讃嘆・味わいなど

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●No.21
菩提心
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[ 475 ] 泥凡夫様の書き込みの抜けている部分 bP 2008/06/21 (Sat) 00:09 △up ▽down
毎日様、

抜けている箇所、勝手に書き込みます。
後で、整理して頂けると嬉しいです。


タイトル : Re:御文は往生の鏡なり
記事No : 3948
投稿日 : 2005/12/27(The) 10:08
投稿者 : 泥凡夫

自信教人信 様

おはようございます。いよいよ年末ですね。私もお休みに入りましたのでゆっくりさせて頂いております。

>どの道、私は、批判する立場ではないと思っています。御文にも他宗を誹謗するなと書いてあります。親鸞会も、同じお釈迦様の説かれた教えだと思います。・・・と言いながら、初期の私は、ずいぶん親鸞会を批難していたと思いますが・・・。
>今回の書き込みは、どうしても弥陀のお計らいだとしか思えないんです。私の書込みを最初から読んでいらしたのなら判って下さるのではないかと思いますが、私自身、ここにこんな書き込みをして良いのだろうか?と、毎日毎日自問自答していました。でも、何故だか、私の信じている浄土真宗を求めている人が、一人居ると思えてならなくて、書かずには居られませんでした。途中から、阿弥陀様に書かされていると言うか、お計らいだと思う気持ちで私見を入れずに書き込む事を心掛けていました。

過去の書き込み拝見させて頂きました。一切これ弥陀のお計らいでしょう。私のような者までこのような公の場で偉そうに語る自体お恥ずかしい限りでございますが、これも正信を得た故の正に「自信教人信」でしょう。

>私も同じ、十劫安心、隠し念仏等のお話は聞いています。
>御文に書いてある、秘事法門は、真実信心を知らなければ、到底知る事は、叶わないと思います。
>知らない人は、多分違いが判らないのだと思います。そして、その、秘事法門が、本物だと思い込んだまま死んで行く人も多いのが現状です。

秘事、異安心には「共通項」があると思い込み、正信を含めて一まとめで考えられたら大変です。と、思いますが私にはどうしようもありません。

>本物は有り難いですね。しかも、お浄土には、私の蓮台を用意して待っていて下さる。弥陀を思うと、何とも大きな親の胸に抱かれている心地になります。本当に、私の親様です。やっと、はぐれた親に逢えた喜びでいっぱいになります。
>本当にこんな私を救って頂いて嬉し涙でいっぱいです。
>そして、私を手引きして下さった善友の心を思うと、どれだけ心を砕かれていた事か知り、感謝のしようもありません。そして、私の縁あった善知識さんのご苦労を思えば、尽くし切れません。

本当にありがたいことでございます。日々感謝で過ごさせて頂いております。しかし、ここは公の場。私も秘事の者であると思われる方もたくさんいらっしゃることと思います。

しつこいようですが、あえて目にする有縁の方々に対して申し上げさせて頂きます。「御文は我らが往生の鏡」です。「次第相承の善知識」に逢いて「六字のいわれ」を聞き「弥陀をタノム」こと肝要です。改悔文を御覧下さい。もろもろの雑修自力のこころをふりすてて一心に阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみ申して候。たのむ一念のとき、往生一定御助け治定と存じ・・・このうへは、さだめおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。と。

私の得た信は「佛が拝まれたり」「光明が見えたり」「浄土が見えたり」するものでは決してありません。浄土真宗は決してそのようなものではありません。元仁元年一月十五日『顕浄土真実教行信証文類』の出来上がった日をもって真宗の立教開宗となっております。
親鸞聖人が御年二十九歳三月十四日、法然上人に逢い奉り、立所に他力の信を得られました。その後百日の間、御師匠様の元に休み無く足を運ばれ御念相続をされました。

信が先なのです。急ぎて信を獲れと言われる所以です。

南無は「帰命のこころなり」阿弥陀仏は「その行なり」六字を離れた信はありえません。「正信とは第十八願を頂き、佛の方より往生治定せし給う」ものです。妙好人で知られる「庄松」さんにどうしたらたやすく信心頂けるか聞かれた方がいらっしゃいます。庄松さんは「末代無知の御文」または「信心獲得の御文」を百篇読んだら気が付くでしょう。といわれたそうです。百篇読んで気が付くか否かは宿善のなせるものと私は思っております。助かる道を探し求め、狂いまわり、ようやく正信に出会える方もおられれば、隣の同行が正信を得ており、たやすく正信に出会える方もいらっしゃいます。これ全て宿善のなせるものと存じます。

書きたいことは山ほどありますが、縁ある時に、私程度の無知の者の話も聞いてみたいと思われる方が一人でもいらっしゃいましたらできる限りのお話をさせて頂きたいと思います。

南無阿弥陀仏

●re.1
菩提心
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[ 476 ]  bQ 2008/06/18 (Wed) 20:05 △up ▽down
タイトル : Re:一念覚知に関連する質問
記事No : 3968
投稿日 : 2005/12/29(Thu) 00:23
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

>深いですね。でも仰られている意味がわかりません。
>「救われた日時が分かる」のであれば、その日時をもって、「私は救われた!」といっても適切な表現だと思うのですが、泥凡夫様はそうではないと仰っておられます。
>「私は救われた!」の方はどのようなニュアンスを持って正信ではないと言われるのでしょう。

知恵浅く、筆不精の身どうぞお許し下さい。逆に分からなくさせてしまったようですね。重ね重ねお詫び申し上げます。

私は深くも浅くもありません。何度も申しますが、深いとか浅いと思うのは自力の計らいによるものです。正信の人は皆「救われた日時は分かります」信は憶念できるものだからです。

取り違えられたら大変ですので表現を改めます。「私は善知識に逢いて、六字のいわれを聞き、弥陀をたのんだ日時が分かります」これが逆に分かりやすいでしょうか。「弥陀をタノム一念の時」、「我等の往生」が定まります。これを「一流の安心」というのです。

「救われた!」と思うことだけでは正信ではないのです。それは前記の「機募り」の異安心と表裏一体であり、「行者の起こすところの信心」だからです。第一、一番大切な「弥陀をたのむ」がありません。

>最後に、どえらい団体様がなぜ「一念覚知」は異安心だと言われるのですか。

これは先ほどのお話でお分かり頂けましたでしょうか?

南無阿弥陀仏

●re.2
菩提心
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[ 477 ]  bR 2008/06/18 (Wed) 20:05 △up ▽down
タイトル : Re: 願力の不思議
記事No : 3978
投稿日 : 2005/12/29(Thu) 12:40
投稿者 : 泥凡夫

一文不知の尼入道 様

>弥陀をたのんだ者には、刻みがあります。それが、〜県〜市〜町〜番地に住んでいる、○○△△さんという名前の善知識の下で、何月何日、何処何処と云う場所で一念帰命しました。と云う事を知っている事が、名も有り、実も有ると言う事です。無名無実に聞くに非ずと言うのはこう云う事です。

一流安心のこと、よくよく私には分りますが、それでは親鸞会様の指す秘事であると決め付けられて終ります。一流安心をごちゃ混ぜて言われましたら、もうどうにもなりますまい。正法が秘事にされる御時世になったということでしょう。

私と一文不知の尼入道様が蓮師の御文にあります、「弥陀タノム」を重ね重ね書きましたが、親鸞会様では「タノム」とは現在では「お願いします」ではなく「信じる、頼りにする」という意であると御解釈のようですので、こればかりはどうしようもありません。

一流安心を哀れ秘事の者と見られ、親鸞会様の御主張こそ正意なりとお心を硬くされることと推察申し上げる次第でございます。

私達、一流安心の同行は「御文」は「往生の鏡」であることがはっきり分かります。無理な解釈も複雑な引用も必要ないではないですか。

弥陀のお計らいで私がかつてとおった道、「救われた!」の世界を体験済みであった意が今になって分る気がします。これは「平等に賜る」世界ではありませんし、宿善によって必ず「差」が生じます。また、
信を獲た者同士がお互いを計る「ものさし」がマチマチでございます。さらに、その「境地」を口で完全に表現するのは極めて難しいことなのです。「聞法のみで信を獲る」結果はこのようになるのです。

お分かりと思いますが、そのような「境地」(一念覚知)になるものは万人に一人いるかいないかでしょう。まるで妙好人の如くなのです。「善知識に逢いて六字のいわれを聞く」ということも、どのような解釈になられておるのかおおよそ想像させて頂いておる次第でございます。

それでも、弥陀の本願をお伝えしようと日々努力されておられる親鸞会様のお姿、誠にもって素晴らしく、見習いたいとも思いますが、哀れ私のような泥凡夫では叶わぬことと悲しんでおります。弥陀の本願広まるも一切これ弥陀のお計らいによるものでございます。

南無阿弥陀仏

●re.3
菩提心
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[ 478 ]  bS 2008/06/18 (Wed) 20:05 △up ▽down
タイトル : Re3:願力の不思議
記事No : 3981
投稿日 : 2005/12/29(Thu) 13:32
投稿者 : 泥凡夫

一文不知の尼入道 様

大切なお話中ですのに、昼食を頂いておりました。申し訳ございません。また命永らえさせて頂きました。

>極楽浄土に往く為の因縁を阿弥陀仏から貰うのが、信心を頂くと言う事だと私は解釈していますが。それが、弥陀をたのむと云う「行為」だと思いますが、いかがでしょうか?

申すまでもありませんが一流安心の同行です。
私がどれだけ愚かでも、微塵も動かぬ凡夫直入の他力金剛心の所以です。

一文不知の尼入道様の有縁の善知識様はI県のS寺様のT様ですか?
私の有縁の善知識様は違いますが、そうであれば存じあげております。次第相承の善知識は皆親鸞聖人まで遡れますからね。

縁ある娑婆で逢うことも叶うかもしれませんね。
伝えたきこと山ほどおありでしょうが、お心をお静めあって弥陀にお任せ下さいませ。

南無阿弥陀仏

●re.4
菩提心
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[ 479 ]  bT 2008/06/18 (Wed) 20:06 △up ▽down
タイトル : Re3:願力の不思議
記事No : 3985
投稿日 : 2005/12/30(Fri) 08:37
投稿者 : 泥凡夫

愚尼様

>秘事法門と言われてしまうのは、今に始まったことでは有りません。
>言い方は違っても、親鸞聖人もデタラメだと叡山より言われています。
>蓮如上人など、殺されかけています。
>良く、親鸞会では、親鸞聖人が、めずらしき法を広めずといっているから、何もめずらしい教えなど無いといっていますが、私達には、この言葉の本当の意味が判りますでしょう?

おはようございます。私、頭が悪いので改名されたことに気付きませんでした。失礼致しました。
お言葉の意、もちろん分りますよ。

秘事問題は御承知のとおり、蓮師の時代より大抵立派な学者様同士がやり始めることでございます。愚かな私共は信じることしかできず、影さえささぬことです。

>誹謗はつきものです。仕方ありません。

どうぞお心を静めて下さい。私が一番最初に書き込みましたとおり、どちらが正しく、どちらが間違っているのかなど弥陀より他には知りませんし、どうこうと計らう必要もありません。私に有縁のこの道です。善導大師の二河白道を西に向かう旅人のように縁あったこの道、終生たとえ地獄なりとも喜んで参る所存です。私達同行は「愚者になりて往生す」の意が痛いほどお分かりのはずです。

●re.5
菩提心
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[ 480 ]  bU 2008/06/18 (Wed) 20:06 △up ▽down
タイトル : Re: 今年1年を振り返って
記事No : 4002
投稿日 : 2005/12/31(Wed) 21:12
投稿者 : 泥凡夫

全ての御縁のある方へ

今年もそろそろ終りますね。皆様それぞれに色々な一年だったことと思います。良い事も悪いことも様々だったことでしょう。真宗に逢わせて頂きました御縁を喜びましょう。私のような哀れな泥凡夫を目当てにされる弥陀に感謝します。

釈尊の説かれた尊いは八万四千の法門の影さえささぬ落ちこぼれを御目当ての弥陀でございます。ただただ感謝に手を合わせて歩くだけでございます。

二河白道も一人一人歩くものではありますが、どうぞ御足元を御覧下さい。そこには親鸞聖人、蓮如上人、幾多の同行の足跡がございます。その足跡の上を歩かせて頂いております。

有縁のこの道、歩かせて頂きましょう。

南無阿弥陀仏

●re.6
菩提心
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[ 481 ]  bV 2008/06/18 (Wed) 20:06 △up ▽down
タイトル : Re: 3940記事に関連して
記事No : 4008
投稿日 : 2006/01/01(Sun) 21:34
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

新年明けましておめでとうございます。
正月気分でゆっくりさせて頂いております。

みちくさ様の御心、よくよく分ります。私もかつて通った道ですので。みちくさ様は「見極めよう」とされておりますね。何度も申しますが、「己の秤」にかけても意味がありません。何故意味が無いのか、いつかわかる日が来ると思います。

そもそも「私(泥凡夫)が考える」「弥陀タノム」ではありません。私が「頭で考える」ことではありませんので。「有縁の人々に上下を問わず、頭を下げて聞け」と有りますが、気付かぬ内に「己の秤に掛けている」ということにお気付きでしょうか?これを「疑情」と申します。信を獲たいと思う心が先走り、秤にかけておりませんか?凡夫が秤に掛けても無駄とだけ申し上げておきましょう。

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとい、一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とす。「後世」とは「後生の一大事」の意ではなく「信」でございます。全ての人が平等に救われる道でございます。

南無阿弥陀仏

●re.7
菩提心
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[ 482 ]  bW 2008/06/18 (Wed) 20:07 △up ▽down
タイトル : Re: 3998記事に関連して
記事No : 4013
投稿日 : 2006/01/02(Mon) 10:59
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様
おはようございます。

今日は少しよいお話がございますので少しだけ耳を貸して頂けますか。

「古きを尋ね新しきを知る」の諺がございましょう。特に宗教全般には大切なことだと思います。娑婆のあらゆる学問は日々新しい論文が発表され、今まで既知の概念が完全に壊されることなど世の常でございます。宗教においては新説こそ正意であるとは限りません。

妙好人で有名なお二人の文を少し引用させて頂きましょう。

因幡の源左さん

はつ「お爺さん、なんぼ聞かしてもろうても、この心はええもんにならんがやあ」
源左「この心が喜ばれの奴が、喜ばれるやあになったり、愚痴の起こるのが起こらぬやあになったり、腹の立つのやあになってしまったら、そがあなれたら、何ぼう助けてもらいたあても、助けてむらわれのだけのう。我が心は何ぼう聞いても、愚痴も止まず、喜びづめにもなれんのだがやあ。それが直られる奴だったら、親さんは凡夫と仰っしゃらんだけのう。そがあ成れたら善人だでのう。」

浅原才市さん

「当流の安心は善いのがでても、それをよろこぶじゅない」
また悪いのがでても それをくやむじゃない
ただ仰いで 頭をさげ 尊むばかり」

「聞いてたすかるじゃない たすけてあるを いただくばかり
このさいちもな おお おありがとうあります なむあみだぶつ なむあみだぶつ」

どうしたら助かるのか。確かなものを頂きたい。間違いを信じたら大変だ。様々な思いがございましょう。
獲信を「特別な心持ちになれるのだろう」とお考えなら、しばらくお苦しみになると思います。

「私はみちくさ様と何らかわりがありません」ただの泥凡夫です。「真剣」になられるのは結構ですが、「深刻」になられてはなりません。迷いに入りますと出るのが大変です。迷った道のりの倍の道のりを通らないと出られないでしょう。

南無阿弥陀仏

●re.8
菩提心
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[ 483 ]  bX 2008/06/18 (Wed) 20:07 △up ▽down
タイトル : Re: 3998記事に関連して
記事No : 4017
投稿日 : 2006/01/02(Mon) 22:27
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

>たぶん、私は、捨てるべきものを捨てられず、捨てられないものを必死に捨てようともがいているのです。愚かですね。

こんばんは。

みちくさ様は何を捨てるおつもりでしょうか。自力でしょうか?疑心でしょうか?捨てられるものならやってみて下さい。捨てられませんから。捨てようとするその御心、それ自体が自力と申すのです。

他力とは愚尼様の仰る通り「絶対他力」です。「私の心持ち」を問われているのではありません。「心持ち」はそれこそ千差万別。全ての人を救うことは叶いますまい。

ただ弥陀タノムだけでございます。

南無阿弥陀仏

●re.9
菩提心
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[ 484 ]  bP0 2008/06/18 (Wed) 20:07 △up ▽down
タイトル : Re: 3998記事に関連して
記事No : 4020
投稿日 : 2006/01/02(Mon) 23:33
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

>ああ、そうだったんですか、わかってきました。
>何かを捨てようとして力む心も「自力」なら、阿弥陀様の心を手に入れようとしている心も「自力」なんですね。
>弥陀タノムというのは、私がタノムわかではない、それも自力だとすれば阿弥陀様にタノマレルわけですか?
>最後の自力の心をどうしたら捨てることができるのだろう、という自力の心がまたでてきます。

おぼろげながら何か見えて来た様な来ない様なそんな御心持ちでしょうか?残念ながら、「最後の自力」などありません。「一面全て自力」です。自分ではいつまでたっても捨てられません。「捨てたつもり」でも無駄だと申し上げておきましょう。自分で捨てられたらそれは佛です。私達は凡夫です。弥陀より信を賜ったからそこから他力です。

ちょっと危険な思考になられる可能性がございますので御注意を。助けてあるを知るだけでは「十劫安心」になりますので。

もう一度、私、泥凡夫と愚尼様の今までのお話をゆっくり何も考えずに御拝読下さい。

南無阿弥陀仏

●re.10 admin 
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 485 ] Re1: bP0 2008/06/20 (Fri) 16:33 △up ▽down
菩提心 様

労作を、ありがとうございます。

私がはじめて見た際には、もうかなりの過去ログが消えていたように思います。

それでも、残されていた過去ログを、「必死で」読みました。

きっと、これからも、数は少ないでしょうが、「必死で」繰り返し読んでくださる方が現れると思います。

そして、そこに「味」を、「法水」を見いだし、渇きを癒そうとしてくださると思います。

救われたい方が、救われ、乾く者は、癒され、渇きに、法の水がしたたります。

その渇きを癒すには、弥陀の大きな救いの海に入らねばなりません。

金剛で、崩れること無き弥陀の道。細い細い、救いの道。

煩悩の眼には、見ることできなくても、それでも、感謝することができます。

獲信見敬大慶喜者為御同行知如大海法水塩味。

南无阿彌陀佛

●re.11
菩提心
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[ 486 ]  bP1 2008/06/18 (Wed) 22:05 △up ▽down
タイトル : Re: 4008記事関連「秤にかける」について
記事No : 4023
投稿日 : 2006/01/03(Tue) 12:08
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

悪夢まで見られたとのこと。どうぞ少し落ち着きましょう。

>「己の秤に掛ける」というのは、
>この人たちは、あまりに情報伝達の手段が発達していない時代において生きられ、おそらく、テレビもテープレコーダーもない環境のなか、どこへ行くにも徒歩が中心であったろうと思います。一方、わたしは情報を得るには恵まれた環境の中にあり、ほんの少しぐらいなら、仏教用語も覚えてそれなりに法を求めてきたのに、なぜ、今もって獲信することができないのだろう。
>また、妙好人達の言葉使いは、あまりに難しい仏教用語も使われず、日常用語の域をでない程度なのに、なぜ、獲信することができたのだろう、と考えてしまう・・・
>このような心でしょうか?

「己の秤」とは自分の中で考える、起こる全ての思いでございます。この心をどうやって捨てようか?どう解釈すればいいのだろう?全部これ自力でございます。要するに、凡夫は自力を自力では捨てられないのでございます。捨てられるのならそれはもう凡夫ではありますまい。

妙好人方はそれこそ何もない時代に生きられました。難しい教えを必死に聞き憶えてもおりません。難しい真宗の用語もあり御存知ないでしょう。根本聖典である教行信証六巻の内容もよく分からないと思います。それなのに何故獲信できるのだろう?みちくさ様のその疑問、それにこそ全ての人が救われるという答えがあるのではないでしょうか?

様々な情報が指向性を帯びて飛び交うこの時代は正に、五濁悪世が増長した証です。

南無阿弥陀仏

●re.12
菩提心
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[ 487 ]  bP2 2008/06/18 (Wed) 22:05 △up ▽down
タイトル : Re: 4008記事関連「秤にかける」について
記事No : 4025
投稿日 : 2006/01/03(Tue) 18:44
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

こんばんは。寒い日は鍋が一番ですね。遠慮なく頂きました。

>自力は捨てられない、他力をいただくのだと聞いて、その「他力」がわからないものだから、自力の心でもって、その「他力」を創造(製造)し、自分で作り上げた「他力」に救われようという心があることが少し見えるのですが・・・

見えるのではございません。弥陀の光で己を見させて頂いておるのです。己で己を見ることは不可能でございます。娑婆の心理学でもそう申しております。
己の秤に掛けるから、光明が拝める(土蔵秘事)浄土が見える(定散二善)などの神秘体験や行を求めるようになるのです。

>「絶対他力」というのは本当に頭では理解できない世界ですよ・・・

何も難しいものなどないのですが、難しくなるのは己の秤に掛けておるからです。愚尼様は何も考えず、ただ一身救われたい想いだけだったと仰っております。弥陀はそのような方を待っておられます。

何故、親鸞聖人が聖道門で20年も苦しまれたのか。よくお考え下さい。我等が如き浅ましい凡夫にそれらが無理であることを先にお示しになられておるのです。何れの行も及び難き身なのです。

>また、泥凡夫さんの説法は的確で、厳しくて、心にひびが入ってきそうです。

私は泥凡夫です。説法聞かせるほどの知恵も才覚もございません。私も通った道でございますので、それを見せて頂いているだけでございます。「己の秤」は「釈迦、弥陀二尊」を泣かせます。

南無阿弥陀仏

●re.13
菩提心
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[ 488 ]  bP3 2008/06/18 (Wed) 22:07 △up ▽down
タイトル : Re: 4008記事関連「秤にかける」について
記事No : 4027
投稿日 : 2006/01/03(Tue) 21:57
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

>正月気分も終わりに近づきつつありますが、お正月の家族水いらずの団欒はいくつになっても貴重なものですね。

そういうごく普通のことがありがたいものなのですよ。

>仏教も全く知らない頃の心にまで戻り、何も考えずに、今から死んでいくとなると不安だなあ、この世のものは何も支えになってくれそうにもないなあ、救われたいなあ、という純粋な気持になってみたいと思います。

お間違いにならないで下さい。己の秤で苦しくなると、真宗なんて聞かなかった方が良かったと思われる方もいらっしゃいます。純粋に救われたいと思い、善知識に逢いて六字のいわれを聞き、一念帰命される方も居れば、私のように遠回りする人も居られます。これ皆、過去世の種蒔きの結果です。「宿善」とは「開発」される時というものがあるのです。「開発」は善根を積んで尊い説法を聞き続けることではありません。己のあるべき道(迷い)を歩んだ先にある「機が熟した時」を指します。

>「釈迦、弥陀二尊」のご苦労は、私について回る小賢しい「己の秤」を取るためのものだったのですね。

と、ご理解されても己の秤が無くなりはしません。「義なきをもって義とする」のが当流です。

うるさいくらいですが、「御文」は我等が往生の鏡です。
信ある方は翻訳されたものを勧めません。なるべく「原文」をそのままお読み頂く事を勧めます。正信なき人が学問で解釈(げしゃく)して翻訳されますととんでもない読み間違いになるからです。
そもそも、蓮師はこの御文を誰に対して出されたかお分かりでしょう。各地の「講」宛に出されたものです。文字もよく分からない凡夫が読み違いのないように出されたものです。そして、頂いた信が間違いのないものである事を分かるように御配慮されておられます。故に割符を合わすが如くになるのです。

三業惑乱を狙ったものか?と愚尼様が以前非難された御様子。三業惑乱事件の仔細を知れば、我々は別に驚きも悩みも致しません。弥陀をどうタノメば良いのか分からぬのは当たり前です。次第相承の善知識に逢わねば絶対に分かりません。

「宿善、無宿善の機」というものを何故語られたのかということを考えましょう。大事にせねばならぬことが真宗にはあるのだということです。

南無阿弥陀仏

●re.14
菩提心
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[ 489 ]  bP4 2008/06/19 (Thu) 06:08 △up ▽down
タイトル : Re: 4008記事関連「秤にかける」について
記事No : 4035
投稿日 : 2006/01/04(Wed) 00:16
投稿者 : 泥凡夫

愚尼 様

>泥凡夫さんへ
>三業惑乱の意味が出来なくて、ほったらかしにしたんですが、三業惑乱ってどういう事なのか、教えて下さい。

三業惑乱は大騒動になった事件のことです。意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることを主張した当時の本願寺派の能化によって全国の門徒が大混乱になった事件です。ネット検索(googleなど)でも出てくると思います。結局、幕府の裁定が下り、三業派は異安心であるとなりました。しかし、よくよく内容を知れば混乱して当たり前のことなのです。愚尼様にはきっとお分かりになると思います。肝心の五重の義が成就しておりませんので。そもそも次第相承の善知識に逢わずにこれを語れば大混乱になること明らかです。

その後三業について論じられなくなった結果、逆に現在のような状況になったとも言わざるを得ません。各寺院は門徒が千人居ようが一万人居ようが、葬式と作法の学問になってしまっており、大切な信を獲ることも語らずになっております。そもそも我等に葬式や墓など不要だあることも門徒が分からないようになっております。

残念ですが、親鸞会様が既存の真宗のそういった体制を批判されることは理解できます。まったく末法極まっております。

お時間のある時に三業惑乱についてお調べになってみて下さい。

南無阿弥陀仏

●re.15
菩提心
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[ 490 ]  bP5 2008/06/18 (Wed) 22:08 △up ▽down
タイトル : Re: 「阿弥陀仏」と「ご先祖さん」について
記事No : 4048
投稿日 : 2006/01/04(Wed) 23:22
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

先ほどの善知識のお話も兼ねて御返答させて頂きます。
蓮師が「五重の義」をなぜ御立てになられたのか。これを成就せねば我等が往生は定まりません。愚尼様が以前仰った通り、五重の義はバラバラに成就するのではありません。五重の義は同時に成就するのです。
これが分からぬ方なら次第相承の善知識とは言えません。善知識が座を外した際に行者が信を獲ることなどあり得ません。

先にも書きましたが、信行両座で何故「信の座」に入ったものが5〜6人(少ないの意)であるのに敢えて5人と顕される理由が分からぬのでは次第相承の方ではございますまい。そもそも、「次第」とは何の次第であるかさえも分からぬことでしょう。「歴代法主を指す」などという解釈ではもうどうしようもございません。

弥陀の十八願(決定聞)のこと、敢えて厳しく申し上げておりますが、どうか御心を静かになされて聞いて下さい。

>お正月に子供と一緒にお仏壇に手を合わせたとき、私は、子供に、「阿弥陀様に救ってもらうのですよ、阿弥陀様に手を合わせなさい」と云ったのですが、子供は、なぜ、阿弥陀様なの、亡くなったおじいちゃんじゃないの?というのです。

>そこで家内が来て、子供のいう通りじゃないの?阿弥陀様はガンジス川の砂の数ほどもいる大勢人を相手にしているのだから、私たちのことまでわかるわけないじゃないの!ご先祖さんこそ私たちを見守ってくれているんじゃないの!というのです。

>ご先祖さんの典型は健在の場合の親ですよね。
>親の愛情は子供も感じることができる。それなのに、阿弥陀様の私に注がれる愛情は感じることができない。

>そこで愚尼さんと泥凡夫さんに質問ですが、
>親の愛情よりも阿弥陀仏の私たちに注がれる慈悲心のほうが強いのですか?

悲しいことを仰いますな。少なくても親鸞会様やその他の同行から真宗の御説法は聞かれておるでしょう。
「私がわが子を救えるなら」いくらでも救ってあげたいです。残念ですがそれが叶わぬことは御承知でございましょう。

親子と言えども、縁あって親子になったもの。しかし、それは断ち切れぬ想いであります。我等全ての命ある人々の全ての計らいや過去世の縁を弥陀が知らぬと仰るのですか。親様を泣かせてはなりません。

南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

●re.16
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[ 491 ] bP6 2008/06/19 (Thu) 06:07 △up ▽down
タイトル : Re: 気張らずに・・・
記事No : 4042
投稿日 : 2006/01/04(Wed) 19:38
投稿者 : 泥凡夫
みちくさ 様

こんばんは。寒い一日でしたね。

>先般の泥凡夫さんからの厳しいご教示によって、どうも私は、仏典等の言葉に中にありがたい言葉を見つけて、救われてもいないのに、その言葉に酔って喜んでいるだけの、のような気がしてきました。

私(凡夫)がどれだけ経典を読み、憶え、ありがたいと思っても一向に救われません。故に、蓮師は「それ、八万の法蔵をしるといふとも後世をしらざる人を愚者とす・・・」と申されるのです。経典を知らねば助からぬとは仰っておられないでしょう。それらを必死で行なうのは聖道門の方々です。

よくよく御心を照らして頂いて下さい。
そこには凡夫の疑情が見え隠れいたしておるはずです。疑情あるが故に経典を必死であさり出すのです。
真宗はそういったものが必要でない浄土門でございます。経典など影さえ差さぬ我等のための法ではございませんか?どうぞお忘れなきように。

>これは、愚尼さんのご説明によれば、
>蓮如上人のおっしゃる、
>「うれしさを昔は袖につつみけり」の段階なのです。
>そして、愚尼さん及び泥凡夫さんは、そこから1歩出て阿弥陀様の心を直に聞かないと、
>「今宵は身にも余りぬるかな」
>とはならないですよ、といい続けてもらってきました。
>ところが、私は1歩も出ることが出来ず、同じところを回り続けている・・・
>そして、「どうしたら」「どうしたら」の繰り返しです。
>これは、きっと泥凡夫さんが示されていた、第二十願(不定聞)に留まっている姿に違いありません。

みちくさ様は信後の世界だけに御注目されておられますね。
何か特別な心持ちになれるとお思いならそれは誤りです。
私(凡夫)に何も変わりがありません。

ただ次第相承の善知識に逢って六字のいわれを聞き開き、弥陀に一念帰命するだけです。何も難しくなないのですが。

>ここから抜けられない私は無宿善の機なのかなあ、と思ってしまうのですが、愚尼さんはそう思うこと自体、己の秤にかけているとお諭しになられる・・・

宿善、無宿善の機はそもそも私(凡夫)自身が判断するものではございません。

>堂々めぐりがいやになってきたのなら、もうやめてしまえばいいではないか、というようなものでしょうが、やめてしまえない何かを感じる自分がいます・・・

先日私が申しましたように、己で己を締め付けた挙句に、真宗など聞かねば良かったと思われる人もいらっしゃいます。たとえ逃げ出したとしても、何処にも逃げ場など無いのだと知ることになるでしょう。そういう人を弥陀は逃がしませんので。

南無阿弥陀仏

●re.17
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[ 492 ] bP7 2008/06/19 (Thu) 06:08 △up ▽down
タイトル : Re: 教えの違いについて
記事No : 4058
投稿日 : 2006/01/07(Sat) 09:22
投稿者 : 泥凡夫

愚尼 様

おはようございます。出張で空けている間にも色々あったようですね。

>真剣に聞法すれば、獲信が得られる、諸善を積めば弥陀の本願に叶うとお考えなら、わざわざ私や泥凡夫さんの信じている教えでなくても、親鸞会の教えで、十分獲信を得られると思います。
>そして、親鸞会の言う素晴らしい体験を経験できると思います。

親鸞会様はどうも獲信後の御心持ちに重きを置く様でございますね。弥陀の御声が心に響くと表現されておられるようですね。一歩取り違えれば大変なことになるのですが、素晴らしい御体験をお求めになると言う事がどういった事を意味するのかはとにかくやってみるしかありますまい。これも有縁のこと。どうしようもありません。一念覚知の異安心であると本願寺様と泥試合の御様子。全会員様が平等に獲信できるのならそれでいいではありませんか。いずれお分かりになります。

>私や泥凡夫さんの信じている浄土真宗の教えは、親鸞会の教えや、本願寺の教えをはじめ、他の自力の教えを信じたけれど、救われないと言う人の為にあります。

若干過激な御発言でございますね。どうぞ御心をお静かに。
あくまで有縁の道が己の道でございます。お分かりでしょう。

>真剣に聞法をしても、諸善を積んでも、自力の行に励んでもこの身には叶わないという人の為にあります。

それこそがどういうことなのかが、長い真宗の歴史の中で迷われたことです。己の秤ではどうにもなりません。易往人無人の所以です。

>真剣になれない、善い行いが出来ない、自力の修行が出来ないと思う人の為にある教えです。
>真剣になれない自分に気付き、善い行いが出来ない自分に気付き、自力の修行が出来ない自分に気付いて者だけが、私や泥凡夫さんの信じている浄土真宗に会うことが出来ます。

これも一度有縁の道で歩まれるしかないのです。そこで気が付かれるか否かでございましょう。

>弥陀の思惟・修行は、諸仏に見放された、極悪人を救うのが目的です。

全ては宿善に催され真宗の道に来る事から始まりますが、自力と他力の区別が己の秤の上ではどうにもならんことであることに気が付かれるか否かが開発の機です。赤子が獲信の件では秘事であると思われた方々が多かったのではないかと思います。少し年齢を進めて仮に10歳児でも結構です。彼らに難しい聖教を読み、聞きそれで獲信できる人が何人いらっしゃいますか。無常の風は年齢差別がありません。何故、蓮師が老少男女の差別なくと申されるのかが分からなくなって来るのです。

南無阿弥陀仏

●re.18
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[ 493 ] bP8 2008/06/19 (Thu) 06:09 △up ▽down
タイトル : Re: 教えの違いについて
記事No : 4058
投稿日 : 2006/01/07(Sat) 13:13
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

まあ、落ち着きましょう。正誤を問うてみても仕方ありますまい。
有縁の道で歩いてみることです。

>『自力』を一生懸命『自力』で捨てようとしているのが親鸞会だといえるでしょう。愚尼さんはそれを見て、滑稽と思われるかも知れませんが、『自力』がすたらないと『他力』の教えに逢えないと信じ、どうしたら、『自力』を捨てて『他力』になることができるだろう、と悩んでいる姿が親鸞会なのです。

そうでしょうね。自力が廃るまで待っておったらそれこそ寿命が来ることでしょう。ありがたい説法を聞いてありがたいと合点してもすぐに元の木阿弥です。他力とは何か。平等に賜る信とは何か。金剛心とは何か。老少男女の差別が無いとはどういうことか。蓮師の御文に全て書かれておりますが、それを割符が合わすが如くならねば絶対に分かりません。割符を合わすには次第相承の善知識に六字のいわれを聞かねばなりません。

>私は何度もいいますが、高森顕徹先生は獲信者だと感じています。
>獲信者となるにはどうすればよいのか、それには、獲信者である高森顕徹先生の話を一途に聞いていこう、とされているのが親鸞会であると考えます。

親鸞会様は10万人もの会員様がおるようですが、正信であれば既にどんなに少なくても1万人は獲信されておることと存知じます。親鸞会様こそ正意と見定められたのならとにかく真剣に聞法精進されて下さいませ。

>親鸞会と愚尼さんや泥凡夫さんの主張で大きく異なっているのは、獲信者=絶対他力になるにはどうすればよいか、という点においてではないかと感じるのです。

以前書きました通り、90%以上の説法は同じです。それは当たり前なのです。勝手に言っていることでなければ、親鸞聖人や蓮師の御著書を元に致しますので、では肝心の獲信の部分が何故異なるのか。異なる故に秘事だ異安心だと申せばきりがありません。

私は親鸞会様を新興宗教とは思っておりません。真宗を顕そうと頑張っておられると思います。しかし、真宗は「義なきをもって義とする」以上、念仏広まるも広まらぬもこれ全て弥陀の御手の中でございます。いずれに致しましてもどのような結果になるかは見守っております。

南無阿弥陀仏

●re.19
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[ 494 ] bP9 2008/06/20 (Fri) 01:25 △up ▽down
タイトル : Re: 御文 5帖目 【第二十一通・当流安心・経釈明分】
記事No : 4068
投稿日 : 2006/01/07(Sat) 23:53
投稿者 : 泥凡夫

愚尼 様

こんばんは。寒い日が続きますね。

>当流の安心といふは、何のようもなく、もろもろの雑行雑修の心を棄てて、わが身はいかなる罪業深くとも、其をば仏にまかせまゐらせて、ただ、一心に阿弥陀如来を一念に深きたのみまいらせて、「御助け候へ」と申さん衆生をば、十人は十人、百人は百人ながら、悉くたすけたまふべし。これ更に疑う心露ほどもあるべからず。かやうに信ずる機を、安心をよく決定せしめたる行人」ともいふなり。されば、ただ弥陀仏を一念に深くたのみたてまつること肝要なりと心得べし。

よくよく御心分かります。しかし、正信を獲ずば割符は合いません。様々な御文の解釈書が販売されておりますが、著者によって解釈が異なることは頻繁にあります。愚尼様の正意を汲める方はなかなか少ないことと思われます。我等同行は黙しておれば獲信のものかどうかなど判別が付きませんが、「芦原の鷺」でございましょう。僅かな声だけでも雪の中に隠れている鷺もすぐに同行であると分かるではありませんか。

南無阿弥陀仏

●re.20
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[ 495 ]   bQ0 2008/06/20 (Fri) 01:26 △up ▽down
タイトル : Re: 御文 5帖目 【第2通・出家発心】
記事No : 4070
投稿日 : 2006/01/08(Sun) 20:54
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

こんばんは。

>真宗の一義というは、出家発心の形を本とせず。捨家棄欲の姿を表すことも、いらない。
>ただ、一念帰命の他力の信心を決定すること肝要で、それには男女・老少を簡ばない、とありました。

その通りです。

>また、
>>罪は十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、廻心懺悔して、深く「かかる浅ましき機を救いまします弥陀如来の本願なり」と信知して、二心なく如来をたのむこころの、寝ても覚めても憶念の心つねにして忘れざるを、「本願たのむ決定心をえたる同心の行人」といふなり。
>とありますね。
>赤子の獲信がありうる、とする場合、上の御文の中の、「廻心懺悔」ということがどうもピンときません。
>凡夫が廻心懺悔するのではない、と云われるのかもしれませんが、文脈からすると、廻心懺悔という言葉は、十悪・五逆・謗法・闡提のともがらなれども、の後に続く言葉ですので、十悪・五逆・謗法・闡提のともがらが廻心懺悔する、と読めるのではないかと考えます。
>赤子は獲信できない、とは云いません。しかし、仏教は、生死の一大事を問題にしたときに、まだ救われていない、という自覚から、愚尼さんの言葉で言うならば、自信教人信さんの時にご自身の体験を話をされていた、「これで地獄に堕ちなくてよくなった」という自覚が阿弥陀様の本願を信受することによって起こってくるものではないのでしょうか。赤子の場合は、「まだ救われていない」という自覚があるとは思えないのです。

廻心懺悔を取り間違えたら聖道門になります。
「己の深い罪をも捨てて、弥陀にまかせ参らせる」のです。
極悪最下の我々を自覚せねばならぬ意ではないのです。
自覚せねばならぬと思うが故に、それを「どうにかしよう」という自力が働くのです。極悪最下であることなど、この法に照らされれば誰もが等しくそうなります。

「私は救われたのだ」という一流安心を取り違えたらそれこそ一念覚知問題になります。ここにこだわるととんでもない間違いになる危険がございます。信は憶念できるものだと申しました。赤子の場合、後念相続によって憶念できます。それも無く、小さな命のまま娑婆を去り、浄土に還られる方もいらっしゃいます。

自分が救われたかも分からずに往生がありえるのか?己の機を深く見た者でなければ弥陀タノムこともできんではないか。そう思われているでしょう。

憶念はとても深い意があります。何も私が覚えているというだけの意ではありません。私が覚えておく必要はないのです。例えば、認知症になれば全て失うでしょう。赤子と同じです。信後の心持ちを重視するならこれも同じ。人間はその程度のものでしかありません。我等の往生の因は弥陀の憶念であるからです。

南無阿弥陀仏

●re.21
菩提心
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[ 496 ]    bQ1 2008/06/20 (Fri) 01:27 △up ▽down
タイトル : Re: 御文 5帖目 【第2通・出家発心】
記事No : 4072
投稿日 : 2006/01/09(Mon) 00:13
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

こんばんは。寒いのでお風邪を召さぬように。

>割り切れないから信じない、という感じではありません。
>例えば、宇宙のビッグバン理論は割り切れないものがありますが、科学的な真理としてある程度信じております。

ビッグバン理論も複雑ですが学術的には一応の決着はついておりますね。

>いえ、私が、赤子の獲信に疑問を持つのは、獲信のところを云っているのではありません。
>もっと最初のところを云っているのです。
>人間がこの世に生れてきて、何も考えずに無邪気に生きている時代があるかと思います。
>ところが、何かをきっかけとして、年齢的には個人差と感じ方には程度の差こそあれ、先般、松岡圭介さんの書物で引用させていただいた中の、T氏と少年の会話にあるように、この人間界と言うのは「無常感」と「罪悪観」がつきまとうものだということに気がつく時があるのではないかと思います。
>そこからが大きな意味では求道の出発点ではないかと思います。
>いろんな道を求めて、キリスト教にいく人もいれば、仏教に来る人もいる。
>それは、心になんらかの悩みがあるからでしょう。
>逆にいえば、悩みの無い人に宗教が必要でしょうか?
>赤子の獲信を言われると、私は日頃まともに仏教の教えを聞いていない人が亡くなられると、お寺さんが来られ、葬式の際の話しの中で、亡くなった人のことを指して、「仏さん」と云われ、「仏さんは今頃浄土に行かれて、私たちを見守ってくれていますよ、それには何の疑いもありません」と云われる言葉を連想してしまうのです。
>そう、赤ちゃんでも獲信できる、というのは、一歩間違うと、誰でも阿弥陀仏の本願が出来上がった時に、既に救われているのだ、という「十劫安心」と区別がつかない、という問題もありそうです。

なるほど。仰りたい意味分かります。
「十劫安心」との区別がつかないというのは大変な誤りです。そもそも「十劫安心」は次第相承の善知識もありませんし、弥陀タノムもありません。無事に育ち、人生の無常を感じ、そして宗教を選ぶ。人もあるでしょう。それはその人の過去の種蒔きの結果です。

>赤ちゃんの場合、獲信後、小さな命のまま娑婆を去り、浄土に還えられる方は別として、物心つくまで、大過なく育ち、その後成人されて、浄土真宗を学習されるようになれば、当然、本人自身の口から、「私は生れてたての小さなときに阿弥陀様から信心をいただいたようです。その瞬間は覚えていませんが、不思議ばことに、物心ついて、真宗の教えを聞き始めたときに、蓮如様のいわれる、阿弥陀様からたまわる信心ということの意味が、心の底からわからせていただけるのです。ところが、私と同じように真宗の教えを勉強している周りの人たちの中には阿弥陀様の慈悲がわからない、信心獲得、というのはどういうことなの?といっている人が多いのですが、私にはなぜわからないのか、がわからないのです。」
>と、このようになられるのです。

これは「獲信体験」なる親鸞会様の御主張を是とされている証拠です。いいですか。「獲信体験」=己の罪深い機の覚知→聞法精進→突然の獲信とお考えならそれこそ救われる対象を選んでしまっているのですよ。

厳しい言い方になりますが御容赦下さい。みちくさ様の耳は赤子と同じです。正しいことを聞き分けられるとお思いですか?みちくさ様の眼は赤子と同じです。正しい物を見ているとお思いですか?みちくさ様の思考は赤子と同じです。弥陀の本願を解剖できません。故に、赤子には無理だと秤に掛けるのです。赤子でなくても良いです。知的障害の人はどうなります。目も見えず、耳も聞こえぬ人はどうします。縁あって真宗に来て聞こえぬ耳で真剣に聞法されておる100歳に近い御老人はどうします。ガン告知で余命3ヶ月の方はどうします。これらは縁無き衆生(無宿善)であるというのですか。

>一旦、獲信の体験があれば、その後、精神障害になり、或いは認知症になって、その記憶が無くなっても、死後の往生は間違えないものと聞かせてもらっております。それは、私の作った信心によって往生するのではなくて、阿弥陀仏の本願力の力によって往生がかなうからであり、阿弥陀仏が私に向けてそのように約束されているからですよね。
>しかし、獲信体験がなければ、そうはいかない。のと違いますか。

真は得ています。が、的が外れております。「獲信体験」などという言葉は親鸞会様が仰っておることでしょう。その体験を是とされるなら、何度も申しますが、あれこれ計らわず聞法精進されて下さい。それで体験できれば良いではありませんか。

南無阿弥陀仏

●re.22
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[ 497 ]  bQ2 2008/06/20 (Fri) 01:28 △up ▽down
タイトル : Re: 御文 5帖目 【第2通・出家発心】
記事No : 4075
投稿日 : 2006/01/09(Mon) 15:03
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様
なかなか真意は伝わり難いものだと痛感しております。

みちくさ様は親鸞会様こそ正しい道ありと「信じたい」のでしょう?私にはそのようにしか聞こえません。

「弥陀タノム」とはどういうことなのかは、次第相承の善知識でなければ絶対に分かりません。故に、善知識に逢ひて六字のいわれを聞き開けと蓮師は何度も仰っておるのです。正信はタノム衆生を漏らさず救います。老少男女の差別は一切ありません。

六字のいわれとは説法聴聞程度の軽々しいものでは無いと御承知下さい。

全ては聖教に記されておりますが、六字のいわれを聞き、弥陀を頼んだ人でなければ、分からぬように包み隠されております。故に、どれだけ聖教に通じても、正信無ければそれは浮かんでこないのです。これを、それ八万の法蔵をしるといふとも、後世を知らざるを愚者とす。と申されるのです。

>そうすると、『自力』から『他力』への変わり目はどこにあるのでしょうか。

次第相承の善知識に逢って六字のいわれをません聞き弥陀タノム一念です。これこそ要中の要。聞法だけで信は絶対に獲られません。我等一流は頂いた後にこそ聞法によって頂いた信の尊さをかみしめるものなのです。これを後念相続と申すのです。とにかく信が先なのです。

>過去世に蒔いた種子が熟するときを待つしかない、というのであれば、この世において種子が熟さないことになっている人は救われない、ということになり、少なくとも、この世においてはすべての人が救われる教えであるということはならないではありません。

何としても「弥陀タノム」ことができない人を無宿善と申すのです。あれこれ計らったり、疑ったり、挙句は秘事だなど申す始末。
全ての人が救われる六字が完成されていても、「頂きたくない」と申すならこれは仕方ありません。のむ

>浄土真宗は「弥陀たのむところ肝要なり」とあるのではないですか?
>その「弥陀たのむ」という言葉を「獲信体験」(或いは回心体験)という言葉で表現しているだけではありませんか。
>「弥陀たのむ」ということと、「獲信体験」とはどのように意味が異なるといわれるのでしょうか?

何度も申しますが、ここが異なる故に混乱するのです。弥陀タノムは要中の要です。高森氏が正信であるなら必ず、蓮師のいわれるとおり、次第相承の善知識に逢っておるはず。そして六字のいわれを聞いておるはず。そして弥陀タノムがあるはず。ある日突然信を獲る体験をするなど真宗ではありません。

南無阿弥陀仏

●re.23
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[ 498 ]   bQ3 2008/06/20 (Fri) 01:29 △up ▽down
タイトル : Re: 御文 5帖目 【第2通・出家発心】
記事No : 4078
投稿日 : 2006/01/09(Mon) 20:51
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

こんばんは。

>いえ、それは全く違いますよ。親鸞会の中にも真偽あり。本願寺の中にも真偽あり。又、仏教学者の中にも真偽ありと考えています。
>私は、「弥陀たのむ」ということについて、何が真実なのか知りたいのです。

あまり勿体ないことを申されますな。
己の秤ではどうにもならないと申しておるでしょう。
あなたの真偽を見極める目など備わっておりません。
真偽これは弥陀のみぞ知るでございます。
本当に救われたい一心になれば弥陀がお導き下さいます。

>信が先、ということ、今回の泥凡夫さんのご説明でだいぶわかってきました。今までにも愚尼さん及び泥凡夫さんからも聞かせてもらっていたような気がしますが、今回の説明で今までとは異なった受け止め方になっているように気がします。

信は獲やすきものです。我等が如き凡夫でも獲やすいようにされたのが南無阿弥陀仏の六字でしょう。

>私は泥凡夫さんや愚尼さんの信心を秘事だと思っておりません。

私や愚尼様はどれだけ非難されようとまったく微動だにしません。
しかし、法を非難されては涙が止まりません。

>しかし、私からすると「謎」と感じる部分がありますので、それを質問させていただいているのですが、どうも私の質問は頭で理解することではなくて、弥陀をたのんで初めてわかることのようですね。

その通り。次第相承の善知識に逢いなさい。

>高森氏が次第相承の善知識に逢っておられるかどうかはともかくとしまして、私が聞いてきました事柄は、弥陀をたのむとき、必ず次第相承の善知識がその場に居合わせなければならないものなのかどうか、という事柄なのですが、例えば、法然上人が観無量寿経疏の一節を目にされた瞬間に回心の体験があったとされている事柄については否定されるのでしょうか。

法然上人は黒谷での七千余巻の一切教を五度読破されたことでしょう?読破されるのに25年を費やしておいでです。そこで突然信を獲たなどということではありませんよ。親鸞会様ではそう伝えるのでしょう?その時点では一切衆生が救われる道はまだ見えておりません。その後横川で往生要集を御覧になり・・・その後は次第相承の善知識に聞いて下さい。

>愚尼さんと泥凡夫さんのお話の中で私がどうしても消化できないのは、次の2点だけです。

みちくさ様の秤では理解不能です。弥陀の本願を何だと心得えますか?尊い説法死ぬ気でこれだけ聞いた。御聖教も全部覚えた。ありがたい。ありがたい。いつか私も獲信体験が出来るだろう。などと思われるならやってみなさい。やれば分かります。

次第相承の善知識に逢って信を獲たならみちくさ様の疑情は一瞬で氷解します。とだけ言っておきましょう。

御本願のことです。極めて失礼な発言になっておりますが御容赦を。

南無阿弥陀仏

●re.24
菩提心
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[ 499 ]   bQ4 2008/06/20 (Fri) 01:30 △up ▽down
タイトル : Re: 御文 1帖目 【第5通・雪の中】
記事No : 4104
投稿日 : 2006/01/21(Sat) 22:44
投稿者 : 泥凡夫

みちくさ 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
御文を御拝読の御様子。無理をせず、分からなくても結構ですのでゆっくり何度も御拝読下さいませ。お急ぎになられてもあまり意味がございません。御心に留まる部分がございましたら、それを大切になさって下さいませ。

>救われるためには、お金はいらないという、簡単ですが、現代人の常識の逆を言われている、とても大切な言葉だと思います。

お金や志云々より「先にせねばならぬこと」があるのでございます。現在の宗教はとかくお金が掛かります。法のために布施をされるなら、是非とも信を獲た後での御恩報謝で致しましょう。それも無理などする必要もございません。その御心こそが大事なのです。

>私は、まだ阿弥陀様に救われていないことははっきり自覚できるのですが、まだまだ道は遠そうです。救われる日の来ることを信じて歩むしかないといったところでしょうか?

その御心こそ大事でございます。以前よりあれこれ己の秤を使わなくなられましたね。弥陀は全て御存知でございます。

>泥凡夫さんが仰られるように、未決定である今の私には御文は難しい、というよりも、しっかりとはわからない、という感じです。

それでも結構でございます。御文は必ず道しるべになります。蓮師は我等凡夫のために書き残されております。

私は「歎異抄」を拝読されることを勧めておりませんが、」これも正信を獲たなら「カミソリ」にはなりません。聖人の正意を今聴聞するが如く分からせて頂けます。お時間がございましたら少し御拝読してみて下さい。但し、誰かの現代語訳されたものは勧めません。

南無阿弥陀仏

●re.25
菩提心
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[ 500 ]   bQ5 2008/06/23 (Mon) 18:17 △up ▽down
タイトル : Re: 見ています
記事No : 4091
投稿日 : 2006/01/19(Thu) 19:19
投稿者 : 泥凡夫

法謗の者 様

こんばんは。
縁ありまして書き込みを行なっておりました泥凡夫と申します。
御縁がありましてここで同行の方と知り合わせて頂きました。
弥陀のお計らいに感謝する次第でございます。

親鸞会様で御説法を聞かれておるようですね。それはそれは尊い事でございます。

過去何度も書きましたが、「御文(章)」は我等凡夫の往生の鏡でございます。一つとして無駄なものなどございません。信を獲るとはどういうことなのか。これは真宗に縁厚いお方なら、必ずぶつかる問題です。

そこで蓮師は後世の我等のために「御文(章)」を残されておられるのです。そこには、信を獲るとはどういうことなのかが、きちんと記されております。正信の同行ならば、割符を合わすようになるのです。
まさに、明らかに知られたり。でございます。

信前は「道しるべ」となり、信後は「割符を合わすが如く」明らかになるものです。

残念ですが、聞法を一生涯続けられても信は獲られません。信じられないのなら、10年20年50年聞法精進してみて下さい。難しい教えを覚えて来いと弥陀は申されておりません。そのまま来いと申されております。信を獲るというのは、私達凡夫の「心持ち」を問われているのでは無いからです。これをどうかしようとやればやるほど苦しむだけでしょう。それは、己の罪深さ故に苦しいのではないのです。自力を自力で何とかしようとしておるから苦しいのです。その先にハッと開ける世界を体験できるのは私は既に経験済みです。しかしこれは凡夫の起こす所の信に他なりません。これを弥陀から頂いたのだと思うのならば、救われる道の極めて狭いものになるでしょう。御文と割符を合わすことも難しくなります。

他力とはこれ即ち、弥陀でございます。御文の中で、理解不能の部分も多々ございますでしょう。何故分からぬのか?簡単です。正信を獲ていないからでございます。

正信も獲ずに人に真宗の何たるかを語るなど言語道断。自損損他に他なりません。己も信を獲られず、導いた方々も信を獲られず。

真宗は何より信を先にせねばなりません。

真の善知識とは何でしょうか?親鸞会様の高森氏のことですか?それでは我田引水の意を感じるだけでございます。善知識は「実語相承・次第相承の善知識」でなければならぬのであって、日本でただ一人などありません。全国にたくさんいらっしゃいます。

「御文」と合わせて、「改悔文」も御覧下さい。

「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて一心に阿弥陀如来我等が今度の一大事の後生御たすけ候へとたのみ申して候。たのみ一念のとき、往生一定御助け治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。この御ことわり聴聞まうしわけ候こと、御開山聖人御出世の御恩次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候。このうえは、さだめおかせらるる御掟、一期をかぎりまもり申すべく候。」

正信の同行は改悔文でも割符を合わすが如くなります。

次第相承の善知識に逢わねば後生に明かりは点きません。次第相承の善知識に逢えば、10人居ても100人居ても皆救われる道でございます。浄土門は全ての我等凡夫が平等に救われる尊い道です。

ご縁ありましたことを嬉しく思う次第でございます。

南無阿弥陀仏

●re.26
菩提心
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[ 501 ]   bQ6 2008/06/20 (Fri) 01:32 △up ▽down
タイトル : Re: 見ています
記事No : 4091
投稿日 : 2006/01/19(Thu) 22:59
投稿者 : 泥凡夫

謗法の者 様

こんばんは。
ご縁の厚い方はいらっしゃるものです。

>愚尼様のお示しのように御文100回拝読させて頂いてから書き込みさせて頂きたいと思いました。

100回読めば信を獲られると思われたら大変です。一応釘を刺しておきます。フッと信は獲られはしません。書かれてございます。御文には「信への道」が記されております。どうぞ蓮師があなた様に宛てて出されたものと思い御拝読下さいませ。

>私は、聞法もなく、教学力もなく、破邪顕正もできない親鸞会では完全な落ちこぼれです。(そして財力も)

財施ですか。尊いことでありますが、信を獲られて御恩報謝の思いで自ら進んでやられるなら良いですが、強要するなら問題外です。そもそも信を獲るのにお金は入りません。

破邪顕正ですか。私の沙汰の及ぶものではございません。

>しかし、聞き始めた時は誰も知らない教えを聞かせていただいているという幸福感と優越感もありました。

真宗への入り口ですから聞法は尊いものです。しかし、聞法だけでは信は獲られません。とだけ申しておきましょう。

>先に書いたおばあさんがうぬぼれ心から誰も信心決定できないとおっしゃっておられました。

自惚れがあろうが無かろうが、十八願は聞即信の決定聞です。ここが自力ではどうしようもないのです。
次第相承の善知識に逢い、六字のいわれを聞き、弥陀タノムが肝要です。

>今、プリントアウトした書き込みと、泥凡夫様、愚尼様の想いを御文と照らし合わせております。

筆不精の身、分かり難い部分もありますが、「抑止文」があることから御推察下さいませ。

>愚尼様が親鸞会で、ここは駄目と言われた御文にも大事なことが記されておりました。

ここはダメな場所など御文には一ヶ所もありません。分からぬからダメだと仰るのでしょう。いくら聖教を全て覚えようが、正信を獲なければ理解出来ないのです。

>みちくさ様とのやりとりも尚一層分かりやすく、心に入ってくるのです。

それはそれは、南無阿弥陀仏。

>まだ完全に1回も読んでおりません。しかし。なぜか涙を流しながら拝読させていただいております。(これはただの感情がたかぶる性格だからでしょう

弥陀はあなた様にそのまま来いと仰っておられます。今生、有縁の信を獲たなら宿縁を喜んで下さい。

南無阿弥陀仏

●re.27
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[ 502 ]  bQ7 2008/06/20 (Fri) 01:33 △up ▽down
タイトル : Re: 見ています
記事No : 4091
投稿日 : 2006/01/21(Sat) 02:01
投稿者 : 泥凡夫

謗法の者 様

こんばんは。

>尊い書込みありがとうございます。

頂いた信が尊いのであって、私はまったく尊いものではございません。ただの泥凡夫です。

>次第相承の善知識の「次第相承」が抜けているから、親鸞会では助からないのですね。
>御文に「善知識たのみ」と書いてありましたが、親鸞会はまさしくそのとおりだと思います。

それは私の沙汰するものではございません。「有縁の道がその人の道」であるのです。この意味はいつかわかる日が来ると思います。
我等が向く方向は弥陀であって善知識ではないのです。心得違いをなさらぬように。私共、正信の同行同士には争い事は起こりません。獲信あるか否かを確かめる必要もありません。我等はすぐに相手が正信であるか判断できるのです。

>この私の、宿善、無宿善を沙汰して他力の信心の謂れを教えて下される善知識を尋ねていかなければいけないのですね。

その通りと申し上げておきましょう。

>御文を拝読させていただくと、随分親鸞会の教えと違うことが解ってきました。
>この違いは改めて無知な私が書き込まなくても、泥凡夫様、愚尼様がお分かりですね。

それは致し方ありますまい。学問でどれだけ解釈しても正信無くば分からぬことがあるのです。信を獲るには「知恵才覚」は必要ありませんが、聖教を理解するには「知恵才覚」が必要です。ここの分別がありませんと、とんでもないことになります。

仏法は聴聞に極まると蓮師は言われております。そのまま解釈すれば聞くことこそ正意であると思われるでしょう。但し、おうように聞くにあらずです。これも真剣に聞けという意だけで判断するなら、聞くことで信を獲ると理解されても仕方ありません。聴聞だけで信を獲られるなら、とにかく聞け。とだけ強調されたでしょう。蓮師はそれ以外のことをあえて書かれる必要もないでしょう。

何故、御文で「御たすけたまへ」と「弥陀たのめ」と何度も申されるのか、タノメが「頼りにする、あて力にする、信ずる」という意であるなら、その後に何故「申す」と書かれてあるのか考えて下さい。

南無阿弥陀仏の六字のすがたは、我等が平等にたすかりつるすがたなり。

信心獲得すといふは、第十八の願をこころうるなり、この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。

さらに、何故「抑止文」があるのかもお考え下さい。「当流の掟」とは何でしょう。当流には「定めおかせらるる御掟」があるのです。大切にせねばならぬ事があるのです。

抑止文は、他宗からの迫害を避けるために作られたのではございません。他宗からどれだけ非難されようが、正信の者は微動だに致しません。但し、正法を誹謗されては弥陀に勿体無い次第であるからです。

更に誹謗を成せば、どうなるかは、親鸞会様でも仰られておりましょう。

>そういう身にさせて頂けたらと思わずにおれません。
>でも、今はこんなところにも真実はあったのだとそのご縁をうれしく思います。(管理人さんごめんささい)
>そして、随分、おろそかに御文を拝読していたことを知らされました。

重ねて申しあげます。御文は我等が往生の鏡です。信への道しるべが記されております。そして、信後は鮮やかに大事な部分が浮かびあがります。

南無阿弥陀仏

●re.28
菩提心
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[ 503 ] bQ8 2008/06/20 (Fri) 23:48 △up ▽down
タイトル : Re: 見ています
記事No : 4102
投稿日 : 2006/01/21(Sat) 18:14
投稿者 : 泥凡夫

謗法の者 様

こんばんは。
なるほど。親鸞会の方々は「ご教導ありがとうございます」と言われるのですね。

私などの無知の者の話です。御心に留める部分だけ御覧になるだけで結構でございます。

>分かりません。私には宿善はないのでしょうか?

かつて、みちくさ様もそう仰いました。分からないのは当然なのです。正信無くば理解することは叶いません。では何故理解できないことを書くのか?混乱させたいのか?そう思われるかも知れません。

そうではないのです。私と愚尼様が書かれたことは、いつの日か縁あって割符を合わす時のために、極めて大事な部分を申し上げております。今、無理に己の秤で理解しようとしても無駄なのです。さらに、宿善、無宿善の機は己で判断(分別)するものではございません。

次第相承の善知識に逢えば十八願が「聞即信」であることが明らかに知らされます。行者が千人居ようが1万人居ようが漏らさず救われるのです。

聴聞だけで信を獲られぬというのは、己で作り上げる「信」では無いからなのです。どれだけ疑いがあろうが、哀れな自分であろうが、あなた様のまま、弥陀タノメば良いのです。御文をよく御拝読下さい。

どれだけ難しい聖教を覚えようが、相手を論破できようが、それは「往生の一段」にとっては何の意味も無いのです。当流は「義なきをもって義とす」でございます。急ぎて信を獲よと言われる所以は、当流は信こそ先であるからです。

どのように感じても結構でございますが、私が正しい、あなたが間違っておると争うより先に成さねばならぬ事がございましょう。

>私には、善知識にお会いできる日はあるのか・・・・

みちくさ様にも申しあげました。弥陀は見捨てたり致しません。救われたい一心の方はきちんと導かれます。

御開山も六角堂で願われたでしょう。往相である聖覚法印と還相である法然上人に逢われて十八願を頂いたのです。ここはお分かりでしょう。

真宗は「南无阿弥陀仏」の六字が全てであり、六字を離れた信などございませんし、どんな聖教より尊いものでございます。

南無阿弥陀仏

●re.29
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[ 504 ]  bQ9 2008/06/20 (Fri) 23:50 △up ▽down
タイトル : Re 御文章の御心
記事No : 4122
投稿日 : 2006/01/24(Tue) 22:30
投稿者 : 泥凡夫

指針 様

こんばんは。
仰々しい内容でございますね。私は御縁あってここに書き込みをした次第。これもまた、御縁あってお一人でも信を獲られたなら、私ではなく弥陀に感謝して下さい。私に頭を下げても信は獲られません。下げる相手は弥陀でございます。お間違えなきよう。

私はHNの通りの泥凡夫でございます。頂きました信が尊いのであって、私自身はまったく尊くございません。

>親鸞会は信無きゆえに、この法は聞けず。あさましきことなり
>ただ、浄土真宗を世に広めたことは尊きことなり。
>皆、疎かにするべからず。

何度も申しますが、私の沙汰の及ぶものではございません。
そもそも親鸞会様がどのような教えを行者に聞かせておるのかも知りませんし、正信であるかも分かりかねます。当たり前ですが、聖教を元にお話されておられるなら、表立って御説法はほぼ同じでしょう。但し、正信ならば行者の1万人ほどは既に信を獲ておるはずと推察させて頂いております。

>私は信前の者なれば、それが、正か邪のものさしは常に上記の者だけに伺うこと。

正邪を問うても、凡夫ではどうしようもございません。
私や愚尼様の書き込みは親鸞会様から見れば異安心だ秘事だと非難されることも存じます。故に、安易な書き込みは正法誹謗のもととなりますので、愚尼様と同じく、書き込みはせぬようにしようかと思った次第です。

何度も申し上げますが、真宗開宗以来、異安心、秘事問題は絶えたことがございません。安心、異安心、秘事、非秘事は弥陀より他は知りようが無いと申し上げておきます。私が正しい、あなたが間違っていると正邪を沙汰するよりも、有縁の道で急ぎ信を獲られることしかございません。「正雑ニ行の沙汰」は、相手を破邪することではございません。逆に正法誹謗の罪を作らせないための御配慮でございます。
信も無く、闇雲に正邪を沙汰しては己も罪深く、相手にも罪を作らせる結果にしかなりますまい。
御文及び、歎異抄第十二条を御拝読下さい。

「有縁の道」が「己の道」である事はいずれ皆様知る事もございましょう。有縁の道を信じることしか凡夫には残されていないのだと申し上げておきましょうか。

南無阿弥陀仏

●re.30
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[ 505 ]   bR0 2008/06/20 (Fri) 23:52 △up ▽down
タイトル : Re: 5 彼の方へ
記事No : 4117
投稿日 : 2006/01/23(Mon) 23:15
投稿者 : 泥凡夫

謗法の者 様

こんばんは。
どなたかへのメッセージをお書きのようですね。仔細は存じませんが、争う事より「先にせねばならぬ事」が真宗にはあるのです。この道は一人一人歩くものでございますので。

聖教を読み、教学されるも、これ有縁の道。そういう道を通らなねばならぬ方は、通った後に分かることもございましょう。
遠回りせずに十八願に直接入られる方もいらっしゃることはお忘れなく。

正法誹謗。恐ろしく感じますね。しかし、敢えて申しあげましょうか。「二種深信」と「二種のお話」をごちゃ混ぜで語るととんでもない間違いを犯します。二種深信は同時に賜るもので別々に存在するものではございません。これを分けて理解するから、己を己で深く見ようとするようになるのです。これでは機募りの異安心と変りません。

因みに「己の深い機」を見ると最後に見えるものは「正法誹謗」なんです。何も口で述べただけが誹謗ではないのです。御存知ですね。本願疑う心、これが最後に見える己の一番深い部分なんです。
見えても如何ともし難いのが人間です。思わぬように努力しても無駄です。無明業障は皆が持っておる最も罪の深いものです。

何故蓮師が疑いあるままで弥陀タノメと申されるのか。謗法の者様には何か少し見えてこられた御様子。十八願に御縁あることを喜んで下さい。

いずれに致しましても、聖教を読み覚えなければ信を獲られぬとお考えなら十八願には永遠に届かないと申しあげておきましょう。

歎異抄第12条を御拝読下さい。今のあなた様ならお気付きになることでございましょう。

南無阿弥陀仏

●re.31
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[ 506 ]    bR1 2008/06/20 (Fri) 23:53 △up ▽down
タイトル : Re: 7 彼の方へ
記事No : 4120
投稿日 : 2006/01/24(Tue) 20:46
投稿者 : 泥凡夫

謗法の者 様

こんばんは。
あまり力まれても意味ありませんので、落ち着いて下さい。
御文を拝読下さいと申し上げましたが、覚えろ、理解しろなどと言っておるのではないのです。信前は道しるべになるのです。そもそも、聖教を読み覚えただけで信を獲られはしません。

>これは赤子も助かるということでしょうか?

以前の書き込みで申し上げましたとおりです。十八願は老少男女を問われません。

>でも、親鸞会でいわれる自力の信が廃った後、即他力に入る訳じゃないですよね。

自力が廃らないと他力になれないと言われるのですか。何度も申し上げますが、我等は一面全て自力でございます。これを己で何とかしようとするのは聖道門の方々です。自力と他力の境界は一瞬で入れ替わります。自力他力を己の心持ちの変化であるのだとお思いなら、お苦しみになることでしょう。自力は己自身、他力はこれ弥陀でございます。我等凡夫自身は今生終るまで凡夫のままでございます。

>御文にも又泥凡夫様が次第相承の善知識から直にその謂れを聞かなければ助からない。親鸞聖人の「如来の御代官」と書かれているのもそのことを言われるのでしょう。

その通り。何故「如来の御代官」と改邪抄にもあるのかは、深い意味がございます。

十八願は難しいことなど何一つない獲やすい信でございます。あらゆる人が全て救われる尊い道でございます。しかし、出逢うことも難たければ、信ずることはなお難いのでございます。信じないということこそ、我等凡夫の無明業障の病と言われるものであり、正法誹謗なのでございます。

とにかく「聴け」と蓮師が申されるのは、難しい聖教の教えを「聞け」という意ではございません。「我等が往生の道」を「聴け」と申されておるのです。宿善、無宿善をよくよく見極めなければ「聴く」こと難いのです。次第相承の善知識に逢って六字の謂れを聴き、弥陀タノムだけでございます。十八願は「聞即信」でございます。

故に五重の義は同時に揃い、成就するものなのです。

昨日も書きましたが、この道は全ての救われる道でありますが、一人一人歩く道でございます。こればかりは親子夫婦であろうとどうにもならぬことでございます。急ぎて信を獲れと誰に言われておるか考えて下さい。あなた様お一人に言われておるのです。

一流は千人の聴聞者を得るよりも、たった一人でも頂く人が居る事を尊く思うものでございます。

南無阿弥陀仏

●re.32
菩提心
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[ 507 ]   bR2 2008/06/20 (Fri) 23:54 △up ▽down
タイトル : Re 泥凡夫様 愚尼様
記事No : 4125
投稿日 : 2006/01/26(Thu) 17:35
投稿者 : 泥凡夫

謗法の者 様

こんばんは。往生の道、少し気が付かれましたか?

>私はハッキリ正信頂けました。確信出来ます。

表現は正確に致しましょう。「正信頂けた」とは「信決定」したという意味です。たとえ、聖教を読み覚えて理解できても、御自分のお心が晴れ渡っても、それは「信決定」ではございません。

もし、現時点で「私は信決定できた」と申されるのなら、それこそ「凡夫の起こす所の信」に他なりません。もし、何かの目的で恣意的にそのような御表現をなされるのなら言語道断と申し上げておきます。
文面から永いお苦しみになった御様子。現時点のあなた様は「往生の道」が見えてきた、という状態でしょう。これが私が何度も申し上げました、「みちしるべ」なのでございます。

>ただ、当流の掟では信心いただいていない私が、話をさせていただくのは間違って謗法罪を造らせてしまうのが怖いのです。
>「牛を盗みたる人とは言はるとも、当流のすがたを見ゆべからず」とこそ仰せられたり。このお言葉をもって、よくよく心得べし。

なるほど。当流の掟、御開山、蓮師の言われる部分を押さえられましたね。但し、真の解釈はできていないと申し上げておきましょう。信を獲たならはっきり分かります。

何やら、正法誹謗を極端に恐れておいでの御様子。以前にも書きましたが、我等凡夫、全ての人がこれをやっておるのですよ。お忘れなく。私には身に覚えがないと申されるのなら、ここにもう一度書きましょうか。正法誹謗は、十八願疑う心そのものでございます。口に出した出さぬは関係ございません。あれこれ計らって十八願を己の秤にかけたり、本当に救われるのだろうかあ?と疑ってみたり、こちらが正しい、あちらが間違っておる等々。哀れ我等凡夫は今まで信ずること叶わぬが故に、どれだけ流転したことでしょう。

そういった我等五逆誹謗の輩であるからこそ、「弥陀の御袖にひしとすがる思い」を持つのでございます。
「南无阿弥陀仏」の六字、これ即ち、「タノム、助けん。」でございます。

>なお、私は次第相承の善知識にお会いして阿弥陀仏の謂れを聞いてみないので、信心決定されておられるお二人にお尋ね下さい。

なるほど、では尚のこと、表現は正確になさって下さい。
次第相承の善知識に逢って六字の謂れを聴いておられないのなら、「五重の義」成就しておりませんので「信決定」、「正信頂けた」などとは書かないで下さい。読まれる有縁の方々に大変な誤解を招きますので、求める衆生を迷わすのは正法誹謗なのですよ。

何やら「方便」というお言葉を親鸞会様の会員様はしきりにお使いの御様子。正信無き者があれも方便、これも方便などとは言語道断の次第です。釈尊御出世により説かれた八万四千の法門は「唯説弥陀本願海」に我等凡夫を引き入れる為の方便である。という佛菩薩方の方便と、我等浅ましき凡夫の浅知恵による方便とは天地の差がございます。よくよく御注意下さいませ。

私も愚尼様も一切方便など使っておりませんし、そもそも使う必要がありません。ありのまま、重要なことを申し上げております。私如き知恵無き凡夫は方便など及びもつきません。

あなた様の成すべきことは、他の誰かの手を引くことではございません。信無き者が、信無き者の手を引くことほど罪深いことはございません。自損損他以外の何者でもございません。いずれお分かりになるでしょう。

あなた様御一人で、インターネットの世界ではなく、己の足で次第相承の善知識を探して下さい。
これが「火の中をかき分けてもでも聴け」「上下を問わず聴け」と言われる所存です。座して果報を待っても時だけがむなしく過ぎて行くだけでございます。既に「道しるべ」を得たのなら、それを御心に持って真剣に探されれば、弥陀は必ずお導き下さります。そこには、正信の同行が待っておられることでしょう。

南無阿弥陀仏

●re.33
菩提心
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[ 508 ]    bR3 2008/06/20 (Fri) 23:55 △up ▽down
タイトル : Re 泥凡夫様 愚尼様
記事No : 4128
投稿日 : 2006/01/26(Thu) 20:31
投稿者 : 泥凡夫

謗法の者 様

こんばんは。
きつい言い方でございましたね。十八願のこと、どうか御容赦を。

>深く深くわが身一人の為と読ませていただきました。
>身の程知らず、仏法知らず、本当にこんな私は次第相承の善知識にお会いできるのでしょうか。

それを疑情と申すのですよ。分かりますか?仏智を疑ってはなりません。十八願頂く身になりたい一心であるなら、必ず必ず弥陀がお導きになります。「二心(ふたごころ)なく」とはこれ「一心」でございます。

身の程知らずで結構。仏法知らずで結構。そのままのあなたで良いのですよ。そのような方こそ十八願の正客でございます。

真宗のあらゆる聖教に通じておられるどえらい方であっても、たとえ光明が見えたとしても、佛が拝まれたとしても、浄土を拝見できたとしても、それ自体は我等が「往生の一段」にとって何の意味もございません。

仏法は知りそうも無い人が知っておるのです。「上下を問わず」に「往生の道」を「聴」かねばならぬのは何故か分かりますか?それはまさしく「抑止」があるからでございます。

正信の者は深く心に信を蓄えてやたらに顕さないのです。他宗から攻撃を避けるためではございません。正法誹謗をさせぬ為でございます。

南無阿弥陀仏

●re.34
菩提心
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[ 509 ]   bR4 2008/06/21 (Sat) 00:02 △up ▽down
タイトル : Re 泥凡夫様 愚尼様
記事No : 4130
投稿日 : 2006/01/27(Fri) 00:44
投稿者 : 泥凡夫

暗黒の魂 様

こんばんは。泥凡夫と申します。
色々な方がお出ましになられておられますね。
仏法繁昌は尊いことでございますが、我等一流の繁昌は信を獲る人が1人でも居てくれたらそれを繁昌と申すのです。

>泥凡夫様と謗法の者様の書き込みを拝読し、私達の陥りやすい過ちを教えて頂きました。お二人に厚くお礼申し上げます。また、どうして深く心に信を蓄えるか、大変失礼なことですが今まで非常に納得がいかなかったことでした。それも正法誹謗させぬ御心だったのですね。本当に有難く心に響いてまいりました。また、ひとつ目の前が開けた気がいたします。

陥りやすい過ちでは無いですよ。正信のものの話を聞かねばそんなこと誰も知らんでしょう。せいぜい他宗の攻撃を避けるための当時の時代背景である。程度でございます。

信を深く心に蓄えるということと、信ある者は自信教人信であるが故に、御恩報謝の思いでどんどん御本願に手を引くべきではないか?説法どんどんすべきでないか?との葛藤があったのではありませんか?

ここはとんでもない間違いでございます。闇雲にだれかれ構わずにどんどん手を引けばそれが御恩報謝になるなど正信の者のすることではございません。

あくまでも縁ある人、真剣に求める人だけを引くのであり、普段大声で説法したり、我信ありきなどと自慢して歩くことなど絶対にありません。これも偏に正法誹謗させないようにするための深い深い御配慮でございます。

それでは念仏広まらんではないか。と思われるでしょう。以前も書きましたが、念仏広まるも広まらぬも、これ全て弥陀のお計らいでございます。どれだけたくさんの方々の手を引いても、正信無くば、己も信を獲られず、引いた者達も信を獲られず。これを自損損他と申すのです。

と、この泥凡夫のいうことを鵜呑みにして信じた!分かった!と申されても説法聞く事と何ら変わりがありません。いつまで経っても信は獲られません。「五重の義」成就せねば往生は定まりません。

表立って説法もせぬ輩は秘事の者だ。近寄るな。と申される方は遠い過去より幾多もおられました。隠すことがあるから秘事であると申すのなら、真宗の僧の得度式は障子を締め切り儀式を行ないます。釈尊の説かれた聖道門はそれこそ我等の知り得ぬ秘密の行がたくさんございます。

何故隠す?簡単です。仏法誹謗の輩を出さぬ御配慮です。何でもかんでも全部開かれておるなど、正法伝わらぬかが故であり、御縁無き方々の行く末(正法誹謗罪)をまったく案じておらぬ証拠でございます。

八万四千の法門は全て佛説であり、どれをとってもまったくおろそかにしてはなりません。ただ我等如き五濁悪世の凡夫は尊い聖道門の教えは影さえ差さぬ身。弥陀の十八願しか御すがりする道がないのです。

南無阿弥陀仏



毎日様、以上です。

書き写しながら、色々な思いが蘇ってきます。

そして、今こうして毎日様のHPで、又日の目を見る事、これも阿弥陀様のお導きだと思わずにおれません。

泥凡夫様、お導き有難うございました。

●re.35 admin 
毎日
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[ 510 ] Re1:  bR4 2008/06/21 (Sat) 01:45 △up ▽down
菩提心 様

ありがとうございます。

泥凡夫様の新しいご文章(あくまでも、「私にとって」ですけれども)を拝読させていただくことができ、感謝致しますと共に、ワクワクしながら読み進めました。

辛抱強いお導きに、頭が下がるばかりです。

「五重の義」には、まず「宿善」があり、弥陀をたのませようとしても、詮無き事。

あくまでも、行者が望んでの上でのことであり、これも、ますます不思議であると思います。

有縁の道を歩まれ、この道に辿り着かれる方が現れます事、切に願っております。

素晴しいのは、彌陀ばかりです。

南无阿彌陀佛



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