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●No.18
admin |
毎日 |
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[ 463 ] 否定される自己と、すりぬける南无阿彌陀佛
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2008/05/22 (Thu) 20:19
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たとえば、2chなどに書いていると、見事に否定されます。
以前、被害者掲示板に書いていたときも、とても否定されていました。
否定されて否定されて、自分の心を観ると、やはり反発心も出ている。
未熟な我が身だと知らされます。
こんな修行の進んでいないこの自分が、救われることは、かたじけなくて南无阿彌陀佛。
私が否定されて、私が間違いを多数含んでいて、未熟であり、浅はかで、否定されても仕方がなく、否定くださる方への慈悲も弱く、そんな私が、もう救われているということは、不思議なことです。
どんなに否定されても、六字は、燦然とかがやいています。
なぜなら、私の考えではないから。
私の中に、私とは違う、異質の南无阿彌陀佛がいます。
そうでありながら、こんな未熟でありながら、南无阿彌陀佛の染み通った私でもある。
なんと不可思議なことであり、弥陀の無上の方便を思います。
南无阿彌陀佛
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[ 464 ] Re1:否定される自己と、すりぬける南无阿彌陀佛
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2008/05/22 (Thu) 21:14
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毎日 様
如是如是。 法然様も御開山も否定されて苦しまれたことでしょう。
真宗において人間として実に素晴らしい生き方をされる人もおります。 逆に私のように浅はかで愚かな者もおります。 そのどちらであっても過去世の御縁でしか起こりようがありませんので、 諦めるのではなく、逆に南无阿彌陀佛を仰いで立って歩けるのだと私は思っております。
如来は我等の行いも全て承知でございます。 良い日もあれば悪い日もある。それは機が勝手に判断しておることでしかありません。 そんなことには目をくれず、ただ報謝の南无阿彌陀佛。私にできることはこれしかありません。
謗る人も信じない人も全て残らず救うの成就こそ南无阿彌陀佛であり、過去・現在・未来の時間は異なれども、いずれ皆共に報土でお逢いできます。
真宗における信心とは『南无阿彌陀佛』であり、私が信じた分かったをいいません。 如実修行相応は南无阿彌陀佛でございます。
この理は易中の易であるが故に逆に難中の難なのであると思います。
南无阿彌陀佛
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●re.2
admin |
毎日 |
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[ 465 ] Re2:否定される自己と、すりぬける南无阿彌陀佛
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2008/05/22 (Thu) 21:35
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泥凡夫 様
お書き込み、ありがとうございます。
いつものことながら、読むと心が広がるお書き込みに、とてもうれしい気分が致します。
考えてみれば、私の場合は、ジャンヌにて泥凡夫様のお書き込みを拝見しまして、この道来れたのでありました。
愚尼様のお書き込みと合わせまして、本当に、何度ご拝読したか知れません。
探せども、どうしたら良いのかわからなかった私でしたが、こうして何とか辿り着くことできまして、なんというお導きであるかと、常々感謝申し上げている次第です。
南无阿彌陀佛が信心とは、真に不思議でございます。
同時に、だからこそ私のような者が救われると、感嘆申し上げております。
いつもありがとうございます。
南无阿彌陀佛
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[ 466 ] Re3:否定される自己と、すりぬける南无阿彌陀佛
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2008/05/23 (Fri) 00:44
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毎日 様
一昨日、創価学会様にご入会の知人が参りました。 普段は決して宗論にはならんのですが、重度の障害を負ったある人の話から ついついそれぞれの考えを話し合いました。
私は一度も誰かを助けた覚えはありません。人に助けられて生きてきたと申しました。 あるべき道を歩いてはおりますが、罪業の荷物は抱えきれないほど多く、自分で処分することすらできん自分がいる。 何と哀れなことか。我が機は地獄一定であると申しました。
逆に知人はあなたは人を助けている。人には仏性があり、そのまま仏になれるのだ。 人でありながら人を助けてゆけるのだ。と力説されました。
どう申されても三十二相も備えておらん私に人を助けることはできんし、助けてもらうことばかりだと思い知らされたのであります。
わが身の罪の深きことをば打ち捨てて佛に任せ参らせる。 当流のたのむ一念に、全てを弥陀にお任せした身です。 それでも煩悩は真実信心を厚い雲で覆っております。
生来の無精者です。自宅の名号を前に礼拝し、つくづく南无阿彌陀佛がただならぬ六字であるのだと感謝しております。正信偈をあげさせて頂き、『極重悪人唯称仏』の部分は私の心に重く響きます。
南无阿彌陀佛
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●re.4
admin |
毎日 |
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[ 467 ] Re4:否定される自己と、すりぬける南无阿彌陀佛
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2008/05/23 (Fri) 11:25
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泥凡夫 様
「自分で処理することすらできん自分」誠にもっともなことです。
だからこそ、弥陀をたのみました。
弥陀は約束通り救ってくださり、以降の人生は、別物となったと思います。
このような私が、仏法者とさせていただけましたのは、弥陀のおかげです。
そして、私が人を助けようとしても、きっとトラブルを生むばかりです。
『極重悪人唯称仏』このフレーズは、私の心をラクにします。
極重悪人にも、道がある。
釈尊は、十全な道をお説きになってくださったのだと思い、感謝しております。
南无阿彌陀佛
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[ 468 ] Re5:否定される自己と、すりぬける南无阿彌陀佛
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2008/05/24 (Sat) 00:18
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毎日 様
こんばんは。
蓮師は『当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり。』
と申されております。
木像や絵像も弥陀の方便化身の像ではございますが、それを崇拝し、たのみにすることを真実信心であるとは申さず、名号六字が真実信心の体であることを強調されたと私は思っております。
名号六字が信心の体である。特別な心の状態が信心の体ではなく、六字が信心の体なのです。特別な神秘体験や特別な心の状態など、そもそももって我が機(機械)の一部である脳が勝手に思っておることであり、それは機によって各別になり比較のしようがないのであります。そういう状態をもって真宗の信心とは言わんのであります。真宗の信心は誰もが等しく同じものであると分かるのは信心の体が「南无阿彌陀佛」であるからであります。
信後のお喜びとしての心の在り方は後念の喜びであり、これは各別でございます。 喜びも感謝も無記になれば何もかんも忘れてしまいます。機械ですから故障すればデータも壊れてしまいます。しかしながら、六字はたとえ無記になろうとも壊れることがありません。
六字の救いは凡夫の智慧の及ぶものではなく、まさしく不可称・不可説・不可思議のものであります。
かつて、正邪を見極めようとされておられるお方に、やってみれば分かることがございます。と申したことがございました。その方が今もそれをやられておるのか知りませんが、結論から申せば、正邪を見極める眼は凡夫には無いのだ。というのが答えであります。
佛が誰の目の前にも現れてピカッと光明を放たれて救って下さるのであれば、皆信じることができるでしょう。しかしながら、『煩悩障眼雖不見』が正意であり、『大悲無倦常照我』であるのであります。
そういう理を聞き開くは難中の難であります。 たったお一人でも六字を頂くことができるならば、真宗繁盛でございます。
有縁の方のために毎日様へ向けて独り言を申し上げました。
南无阿彌陀佛
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●re.6
admin |
毎日 |
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[ 469 ] Re6:否定される自己と、すりぬける南无阿彌陀佛
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2008/05/24 (Sat) 01:05
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泥凡夫 様
貴重なお話、ありがとうございます。
ジャンヌに続きまして、今でもこうしてお話お読みできますことが、とてもうれしく思います。
駆け出しであり、未熟者の私でございますが、日々暮らしておりますうちに、出来事にも会い、そこで考え、知らされ、ますます仏法の価値を感じている次第です。
六字は、終わりがあります。
求道は無限ですが、「一心に弥陀をたのむ」という終点があります。
この終点から、あらたな始まりがあり、そこからは、あらたな世界が展開してゆくと思います。
何もわからぬ愚かな私ですが、限られた知恵で世を見渡しますと、それでも、救われたよろこびに感謝致します。
六字は、誠にありがたいです。
南无阿彌陀佛
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