讃嘆・味わいなど

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●No.7
泥凡夫
北陸の男性
[ 66 ] 当流の掟と正法誹謗について 2008/03/05 (Wed) 23:50 △up ▽down
皆様こんばんは。

御開山御一流の方々には既によくお分かりのことと存じますが、後に繋がる皆様のためにもあえて表題のとおりを書かせて頂きます。

蓮師はこの掟を守ることを御開山の意を汲みとり明確にして下さったお方であります。抑止門に関わることで大事なことは下記御文に明らかに見えております。

『それ当流にさだむるところのおきてをよくまもるというは、他宗にも世間にも対しては、わが一宗のすがたを、あらわにひとの目にみえぬようにふるまえるをもって本意とするなり。しかるに、ちかごろは、当流念仏者のなかにおいて、わざとひと目にみえて一流のすがたをあらわして、これをもってわが宗の名望のようにおもいて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもえり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人のさだめましましたる御意に、ふかくあいそむけり。』2-13

蓮師の御時世にもおったのですね。わざわざ人目に見えるように一流法義のすがたを顕わにした方々が。見せるだけでは足らず、これこそ真宗の名望であると自慢し、他宗・他門の方々を貶めようとされた方が。言語道断の次第でございますし、貶められた他宗・他門の方々は当然誹謗・法難の唇を動かしたことでしょう。抑止は釈尊の方便ではございますが、わざわざ「正法誹謗」の罪を犯させてしまったわけでございます。何卒、定めおかせられる御掟を守られますようお願い申し上げます。

「正法誹謗」と言いますと、御開山一流の流れを汲む方々の中でも一流法義を誹謗することだけのように取られる方もおられますが、そのあたりも蓮師は御注意されております。

『そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まず越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にもすでに、「唯除五逆誹謗正法」とこそ、これをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。そのいわれは経・釈ともにその文これおおしといえども、まず八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』に、ふかくこれをいましめられたり。その文にいわく、「自法愛染故 毀呰他人法 雖持戒行人 不免地獄苦」といえり。かくのごとくの論判分明なるときは、いずれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。』1−14

当流念仏者においても他宗・他門を誹謗せぬように。と御文にも数多見られます。その意は、いずれも釈尊一代の法であり、「如説」に「修行」すれば皆、佛になれる教えであるからであります。釈尊の説かれた八万四千の法門は、方便もあり真もあり様々でございますが佛に妄語はございません。これらを誹謗すれば「正法誹謗」の咎は逃れられません。たとえば、「法華経」は出世の御本懐であると釈尊自ら申されておられます。ただ、私はその尊い教えに及ばぬ身である故にたのまんだけであります。続けて同様のことを言われておられる場所を引用致します。

『一 当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いずれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら、末代われらごときの在家止住の身は、聖道・諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず、信ぜぬばかりなり。』2-3

『諸宗・諸法を誹謗することおおきなるあやまりなり。そのいわれすでに浄土の三部経にみえたり。また諸宗の学者も、念仏者をばあながちに誹謗すべからず。自宗他宗ともにそのとがのがれがたきこと、道理必然せり。』3-10

続いて勧化を致すについて御注意されておられます宿善・無宿善の機を見極めて法義を聞かせる件についてでございます。

『それ、当流の他力信心のひととおりをすすめんとおもわんには、まず宿善無宿善の機を沙汰すべし。されば、いかにむかしより当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心とりがたし。まことに宿善開発の機は、おのずから信を決定すべし。されば無宿善の機のまえにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かえりて誹謗のもといとなるべきなり。この宿善無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もってのほかの当流のおきてにあいそむけり。されば『大経』に云わく「若人無善本 不得聞此経」ともいい、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいえり。また善導は「過去已曾修習此法 今得重聞 即生歓喜」(定善義)とも釈せり。いずれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば、宿善の機をまもりて、当流の法をばあたうべしときこえたり。』3-12

宿善の機に限り法義を聞かせ、無宿善には法義を与えるなとまで申されております。誰彼構わず手引きすることを固く戒めておられます。それは何故かも記されておられます。無宿善の前において「正雑二行の沙汰」に及べば、必ず誹謗を成す故でございます。これは先に引きました御文2-13とも繋がっております。

ここをご覧になられた他宗・他門の方々も願わくば、謗ることだけはせぬようにお願い申し上げる次第であります。

南无阿弥陀佛

●re.1 admin 
毎日
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[ 67 ] Re1:当流の掟と正法誹謗について 2008/01/19 (Sat) 01:21 △up ▽down
泥凡夫 様

尊いご法話、ありがとうございます。

ふりかえりまして、私も、どうしても、他宗他派を誹謗してしまっていたように思います。

なんと厚かましい凡夫であるかと思います。

弥陀の御恩に対しても申し訳ありませんし、相手の方にも、申し訳がございません。

表現についても、少しずつでも、まともになっていることを願うのでありますが・・・

また、表現のもとになります考え方につきましても、おかげさまで、少しずつ、変わってきていますことを願っております。

ご心配おかけして、誠に申し訳ございません。

南无阿彌陀佛

●re.2
関西の男性
[ 125 ] 「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/01/31 (Thu) 02:28 △up ▽down
はじめまして。このHP誕生より67日目のご縁に感謝いたします。「浄〜 秘○」で検索にかかりました。
−−−
「当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず」の件で、
出世御本懐である法華経について、
「その尊い教えに及ばぬ身である故にたのまんだけであります。」

という法話に特に感慨深いものを感じました。私の考えを申しますので、何かコメントを戴けたら有難いです。
−−−
私に多少関係ありますが、創○学会憎けりゃ、日蓮まで憎し、で一時彼らを憎んでいました。なぜなら、私は、世の中の真実をねじ曲げたり、目をそらしたりすることを憎むからです。しかし、今では、法華経には、何か奥深い意味があるのではないかと想いを巡らせています。創○の人に対する憎しみも、人間愛を理解すると、消えていきました。

私の実感では、創○学会では、お題目を唱えると、何らかの奇跡が起きるのかもしれないと思うようになりました。しかしそのほとんどが、都合のいいこじつけだと思っております。そんな私ですが、

1. 彼らが真実を強引にねじ曲げ、横暴になると、やはり彼らを憎んでしまいます。社会的にも宗教的にも糾弾すべきはすべきであろう。知らないうちに正法誹謗を犯す可能性があったとしても。

2. 法華経に奇跡の力があるのだろうか?

2. 「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も、真に救われるまでは、同じ自力の行であろう。ということは、妙法〜の方にも、真に救われる方法があるのではなかろうか?

−−−
創○や法華経のことを語って申し訳ないですが、私には彼らに向き合うという意味で重要です。古文の言い回しに四苦八苦する素人ですが、出典つきの解説は有難いです。今後ともよろしくお願いします。

●re.3 admin 
毎日
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[ 126 ] Re1:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/01/31 (Thu) 02:36 △up ▽down
や 様

お書き込みありがとうございます。

法華経につきましては、

http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=1&pastno=0&vine=42&page=0

http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=1&pastno=0&vine=20&page=0

にも書き込みがございます。

しかし、でき得ることなら、法論はお避けください。

「向き合う」ということであれば、何かのご縁かもしれません。法華経を一読されますことを、お進め致します。

また、私からも書き込み致します。まずは取り急ぎ。

そして、や様も、どうか思うところを、遠慮なくお書き込みください。

南无阿彌陀佛

●re.4 admin 
毎日
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[ 127 ] Re2:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/01/31 (Thu) 04:27 △up ▽down
や 様

>なぜなら、私は、世の中の真実をねじ曲げたり、目をそらしたりすることを憎むからです。

憎むのも、怒るのも、凡夫の常。私も、憎んだり、怒ったりばかりの凡夫です。

しかし、それでも、できないなりに、どのようなことが有ろうとも、どのような出来事にも、人にも、怒らず、憎まずが仏説であると意識して行くことは大切であると思っております。

どのような悪人をも救う弥陀を礼拝し、跪くのが我らであるからです。

>彼らが真実を強引にねじ曲げ、横暴になると、やはり彼らを憎んでしまいます。社会的にも宗教的にも糾弾すべきはすべきであろう。知らないうちに正法誹謗を犯す可能性があったとしても。

でき得ることなら、糾弾するよりも、距離を置かれた方がよろしいと思います。

◎他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったこととを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ(ダンマパダ、岩波文庫 p17)

◎母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる(ダンマパダ、岩波文庫 p16)

そして、もし関わってゆくのであれば、糾弾するのではなく、何とかして苦しみを取り除こうとし、そして、何とかして幸せになってもらおうとするのが、仏法であると思います。


>法華経に奇跡の力があるのだろうか?

私は、あると思います。しかし、念仏行者は、弥陀をたのんでいるが故に、諸佛の護念あるが故に、厭離穢土であるが故に、そのようなものにおたよりしなくても良くなっているだけです。


>「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も、真に救われるまでは、同じ自力の行であろう。ということは、妙法〜の方にも、真に救われる方法があるのではなかろうか?

法華経には、「一称南無仏皆已成仏道」も説かれております。

また、「南無妙法蓮華経」の方は、私は詳しく知らないのです。

もちろん、当流でも、蓮華は大切にされております。

ですので、我らから見れば、妙法蓮華経とは、「妙なる法により蓮華を咲かせる教え」となるのです。

◎空中に側塞して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度したまう(観経疏)

◎この界に一人、仏の名を念ずれば、西方すなわち一つの蓮ありて生ず(行巻)

また、源空聖人も、

◎次に往生浄土門とは、これにつきて二あり。一には正しく往生浄土を明かす教、二には傍らに往生浄土を明かす教なり・・・次に傍らに往生浄土を明かす教といふは、『華厳』・『法華』・『随求』・『尊勝』等のもろもろの往生浄土を明かす諸経これなり。また『起信論』・『宝性論』・『十住毘婆沙論』・『摂大乗論』等のもろもろの往生浄土を明かす諸論これなり(選択集)

と、法華経を(傍明経として)取り上げていらっしゃいます。

具体的には、二カ所あります。

◎若し人の散乱の心に 塔廟の中に入って
  一たび南無仏と称せし 皆已に仏道を成じき(法華経)

(この箇所は、往生要集にも引かれております。)

これは、念仏行者から見れば、とても良くわかります。

参考になりますのは、

◎六には正念にして、僧房に往詣し塔寺に恭敬し、法を聞きて一の義をも解れば、阿弥陀仏の国に往生す(往生要集、十往生弥陀仏国経)

◎時に四比丘万事ともに捨てて、一心に教を奉けて塔に入り、仏像の前においてみづから撲ち懺悔すること太山の崩るるがごとく、地に婉転して号哭して、仏に向かひて日夜相続して死に至るを期となす。捨命以後、空王仏国に生ずることを得たり(観念法門)

もう一カ所は、

◎若し如来の滅後後の五百歳の中に、若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の圍繞せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん(法華経)

これは、五百歳が既に経過してしまいましたので、現在では、詮無きことです。

や様は、真宗門徒でいらっしゃいますか?

ぜひ縁を得て、一念帰命されますことを。

南无阿彌陀佛

●re.5
泥凡夫
北陸の男性
[ 129 ] Re3:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/01/31 (Thu) 19:53 △up ▽down
や 様

こんばんは。泥凡夫と申します。

>「その尊い教えに及ばぬ身である故にたのまんだけであります。」
>という法話に特に感慨深いものを感じました。私の考えを申しますので、何かコメントを戴けたら有難いです。

法華と念仏については御存じのとおり過去世より優劣の議論が成されて参りました。どちらが優れてどちらが劣るかという議論は非常に勿体なき次第でありまして、釈尊は一切衆生のために様々な法門を説かれたのであります。

大事なことは、「何れが優れておるか」ではなく、「何れが私の根機に叶うか」であります。法門の優劣は時として、「自利利他」のためと称して行われるものでありますが、いつの間にか「自損損他」になってしまうものであります。それは法論の中において、自分というものが居なくなるからでございます。何れの法も問われておるのは「自分自身である」ということを忘れてはいかんのではないかと思います。

真宗の御開山が申されたことをまとめた「歎異抄」と申す文書がございます。ここに記された意(こころ)こそ、先に私が申したところと等しくあります。その一部を二つに分けて引かせて頂きます。お時間があれば一読下さい。

『歎異抄十二』より抜粋

『当時、専修念仏のひとと、聖道門のひと、諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。』

先に書きました通り、「自損損他」になる旨を語られております。

『たとい諸門こぞりて、念仏はかいなきひとのためなり、その宗、あさしいやしというとも、さらにあらそわずして、われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまわりて信じそうらえば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にてまします。たとい自余の教法はすぐれたりとも、みずからがためには器量およばざれば、つとめがたし。』

あらゆる諸宗が真宗は愚か者、智慧浅き人の宗であり、底が浅く卑しいものである。と非難されても争う必要などどこにもありはしない。それは何故であるか。私のような下根の凡夫、日々浅ましい生活を送る者であろうとも、「南无阿弥陀佛」を信じ奉れば生死を離れさせて頂けるのであります。逆に日々正しい行いで過ごされる智慧深き上根の人から見れば卑しいものであろうとも、私のためには最上無上の法であります。諸宗の法は何れも優れておりますが、私は智慧も器量も及ばぬ故にたのまんだけであります。

と、このように申されておると私なりの釈を添えました。

>私に多少関係ありますが、創○学会憎けりゃ、日蓮まで憎し、で一時彼らを憎んでいました。なぜなら、私は、世の中の真実をねじ曲げたり、目をそらしたりすることを憎むからです。しかし、今では、法華経には、何か奥深い意味があるのではないかと想いを巡らせています。創○の人に対する憎しみも、人間愛を理解すると、消えていきました。

「坊主憎ければ袈裟までも」と申します通り、人間は浅ましいものでありまして、自分というものを蚊帳の外に置きますと、他者の悪いところばかり見てしまうものです。ハッと気が付きやめることもあるかもしれませんが、また時間が経てば同じことをやってしまうものです。かくゆう私も同じであります。

世の中(現世)の真実というものは残念ですが私にはよく分かりません。ひょっとすると真実などどこにも無いようにも思われます。あらゆる事象は見る人によって捉え方も異なりますし、感じ方も異なるからであります。ただ明らかであるのは、私は少なくても世の中(現世)の真実を捉える眼は持ち合わせておらんということです。

創価学会様の件でございますが、私も親しい人に創価学会様の会員様がおられます。日蓮様が申された「念仏無間」のお考えはお持ちのようであります。私が真宗門徒であることは承知の上で普段のお付き合いもさせて頂いております。ただ、どちらが優れておりどちらが劣るかなどの争いは一切ございません。あくまでの個々人の有縁の法に従っておるだけでございますので。

>彼らが真実を強引にねじ曲げ、横暴になると、やはり彼らを憎んでしまいます。社会的にも宗教的にも糾弾すべきはすべきであろう。知らないうちに正法誹謗を犯す可能性があったとしても。

これは少なくても私の力の及ぶものではございませんし正邪も分かりません。真実を捻じ曲げ横暴になる可能性があるのは私であると思うだけであります。

>法華経に奇跡の力があるのだろうか?

奇跡とは何を指して申されておるのか分かりませんが、人間が生死を離れることができることこそ奇跡ではないかと私は思っております。法華経の真髄につきましてはそれに詳しいお方にお尋ねになられる方が宜しいように思われます。

ちなみに、真宗においては念仏行者になれば病気が治るとか、お金持ちになれるとか、良い仕事に恵まれるとか、そういったことは一切ございません。因と果の法則に従いまして、起こるべくして起こる事象として捉えてゆくしかございません。真宗はたとえ病気が治っても、お金持ちになれても、良い仕事に恵まれても、それらが生死の境において持って還れないものであると教えておるからであります。それよりも、己が生死を離れることこそ第一であり、人界に生を頂いた本懐であると説くからであります。

世の中には利益を求めて「願掛け」と申すことを成されます方々がおられますが、あれは思いますに、「願掛け」ではなく「欲掛け」でございます。自分というものを蚊帳の外にしてしまうが故に、知らず知らずの間に諸佛諸神を都合の良い道具にしてしまっておるのではないかと思います。

>「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も、真に救われるまでは、同じ自力の行であろう。ということは、妙法〜の方にも、真に救われる方法があるのではなかろうか?

聖道門も浄土門も「如説」に「修行」すれば皆、佛になれる教えであります。そこまでの道のりが長いか短いか、難行であるか易行であるかの違いでございます。ただし、仏教においては原則がございまして「願」とそれを満たすための「行」が成就せねば佛にはなれんのであります。故に「願」だけ、「行」だけということは無いと思われます。聖道門における「四弘誓願」と「六波羅蜜の行」は私にはとてもとても及ばんものであります。

や様の問題の解決にはならんと思いますが、お返事させて頂きました。

南无阿弥陀佛

●re.6 admin 
毎日
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[ 130 ] Re4:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/01/31 (Thu) 23:37 △up ▽down
泥凡夫 様

心に沁み入るお話しを、どうもありがとうございます。

凡夫が佛になる以上の奇跡は無いと、いつも思っております。

感謝をこめ。

南无阿彌陀佛

●re.7
菩提心
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[ 133 ] Re5:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/02/01 (Fri) 09:26 △up ▽down
鎌倉仏教━親鸞・道元・日蓮━  著者 戸頃重基 中央公論新社より抜粋

P59〜
他力の親鸞と自力の道を選んだ日蓮が、まったく類似の考え方を示していたことは実に興味深い。たとえば親鸞は、他力の信心がどのようなものであるかを、高い岸によじ登ろうとする人が、上からおろされた綱を思いきってつかむときの決心になぞらえている。この綱が、岸の上にいる力の強い人によって、いくら下へおろされていても、よじ登ろうとする人が、上にいる人の力や綱のきれることをあやぶんでそれを手にしなければ、高い岸によじ登ることはできない。

他力の信心というものは、綱までつかませてくれるわけではない。綱をつかむかつかまないかは、岸によじ登ろうとする人の決断にまかされているのである。

親鸞はいう。
仏力をうたがい、願力をたのまざる人は、菩提のきしにのぼることかたし。ただ信心のてをのべて誓願のつなをとるべし『唯信鈔文意』

譬(たとえ)ば高き岸の下に人ありて、登る事あたわざらんに、又岸の上に人ありて、縄をおろして、此縄にとりつかば、我れ岸の上に引登さんと言わんに、引く人の力を疑い、縄の弱からん事をあやぶみて、手を納めて是をとらざらんが如し。争(いかで)か岸の上に登る事をうべき。若し其の詞に随いて手をのべ、是をとらえば即ち登る事をうべし。『持妙法華問答鈔』

私は、泥凡夫様や毎日様のように、智慧がありませんが、でも、体験的なことはいえます。
私は、親鸞会で、本願寺や学会のことを一方的に聞かされてきました。
そこにどっぷり漬かっていたので、それが正しいと思っていました。
それも、この掲示板にも上がっていますが、「大乗非仏説」を信じている人もいます。

私は、親鸞聖人も、日蓮聖人も、鎌倉時代に生まれるべきして生まれられた方だと思います。
だからこそ、尊いものは、引き継がれてきたのだと思います。
ただ、私は、浄土真宗に引かれて、今幸せだと思っています。
私は、その綱や縄を信じられたのだと思います。

●re.8
非公開の男性
[ 135 ] Re6:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/02/02 (Sat) 20:01 △up ▽down
皆様、ありがとうございます。感動し、ただ驚くばかりです。
ここは知識の宝庫ですので、いろいろ突いて質問したくなり、混乱してしまいます。
しかし、これこそが私が求めていたことです。いろんな角度から、複数の出典をつけて語っていただけるので有難いです。

毎日様
創○の縁で、法華経への関心が強くなったことに感謝します。

泥凡夫様
「ほぅ、すごい、なるほど」以外、何も申し上げられなくなります。
回答に時間がかかることをご容赦下さい。

お互いの尊さを理解していれば、「自損損他」は、起こらないと思いました。
つまり、他宗の尊さも、理解しなければなりません。知りたくても困難。もどかしい。

>正しい行いで過ごされる智慧深き上根の人から見れば卑しいものであろうとも
人は皆、上根の人に近づきたいという向上心があると思います。凡人には難しいとは分かっていても、努力する方法を知りたいと思います。

菩提心様
>生まれるべきして生まれられた
納得しました。

大乗含仏説と思っております。どこが真実で重要かが分かりません。
−−
このスレッドの表題から、話題が逸脱していく場合は、 新規スレッドを作成した方がよろしいかと思いますが、毎日様、如何でしょうか。私の質問スレが、次々と立つことになるかもしれません。

●re.9 admin 
毎日
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[ 136 ] Re7:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/02/03 (Sun) 07:50 △up ▽down
や 様

お書き込み、ありがとうございます。

>このスレッドの表題から、話題が逸脱していく場合は、 新規スレッドを作成した方がよろしいかと思いますが、毎日様、如何でしょうか。私の質問スレが、次々と立つことになるかもしれません。

あまりスレッドが多くなりますと、見にくくなるかもしれませんので、「気軽に質問スレッド」を教義板に準備致しました。

http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=1&pastno=0&vine=52&page=0

や様が、特に多くご質問される予定でしたら、「「や」です」のようなスレッドを立てて、はじめの書き込み等で、これまでの歩みや、真宗の捉え方ですとか、自己紹介からはじめてくださるとうれしく思います。当初は、そのスレッドでどんどんと展開してゆき、流れを見て、また考えるのは、いかがでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.10
泥凡夫
北陸の男性
[ 137 ] Re8:「諸法を誹謗すべからず」の件 2008/02/03 (Sun) 10:41 △up ▽down
や 様

こんにちは。

>お互いの尊さを理解していれば、「自損損他」は、起こらないと思いました。
>つまり、他宗の尊さも、理解しなければなりません。知りたくても困難。もどかしい。

少なくても私は他宗様を詳細に知ってはおりません。ただ、佛説に妄語なし。と祖師の教判に従っておるだけに過ぎません。一切経を拝読し、各々の教相を云々する智慧など私にはないのでございます。

衆生が己の根機に叶う経典を本とした場合、それを信じ進まれるわけでございます。他経典まで触手を伸ばしてお求めになるのも結構だと思いますが、それこそ読み誤りもあり、誤解もあり、本来のすがたと異なって解釈するようになっては勿体なきものであるとも思われます。

>人は皆、上根の人に近づきたいという向上心があると思います。凡人には難しいとは分かっていても、努力する方法を知りたいと思います。

そうですね。向上心とは良い心であると思います。しかしながら、少なくても真宗では上根の人になるための教えは無いのであります。下根の凡夫でありながら、そのままで宜しい。あるがままで来なさい。という弥陀如来の勅命に従うだけであります。日々良い行いを成そうと志しても、悪行の方が山のように多く、他者の痛みや悲しみなど知りもせずに生きております私は、これだけ良い行いをした。他者に対してこれだけ慈しみの心を差し向けた。と己の善行に酔いしれ、私自身が造る悪行を無視するだけのように思われます。

結論と致しましては、私は上根の人に近づくための術は持ち合わせておらんのであります。や様の志に沿うことができずに申し訳ないと思っております。

阿弥陀如来は願行円満して佛になられたのか否かでございますが、ここは『大経』より引用させて頂きます。釈尊と阿難尊者の問答になっております。

『阿難、仏に白さく、「法蔵菩薩、すでに成仏して滅度を取りたまえりとやせん。未だ成仏したまわずとやせん。今、現にましますとやせん」と。仏、阿難に告げたまわく、「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。此を去ること十万億の刹なり。その仏の世界を名づけて安楽と曰う。」阿難、また問いたてまつる。「その仏、成道したまいてより已来、幾の時を経たまえりとかせん」と。仏の言わく、「成仏より已来、おおよそ十劫を歴たまえり。』(大経)

真宗念仏行者において大切な部分を『観経』より引きます。願行円満されて佛となられた阿弥陀如来の念仏衆生に対する御心でございます。

『無量寿仏に八万四千の相まします。一一の相に、おのおの八万四千の随形好あり。一一の好にまた八万四千の光明あり。一一の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。』(観経)

南无阿弥陀佛

●re.11
泥凡夫
北陸の男性
[ 458 ] 念仏行者のあるべきすがた 2008/05/03 (Sat) 23:16 △up ▽down
皆さまこんばんは。

真宗念仏行者のあるべきすがたと偉そうな表題で書きましたが、
かつてジャンヌの頃より申しておりました通り、真宗は「南无阿彌陀佛」が全てであります。

逆立ちしても堕ちるも往生するも自分では絶対にできん我等であり、往生の因は「南无阿彌陀佛」だけである。たったそれだけなのです。

往生の因は「南无阿彌陀佛」であり、行住坐臥に称える報謝の念仏も「南无阿彌陀佛」であり、全部何もかも「南无阿彌陀佛」なのであります。

哀れ凡夫は「南无阿彌陀佛」だけでは何か物足りんと、この尊い無上の六字にあれこれ足し算しようとするのです。何も足さない。何も引かない。ただ南无阿彌陀佛。

そういう念仏行者のあるべきすがたでありたいと日々思っております次第でございます。

南无阿彌陀佛



●re.12 admin 
毎日
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[ 459 ] Re1:念仏行者のあるべきすがた 2008/05/05 (Mon) 11:49 △up ▽down
泥凡夫 様

お書き込み、ありがとうございます。

尊い六字こそ、本当にありがたいものと思い、日々感謝しております。

誰を信じるのでもなく、弥陀を信じ、六字を信じる。

煩悩まみれの自らも、信じるに値しませんので、ただ弥陀にお任せしてゆきたいと思っております。

そして、同時に、仏法者として、すべてにおいて、観察・検証をつづけ、しかし、その限界も意識されますので、南无阿彌陀佛をお称えするばかりです。

真実ありがたい六字です。

南无阿彌陀佛



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