浄土真宗の教義について

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●No.117
ちょっと失礼します。
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[ 1066 ] 懺悔と反省と罪の告白 2009/03/14 (Sat) 20:59 △up ▽down
懺悔と反省と罪の告白は、明確に違います。


罪の告白

誰かに向かって
『私は、こんな悪い事をしてしまいました。どうぞお許し下さい』
と言うことを罪の告白と言います。
よく、キリスト教で行われている懺悔はこれに当たります。


反省

自分のした事を、省みて次からは改めようと思う事。


懺悔

掟がかかっているので、この場では説明する事が出来ません。


私は、反省と罪の告白は毎日でも出来ますが、懺悔は、自力では出来ません。

●re.1
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1072 ] Re1:懺悔と反省と罪の告白 2009/03/16 (Mon) 22:31 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

懺悔という用語は、広い意味で用いられていると思いますので、「明確」というのは、言い過ぎのような気が致します。


たとえば、御文様四帖第五通におきまして、

◎所詮今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心をおこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、当寺の御影前において、回心懺悔して、諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし。これすなはち「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)の御釈にもあひかなひ、また「自信教人信」(礼讃)の義にも相応すべきものなり。しからばまことにこころあらん人々は、この回心懺悔をききても、げにもとおもひて、おなじく日ごろの悪心をひるがへして善心になりかへる人もあるべし。

のように説かれてございます。


宿善・無宿善を判別して法を説かねばならないわけですが、では、何も話せないのかと言えば、それは違う。

信を得たならば、「わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして」「諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし」であるのです。

このようなことをすれば、宿善が開発される人がでてくるかもしれない、ということだと思います。

これこそ、お手引きについて、具体的に述べられている箇所であると思います。


南无阿彌陀佛

●re.2
ちょっと失礼します。
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[ 1078 ] Re2:懺悔と反省と罪の告白 2009/03/17 (Tue) 14:19 △up ▽down
毎日様へ

信心をいただけば、懺悔と言う言葉を軽々しく使う事はないと思います。
何故、懺悔が掟に関わる事項なのかも理解されていないのだと思います。

●re.3
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1079 ] Re3:懺悔と反省と罪の告白 2009/03/17 (Tue) 14:26 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

◎回心懺悔して、諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし(御文章4-5)

このように、現に書いてある訳です。

もちろん、「書いてある」だけでは根拠になりませず、どのように解釈するかが大切であると思います。

不明確なところがあれば、ご質問ください。


私は、私の言うことが正しいかどうかはわかりませんが、間違っているところが多いにせよ、自らの思うところを明らかにしてゆくことは大切だと考えています。


南无阿彌陀佛

●re.4
ちょっと失礼します。
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[ 1081 ] Re4:懺悔と反省と罪の告白 2009/03/17 (Tue) 14:49 △up ▽down
回心懺悔 一生に一度の事です。
信心決定して、諸人の耳にこれを聞かしむるように・・・
と、私は解釈しています。
私は、底辺の者なので・・・

●re.5
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 1087 ] Re5:懺悔と反省と罪の告白 2009/03/17 (Tue) 23:22 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

>回心懺悔 一生に一度の事です。

とのことですが、

◎この回心懺悔をききても、げにもとおもひて、おなじく日ごろの悪心をひるがへして善心になりかへる人もあるべし(御文章4-5)

とあるわけです。

この中の、「日ごろの悪心」を持つ人を、私は信心未決定の人と解釈しております。

ちょっと失礼します様は、違うようにお考えですか?

(もちろん、そのような読みも可能であると思います。その場合は、「日ごろの悪心」を持つ人は、信決定した行者であり、信決定したにもかかわらず、そのご恩を忘れてしまっている人になるかと思います。)

そして、「この回心懺悔」が、「一生に一度の事」であるとすると、それに対して「げにも」と思うことが、どうもしっくりこないと、私は感じるわけです。

ここにおける「この回心懺悔」は、「回心」すなわち、信決定した人の「懺悔」=「自らの日頃の悪い行いや思いを告白し、反省すること」であると思います。

これは、信決定したからこそ、できることなのだと思うのです。


南无阿彌陀佛



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