讃嘆・味わいなど

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●No.29
菩提心
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[ 827 ] 通俗仏教百科全集より 2009/04/06 (Mon) 22:47 △up ▽down
○仏縁あるとなしとの事

大智度論の中に今現在為所菩薩摩訶薩説般若波羅密の経文を釈し給えるところに佛と阿難と舎衛城に入て乞食(こつじき)す、是時に一人の貧女ありて道路に立て佛を見る。

阿難佛に白(もうさ)く、この貧女まことに佛に近づきて道路に有り、慈悲愛愍を以て済度したまへかしといへり。

佛阿難に語(つげ)たまはく、是の貧女はいまだ済度の縁なきものなりとのたまへり。

阿難の白く佛の方より往て近づきて相好光明の利益を施し給はば歓喜の心を発して因縁を作んと、その時佛貧女に近寄りたまへば貧女は身をそむけて佛を背中にす。

佛またその向方(むくかた)へ立向ひたまへば四方へ身をそむけて佛面を見ずして面を上に向て天を眺めている。

佛また天より下るがごとく上より来たりたまへば、貧女は下を向いて地を眺めて居る。

佛また地より出たまへば貧女は面をあてて眼をふさぎて佛を見ず。

この時佛、阿難に語りたまはく、「縁なき衆生は度しがたし」しかれば佛には値がたき事、優波羅樹華の如し。

譬ば水雨の所々に有りて得ること易けれども餓鬼は渇して飲む事を得る事能はざるが如しと佛説のまま龍樹の伝へたまひたる論説なり。

これは昔のことなれども今の世にても仏縁のあるとなきとは同じ事なり。

先条にいうがごとく、同じ俗人の算盤にても仏法を信ずる為となるもあり、謗るためとなるもありてその身の損得の雲泥の違いなり。

仏家に住みながら仏意を知らざるは無宿善の貧女に等し。

宿世見諸仏楽聴如是教も若人無善本不得聞此経も清浄有戒者乃穫聞正法もみな大経の明文なり。


★ 釈尊でも、縁のない人を救うということは難儀なんだなぁ。
  どうしてこのわたしが救われたんだろう。
  有難いな、この難信の法が信じられたのも、このように逃げても逃げても  それでも逃がさない弥陀の本願力。

南无阿彌陀佛

●re.1
菩提心
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[ 829 ] Re1:通俗仏教百科全集より 2009/04/09 (Thu) 06:14 △up ▽down
○八ケ条御書より  (開山親鸞聖人の門流に於て普く心うべき条々)

神事に付てこころうべき旨あり、祖師聖人在世の昔再度東関へ下向ましますとき先ず伊勢太神宮に参詣したまうと震かんの伝文にもあきらかに見えたり。

聖徳太子も熊野に詣でたまいて通夜したまいけるとき権現のたまえることあり。

西海東陸の万里を凌て社参するもの多しといえどもただひとへに寿福をいのり名利を願うのみなるがゆえに和光同塵の本懐とは相違す。

しかるに今太子にまみえて無上の法味を味わい最勝の法楽を受けて、身涼しく心明らかなりと喜びたまいるたること先徳の法語に出でたり。

しかれば開山聖人も浄土真宗の法義に住して参詣拝礼したまえること神慮ふかく納受ましましつらん。

平太郎が社参の時、善信が教えによりて念仏するものなりとのたまえるをすら、笏を正くして殊に敬屈の礼を顕したまえるをやしければ聖人相伝の宗義を守りその行跡に随うもの神国の風儀に交わること子細に及ばず。

縁にふれて太神宮へも参宮せば常行大悲の行人なりともそなわし、慈悲の家には離れずと親しみたまわらんこと道理必然なり。


★ 神社へは絶対行ってはいけないと聞かされてきて、それを頑なに守り続けて38年。
  如何に無知とは言いながら、今はこのような御著書を拝読させて頂いて有難いと思う。
  伊勢神宮も行っていないと言うと、みんなから変人扱いされていたことがよく分かった。

南无阿彌陀佛

●re.2
菩提心
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[ 831 ] Re2:通俗仏教百科全集より 2009/04/12 (Sun) 19:04 △up ▽down
○二十五の菩薩の事

善導大師の往生礼讃の中に引きたまへる十往生阿弥陀仏国経にのたまわく、若し衆生有て阿弥陀仏を念じて往生を願う者は彼の仏即ち二十五の菩薩を遣わして行者を擁護(かこみまも)らしむ。

若しは行若しは坐若しは臥若しは昼若しは夜一切時一切所悪鬼悪神其の便りを得せしめずと説きたまへり。

しかればこの二十五菩薩は常に念仏の人をまもりたまえる諸菩薩にて現世利益和讃に南無阿弥陀仏を称なうれば観音勢至はもろともに恒沙塵数の菩薩とかげのごとくに身にそえりとある菩薩たちなり。

恒沙の名はしれねども二十五の菩薩だけは臨終の来迎にも列なりてあることゆえ其の名は知れてある事なり。

来迎の時に蓮台を持ちたまえる○観音をはじめとし○勢至菩薩○薬王菩薩○薬上菩薩○普賢菩薩○法自在菩薩○獅子吼菩薩○陀羅尼菩薩○虚空搬菩薩○徳蔵菩薩○宝蔵菩薩○金光菩薩○金剛蔵菩薩○光明王菩薩○山海慧菩薩○華厳王菩薩○衆宝王菩薩○月光王菩薩○日照王菩薩○三昧王菩薩○定自在王菩薩○大自在王菩薩○白像王菩薩○大威徳王菩薩○無辺身菩薩なり。

この内第一の観世音は法華経の普品門をはじめとしてあまたの観音経ありて人の知るところ、第二の勢至は念仏円通の由来ありてしらぬものなし。

次の薬王は因位に三願ありて第一願には千仏成道の時最初に供養せんと第二願には千仏成道の終り第千仏目には我成道して一切の群生を化度せんと、第三願には刀兵疾疫飢饉の時大医王と成りて今の三災を救わんと誓えり。

薬王の名も此義あり後には仏と成りて類至如来と号することを又薬の病を治するをもまもりてついにはその縁をたよりて男女放逸にして仏神に奉えず父母を孝せず夫婦和せず不忠不義なるを煩悩の病とするならばそれをも療治せしめんとの事どもは、仏説薬王経にありひらきて見るべし。・・・・・・・


次に終わりの無辺身これは地蔵の異名にて蓮華三昧経に説けるがごとく阿弥陀如来の化身にて三十三身も諸神諸仏も菩薩をも日天子月天子閻魔も地蔵菩薩にて阿弥陀如来の無辺光無辺身をあらわして外菩薩にことなりて宝冠をかふりもせず声聞僧のすがたにて仏徳はあきらかに白毫相は具したまえり。

これらのことは地蔵本願経にて見るべし、又二十五菩薩の持てる品々幡とも鉦ともしれねども慧心院の僧都源信和尚は二十五菩薩の仰接は毎度拝見したまえることにてそのすがたから仰接の讃文を作りたまえり上に引くがごとし。

その時に毎々おがみたまえるに琴も鼓もまのあたりに見たまるままを図しをきたまえり左にうつし出せり目にも物を見てかかる菩薩の常にまもりてましますことを勿体なく有難く南無阿弥陀仏を称うれば恒沙塵数の無辺身も身にそいたまえるをよろこぶべし。


★色々な菩薩方のお名前や、能力を知りえてとても楽しい。このようなお方達 から守られとおしのわたし。何と有り難いことだろう。二十五菩薩、丁度、 勤めだした頃の役員さんと同じ数。役員さんの名前を覚える事と電話番だけ で良いと言われて就職したけれど、全然中身は大違い。そういう事も含めて も今のわたしがあるのだろう。
 
南无阿彌陀佛



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