讃嘆・味わいなど

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●No.27
ちょっと失礼します。
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[ 711 ] 歓ぶとは・・・ 2009/03/15 (Sun) 16:15 △up ▽down
私の有縁の善知識様は、
『金品なんか持って来るな!だったら行者を連れてきなさい。』
『有り難いと思うのなら、まだ親族でいただいていない者が居るのだから、精出してお手引きしなさい。』
お手引きが出来なくても、時間がかかっても文句を言わず、色々とアドバイスをくれます。
宿善の有無があるので、お手引きが出来なくても責める事は一切ないです。

誰が歓ぶって、皆が歓ぶ事が、仲間となる行者がまた一人加わる事が歓びだと思います。
信心をいただいた人が、未安心の者に触れるだけで仏縁になるそうです。

今こうして、パソコンに向かう時間を阿弥陀様が作ってくれていると感謝します。

●re.1
菩提心
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[ 712 ] Re1:歓ぶとは・・・ 2009/03/15 (Sun) 20:40 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

はじめまして。

>信心をいただいた人が、未安心の者に触れるだけで仏縁になるそうです。

そうなんですか?

とても嬉しくなる御言葉ですね。

有難くなる御言葉ですね。

だから、ここに書き込んできた彼女も少しづつ、仏教書に目を通したくなるのでしょうか?

わたしもいつか家族揃って一味同行になりたいです。

でも、こればかりはやはり宿善まかせでしょうね。

全然その点ではあせってないですね。

わたしの計らうことではないと思っています。


>誰が歓ぶって、皆が歓ぶ事が、仲間となる行者がまた一人加わる事が歓びだと思います。

ここで御縁頂きまして、有難うございました。

南无阿彌陀仏

●re.2
ちょっと失礼します。
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[ 713 ] Re2:歓ぶとは・・・ 2009/03/15 (Sun) 21:00 △up ▽down
何時かなどとのんびり構えていたのでは、勿体無い事だと思います。
他人にこの話をする事から比べれば、家族をお手引きする方が楽です。
いつも、後残り少ない時間で、どれだけのご恩報謝が出来るのかと、自問自答しながら、阿弥陀仏のお力を頼りに日々精進です。
ただ、有り難いと、念仏を言っているだけでは、もったいない事です。
一人でも多くの者を弥陀の前に差し出せたら、どんなに幸せでしょう。
真剣に聴聞をした結果が信心決定の時です。

信心いただいた証拠を私は頂きました。
菩提心様は、持っているのですか?

●re.3
菩提心
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[ 714 ] Re3:歓ぶとは・・・ 2009/03/16 (Mon) 05:51 △up ▽down
ちょっと失礼します様

素晴らしい内容の書き込みで、頭が下がります。

わたし、昨日、有縁の善知識様に久々にお話頂けることになりました。

色々お話をして頂く中で、「女人往生聞書」がとても印象深く有難いと思いました。

わたしは、善知識様の御言葉を聞きながら、今この道に辿り着いたのだと、ずっとジャンヌ掲示板に、「自信教人信」様の御書込みを信じ、泥凡夫様、毎日様に導かれて、今この座に出させて頂いているんだなと、嬉しい気持ちで一杯でした。

有縁の善知識様は
「すごいね、大蛇を見ても女人をみてはいけないんだね」とお話下さり、「これ、僕が云っているんではないんだよ、お釈迦様が仰っているんだから」と時々、冗談を言いながらお話下さいました。

わたしは、19歳で初めて親鸞会で御縁頂いた時から、なぜ48願には、18願と重ねて35願があるのか御文章のお話をされる度に疑問に思っておりました。

本当に女の人は罪深いものなのだろうか、
もっと、男の人でも厭らしい人は沢山いるではないか、
そんな思いをしておりました。

しかし、年を重ねていくうちにわたしは、この35願がわたしの為のお約束だったのだと知らされました。

赤子でも、すぐに御縁頂く人はおられます。

でもわたしは、約40年間も仏法を聞きながら、御縁を頂けませんでした。

しかし、わたしはこの期間がとてもわたしには必要な期間だったと思います。


>信心いただいた証拠を私は頂きました。菩提心様は、持っているのですか?

どのようなものを仰りたいのか分かりませんが、わたしは善知識様より女人は疑い深いから助からないと教えて頂きました。

しかし、わたしは御縁頂く前にある出来事が我が身に起きた時から、一度も阿弥陀様の存在を疑った事がありません。
それはずっと今も続いています。

家に帰ってきてから、金剛心様から送って頂いた「女人往生聞書」を読みながらわたしは本当に今生で救われて良かったと思います。

わたしは、わたしの心がとても変わってきていることが有難いと思います。

ちょっと失礼します様と同じ証拠がなくても、今のわたしは全然構わないのです。

それで心配もしていないのです。

疑い深い女人として生を受け、今喜んでいるわたし自身で満足出来るのです。

地獄に堕ちるとも思っていないのです。

摂取不捨の弥陀の御誓いは、わたし一人の為であると思っていますので、有り難いと御恩報謝のお念仏を称える毎日です。

わたしは、普通のおばさんですが、次第相承の善知識様の金剛心様や愚老様や愚尼様とこの掲示板で御縁頂いてお話させて頂くことさえ、とても有難いと思います。

わたしは、30数余年、親鸞聖人の御教えに「行」が有ることさえ知らずに、聴聞してきました。

それが今こうして掲示板でお話できていることに感謝するばかりです。

南无阿彌陀仏

●re.4
ちょっと失礼します。
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[ 715 ] Re4:歓ぶとは・・・ 2009/03/16 (Mon) 22:03 △up ▽down
宿善まかせと言う言葉は、逃げ口上ですよ。

●re.5
毎日
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[ 716 ] Re5:歓ぶとは・・・ 2009/03/16 (Mon) 22:21 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

>宿善まかせと言う言葉は、逃げ口上ですよ。

これは、自戒のことばでしょうか。

それとも、他者批判でしょうか。


他者について述べるのであれば、なぜ、「逃げ」になるのでしょうか。

「宿善まかせ」ということばは、真宗において、伝統性のあることばであると思います。

それなのに、その「言葉」が逃げ口上というのは、おかしくないでしょうか。


摂取不捨である以上、守られつづけるのであり、逃げることはできないのではないでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.6
ちょっと失礼します。
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[ 717 ] Re6:歓ぶとは・・・ 2009/03/17 (Tue) 19:34 △up ▽down
宿善の有無は、この機を持ってしては見えないものです。
宿善任せだから私にはどうにも出来ないと最初から諦めているように取れます。
お手引きは、相手に対して、どうぞこの話に興味を持って下さい、お願いします。どうぞ、宿縁・宿善がこの人にありますように、と言う心で接することから始まります。
すぐに聞ける人、何十年もかかる人、残念ながら聞けない人、と百人居れば百通りあります。
人間は、仏法を聞く器を皆平等に持っています。
自分と縁がある人には、この話を聞いてもらい、一緒に極楽に往きたい、この世では、聞く事が出来なくても、私と関わり、仏法の縁を繋いで欲しいと言う思いから、お手引きをします。
宿善任せとは言うものの、この法に遭えずに逝ってしまった人の事を思い嘆き悲しむものだと思います。
底辺の者なので、言葉が足りませんが、宿善任せの捉え方の違いだと思います。

●re.7
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 718 ] Re7:歓ぶとは・・・ 2009/03/20 (Fri) 02:02 △up ▽down
ちょっと失礼します 様

私が危惧していることの内容が、伝わっていないように思います。

信を獲た人が、お手引きをする。そこに、強制の必要はないと私は考えます。

そのようなことは、自然に起こることです。だからこそ、不可思議なのであり、そこには信心のはたらきを感じるのです。

ふたりお手引きしたら、ひとりお手引きしたひとより偉い。

そのような考えを、私は危険だと思います。

誰もお手引きしなかったひとが非難される。このようなことは、とても良くないことだと私は思います。

あるいは、お手引きの努力が足りないとして非難される。このようなことも、とても良くないことだと私は思います。

他者を非難するくらいなら、自分でやればよいのです。

そして、自分でできないなら、非難するのがおかしいのだと思います。

あくまでも、宿善まかせのことであり、それは自らの手柄ではないと思います。

お手引きしたひとが、その人数でもって人を差別するなら、そこには、自分の手柄だという意識があるのではないかと思います。

ちょっと失礼します様が、弥陀に感謝して、お手引きをする。それは、尊いことだと思います。

ですけれども、相手の方がお話聞いてくれても、それはあくまでも、弥陀のお育てがあってのことではないでしょうか。

ちょっと失礼します様の文章を拝読しておりますと、自身の行為を述べているというよりも、人に「させよう」としているように見受けられます。

ちょっと失礼します様がお手引きをしてゆくときに、他者を否定する必要が、あるのでしょうか。

ご自身、精を出してゆけば、それでよいかと思います。


「宿善任せの捉え方の違い」というよりも、他者のお手引きの努力が足りないと非難してゆくのか、自らの行為を変えてゆくのかの違いのように思えます。

南无阿彌陀佛

●re.8
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 719 ] Re8:歓ぶとは・・・ 2009/03/17 (Tue) 23:12 △up ▽down
ちょっと失礼 様

[ 711 ]で、

>宿善の有無があるので、お手引きが出来なくても責める事は一切ないです。

このように書いていらっしゃいますが、その後の文章を展開を見ておりますと、どうも内容が異なっているように感じられます。

それとも、善知識様が責めなくても、行者は責めているのですか。

その状態について、善知識様は、何もおっしゃらないのでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.9
ちょっと失礼します。
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[ 720 ] Re9:歓ぶとは・・・ 2009/03/18 (Wed) 14:52 △up ▽down
宿善任せの使い方も書き込みましたので、ご参考になさって頂ければと思います。
前後の文も踏まえた上でお読み頂ければ幸いです。

●re.10
菩提心
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[ 721 ] Re10:歓ぶとは・・・ 2009/03/19 (Thu) 10:02 △up ▽down
>「57」図々しい希望

>折角このページ名が変更になったのなら、総括して頂ける善知識様に出現していただけたら、もっと楽しく、皆で歓び合える団欒の場となるのになぁ・・・と勝手に思ってしまいました。
>私ってホントに欲張りですね。
>どこかの善知識様がご覧になって居たらと思います。


良かったね。愚尼ちゃん

貴女の希望通りの善知識様が現れて。

わたしもすご〜く嬉しいよ。

これで、愚尼ちゃんの過去ログの書き込み読みながら、3連休楽しみま〜す。
(ジャンヌ掲示板のプリントアウトしたのも残っているし)

わたしって、でも意地悪ですよね。

正直、「自信教人信」様の強引さのお陰で、この道来れましたので感謝したい気持はやまやまですが、何しろ、愚尼ちゃんには色々の思いがありますので。

愚尼ちゃんの書き込みやわたしの内面を通して、「女人往生聞書」を読めることは本当に有り難いです。

昨日、金剛心様に頂いたのを、下の彼女を見せました。

全然分んないから説明してくれって頼まれたけれど、口では上手に説明できないので、ここに書き込んで読んで貰おうと思っています。

(彼女、この掲示板見つけたみたいなので)


そのうち感想書きますね。


南无阿彌陀佛

●re.11
愚老
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[ 722 ] Re11:蓮如忌 2009/03/19 (Thu) 20:33 △up ▽down


菩提心さま
吉崎御坊では蓮如忌は、毎年4月23日から5月2日にかけ、京都東本願寺から蓮如上人の画像「御影」を迎えて、盛大な法要が行なわれます。
同行の方々と宿坊に1泊し蓮如様のご真影をお迎えする感動は忘れません。
23日夜7時―8時頃に掛けて御神輿が到着致します。大きな行灯を持った門徒達が先導で下広場から本堂までの急階段を一挙に上り詰める。
蓮如様のご到着大声が響き伽藍の太皷と大鐘がゴンーンゴンーンと鳴り響き提灯明かりの幻想的な雰囲気に階段の両側面に善男善女が合掌しお念仏の声と共に到着の瞬間は涙が溢れます。アアア蓮如様蓮如様親しい高祖でしたのでしょうね。
本光坊了顕の縁起のお山の上本光坊お堂でビデオ等も翌日は上映されます。
如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師知識の恩徳は骨を砕きても謝すべし
死を以って報謝中々出来ませんね。南無阿弥陀仏。
私達は帰りには二俣の本泉寺にも寄り蓮如忌にあわせ縁起等拝観し帰宅します。合掌

http://www2.fctv.ne.jp/~zhunei/

●re.12
愚尼
非公開の非公開
[ 723 ] Re12:蓮如忌 2009/03/19 (Thu) 21:14 △up ▽down
あずちゃんへ

書き込みありがとうございます。
まだ、確認をしていないので、私は狭義で云う善知識に出会えたと思っていません。
広義で言えば、私にとっては善き人の金剛信様・忍草様の善知識様とお話が出来て嬉しく思っています。

●re.13
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 724 ] Re11:歓ぶとは・・・ 2009/03/19 (Thu) 21:48 △up ▽down
菩提心様

御無沙汰しております。 極道坊主で有ります。

いつも貴女様の書き込みを拝見させて貰いながら、ほんわかと暖かいものを感じさせて貰っています。

なかなか、教義の事に関して文章にする事が出来ず書き込みに至りませんので、この場に出てくる事に躊躇しております。

唯々、菩提心様の親様との味わいを感心しながら、また懐かしく思いながら読ませて貰っています。

本当に、生活の中において佛様を感じておられる様子が窺えて、「教えに生かされておられるなぁ。」と感じさせられます。(巡り会えてよかったですね。)

佛様から見れば、我は這子同然で有りまして「赤子が親に甘えるのに理論は要らん事。」だと感じております。(うちの子は考えながら、計らいながら、理解を深めて母親とは接しておらんように思います。)

親様と自分らは、そういう繋がりで良いのだと感じます。(只々、御念佛だけで。)

ご縁を戴いた当初は、知って、覚えて、暗記して少しでも理解を深めて、なんて考えていましたが、親さんの願いが届いてくださってからは、なんというかそれらの物が両の手から落ちていった様な気がします。

経論釈に詳しくなれば、其れを武器に他者より驕った心が起きます。 そんな心に平安は有りません。 ならば、勉学も程ほどの方が良い。

「愚かだ、無学だ。」を前面にひけらかせば、知らぬ間に卑下慢に陥ってしまう。(そもそも、無学とは学ぶ事が無いということで、佛様の事を指すらしい。)それもまた慢心と言われる。 慎むのも程々が良い。

そもそも、理解が至らねば助からん教えであるならワシ等は到底助からんのでしょう?

四大海水の水よりも、さらに多いといわれる佛様の智慧を、凡夫如きの猪口くらいしかない位の大きさの器ですくった位で何が解りましょうか?

御念佛が戴けたのなら、必要な時は必要なだけの智慧を、親様が用意して下さるものと戴きます。 そう信じております。 其れがまたありがたい。

私独自の外れた戴き方かもしれませんが、教も行も信も証も御名号の現われと聞かせて貰っておりますので、只々御念佛です。(御六字を入力したいのですが、書き込みますと横書きになってしまいますので遠慮させてください。)

そこには、感謝の気持ちも、お願いしますの気持ちも、助けて下さいの気持ちも、有難うございますの気持ちも同時進行でごちゃ混ぜです。

先の妙好人方々も、そういった味わい方をなされたのではないんでしょうか?

自分自身は、先師の経論釈に理解を深めるよりも、妙好人のような生き方を目指したい。(御念佛が腹に据われば、おのずと経論釈も知らされるでしょう。 割賦が合うとはそういうことではないですか?)

其の為に真宗の教えに預かりたいと思わされた訳だし、聞いてみたいと腹を据えさせられたわけですから。

そういう生活をさせて貰っておりますと、嫁も喜んで共に歩んでくれます。 理屈抜きで御念佛を喜んでくれます。 「難しい事は解らんわいね。」とは、嫁の談。

子供達も、其の姿を見て判らん儘に御念佛に触れています。 そのまま喜んでくれてます。(真似事かもしれませんが?)

家族のお手引きは、口で言うほど簡単では有りません。(何分にも情というものが絡みます故に。) でも、家族の中で御念佛を喜べる者が現れたならば(救われたとは申しません。)水の波紋のように広がって行くものと感じます。

真実は、言葉を介さなくても以心伝心します。 言語道断と言う言葉が有るくらいです故。 文字や言葉になれば真実半分。 そんなものを理解したところで真実半分。
物事が分からんし、善悪が判らんし、真実が解らん者の為に建てられた願いが御念佛なのだと知らされます。 私は其れと共に寄り添っていくだけです。

   合掌


●re.14
菩提心
非公開の非公開
[ 725 ] Re12:歓ぶとは・・・ 2009/03/19 (Thu) 23:22 △up ▽down
愚老様

早々のお返事ありがとうございました。

吉崎御坊に行った時、4月23日は賑やかだと聞きましたので、今まで縁がなかったので行ってみようかなと思っていました。

ここに書いておけば忘れないだろうなと思ったのも一つの理由です。
愚老様もお出かけになられるのですか?

若し、その時会えるといいですね。



愚尼ちゃん

言いたい事は本当は山ほどあったような気がして、過去ログやプリントアウトしたのを読んでいたら、もうどうでもいいや、

赤線引いた箇所が、当時の涙でにじんでいる。

泥凡夫様やみちくさ様の書き込みも懐かしく思いだされてきて、

やっぱり、「自信教人信」様のお陰だなと、ちょっと愚尼ちゃんに怒りを感じたけれど、それもスーと消えていくようです。

これも阿弥陀様に救われているお陰だと思います。



極道坊主様

お久しぶりです。

わたし、今「女人往生聞書」を読んでいて、逆に女人に生まれて良かったと思っています。

そういうところを、言葉の意味ではなくて、
わたしが女人だから、わたしの感じ方を書けたらなと思います。

極道坊主様の御書込みを読んでみますと、わたしも子供の時を思いだします。

色々な出来事が走馬灯のように、思い出しながら毎朝歩いています。

だから、こんな歳になったからこそ、色んな思いが出てくるのかなと思います。

新たにスレッドたてますが、これはあくまでわたしの味わい方です。

皆様、お返事有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.15
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 726 ] Re13:歓ぶとは・・・ 2009/03/20 (Fri) 01:48 △up ▽down
菩提心 様

4月23日、楽しみですね。

私も、(今年は行けないのですが)時間を調整して、いつか、蓮如様をお迎えしたいと思っております。

一緒に行くことできれば、楽しいですね。


掲示版も、以前よりは盛り上がってきて参りまして、うれしい限りです。

いろいろな方の意見がお伺いできるのは、掲示版の良さでありまして、「以前のジャンヌの、教義についてのやり取りが抜き出されたような掲示版」という構想が、やっと少しずつ実現してきたと思い、うれしく思っております。

ここでも、目の前の一歩を歩みつづけることの大切さを、知らされた思いです。


新しいスレッドも、楽しみにしております。


南无阿彌陀佛

●re.16
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 727 ] Re14:歓ぶとは・・・ 2009/03/20 (Fri) 02:00 △up ▽down
極道坊主 様

教義のお話も楽しいですが、味わいのお話は、また格別ですね。

凡夫である私と致しましては、「味わい」の中にこそ、日々のよろこび、楽しみがあるのでございまして、正に噛み締めるような、「味わい」という言い方が実感されるのでございます。

「南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛・・・」と、名号をいただいていっております。


本当かはわからないのですが、法然聖人が、お聖教をトイレに持ち込もうとしたところ、弟子に注意されたというお話を聞いたことがございます。

私がこのお話を好きなのは、トイレでも法に触れていたいという聖人のお気持ちと、それを弟子が注意できるという師弟関係です。

「聖人、それはちょっと・・・」

このように、身近なものでありますと共に、尊ぶものでありますのが、法であると思います。


お話変わりまして、私は、

六字は、とにかくありがたい!

と思うのでありますが、この「とにかく」のあたりが、ポイントでございます。


六字にはすべてが含まれているわけですから、六字だけで良いわけです。

不思議であり、うれしいことです。


南无阿彌陀佛

●re.17
菩提心
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[ 736 ] Re15:歓ぶとは・・・ 2009/03/21 (Sat) 10:47 △up ▽down
毎日様

>本当かはわからないのですが、法然聖人が、お聖教をトイレに持ち込もうとしたところ、弟子に注意されたというお話を聞いたことがございます。

>私がこのお話を好きなのは、トイレでも法に触れていたいという聖人のお気持ちと、それを弟子が注意できるという師弟関係です。

>「聖人、それはちょっと・・・」

>このように、身近なものでありますと共に、尊ぶものでありますのが、法であると思います。


有縁の善知識様とソックリのようなお話ですね。

先日のお講、行こうかどうしようか迷っていましたが、行ってきて良かったです。

まさかその場所で、「女人往生聞書」のお話をして下さると思っていなかったので、阿弥陀様がお膳立てして下さったのかと思いました。

でも、場所がうろ覚えで、予定時間より大幅に遅れてしまいましたが、勤行の最後の方で間に合い良かったです。

帰りも近道だと思っていましたら、それも間違えてしまい、これもこれからは絶対間違えずにおいでって、示して下さったようで間違えた道も有難いと思いました。

わたしも蓮如様をお迎えしたいのですが、時間がないので、4月23日の夜の賑わいだけでもと思っています。

普段は寂れていますから、少しでも蓮如上人の時代が思い起こせればと思っています。

いつかはご一緒したいですね。

南无阿彌陀佛

●re.18
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 740 ] Re16:歓ぶとは・・・ 2009/03/22 (Sun) 01:43 △up ▽down
毎日様

お返事を戴きました。有難うございます。

直接(面識は有りませんが)のやり取りは「はじめまして」も知れません。

遅筆な上に、教義の方には出て行く事叶わん自分ですがよろしくお願いします。

法味は格別で有りましょう。 この味は食べてみんと解らんので有ります。

自分は経論釈の解釈云々、教義の理解云々よりもこちらの方が断然嬉しい。 そう思っています。

自分らは、出された料理を食せばいいだけの事なのかもしれません。 レシピの理解など要らん事だと思います。

下手に知ってしまうと、各々が勝手に匙加減をしてしまう。 「モット美味しい作り方が有るのでは?」と原型を損ねるまで手を加える事をしてしまう。

そんな者なんでしょうなぁ〜、私たちは?(知る事を否定するのではありませんので。)

宜しいですなぁ〜、源空聖人の人間味、人柄ホッとさせられます。

智慧に優れた方の立ち振る舞いには、必ず何か隠された意味合いがあると思います。(自分には察する事が出来ませんが。)

トイレには烏枢沙摩明王と言われる佛様が居られると聞きます。(真宗の書き込みで書くような内容でも有りませんが。)何処に居っても守られ通しなんですよね、親様に。

聖人様は、経よりも経の説く内容が大事とお考えなのでしょうか。


話は変わりますが、私が思いますのに「善知識は如来の代官」と申されるので在るならば、まさに後続の者の「抜苦与楽」が肝要かと感じます。 悪戯に持論を繰り出すのは迷わすだけなのでは、とも。

求めに応じて出すならまだしも、これ見よがしに出されても相手は引くだけです。

満杯に濁水の入った器に清水は一滴も入らんのです。 まずはその濁水を移さねば、捨てなければ。

また、聞き手の要求に応じて答えなければ教えも曲がります。 ロープは送り出しては真っ直ぐには進まない。相手に引かしてようやく真っ直ぐになろうもの。

最近の書き込みを読まして貰いますのに、尊い教えが何となく汚れてきています。 
汚されてるのかな? 知らぬ間かもしれませんが。

派閥のようなものが感じられるようになりました。

そもそも、一流と言われましても夫々に脚色があるかと思いますが、其の意見交換の場であるのがこのサイト。

其の大切な場を失いつつあるように感じます。

「自流を本筋」とする愚かな考えがそうさせるのかもしれませんが?

教えの本枝、理解の深浅をやり取りすれば必ず争いになる。其の時点で修羅と化すのに。

そもそも深い浅いとは何を基準? なにぶんにもこの教えは親様と私の関係のはずです。(違っていたら指摘を下さい。)

佛様の教えのやり取りで其のような修羅の如き心を起こして如何にしましょうか?(そんな者なのかもしれんのですが。)

親様との繋がりを味あわせて貰いながら喜んでいけたらそんな事は関係なくなるんですがね。

するめの如きが真宗の味わい。

同じ事でも時期をずらせばまた違う味わいが出来ますのに。

争っておれば気付かぬ世界です。

合掌



●re.19
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 741 ] Re17:歓ぶとは・・・ 2009/03/22 (Sun) 02:02 △up ▽down
極道坊主 様

お返事致しませんで、申し訳ございませんでした。

教義の理解のほうが法味よりもうれしいのであれば教義に反するのでありまして、教義から申しましても、一文字も知らないからこそ救われるのが、この道であると思います。

お名号となえれば、法味も味わってゆけるものであると思っております。

源空聖人と雪隠の故事につきましては、法然上人全集に載っておったと思いますので、いつになるかわかりませんが、見つけたら、引用するように致します。

信心いただけば、私たちは、さまざまな神様に守られるのですから、とてもありがたいと思っております。


尊い教えは、何があっても汚れないと思います。

汚濁の中に咲く花です。

無知で、争うのが私たちですから、如来は微笑んで見守ってくださっていることと思います。

諸佛が匙をなげても、苦毒中ご修行くださいました親様です。

不快の念は、これっぽっちも持っていらっしゃらないはず。


とは言え、それは法からのお話であります。

凡機の私たちは、できないなりに、釈尊の教えに耳を傾け、
八つの正しい道を歩んでゆこうとするべきであると思っております。

不悪口戒も、不両舌戒も尊んでゆきたいと思っております。

これは、子供が親の真似をするようなもの。そしてゆくゆくは、我らも仏になってゆくのですから。


派閥のようなものは、昔より、今に至るまで、実際にあるのだと思います。

既に御文様にも、派閥は見えております。

御文様にて、他流をけなすなと、蓮師からのキツイお達しでございますが、なかなか自身をみても、むずかしいのだと思います。お恥ずかしい限り、情けない限りです。

これは、蓮師の掟ですので、自身を律してゆかねばならぬと思います。


場が失われてしまうのかどうか。それは、私にもわかりません。

弥陀が見てくださっていることだけは間違いないと思っておりますので、流れにまかせようと思っております。

消えるもよし、消えぬもよし、目の前の道を行くだけでございます。


この教えが、親様と私との関係であります事には、全く同感でございます。

だからこその、一人のしのぎであると思います。

内に秘め、その関係を、育ててゆくのであると思います。


御名号からは、するめの如く、真実の味が沁みだしてくるものと思います。


南无阿彌陀佛

●re.20
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 755 ] Re18:歓ぶとは・・・ 2009/03/24 (Tue) 18:37 △up ▽down
極道坊主 様

それにしても、派閥意識とは、くだらないものであると思います。

弥陀から離れ、自心に執着するすがたであると思います。

行者を自分の所有物のように思ったり、あるいは、お手引きした人が、お手引きされた人を自分の所有物のように思ったりするところから来ているのだと思います。

そこには、「恩を感じなさい」という意識が背後にあると思います。

つまり、恩が自分に表現されないことに対する怒りです。

しかし、実際はむしろ逆であって、自分に恩が表現されるなら、「そうではないよ、弥陀が施主だよ」ということを、お伝えしてゆくのが良いのではと思っております。

お手引きしたとしても、恩を施したのは、弥陀であり、自分はあくまでも、恩を施された側です。

「御恩報謝」ということは、他者に「恩を感じなさい」と言うことではなく、自身が恩を感じてゆくことだと思っております。

現実に派閥のようなものがある以上、このような掲示板にも意味があると思いますし、匿名で参加できることに価値があると思って運営しております。

そして、派閥意識のような、そういうすべてのくだらないことから離れまして、弥陀と自分の南无阿彌陀佛でありますところが、この道の素晴らしいところであると思います。

ひとりでありながら、南无阿彌陀佛を介して、十方衆生とつながっているのであると思います。

南无阿彌陀佛

●re.21
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 756 ] Re19:歓ぶとは・・・ 2009/03/24 (Tue) 22:32 △up ▽down
毎日様

有難うございます。

毎日様の書き込みを読ませて頂きますのに、大変御自身に実直な方のようにお見受けいたします。 歯に衣着せぬ書き込み、嬉しくもあり、有り難くもあり、勿体無くもあります。

まこと、派閥意識はくだらないものだと感じております。(感じてはいるものの気付かぬうちに其処に捕われて居たりもします。)

しかし、人が三人以上居れば派閥が出来る可能性が有ります。 私の意見に近い者、貴方の意見に近い者。 この両者の対立から始まります。 そこが原点です。

二人では対立で有りまして派閥に成り得ませんので、必ず三人以上です。

ただ、教えの事で言わせて貰えるのであるならば、出処が親様の願いからである以上は派閥が出来る筈等ないのが本筋かと思います。(理想の形かもしれません。理想で終わっているのでしょうが。)

それが現実、派閥を形成していると言う事は、「親様、親様」とは云ってはいるものの、内実は自分自身の手柄、貢献にしてしまっているものと感じます。

人様より「善知識」と呼ばれてしまうと、自身の心が成り上がり人様を教育していく立場に立ってしまっているのだと思います。

戴いた信心をお勧めするのではなく、自分の得た知識を“思想”として他人に植え付けていく、そんな作業を始めてしまうのだと思います。

そこには私に届いた御信心の味わいを体験として語るのではなく、「かの人はこの様に語った。この経には各の如く書いてある。私はこの様に理解している。」を繰り返してしまうのです。

自身の味わいではない為、言葉を尽くしても、文章が上手でも、講義が優れてても人には何一つ伝わって行かんのです。

それを師僧は、「布教する者の落とし穴。」と号されました。

善知識と言われる方々は、御念佛を勧める者であって教育する立場に廻るものではないと聞かされています。 きょういくも「共育」であって、「教育」では無いのでしょうね、きっと。

大元にあるのは御念佛です。 聖人も上人方も「親様に向け。」と仰っているに違いない。(違っていましたら指摘下さい。)

私が教えるから教えた者に対して見返りを求めます。

「先生」の言葉を求めているのです。 人からその様に言われると悪い気はしない。 そんな気持ちを味わっていたい。 名聞です。

人間は(敢えて「人」とは書きません。)「された事。してやった事。」は死ぬまで忘れません。 折に触れ縁有る毎に思い出しますが、「して貰った事。しなければならない事。」は一時もすれば記憶に片隅にもありません。 そんな心の持ち主ですから、教えてやった事に対しての見返りは色々な形や心持で要求しているのでしょう。

師僧は「恩は売るものではなく、着る物ですよ。」と諭してくださいました。 人様から受けた御恩は親様の御化身から賜った御恩と頂戴し報いていくよう心がけています。(書くのは容易いですが実際はどうだか?が正直な所です。)

教える立場をとれば、必ず上から目線で語ります。 それは相手に悟られます。

悲しいかな、当の本人は指摘を受けるまでその事に気が付きません。 指摘を受けても自我意識からか認め様としません。 其の上、ある程度の社会的立場が伴うと持論の正当性を主張し始める。 これが派閥を作る原点の心持の一部かとも思われます。

やはり、妙好人の如く親様と接する事が叶いましたら、派閥の如き偏った仲間意識も薄らごうかと考えるのですが如何でしょうか?

派閥という言葉の響きに「偏った」というダークなイメージを持ってしまいますが、御育てによります味わい方の違いが語られる掲示板であれば、必ず派閥の垣根は払拭されるものと思います。 一味和合の言葉を信じます。

合掌

●re.22
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 758 ] Re20:歓ぶとは・・・ 2009/03/24 (Tue) 23:32 △up ▽down
極道坊主 様

おっしゃる通りであると思います。

親様と自分の関係であれば、「派閥」など、本来生じようのないものであると思います。

そもそも、「派閥」というのは、「私とあなたは同じ」という錯覚に基づいているものであって、仔細に検討してゆけば、互いに違いが見いだせるはずのものを、まるでそのような違いがないかのように見なす幻想がもとになっていると思います。

凡夫の利害関係が完全に一致することはないのですから、そこに和合を見いだそうとしても、不可能であると知らされるばかりであると思います。

「くれくれ、もっとくれ」というのが、凡夫の欲望でございますので。

ひとりひとりと親様の関係。

現世におりながら、そのような理想が見える。

これも、六字の不思議であります。

そして、どのように個人的な意見が違いますとも、六字において同じであって、そこには通じ合うものがある。

これも、不思議なことです。

意味がないようにも思えることば、「南无阿彌陀佛」この六字が、衆生をつなぐのですから。

私も、自身の持論の正当性を主張してばかりで、お恥ずかしいことです。しかし、これは日暮らしに属することでございまして、「ああじゃない、こうじゃない」とやっているに過ぎないことだと思います。

実はそれらすべては必要のないものでして、六字だけで良いのです。

つまり、「六字だけで良い」と、ここには要を感じるのですが、その他は、ある意味、どちらでも良いことで、たいして重要ではないと思うのです。

「六字で、ええじゃないか」というのが、基本であると思っております。

所詮、凡夫の私が言うことですので、それよりも、南无阿彌陀佛でございます。

派閥意識が要らないのも、私思いますに、六字の功徳でございまして、六字さえあれば、あとは要らないのですから。

いつでもひとりでも、親様が見てくださっております。

汲めども尽きぬよろこびの泉が、我が心にあるわけですので、一味和合も自然とかなってしまうものなのだと思っております。

南无阿彌陀佛



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