讃嘆・味わいなど

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●No.35
悪人代表
関西の男性
[ 1016 ] 信心成就と煩悩成就 2009/11/22 (Sun) 16:15 △up ▽down
信心、信心とやかましく言い立てるのは、人間が自覚に達してないからでは?
我は煩悩成就して八万四千の煩悩一つ欠けても生きられぬ凡夫。
「煩悩成就凡夫人」と決定している事実に対応して、阿弥陀は法蔵菩薩へと
身を下して本願を超発なされた。
我が左手の相に真反対の右手の相を「浄土」の相として、本願荘厳なされた。
そして、我が合掌礼拝できる身を廻向下されてある。
南無の我と阿弥陀の仏がピッタリと感応するところに、浄土は近づく。
これ念仏の五門の第一礼拝門の因が近門の果を感得せしめるのであります。
浄土真宗は人類発祥以前から、すでに始まっている念仏の伝統の自覚であり、
その自覚の宗教が釈尊の開かれた「仏道」に他ならない。
我は、煩悩成就の悪人代表として、今、ここに、大乗仏道を感得しつつ、
生きている。信心はもっと落ち着いた静かなものである。

●re.1
菩提心
非公開の非公開
[ 1017 ] Re1:信心成就と煩悩成就 2009/11/12 (Thu) 06:01 △up ▽down
悪人代表様

はじめまして。
書きこんで下さって有難うございます。

教学的によく分からないので教えて頂けないでしょうか?

まず、タイトルの信心成就と煩悩成就がよく分かりません。

>信心、信心とやかましく言い立てるのは、人間が自覚に達してないからでは?
>浄土真宗は人類発祥以前から、すでに始まっている念仏の伝統の自覚であり、
>その自覚の宗教が釈尊の開かれた「仏道」に他ならない。

その自覚を、悪人代表様はいつ自覚されたのでしょうか?

>我は、煩悩成就の悪人代表として、今、ここに、大乗仏道を感得しつつ、生きている。

煩悩成就の悪人代表として、と書かれていますが、煩悩は今生で消えるという意味なのか、それともそれを超越できたという心境になられたということでしょうか?

>信心はもっと落ち着いた静かなものである。

しかし、この落ち着いた静かなものは、最近のわたしはよく分かります。


わたしは、教学的には深い知識は有りませんが、でも、蓮如上人が御文に書かれておられる「称名念仏すべきものなり」とか「阿弥陀如来の御恩の御うれしさありがたさを報ぜんために念仏申すべきばかりなり」のような念仏は理解しています。

又、御文5−8
「南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたと知らるるなり、されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら、南無阿弥陀仏の六字のこころなり、このゆへに一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふ心なりと思ふべきものなり」

5−13
「南無阿弥陀仏の六字のすがたはわれらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよ知られたるものなり、されば安心といふも信心といふも、この名号の六字の心をよくよく心うるものを他力の大信心をえたるひととはなづけたり、かかる殊勝の道理あるがゆへに深く信じたてまつるべきものなり」

一文不知の尼入道でも救われ、そして御文を有り難く頂いております。

南无阿彌陀佛

●re.2
悪人代表
関西の男性
[ 1018 ] Re2:信心成就と煩悩成就 2009/11/12 (Thu) 08:57 △up ▽down
菩提心様
>
はじめまして。
といっても、我々はすでに阿弥陀の本願の中では出遇っています。
>
タイトルの信心成就と煩悩成就とは、実は一つの本願成就、本願力の廻向成就の
二つの側面です。信では機の深信と法の深信、才市さんでは慚愧と歓喜です。
>
「その自覚を、悪人代表様はいつ自覚されたのでしょうか?」とのご質問ですが、
「いつ」とは時のことですね? それこそ、「乃至一念 即得往生」の即の時です。
つまり、信の一念の時を如来より廻向されるのです。それが自覚の時で、この時は
常に「今」なのです。三願転入の「今特に如来の願海に廻入せり」は常に新しい今を如来から廻向されて、「生きている」という感動です。それがそのまま大乗仏道になるというのが、親鸞の念仏ではありませんか? 煩悩の凡夫は、「煩悩、菩提の水となる」というように、煩悩成就は同時に信心成就の裏面なのです。
>煩悩成就の悪人代表として、と書かれていますが、煩悩は今生で消えるという意味なのか、それともそれを超越できたという心境になられたということでしょうか?
というご質問は、あなたが煩悩を消そうとしてらっしゃる証拠です。煩悩は決して消せません。「臨終の一念にいたるまで、消えず、絶えず、とどまらず」(一念多念文意)でしょう。
>
>わたしは、教学的には深い知識は有りませんが、でも、蓮如上人が御文に書かれておられる「称名念仏すべきものなり」とか「阿弥陀如来の御恩の御うれしさありがたさを報ぜんために念仏申すべきばかりなり」のような念仏は理解しています。
>
>又、御文5−8
>「南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたと知らるるなり、されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら、南無阿弥陀仏の六字のこころなり、このゆへに一切の聖教といふもただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふ心なりと思ふべきものなり」
>
>5−13
>「南無阿弥陀仏の六字のすがたはわれらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよ知られたるものなり、されば安心といふも信心といふも、この名号の六字の心をよくよく心うるものを他力の大信心をえたるひととはなづけたり、かかる殊勝の道理あるがゆへに深く信じたてまつるべきものなり」
>
>一文不知の尼入道でも救われ、そして御文を有り難く頂いております。

蓮如の御文(御文章)は蓮如の時代に相応して表現されたものです。現代の我々はその事実をしっかりと認めて、現代に相応する表現をしなければなりません。
「一文不知の尼入道でも救われる」のではなくて、一文不知だから救われるのです。
教学は「本願を信じ、念仏申さば仏になる」(歎異抄)ほかは何もありません。
念仏は「私から申す」ものでなく、いつも如来廻向の大行であることを「知る」=知が
信なのです。親鸞はそれを「信知」と表現しています。

●re.3
菩提心
非公開の非公開
[ 1019 ] Re3:信心成就と煩悩成就 2009/11/12 (Thu) 10:37 △up ▽down
悪人代表様

はい、何となくで済みませんが、分かったような気がします。

>>煩悩成就の悪人代表として、と書かれていますが、煩悩は今生で消えるという意味なのか、それともそれを超越できたという心境になられたということでしょうか?
>というご質問は、あなたが煩悩を消そうとしてらっしゃる証拠です。煩悩は決して消せません。「臨終の一念にいたるまで、消えず、絶えず、とどまらず」(一念多念文意)でしょう。

はい、わたしも煩悩は死ぬまで無くならないと思っています。

煩悩あるがままのわたしだと思っています。

日々、煩悩あるが故に、悩んだり、苦しんだり、不安がったりしています。
(逆に煩悩があるから喜んだりもできる訳ですよね。煩悩があるから努力しようとしたり、我慢しようとしたりするので、マイナスイメージばかりでは捉えていません)

でもそんな時、ふっと救われているんだな、と思う心がその後から出てきます。

自分で起す信心でなく、弥陀より賜った信心だからこそ、自分ではからうんじゃないと思っています。

>蓮如の御文(御文章)は蓮如の時代に相応して表現されたものです。現代の我々はその事実をしっかりと認めて、現代に相応する表現をしなければなりません。


>「一文不知の尼入道でも救われる」のではなくて、一文不知だから救われるのです。

これはすごく実感できるお言葉です。

実体験して思いました。

言葉の表現は難しいと思います。

ですから、わたしは信後の味わいとしてこの場所をお借りして書いています。

味わいは、人それぞれだと思っています。

いまわたしは悪人代表様に分からないところを質問しました。

その質問にお答え頂いて、とても感謝しています。

でも、悪人代表様、現代の我々は、蓮如上人の時代と現代の時代をどのように相応するのでしょうか?

ここのところが今一度分かりません。

ここにはハッキリと相応するものがあって、表現できるように感じます。

>教学は「本願を信じ、念仏申さば仏になる」(歎異抄)ほかは何もありません。

>念仏は「私から申す」ものでなく、いつも如来廻向の大行であることを「知る」=知が
>信なのです。親鸞はそれを「信知」と表現しています。

上記の意味もよく分かりません。

そうです。わたしは何も分からないのです。

そんな何も分からないわたしが救われた平成時代と、蓮如上人の時代の尼入道に何の差もないと思います。

自分の悪業さえ気づかないわたしでした。

しかし、わたしは救われたいと思いました。

その救われたい思いもどれだけあったのか、本当には分かっていないのです。

ただ、わたしはそれでも今は救われたと思っています。

表現とはあくまで人間の知識の中での表現では有りませんか?

言葉で親鸞聖人が「信知」と教えられたことは、真実信心頂いて分かるお言葉ですよね。

この救われた思いを表すには、無限の言葉を尽くしても表現できないのではないかと思います。

弥陀の智慧は、はるかにそれを超えたものだと思います。

だから、わたしは表現の差をわたしに戒めて下さるのなら、もっと、平成の仏教も分からない人に平易にお話下さるのが、悪人代表様のなされることだと思います。
(生意気ですみませんが、悪人の代表って書かれると、すごいんだ!って思いましたので、ついつい上の表現にしました)

御文の中の「当流」という
善導→法然→親鸞→蓮如→次第相承の善知識
これが真宗の流れだと思っています。

そして、この平成時代に、救われた事をよろこんでいて、
「あ〜、この法脈が消えずにいてくれたお陰だな」と愚痴一杯の口から報謝のお念仏が出てきます。

有難いと思っています。

南无阿彌陀佛

●re.4
悪人代表
関西の男性
[ 1020 ] Re4:信心成就と煩悩成就 2009/11/12 (Thu) 15:38 △up ▽down
菩提心様

さっそくに返信していただいて有り難いと思います。
悪人代表という名前は私の自督です。というのは、
どれほど「有り難い」お話を聞いても、その場限りで
すぐにいかり・はらだち・ねたみ・そねむ心の自分に
直面するからです。
「これじゃいかん!」と思う自分が、実は仏智不思議を
疑う自力の存在だと親鸞は教えてくれたと気づいて自督したのです。
「悪人代表」は阿弥陀仏に直参する私です。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が
ためなりけり」という述懐は、まさに親鸞自身が自らを悪人を代表する
者と自覚し、そこから、「されば、そくばくの業をもちける身に
てありけるを、助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
と立ち上がっていく力となる本願だからこそ、本願力というのだと
教えているのです。

「有り難い」という言葉は「不可思議」の同義語ですね。
それが、どうもある種の感情に陶酔した者の感嘆詞として
使われているように思います。
浄土真宗はむしろそうした陶酔感情を打ち破っていく人間の
現実の自覚道だと思いませんか?
親鸞ってそんな人でしょう? 「有り難い、有り難い」と喜んで
る個人的安心のエゴイストではないですよ。

きついことを言いますが、
「何となくで済みませんが、分かったような」は全く分かってない
のです。
「煩悩あるがままのわたしだと思っています」というのでは、阿弥陀
の本願はどこに行ってしまったのですか?

私の発言は傲慢のように聞こえるに違いありませんが、本当の
ことは、「分かった」人から「分かった」人へ伝承されるもの
なのです。私は多くの浄土真宗を学ぶ人が、分からないまま
「分かったような」ところで「有り難い」と言って自分を
ごまかしているように思うのです。ちなみに私は親鸞会員ではないですよ。

浄土真宗は、気分の宗教じゃありません。これははっきり言って
おきたいことです。個人の心理の中に、とてもいい気分になる体験
をさせてくれるようなものとは全く別物と申せましょう。
個人的に救われたというような救いは単なるエゴイストの心境
です。

私が申し上げた『念仏は「私から申す」ものでなく、いつも如来廻向
の大行であることを「知る」=知が信なのです。親鸞はそれを「信知」
と表現しています。』ということが分からないとのこと。
それを分かってほしいですね。

最後にヒントとして、申し上げます。
あなたは『御文の中の「当流」という
善導→法然→親鸞→蓮如→次第相承の善知識
これが真宗の流れだと思っています。』と教えて下さいました。
けれども、それは親鸞の浄土真宗でしょうか?
「当流親鸞聖人の一義」とか「聖人一流のご勧化」とか蓮如が
言っている、当流は、
弥陀の本願→釈尊の説教(一代仏教=観経流通分の念仏付属に帰結する)
→七高僧の説(歎異抄では流通分の念仏付属に直結する善導・法然で代表させる)
→親鸞→真宗門徒
と流れて来た念仏の歴史だと思うのです。
あなたの「当流」は宗門ではありませんか?
宗門にしたところが、それは真宗でなく浄土宗でしょう。善導から始まる
当流とは浄土宗ですよ。真宗は弥陀の本願から始まるんですよ。

親鸞は釈尊以前の「始めに念仏ありき」の仏陀の伝統を見出して
人類、否、一切衆生に呼びかける本願の一道を今も語り続けて
いるのです。私たちが人間に生まれてきたこと、人間として生きていること。
この業道を貫通して現生に往生浄土の道を開くものが阿弥陀の本願です。
私たちは偶然に人間に生まれたのではありません。弥陀の廻向成就して、
生まれてきたのですからね。


私のささやかな領解があなたの求道の一助になれば幸いです。

●re.5
菩提心
非公開の非公開
[ 1021 ] Re5:信心成就と煩悩成就 2009/11/12 (Thu) 16:15 △up ▽down
悪人代表様

>私のささやかな領解があなたの求道の一助になれば幸いです。

有難うございます。

でも、わたしは

>個人的に救われたというような救いは単なるエゴイストの心境です。

表現は個人個人でよろしいと思います。

貴方にエゴイストと取られても全く動じもしませんし、わたしは淡々と信後の味わいを語っていくだけです。

わたしには続けること。これ一つです。

教義の捉え方も、それぞれだと思います。

真実信心頂ければ、親鸞聖人が「弥陀の御代官」と言われる所以も分かりますし、ましてや、上記の表現にはならないと思います。

そういうことで、悪人代表様の当流の捉え方は悪人代表様の捉え方ということで、全く意に介しません。

この場所は、真実信心頂いて喜んでいる場所です。

そう思って書いていますので、教義的に納得いかないようでしたら、何も分かっていないと言っているわたしを相手にするよりも、教義の場の方が、悪人代表様にも納得できる回答を寄せて下さる方が現れるかも知れません。

きっと、必要だったら、阿弥陀様がそうなされると思います。

でも、盛り上がって何よりです。

有難うございます。


わたしは今日や明日の事など考えていません。

ましてや、ここから先どう発展していくのかも知りません。

だってここは、毎日様のHPですので、消えない間書いていくだけですし、それも自由です。

ちょっと、ここ最近忙しかったのでご無沙汰でしたが、逆に悪人代表様の書き込みで、やる気満々です。

なお、今日はたまたま時間がとれたので、またしばらくご無沙汰します。

本当に、今日は気分爽快でした。

有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.6
悪人代表
関西の男性
[ 1022 ] Re6:信心成就と煩悩成就 2009/11/12 (Thu) 18:42 △up ▽down
菩提心様
>
>>私のささやかな領解があなたの求道の一助になれば幸いです。
>
>有難うございます。
>
>でも、わたしは
>
>>個人的に救われたというような救いは単なるエゴイストの心境です。
>
>表現は個人個人でよろしいと思います。

そうでしょう。

>貴方にエゴイストと取られても全く動じもしませんし、わたしは淡々と信後の味わいを語っていくだけです。

信後なんてありますか? 浄土真宗の宗学が間違っていたところです。
信後などというのは、本当に信の一念に立ってない人の寝言でしょう。
親鸞の直々の言葉には信後なんてありませんよ。 

>わたしには続けること。これ一つです。

ぜひ、そうして下さい。私はあなたと議論しようとはしてません。
弥陀の本願は義なきを義とする念仏を廻向してくださいます。

>教義の捉え方も、それぞれだと思います。

その教義が、「自見の覚悟」でなければ・・・です。

>真実信心頂ければ、親鸞聖人が「弥陀の御代官」と言われる所以も分かりますし、ましてや、上記の表現にはならないと思います。

そう、本当に真実信心頂ければ・・です。上記の表現とは、あなたに私がエゴイストと
いったとでも・・いやいや、私たちはエゴイストなんでしょう? それを、自分から
認めてらっしゃるけれど、機の深信になりませんね? しようのない者ですね?


>そういうことで、悪人代表様の当流の捉え方は悪人代表様の捉え方ということで、全く意に介しません。

仕方ありませんね。

>この場所は、真実信心頂いて喜んでいる場所です。

本当に万人が喜べる真実信心を聞かせて下さい。「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情を捨てずして 廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」ですから、きっと、真実信心を得ておられるなら、できますよ・・・

>そう思って書いていますので、教義的に納得いかないようでしたら、何も分かっていないと言っているわたしを相手にするよりも、教義の場の方が、悪人代表様にも納得できる回答を寄せて下さる方が現れるかも知れません。

分かってないことは恥ではありません。また、本願を障げる障害でもありません。
障げは「聞く耳を持たない心」です。

>きっと、必要だったら、阿弥陀様がそうなされると思います。

最後は全責任を阿弥陀様に持っていくのも、従来の悪い習慣です。

>でも、盛り上がって何よりです。
>
>有難うございます。
>
>
>わたしは今日や明日の事など考えていません。
>
>ましてや、ここから先どう発展していくのかも知りません。

こういう、サイトを運営されることは、それだけでも現代の表現になってますよ。
それだけに、世界に通用するような「浄土真宗」を語っていただきたい。
そういう切なる希望から、菩提心様あてに少々不愉快なことも申し上げた次第です。
今後、御自身が本当に人間として自分に責任をもって人生を歩まれたら、また、
感じ方も変わって来ることでしょう。

>だってここは、毎日様のHPですので、消えない間書いていくだけですし、それも自由です。
>
>ちょっと、ここ最近忙しかったのでご無沙汰でしたが、逆に悪人代表様の書き込みで、やる気満々です。
>
>なお、今日はたまたま時間がとれたので、またしばらくご無沙汰します。
>
>本当に、今日は気分爽快でした。
>
>有難うございました。

私も、久しぶりに「本願他力の意趣」を語れて嬉しかったです。今後の発展を期待しています。有り難うございました。                    合掌

>南无阿彌陀佛

●re.7
菩提心
非公開の非公開
[ 1023 ] Re7:信心成就と煩悩成就 2009/11/12 (Thu) 22:41 △up ▽down
悪人代表様

今、ようやく(復習)を終えましたので、少し時間がとれましたのでちょっと書きます。

そこでもう一度、読んでいて思ったところを質問させて下さい。

「自督」って言葉が出てきますよね。

これは下記のHPのようなところを参考にしてもよろしいでしょうか?

http://www2.big.or.jp/~yba/teach/7kousou005.html

http://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46946_28584.html

http://labo.wikidharma.org/index.php?title=%E5%9F%B7%E6%8C%81%E9%88%94

わたしは今読んでいる時間が有りませんので、若し誰かの参考になればと思い、出してきました。

これはインターネットから「自督」と書いてあったところを抜粋しました。

違うところでお勧めのところがあったら、教えて下さい。


>最後は全責任を阿弥陀様に持っていくのも、従来の悪い習慣です。

上記のお言葉は悪い習慣でもなんでもありません。

そう信じられるわたしの思いです。

>信後なんてありますか? 浄土真宗の宗学が間違っていたところです。
>信後などというのは、本当に信の一念に立ってない人の寝言でしょう。
>親鸞の直々の言葉には信後なんてありませんよ。 

ここは悪人代表様の個人的見解でしょうか?

信前、信後はハッキリ自覚できますよ。

だから、「平生業成」と、真宗では言われているでは有りませんか。

多分、悪人代表様が宿善開発して、弥陀の御代官である、次第相承の善知識様の下で、教えを受けたら、「十人は十人ながら、百人は百人ながら」ですから、悪人代表様もわたしのような信後の味わい方ができると思います。

でも、信じられないでしょう?

信じられないから、「易往人無人」とも言われているじゃないですか。

わたし、少しも悪人代表様、嫌っていませんよ。

だってわたしも同じ人間ですから。

でもね、そんな苦しんでいたわたしや悪人代表様を救ってやろうと御苦労された弥陀では有りませんか。

わたしには、その阿弥陀様がいつも微笑んでおられると思っています。

何の強制もせず、ただわたしが喜んでいる姿を喜ばれていると感じています。

>私も、久しぶりに「本願他力の意趣」を語れて嬉しかったです。今後の発展を期待しています。有り難うございました。

こちらこそ有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.8
悪人代表
関西の男性
[ 1024 ] Re8:信心成就と煩悩成就 2009/11/13 (Fri) 09:23 △up ▽down
御同行様
私が「悪人代表」という名乗りを上げたのは、自督の言葉であるということに対して、
菩提心様から、親切に自督を語っているサイトを紹介いただきました。
その中で、自分としては、下記の文章が身近に感じましたので、掲載します。
『親鸞は、諸所において突如として転換していわゆる自督の文を記している。この劇的な転換の意味は重要である。この自督の文は電撃のごとく我々の心を打つ。今や彼は自己にかえって客観的普遍的な教法を自己自身の身にあてて考えるのである。自督とは自己の領解するところをいう。教法の真理性は自己において自証されるのでなければならぬ。教は誰のためでもない、自己一人のためである。かくして「十方の衆生」のための教は実は「親鸞一人」のための教である。普遍性は特殊性に転換する。かかる転換をなしおわることによって普遍性もまた真の普遍性になるのである。今や特殊性に転換した普遍性は現実的に普遍性を獲得してゆく。教をみずから信じた自己は人を教えて信じさせる。いわゆる自信教人信の過程において十方衆生の普遍性が実現されてゆく。このとき十方衆生はもはや類概念のごとき抽象的な普遍ではなく、自己のうちに特殊性をそのままに含む具体的な普遍となる。それは同朋同行によって地上に建設されてゆく仏国にほかならない。


また、毎日様を喜んでおられる皆様は、信前・信後と仰います。
私も、それは自分の体験から、以前の自分とははっきり違う「転換」を信を得たと
言うならば、そうした前後を言えるのでしょう。

私は、自分の個人的な体験や感情でなく、本願(十八願)成就の信というものは、
未来に待望されたり、過去に回顧されたりするものでなく、常に「今、今日」の
信を新たに、新たに更新していく一念の相続であるといただいています。
それで、何か信前・信後というと、私はもう信を得終わった。あなたはまだですか?
というような、これをエゴイズムというのですが、真宗気質を感じてしまう。

一切衆生に廻向された阿弥陀の本願が成就した今、もはや信に前後なく人も我も
ともに阿弥陀の本願を仰ぐ同信一味を自覚すべきではありませんでしょうか?

もちろん、皆様が「毎日様、有り難う」の信心をお喜びになられるのはご自由です。

私は、念仏は信後相続の仏恩報謝とはいただいていません。それは、自分の懐に
盗み取った念仏(二十願)であります。
そんな私たちの自力を転じて、他力不思議に帰入せしめる、果遂の誓いがあればこそ、
ついに、私たちのエゴイズムは「ことごとくみな消えて、正定聚不退転なんどという
位に住すとはいうなり。」といただきます。

皆様、どうぞ自身を深信してまいりましょう。
そして、本当の自信をいただきましょう。

どうぞ、ご叱責、ご批判下さい。

合掌

●re.9
悪人代表
関西の男性
[ 1032 ] Re9:信心成就と煩悩成就 2009/11/16 (Mon) 21:04 △up ▽down
人間の自覚ということは、近代という時代を通って現代に生きている私たちには、

避けて通れない課題です。

真宗で「機の深信」ということを言っていますが、これはただ自分が自分のことを

顧みて、「ああ、私はなんて罪深い人間なのでしょう」と反省するだけの個人的な

内省ではないと思うんですが・・・・・

近代は、人間の操作万能の理性が開いた時代であります。(これについてはアルノ・バル

ッツイ氏の「近代政治哲学入門」をご参照下さい)

人間の理性が何事も操作できる。できないものはできるように操作可能なものに変換して

操作しようとする。そういう人間の自覚として、機の深信をとらえ直すべき時がきている

ように、私はだいぶ以前から考えてきました。

そして、今はキリスト教世界の文明に対する、仏教の新たな人間世界の可能性への使命

が問題だと思っています。

イスラム原理主義がキリスト教世界に敵対して、世界を震撼させている背後に、キリスト

教から発生した、操作万能主義の理性社会があるのではないでしょうか?

そして、イスラムもまた別の意味でア・ラーの神を万能としています。

私たちは神という最高理性になぞらえて自分を天国の主にまで、高めようとする現代人

の理性主義を超えて、より広く、より深い、仏陀の世界を提言しなければなりません。

そのためには、まず人間という自己の存在を真実に自覚して、懺悔しなければならない

と思います。

南無阿弥陀仏は、爽快な気分や有り難い雰囲気を楽しむための麻薬ではありません。

人間が人間の責任を果たすために、如来が廻向したまう知恵でありましょう。

合掌はまことに、仏教の尊い人間のすがたをしめしています。懺悔の心で合掌すること

は自覚の第一歩であります。

合掌




●re.10
菩提心
非公開の非公開
[ 1033 ] Re10:信心成就と煩悩成就 2009/11/17 (Tue) 11:49 △up ▽down
悪人代表様

続けてお書き込み有難うございます。

悪人代表様は、難しいことをお考えなんですね。


>どうぞ、ご叱責、ご批判下さい。

じゃあ、遠慮なく書かせて頂きます。

悪人代表様はちっとも悪人代表じゃないと思います。

ほんとに悪人代表であり、懺悔の心で合掌しているようには文章を読んでいても少しも思えません。

何だか挑戦的だと思います。

自分の意見ばかり主張されて、人の意見や考えを受けとめようとされていないと思います。

本当に悪人代表で、御自身を深信されておられるなら、きっともっと違う書き方をされるのではないかと思います。

親鸞聖人の信心を真似ているようにしか思えません。

言葉でどのように着飾っても、心から安心しているような文章には見えません。

イソップ物語の「すっぱい葡萄」ってお話ご存じですよね。

ここで喜んでいる人に

>南無阿弥陀仏は、爽快な気分や有り難い雰囲気を楽しむための麻薬ではありません。

なんていちゃもん付けているきつねの心境のようにしか見えません。

いいじゃないですか。

一味同行で喜んでいるんですから。


>皆様が「毎日様、有り難う」の信心をお喜びになられるのはご自由です。

この上の文章を読んでいると、過去にどこかで知り合った人を想像させるんです。

悪人代表様でしたら、嬉しいなと思っていました。

若し、違っていたらごめんなさい。

南无阿彌陀佛

●re.11
悪人代表
関西の男性
[ 1034 ] Re11:信心成就と煩悩成就 2009/11/17 (Tue) 19:48 △up ▽down
菩提心様
>
>悪人代表様はちっとも悪人代表じゃないと思います。
>
>ほんとに悪人代表であり、懺悔の心で合掌しているようには文章を読んでいても少しも思えません。
>
>何だか挑戦的だと思います。
>
>自分の意見ばかり主張されて、人の意見や考えを受けとめようとされていないと思います。

私はあなた以外にも、全く同じことを言われたことがあります。
その人も女性でした。
いや〜、本当にそっくりでした。
私が自己主張が強いのでしょう。頑固なんでしょう。

>本当に悪人代表で、御自身を深信されておられるなら、きっともっと違う書き方をされるのではないかと思います。

本当に、自分はどうしても「頭の下がらない」人間です。
私は、何もあなたを相手に説教して、あなたを屈服させるつもりはありません。
下の、親鸞の真似というのも、真似られるものなら真似たいですが、できません。

>親鸞聖人の信心を真似ているようにしか思えません。
>
>言葉でどのように着飾っても、心から安心しているような文章には見えません。

そうですね、安心よりは不安が自分の基調です。

>イソップ物語の「すっぱい葡萄」ってお話ご存じですよね。
>
>ここで喜んでいる人に
>
>>南無阿弥陀仏は、爽快な気分や有り難い雰囲気を楽しむための麻薬ではありません。
>
>なんていちゃもん付けているきつねの心境のようにしか見えません。
>
>いいじゃないですか。
>
>一味同行で喜んでいるんですから。

そうとうに、ご不快な気分にさせてしまったようですね。申し訳ありません。

>
>>皆様が「毎日様、有り難う」の信心をお喜びになられるのはご自由です。
>
誰だって、いい気分になりたいものです。爽快な気分で生きたいでしょう。
「菩提心」様にお尋ねしたいのですが、あなたの御信心の中味はなんですか?
また、私が人にやさしい言葉をかけたり、同情したり、お互いにいたわり合ったり
しない人間だとお思いでしょうか?

あなたのお叱りは本当に女性らしい感情がほとばしっていて、気持ちいいですね。
これもまた、気分を害するのでしょう。ごめんなさい。
ヒステリー性の気質が感じられるのです。私は私の言葉で私の考えを申し上げてるだけなんです。それが、けしからん、ということでしたら、もうひたすらごめんなさい。どうぞ、お気を沈めてください。どうぞお念仏をして、気分を直してください。お願いします。                    合掌

●re.12
菩提心
非公開の非公開
[ 1035 ] Re12:信心成就と煩悩成就 2009/11/18 (Wed) 06:38 △up ▽down
悪人代表様

続けてのお書き込み有難うございます。

イメージトレーニングの課題を出して、後は復習をしていますので、少し時間取れましたのでお返事書きます。

>あなたのお叱りは本当に女性らしい感情がほとばしっていて、気持ちいいですね。
>これもまた、気分を害するのでしょう。

全然気分害してませんね。
だってそういう人間がわたしだって思っていますから。

勝手にわたしの気質分析してもらわなくても、ぜ〜んぶの気質がわたしそのものです。

でも、堅苦しい自覚だとかなんとか言葉ならべるよりも、お互いの本音が分かってこの方がとっても楽しいです。

わたしは悪人代表様がどうしてこの掲示板に顔を出して、色々自論を述べるのかよく分からないのです。


まず、このHPの最初の「毎日の浄土真宗トップページ」には

「浄土真宗で阿弥陀如来の第十八願による真実信心を獲得し、生きながらにして、極楽往生治定したい方のためのサイトです。

獲信、信決定、信心決定、真実信心、真実の行、六字の謂れ、これらのことに興味のある方を対象としています。

そして、信心決定して、後念相続の場を求める方のためのサイトでもあります。

第十八願の信をいただくにはどうしたら良いのか?

法然聖人や親鸞聖人、蓮如聖人のお導きにしたがって、書いて参ります。

どうか、一日も、一刻も早く、弥陀をたのみ、極楽往生治定してください。」
と書いてあります。



>それは真宗でなく浄土宗でしょう。善導から始まる
>当流とは浄土宗ですよ。真宗は弥陀の本願から始まるんですよ。

この悪人代表様の意見と違う場所に今、悪人代表様は書かれておられる訳ですよね。

そして、御叱責、御批判下さいって書いて、批判すると今度は

勝手に人の性格を分析して、人の信心の中身を尋ねたり、謝ってみたり、最後は御忠告ですか。

全然最初から噛み合わない場所で、自覚、自覚って言っても平行線じゃないですか。

信心決定するにはどうしたらいいですか?

今是非助かりたいと思っていますが、どうしたらいいんですか?

という質問なら分かりますが、全く違う土俵で色々話し有っても時間が勿体ないと思います。

わたしの信心の中身はこの掲示板の中で十分に書いてあると思います。

又、真宗の要も分かりやすく書いてあります。

分からなかったり、どうしても納得行かなければ、どうぞ教義の場でお話下さい。

それに多分、悪人代表様のお念仏とわたしの念仏は全く違うようですから、わたしは仏恩報謝の為にお念仏させて頂いています。


追伸 全然怒っていないのでご安心下さい。


南无阿彌陀佛

●re.13
悪人代表
関西の男性
[ 1036 ] Re13:信心成就と煩悩成就 2009/11/18 (Wed) 18:10 △up ▽down
菩提心様
>
私のような、あなたに言わせると「場違い」な者に、ご返事下さり有難うございます。
>
>全然気分害してませんね。
>だってそういう人間がわたしだって思っていますから。

それは、よかった。安心しました。

>勝手にわたしの気質分析してもらわなくても、ぜ〜んぶの気質がわたしそのものです。

「ぜ〜んぶの気質」とは分かりませんけど、まあいいです。

>でも、堅苦しい自覚だとかなんとか言葉ならべるよりも、お互いの本音が分かってこの方がとっても楽しいです。

その通りです。けれど、自覚という言葉は私が、信心ということを教えていただいた
先生方から受け継いだ言葉なので、ご容赦ください。
あなたにも先生がいらっしゃるでしょ? そして、その先生のお導きで今のあなたの
御信心があるのでは? 

>わたしは悪人代表様がどうしてこの掲示板に顔を出して、色々自論を述べるのかよく分からないのです。
>
>まず、このHPの最初の「毎日の浄土真宗トップページ」には
>
>「浄土真宗で阿弥陀如来の第十八願による真実信心を獲得し、生きながらにして、極楽往生治定したい方のためのサイトです。
>
>獲信、信決定、信心決定、真実信心、真実の行、六字の謂れ、これらのことに興味のある方を対象としています。
>
>そして、信心決定して、後念相続の場を求める方のためのサイトでもあります。

「浄土真宗で阿弥陀如来の第十八願による真実信心を獲得し、生きながらにして、極楽往生治定したい方」「獲信、信決定、信心決定、真実信心、真実の行、六字の謂れ、これらのことに興味のある方」を対象とありますが、私もそうなんですが。

>第十八願の信をいただくにはどうしたら良いのか?
>
>法然聖人や親鸞聖人、蓮如聖人のお導きにしたがって、書いて参ります。
>
>どうか、一日も、一刻も早く、弥陀をたのみ、極楽往生治定してください。」
>と書いてあります。
>
それは、当然だと思います。
>
>>それは真宗でなく浄土宗でしょう。善導から始まる
>>当流とは浄土宗ですよ。真宗は弥陀の本願から始まるんですよ。
>
>この悪人代表様の意見と違う場所に今、悪人代表様は書かれておられる訳ですよね。
>
>そして、御叱責、御批判下さいって書いて、批判すると今度は
>
>勝手に人の性格を分析して、人の信心の中身を尋ねたり、謝ってみたり、最後は御忠告ですか。

先の私の文を引用して、私とあなたは意見が違うと言われますが、意見が違うには
その通りです。意見が違ってはいけませんか?

>全然最初から噛み合わない場所で、自覚、自覚って言っても平行線じゃないですか。

その噛み合わないことが大切な事実ではありませんか?
私はそうした、噛み合わない者同士が生かされている事実が大切だと思います。
それは、私たちの「思い」を超えた世界を念じさせる機縁になるからです。

>信心決定するにはどうしたらいいですか?
>
>今是非助かりたいと思っていますが、どうしたらいいんですか?
>
>という質問なら分かりますが、全く違う土俵で色々話し有っても時間が勿体ないと思います。

そんな質問をすれば、「はい、あなたはこうすれば信心決定できますよ。助かりますよ」
と、あなたは教えて、あなたの世界に引き込むことが、浄土真宗だとでも言うのですか?

>わたしの信心の中身はこの掲示板の中で十分に書いてあると思います。
>
>又、真宗の要も分かりやすく書いてあります。
>
>分からなかったり、どうしても納得行かなければ、どうぞ教義の場でお話下さい。
>
>それに多分、悪人代表様のお念仏とわたしの念仏は全く違うようですから、わたしは仏恩報謝の為にお念仏させて頂いています。

この、発言によって、あなたが念仏を誤解していることがはっきりしました。
私の念仏、あなたの念仏、そんなものありませんよ。教義の場といっても、そうした
誤解者の教義の場なら同じことです。

あなたがおられるのは、方便化身の浄土だと思います。そこは、楽しい世界です。
浄土真宗の真実信心をいただいたといいながら、蓮の花に閉じこもって楽しく
五百年も過ごさなければなりません。
その証拠に、あなた以外の人があなたのまわりに、ごまんと生きていて、その人たちは
あなたのようには考えてないでしょう。もちろん、私のようにも考えていません。
意見が噛み合わない人間の集団がそのまま生きているんですよ。
生かされてるんですから・・・・
私は私の意見を絶対だとは思っておりませんし、私は教義というようなドグマ的なもの
も好みません。私は私の信じるところを書いただけですが、それが、「この」サイトに
ふさわしくない、できれば出て行け。よそへ行け。というものが、果たして、本当に
真実報土でしょうか?

私は、私のような者の文章に、批判をしてくださったあなたを素晴らしいと思いますが、
何か、物足りないんですよね。
たとえば、あなたが善導→・・という教えの流れを浄土真宗だと仰るのに、私が違う
意見を述べました。親鸞の教えは、もちろん善導を独明仏正意の本師と仰いでいますが、
それだけに善導の意思を受けて、仏陀釈尊の本意が弥陀の本願(これは私たち意見の
違う人間の思いを超えた仏の本願)にあるということを、龍樹以来の七高僧の教えに
確かめたのではないのでしょうか? そんな、教義、教学はここで言うなと言われますが、
信心の背景にしっかりした教学があるはずです。
私はここで教学を言うのは本意でなく、それに裏付けられた私なりの信心を述べただけ
です。

>追伸 全然怒っていないのでご安心下さい。

怒られても、私は一向にかまいません。怒るのは煩悩成就の凡夫の証拠ですから、
阿弥陀仏の本願はそうした者のために発してくださったのですから、怒っても結構。
そして、あなたが最後にいつも書いてくださる、お名号は私の物でもあなたの物でも
ない、阿弥陀様のお名告りですよね。意見が違って、にぎやかでいいんじゃないですか?
そう思いませんか? 私はあなたの「菩提心」という名告りのいわれが知りたいです。
もし、すでにこのサイトに書いてあるようなら、場所を教えて下されば嬉しいです。

私は、自身が病気持ちで、今はアルツハイマーの母を介護しながら暮らしています。
仕事もあり、あまりゆっくり他の文章を読んでないので、失礼していると思いますが
どうかご勘弁下さい。
>
>南无阿彌陀佛

合掌

●re.14
菩提心
非公開の非公開
[ 1037 ] Re14:信心成就と煩悩成就 2009/11/18 (Wed) 22:56 △up ▽down
悪人代表様

こんばんは

他の用事の為にパソコン開けて、悪人代表様のお返事あってとっても嬉しいです。

>私は、自身が病気持ちで、今はアルツハイマーの母を介護しながら暮らしています。
>仕事もあり、あまりゆっくり他の文章を読んでないので、失礼していると思いますが
>どうかご勘弁下さい。

とても大変な中、お書き込み頂き、感謝しています。

でも、何度も読んで頂くことの方が多分一番分かって頂けると思います。

この掲示板は例えば、今わたしが受講しているイメージトレーニングでいうならば、復習みたいなもんだと思います。

頂いた信心を確認して、また新たな喜びが発見できるので、わたしにとって後念相続になっています。

こういう言葉も、この掲示板のどこかに書いてあると思います。


悪人代表様はわたしに意見がいいたいのですか?

それとも救われたいのですか?

真宗は「信心正因」は御存じですよね。

まず信心決定して、教学はその後、勉強したいものがすればいいことだと思います。

>あなたにも先生がいらっしゃるでしょ? そして、その先生のお導きで今のあなたの
>御信心があるのでは? 

違います。

わたしは往相である、泥凡夫様、毎日様を信じてこの道これたのです。

またかと思われるでしょうが(読んでいないなら分からないと思いますが)

わたしは親鸞会の話を37年間も聞いてきて、お金にも肉体的にも疲れてしまい限界にきていました。

わたしは親鸞会の現状を甥から2chに書いてあることを聞いていましたが、それを払拭するのに8年かかりました。

ですから、お陰で親鸞会を離れても、身近で安心することは有りませんでした。

わたしはまず全く親鸞会から縁遠い所から探そうと思いました。

しかし当時はパソコンを持っていなかったので、当時3時間だけ繋がる契約だったので、会社から2chを時間がある時は眺めていました。

その書き込みから、ジャンヌ掲示板があることを知りました。

その中で、一人親鸞会の人を相手に頑張っている「自信教人信」様の書き込みを直感的に信じました。(こういう掲示板もあります)

わたしは先にも書きましたが、親鸞会の教えを否定している教えに惹かれました。

そしてわたしは初めてそのジャンヌ掲示板に書き込みました。

わたしはこの道来るまでに紆余曲折して来れましたので、多分人より喜びも大きいと思います。

わたしが書き込みした時、御文を拝読するように勧められました。

この掲示板でも、最低3回は御文を拝読するように毎日様も勧めておられますが、悪人代表様は、どうも毛嫌いされておられるようですから、わたしは無理には言いません。

御文には、宿善・無宿善を言われております。

しかし、わたしには誰が宿善があるのかないのか分かりません。

この掲示板を本当に読んで下さると分かりますが、

親鸞聖人は往相の人である、聖覚法印に連れられて法然聖人の元に行かれたのです。

わたしも往相の人(泥凡夫様・毎日様)の言葉を信じて、次第相承の善知識様をご紹介頂き、そしてそこで初めて、「どうしても信心決定したいです」と頭を下げました。

その時が宿善開発です。

そして、初めて善知識様より「南无阿彌陀佛の六字の謂れ」を聞かせて頂きました。

ただの信心ではなかった。六字にはスガタがあるのを知りました。

それは御文の中身とわたしの信心がピタリと合うことを知りました。

>我が左手の相に真反対の右手の相を「浄土」の相として、本願荘厳なされた。
>そして、我が合掌礼拝できる身を廻向下されてある。

わたしも探している間にそのようなお話をお聞きして感激しました。

でもそれでは納得いかなかったのです。

わたしの魂というか本心がどうしてもその場所で満足出来なかったのです。

わたしは再度探しました。

そして今度こそ満足できる道に辿り着いたと思っています。


菩提心の由来の場所はここからです。 「信後の味わい172」
http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=3&pastno=0&vine=10&page=0


御文1−1
「うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな」「嬉しさを昔は袖に包む」といへる意は、昔は雑行・正行の分別もなく「念仏だにも申せば往生する」とばかり思ひつるこころなり 「今宵は身にも余る」といへるは正雑の分別を聞き分け、一向一心になりて信心決定の上に、佛恩報尽の為に念佛申すこころはおはきに格別なり かるがゆえに、身の置きどころもなく踊るあがるほどに思うあひだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり あなかしこ あなかしこ」

上記のような蓮如上人の喜びとわたしの喜びにはなんの差別も有りません。

親鸞聖人からも、「御同朋・御同行」とかしづきて仰せられけり。と喜んで頂いているのです。

それはわたしだけでは有りません。次第相承の善知識の下で頭を下げた人は、どんな極悪人であろうが、赤子であろうが、瀕死の重病人であろうが全ての人です。

阿弥陀様の大慈悲心は全ての人にかかっているのです。

知識を得て納得する教えならば、当然赤子は助からないし、今臨終に向かう人も助かりません。

単純に考えれば分かりそうなものなのに、なかなか理屈をつけて受け付けないのだと思います。

だから、法然聖人も「一枚起請文」の中に、『一文不知の愚鈍の身になして尼入道の無智のともがらに同じて、智者の振舞をせずして、唯一向に念仏すべし』と書かれているではありませんか。

ながながと書いて申し訳ありません。

お身体大切に、貴方一人の体では有りません。

無理せず、気が向かれた時に読んで下さると、一味同行とはどういうことかご理解頂けると思います。

どうかお身体ご自愛ください。

それではおやすみなさい。

南无阿彌陀佛

●re.15
悪人代表
関西の男性
[ 1038 ] Re15:信心成就と煩悩成就 2009/11/19 (Thu) 22:03 △up ▽down
菩提心様

昨夜の返信、有り難く拝読しました。私の身を気遣ってくださり、
心よりお礼申し上げます。

「菩提心」のいわれは、教えていただいた信後の味わいでは、私にはそれが
なぜ「菩提心」か、分かりませんでしたが、あの、「阿弥陀様を思うでしょう」
の詩的な告白?は、長年、親鸞会で苦しまれてから、ようやくご自分の救われる
世界に出遇われたあなたの喜びが伝わってきます。
実は、その前の晩に、ずっとあなたの「信後の味わい」を読んでたんです。
そして、あの告白も読んでましたし、「毎日様」との対話的な交流もずっと
読んでおりました。

このサイトの、他の記事もいろいろ読ませていただいて、あなたが言われる信心
や、お念仏、「六字のすがた」ということも、確かにそういう信心のあり方が
伝承されていることを改めて確認させていただいた次第です。

私は、それを否定したり、排除したりする意図など毛頭ありません。
いや、むしろ、あなたが親鸞会という「法義煩悩」(これは七里和上のお言葉)
の魔界から出て、確かな御法義の流れに帰入されたことを嬉しく思います。

私が「悪人代表」と自分を名告った背景を、お話ししますから、聞いてください。

私は、長年、腰痛を患ってきました。もう、10年以上にもなります。あなたも
腰痛に苦しまれたことがおありですね。今では、脊椎管狭窄症と診断されて、
正座できませんし、長く歩くことも、階段をいっきに4階まで上がるなどは、夢
のようです。

ある日、仕事先で一人のご婦人から言われました。「それは、あなたが感謝の気持ち
をもたないから・・、何事にも感謝する気持ちで生きていたら、病気もよくなるん
ですよ。お薬を飲む時にもお薬に感謝して飲んだらいいんですよ・・、私はあなたの
ことを心配してるから言ってるんですよ・・」 その言葉を聞いているうちに、私
の胸の内に「ありがとう、ご親切に」とは全く反対の感情がむらむらと燃え上がって
きたのです。この痛みが、本当にあなたに分かるんですか? 病気を治したいと医者
にも診てもらい、自分でもいろいろ試して努力してるんです。それでも、痛みはとれ
ないんですよ。あなたは、他人事だと思って「感謝、感謝」と言われますが、母の
介護は24時間、代わってくれる人もなく、がんばってるんですよ。・・・
そういう思いが、相手の人に対する怒りとなってわき起こってきたのです。
その時、突然、私の心の深いところから、「悪人だ! 悪人だ!」と自分に告げる声
が聞こえたような気がしたのです。そしたら、怒りの底が抜けて、親鸞聖人の「他力
をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」が自分のためにあった言葉だと
いただけたのです。それで、その時、相手の人に申しました。
「いろいろ、言ってくださいまして、私は悪人の代表者だと思います」と、・・
そしたら、その人は、「いや、そんなことはありません」と言って、さらに、自分の
考えを次々に仰いました。私は、「あなたは、そんなにいろいろ知ってらっしゃるん
ですから、みんなに聞かせてあげたらどうですか?」と言うと、「いやいや私なんか
が人前でえらそうにしゃべったら、ひどい目にあいますから・・」と逃げられました。

それ以来、いまだにその人とはしっくりいきません。

私が「悪人」と言ったのは、そういう自分のままを言ったので、そして、「代表」
は、私を置いてほかの人に、悪人を代表させるわけにはいかないからです。

その人は、やはり、勉強?してたんでしょうね。 今は、みな生長の家や解脱さんや
円応教や、天理教の陽気暮らしや・・勉強が盛んですから、いろんな教えが世間には
あるんですね。それでも、私は今はみんな仲間じゃないか。人間という仲間じゃないか
そしたら、親鸞聖人の御同朋御同行。同朋同行なら、セクトですが、「御」の一字で
人間と生まれた如来様の御廻向(本願力のなせるなり)で一切衆生がみな「生まれな
がら」の御同朋御同行という世界を自覚(あなたは抵抗があるでしょうが)できたら
いいのになあと思っているんです。
私が思ってる「浄土真宗」は、信心決定してお浄土へ参る前に、今、こうしてこの
人間に生まれた私たちが、この世でお互いの出遇いを、不思議の縁と喜んで生きられ
たらと思うだけです。

私は、真実信心を決定してお浄土に参らせていただける喜びを否定してるんじゃあり
ませんよ。その前に、私には病んだ母との出遇いが今ここにあります。母のいのちは
私が介護して支えてるんじゃなくて、私のいのちが母の介護をするためのいのちとして
如来様から廻向されたものだと思うと、がぜん、力がこみ上げてくるんです。
願力廻向を今、この世で生きている身にいただくことが私の信心成就なんです。
いのち尽きれば、ほっといても、「力なくして浄土へは参るべきなり」と聞いています。
私は自然の浄土へ参ります。そこには、亡き父も祖母も、みんないるにちがいありません。

ああ、長々と自分のこと書いてすみません。

もう、休ませてもらいます。おやすみなさい。

合掌。




●re.16
菩提心
非公開の非公開
[ 1039 ] Re16:信心成就と煩悩成就 2009/11/25 (Wed) 12:40 △up ▽down
悪人代表様

>ああ、長々と自分のこと書いてすみません。

お疲れのところ、書いて頂いて感謝しています。

不思議ですね。

わたしは自分の告白を書いていると、極道坊主様が慰めて下さいました。

そして、今度は悪人代表様が正直に書いて下さいました。

この掲示板でも、毎日様がいつも嘘はいけないよねって仰っておられるように、嘘を書けば見抜けます。

色んな人が見ている掲示板ですからね。

だから、こういう掲示板で、正直に書くということはすごく勇気が要ります。

でも、不思議でしょ。

書いてしまうと、何だか肩の荷がおりたというか、気がつくと一人仲間が増えています。

悪人代表様は悪人代表様のお考えの道を歩めばいいんだと思います。


ただ、わたしはこのHPの冒頭にある

http://shinshu.in/dorobonbu01

泥凡夫様の上記の一番最初に書かれていることが、このHPに集約されているところだと思います。

若し、時間があったらこの場所を何度も何度も読んで見て下さい。

わたしはこの場所を読んで思ったのは、蓮如上人が親鸞聖人の再来だって信じられた事です。

その親鸞聖人は弥陀の化身として、今生に現れています。

そして、わたしは毎日様も泥凡夫様もそのようなお方だと信じています。

なぜなら、このわたしの心が様変わりしたからです。

その道を教えて下さった尊い方だと思っています。


http://kindai.ndl.go.jp/index.html
国立国会図書館  近代デジタルリブラリー

この中に「女人往生勧誘録」「女人往生聞書法話」という本が有ります。

もう、それはそれは女人の嫌らしさを書いてくれています。

最初読んだ時は、「嘘でしょ、こんなわたしじゃないよ」って思って読んでいました。

でもいまは、「そうだよね、気がついていないだけで、これじゃ諸仏方も逃げちゃうな」って楽しんで読んでいます。

そう、楽しんで読んでいるのです。

それはもう自分の行く末がハッキリしているからです。


悪人代表様

自分で気づいた悪は如何ほどの悪だと思いますか?

悪を責めてそして、わたしはここまで懺悔できると喜んでいるのも結構ですが、それは傲慢というものでしょう。

わたし達は今生だけ悪を造り続けているのではないのです。

無限の過去から造り続けてきて、そして信心決定した後も造り続けているのです。

そんな悪人だからこそ、弥陀は法蔵菩薩として御苦労して下されたのだと思います。

>いのち尽きれば、ほっといても、「力なくして浄土へは参るべきなり」と聞いています。
>私は自然の浄土へ参ります。そこには、亡き父も祖母も、みんないるにちがいありません。

わたしは今まさに浄土行きの切符を貰って、諸仏・諸菩薩に護られて臨終まで行きます。

そして、一念帰命のその時に既に、7世代前の先祖は三悪道から救われています。

それぞれの有縁の道、歩いて行きましょう。

お辛い時も有るでしょう。

でもここでの御縁がいつか花開くことでしょう。


>それ以来、いまだにその人とはしっくりいきません。

若し、その人と会ったら、素直に「ごめんなさい」って謝ることですね。

それも、にっこり笑顔を添えて!。

じゃあ、わたしも笑顔を添えて、有難うございました。

又の書き込み宜しくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.17
悪人代表
関西の男性
[ 1040 ] Re17:信心成就と煩悩成就 2009/11/22 (Sun) 16:48 △up ▽down
菩提心様
>

>
>悪人代表様は悪人代表様のお考えの道を歩めばいいんだと思います。

私もそう思っています。

>
>ただ、わたしはこのHPの冒頭にある
>
>http://shinshu.in/dorobonbu01
>
>泥凡夫様の上記の一番最初に書かれていることが、このHPに集約されているところだと思います。

読みました。確かに、いろいろな立場を包み込む大慈悲をお互いに仰げば、

ただ、人間同士というだけでも、御同行と拝みあえるのではと思いますが。

それが、できないのが人間の現実でもあるわけで、それでまた阿弥陀様の

お慈悲を仰ぐご縁ができて、まことに善巧方便ということを感じます。

>
>わたしはこの場所を読んで思ったのは、蓮如上人が親鸞聖人の再来だって信じられた事です。
>
>その親鸞聖人は弥陀の化身として、今生に現れています。
>
>そして、わたしは毎日様も泥凡夫様もそのようなお方だと信じています。
>
>なぜなら、このわたしの心が様変わりしたからです。
>
>その道を教えて下さった尊い方だと思っています。
>
その辺は、やはり、阿弥陀様のお働きでないですか?

>http://kindai.ndl.go.jp/index.html
>国立国会図書館  近代デジタルリブラリー
>
>この中に「女人往生勧誘録」という本が有ります。
>
>もう、それはそれは女人の嫌らしさを書いてくれています。
>
>最初読んだ時は、「嘘でしょ、こんなわたしじゃないよ」って思って読んでいました。
>
>でもいまは、「そうだよね、気がついていないだけで、これじゃ諸仏方も逃げちゃうな」って楽しんで読んでいます。
>
>そう、楽しんで読んでいるのです。

それが、私が思うに、あなたの「菩提心」の名前の由来じゃないですか?

「女人成仏の願」の中に「発菩提心 厭悪女身」とありますからね。

あれは、性別に関係ないんでしょう。やはり、煩悩の凡夫はみな女人で

女身を生きてるんですよ。そんな身を菩薩の身に、変成させようという

願が「女人成仏の願」だと領解させてもらっています。

>それはもう自分の行く末がハッキリしているからです。

その通りでしょう。

>
>悪人代表様
>
>自分で気づいた悪は如何ほどの悪だと思いますか?
>
>悪を責めてそして、わたしはここまで懺悔できると喜んでいるのも結構ですが、それは傲慢というものでしょう。

私は、それどころか懺悔など自分からできたりしません。また、私の「悪」が三世を

貫いてどれほど深く底知れないものかも、実際、わからず生きてるだけの凡夫です。

>わたし達は今生だけ悪を造り続けているのではないのです。
>
>無限の過去から造り続けてきて、そして信心決定した後も造り続けているのです。
>
>そんな悪人だからこそ、弥陀は法蔵菩薩として御苦労して下されたのだと思います。

そうですね、もうひとつ言わせてもらえば、「悪人」すら法蔵菩薩の現れなので

しょう。まあ、こういうことを言うと、また誤解されるんですが、私の罪業の

深淵のもうひとつ底にもぐって、阿弥陀様は法蔵菩薩となられたようです。

そうでないと、私が助かる道理がありません。えらそうでしょう? 勘弁して

下さい。


>
>>いのち尽きれば、ほっといても、「力なくして浄土へは参るべきなり」と聞いています。
>>私は自然の浄土へ参ります。そこには、亡き父も祖母も、みんないるにちがいありません。
>
>わたしは今まさに浄土行きの切符を貰って、諸仏・諸菩薩に護られて臨終まで行きます。
>
>そして、一念帰命のその時に既に、7世代前の先祖は三悪道から救われています。
>
>それぞれの有縁の道、歩いて行きましょう。

そうしましょう。お互いに自分の有縁の道こそ大切ですから。

>お辛い時も有るでしょう。
>
>でもここでの御縁がいつか花開くことでしょう。
>
>
>>それ以来、いまだにその人とはしっくりいきません。
>
>若し、その人と会ったら、素直に「ごめんなさい」って謝ることですね。

それは〜、なかなか難しいな〜。でも、いつか、そうできると思います。

>
>それも、にっこり笑顔を添えて!。
>
>じゃあ、わたしも笑顔を添えて、有難うございました。
>
>又の書き込み宜しくお願いします。

最後に、あなたが書いた言葉を引用して、同感、同感と申し上げたい気分です。

「今は、色んな仏法の本を拝読させて頂いている時が、一番楽しいです。」

>南无阿彌陀佛

それでは、さようなら。合掌。

●re.18
菩提心
非公開の非公開
[ 1041 ] Re18:信心成就と煩悩成就 2009/11/23 (Mon) 12:21 △up ▽down
悪人代表様

>「今は、色んな仏法の本を拝読させて頂いている時が、一番楽しいです。」

良かったですね。

楽しいことが有るって、知っているだけで嬉しいですね。

又、暇な時間できたら覗いていてみて下さい。

フッと、直感がひらめく瞬間があるかも知れません。

お書き込み有難うございました。

南无阿彌陀佛



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