讃嘆・味わいなど

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●No.36
ボン
関東の男性
[ 1097 ] 自力と他力 2010/03/22 (Mon) 19:55 △up ▽down
私は、つくづく、自力根性のかたまりのような人間だと思う。

かつて、電子レンジで卵を加熱しようとして、電子レンジを壊してしまったことが
あった。それも、うっかり、というわけではない。「やめろ、やめろ」という周り
を振り切って、やってしまったのである。世間の人は、これを馬鹿という。

「電子レンジで卵を加熱したら、電子レンジがこわれるよ。」と教えられても、
にわかに信じることができない。自分の目で確かめないと気がすまないのである。
そして、“みごとに(?)”電子レンジを壊してしまったのであった。

自力根性とは、このことだ。人を信じることができないから、自分を頼む。
結局、6万なにがしかのお金を損してしまったのだが、自業自得とはこのことだ。
この性分がわざわいして、私はこれまで、いばらの道を歩いてきてしまった。

これにひきかえ、先人の言うことを素直に「はーい」と聞いて、そのとおりにできる
人間は、自力根性が少ない。その分だけ、この世を楽に渡ってゆけるに違いない。
そして、この法にも入りやすい。まさに、他力である。

こう考えてみると、私のような自力根性の強い人間が、どうしてこの法に入ることが
できたのか、つくづく不思議である。

そのときは、たまたま、その人の言うことを信じようと思った。いや、信じても損は
ないと思った。仮にそれが真っ赤な嘘だったとしても、それを信じて何の不都合も
なかった。白状するが、信じたのは打算だったかもしれない。いわば、「保険を
掛けておこう」と思ったのである。

こんな不純な心構えであったにもかかわらず、ほんの一瞬でも、私は信じる姿になった
のだと思う。その時に、私の中の何かが、仏が授けた鋳型にはまったのだと思う。
こうして、否が応でも仏とならざるをえない身の上とさせていただいたのだろう。

またまた白状するが、私はいまだに心の底から信じているとは言えない。心はいつも
フラフラしているが、実際そうなのだから止むを得ないと開き直っている。
ただ、「すでに救われたのだ」と思えることは、とても気楽である。

「信心とは、自分の心から出たものではなく、仏からいただいたものだ」とよく言う。
この言葉は、私のように疑い深くフラフラしている者にとっては、本当に救いとなる。

南无阿彌陀佛

●re.1
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1098 ] Re1:自力と他力 2010/03/22 (Mon) 23:54 △up ▽down
ボン様 

ご無沙汰しております。極道坊主です。

「自力」と「他力」、簡単な言葉ですが、とても深いテーマなんでしょうね? そう感じます。
此の言葉の味わい方で、また色々と感じさせられ思いも深めて貰えるのではないでしょうか?

>私は、つくづく、自力根性のかたまりのような人間だと思う。

自分も、自分自身をその様に感じております。 感じておりました。
自力根性は、人並み外れております。 その様に思っています。 そんな気になっているだけなのかもしれませんし、そう思うように仕向けられたのかもしれません。 誰に? 佛に依ってであります。

しかし、それが良かったのか、悪かったのか、どうなのかは、最近になって疑問になってきました。

「自力」と「他力」、真宗では大変に重要な言葉ではありまして、公人の配慮のない発言に色々と問題に取り上げられるようであります。

しかし世の中の教育では、「自立しなさい。」とか、「自律しなさい。」とか、「自分自身の力で遣り抜きなさい。」とか、自分の力で立ち上がること、力を出し尽くすことを勧めます。

世の親も、子供達をその様に躾ようとしてはいないでしょうか?
「自らの力で出来る様に。」と努力を推奨します。 「頑張りましょう。」と後押しを掛けます。
教わる方も、それが理想と考えます。

その様に教わってきましたし、それが立派な人間なのだとも考えていました。
「そうなりたい。」と、理想を抱き、その理想に向けて頑張ってもみました。 それらが正しいことだと考えたからです。
自らの力で立ち上がる事はいけないことでしょうか? 多分、大多数の人が「いけないこと。」とは否定はしないと考えます。

『自力』『他力』とは、またそれとは別の意味合いなのでしょうか?

自分も、「自力はいけない。」と考えていました。 でも、「自力がいけない。」と感じるようになったのは真宗の教えを聞き始めてからです。 また、そう教わってきたようにも思います。(聞き違いをしていたのでしょうけど。)

佛様の力、『他力』に対して、凡夫の計らい、『自力』と捉えていました。 相対の世界ですので、『他力』佛の力に対して、凡夫の『自力』です。

「自力はいけないことだからやめよう。」と、この様に受け取っていました。 『自力』を排除するように考えていたように思います。 『自力』を排除すれば、『他力』が備わるように考えていたのかもしれません?
「ああでなければ、こうなんだ。」という見方は、邪見ですよね。

でも、先師方はその様には言っていなかったのだと感じるようになりました。

「『自力』を尽くしているから、その『自力』を尽くしきって、諦めなさい。」とこの様に言われたのだと味わえるんです。 「『自力』では、限界があるから見切りを付けなさい。」「尽くしきって限界を知りなさい。」と言っておられるような思いになりました。
早い話、「お前如きの力ではどうにもならんのじゃから、はよぉー白旗を振れ、降参せぇ〜。 まかせぇ〜。」と仰って御出であったにもかかわらず、「やってみにゃ〜分からん。」と頑張ってみて、「あ〜ぁ、駄目じゃった。降参。」になった状態です。

この『自力根性』によって、自分自身が苦しめられました。 其の苦から逃れるために、「何とかなりたい、何とかしてもらいたい。」と思うようになって、縁あって佛教を聞くことになりました。
色々と聞かせてもらいましたが、最終的には真宗の教えに縁が落ち着きました。

其処まで導いてくれたのは、考え直せば『自力根性』が縁であります。 また、「もっと聞けば楽になるだろう。」「もっとよく知りたい。」「沢山聞けば、より楽になるだろう。」と、精進する心は『自力』と言われるものにほかありません。

『自力』を尽くさなければ、知る事の出来ないところもあるのでしょう。 『自力』が有ったればこそ、此処まで来られたのだと感じます。 自力と引き換えの他力の信楽ではないでしょうか?

[「真宗は、他力の教えです。」と言われて、『他力』になりきっていたのでは、『自力』が尽くされていませんから、『他力』との分かれ目も知ることは出来ないのでは?]とも感じます。 『自力』を与えて下さって、此の思いまで導いて下さったのは、阿弥陀さんの御廻向だと感じます。 自身に備わっている『自力根性』さえも、『他力廻向』なのではないでしょうか? 『自力』として備えて下さっての導きと感じますので、実際は分かれ目などないのかもしれません。

『自力』と『他力』は、相対する対語ではありますが、味わいとしましては対ではないように思えるのです。 私に向けて、私の為の『他力の中の自力』。 『自力』と貶められた名前を借りての、御廻向なのではないかな?と感じます。

上記の様に感じるようにならせて貰ってから、自身の中では、『自力』『他力』に余り拘らなくなりました。 『自力』も御廻向ですから。


「世の中、何処を探しても、誰一人として素直な奴は居ないのですよ。」とは、自分を導いて下さいました先師方のお言葉です。 「『私は素直です。』と言い切る奴は、驕慢のど天井におるんで。」とも、言われました。
実際、そうなのかもしれません。 「自身が知れて居ない。」と言うことを仰っているのです。

此の法には、疑いから入ってくるのかもしれません。 疑って、疑って、疑い抜いて、疑ってみたけれども疑う余地が無くなったからこそ、「此れこそ」と思えるのではないでしょうか? それは思い込みかもしれませんし、間違いかも知れませんが、自身で知る智慧が備わってないのであれば、思い込みもまた救いでありましょう。 疑いの強い者程、正客なのですよ、きっと。

>ただ、「すでに救われたのだ」と思えることは、・・・・・・・・・。

この様に思わされると言うことは、既に「疑っていない。」と言うことなのだと思います。 疑いがあれば感じることの出来ないものだと思うからです。

自身の心持は、何時まで経っても愚図愚図です。 愚図愚図は自性でありましょうから。 でも、愚図愚図でありながらも、晴れ晴れともしています。
その、愚図愚図した者目当ての、真っ先のお救いの誓いですので。
そう味わえるまで、佛様の願いによって育て上げられたから思えるのでありましょう。
自分を救って下さるのは阿弥陀佛の他には居られません。 他の佛様では間に合わんのでございます。 此の思いには、疑う余地が無いのです。(自分にとってはの思いです。)

なんか、意味不明の取り留めのない文章ですね。 申し訳ありません。
ボン様の、お味わいもお聞かせ下されば、有り難いです。 合掌

●re.2
ボン
関東の男性
[ 1099 ] Re2:自力と他力 2010/03/25 (Thu) 01:11 △up ▽down
極道坊主さま、こんばんは。
書き込み、ありがとうございます。たいへん勉強になります。

正直に申し上げまして、私も、「自力=悪い」「他力=良い」という図式がありました。
もちろん、この図式は正しいのだと思います。御文でも「わろき自力」と繰り返し述べて
おりますし、「他力のよきこころ」とも言っています。少し引用します。

「行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかる
がゆゑに、まことのこころとは申すなり。」(御文1-15)
「またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、」(御文2-2)
「自力修行の門は、末代なれば、今の時は出離生死のみちはかなひがたきあひだ」(御文3-4)
「あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて」(御文3-7)
「凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたき」(御文3-8)
「ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて」(御文5-15)

これをよく読み、この図式を補えば「自力=助からない=悪い」「他力=助かる=良い」
ということを言っているのは明らかです。つまり、上人の「良い悪い」の判断は、
「助かるか助からないか」の一点にかかっているといってよいのだと思います。

ひるがえって、この世を生きてゆくうえで、自力と他力の良し悪しの判断は、それとは
また別のことなのでしょう。何がよくて、何が悪いのかなど、正直いって解りません。

確かに、親鸞聖人も最初は自力でした。いくら勉強しても悟れず、六角堂のお百度参りを
しても悟れず、最後は法然上人のもとに手を引かれてこの法にであったわけですから。
極道坊主さまのおっしゃるように、自力をとことん突き詰めたから、他力しかないと
思えたのでしょうね。

しかし、始めから素直に人の言うことを聞いて、この法に入る人がいるのも確かです。
そういう性分の方が確かにおられます。「よし、わかったー」と言って、ごたごた
言わずに飛び込んでくるような粋なお方です。

そこで、私はどうかというと、親鸞聖人のように一本気な自力の結果、他力に入り込んだ
わけでもなく、また粋なお方のように、初めから一本気な他力だったのでもありません。

根っこの部分に強烈な自力根性をもっていながら、とことん自力を突き詰めるわけでもなく、
安易な妥協から自力を引っ込めて、他力を装い打算的に大切なご法をいただいたわけです。
しかし、はっきり申し上げて、「もらったもの勝ち」だと思います。

ほんの一瞬でも、他力の姿にはまれば、だれでも救われるのだと思います。一本気な自力
でも、一本気な他力でも、自力だか他力だかわからない中途半端なやからでも、ほんの
一瞬の「他力」さえあれば、だれでも救い上げる度量を仏は持っているのだと思います。

「人を見て法を説け」とよく言います。これは、自力、他力、中途半端など、あらゆる
性分の者にこのご法が対応できるということをあらわしているのだと思います。
この懐の深さをありがたく思います。

南无阿彌陀佛



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