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[ 80 ] 念仏衆生摂取不捨と無碍の一道について
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2008/01/19 (Sat) 12:13
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皆様こんにちは。
既によくお分かりのことと存じ上げますが、これまた後に続く方々のために少し申し上げたく書かせて頂きます。
歎異抄の7に記されておるとおり、「念仏者は無碍の一道」であると御開山は申されております。これは御存じのとおり『観経』の『念仏衆生摂取不捨』の意を汲まれて書かれたものであります。
『一 念仏者は、無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。罪悪も業報も感ずることあたわず、諸善もおよぶことなきゆえに、無碍の一道なりと云々』
残念なことではございますが、御一流を汲まんところや「御文」に多々見られます「相伝もなきくせ法門」と呼ばれる亜流の方々などは「あれをすると堕ちる」「これをすると堕ちる」という「堕ちる信心」を説かれておるようでございます。具体的に私が存じておる実例では「堕胎すると堕ちる」「一流のすがたを人に言ったり見せたりすると堕ちる」「他宗・他門に宗旨替え(雑行)すると堕ちる」「自殺をすると堕ちる」などなどでございます。
皆様はそれが誤りであることをよく存じておられると思います。 そもそも、弥陀の「摂取不捨」の御心を何だと思っておるのでしょうか。この御心を知ってか知らずか「戒律」のようなものを行者に課しておるようでございます。
弥陀の御救いに背かん我等であるために。という意なのかもしれませんが、そういうことも御承知で摂取される弥陀の御心に泥を塗っておることに気が付かねばならんのであります。弥陀に褒められる自分でなければならん。それはそれで結構な決心ではございますが、我等が極悪深重の凡夫である以上、臨終の一念に至るまで、縁あればいかなる振る舞いもするのであります。弥陀に褒められる自分であろうとすることは、ややもすると自力作善の道(雑行)を歩むことになってしまう可能性を持っておるのであります。
故に、私は良きにつけても悪しきにつけてもそういったことには目をくれず、「南无阿弥陀佛」を仰いで参りましょうと申し上げて来た次第であります。
歎異抄の13を全文引きますが、長くて読みにくいとも思いますので幾つかに区切って引かせて頂きます。
『一 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。』
『また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。』
『そのかみ邪見におちたるひとあって、悪をつくりたるものを、たすけんという願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいいて、ようように、あしざまなることのきこえそうらいしとき、御消息に、「くすりあればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされてそうろうは、かの邪執をやめんがためなり。』
『まったく、悪は往生のさわりたるべしとにはあらず。「持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」と。かかるあさましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられそうらえ。さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられそうらわじものを。また、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」とこそ、聖人はおおせそうらいしに、当時は後世者ぶりしてよからんものばかり念仏もうすべきように、あるいは道場にはりぶみをして、なむなむのことしたらんものをば、道場へいるべからず、なんどということ、ひとえに賢善精進の相をほかにしめして、うちには虚仮をいだけるものか。願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよおすゆえなり。さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。』
『『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくわれがたしとおもうべき」とそうろうぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにてそうらえ。おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもいもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。かえりて、こころおさなきことか。』
真宗祖師一流の広きこと広大無比なることを皆様と一緒によく味わってゆきましょう。
南无阿弥陀佛
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●re.1
admin |
毎日 |
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[ 677 ] 聖典にシールを貼っています。
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2009/02/02 (Mon) 11:04
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聖典(法蔵館)の中の、「摂取不捨」と、「義なきを義とす」の書いてある場所にシールを貼っている最中だ。
パソコンが壊れてしまって、最初はショックだったが、別な楽しみが出来た。
上記のお言葉を探しながら、前後のお言葉を読んでみる。
泥凡夫様のお示しのように、観経にもしっかりと「摂取不捨」と書かれていますよね。
又、
御文と一緒に、御文来意鈔のひらがな版も読んでいる。
御文の書かれた時の様子が伺い知れて、とても有り難い。
わたしの地域はそういう点では、蓮如上人の史跡が至るところにあるので、暖かくなったら尋ね歩きたいなと思う。
南无阿彌陀佛
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[ 678 ] Re:念仏衆生摂取不捨と無碍の一道について
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2009/02/04 (Wed) 03:24
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泥凡夫様
ボンと申します。はじめまして。
私、たまたまこちらの毎日様の主催する掲示板を発見して以来、 夜な夜な掲示板を拝見することを楽しみとしているものです。
同行様と思われる方々のなかでも異なった見方があるなかで、断固として 『念仏衆生摂取不捨』のことを声高らかに言及していただき、 本当にうれしく、ありがたい気持ちでいっぱいです。
「摂取して捨てたまはず」・・・実にあたたかくて力強い響きですね。有難いですね。
ところで、私事ですが・・・・ しばらく御法から遠ざかっていましたので、今となっては記憶も定かではないのですが、 実は私が御法をいただいたばかりのころ、「この御法を謗ったら地獄行きだよ」と いうようなことを同行様の誰からともなく聞かされたような気がします。
このとき私は、「謗るというのはどの程度のことをいうのだろう」と少々疑問を感じたものです。 また、「私はこの先、謗らずにおられるのだろうか」という漠然とした不安もありました。
そして、それからしばらく経ったとき、ある同行様が善智識様に、次のように尋ねました。 「18願の五逆と誹謗正法を除くというのは方便ですよね。助からないわけではないですよね。」
その根拠として、教行信証の信巻121に「方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。」 というくだりがあることを挙げられました。以下、その前後を抜粋します。
--------ここから--------------------------------------------------------------------- 光明寺の和尚(善導)いはく(散善義)、「問うていはく、四十八願のなかのごときは、 ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、 誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。
答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、 謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、 ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。 ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。 またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、 それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。 しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを 得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。 --------ここまで---------------------------------------------------------------------
この問いに対して、善智識様は言葉では否定も肯定もせず、小さく頷かれたように記憶しています。 これは私の勝手な思い込みかもしれませんが、善智識様は「誰にでも彼にでも言わないでくれよ」 と暗に言っているようにも感じられました。
たまたまその場に居合わせた私は、やや驚き、そして、晴れ晴れとした心持になりました。 「ああ、そうなんだぁ」「それでも捨てられないんだ」と・・・。
もちろん、謗ってもいいというつもりは、まったくありません。 「摂取して捨てたまはず」ということが、より強く実感できた次第です。
南无阿彌陀佛
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[ 680 ] Re2:Re:念仏衆生摂取不捨と無碍の一道について
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2009/02/04 (Wed) 15:11
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ボン様
初めまして。
「摂取不捨」って、誰を相手にしたお言葉だろうって思いました。
わたしは善人だろうか?悪人だろうか?
以下のお言葉は、このHPでの泥凡夫様がジャンヌで応対した時のお言葉です。
「求める衆生は漏らさず救うが「念仏衆生 摂取不捨」のこころでございます。」
とっても、有り難いと思いました。
若し、このお言葉が無かったら、わたしはいつ安心できるのだろう。
今、シールを貼りながら、泥凡夫様や毎日様のお言葉を信じられた事が本当に有り難いと思っています。
南无阿彌陀佛
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●re.6
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毎日 |
非公開の非公開 |
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[ 681 ] Re3:Re:念仏衆生摂取不捨と無碍の一道について
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2009/02/05 (Thu) 03:11
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ボン 様 菩提心 様
『念仏衆生摂取不捨』ありがたい御言葉であると思います。
日々悪行を為す私ですから、身近な人に捨てられましても、離れられましても、あきれられましても、致し方がありません。
そして、致し方がないと言いながらも、反発もしてしまう。どこまでも未熟な、哀れで救いのない泥の凡夫でございます。
それを、弥陀は「捨てない」とおっしゃってくださる。
しかも、「摂取」というのは、向こうからこちらにはたらきかけてくださる、他力のはたらきなのですから、ますますありがたいことです。
内心に秘めながらも、御名号に感謝してゆきたいと思っております。
南无阿彌陀佛
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[ 682 ] Re4:Re:念仏衆生摂取不捨と無碍の一道について
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2009/02/05 (Thu) 19:51
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ボン 様
こんばんは。泥凡夫と申します。
『念仏衆生 摂取不捨』の御心の件でございます。 このお誓いが無ければそもそも正定聚など言われる位になどなれんのであります。
『真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す』御消息
また、御開山は「摂取不捨」について左訓において『ひとたびとりて永く捨てぬなり』とか『摂はものの逃ぐるを追はへとるなり』と言われております。ありがたいことだと私は思います。
信巻の未造業に関してのご引用は大事なことが言われているのではないかと思います。第十八願における抑止門は、そのまま拝読すれば、我は助からざるなり。と嘆くだけしかできないかと思います。または、私はまだ犯しておらんから大丈夫だ。とか、これから犯してしまうやもしれん。となるかとも思われます。
これは、いずれも如来の御心を疑うすがたなのだと思います。 私は助からんのだと思う方々は、己の罪の重さに慄いて第十八願に入ることを躊躇するのだと思います。はたまた、私は五逆も謗法も犯しておらんわい。と思う方々は驕慢の旗を掲げておられるのだと思います。これから犯すやもしれん。と慄く方々は必ず助けるのお誓いを信じられんのかも知れません。ややもすれば、余行を修して少しでも罪滅せねばと自力のはからいを行われるかもしれません。正信偈にございます『矜哀定散与逆悪』はそういう機も指しておられるのではないかと思います。
しかしながら、『抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。』口伝鈔 とありますように、五逆と謗法がいかに重罪であるのかを知らしめて下さったものでありますが、大事なことは善導様の『謗法闡提廻心皆往』の御釈であるのだと思います。正信偈に『善導独明仏正意』と御開山が尊ばれる所以であると思います。
南无阿彌陀佛
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[ 683 ] Re5:Re:念仏衆生摂取不捨と無碍の一道について
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2009/02/06 (Fri) 01:52
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菩提心様 毎日様 泥凡夫様
ボンです。こんばんは。 こうして同行の方々とお話できるのが、うれしくてたまりません。
菩提心様 >わたしは善人だろうか?悪人だろうか?
私は、善人にも、悪人にもなりきれない、中途半端な人間です(^^) それでもなんとか、今生で救いの網にひっかかりました。 救い取っていただきました。 ほんとうに有難いかぎりです。
毎日様 このような貴重な掲示板を主催していただきまして、本当にありがとうございます。 この掲示板をとおして、私は辛うじて同行様とつながることができます。
泥凡夫様 私がこちらのホームページにたどりついてはじめに目を通したのが、泥凡夫様の 書き込みのシリーズです。憑かれたように一気に読みました。心が震えました。 泥凡夫様が、私の書き込みにコメントをつけていただいたのがうれしくて 舞い上がっています。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
南无阿弥陀佛
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