば、それ四海の内、みな兄弟と為すなり」已上。彼の『論語』の言
にこの妙談あり。「四海」というは浄土の相にあらず。閻浮の同行は同一の仏子なり。その
相親を勧めて、これを兄弟と称す。兼て来生倶会一処の親厚を為すべきことを標するのみ。

●re.95
ボン
関東の男性
[ 1825 ] Re95:教行信証・学習ノート3 2010/04/14 (Wed) 01:57 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>------------------------------------------------------------------------------
>明知。是非凡聖自力之行。故名不回向之行也。大小聖人・重軽悪人。
>皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。

>是以論註曰。彼安楽国土。莫非阿弥陀如来正覚浄華之所化生。同一念仏無別道故。已上。
>------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)明らかに知りぬ、これ凡聖自力の行にあらず。故に不回向の行と名づくるなり。
>大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して、念仏して成仏すべし。

>ここをもって『論註』に曰わく、かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するとこ
>ろにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆえにとのたまえり。已上。
>------------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)
  明らかに知ることができる。これは、凡夫や聖者の自力の行ではない。だから、
  「不回向の行」というのである。大乗と小乗の聖人も、重罪と軽罪の悪人も、みな同
  じく等しく、選び抜かれた大宝海に帰して、念仏して成仏すべきである。

  そういうわけで『論註』ではこう述べる。かの安楽国土は、阿弥陀如来によって、
  正しい覚りを開く浄華(台座)のうえに化生させられるところにほかならない。
  「同一に念仏すれば、別の道にならない(同じ道になる)」とおっしゃっている。

  WikiArcより
    凡聖
      凡夫と聖者。
    正覚浄華の化生
      阿弥陀如来と同体のさとりをひらくこと。浄華とは仏の座のことで、如来正覚の
      仏座に化生するという意。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>------------------------------------------------------------------------------
>次私御釈。是非凡夫自力等者。経云令諸衆生功徳成就。釈云阿弥陀仏者即是其行。念仏
>只是弥陀功徳。更非凡夫有漏行。故不借機功得往生益。偏是自然不可思議。此集本意此
>深旨也。所引論註所釈荘厳眷属功徳成就文也。問。胎生辺地是非化生。何因総云莫非化
>生。答。胎生辺地非報土相。今言正覚華化生者。正報土相。同一等者。一義云。釈彼土
>相。非此土行。故智論云。無量寿仏国人生自然能念仏。又小経云。皆悉念仏。今義不然。
>於彼念仏非敢所争。経説論判分明之上。華台端座念弥陀釈亦以炳然。但今文者指此土行。
>所以然者。当句次上文云。凡是雑生世界。若胎若卵若湿若化。眷属若干苦楽万品。
>以雑業故。已上。此釈之意。雑生世界能生苦因雑業異故四生不同。安楽国土。念仏一行
>為正因故。純一化生。以之思之。浄穢相対因果必然。言無別道。又次下云。遠通夫四海
>之内皆為兄弟也。已上。彼論語言有此妙談。言四海者非浄土相。閻浮同行同一仏子。
>勧其相親称之兄弟。兼標可為来生倶会一処親厚而已。
>------------------------------------------------------------------------------

>次に私の御釈なり。「是非凡夫自力」等とは、経には「諸の衆生をして功徳成就せしむ」
>といい、『釈』には「阿弥陀仏は即ちこれその行なり」という。念仏はただこれ弥陀の
>功徳なり。更に凡夫有漏の行にあらず。故に機の功を借らずして往生の益を得。偏にこ
>れ自然不可思議なり。この集の本意はこの深旨なり。所引の『論註』の荘厳眷属功徳成就
>を釈する所の文なり。問う。胎生辺地はこれ化生にあらず。何に因りてか総じて「化生
>するところにあらざることなし」というや。答う。胎生辺地は報土の相にあらず。今
>「正覚華化生」というは正しく報土の相なり。「同一」等とは、一義に云わく、彼の土
>の相を釈す、此土の行にあらず。故に『智論』に云わく「無量寿仏の国は人生まれて自然
>に能く念仏す」。また『小経』に云わく「皆ことごとく仏を念ず」。今の義は然らず。
>彼に於いて念仏することは敢て争う所にあらず。経説論判分明の上、華台端座念弥陀の釈、
>また以て炳然なり。ただし、今の文は此土の行を指す。然るゆえんは、当句の次上の文に
>云わく「凡そこの雑生の世界は、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこば
>くにして、苦楽万品なり。雑業を以ての故なり」已上。この釈の意は、雑生の世界は能生
>の苦因雑業異るが故に四生同じからず。安楽国土は念仏の一行を正因と為すが故に純一に
>化生す。これを以てこれを思うに、浄穢相対して因果必然なるを無別道という。また次下
>に云わく「遠く通ずれば、それ四海の内、みな兄弟と為すなり」已上。彼の『論語』の言
>にこの妙談あり。「四海」というは浄土の相にあらず。閻浮の同行は同一の仏子なり。その
>相親を勧めて、これを兄弟と称す。兼て来生倶会一処の親厚を為すべきことを標するのみ。

  次に聖人の御自釈である。「是非凡聖自力・・・」などについては、経には「もろも
  ろの衆生に功徳の成就をさせる」といい、『釈』には「阿弥陀仏は、すなわち、その
  行そのものである」という。念仏は、ただ、弥陀の功徳である。更に、それは凡夫の
  有漏の(煩悩にまみれた)行ではない。だから、機の功を借りずに、往生の益を得る。
  ひとえに、これは、自然で不可思議なことである。この集(選択集)の本意は、この深
  いおもむきである。引用された『論註』の「荘厳眷属功徳成就」を釈する文である。
  問う。胎生辺地は、化生ではない。どうして、総じて「化生するところにほかならな
  い」というのだろうか。答う。胎生辺地は、報土の相ではない。ここで「正覚華化生」
  というのは、まさしく報土の相である。「同一・・・」等というのは、一義に言えば、
  彼の土の相を釈するものであって、此土の行のことではない。だから『大智度論』で
  はこう述べる。「無量寿仏の国は、人が生まれて自然に念仏することができる。」
  また、『小経』では「皆ことごとく仏を念ず」と述べている。ここの義(趣旨)は、
  そうではない。彼の土において念仏することは、あえて争うまでもない。経説の論判
  がはっきりしているうえに、「華台端座念弥陀」の釈は、またもって、明白である。
  ただし、ここの文は、此の土の行を指すものである。その理由は、当句の次の上の文
  にこう述べているからである。「おおそこの雑生の世界は、胎生であれ、卵生であれ、
  湿生であれ、化生であれ、眷属(一族)もそれなりにいて、苦も楽も千差万別である。
  それが、雑業のせいなのである。」この釈の意(こころ)は、雑生の世界では、能生の
  苦因や雑業が異っているので、四生(胎・卵・湿・化)は、同じではない。安楽国土は、
  念仏の一行を正因とするために、純一に化生するのである。このようなことをふまえ
  て、ここのところを考えれば、浄と穢がそれぞれ相い対して、因果が必然となること
  を「無別道(別の道がない)」というのである。また、次下にこう述べる。「遠く通ず
  れば、四海(この世界)のうちは、みな兄弟である。」あの『論語』の言葉に、この
  妙談がある。「四海」というは浄土の相(すがた)ではない。閻浮提(この世界)の同行
  は、同一の仏の子である。その相い親しいことを勧めて、これを兄弟と呼ぶ。かねて、
  「来生倶会一処」のものは、親交を厚くするべきことを表しているのみである。

  WikiArcより
    自然
      人為的なものに対して、人為をからず、おのずからそうなっていること。
      親鸞聖人は、「おのづからしからしむ」と読み、人間のはからいを超えた
      如来のはからいによる救いをあらわす語とされた。意味上三種に分類される。
        1.業道自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。
        2.願力自然。他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、救いをたのむ行者は、
         何のはからいをも用いないで本願力によっておのずから浄土に往生せ
         しめられることをいう。
        3.無為自然。さとりの世界は有無の分別をはなれ、分別による限定を超
         えた絶対無限の境地であることをいう。
    荘厳眷属功徳成就
      国土荘厳十七種の第十三荘厳。浄土の往生人はことごとく阿弥陀仏の正覚に
      よって生れた清浄な者で優劣の差がなく、しかも一切世界の念仏者も眷属と
      することを示す。
    眷属
      一族。
        1.親族。なかま。
        2.仏・菩薩につき従うもの。仏弟子。浄土の聖衆。
    雑生
      有漏の善悪の雑業により胎・卵・湿・化の四生を受けること。迷いの境界に
      生れること。
    苦楽万品
      苦も楽も千差万別であること。
    四海
      「証巻」『三経往生文類』に『論註』を引いて「四海のうちみな兄弟とする
      なり」とある。須弥山をとりまく四方の海。全世界をいう。
      転じて世界の人々をさす。
    閻浮提
      梵語ジャンブー・ドヴィーパの音写。略して閻浮ともいう。人間の住むこの
      世界のこと。穢洲・好金土などと漢訳する。古代インドの世界観によると、
      世界は、須弥山を中心に四つの洲からできているとし、その南方にあたる
      大洲が、私達人間の住んでいるところとする。そのような意味で南閻浮提と
      もいう。

  Wikipediaより
    倶会一処
      浄土教の往生の利益の一つ。阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の
      仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味である。


  「蓮如上人御一代記聞書」より
    享禄二年十二月十八日の夜、兼縁夢に、蓮如上人、御文をあそばし下され候ふ。
    その御詞に、梅干のたとへ候ふ。梅干のことをいへば、みな人の口一同に酸し。
    一味の安心はかやうにあるべきなり。「同一念仏無別道故」(論註)の心にて候
    ひつるやうにおぼえ候ふと[云々]。

●re.96
ボン
関東の男性
[ 1827 ] Re96:教行信証・学習ノート3 2010/04/17 (Sat) 20:46 △up ▽down
------------------------------------------------------------------------------
爾者獲真実行信者。心多歓喜故。是名歓喜地。是喩初果者。初果聖者尚睡眠懶堕。
不至二十九有。何況十方群生海帰命斯行信者。摂取不捨。故名阿弥陀仏。是曰他力。

是以龍樹大士曰即時入必定。曇鸞大師云入正定聚之数。仰可憑斯。専可行斯也。
------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)しかれば真実の行信を獲る者は、心に歓喜多きがゆえに、これを歓喜地と
名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有
に至らず。いかにいわんや、十方群生海は、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわ
ず。故に阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。

(御自釈)ここをもって龍樹大士は「即時入必定」と曰い、曇鸞大師は「入正定聚之数」
と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

------------------------------------------------------------------------------
又私御釈。獲真等者。問。如釈義者。直云信心獲得行者得初地歟。然者斯事難信如何。
答。薄地凡夫三界見思不伏一毫。縦行念仏豈断無明登聖位耶。若対其位超天与地。非謂
異生断無明人彼此相斉。初地初果大小雖異。聖位是同。而初果人縦造悪業不招来報。
念仏行者。未断煩悩。雖侵罪業。信心発得以関摂取不捨利益。横超三界頓絶輪回。
以其義同今儲此釈。則引即時入必定文。又引入正定聚之釈。其意在斯。即言頓義。
不待命後。潜顕信心開発時分入正定聚。顕雖可為浄土不退。以不退堕隠表現生可有其益。
非三不退並処不退。唯是所顕蒙光触者心不退之不思議耳。今家料簡専存此意。
処処解釈以此義勢可解了之。
------------------------------------------------------------------------------

また私の御釈なり。「獲真」等とは。問う。釈義の如きは直に信心獲得の行者は初地を
得というか。然らばこの事は信じ難し、いかん。答う。薄地の凡夫は三界の見思は一毫
を伏せず。たとい念仏を行ずとも、あに無明を断じて聖位に登らんや。もしその位を対
せば天と地とに超えたり。異生断無明の人は彼此相斉しというにはあらず。初地・初果
・大小、異なるといえども、聖位はこれ同じ。而るに初果の人は、たとい悪業を造れど
も来報を招かず。念仏の行者は未だ煩悩を断ぜず、罪業を侵すといえども、信心発得す
れば摂取不捨の利益に関るを以て、横に三界を超えて、頓に輪回を絶つ。その義同じき
を以て、今、この釈を儲く。則ち「即時入必定」の文を引き、また「入正定聚」の釈を
引く。その意は斯に在り。「即」の言は頓の義、命後を待たず、潜に信心開発の時分に
正定聚に入ることを顕わす。顕に浄土の不退為るべしといえども、退堕せざるを以て、
隠に現生にその益あるべきことを表わす。三不退、並びに処不退にあらず。ただこれ
蒙光触者心不退の不思議を顕わす所ならくのみ。今家の料簡は専らこの意を存す。
処処の解釈はこの義勢を以て、これを解了すべし。

●re.97
ボン
関東の男性
[ 1828 ] Re97:教行信証・学習ノート3 2010/04/17 (Sat) 20:47 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>------------------------------------------------------------------------------
>爾者獲真実行信者。心多歓喜故。是名歓喜地。是喩初果者。初果聖者尚睡眠懶堕。
>不至二十九有。何況十方群生海帰命斯行信者。摂取不捨。故名阿弥陀仏。是曰他力。

>是以龍樹大士曰即時入必定。曇鸞大師云入正定聚之数。仰可憑斯。専可行斯也。
>------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)しかれば真実の行信を獲る者は、心に歓喜多きがゆえに、これを歓喜地と
>名づく。これを初果に喩うることは、初果の聖者、なお睡眠し懶堕なれども、二十九有
>に至らず。いかにいわんや、十方群生海は、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまわ
>ず。故に阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力と曰う。

>(御自釈)ここをもって龍樹大士は「即時入必定」と曰い、曇鸞大師は「入正定聚之数」
>と云えり。仰いでこれを憑むべし。専らこれを行ずべきなり。
>------------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)
  そういうわけで、真実の行信を獲る者は、心に歓喜が多いことから、これを歓喜地と
  いう。これを初果にたとえると、初果の聖者は、なお睡眠し懶堕であっても、二十九
  有(迷いの世界)には至らない。ましてや、十方の群生海(一切衆生)は、この行信に
  帰命すれば、(仏はこれを)摂取して捨てることがない。だから、阿弥陀仏と名づける。
  これを他力という。

  (御自釈)
  このようなわけで、龍樹大士は「即時入必定」と言い、曇鸞大師は「入正定聚之数」
  と言った。仰いでこれを憑(たの)むべきである。もっぱら、これを行ずべきである。

  WikiArcより
    初果
      声聞乗に説く四果の修道階位の中の最初の位。須陀オン果(預流果)のこと。
    須陀オン
      梵語スロータ・アーパンナの音写。預流と漢訳する。はじめて法の流れに入
      ったものの意。声聞の修道階位、四向四果の中の初位で、三界の見惑(分別
      によって起す知的なまよい)を断じつつある位を須陀オン向(見道)といい、
      断じ尽した位を須陀オン果(修道)という。
    二十九有
      1.二十九回目の生。初果の聖者(須陀オン果を得たもの)は、人間界に七生、
       天上界に七生、またそれぞれ生の終りから次の生を得るまでの中有の状態
       (死と生の間の中間的存在)の十四生、合せて二十八生を経れば、さらに
       二十九回目の生をうけず、完全な涅槃(ねはん)に入ることができるとされ
       る。
      2.二十五有のうち浄居天をさらに無煩・無熱・善現・善見・色究竟天の五つ
       に分けて二十九としたもの。迷いの生存のすべて。
    群生海
      一切衆生のこと。衆生の数が多いのを海に喩えていう。


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>------------------------------------------------------------------------------
>又私御釈。獲真等者。問。如釈義者。直云信心獲得行者得初地歟。然者斯事難信如何。
>答。薄地凡夫三界見思不伏一毫。縦行念仏豈断無明登聖位耶。若対其位超天与地。非謂
>異生断無明人彼此相斉。初地初果大小雖異。聖位是同。而初果人縦造悪業不招来報。
>念仏行者。未断煩悩。雖侵罪業。信心発得以関摂取不捨利益。横超三界頓絶輪回。
>以其義同今儲此釈。則引即時入必定文。又引入正定聚之釈。其意在斯。即言頓義。
>不待命後。潜顕信心開発時分入正定聚。顕雖可為浄土不退。以不退堕隠表現生可有其益。
>非三不退並処不退。唯是所顕蒙光触者心不退之不思議耳。今家料簡専存此意。
>処処解釈以此義勢可解了之。
>------------------------------------------------------------------------------

>また私の御釈なり。「獲真」等とは。問う。釈義の如きは直に信心獲得の行者は初地を
>得というか。然らばこの事は信じ難し、いかん。答う。薄地の凡夫は三界の見思は一毫
>を伏せず。たとい念仏を行ずとも、あに無明を断じて聖位に登らんや。もしその位を対
>せば天と地とに超えたり。異生断無明の人は彼此相斉しというにはあらず。初地・初果
>・大小、異なるといえども、聖位はこれ同じ。而るに初果の人は、たとい悪業を造れど
>も来報を招かず。念仏の行者は未だ煩悩を断ぜず、罪業を侵すといえども、信心発得す
>れば摂取不捨の利益に関るを以て、横に三界を超えて、頓に輪回を絶つ。その義同じき
>を以て、今、この釈を儲く。則ち「即時入必定」の文を引き、また「入正定聚」の釈を
>引く。その意は斯に在り。「即」の言は頓の義、命後を待たず、潜に信心開発の時分に
>正定聚に入ることを顕わす。顕に浄土の不退為るべしといえども、退堕せざるを以て、
>隠に現生にその益あるべきことを表わす。三不退、並びに処不退にあらず。ただこれ
>蒙光触者心不退の不思議を顕わす所ならくのみ。今家の料簡は専らこの意を存す。
>処処の解釈はこの義勢を以て、これを解了すべし。

  また証人の御自釈である。「獲真・・・」等について問う。釈の義(考え方)によると、
  「信心を獲得した行者は、ただちに初地を得る」というのだろうか。そうであるなら、
  この事は信じがたいのだが、どうだろう。答える。薄地の凡夫は、三界(迷いの世界)
  の見思(見方・考え方)を、ほんの少しもなくすることができない。たとえ、念仏を行
  じたとしても、どうして無明を断ち切って聖なる位に登ることができるだろうか。
  もしその位を対比すれば、天と地の開きをも超えるものである。異生(凡夫)のなかで
  無明を断ち切った人は、だれもかれもみな同じと言うことではない。初地・初果・
  大小は、それぞれ異なっているが、聖位はみな同じである。そこで、初果の人は、た
  とえ悪業を造ったとしても、その報いを招かない。念仏の行者は、いまだに煩悩を断
  ち切っておらず、罪業を侵してはいるが、信心を得れば摂取不捨の利益にあずかるた
  め、横(よこざま)に三界を超えて、頓(すみやか)に輪回を絶つのである。それと同じ
  考え方によって、ここに、この釈をもうけている。すなわち、「即時入必定」の文を
  引用し、また「入正定聚」の釈を引用している。その意(こころ)は、ここにあるので
  ある。「即」の言葉は頓(すみやかに)という意味で、命の終わりを待たず、潜(ひそか)
  に信心開発の時分に正定聚に入ることを表している。「顕」には、浄土の不退が成立
  したと言っているが、退堕しないということによって、「隠」には、現生にその利益
  あるということを表している。それは、三不退ならびに処不退ではない。ただこれは
  「蒙光触者心不退(光触を蒙るものは心不退)」の不思議を表しているだけなのである。
  今家(当流)の料簡(解釈)は、もっぱら、この意(こころ)にある。ところどころの解釈
  は、この義の勢(ながれ)をもって、これを理解すべきである。

  WikiArcより
    薄地の凡夫
      聖者の域に達しない下劣な者。凡夫を三種に分け、三賢(十住・十行・十回向)
      を内凡、十信を外凡、それ以下を薄地とする。
    凡夫
      梵語プリタグ・ジャナの漢訳。必栗託i那と音写し、異生と直訳する。
      凡愚ともいう。四諦の真理をさとらず、貪・瞋・痴などの煩悩に束縛されて、
      六道を輪廻するもの。
    信心発得
      信心を得ること。

●re.98
ボン
関東の男性
[ 1829 ] Re98:教行信証・学習ノート3 2010/04/19 (Mon) 02:19 △up ▽down
------------------------------------------------------------------------------
良知。無徳号慈父。能生因闕。無光明悲母。所生縁乖。能所因縁雖可和合。非信心業識。
無到光明土。真実信業識。斯則為内因。光明名父母。斯則為外縁。内外因縁和合。
得証報土真身。故宗師言以光明名号摂化十方但使信心求念。又云念仏成仏是真宗。
又云真宗[ハ01]遇也。可知。

凡就往相回向行信。行則有一念。亦信有一念。言行之一念者。
謂就称名遍数顕開選択易行至極。

故大本言。仏語弥勒。其有得聞彼仏名号歓喜踊躍乃至一念。当知。此人為得大利。
則是具足無上功徳。已上。
------------------------------------------------------------------------------
(御自釈)良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましま
さずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは
光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これす
なわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。故に宗師は、光明名号を
もって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむと言えり。また、念仏成仏これ
真宗と云えり。また真宗遇いがたしと云えるをや、知るべしと。

(御自釈)おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あ
り。行の一念と言うは、いわく称名の遍数につきて、選択易行の至極を顕開す。

故に『大本』(大経)に言わく、仏、弥勒に語りたまわく、それ、かの仏の名号を聞く
ことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。当に知るべし、この人は大利を得
とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなりと。已上。
------------------------------------------------------------------------------


≪以下、六要鈔会本の注釈≫

------------------------------------------------------------------------------
次大経流通分初。明彼如来名号徳文。是故以之為行一念。問。今以此文難謂起行。
既有歓喜踊躍之言宜属安心。随而見彼異訳経等。安心之趣其説分明如何。答。行不離信。
信不離行。今文之意。信行相備互以通用。強不違害。若得此意。異訳経説又非相違。
但属起行其理猶明。依之黒谷大経釈云。上逗機縁。且雖明助念往生及諸行往生之旨。
準本願故。至流通分初廃諸行帰但念仏。已上。以此講釈尤為指南。
------------------------------------------------------------------------------

次に『大経』の流通分の初に彼の如来の名号の徳を明かす文なり。この故に、これを以
て行の一念と為す。問う。今この文を以て起行といいがたし。既に「歓喜踊躍」の言あ
り、宜しく安心に属すべし。随いて彼の異訳の経等を見るに、安心の趣、その説分明な
り、いかん。答う。行は信を離れず、信は行を離れず。今の文の意は信行相備りて互い
に以て通用す。強ちに違害せず。もしこの意を得れば、異訳の経説はまた相違にあらず。
ただし起行に属する、その理、なお明かなり。これに依りて黒谷の『大経釈』に云わく
「上には機縁に逗して、かつ助念往生及び諸行往生の旨を明かすといえども、本願に準
ずるが故に、流通分に至りて初めて諸行を廃して、ただ念仏に帰せしむ」已上。
この講釈を以て、尤も指南と為す。

●re.99
ボン
関東の男性
[ 1830 ] Re99:教行信証・学習ノート3 2010/04/19 (Mon) 02:21 △up ▽down
本文と六要鈔会本の注釈について、理解したところを記します。

>------------------------------------------------------------------------------
>良知。無徳号慈父。能生因闕。無光明悲母。所生縁乖。能所因縁雖可和合。非信心業識。
>無到光明土。真実信業識。斯則為内因。光明名父母。斯則為外縁。内外因縁和合。
>得証報土真身。故宗師言以光明名号摂化十方但使信心求念。又云念仏成仏是真宗。
>又云真宗ハ遇也。可知。

>凡就往相回向行信。行則有一念。亦信有一念。言行之一念者。
>謂就称名遍数顕開選択易行至極。

>故大本言。仏語弥勒。其有得聞彼仏名号歓喜踊躍乃至一念。当知。此人為得大利。
>則是具足無上功徳。已上。
>------------------------------------------------------------------------------
>(御自釈)良に知りぬ。徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましま
>さずは所生の縁乖きなん。能所の因縁、和合すべしといえども、信心の業識にあらずは
>光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす。光明名の父母、これす
>なわち外縁とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す。故に宗師は、光明名号を
>もって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむと言えり。また、念仏成仏これ
>真宗と云えり。また真宗遇いがたしと云えるをや、知るべしと。

>(御自釈)おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あ
>り。行の一念と言うは、いわく称名の遍数につきて、選択易行の至極を顕開す。

>故に『大本』(大経)に言わく、仏、弥勒に語りたまわく、それ、かの仏の名号を聞く
>ことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。当に知るべし、この人は大利を得
>とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなりと。已上。
------------------------------------------------------------------------------

  (御自釈)
  良く知ることができた。徳号の慈父がおられなければ、「能生の因」は欠けるであろ
  う。光明の悲母がおられなければ、「所生の縁」は離れるだろう。「能所の因縁は、
  和合すべきである」とはいうものの、信心の業識でなかったら、光明土に到ることは
  できない。真実信の業識は、すなわち内因である。光明と名号の父母は、すなわち
  外縁である。内外の因縁が和合して、報土の真身を得証する。だから、宗師(善導)は、
  「光明と名号をもって、十方を摂取して化益なされる。ただ信心を求念させる。」と
  言った。また「念仏して成仏するのが真宗である」と言った。また、「真宗には遇い
  がたい」と言ったことをこそ、知るべきである。

  (御自釈)
  おおよそ、往相回向の行信についていえば、行に一念があり、また信にも一念がある。
  「行の一念」について言えば、称名の回数について述べて、それが選びぬかれた易行
  の至極(きわめつけ)であるということを、明らかに示すものである。

  だから『大経』にこう述べる。仏は、弥勒にこう語った。「かの仏の名号を聞くこと
  ができて、歓喜し踊躍して、乃至一念したとしよう。まさに知るべきである。この人
  は大きな利益を得たといえる。すなわち、この上ない功徳を具足したのである。

  WikiArcより
    能生の因・所生の縁
      父母を能生と所生とに分けたのは、父は生ませる側(下種)、母は生ませられ
      る側(子種をたもち育てる持種)であるという俗説によっている。
      また因と縁に分けたのは、名号は正定の業因となり、光明は摂取の外縁とな
      るからである。ただし光明と名号は別なものではなく、しばらく因縁に配当
      しただけである。
    業識
      父母の和合によって母胎に宿る個人(子)の主体である識別作用。
      ここは信心を業識に喩える。
    宗師
      曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚・源空上人の祖師を指す。
    摂化
      摂取化益の略。衆生を救いとって、教化し利益をあたえること。
    乃至一念
      心念・称名・時刻などの極少の一念をあげ、さらに多念をも含める意がある
      ので「乃至一念」という。下至一念に同じ。
    一念
      (1) 極めて短い時間。一瞬。六十刹那、九十刹那、あるいは一刹那を一念とす
        るなどの説がある。
      (2) 信の一念。信心を獲得したそのはじめ、つまり阿弥陀仏の本願のいわれを
        聞きひらいた最初の時をいう(時剋の一念)。また、一心に阿弥陀仏をたの
        んで二心(疑心)のないことを指していう(信相の一念)。
      (3) 行の一念。念は称念の意で、一声の称名念仏のこと。大行が衆生の上にあ
        らわれる初一声の称名をいう(遍数の一念)。また、ただ念仏して他の行を
        ならべ修しないことをいう(行相の一念)。
      (4) ひとおもい。少しの思い。



≪以下、六要鈔会本の注釈≫

>------------------------------------------------------------------------------
>次大経流通分初。明彼如来名号徳文。是故以之為行一念。問。今以此文難謂起行。
>既有歓喜踊躍之言宜属安心。随而見彼異訳経等。安心之趣其説分明如何。答。行不離信。
>信不離行。今文之意。信行相備互以通用。強不違害。若得此意。異訳経説又非相違。
>但属起行其理猶明。依之黒谷大経釈云。上逗機縁。且雖明助念往生及諸行往生之旨。
>準本願故。至流通分初廃諸行帰但念仏。已上。以此講釈尤為指南。
>------------------------------------------------------------------------------

>次に『大経』の流通分の初に彼の如来の名号の徳を明かす文なり。この故に、これを以
>て行の一念と為す。問う。今この文を以て起行といいがたし。既に「歓喜踊躍」の言あ
>り、宜しく安心に属すべし。随いて彼の異訳の経等を見るに、安心の趣、その説分明な
>り、いかん。答う。行は信を離れず、信は行を離れず。今の文の意は信行相備りて互い
>に以て通用す。強ちに違害せず。もしこの意を得れば、異訳の経説はまた相違にあらず。
>ただし起行に属する、その理、なお明かなり。これに依りて黒谷の『大経釈』に云わく
>「上には機縁に逗して、かつ助念往生及び諸行往生の旨を明かすといえども、本願に準
>ずるが故に、流通分に至りて初めて諸行を廃して、ただ念仏に帰せしむ」已上。
>この講釈を以て、尤も指南と為す。

  次に『大経』の流通分の初めに、彼の如来の名号の徳を明きらかにする文である。
  だから、これをもって「行の一念」とする。問う。今、この文をもって「起行」とは
  言いがたい。すでに「歓喜踊躍」の言葉があから、当然、「安心」に属すべきである。
  これにしたがって、彼の異訳の経などを見れば、安心の趣(おもむき)について、その
  説は明らかと思うが、どうか。答える。行は信を離れず、信は行を離れない。今の文
  の意(こころ)は、信と行があい備わって、互いに通じあっている。あながちに、違っ
  ているとはいえない。もし、この意(こころ)が解れば、異訳の経説は、また相違して
  いるということはない。ただし、「起行」に属する、その理(ことわり)は、なお明か
  である。これによって、黒谷(法然上人)の『大経釈』にはこう述べる。「上には、
  それぞれの機縁に即して、かつ、助念往生および諸行往生の旨を明らかにしているが、
  本願に準ずるために、流通分に至って初めて諸行を廃して、ただ念仏に帰すようにさ
  せている。」この講釈が、当然、指南となる。

  WikiArcより
    起行
      実践すること。行為。安心、作業に対する語。安心(信心)にもとづき、
      身・口・意の三業に起す。
    作業
      行業を作すこと。安心・起行に対する語で、五念門あるいは五正行等の修し
      方のこと。すなわち、恭敬修・無余修・無間修・長時修の四修を指す。
    安心
      善導大師は『礼讃)』に、起行、作業に対して願生の信心を確立することを
      安心といわれた。
    諸行往生
      種々の善根を修めて、その功徳を因として浄土に生れること。
    諸行往生2
      自分の力で諸善万行を修め、その功徳によって浄土に往生しようとするもの。
      念仏往生に対する要門第十九願の教え。

  大辞林より
    起行
      浄土教で、往生するための仏教的行為、特に念仏をとなえること。
    機縁
      本人に備わっている仏道に向かう能力(機根)がもたらす、教化を受ける
      機会(縁)。

  漢和辞典より
    逗・・・とどまる、ぴったり合う、引き起こす、のぞむ、至る、まわり道をする

  往生要集
    助念方法といふは、一目の羅は鳥を得ることあたはず、万術をもつて観念を助け
    て、往生の大事を成ず。いま七事をもつて、略して方法を示さん。一には方処供
    具、二には修行相貌、三には対治懈怠、四には止悪修善、五には懺悔衆罪、六に
    は対治魔事、七には総結要行なり。



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