浄土真宗の教義について

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●No.110
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 913 ] ただ一人歩め。犀の角のように 2008/11/15 (Sat) 12:47 △up ▽down
「なぜ、角(つの)なのだろう?」と、ずっと疑問だったのですが、ようやく本日、「なるほど、他力なのだ」と理解できた気がしました。

こんな単純なことに気付くまで、20年以上かかる、愚鈍な私です。

この考えについては、以前も検討したことがありましたが、腑に落ちることはありませんでした。

犀の頭がどちらを向いても、その角は、力強く前へと進んでいます。

茂みをかきわけて進むこともあるでしょう。

それでも、前へと進んでゆくのです。

「善友に出会うことは、道の半ばではない。道の全てである」

南无阿彌陀佛

●re.1
菩提心
非公開の非公開
[ 915 ] Re1:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/11/17 (Mon) 07:50 △up ▽down
毎日様

>「善友に出会うことは、道の半ばではない。道の全てである」

私にとりましては、

まさに、毎日様、泥凡夫様のお陰で、この道歩んでいます。

ただ一人の道。

私は私が選んだ道を歩んでいるのだと思います。

二河の道をただ歩んでいくだけです。

後念相続の場、有り難く拝読させて頂いています。

南无阿彌陀佛

●re.2
現代人
関西の男性
[ 918 ] Re2:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/11/19 (Wed) 07:41 △up ▽down
毎日様

「犀の角のように ただ一人歩め」 この言葉を拝見して、昔、岩波文庫で読んだことや
親鸞会で「生死の道に友は無し 一人さびしく独去独来」と聞いて深い孤独感を味わったことを思い出します。

宗教に関わるなんて、変人かも知れないなどと思ったりしたこともありました。
実は、今でもそう思ってます。

家庭でも、外出先でもコッソリと「南無阿弥陀仏」です。声に出そうものならば、びっくりして逃げて行くでしょう。まるで隠れ念仏です。

このように教えていただくと、安らぎますね。

●re.3
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 919 ] Re3:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/11/19 (Wed) 09:25 △up ▽down
現代人 様

犀はあちらこちらで、一人歩んでいるのだと思います。

南无阿彌陀佛

●re.4
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 920 ] Re4:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/11/29 (Sat) 21:27 △up ▽down
毎日様

はじめまして極道坊主と申します。

色々と、真宗のお話を掲載しているHPを検索していましたら、真(まこと)に興味深い味わいのあるサイトに出会いましたので読ませて貰い、立ち寄らせて頂きました。

南無阿弥陀佛を肝(はら)に据えられ、御念佛を喜ばれる方々の集まっておられるサイトの様に感じ、「自分の様な者が。」と、甚だ恥ずかしく思い乍も一言、寄り道程度の書き込みでは有りますが、発言をお許しください。

「ただ一人歩め。犀の角のように。」

確かに人生は、現代人様の申される通り「独去独來」かと思います。
人生、全てに於いて「一人凌ぎ」故にその様に申されるのでしょうか?

ただ、自分の記憶違いかもしれませんが、犀の角は一本ではなかった様な?
自分に喩える角の後ろに、寄り添うように確かもう一本有ったような気がします。

その、共に歩んで下さる角を自分は『聖人様』と戴くので有ります。 で、犀本体が阿弥陀様ではないでしょうか。

本体に運ばれる侭に、犀の角は今現在を進ませて貰っています。 2本目の角と共に。

犀が突進すれば、勇猛果敢に前へと。 ゆっくり歩めば、悠々自適にと。 また後退すれば、今とは逆の方向へとまた進んで行くのでありましょう。

それが、今の時点での味わいです。 で、有りますから御念佛が有り難いのです。 心強く感じるのです。 故に喜びが沸いてくるのでしょうか?

この気持ちは、言葉や文章にするのが難しいのですが。 どう表現して良いのか解からんのですが、申し訳有りません。

「ただ一人歩め。犀の角のように。」この言葉の表す、本当の意味も解らぬ侭トンチンカンな書き込みでごめんなさい。
また、教養、学歴が低い故、難しい教義については理解がついては行きませんが色々とお話し聞かせてやって下さい。

よろしくお願いします。   合掌


●re.5
菩提心
非公開の非公開
[ 921 ] Re5:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/11/30 (Sun) 23:16 △up ▽down
極道坊主様

こんばんは、

毎日様あてなのに、ちょっと興味があったので、お邪魔します。

早速、調べてみました。

サイには、角は1本と2本があるらしいですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B5%E3%82%A4

インドサイの写真には、角が1本のように見えます。


極道坊主様のお考えも、とても素晴らしいなと思います。

毎日様のお考えも、そうだなと納得出来ました。

この法は、なかなか信じられないんだなと、この頃私は実感しています。

その信じられない法を信じられたのも、過去世からの宿縁のお陰だと思います。

とても有り難いと思っています。

そして、この掲示板でお話出来るのも、きっと過去世からの何かの御縁かも知れないと最近は特に感じます。

そう思えるのは、色んな御著書を拝読させて頂いているせいかも知れません。

『いつつの不思議をとく中に仏法不思議にしくぞなき、仏法不思議といふことは、弥陀の弘誓に名けたり』
 高僧和讃=曇鸞和尚

多分、きっと私の方が知恵は劣っていると思います。

でも、こんな落ちこぼれの私でも、阿弥陀様の本願に合えば、もう弥陀同体。

こんな不思議があることを、聞いていた時と、知った時の大違い。

だからこそ、今の私は、その阿弥陀様を信じられたことが有り難いと思います。

これ全て、阿弥陀様から廻向された信心だからです。

特に、最近、私はこう思っています。

知恵は毎日様や泥凡夫様に衰えても、阿弥陀様から見れば、やっぱり同じ凡夫の筈だから、遠慮は要らないって、少し図太くなって来ました。


私の角は、右往左往しながらも、善友の温かな励ましで、少しずつ前進できたらいいなと思っています。

私も、この掲示板の閲覧者の一人です。

宜しくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.6
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 922 ] Re6:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/01 (Mon) 01:53 △up ▽down
菩提心様

はじめまして。

また、御教授有難う御座います。

そうですか。 らくだと同じなのですね? 犀も。(多分、ピント外れですが?)

人には、色々と知らない事が多すぎます。

何事も、「聞くに始まり聴くに終わる。」という事なのでしょうか?

毎日様には「聞いた、知った、覚えた。」位の知識をひけらかしての対抗的な書き込みになった事を申し訳なく思います。

ただ、自分としては味わいから「2本の方が良いかなぁ〜。」なんて思った次第でありまして。 ただ単に一人が不安だからでしょうね? 

情けのない話なのですが、やはり人生を進ませて貰うには確かな後ろ盾が必要なのですね、人というのは?

その情けの無い自分目当ての願いが届いて下さっているから勿体無いのです。

実は、書き込みをした後不安になって犀について調べてみました。(体裁根性が働きました。)

最初にHITした犀の画像が1本だったので「やってしもうたぁ〜。」と思ったのが事実です。 あせり半分、ごめんなさいの書き込みを書くべきか・・・とか! 止めとこうかなぁ〜〜〜。・・・とか! 頭を下げたくない性根が丸出しです。

その時、感じたのですが「聖人様は一貫して阿弥陀様をお勧め下さっておられるんだよなぁ〜。」なんて思わされました。 「後ろ盾の2本目の角は飛び越したとしても、犀本体の阿弥陀様が離れずに運んで下さるんだから、角は1本でもいいがなぁ〜。」なんて。

自分の確認不足の失敗を容認する様な解釈で申し訳ないのですが、またひとつ別の美味しい物を味わった様な気分で変な満足感に浸ってました。(ニヤッニヤッと。)


菩提心様も色々ご苦労があった事とお察し致します。

聖人様が後世に残して下さった信心は、確かに「他力易行」と人々や教団側は申されますが自分としてはこの信心、行者の方からすればこれ程の難は無いと感じています。

その難解な法と一緒になられたのですね。 これは表しようの無い強縁だと思います。
一方ならぬご苦労があった先の他力の信心だと感じます故、喜びも一入(ひとしお)ではないかと思っております。(違ってたらすみません。)

その御信心と巡り合え、喜ばれて居られる菩提心様、何か自分事のように嬉しく感じます。(変態っぽいですかね?)

この嬉しさ、喜びは言葉や文章では伝え切れない物が有りますが、如何でしょうか?


自分は師から教義、経典、論等はそっちのけで(少しは教わりましたが)「阿弥陀様に救われる機」という者を実地で教わってきました故に、あまり教義のことに詳しくありません。 生活の中で御念佛を教わって来た様な、そんな感じです。

ですから、教義やその他に対しての知識は多分無いに等しい。・・・・・・と思います。(そのようには想ってないかも知れません。)

ただ、自分の心の内面を知らされはっきりとさせて貰い「救って下さる佛は阿弥陀さん以外にゃぁ〜おらん。」って心底思わされた時から、漢文だらけの経が、古文もぐれの聖典が、御念佛の先輩方が残して下さった文献が少しづつ味わって読ませてもらえる様に成った気がします。(時節々で味わいも変わりますが。)

信心(南無阿弥陀佛)と一緒にして貰ったら、小賢しい教義なんかどうでもよくなりました。 「教義の解釈では信心には至らん。」とも思っています。 無駄とは言いませんが。(負け犬の遠吠えみたいでみっともないですね。)
でも、妙好人は教義で生きてはいませんでした。

ただただ、「御念佛これひとつでよろしいがなぁ。」なんて思っている自分です。

こんな者では有りますが、これからもご縁を戴ければ有り難いと思う次第です。  合掌

●re.7
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 923 ] Re7:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/01 (Mon) 01:54 △up ▽down
菩提心様

阿弥陀様の智慧は、水源地の水の様な物。
蛇口は違えど出る水は一緒の筈です。(同じ水源を引っ張ればですよ!)

美味しい水を戴いているのですね! 勿体無いことです。

合掌

●re.8
菩提心
非公開の非公開
[ 924 ] Re8:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/01 (Mon) 05:01 △up ▽down
極道坊主様

お返事有難うございます。

とっても嬉しい内容で、私の方が元気づけられました。

私は、過去に転校が多かったせいか、子供心にも、処世術ではありませんが、結構すぐに友達が出来ました。

でも、少し仲良くなったと思ったら、すぐに転校。

勉強も習った場所が同じ時は、優越感を味わい、習わなかった場所では、0点という最悪の結果でした。

そのような子供時代を過ごしてきて、大人の価値観を少し垣間見るようになってきて、大人って勝手だなと思うようになりました。

勉強の出来る人は良い子。出来ない人は劣等生。

僅か、学校の成績だけで判断してしまう。

でも、それって、自分が大人になったら、同じ様に自分の子供を判断していました。

自分ながら勝手な人間だと、自分自身が嫌になっていました。

でも、子供心に差別感を味わって来たので、自分では平等の言葉がいつも心の奥底には有りました。

そういう思いが、ようやく華開いたのだと思います。

阿弥陀様の前では、全て平等。

私は、それを基準に考えて、この道来れたと思っています。

阿弥陀様を頼んだ人を、平等に救って下される事が有り難いと思います。

私が探し求めて来た平等。

私は、その平等感の中で、一人満足しています。

南无阿彌陀佛

●re.9
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 925 ] Re9:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/01 (Mon) 13:50 △up ▽down
菩提心様

有難うございます。

通りすがりの書き込み故、そんな戴そうな書き込みでは有りませんし、大した内容とも思えませんが喜んで貰えました事、嬉しく思います。(もう通りすがりではなくなりましたですか?)

人は、皆夫々に色んな過去を経験して成長しています。

自分も、中学生時分から考えますと色んな事が有りました。(遠く過ぎた過去です。)

子供の目から見る大人の世界は、それは醜く、汚く思えたその時分。

自分も大層、反発していました。(反社会分子?)

しかし、いざその社会へ放り出されれば、「嫌だ。」と口では言ってみたものの、その渦の中へ取り込まれていました。

勉強の出来る子は良い子。出来ない子は悪い子。 (出来ない子は悪い子にならざるを得なかったのかもしれませんが。)

今にして感じるのは、「勉強の出来る子は社会にとって都合の良い子、それ以外の子はそれなりの子。」なのでしょう。

本当は、学力のある子というよりも、学歴のある子なのかもしれませんね。

資本主義社会の競争原理に、取り込まれてしまった今の日本の功罪かと感じます。

そんな中で、落ちこぼれは(自分もこの中に入っています。)落ちこぼれ同士、また競争するのですよ。 それは、他より秀でるものが無い分、「蹴落とす。」「足を引っ張る。」等、手口は汚いです。

それを目の当たりにした時、「世の中には本当の事って無いんだなぁ〜。」なんて、絶望感を感じたりもしましたっけ。 当然、自分もその中にはいますが自分の醜さには気が付いていません。

一昔前は身内同士、共存をしていたように思うのですが、今の御時勢家族同士でも競争してたりして。(余裕の無い時代になりましたね。)

そんな中、師に御縁が有りまして『真の御念佛』に出会わせて貰ったと思います。(かなり省略をしていますが、お許しください。)

「佛様は頼んだ人を平等に。」と、菩提心様は申されますが、自分は師より、「佛様は生きとし生けるもの、皆全てに平等に。」と、教えて戴きました。

佛様のお慈悲の心は皆に平等に働きかけて下さっておるのです。

平等にですよ。 均等では有りません。 で、有りますから、願う者、頼む者には尚更働いてくださるのです。

依怙贔屓(えこひいき)という言葉が有ります。 この言葉は佛語らしく、多分この事を表しているのだと感じます。

阿弥陀様は、菩提心様を依怙贔屓して下さっておるのだと感じます。

自分も依怙贔屓して貰ってます。 勿体無い次第です。

勝手な受け取り方かもしれませんが、喜ばせて貰ってます。

味わいは同じものと感じます。 皆で喜べることなのかもしれません。    合掌

●re.10
菩提心
非公開の非公開
[ 926 ] Re10:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 22:19 △up ▽down
極道坊主様

こんばんは

今、夜空を見上げながら帰ってきました。

おもわず主人に、何だか今日のお月様と星が二つ輝いていて、まるで笑っているみたいって言いました。

とっても山の稜線がオレンジ色に映えて綺麗でした。

そんな心ウキウキで、パソコンを開けて、極道坊主様の書き込み拝見させて頂きました。

とっても、心温まる内容で嬉しいです。

又、阿弥陀様の御心のご指摘、全くその通りです。申し訳有りません。

ただ、救われても、尚、そこに差別が出てくるのか、どうしても納得出来なかったのです。

>依怙贔屓(えこひいき)という言葉が有ります。 この言葉は佛語らしく、多分この事を表しているのだと感じます。

確か、毎日様も「私達はおろかだからこそ、抜擢された」と書かれてあったような気がします。

どんな事をしても、阿弥陀様は許して下さっていると私は思えます。

それが依怙贔屓(えこひいき)なら、私は本当にその通りだなと思います。

この掲示板から、温かなメッセージが広がっていくといいですね。

私は、とってもあったかい気持になりました。

極道坊主様でなく、極楽坊主様ですね。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.11
酒天童子
関東の非公開
[ 927 ] Re11:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 15:32 △up ▽down
菩提心様

こんにちは、酒天童子です。

>今、夜空を見上げながら帰ってきました。
>
>おもわず主人に、何だか今日のお月様と星が二つ輝いていて、まるで笑っているみたいって言いました。
>
>とっても山の稜線がオレンジ色に映えて綺麗でした。

三日月に二つの星、ひとつは金星でしょうか?あとは何でしょうかね?綺麗ですよね。

二つの星は日に日に見た目の距離が近づいていますよね。

あと数日で重なってしまうのではないかと思うくらい、、、。

ここのところ空気も澄んできていて、夕日も綺麗ですね。

菩提心様がみていたころに私も見上げていたかもしれないと思うと、なんだか親しみがわきますね。


>
>ただ、救われても、尚、そこに差別が出てくるのか、どうしても納得出来なかったのです。

救われたならば”摂取不捨”で差別はないと、いままで何度も毎日様、泥凡夫様の書き込みにあります。

高僧の論註釈や過去ログも読み返してみて、私自身は頭でも心でも受け入れられるのに、どうもそうではない同行さんも多数いるようです。

ここに書き込みされた方々のご意見も分かれています。

どうしてなんだろう?と、ちょっと不思議な気もいたします。
有縁の善知識の経文釈をそのまま受け取ると、自分自身、うーん、思ったことを迂闊に言いにくいです。

毎日様、泥凡夫様

どうして、次第は二千数百年を経ても間違いなく伝わってきたのに、”摂取不捨”については同じ次第を相承したにもかかわらずそれぞれの善知識によって解釈がなぜ異なるのでしょうか?

ご教示いただけると幸いです。

南无阿彌陀佛

●re.12
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 928 ] Re12:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 21:24 △up ▽down
菩提心様

度々の御返信、有難うございます。

既に、毎日様の「犀の角。」の件からは離れた書き込みになってしまっているような感が有りますが、菩提心様からのお便りがひとつの楽しみになりました。

同じところで(味わいを戴かれた方々と)お話が出来る事は、本当に心が安らぐ想いです。

数年前、師の元を離れ家族の事情で他県に移り住んで以来、真宗の話を求めて各寺院を訪ね聴聞して廻らせて貰うのですが、今一つ心に合致しないものが有りまして、悶々としておりました。

そのご縁で、「良き師に巡り会う事も難しい事。」という想いを戴いた次第ですが、今の真宗教団の不甲斐無さも実感させられたような気がします。(なにを偉そうに(^_^;))

そんな中でのこのwebサイトの発見は、とても嬉しく思いました。

毎日様に向けては、只々感謝の限りです。 有難うございます。

「私達は愚か者。」 毎日様の仰られる通りであります。

只、今の世の中は釈尊が言われる末法の世です。 凡夫は全て「下品下生」。

皆、愚か者なのです。 その中で、愚かさに気付かされた者、愚かを自覚し佛に身を投げ出した者が阿弥陀様の願いに真っ先に叶うのではないでしょうか?(気付かされる時にも佛様は働いて下さってますよね。)

「愚か」と自覚しても「まだ、自身の力で何とかなる。」と、思っている者は後回しなのです。

それでも、佛様の心は「自身の力で何とかなる。」と感じている者にも向いているのです。
見捨てたりはなさらない。 時期を待っておられるのです、ズーーーートッ。

そういった(言葉で表すと平べったくなりますが。)お慈悲の深き事を身をもって体験させられ、佛様と本当の意味で親子の盃を交わした時、(仁侠映画みたいですね)初めて口をして出て下さる御念佛が『報恩感謝』の御念佛になるのだと感じます。 ここからが信後と言われるんじゃぁないですか?

受けたご恩があやふやで、解ってもいないのに「感謝しろ。」と勧めても凡夫はしませんよ。 それと同じだと思います?

ごめんなさい。 なにか力が入っちゃいました。

「経文、論をしっかり勉強して、はっきりと解釈すれば信心は必ず得られるものだ。」と、信じていました。 そう思って法話も、講義も聞いていました。

でも、知識になるばかりで心を落ち着けられない。 「こう解釈するべきだ。」と、受け取っては、ますます法から離れるような気がしました。

教行信証は聖人様の、後世に残された御自身の信心の感想文であり、指南書と感じます。

信心が私に届いてくだされば、おのずと書かれている内容が頷けるのだと感じます。

大層な事を書き込んでしまったような、大変な事をしでかしてしまったような?

皆様、もうしわけありません。       合掌

●re.13
酒天童子
関東の非公開
[ 929 ] Re13:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 22:29 △up ▽down
極道坊主様

はじめまして、酒天童子です。

真宗の知識、経験は浅く、こちらこそ頓珍漢であることをお許しください。

>只、今の世の中は釈尊が言われる末法の世です。 凡夫は全て「下品下生」。

お聞きしたいのは、今の凡夫はすべて”下品下生”なのですか?

それさえも、初めて聞きました。それでは三輩も意味がないのですか?

無量寿経の下経はわれわれには縁のない話なのでしょうか?

では、いったい何が我々の、つまり末法の人々の拠所になる経はどこにあるのでしょうか?

浄土三部経は一部しか参考にはならないのでしょうか?

そんな気もしないではないので、このように質問したりもするのですが、そうではないのではないかとも思えるので、このように書き込みする次第です。

よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏

●re.14
菩提心
非公開の非公開
[ 930 ] Re13:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 22:50 △up ▽down
酒天童子様

コメント有難うございます。

今日の帰りの星と月の位置は、全く逆になっていて、丁度三日月が「への字」のように見えて、ちょっと不服そうな顔付きでした。

面白いですね。

今まで、こんな風に空を見上げた事はありませんでした。

丁度、NHKの9時のニュースで、最近は夜景を楽しむ人が増えているそうです。

そういう夜景を見て、心を癒しているんでしょうね。

でも、私達はそれに加えて、阿弥陀様を信じられたから、もっと違う感じ方が出来るのがとっても嬉しいです。

丁度、御一代記聞書の中の法然上人の御言葉が有り難いですね。

「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人のこころにぞすむ」

そして、同じ掲示板でお話しながら、同じ月をそれぞれの思いで眺めている。

きっと、私は、この月を愚老様も見上げておられるだろうなって思っています。

最近、愚老様や愚尼様がご無沙汰なので、寂しいです。

それぞれの有縁の道。

でも、少しずつ、少しずつ書き込みに参加されるお方が現れて、色々のお話を御聞き出来る場。

とっても貴重ですね。有り難いです。

これも毎日様のお陰です。

私にとって、自信教人信様や泥凡夫様や毎日様がおられなかったら、この道来れませんでした。

ですから、きっとこのようにお話している内に、覗いて見て、書き込みしてみようかなって思われる人も現れると思います。

若し、個人的にお話したいと思ったら、メール送信が出来る方法もあると思います。

私は、この掲示板の最大の利点だと思っています。

これからも、お互いに気が向いた時に書き込みしていきたいですね。

南无阿彌陀佛

●re.15
酒天童子
関東の非公開
[ 931 ] Re14:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 22:57 △up ▽down
こんばんは、酒天童子です。

酒天童子ですから、時々酔っていることもあります。

毎日様、いつもありがとうございます。

私はこのホームページを知ることができて本当によかったです。

それで、いろいろな方々がここに書き込みされてくださって、そういう方々にも本当にありがとう、と言いたいです。

中には博学多才の人もいて、浅学非才の自分にはとってもとっても勉強になります。

そこで、いろいろ勉強させてもらっているのにもかかわらず、しつれいなことも言わせていただければ、多くの方々はどうして

中途半端に”自分の意見”や”見解”を表明だけして、それが対立したり、意見が分かれたりすると”もっともらしい言い訳”をしてここから逃げるように去っていくのか、

これは自分にはちょっと不思議です。

たぶん、自分のほうが外れているのでしょうが、、、。

もう少し、付き合って”とことんまで”やって欲しいのですが、、、。

しばらく様子を見ていましたが、金剛心様とか愚老様あるいはその考え方に同調されている方々はどうやら引いてしまったようです。

"わからんやつらにこれ以上色々言ったところで、埒が明かない”

”あなたはあなた、わたしはわたし”

”結局は自分の信じる道を歩むしかない”

いろいろありそうです。

だったら、はじめから書き込む必要もないように思ってしまうのは、浅はかなものの考えでしょうか?

無知な人をそのままにしておく自由が私たちにはありますよね。
それは私たちの大切なレッスンの一つですよね。
 でも、皆さんはそうではないから、何とかしようとして、ここに書き込んでいるわけですよね。

すこし、淡泊すぎないかなあ、なんて思ってしまいます。

特に金剛心様、あなたは博学ですよね。ただただ、撒き散らして思わせぶりして、なんか自己満足して、高みの見物しているのではないですか?

自己の見識や知識を人にぶつけてみて、反応を見て、すごく綺麗で済んでいませんか?

あなたは菩薩を自認していますよね。

上求菩提、下化衆生。

理屈で言い争う気持ちはさらさらないです。

もう少しレベル(あなたのおもうかぎりにおいて)を合わせてもよいのではないですか?

なぜならここに書き込んでいること自体が、あなたという存在のそのものなのですから。

何を言っているか、ちょっとあやふやです。

でも、うそとかいい加減な気持ちではありません。

南無阿弥陀仏



●re.16
菩提心
非公開の非公開
[ 932 ] Re14:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 23:05 △up ▽down
極道坊主様

お返事有難うございます。

酒天童子様、私も「下品下生」だと教えて頂いたような気がします。

何しろ、私も教学的には無智なので、不確かです。

でも、私は極道坊主様の書かれている内容は、私の心を胸打つものです。

年齢的には、私の方が上かも知れません。

でも、私は、ずっと毎日様や泥凡夫様とやりとりしている時に感じてきたものを感じる事が出来ます。

これは年齢でなくて、何だか一味としての安心感かも知れません。

身を任せられるような安心感。

それは、きっと弥陀に任せたような安心感です。

これは、私個人の思いです。

だから、私は教学的な場所は苦手です。

一人で讃嘆できる場所で書いていますが、でもこれも考えてみれば、可笑しい話ですよね。

それでも、書いてしまう変な私です。

南无阿彌陀佛

●re.17
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 933 ] Re13:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/02 (Tue) 23:13 △up ▽down
酒天童子様

はじめまして、極道坊主と申します。

書き込みを読ませて戴きました。

もし宜しければ、自分の味わいにもついても耳を傾けて貰えればと思います。

>救われたならば”摂取不捨”で差別はないと、いままで何度も毎日様、泥凡夫様の書き込みにあります。

「摂取不捨」の利益ですか? 救われてからというよりも、御念佛を聴いて『この、御念佛によって助かりたい。』と、思った時からそれは始まるのではないでしょうか?

自分に於いてはですが、『助かりたい。』と、思った時には多分、聞いた本人は必死の状態で聴いておりました故、南無阿弥陀佛の御念佛は忘れようにも忘れられないのになっていたのではなかろうかと感じます?

その時点で、弥陀の掌に載せて貰って居ります故、凡夫の自分が忘れて居っても如来様は忘れては居られないと思います。

佛様の願いが、『私を救う。』であるならば、その手を翻すことはありますまい。

それを、「摂取不捨」と言うのだと思います。

その時はまだ『助かった。救うて貰った。』という自覚どころか、聞けば聴くほど苦しくなっていたような状態だった、そのように思い出されます。

でありますから、『救われたならば”摂取不捨”で差別はない。』と書かれた方々は、その時点でまた別の心持を表されたかったのだと感じます。

「摂取不捨」の文言にしても、またその他の文言に致しましても『このように戴かなくては。』としてしまいますと心が、想いが、そこから離れられなくなってしまうと思います。

佛様の教えに於いての文章、言葉は只の伝達用具に過ぎないと自分は戴いております。

相対の世界のこの世においての言葉には必ず対語と言うものが存在します。

それは片方の対語を否定する形になっている。

佛様の法は、『逆もまた真也。』(何が正しく、何が邪なのかは自分には判断できかねますが)がちゃんとあると思います。

でありますが、凡夫はその両極端しか理解しようとしません。

たとえば「白黒はっきりしようじゃないか。」と、申しますが、白の対語を色んな人に聞いてみるとその答えは必ずしも黒では有りません。(オセロでは白の反対は黒ですが。)

では、白が正しく、黒が間違いなのですか? (屁理屈っぽいですね。)

白の対は数え切れないほど存在すると思いますが「赤」と答える人も有れば「青」と答える者もいる。 自分の様なへそ曲がりに至っては、「黄色」と答えるでしょう。(色の三要素ですか?) また、同じ人物でも自分の都合によって答えを翻します。

佛様の法はそのどれも全てを認めて下さい乍、『両極端を獲らない用に。』とお勧めです。

言葉の解釈の是非を問うのではなく、発言される方の『心を汲んで戴きたい。』と、切に願います。

『その様な事を言いたいのではないけれども、今の時点では、このように発言するしかない。』と、感じられる事、必ずあると思います。

言葉は一度に両方の意味を表しきれないのですよ。

故に、以心伝心を重んじる宗派もあるのです。

取り留めの無いたとえ話で申し訳有りませんでした。

また、初めてのご縁で大変な無礼な事を申し上げました事お許しください。

これを嫌わずとこれからもお話お聞かせくだされば嬉しいです。  合掌


●re.18
毎日
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[ 934 ] Re14:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 00:01 △up ▽down
酒天童子 様

>>927
>どうして、次第は二千数百年を経ても間違いなく伝わってきたのに、
>”摂取不捨”については同じ次第を相承したにもかかわらず
>それぞれの善知識によって解釈がなぜ異なるのでしょうか?

善知識様ごとに、次第が同じかどうかも、私には、わかりません。

私は、たまたま信じることができた気がしましたが、その気持ちが本当かどうかも、いまだに検討しています。

もちろん、検討したところで、真偽がわかる知恵も持ち合わせていないのです。

わからないことだらけの私です。

ところで、久しぶりに書き込んだからでしょうか、なにか、とてもうれしい気持ちがします。

そこで、スレの流れに乗じて、思うことをつらつらと書いてみようと思います。

おしゃべり的な駄文になると思います。

真宗のことに限らず、「自身の意見を表明すること」に、どれほどの価値があるのだろうかと、近頃は考えてしまいます。

意見を求められれば、表明したりもするのですが、それにどれほどの意味があるのか・・・

意見を表現すれば、やはりそれと異なる意見の方もいらっしゃるわけですから、そういうことをするのに、どれほどの価値があるのかと、考えてしまうのです。

そういう点において、仲の良いひとたちと、気軽に「気持ち」をやり取りし、その場合、そこには既に好意があるわけですから、それはとてもしあわせで、楽しい感じがします。

くつろぐ感じです。

もちろん、意見の異なる方々と相互に考えをやり取りすることによって、自身の考えが(あるいはお互いに)高められることはあると思います。

それは、とても貴重な営みであると思います。

ただ、それは今の私の場合には、こころに緊張を生みます。

もちろん、それは私が問題をかかえているからで、どうして意見が異なると緊張してしまうのか、最近は、そういう自分のこころの哀れさについて、検討したりもしています。

緊張と引き換えに向上するのではなくて、できるなら、くつろいだままで、向上してゆきたいです。

信をいただく前、私は、思い詰めるような状態になっていて、一念を境に、その気持ちの方向性が変わりました。

ですから、真実信心獲たのかどうか、自分ではよくわかりませんが、自分が「変わった」ことは言えます。

しかしそれも、「自力のこころが変わった」ということかもしれません。

それでもいずれにしても変わったので、感謝しています。

ですから、「何も変わらない」と思うひとが感謝できないのも、また自然なことだと思います。

お聖教を見ると、「間違っていれば、地獄に往くかもしれない。でも、それでもいい」と、心に思えた境地が書いてあります。

私は、そう思えたと思いました。

でも、もう少しよく自分の心を検討してみると、「やっぱり地獄はやだなあ」と思っていることがわかりました(笑)。

「師と一緒でも、やっぱヤダ」と思ってしまう私です。と言うより、「師」ということで、きちんと認識しているのか? やっぱり自我が強くて、傲慢なんじゃないか? と思います。

「師」のようなことは認めたくない、傲慢な自分である、というのが、適切な認識であると思うのです。ですから、服従を強いられれば、反発すると思います。

ですから、私はたまたまそういうことをなさらない方とご縁をいただいたと感じるから感謝できるので、押し付けられたら、反発する自分だと思うのです。

「どうしようもないなあ」と思います。しかし、同時に感謝もしていると思います。

このような私でもあるので、「一緒に地獄に堕ちる」と、もし「わかる」なら、やっぱり地獄じゃない方がいいですね。

だけど、それも私にはわかりません。

後生のことは、私の認識力では、わからないのです。

ただ、わからないはずなのに、信前(と私が思う頃)にあった「漠然とした不安」の質が変わりました。

今でも、不安はありますが、質が変わりました。これは、いまのところ、うまく表現できません。

だから、「地獄には往かないだろうし、極楽に往くのだろう」と思っているのです。

「異安心じゃないか?」と言われれば、「そうかもしれない」と思いますが、それをあまり問題視しようという気分にも、ならないのです。おっくうなのかもしれません。

「もう、いいや」というタイプの落ち着きですね。

しかし、私は完全に落ち着いているわけではなく、自力的な探究心は、とても強く残しています。

そして、自分自身がそういうモードなので、金剛心様方には、返信が遅れてしまい、ご迷惑おかけしたと思っています。

実は、「どう書いたものか・・・」と今でも考えています。

要門釈云々のところで、「痛い所をつかれたから」的なご反応を得たと思うのですが、これはかなり予想外のご反応だったので、自分の予想能力の低さがわかったと同時に、どう書いたら良いのか、わからなくなってしまいました。

漢字一文字の意味までも、丁寧に解説してゆかれた方が御開山であると私は思っておりますので、あまり説明を省略する方は、それだけで、「御開山の流れを継いでいるのではないのだろう」と私は感じます。

真宗のことについても、それ以外のことについても、近頃あれこれと考えます。

それを反映した雑文となりました。読み返してみても、「ダメな自分だなあ」とますますわかる気持ちです。

南无阿彌陀佛

●re.19
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 935 ] Re14:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 00:10 △up ▽down
酒天童子様

投稿した時点で、既にかなりの投稿があってTIMEラグを感じました。

遅筆で申し訳有りません。

貴方様は、自分よりもかなり博識です。

自分に至っては、経の何処をどの様に探ってよいのやらも解らなくなる次第で有りまして、まったく持って皆様を前に恥ずかしいばかりです。

>只、今の世の中は釈尊が言われる末法の世です。 凡夫は全て「下品下生」。

「下品下生」についての御質問ですが、申し訳有りませんが自分の答えられる範囲で宜しいでしょうか?

自分は、本を読む行為があまり好きではなく、師より聞かせて貰った話です。

酒呑童子様、もし御縁があるようでしたら観無量寿経を読まれてみて下さい。

お勤めで使う抜粋文ではなく、全てが載っている物です。

その中に、人間を(下品下生以外は多分人ではないと思います。)三品に分け、また一品を三生に分けた部分が有りますが、下品下生以外は今の人間には到底不可能な状態で衆生を憂う姿を表しています。

と言うことは、今の凡夫は下品下生以外はいないと言うことではないでしょうか?

上品に至っては、『衆生を哀れんで血の涙を流す。』と、聞いています。(聞いた話なんで多分間違っていると思いますが。)

その、下品下生に向けては釈尊は『南無阿弥陀佛』の御念佛をお勧め下さり救って下さっているのです。

御存知の『王舎城の悲劇』の物語ですが、釈尊御在世の正法の時代です。

釈尊の教えを正しく聴き、正しく行じれば皆、正覚の位(佛に成るって言った方が正しいかな?)が取れた時代にですよ。

それでも、釈尊は力無き者、また女性には御念佛をお勧めだったと聞いています。

今は、末法の世。 正しく行じる事さえ出来なくなったと聴かされました。

その機根が救われる法は、御念佛しか残ってないのだと信じます。

その御念佛を正しく伝えている経が『無量寿経』なのではないでしょうか?(なのですよ。)

浄土三部経は、どれを欠いても真宗は成り立たないと思います。

多分、無駄な物は何一つとして無いのですよ。

その、御念佛を勧めて信じさせる段階に行くまでの一番目の基礎を『観無量寿経』で築き上げるのでしょう。

後に、『三願転入』と言う言葉に御縁が有ると思います。

その下準備と表現したら宜しいのでしょうか?

表現下手ですみません。

ちゃんと伝えられる様に練習しておきます。 合掌

●re.20
7
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 936 ] Re15:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 00:35 △up ▽down
皆様、お久しぶりです。

師でもないのに、師走のせいか忙しくしております。

毎日様の書き込みを読んで、「あぁ、毎日様も全く同じ信心を頂いているのだなぁ」

と、改めて感じました。改めて衝撃的でした。

不思議です。

これが、本物かどうかと疑問に思っても、どうやって証明する手段がありましょう。

死ねば分かる、かも知れませんが、死後の世界も予測など出来ないのです。

死後自分というものがどのような存在の仕方をするかも分かりませんし、

地獄、極楽、それを正しく判断する能力が死後にある保証もないことに気付きました。

分からないことだらけ。それは、信前もそうだったはずなのです。

何かが変わりました。その変わったことに安心しているわけではなく。

後生、後生、と暗澹たる気持ちだったのが、無くなった。

しかし、その気持ちが無くなったことを証拠にすることは、違うとも感じます。

ただ、全く同じ信心の方が見えると、不思議に思い、嬉しく思います。

自力の信心であれば各人バラバラのはずですから・・・。

人の身である限り、疑煩悩も止まらず消えず絶えず、きっとあれこれ思い続けるのでしょう。

それでも今とても喜んでおります。一味同行の方が見える、それはもう間違いないことです。

もちろん、一緒だからって地獄だったりなんかしたら嫌で(笑)「師匠と一緒のところに行けるなら、それでもかまわない」と仰った親鸞聖人は凄い方だったのだなぁと思うのです。

南无阿彌陀佛

●re.21
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 937 ] Re16:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 01:10 △up ▽down
7様

みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにまたうたた難し。

正に、自分ではどうにもなりません。

善知識と雖も、信をとらせることはできず、どこまでも宿善任せのこの道。

すべては、弥陀のお育てがあるからこそ。

この自分もそうであったのだし、皆もそうであったのだと思います。

皆が弥陀向く南无阿彌陀佛。

本当に不可思議でありながら、有り難く思う次第です。

南无阿彌陀佛

●re.22
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 938 ] Re17:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 01:17 △up ▽down
7様

私は近頃、「善知識が、善知識だのみになる」ということもあるのだと考えています。

信をくださるのは弥陀であるのに、その力が自分にあると思ってしまう。

本当に、私たちは凡夫であると思います。

これもまた、宿善任せです。

お手引きも、同じだと思います。

お手引きができるような力は、凡夫には無いと思います。

凡夫に手引きができるなら、弥陀の修行もご苦労も必要がありません。

弥陀の秘けいがひらくのは、奇跡としか言いようがありません。

ただただ、有り難いことです。

南无阿彌陀佛

●re.23
菩提心
非公開の非公開
[ 939 ] Re18:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 07:56 △up ▽down
毎日様

お早う御座います。

毎日様が立ち上げられたこの掲示板。

やっぱり毎日様がいないと盛り上がりませんね。

私は感覚的に、何となく嫌だなとか、自分が無理しているなと思ったら、離れる。

この頃、その方がとっても楽だって気がつきました。

毎日様の、御自分の内面を検討していくお姿。

とてもとても私には無理です。

でも、私はそのような毎日様が、よくよく内観された後の書き込みを楽しみに待っています。

ここは、生きた後念相続の場だと思います。

今、現実の生の声が聞こえる。

とっても有り難いです。

南无阿彌陀佛

●re.24
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 940 ] Re19:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 08:25 △up ▽down
菩提心 様

近頃、私には、「親鸞一人がためなりけり」という御言葉が、ますます有り難く感じられます。

「押し付けるすべての人は、私には無縁なのだ」とも考えるようになりました。

ひとりひとりの南无阿彌陀佛。

弥陀は、何も押し付けません。ますます有り難い彌陀であります。

南无阿彌陀佛

●re.25
酒天童子
関東の非公開
[ 941 ] Re20:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 17:58 △up ▽down
毎日様

こんんちは酒天童子です。

しばらくぶりのお声が聞けて、嬉しいです。

>善知識様ごとに、次第が同じかどうかも、私には、わかりません。

そうですね。考えてみたら、私もわかりません(苦笑)。弥陀のお代官様として私たちに“信心”を橋渡しできるのは、お次第が正しく相承されているからだと、また“一流の法”ともよぶので、勝手に同じだと思い込んでいました。

極道坊主様

こんにちは。

>酒呑童子様、もし御縁があるようでしたら観無量寿経を読まれてみて下さい。

ええと、観無量寿経は一応何度か読んだのですが、よく理解できていません。
すみません。
たしか後半に入って、すぐに三福九品のくだりがありましたよね。
そもそも、後半の内容は“本当に他力の教えなのか?”と最初は思ってしまっていましたが、そうですか。
みな、下品下生で一緒なのですね。それを他力というのですね。
ただ、それでは即得往生ではなくなってしまうような、、。

観経には
その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開
く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、そ
の人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去
る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさと
りを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。

とあるので、十二大劫が過ぎるまではさとりを求める心すら起こせないことになってしまいそうな、、、。

こんな風に解釈してしまうのは読みこみが足りないせいでしょうか?

実は、観経は自分は前半はとてもすんなりと読めるのですが後半に入ると突然、読みにくくなってしまうのです。

はじめはどうしてこんなに文体が変わってしまうのだろうか?と疑問に思いました。

そうして読みにくいながらも、なんとか読み進めていくうちに、もしかしたら前半と後半では編者(あるいは最初に仏説を書き記した人と言ってよいでしょうか?)が異なるのではないか?と思い至るようになりました。

そのうえ、さらに経として成立した時代も異なるのではないか?とも感じたのです。

このことは無量寿経についても上巻と下巻で同じように感じるのは私だけでしょうか?

多分こんな不謹慎な発想をすること自体、とんでもない奴なのでしょうが、凡夫ゆえ湧いてくる疑問に抗えません。

それで、善導大師の観経蔬も2,3度読ませていただいたのですが、私の勝手な思い込みを書かせていただくと、師ご自身も、前半と後半にある隙間をとても注意深く扱っているように見受けられるのです。

ちょっと逸れますが、わたし自身は若い頃“大乗非仏説”の立場を取っておりました。学者の説を読んでいて納得してしまっていたのです。

ようやく信心をいただくことができて、その考えは覆りましたが、一言一句違わずに経典(ご聖教といわれる浄土三部経でさえ)の記述そのままに釈尊ご自身がご説法なされたとは受け取れない部分がままあります。

おそらく、仏説の大意はくんでおられるでしょう。

しかし、たとえば釈尊ご在世のときにはまだ、大乗と小乗の区別すらなかったと聞いております。いや、大乗という言葉自体がまだ生まれてなかったようです。
経典もなかったようです(経典が生まれるきっかけになったのは釈尊入滅後の第一結集からだそうです)。

また、教団自体もそれほど組織されたものではなかったとも学者は言っております。
伽藍を建立するようになったり、仏像を彫るようになったのはだいぶ後世のことであるとも言われています。

また、文献学者によるとほとんどの大乗経典はもっとも古いものでも釈尊滅後少なくとも数百年たっているそうであります。

阿難は博覧強記の持ち主であるうえ、釈尊と多くの時間を共にしていたといわれているため、当初はかなり正確に仏説は護持されていたとも思われますが、数百年にわたって口伝のみでどこまで正確に継承されたかは不明ではないでしょうか?

経典にある語句に後世に流行った多くの文字が多く含まれているからです。

だからといって、私が浄土三部経を偽物であるなどと言っているわけではありません。

さきほども書いたように、大筋では間違っていないとも思います。

これはもしかしたら、単に自分が読みにくいからという理由でこじつけているだけかもしれません。

実際はタイムマシンでも使わないとわからないようにも思います。

自分で感じるままを書きました。
決して仏法を批判しているつもりは毛頭ありません。

>後に、『三願転入』と言う言葉に御縁が有ると思います。

三願転入については以前、毎日様が下記のように書き込みされています。

三願転入の「三願」というのは、弥陀の18願、19願、20願のことです。

「転入」とは、「転じて」「入る」ということで、「転じる」とは、「方針が変わる」ということです。

まずは、19願に入ります。そして、方針が転じて、20願に入る。そして、再度方針が転じて、18願に入る。

このようにして、三願に転入してゆきます。

詳しくは、ご開山(親鸞聖人)の『教行信証』という本の「化土文類」という章に書いてあるのですが、たぶん読んでもよくわからないと思います。

そこで、わり切ってご説明するならば、

19願 → 良いことをしようとする →(ほとんどの人にとっては)自分では無理とわかる→転入

20願 → 名号(なむあみだぶつ)を一生懸命に唱える → 臨終のときまで、浄土に往けるかがわからない →転入

18願 → 真実の行 → 生きている間に救われて、この世から去るときには、あっと言う前に極楽に往くことができる

(さらにその後)→ 浄土に往ったらば、菩薩行をするために還ってくる(22願) → 滅度(悟り)に至る(11願)

私も同じように味わっているのですが、、、。

南无阿彌陀佛

●re.26
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 942 ] Re21:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/03 (Wed) 23:58 △up ▽down
毎日様

はじめまして、極道坊主と申します。

先日より、しばしばHPの方に御邪魔させて貰っています。

皆様のお話から察するに、深いお味わいを戴かれた方の様に感じます。

色々と、お話を聞かせてやってください。 よろしくお願いします。

酒天童子様

自分は、酒呑童子様に謝らなくてはならない事が有ります。

まず、HNを間違えて書き込んでしまった事。 次に、下品下生の部分の書き込みのときに、『観無量寿経』の内容について、事実ではない書き込みをした事です。

以前、ある御老僧の『観無量寿経』をテーマにした御法話の内容が、大変面白く「へ〜ぇっ。」と、頷かされるものが有りまして心に残っておりました。 それを混同して書き込んでしまいました。 大変申し訳有りません。

酒天童子様は、ご自分を浅学非才と謙遜されておられますが、物凄い量の文献を読み込まれているのですね。 

其れに比べたら、自分は一文不知なのかもしれません。 「門徒物知らず。」の喩えは自分に当て嵌まります。

もし、違っておれば訂正をしますが、『観無量寿経』というお経には、他力の内容はかかれていなかったように思うのです。 

三願転入というところで、師僧より聞かせて貰った内容には、『観経によって、「法も自力、機も自力」の自力の中の自力の信心をあらわす。』と、戴きました。また、『観経は、真実の信心に向けての「方法便宜」という方便の教えです。』ともいただきました。 
でありますから、「下品下生で一緒なのですね。それを他力というのですね。」と、いうのではないと思います。(ごめんなさい、聴いて感じた事をそのまま書いています。)

以前も書き込みました様に、自分は本当に勉強が嫌いだった分、学歴を身に付けておりません。 

上記の如くですので、読書も好きでは有りませんでした。 故に、酒天童子様の書き込みを興味深く読んで居ります。 

佛教史的な内容にも興味を持っておりましたし、佛教の色々な事を知りたいと今でも思っています。 

ただ、其れ程までの知識と、文献、言葉の球数を持っておりません故に、貴方様の書き込みに対して、適切な対応が出来る程の力量がございません。 真に申し訳有りません。

でも、そんな自分が師匠のお育てにより、思い返せばその『三願転入』と、いわれる道程(みちのり)を親様の処まで導いて貰い、いざの時には後押しを掛けて貰い、いよいよ親様と巡り会える事が出来ました。その時まで一緒になって味わって下さった師の導きがあればこそです。

時には厳しく、時には厳しくではありましたが、常に優しさが感じられました。(今思い返せばです。 その時は不良少年の自性が露骨になっておりました。 反発心は人一倍旺盛です。 でも、掌の上だったような?)

師を仰ぎ、師の先に聖人様を仰ぎ、遥か向こうに阿弥陀様を仰ぐ。

『聖人様も、師匠も阿弥陀様の御化身で有りました。』と、戴いております。

其の師匠は、「生易しい事で戴ける程の容易い(たやすい)信心じゃぁ〜あるかい!!!」と、口癖のようによく言われてました。(他力易行といわれますのにねぇ?)


『自信教人信 難中轉更難』という廻向文有ります。 

自分が佛弟子にして貰った時に、或る高僧からお祝いの言葉で戴きました。

直訳すれば、『自ら信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにまたうたた難し。』と、読めますが、その高僧はこの様に教えて下さいました。

『自らが信じる事は、其れは々難しい。難中の難であります。其の信を人に勧めて信じせしめるのは難中の難より更に難しい。』『しかしですな、其の難解の信を佛様より賜りますんです。』『この賜りました信心の喜びを伝えて行く事が、ご恩報謝です。』『この後にこの様に続きます。『大悲傳普化 眞成報佛恩』 大悲を普く伝える事が、まさしく真の佛恩を報ずる事になるのです。』と、仰られた事を記憶しております。(半分、居眠りをしていましたが。)

それから4日後、其の高僧の還浄の知らせを聞き、自分にとって本当の意味での遺訓になりました。

『一念帰命』と、いうのですか? それを体験させられた時、その場で佛様に救われて全てをお任せすると聴いております。皆様も同じのはずですよね? で有りましたら、それから以降に起こる自分自身の妄念、煩悩さえも全てお任せで宜しかろうと思います。 自分の内証を見つめ返すことは、とても大切な事と思っています。 自分も再々反省する事が有ります。(無理やり、女房に反省させられる事も。)

でも、自身が凡夫である以上、死ぬるが死ぬるまで尽きる事無く、浮かんでは沈み、沈んではまた浮かんできます。 

先の師匠は、この様に申されました。
『後の事は、如来様が何とかして下さる。 其れを信じて、あんたは如来さんの勧める事をさして貰えばええ。』 なんとも、力強いです、心強いです、有り難いです。

『何かさせてもらわねば。』と、いう気を賜ります。

その様な想いに育てて貰った自分を見て、嫁が手を合わせ御念佛を称えてくれます。

子供達が『パパはまんまんさんなあんじゃけぇ〜。』と、いってくれます。

真宗の教えを、本腰入れて聴いたことのない者達がです。 これは、真に不思議です。

『生活に生きてこん信心が、何の役に立つんかゃ〜。』

自分の師匠の其のまた二代前の師匠から受け継がれた、深い意味を持った言葉でありまして、『其の通りであります。』と、頷かずにはおれません。

酒天童子様

自分が書き込める内容は、こんな話しか有りません。

また、遅筆故に時間が掛かりますが、お許しくださりこれからもお付き合い下さい。

そちら様の意に添えぬ書き込みでもうしわけありません。     合掌

●re.27
酒天童子
関東の非公開
[ 945 ] Re22:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/04 (Thu) 22:22 △up ▽down
極道坊主様

こんばんは、酒天童子です。

>もし、違っておれば訂正をしますが、『観無量寿経』というお経には、他力の内容はかかれていなかったように思うのです。 
>三願転入というところで、師僧より聞かせて貰った内容には、『観経によって、「法も自力、機も自力」の自力の中の自力の信心をあらわす。』と、戴きました。

やっぱり、そうですよね。確か毎日様の過去ログにもそういうくだりがあったように思いますが、どこだったか思い出せません。

>また、『観経は、真実の信心に向けての「方法便宜」という方便の教えです。』ともいただきました。 

善導大師も観経蔬の散善義において、観経の定善、散善は方便であるという論を展開していたようにも思います。
結論として定善、散善ともに廃し、ただただ念仏を立てていたと解釈しております。

>酒天童子様の書き込みを興味深く読んで居ります。 

恐縮です。大したことは知らないし、書き込むこともできません。

自分自身は信心をいただいて日も浅く、それまでは真宗の知識は全くといっていいほどなかったので、勉強のつもりで毎日様の過去ログを読ませていただいています。

本来ならばこのような場に書き込みをできるような者ではありません。

金剛心様からも先に、浅学の者、とお達しをいただきましたし、自分でも本当にそうだと思っております

いつも、余計な書き込みや、ピントはずれな論を展開しては、できれば毎日様に訂正なり削除なりしていただきたいと反省しております。

私自身としては、しばらくは毎日様の書き込みを繰り返して読んでいました。
非常にわかりやすく書いてくださるからです。
基礎的知識のない者にもわかるように噛み砕いてくださっていると思います。

最近は泥凡夫様の書き込みをいつも何度も繰り返し読みます。
引用等幅広くて一度では理解できないからですが、泥凡夫様の説明は難しい内容を私のような者にも理解できるように極力わかりやすく書かれているように思います。

また、異なる解釈をする者や自分も疑問に思うような質問に懇切丁寧に答えてくださっているからです。

だから、今の自分にとっては一番勉強になっていると感じています。

>『聖人様も、師匠も阿弥陀様の御化身で有りました。』と、戴いております。

私は今時点ではできませんが、いつかすべての人々(生きとし生けるものすべて)が阿弥陀様のご化身であると思えるときが来れば嬉しいと願っております。

ただ、今はどんなに自分を気にかけてくれていたり、想ってくれている人に対してもたびたび文句をいったりしている自分がいます。

>『自信教人信 難中轉更難』という廻向文有ります。 

うーん。難しいですね。実感もできませんし、そのようにできる自信もありません。
“自身難自信”であります???

>でも、自身が凡夫である以上、死ぬるが死ぬるまで尽きる事無く、浮かんでは沈み、沈んではまた浮かんできます。

私自身はそれでよいと思うのです。

もちろん、満足している、という意味ではありません。

前にも書きましたが、私たちは振り子のようなものです。

いつも右から左に、浮かんでは沈み、善から悪に、謙虚から驕慢に、喜びから悲しみに、高揚から落ち込みに、などなど振れているものです。

それを無理やりいつも善にとか謙虚にとかにとどめようとするのは、振れている振り子を片側だけに振らそうと努力するようなものです。

そうした努力はどういう結果をもたらすか、一歩下がって眺める気持ちさえあれば、ちょっとした事があったからと言って、それほど気にもならなくなるのではないでしょうか?
 
>『生活に生きてこん信心が、何の役に立つんかゃ〜。』

これも難しいですね。

ただ、一つ言えることは自分自身の日常というものの捉え方は確実に信心をいただいた後は変わってきていると思います。

それでもって、生活に生きているかは今はわかりませんし、役に立っているかも自信はないです。

わたしは至らなくともこういう場所で所信を書かせていただいて同行の方々に読んでいただいて、それに対してなにがしかの意見を言っていただけるだけでありがたいと思います。

知識があるとかないとか理解が深いとか浅いとか、ましてや的確に応答しているかということは大した問題ではない、と実は思っています。

かかわりを恐れないこと、行動をためらわないこと。

誤解や批判や非難、そういったものにとらわれないことのほうが、我々には大切であり、また難しいことでもあるのかと、感じます。

南无阿彌陀佛

●re.28
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 947 ] Re23:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/06 (Sat) 00:09 △up ▽down
酒天童子様

こんばんは、お返事有難うございます。 極道坊主です。

書き込みに対しての、御意見並びに御感想を戴きまして有難うございました。

自分は、本願寺の系統で学ばせて貰った者では有りませんので、皆様とお話の内容が喰い違う点???があるかもしれません。(表現が適切ではありませんので申し訳ないのですが。)
しかし、間違いなく聖人様の残して下さった、真宗の教えを学ばせて貰う者です。

故に、同じ所を味合わせて貰っていると感じます。

>『善導大師も観経蔬の散善義において、観経の定善、散善は方便であるという論を展開していたようにも思います。
>結論として定善、散善ともに廃し、ただただ念仏を立てていた。』

酒天童子様が、この様に申されます事、自分も同じ味わいで有ります。

実を申しますと、酒天童子様の書き込みを読まして貰っている時、『この方は、ちょっと怖い感じの方だなぁ。』なんて思っていました。 其れと同時に、『自分の心に、正直な方だ。』とも感じました。

自分の様な知識の浅い者が書き込みをして、実際相手をして貰えるものか、どうかの不安がどこかに有りました。 なので、返事を貰えた事、とても有り難く思います。
詰まらない問題なのかもしれませんが、一つの不安がなくなりました。

人は、些細な事で心が揺れ動きますね。 本当に。

不安の解決と共に、何か、自分の若かった頃の性格を思い出し、酒天童子様に懐かしさを感じてしまいました。(失礼なことを書いてしまいました。)

でもやはり違うのは、熱心に取り組まれている事で、自分より遥かに多くの書物等を学ばれている事です。

自分も、このサイトを知る事で、毎日様や泥凡夫様の過去ログを読ませて貰う機会を戴きました。
解り易く、丁寧に書かれておられ、有り難く思います。 でも、自分は本当に活字が駄目なのでしょう。 読んでいる内に眠たくなり、何度も目を擦りながら呼んでいる次第です。(睡魔に負けて、途中で断念する事もしばしば。)
申し訳ないです。

>本来ならばこのような場に書き込みをできるような者ではありません。

いえいえ、どしどし書き込んで下さい。 自分の様に、楽しみにしている者もいます故。

>先に、浅学の者、とお達しをいただきましたし、自分でも本当にそうだと思っております。

浅学かどうかは、自分たちの判断では解らないと思います。 浅学とは、佛様と比較すれば私は遥かに浅学です。 佛様は無学(既に学ぶことが無い。)であります故。

何と、誰と比較して浅学なのかが不明でして、『人夫々、其の時、其の場に丁度良いだけの智慧を与えられているのだ。』と、感じておりますので、まったく以って腑に落ちない発言と感じます。

比較というのは、相対世界の話で有りましょう? 佛の教えは絶対の教えであるのだと感じております。

『相、対するものの無い世界を自分達に教えて下さっておる。』のだと聴いております。

凡夫の理解できない世界を、『南無阿弥陀佛』という方便で以って、了解(りょうげ)させられるのだと感じます。 其の世界に、深い浅いは無いのでしょう。 多分。

だから、気にすることも無いのでしょう。 蔑む者には、自分という者が相手にそう映っているという事です。(其れも偏見という名のフィルター越しです。 事実なのかどうかも疑問です。)

「ご自分の尺度なのでしょう。 その方はメートル法でも、自分は尺貫法です。 基本的な長さが合いません。」で、宜しいかと思います。 Ahaha!!!

>『聖人様も、師匠も阿弥陀様の御化身で有りました。』と、戴いております。

佛様というお方は、本当はいろんな方々を御化身として遣わして、自分を救って下さる様、手段を張り巡らしておられるのでしょうが、(たとえが悪いですねぇ〜。)自分は正しい目を持たんが故に、都合で振り分けて居るのでしょう。

自分は、今でも都合で振り分けています。

過激な性格故に、敵対する者はとことん追い詰めていました。(今でもあるかもしれません。)

生まれてから、教えに出遭うまでに築きあげられた性格というのは、一朝一夕ではどうにもなるものではないと感じます。

>私自身はそれでよいと思うのです。

>もちろん、満足している、という意味ではありません。

>前にも書きましたが、私たちは振り子のようなものです。

>いつも右から左に、浮かんでは沈み、善から悪に、謙虚から驕慢に、喜びから悲しみに、高揚から落ち込みに、などなど振れているものです。

>それを無理やりいつも善にとか謙虚にとかにとどめようとするのは、振れている振り子を片側だけに振らそうと努力するようなものです。

>そうした努力はどういう結果をもたらすか、一歩下がって眺める気持ちさえあれば、ちょっとした事があったからと言って、それほど気にもならなくなるのではないでしょうか?

はい、其の通りだと思います。

振り子の喩え、判りやすいです。(それ、戴いていいですか?)

佛様の掌に載せて貰ったのですから、後の事はお任せしようと思います。

それでも以前は、『教えを聞いたのだから、慎ましく、謙虚に。』と、思って毎日を送っていました。
今迄、散々反社会的行動をしてきた者がです。

そりゃぁ〜詮無かった。(しんどいといった方が通じるんかな?) また、周りの目がやたらと気になったりしていました。 周りも疑いの目ですよね。

師匠はそんな自分を見て、『佛様はのぉ〜、お前に良くなって来いとは云うっちゃおられんので。』

『其の侭、来いって云われとるんじゃ。』

『其の侭云うたら其の侭よ。』

『有りの侭で来いっていわれるんじゃ。』

『お前如きのそんな付け焼刃で助かるもんじゃぁ御座いませんよ。』と、おっしゃいました。

その様に聞いても、聞かせて貰っても、言葉は理解はしたものの判っちゃいませんでした。

『善も欲しがらず、悪をも恐れなし。』と、云うことなのでしょうか?(違ってましたら御指摘ください。)

生活の延長線上に、宗教としての知識の御念佛があるのではなく、(足掛かりとしては賛成です。)『信心の御念佛が其の侭生活になるねばの。』と教えて貰ってます。

『学問して、知って、解っての先にある信心ではない。 法(信心)が生活になれば不安は薄くなるよ。』とは、師匠の言葉。 本当に世渡り下手で生きるのが嫌に成ってた時に聞かされた言葉です。

>ただ、一つ言えることは自分自身の日常というものの捉え方は確実に信心をいただいた後は変わってきていると思います。

確かにその通りだと感じています。

何かある一点といいますか、一時期といいますか、信心の関所と表したらいいのか?(表現下手ですね。)そこを、潜らせて貰った時から、見えている物は多分、同じ物なのに見え方が変わって来た様な気がします。

「方向が変わった。」と、云うよりも次元が変わったといった方が良いのでしょうか?

それが、以前とは違った形で生活に関わって来ている。 というよりも、そのものが生活と取って代わったように感じます。

その、生活の有り方を見て、子供達が真似をしてくれています。(形ばかりですが。)

『常に法に生きよ。』 師匠の師匠、そのまた師匠が残された言葉です。 それを、「まことであります。」と、信じて生活させて貰っている者です。

自分の感じている味わいは、今の時点でこの様なものです。(文字で心を表せ切れませんのですがお許しください。)

この度も、取り留めの無い書き込みで申し訳有りません。   合掌

●re.29
菩提心
非公開の非公開
[ 948 ] Re24:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/06 (Sat) 09:51 △up ▽down
極道坊主様

お二人の中に入ってゴメンナサイ。

もう一度、じっくり極道坊主様のお書き込み拝読させて頂きました。

そこで、ちょっと気になってしまいました。

>『一念帰命』と、いうのですか? それを体験させられた時、その場で佛様に救われて全てをお任せすると聴いております。皆様も同じのはずですよね? 

ここの点なんです。

私は、御文を通して、泥凡夫様や毎日様に導かれてきました。

そして、六字の謂れを御聞きして、六字の姿になる、これはこの毎日のHPの冒頭でも書いてありますが、「非行の行」を、極道坊主様はどのように捉えられますか?

皆様も同じのはずですよね?って問われておられるので、
私、逆に御聞きしたくなりました。

済みません。
本当に私って、感覚的な人間なんで、思考力はあまりないんです。

ただこの頃、少し思えてくるのは、全て南无阿彌陀佛の六字に納まるんだな〜って感じることです。

今、色んな御著書をパソコンに取り込んで、楽しんでいますが、でもこれは私の趣味みたいなもんです。

きっと、死ぬ時には、そういうものも全部捨てて、最終的に六字に包まれて死んで行くのだと思います。

きっと、どのような死に方をしようが、私のはからうことではないのだと思います。

>『常に法に生きよ。』 師匠の師匠、そのまた師匠が残された言葉です。 それを、「まことであります。」と、信じて生活させて貰っている者です。

この御言葉も気になるんです。

極道坊主様と私とは少し違和感が有ります。

私は、信じて生活させて貰っているっていう思いではないんです。

信じているのではなく、もう体中で信じさせられているように思えます。

だって、信じる心など私には持ち合わせていないからです。

その持ち合わせていない私が信じられたんです。

だから、私はそれが不思議だと思います。

随分、勝手な書き込みお許し下さい。

南无阿彌陀佛

●re.30
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 949 ] Re25:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/07 (Sun) 00:20 △up ▽down
菩提心様

いいえ、ここは皆様のサイト。 自分がお邪魔している格好で有ります。

ならびに、色々な御指摘を戴きまして有難うございます。

皆様に「御面なさい。」を、云わなければ成りません。 この毎日様のサイトに書き込まれる方々は、佛様と一体に成られた方々で有りました。

当方の、言葉をよくよく吟味しない不注意で誤解を招いたのか、それとも自身の信心がまだまだ至っていないせいで不用意に書き込んでしまったのか、自分では判断に及びません。

後に、自分の心持を書いてみようと思っております。

もし、「この様な場所が、ここが違う。」と、感じられる点が有りましたら、改めて御指摘くだされば嬉しいです。

また、自分は酒天童子様のところで書き込みましたが、本願寺の系統の者では有りません。 蓮氏の御文章は、信心に至るまでの者にとって、また、信心を戴かれました方々にとっても有用(表現が変ですか?)なものと聴かして貰ってます。 ただ、師匠からはあまり重点を置いて聴かせて貰って居りませんでしたので、蓮氏の御文章ににつきましては、甚だ疎う御座います。 申し訳有りません。

もし宜しければ、縁有るごとに御教授ください。

>『一念帰命』と、いうのですか? それを体験させられた時、その場で佛様に救われて全てをお任せすると聴いております。皆様も同じのはずですよね? 

>ここの点なんです。

>私は、御文を通して、泥凡夫様や毎日様に導かれてきました。

>そして、六字の謂れを御聞きして、六字の姿になる、これはこの毎日のHPの冒頭でも書いてありますが、「非行の行」を、極道坊主様はどのように捉えられますか?

その問いに答えましてですが、今回も文献のどこを紐解いて良いのか判りません故、自分の変なたとえ話では有りますが、記したいと思います。

自分は喩えて云うなら、「カカオ100%のチョコレート。」だと思ってます。(以前はです。)

とても癖が有り、また苦さもとても激しいので、万人に好まれるような代物では無かった様に思います。 どんなに飾ってパウダーシュガーをかけようとも、本質が苦いので好まれることは少ないと思います。 喩えが良くないかもしれませんが、世渡りをして行くには損な性格であることは薄々気が付いていました。

でも、「自分は自分。」と思い込みながら、(覚悟が出来ていたのではなかったのですが。)「世間の人々とは、違うんだ。」という考えで通ってきていた様な感じです。

そのうえ、「良くない事の原因は、全て他にある。」と、人のせい、物のせいにし、良い事が起これば、「自分のお陰。 自分の貢献した成果による。」と、自分の都合の良いように云い振り回る、他に知って貰おうとアピールする。 そんなえげつない、汚い人間でした。

その様な者は、人々から疎まれ、退けられ、相手にされなくなります。

他との隔絶は、とても苦しいものが有り、「人生80年といわれる時代に、この様な気持ちで残りの50数年の人生を、どの様に生きればよいのか?」と、いう疑問が頭から離れなくなってしまいました。 「何とかせねば。」と、いう気持ちは起こりましたが、何をどのようにしてよいのか解らなくなりました。

其れがきっかけの一部に有りましたので、ある事柄を縁として知り合わせて貰った師匠さんに、教えを請うことにしました。

上記に記しました気持ちは、師匠に佛様のお話を聞かせて貰い乍、自分の心に起こる多々の気持ちを徹頭徹尾、指摘して貰いましたので、後になって気が付かされた次第です。

自分の自性がハッキリと知らされ、その者を救ってくださる佛は、『阿弥陀様しかいない。』と、気が付かされた時、信心の関所といいましょうか、関門(意味は一緒でしょうか?)を通らせてもらうのだと感じています。

で、先ほどの「カカオ100パーセントのチョコレート」の喩えですが、今の時点では次のように感じています。

佛様と名乗りが挙がるといいますか、信心がハッキリするといいますか、その様な体験を経ると、頑なになっていた自分を一度蕩けるほど柔らかくして下さり、佛様の柔軟なお心もちが混ざり合い、『佛様と自分が一緒に成る?佛様が自分に成って下さる?』という想いにさせて貰っています。 「佛様が自分に入って下さる。」というのでしょうか? 乾いたスポンジに水が浸み込む如くにです。

状態の喩えとしては、バレンタインの時に作られたでしょうか?材料のビターチョコと砂糖、ミルク、生クリームを混ぜ再度固まらせた状態。 自分がチョコで、佛様が砂糖、ミルクと生クリームでしょうか。

今更に、分離しようと思っても分けられない状態というのでしょうか。 「一体として貰った。」と、云う味わいをいただいております。 佛様が自分で自分が佛様? 佛様と一心同体とさせて貰う?(言葉知らずで申し訳有りません。 なんと表現してよいか?)

子供の工作のように、セロハンテープで貼り付けたロボットのような物では有りません。

些細な事で分離してしまう程、軟な信では無いと思います。 一体と合体は違うものだと知らされます。

この様な想いに育てて貰うまで、「一念帰命を体験させられた時、その場で佛様に救われて全てをお任せする。」と、教わってきました。

しかし、その師匠様も最近は自分にむけてその様に仰られる事はなくなったことに気が付きました。 今にして思えば、「其の場に導くための方便だったのかなぁ。」とも感じています。(言い訳染みていますね。 かっこ悪いです。)

>『常に法に生きよ。』 師匠の師匠、そのまた師匠が残された言葉です。 それを、「まことであります。」と、信じて生活させて貰っている者です。

はい。 説明不足である故に誤解を生じさせました。 申し訳有りません。

自身、上記の如く味合わせて貰っていますので、『自分が「信じる。」という心を起こした時には、先回りして佛様が自分にその様に思える状態を造って下さり、発心する様に手立てを仕掛けてくださっている。』と、感じています。 『信じる心も、またそれ以外の色々な事も、佛様の御手回し故自分の方には何一つ無い。』とも、感じさせられます。

私の方には、何一つとして講じる手立てが有りません故、『非行』といわれるのでしょうか?(違って居れば御指摘ください。)

私を仕掛けて、私を動かし、私の心に信を授けて下さったのが阿弥陀佛といわれる佛様だと戴きます。 で、ありますから、

>私は、信じて生活させて貰っているっていう思いではないんです。

>信じているのではなく、もう体中で信じさせられているように思えます。

>だって、信じる心など私には持ち合わせていないからです。

>その持ち合わせていない私が信じられたんです。

>だから、私はそれが不思議だと思います。

と仰る事に、首を大きく縦に振って頷けるのです。

ただ、自分の場合、『信じる力等、自分のどこを探しても無かった。』と、ハッキリ気が付かされたのは、佛様の信が届いてからだったような気がします。

救って貰いながら、喜びを味合わせて貰いながら、また反省させられながらその全てを同時に進行させられる佛様のお力に感服する次第です。

『常に法に生きよ。』の先師の言葉、『凡夫は常に御念佛を忘れる者しかない。』と、いう戒めも込めておられるのだと感じます。(戒めと書き込めばまた違和感をあたえてしまうかもしれませんが。) 其れらのお言葉も、後になれば「その様な清浄な心は持ち合わせてなかった。」と、気付かされ、味わいを深めて貰えるのだと感じます。

先師方の残された一つ一つの言葉には、その奥に隠された味わいが、見る人の数だけあるのだと思います。

皆様にといいますか、人に言葉や文字で伝えて行く事、物凄く難しく思います。

「誤解を招いては。」とも思いますし、「他人を嫌な気持ちにさせてはいないか?」ともおもいます。 しっかりと吟味した上で言葉を選んでいるつもりですが、お顔が拝見できない分、慎重になります。

夕日の美しさを表現し、人に伝える術は色々あります。 写真を撮って見せる人あり、水彩画を書く人有り、曲に載せ歌で表現する者もいれば、詩を作り言葉で表現をするものもおられる。 しかし、どれをとっても夕日の美しさを丸ごと表現は出来ていないとおもいます。

言葉で伝えねばならない不完全さをどうかお察しください。(自分の勉強不足は、棚上げですね。 すみません。)

また、取り留めの無い話になりました。

『非行の行』については、また後日でも宜しいでしょうか?

投稿のときは、いつも緊張してしまう不甲斐無い自分がいます。 それもやっぱりじぶんです。       合掌

●re.31
菩提心
非公開の非公開
[ 950 ] Re26:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/07 (Sun) 14:06 △up ▽down
極道坊主様

お返事有難うございます。

極道坊主様もようやく本心というか、飾らずに書き込んで下さって有り難いと思います。

投稿は、きっと皆、緊張していると思います。

自分の考えに同調してくれる人ばかりではないからです。

逆に全否定されてしまうかも知れません。

ましてや、自分が信仰しているものならば、尚更です。

でも、このように誰が見ているかも知れない掲示板を通して、私は導かれてきました。

正直、何度も何度も書き込みを辞めようと思ったか知れません。

しかし、お陰様で続いてこれたからこそ、今の私がおりこのように極道坊主様ともお話する機会に巡りあう事が出来、これも毎日様のお陰だと思います。

今、パソコンを開けて、お返事が有りましたので取りあえず、お返事書きました。

又、じっくり読ませて頂きたいと思います。

有難う御座いました。

南无阿彌陀佛

●re.32
菩提心
非公開の非公開
[ 951 ] Re27:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/07 (Sun) 11:49 △up ▽down
極道坊主様

>蓮氏の御文章は、信心に至るまでの者にとって、また、信心を戴かれました方々にとっても有用(表現が変ですか?)なものと聴かして貰ってます。 ただ、師匠からはあまり重点を置いて聴かせて貰って居りませんでしたので、蓮氏の御文章ににつきましては、甚だ疎う御座います。

まず、御文の件です。

私は、上記にも書きましたように、常に御文を拝読されるように言われました。
この掲示板にも、毎日様も最低3回は読んで見ましょうと書かれておられます。

又、このような掲示板に初めて書き込んだ時の泥凡夫様のご返事です。
[ 500 ]讃嘆・味わい・歓喜の中の泥凡夫様のお書込みを是非、読んで頂きたいと思います。

私は、「実語相承・次第相承の善知識」・「改悔文」・「割符を合わす」の御言葉も???でした。

善知識の御言葉は知っていました。又「領解文」の御言葉は知っていました。しかし、その領解文と改悔文の御言葉が一緒だとは知りませんでした。
ましてや、割符って何だろうと思いました。

でも、泥凡夫様も自信教人信様もお互いに割符の御言葉を使っていました。

『「抑止文」があることから御推察下さいませ。』に至っては、全く分りませんでした。

何故か分りませんが、どうしても読んで見ようと思いました。

そして、今はその割符の御言葉のように、御文の内容が分ってくるようになりました。

極道坊主様は、御文章は疎う御座いますと書いてありましたので、ここに書いてみます。

味わいの場所にも書きましたが、

国会図書館の近代デジタルライブラリー http://kindai.ndl.go.jp/index.html

の「御文講話(大行寺信暁師)」にも最初に詳しく書いてありました。

私は、又、蓮如上人が親鸞聖人の再来と御聞きしてビックリしてしまいました。

しかし、このように書いてある御著書もありました。又御一代記聞書にも記されております。

又、親鸞聖人も蓮如上人も弥陀如来の化身とも記されております。

そして、同じ様に私は、毎日様や泥凡夫様もそのようなお方だと思っています。

救われた人は、同朋をそのように尊く思うようにとお勧めの場所もありました。

御文の1帖目1通の中の「聖人は御同朋御同行とこそかしづきて仰せられけり」と尊んでおられます。

善知識は、阿弥陀如来の御代官であるからして、一言一句も私事を交えず、お伝えしているから、間違えずに我々末法の世にも伝わって来たのだと思います。

そして、平成の世で私も又、宿善開発して、信心決定の身にさせて頂けたのだと思います。

又、御一代記聞書には、「御文は如来の直説なり」と存ずべきの由に候「形をみれば法然、詞を聞けば弥陀の直説なり」といへり。

それを、私はこの掲示板の毎日様や泥凡夫様のお書込みも同じ様に思えます。

何故なら、助かる縁なき私もこのように毎日様、泥凡夫様を信じて来たお陰で、今は同じ喜びの中で生活させて頂いています。

しかし、又このようにも御一代記聞書には書いて有ります。
「御文の事、聖教は読み違へもあり、心得もゆかぬ所もあり、御文は読み違へもあるまじき」と仰せられ候、御慈悲の極なりこれを聞きながら心得のゆかぬは無宿善の機なり」

同じ様に、この掲示板で心得のゆかぬ人は無宿善の人かも知れません。

無宿善、力及ばず。

しかし、どうしても助かりたいと思う人にはもうその門は開かれているのです。

宿善が有るか無いかは、私達には計る事出来ませんが、私はこの掲示板が存在している事がとても有り難いです。

思った事を書きました。

このように書けましたのも、極道坊主様のご返事が有り難いと思ったからです。

若し、教義的に不審な事は、そのほかの人にお尋ね下さい。

眠たいでしょうが、毎日様や泥凡夫様の書き込みをよくよく読んで下さいますと私のような者の説明も要らないと思います。

南无阿彌陀佛

●re.33
酒天童子
関東の非公開
[ 952 ] Re28:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/07 (Sun) 21:37 △up ▽down
菩提心様

こんばんは、酒天童子です。

>又、親鸞聖人も蓮如上人も弥陀如来の化身とも記されております。
>そして、同じ様に私は、毎日様や泥凡夫様もそのようなお方だと思っています。

わたしはすべての人が(菩提心様含め)、阿弥陀如来のご化身であると思えるようになりたいと願っております。

>しかし、どうしても助かりたいと思う人にはもうその門は開かれているのです。
>宿善が有るか無いかは、私達には計る事出来ませんが、私はこの掲示板が存在している事がとても有り難いです。

菩提心様のこのお心、簡単に伝わりそうなこのお心が一人でも多くの読者の方々の心に実際に届くように!

菩提心様は”直感的”という言葉をときどき使いますが、感のするどい方であると察します。

極道坊主様、菩提心様と袖すり合わせてくださいませ。

南无阿彌陀佛

●re.34
酒天童子
関東の非公開
[ 953 ] Re29:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/07 (Sun) 21:45 △up ▽down
極道坊主様

こちらこそ、お返事ありがとうございます

怖い感じをお与えしたのは、自分の至らぬところでございます。若いころはとっつきにくい、とはよくいわれました。

でも、少しだけでも和らいでもらえたなら嬉しいです。

私は努力して本を読んでいるのではありません。

ただただ、知りたいだけなのです。

生まれつき疑い深かったようで、大人の説明にも素直にそうなんだとは思えず、“何で?”を連発していた子供だったそうです。

どんなことも、自分なりに納得いくまでにとても時間がかかります。

また、いろいろな角度から突っついてみて、ちょっとでもおかしいと思うところがあると、引っかかってしまってまたあれこれと根拠や証拠になるようなものや納得できるような考えや論拠を探し出すのです。

困ったものです。

結構しつこいのかもしれませんね(苦笑)。
あきらめが悪いです。

この歳になってようやく、簡単に人と衝突はしなくなりましたが、心の中まで同調しているわけではないことが多いです。

大人に成りきれていないようです。

ところで、振り子の譬えですがこれはもともと“ダデウスゴラス”という人がたとえているのを引用したものです。

この話が出たので、森羅万象の陰陽についてすこし話します。

暦(今の暦は間違っているかもしれないという論議はおいといて)というものはでたらめに成立しているわけではなくて、ある法則にしたがって運行していきます。

たとえば、もうすぐ冬至ですが、冬至に近い甲子(きのえね)の日をもって通常陽遁という陽の流れになります。

今度はそれが夏至に近い甲子の日をもって陽から陰にかわります(陰遁)

それぞれがおおよそ180日を一期として60日づつ分けて上元、中元、下元といいます。われわれはお中元で贈り物をしますよね。

いまは時期がちょっとずれますが、そこからもともと来ています。

何が言いたいのかというと、一年は陽から陰、陰から陽に移ります。

同じように月ごとにも日ごとにも時間ごとにも陽から陰へ、陰から陽へと果てしなく移っていくのです。

還暦はごぞんじでしょう。

干に10あり、支に12ありです。合わせて60通りの組合わせがあります。

干の半分は陽、半分は陰、支の半分は陽、半分は陰です。
きのえ、きのと、ひのえ、ひのえ、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと
“え”で終わるのが陽、“と”で終わるのが陰です。

子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥

ご存じ十二支です。子が陽、丑が陰、その後交互に繰り返します。
だからって、これになんの意味があるの?って、多くの方はおもわれるでしょう。

実際、私も当初、何も知らない頃そうは思いました。

しかしながら、人は自分の生まれた瞬間の陰陽の質量(この表現が適切かどうかは別としてユングはこんなふうに使っていたような)を背負って、ほとんどの人がいわゆる“占星盤”に書かれたとおりの人生を歩んでいくわけで、この陰陽の運行に意味がないわけではないことは、その分野にちょっと(国会図書館に足を運ぶのを面倒がらない程度の熱意がある)突っ込んだ人なら知っていることです。

書き込み方が逆ですね。その人々が歩んでゆく人生を占星盤によってあらかじめ知ることができるというほうが正しいのでしょう。

実はこの考え方のもとは中国の思想と仏教から来ています。

仏教には宿曜経というお経の一群があります。
そこにはこういう概念がいたるところに見られます。

宿曜は主に二十八宿を指します。これは簡単に言うと月の満ち欠けを表します。これにももちろん、陰と陽があります。

ただ、これらはいまでは真言宗くらいしか取り上げないかもしれません。

オタッキーな人は神田の古本街で見慣れない古書を探り当てるかもしれませんね。

こんな話をはじめると、止まらなくなります。もう止めますが、、、。

ずれたついでです。

この世界はどうやら二極によって成り立っているらしいことが、最近の物理学からわかってきました。とはいっても、どこまで理解されているかは不明ですが、、、。

簡単なところでは、電荷はプラスとマイナスです。

数学はすべて0と1の二つの数字だけで表現できます。

原子は陽子と電子からなりたっています。

素粒子は物質と波(非物質)の両方の性質を併せ持っているようです。

また、光子やニュートリノなどは質量をもたず、時間的な経過の影響をどのように受けているかも不明です。質量、時間さえも固定していません。

超ひも理論によると、やはり開いた系と閉じた系に結局は二極化するようです。

相対論でよく言われるミンコフスキーの四次元方程式では、空間と時間の関係が虚数を介して鮮明になってきます。

わたしたちは二極化された世界(娑婆ですか?)に落とされている(好んで来ている?)のです。そうは思いませんか?

だから、そこにいながらそこから抜け出そうなんて思うのは、振り子の上にいながら片側だけに振れたいなんて願っているようなものだ、と言いたかっただけです。

ながながとご免なさい。くどいですよね。

おそらく皆さん、せっかく読まれている方々も飽き飽きしたと思うので、やめにします。

極道坊主様、参考になる考えがあれば遠慮なくお使いください。

だらだらと申し訳ありません。

南无阿彌陀佛


●re.35
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 954 ] Re30:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/09 (Tue) 01:49 △up ▽down
酒天童子様

お返事有り難く存じます。

既に、自分の書き込みは教義の面から外れているように思いますので、このスレッドに追加して良い物かと少々悩んでいます。

>極道坊主様、菩提心様と袖すり合わせてくださいませ。

はい、既に他生に於いてご縁が有ったのだと信じずには居れません。 出なければ、このサイトをご縁としてお話し合いも出来てはいなかったでしょう。

そんな事を考えながら、ご縁の因を追って行きますと、皆様のご苦労を感じずには居れません故、感謝の御念佛が出て来て下さる次第で有ります。

また、色々な事を書いて下さり、興味深く、楽しみながら読ませて貰いました。

>若いころはとっつきにくい、とはよくいわれました。

>生まれつき疑い深かったようで、大人の説明にも素直にそうなんだとは思えず、“何で?”を連発していた子供だったそうです。

酒天童子様、貴方の性格はやはり自分に似ています。 そっくりです。

小さい時分に言われた事、また興味を引かれると徹底的に調べなければ気が済まない性格など、「自分の記憶ではないか。」と、思えるくらいです。 何か懐かしさを感じてしまいます。

自身も未だに、子供のまんま。 成長の無さに呆れる位です。

干支のお話、陰陽のお話、自分の知り得ない所まで聞かせて下さり有難うございます。

支の方については、多分皆さんが良く御存知の筈ですが、干の方については知りませんでした。 「“え”は兄を指し、“と”は弟を指す。」と、いう説明を何かで読んだくらいです。(自分の記憶が正しければです。)

これで云えば、自分は、「60年に一度の大変有り難くない干支の者。」(迷信でしょうが。)と、同学年。 人口ピラミッドの著しい減少の見られる時の子供です。(年齢がばれますね?)

>その人々が歩んでゆく人生を占星盤によってあらかじめ知ることができるというほうが正しいのでしょう。

はい、自分も是は否定しません。

占い等を信じる事は、真宗の教えからは外れてしまう事なのかも知れませんのですが、「其れを糧にするな。」と、申されておられるのだと思っております。

現に、人も自然の中の一部分、一つの存在に過ぎませんので自然の流れに反する物ではないと感じます。 故に何らかの法則に、則っていると思います。

「陰陽道」は、それを表したものの一つではないでしょうか?(風水もその流れかな?)

>実はこの考え方のもとは中国の思想と仏教から来ています。

>仏教には宿曜経というお経の一群があります。
>そこにはこういう概念がいたるところに見られます。

この、中国で発達する思想を密教が取り入れ、日本に入ってくるのだったと思います? 宿曜経は主に東密が重んじると聞いています。 余談ですが、台密は月よりも北斗七星を重要視すると聞きました。

>わたしたちは二極化された世界(娑婆ですか?)に落とされている(好んで来ている?)のです。そうは思いませんか?

はい、実は自分もそう思っています。

佛様の世界を、「無限、絶対、超論理。」と、教えて貰っています。 でも、既にこの娑婆世界にいるが故に、この言葉に対しての「有限、相対、没理論。」という言葉が存在してします。

「上」と、言えば「下」、「右」と、言えば「左」が存在します。 必ず対するものが出てきてしまう。

その、娑婆世界に生かされる人間に対して、お釈迦様は「中道」を説かれたのでは有りますまいか?(かなり後期の大乗仏教では、といわれる学者様も居られるようですが?)

「中道」とは、一休禅師のとんち話では有りませんが、「橋の真ん中。」と、云われておられるのではないそうです。

「極右、極左でなければ良い。 物事の極端を行かねば良い。」との教えだそうです。

真ん中を歩くのは結構難しい気がするのですが、端っこを歩かなければ良いのであれば、なんかこんな自分でも出来そうです。

この話を聴かせて貰った時、なんとなく佛様の優しさを感じさせられたような気がしました。

本当は、心なんて揺れ動いてくれない方が安心なのでしょう? 揺れ動かない心なんて自分には無理なので、出来れば揺れが少ない方が良い。

でも、「その揺れ動く心のままでも良い。」と、自分と一緒になって下さる佛様なのでしょうか?

また、言葉足らずの乱文ですみません。   合掌

●re.36
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 955 ] Re31:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/11 (Thu) 01:02 △up ▽down
菩提心様

お返事が随分遅れてしまいました。 申し訳有りません。

お返事を戴きましてから、国会図書館のサイトに行って検索してみました。 教えて下さり有難うございます。(技術の進歩を感じました。 有り難いですね。)

また、その後すぐに「そういえば、ご縁の有った同行さんに戴いた本願寺派の真宗聖典があった。」という事を思い出し、引っ張り出して読んでみました。

その方はお歳を召されていましたので、既に還浄されていることと思います。

かなり古い物で、その方も熱心に学ばれておられたのでしょう。 あちらこちらに赤線が引いてあり、かなり使い込まれています。

使われている字も旧字体の漢字で、なれないせいか読み辛い所が有りましたが、よんでみました。(まだ、3回はおろか、2回も至ってませんが。)

掲示板の[ 500 ]讃嘆・味わい・歓喜の中の泥凡夫様のお書込みにもいってみました。

読ませて貰って、次第に泥凡夫様と毎日様の書き込みに興味を示す気持ちが現れましたので、あちらこちらを巡って読ませて貰っております。(まだ、たぶん3分の1も読んでないのでしょうが?)

それで、色々な御念佛を勧めて下さった先師方々の書物を読ませて貰いながら、思いを巡らしておりますと、「古文、漢文など、読める学力も無い自分ではありますが、なにか読ませて貰いながら、頷いているというか、意味が、内容が伝わってくるというか、“うん”って云える。」という気持ちを感じさせられていました。

喩えが悪いかもしれませんが(また、たとえ話かいっ?)『ジグソーパズルのピースが有るべき所に収まる。所定の位置に嵌る。』というような感じです。

パズルは完成した訳ではないのですが、ピースの嵌るべき所が解るような気持ちです。(パズルを完成させることが出来るという喜びも一緒に味わっているような?)

蓮氏の御文章は、仰るとおり「如来の直説」といわれる程のお詞と感じます。 読む者の心に直球で入って来る様に思われます。

この御文章を縁として、救われる方も多いことでしょう。

そこでなのですが、読みながらちょっとへそ曲りな自分が出てきました。

質問になるかもしれませんが、ここにご縁の皆様は真宗の本流(ごめんなさい。表現が悪いです。)本願寺の直系で蓮氏が門主、あるいは法主を務められた本山のご縁の方々であると思います。 真宗には御存知の通り、10の派があり(先般の分派で11となりましたが。)夫々に親鸞聖人の教えを伝えておられます。 そのうち、3つの派は蓮氏を中興とし、1つの派は途中より蓮氏に帰依します。 残りの7つの派は、夫々聖人のお弟子方が伝えられており、法主、門主の相承に蓮氏が入ってまいりません。 故に、自分のご縁のある所は御文章そのものが有りません。

自分は、傍系(この喩えはあまり良くないですね。)故、蓮氏の御文章にあまり関わりが無く教えを聞いてまいりました。 それ故に、『御文章に依らねば信心はいただけませんか?』という意地の悪い疑問が頭をかすめました。
(本源は同じ所ゆえに、同じ味わいをえられるのでしょうが。)

自分は常に、聖人を仰ぎ、佛様を仰ぐことをおそわりました。

真宗には数々の歴史が有りますが、歴史とは別に脈々と法は現在まで流れてきていると感じます。 「歴史もひっくるめて。」という方が当たってるのかな?

そんななかこの自分にむけて、御念佛、『南無阿弥陀佛』が届いて下さったのでありますから、「もう、それだけでええですがなぁ〜。」 そんな気持ちを味わっています。

酒天童子様が菩提心様に、『直感的』と申されておられました。

自分も、その様に感じます。 御念佛の中の方々は『感覚的』?

感覚の研ぎ澄まされた方々なのでしょう。 親さんの御廻向によって。

感覚が澄んでいる故に、喜べる智慧をいただけるのだと感じます。 勿体無い事です。

これからも、縁有る度に御文章を読んでみようと思います。

この度のお返事がご縁で、また違う面での思いを味わうことが出来ました。

これも、自分にとっては必然なのでしょうね。

怠惰な者でごめんなさい。       合掌

●re.37
菩提心
非公開の非公開
[ 956 ] Re32:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/11 (Thu) 15:38 △up ▽down
極道坊主様

お返事有難うございました。

色々、お探しのようですが(とても尊いと思います)

「有縁の道がその人の道」=これはずっと泥凡夫様に言われてきたお言葉です。

極道坊主様が、そこで納得出来、そこで満足されたら宜しいかと思います。

ただ、

>自分は、傍系(この喩えはあまり良くないですね。)故、蓮氏の御文章にあまり関わりが無く教えを聞いてまいりました。 それ故に、『御文章に依らねば信心はいただけませんか?』という意地の悪い疑問が頭をかすめました。

こういう疑問はまず出てきません。

意地が悪いとかじゃなくて、これは信心決定すれば、おのずと御文が読めるようになるんですね。

だから、多分、五百年前の御講の場でも、文字が読めない一文不知の尼入道でも、御文を読んで貰えるだけで分るようになっているんだと思います。

何故、まず信を先にしなければいけないか、それもよく分ると思います。

御文には、まず尋ねなさいと書かれています。

よく読んで勉強しなさいと書かれていません。

よく知っている人に尋ねなさいと書かれているのです。

>師匠はそんな自分を見て、『佛様はのぉ〜、お前に良くなって来いとは云うっちゃおられんので。』
>『其の侭、来いって云われとるんじゃ。』
>『其の侭云うたら其の侭よ。』
>『有りの侭で来いっていわれるんじゃ。』
>『お前如きのそんな付け焼刃で助かるもんじゃぁ御座いませんよ。』と、おっしゃいました。

極道坊主様は、其の侭をどのように其の侭と感じるのですか?

其の侭、ってこの侭?

これって、多分同じように私も善知識様から言われたら、私はどこら辺を其の侭何だろうと苦しくなると思います。

でも、そのようには書いてはないでしょう。

極道坊主様も私も一念帰命すれば、たちどころに救われてしまうのです。

そこには差別なんて有りません。

十人いれば十人、百人いれば百人、全て一味同行です。

それを教えるお方が善知識です。


善知識を知っている人に尋ねなさいと言われるのです。

善知識を知っている人に尋ねれば、後生助かるご縁を頂けるかも知れません。

これも、強制するのではなく、あくまで尋ねる人の自由意思だと思います。

私が無理してお誘いするものではないと思います。

導かれてくる人はおのずと有縁の善知識に導かれるようになっているのではないかと思います。

私がそうです。

私は絶対、今生では泥凡夫様にお会いできるとは思っていませんでしたが、今このようにご縁頂いています。

手探り状態でも、心が阿弥陀様に向いている人は必ず導いて下さるんだなと実感しています。

ようやく最近、自分が自然に落ち着いた場所に落ち着いたという思いがあります。

行住坐臥、御恩報謝の御念仏だけでいいんだな。

でも、色々な御著書を読んで見たくなるのは、やっぱり趣味だと思います。

ここで極道坊主様とご縁頂いて、とっても有難いです。

南无阿彌陀佛

●re.38
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 957 ] Re33:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/11 (Thu) 20:16 △up ▽down
菩提心様

有難うございます。

貴女は自分の鏡です。ハイ!

よくわかりませんが(伝える言葉を失います。)とても、懐かしく思えます。

「これからも、繋がっていたい。」そう思えます。

感覚的ですみません。

「伝えたいけど、文章にすれば読み返すと何かが違う。」そんな感じです。

生活の上で端々に、御念佛が口より出て下さる事が何よりなのでしょう。

良き師に出会えた事、この上ない幸せと感じています。

元を辿れば、佛様にたどり着きます。

菩提心様、登山ルートは違えども必ず頂上で会える事、楽しみにしています。

合掌

●re.39
酒天童子
関東の非公開
[ 958 ] Re34:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/12 (Fri) 13:27 △up ▽down
極道坊主様

こんにちは、酒天童子です。

菩提心様とのやりとり、どんどん続けてくださいませ。

>質問になるかもしれませんが、ここにご縁の皆様は真宗の本流(ごめんなさい。表現が悪いです。)本願寺の直系で蓮氏が門主、あるいは法主を務められた本山のご縁の方々であると思います。

私のいただいた信は、この掲示板にて時々お書き込みされる泥凡夫様の書かれている信心と同じであると思います。

極道坊主様も泥凡夫様の書き込みをお読みだと思います。

お読みになって、すべてにおいて納得がいき、書いてある内容が了解されるならば、私と極道坊主様の信心はたとえ有縁の知識様が異なれども、同じ信心であるかと。

>自分は、傍系(この喩えはあまり良くないですね。)故、蓮氏の御文章にあまり関わりが無く教えを聞いてまいりました。それ故に、『御文章に依らねば信心はいただけませんか?』という意地の悪い疑問が頭をかすめました。

御文章に依らなくても信心はいただけるものと思います。
ただ、御文章は信心をいただいたものならば”よく分かる”ように書かれているとは思います。

そこには傍系であろうとなかろうと違いはないように思うのですが、、、。

まだまだ、そこいら辺のことはよくわかりません。

泥凡夫様のご意見がお聞きしたいところであります。

南无阿彌陀佛

●re.40
菩提心
非公開の非公開
[ 959 ] Re35:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/13 (Sat) 07:28 △up ▽down
酒天童子様

>[ 952 ]わたしはすべての人が(菩提心様含め)、阿弥陀如来のご化身であると思えるようになりたいと願っております。

他の方々はそうかも知れませんが、私だけは違うと思います。

私は、今生でようやく弥陀の身元に往ける身になれたのだと思います。

35願を拝すれば、拝する程、私はそう思えるのです。

「女人往生の願」

そして、[ 172 ]HNをなぜ菩提心にしたかでも書きましたが、この場所を拝読させて頂いた時、私の求めていたものに辿り着いたと思いました。

だから、この喜びも大きいと思います。

信後の味わいの中では色々書ける私です。(これは一人一人の味わいだからです)

でも、教義となると、これは責任重大でしょう。

とても私には無理です。

そうですね。泥凡夫様や毎日様の方が的確なご意見下さると思います。

でも、これも時機というものがあると思います。

そういう時機をきっとお考えだと思います。

私はこのように早合点や思い込みが烈しい性格なので、きっとお二方も、やきもきされながら御覧になっておられるんじゃないでしょうか?

このように、少しずつお話していく内に、御縁ある人が現れるといいですね。

酒天童子様お書込み有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.41
泥凡夫
北陸の男性
[ 962 ] Re36:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/14 (Sun) 19:27 △up ▽down
皆様

こんばんは。泥凡夫でございます。
すいません。私事にかまけて皆様の活発なお話に参加できませんでした。

今日は少しだけ書かせて下さいませ。

私共は自分の真実のすがたを知らないのです。時折、垣間見る哀れな姿はありますが、それも自分の全てでは無いように思うのです。自分自身も分からん。まして、法の是非など分かりようもない。

昔、祖母が人間は目も見えず、耳も聞こえないのと同じだ。と言っておりました。今になれば少しだけ分かる気が致します。私共には真実を見極める眼も聞き分ける耳も無いのだと。

それでも見極めたい。聞き分けたい。これをやるんですね。

そんな時はきっと、広大な荒野で一人でうずくまっておるようなものかも知れません。前にも進めない。後にも戻れない。荒野のど真ん中に留まったまま。時には分かったような気になることもあるかもしれません。しかし、残念ながら水に描ける絵の如しです。

分からんのは当たり前。考えることを止めるのではなく、妄念妄執を持ったなりでよい。そのままで宜しい。南无阿彌陀佛の六字はこれ以上我等に何も要求しない。だから、だだただ仰ぐだけ。

始末の付けられん哀れな己は始末をつける必要すらないのだということです。

私は正しいものを見極める眼も耳も持っておりません。それでもそんな私でも助かる道があるのだという御縁を頂いたわけです。真偽を見極められん私ではありますが、祖師の師の渡らせたもう所であれば地獄でも極楽でも参る。そういうお言葉が少しだけ分かってきた私でございます。

今日もまた、自分以外の命を奪って生きさせて頂いております。世界のどこかで泣いております人のことなど考えてもおりません私がおります。お腹をすかせて泣いておる子供がどこかにおることなど忘れております。自分さえ良ければそれでいい。そいう自分が今日もおります。そう分かってもどうにもならん私がおります。もう6時間もすればそれすら忘れて睡眠に入る自分がおります。

何をやっても末通らん。自分の尻も拭けない。極悪深重な自分がおります。逆立ちしても自分の力ではお浄土には往くことが絶対にできません。

ただ、分かることは南无阿彌陀佛はそういう自分のために用意されたものであるのだということだけです。

南无阿彌陀佛

●re.42
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 966 ] Re37:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/18 (Thu) 23:06 △up ▽down
酒天童子様
菩提心様

今年も、あと少しになって参りました。

年末ともなれば、何かと慌ただしくもなり、色々と行事も入って参ります。 御身体の方、お気を付けられて下さい。

自分の方も、片手の数ほど居る子供達の、発表会やら学芸会、保護者懇談会やらで、てんてこ舞いの一週間で有りました。 風邪も貰って来よるし。(お返事が大変遅れました事の言い訳にもなりませんが。)

お返事の遅くなりました事、申し訳有りませんでした。

泥凡夫様

はじめまして。 極道坊主と申します。

何かと、トンチンカンで難しい事の嫌いな者ですがよろしくお願いします。

この度は、お二方のお言葉を戴きまして、何某かホッとした様な、肩の力が抜けた様な、言葉に表せない感じの気持ちを味わいました。 有難うございます。

本当に人間というのは、自分の意見、思い等に自信が有ったとしても、(良いにつけ、悪いにつけです。)少数派になれば『もしかして、まちがっとりゃぁせんか?』なんて、不安を感じてしまうものですね。(自分だけかもしれませんが?)

「長い物には巻かれろ。」と言いますか、「寄らば大樹の陰。」と言いますか? 「多数派の方が正しい。」と捉える節が有る様な気がします。

何が正しくて、何が違っているのか、判断する事も出来ない そんな力も無い自分なのですが、それをしてしまう。

そんな情けない自分がいます。

周りに自分と似た様な境遇や、思いの人が居なくなれば、不安を覚えてしまうものなのでしょうね? 他からの同意を求める事で、安心しようとしているのでしょうか?

ほとほと、頼りにならん物を頼りにする呆れた存在です。

唯、御念佛は、その自分の抱く不安を長く保っては居られません。 不安を抱きながらも、それを因として、「良かった。」と思える様に働いて下さって居られると感じます。 それらを含めて色んな事が、有り難く思えるのです。

今回のご縁で、このサイトを巡って色々と読ませて貰いました。(まだ、全てでは有りません。) また、蓮氏の御文章も拝読させて貰いました。 チャンと読んだのは、この度が初めての様な気がします。 其れまでは、「読めてなかったんだなぁ〜。」って思いました。

読ませて貰って、改めて「説明しろ。」と言われれば、到底説明し切れませんが、書かれます内容に、「ハイ。」「うん。」と、頷けるものがあります。 不思議に思います。

聖人様のご苦労には到底及ぶ者では有りませんが、それでも「信心の出処は同じなんだなぁ〜。」と感じ、嬉しくなってくる次第です。

自分を育てて下さいましたご縁の有る所では、聖人様の晩年、85歳の頃の著作と言われます偈文、『奉賛尊号偈』というものをお勤めします。

歴史上の文献の、何処を探してみても見当たらないので、皆様は御存じないかと思うのですが、自分の肝(ハラ)に「ズドン」と音を立てて入ってくるような偈文なので記させて貰おうと思います。

奉賛尊号偈

本願円頓ハ。十方ノ衆生皆当ニ弥ケ陀ウベシ。既ニ真実ヲ顕シ。慈光常ニ微塵世界ヲ照シテ。大信ヲ得ル人ヲ摂取シテ捨テズ。南無ト云ウハ即チ是レ帰命。無上ノ教勅ナリ。他力ノ廻向ハ自力ニ非ザルガ故ニ。無漏ノ往生ナリ。
諸有ノ群類、一乗海ニ入ルハ。煩悩ヲ断ゼズシテ大涅槃ヲ得。 生死即チ解脱道ヲ証知ス。神ヲ浄域ニ住スレバ。三毒障リナシ。無量ノ功徳、一念ノ信ニ具ス。是ノ義ヲ以テノ故ニ念佛成佛ナリ。如意珠ニタトエ、淤泥華ニタトウ。平生業成不退転ニ住ス。必ズ滅度ニ至ル。 即チ大悲ヲ発シ、常ニ名願ヲ念ズレバ。無碍ノ法楽ナリ。是レ即チ真如一実ノ信海ナリ。正覚ノ法王ハ利他自在ナリ。佛願ヲ憶念スレバ深遠キワマリナシ。師徳ヲ思惟スレバ広大無辺ナリ。大悲普ネク伝ウレバ。 佛恩ヲ報ズルニ成ル。無為ノ領解ハ不可思議ナリ。南無帰命 阿弥陀佛。   以上 四十八句
愚禿親鸞 八十五才 書之 

最初は、皆があげますものですから、其れに釣られて意味も解らずあげておりました。
今は、(それでも言葉が難しいので解ったとはいえませんが。)言葉ではなく、感覚めいたもので『ハイ。』と、頷かされるものがあります。

自分は本当に、教学的なものは解りません。 子供達には、御念佛の生活を実践する事でしか示してあげられません。(これも本当なら違うことなのでしょう。 そんな大層にはかまえてませんが。)

情が絡んでおります故に、間違った捉え方を起こす可能性も多々有りますが、自分の子供としてご縁を頂戴したのですから、「何某か伝わってくれれば。」と言う希望が有ります。

しかし、これも親様のお心得の侭かと感じます。

泥凡夫様、

自分はまだまだ不完全な者であります。

宜しければ、当方の戴き方、捉え方に思い違いの点があるようでしたら、御指摘下さい。

   合掌


●re.43
泥凡夫
北陸の男性
[ 967 ] Re38:ただ一人歩め。犀の角のように 2008/12/21 (Sun) 21:18 △up ▽down
極道坊主 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
年末でバタバタしておりまして返信が遅れて申し訳ございません。

極道坊主様の味わい方は素晴らしいと私は思います。

思いますに、様々な方々がそれぞれに御縁のあった場所で真宗を聞くわけでございますが、真宗にははるか昔より異安心論争が絶えたことがございません。異安心は自流にない流れに対して発する言葉でありますが、最終的な是非など分からんのに我がもの顔で正邪を連発するのが凡夫なのだとも思います。もともと我がものであるものなど何もない、頂きものを自分の功だと錯覚するのかも知れません。これは私自身に言い聞かせておりますことであります。

多数派であろうが少数派であろうが、我が胸に相談することは自力の計らいであると聞いております。自分の胸に相談しても何も答えは返って来ないのだと思います。最終的な腰の据え所と申しますか、この道を歩もうと決められた場所がその人の有縁の道なのだと私は思います。

誤った道であるのか、そうでないのか、恐らく人間の乏しい智慧と短い寿命の間では得心することなどできんのではないかとも思うのであります。聖教も山ほど読んだ。覚えた。真宗の基本は押さえた。たとえそうであろうとも、それ自体は往生の因にはならんわけであります。どうやら他力真宗とは難しいことなど何も知らんが、それでも助かるでしょうか?そう聞かれれば、はい。そうです。と返答できるものなのだと思っております。

あらゆる衆生の往生は法の側からは既にしたためてございまして、機より持ち出すものなど何もありはしないのですから、あれこれと計らう必要などそもそももってないのであります。それでも悲しいかな凡夫は煩悩に狂わされてあれこれ計らうものなのだとも思います。

私は南无阿彌陀佛だけで十分満足でありますし、行信を獲たならば、寿命が来るまで味わいの世界を生きるのだと思っております。その味わいの中から出てくる御恩報謝のお念仏の日暮らしを私は生きております。

南无阿彌陀佛

●re.44
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 968 ] Re39:ただ一人歩め。犀の角のように 2009/02/06 (Fri) 16:58 △up ▽down
泥凡夫様

年末のお忙しい中、自分自身の為にお時間を割き御返事をいただきました事、また御教示下さいましたこと、重ねて有難うございます。

貴方様のお言葉で、より一層に御念佛が肝(ハラ)に据わって下さったような想いです。

想い返せば、自分の自性の方は、聞かせて貰う前からも、聞かせて貰ってからも何一つ変わってないのかもしれません。 煩悩まみれには変わりが無いのでしょう。 抑えようにも抑えられないものが込み上げて来ます。

教えにご縁の有った当初は、『尊い教えを聞くのだから、何とかして、善を励み悪を廃して、幸せを味わえる様な身になって、人を指導できる様な身になって。』と言う思いが、甚だ強かった事を感じています。

其のような自分を師は見られ、『それを自力の計らいと言うのです。』と、教えて下さいました。

教わって居るにも拘らず、聞いた端から知らず知らずのうちに、意識が、行動が、そちらの方に流れていってしまっているのです。

耳には、音として入って来ているのに、心を受け取っていませんから馬耳東風です。 聴くと、聞くでは違っていました。

一念帰命があれば、佛の方より賜ります他力易行の真宗の教えでも、自力の計らいの身に滲みた凡夫の私の方から見れば、是程難儀な教えは無かったように感じます。 何故なら、『無条件に信じる。』という心、『信』は自分の方にはこれっぽっちも、微塵の欠片も無いからでした。(それらは、佛様の御智慧により育て上げられてから知らされるのですが。)

『佛様の教えは、絶対なんだから。・・・・・でも。』

『でも。』、が出た瞬間から疑いが始まっています。 六字に込められた、深遠なる謂れを知らんが故に、軽んじている自分が疑いを持ちます。 それでも、自分の蒙っている苦しみの方が強いので『何とかして助かりたい。 楽になりたい。』と、教えを聞かせて貰うのですが、聞けば聴く程、別の意味での苦しみが増してくる。 楽にならんのです。 自身の醜い姿が浮き彫りになって来るので、耐えられなくなります。(時間が経てば忘れもしますが。)

『こんな事なら、聴くんじゃぁ無かった。』なんて考えた事も、しばしばありました。 逃げ出したくなる事も再々でした。 それでも逃げられなかったのは、何故だったのでしょうか? 逃げていた方が楽だったろうに。 場合によっては自殺もあったのかもしれません。 でも、其の選択肢を選ぶ事は無かった。

今想い返せば『ゆくゆくの強縁であった。』と戴くので有ります。

自分の師は、それでも自分の中に有ります醜い部分を、『是でもか、是でもか。』と、云わんばかりに引っ張り出されました。 (これを機攻めというのでしょうか?)

本派の僧侶さんに聞かせて貰ったのですが、『それは、あまり良い形とは云えない。』と言う御意見を戴いたことがあります。

しかし、自分は其れを師よりして貰った事で、今の味わいを戴いております。 思えば、自分が嫌がる事を知っていて、敢えて師はなされたのであります。 「辛かったのは自分だけではなかったのだ。」と改めて感じます。 其の師のお心を感じれば、真に頭の下がる想いです。(其の時はおもっていませんでしたよ、当然の事ながら。 「なにしやがる。」位の気持ちです。・・・ヤレヤレ。)

『無意味な事は、何一つとして無いんだな。 世の中の事、すべて必然?』と、感じさせられる切っ掛けでも有りました。

自分は、「機より持ち出すものなど何一つ無い。」と、信じられたのはかなり後の事ではなかったかの様に思います。 教えを戴きながらでも、自力を尽くして尽くして尽くしきって、持ち玉の球数を使い切った挙句、白旗と両の手を上げざるを得ない、降参した状態からの『お任せします。』だったのかな?(喩えが悪くてすみません。)

其のときの想いは、単に是だけでは有りませんでしたが、(一瞬の間に色んな事をおもわされた様に覚えています。)其の時を境に、背負っていた物がいっぺんに落ちた気がしました。

『うん。 自分にはもう是しかない。』と、想わされた時、(もう、手立てが無いと言った方が正解かも知れません。)深呼吸の様に『南無阿弥陀佛』と、御念佛を戴いていました。

それ以来、其れだけで良い様な気にして貰っています。 小賢しい事は後回し。 『他のものは別にいらんがな。』と言う想いが実感として肝に据わっております。

師をお育て下さった善知識が申されたお言葉に、『「聞いた、知った、覚えた。 信心獲ったに用事は無い。 用事無けれど、捨てては置かれん。」のが佛様の御心ぞ。 其の心が届いたか?』と、よく問いかけて下さっておりました。 佛様のお働きを我が者にしようとする心を持つ、自分に対しての戒めの言葉も含みながら、しかも御心の深さ、広さを感じさせられます。

『苦いビターチョコレートが、ミルクチョコレートにしてもろうた。』と、言う実感が有ります。 ビターチョコにミルクをかけてもミルクチョコとは云わんのです。 ビターチョコとミルクが溶け合い、混ざり合って自にとっても、他にとっても丁度良い姿にして貰う。 もう二度と、ビターチョコとミルクには分けられんので有ります。

自分が若し、「佛凡一体」を喩えるならこの様に表すでしょうか?

自身も今生に縁がある限り、味わいを依り一層深めて戴きながら、佛様の御計らいの侭使って貰えればと想います。 佛様の御計らいの侭、普く処々に大悲のお心を伝える事の一端にでもつとめる事が出来ますれば、是こそまさに佛恩を奉ずる事に成るのだと想います。

そこには常に『御念佛』と共にです。

申し訳有りません。 生意気な書き込みになりました。

お話を聞かせてください。   合掌


●re.45
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 984 ] Re40:ただ一人歩め。犀の角のように 2009/02/06 (Fri) 17:00 △up ▽down
読み返してみたら字が間違ってました。

訂正いたします。



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