讃嘆・味わいなど

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●No.13
愚尼
非公開の女性
[ 252 ] 改めて思う事。 2008/04/08 (Tue) 20:56 △up ▽down
私は、なんて大勢の方々に励まされている事でしょう。
読み返してつくづく幸せ者だと感じずに入られません。
皆様の励ましの言葉、本当に有り難う御座います。
愚尼ちゃんと呼ばれるととても嬉しく感じます。
早く病気を治そうと勇気が湧いてきます。
皆様有り難う御座います。
お礼まで。

●re.1
菩提心
非公開の非公開
[ 750 ] Re1:改めて思う事。 2009/03/24 (Tue) 02:42 △up ▽down
去年の今頃は、こんな殊勝な事も言っていたのに・・・。

わたしは、「女人往生聞書」の中の、若死は罪になると書いたのは、

貴女の3人目の御子さんが、まだ小さいから、長生きして貰いたいと思っての気持ちも含んでいるのに。

どうして、毎日様がやさしくやさしく声かけして下さっているのに素直に聞けないのだろう。

貴女は、違う場所で、「たおやかに」って書いておられたけれど、

たおやかってどんな意味だろうって辞書で引いてみました。

女へんに弱いでたおやか。姿・動作がしなやかでやさしいさま。

でも、類語には、硬いとか硬結(こうけつ)・硬質(こうしつ)っても書いてある。

不思議な言葉。

ここを見ている人から、貴女とわたしが「丁々発止」女のバトルをやっていると言われました。

愚尼様も強いけれど、わたしも負けないぐらい強いって言われました。

そうなんだ、自分ではそう思ってないけれど、やっぱり、高野豆腐様が思うのも当たっているのかな?

去年で真実信心頂いて24年の貴女が、どうして、貴女が書いていた鎧をいつまでも後生大事に身につけているのだろう。

そんなものかなぐり捨てて、本来のやさしい3人のお母さんでいられないのだろう。

人を導くことも尊いけれど、

「お母さん」って、声かけた時に、優しくいつでも包んであげられるお母さんの方がとっても幸せで、周りの人も幸せって思えると思う。

これはわたしへの反省の言葉でも有ります。

相当、自分が勉強嫌いのくせに、子供が悪い成績表を持って帰った時、子供を足蹴にしたり、押入れに入れてお仕置きしていました。

今は、それを笑いのネタにされています。

あの時、もっと優しくしておけばと今頃思っています。

愚尼ちゃん、あずちゃんってやりあっていた頃のわずかな間の貴女の姿の方が、わたしは本来の貴女だと思いたい。

南无阿彌陀仏

●re.2
菩提心
非公開の非公開
[ 751 ] Re2:改めて思う事。 2009/03/24 (Tue) 03:16 △up ▽down
わたしが小学生の時に、母からお使いを頼まれました。

アイスクリームを買ってくるように言われました。

買って帰る途中で、友達に会っておしゃべりしていました。

母に手渡した時、半分溶けてしまったアイスクリームを投げつけられました。

その時、わたしは母を憎いと思いました。

こんな母親にはなりたくないと思いました。

でも、足蹴にしている時のわたしは、多分一番嫌だった母の姿と一緒だと思います。

きっと、鬼の形相をしていたと思います。

わたしは、そういう意味でも、まだまだお母さんって呼んで貰えるこの時間を大事にして貰いたいと思っています。

わたしは、長い間、、嫌がる子供を引き連れて、親鸞会の御法座に出かけました。

一時、長男はわたしを毛嫌いして、側にも寄りつかなくなりました。

授業参観に行っても、下をうつむいて、一切わたしに顔もむけず、お風呂に入るのも拒否していました。

その間、聴聞に明け暮れるわたしの代わりに、主人が世話をしてくれていたので、子供ものびやかに育ったのだと思います。

わたしは、親鸞会の活動にムラが有り、丁度、落ち込んでいた時でした。

しばらく活動もしなく、家に居たとき、突然、息子がひざの上に座ってきました。

それまで、同じ家に居ながら、どことなくちぐはぐな親子関係でした。

小学5年生の時です。

それまで無口な子が、一気におしゃべりな息子に変わりました。

わたしは、幼い息子と娘を連れて聴聞している間、それはわたしの満足だけで、息子はしゃべらない子になっていたことにも気付かない愚かな母親です。

南无阿彌陀仏

●re.3
菩提心
非公開の非公開
[ 752 ] Re3:改めて思う事。 2009/03/24 (Tue) 09:45 △up ▽down
2005/10/4

「自信教人信」 日記より

・・・私みたいな高校もまともに出ていないボンクラ頭では親鸞聖人の教えを理解できないのか・・・

こんな私を救ってくれると言ったから、極楽に生れたいと強く願えば行くことが出来ると言われたから、

弥陀を頼むだけでいいんだと言ってくれたから信じたのに、

本当は親鸞会に入って勉強会に参加して、たくさん勉強しないと極楽にいけないのかなぁ〜


わたしは、ジャンヌ掲示板の教義云々の場所よりも、貴女の上記のようなお言葉に親近感を抱いて、読む気になったのです。

ただの教学論争ならわたしは、直感的に信じても、続けて読もうとしなかったと思います。

親鸞会の高学歴の人を相手に、一人頑張る貴女に、何か惹きつけられて読んでみようと思いました。

その時のわたしは、親鸞会の中の、財施で聴聞場所が前で聞けたり、大きな大学生の出身大学の書かれたプレートを首からかけている様子に段々違和感を感じていた時の書き込みでした。

すごいな、この人は。

この自信たっぷりで書き込んでくる貴女に、影ながら尊敬していました。

わたしは、ずっと劣等感を引きずっていました。

高校受験に失敗し、定時制高校に入学しました。

中学の担任の先生は、私立高校を勧めてくれましたが、わたしはそれを拒否しました。

先生から、勝手にしろと言われ、その時4年間絶対休まず卒業しよう。

そして、先生に卒業して報告しようと心に決めました。

無事卒業して、ハガキを送りましたが、返事は有りませんでした。

極道坊主様の書き込みでは有りませんが、中学で勉強出来なかったわたしは、きっと悪い子なのでしょう。

中学校の卒業名簿には、わたしの場所は行方不明になっているそうです。

その担任の先生は、県の教育長まで進み、叙勲も頂いたそうですが、陰で一人今でも執念深く引きずっているわたしがいます。


わたしは貴女の書き込みから、素直に極楽に生れたいと思いました。

だから、ジャンヌ掲示板で一人頑張っていた貴女のお陰だと今でも感謝しています。

南无阿彌陀仏

●re.4
愚尼
非公開の非公開
[ 753 ] Re3:改めて思う事。 2009/03/24 (Tue) 09:55 △up ▽down
菩提心様へ

私は、菩提心様をとても大好きですよ。
こう言うと、また嫌われてしまうんだと思いますが、私は、菩提心様を嫌いになれないんです。ここで会話をすればする程好きになって行きます。
私の子育て、ご心配頂き心より有り難くお受け致します。
子育てでは、菩提心様は私より先輩です。
色々なお話を聞かせていただけたらと思っています。
菩提心様が私を嫌っているのを百も承知で火に油を注がせていただきました。
金剛心様からは、三毒を勧めてどうすると言うお叱りを覚悟の上での書き込みです。
私は、太い筋金入りです。娑婆の世界でも、仏法の世界でも、女の醜さを随分見て来たと自負しています。
女の醜さは、底がありません。
信心をいただいていたってこの有様です。
阿弥陀様の御心は、男性になんか向いていないのです。
女を救う事が出来れば、男を救うことも含まれてしまうのです。
男を天上界の住人とすれば、女は無間地獄の最下位に住んでいるのです。
こう云う事を男が女に言えば、男尊女卑と非難されるのです。
だから、同じ女の立場の私が言わなければ、それでも反感を買うのです。
私の気持ちを少しでも汲んでいただければと思います。
菩薩の振りした夜叉の愚尼より  合掌

●re.5
忍草
北陸の男性
[ 754 ] Re4:改めて思う事。 2009/03/24 (Tue) 17:24 △up ▽down
  愚尼樣、菩提心樣

私自身の平生の行いが悪かったのか、お講の日、雨に降られ風邪も引きました

念仏行者が集まるのだから滅多に降らないと亡くなった老師にいわれていたのに・・・

「じゃじゃ馬姫」と書き込んだりした事を思い返します。でも反省はしていません、

思った事を書きはしましたが、親しみを込めて表現した積りです。

ご両名の昨年4月頃の書き込みを改めて読みました。

そして思った事ちょっとだけ書きます。教義とは関係なしなので・・・

仏壇にお参りする時、阿弥陀さんに手を合せる、だけど飾ってあるお花は

果して阿弥陀さんに向けて飾っていますか?違いますよネ、参る人の方に向けて

いると思うのですが、私はアマノジャクなのでこんな事にも興味を持つのです。

現在私が理解しているのは

お内佛の繪像の裏側には方便法身尊形図と書かれていますが

お参りするのは自分に頂いた佛種(あの時)を繪像を鏡として禮拝するから

お花もこちらに向けてお飾りすると了解しています。

自分の眼ほど頼りにならないものはないと思います。自分自身でさえも見えない

のですから・・・だから私は眼の前はすべて自分を映す鏡だと思っています。

一輪の野草も綺麗に見える時もあれば、煩わしい早く草をむしらないといけない

或は気に入った人、気に入らない人、神や仏樣相手に誰も喧嘩はしないですよネ

人もあの人は角がある、あの人はマルイよく出来た円満な人と表現します

何を話したいかというと全て原点はあの時の事、形も三角から丸へと

少しずつまるくなればと願う次第です。眼に見えるあるいは意識するのは

すべて自分を(じぶんが)鏡としている自分自身であって他人ではないと

思うのです。表現力のヘタな忍草でした。

          合掌  南無阿弥陀仏 南無阿彌陀佛。

●re.6
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 757 ] Re5:改めて思う事。 2009/03/24 (Tue) 23:13 △up ▽down
菩提心様

極道坊主で有ります。

社会が、世間が「悪い子」のレッテルを張ったとて其れは通念上の事。 なんの確信も有りはしません。

かく云う私も「不良」と云われてました。(自分では大した事はしてないと思っています。)

そもそも不確かな者たちの申す事なのですが、それが今現在に至る「因」であり「縁」なのでしょうね。

過ぎた過去に「もしも」はありません。 其の時その時が、私にとっても貴女様にとっても必然なのでして、そこを通ったからこそ今の喜びがあるのだと信じます。

其の先生より逆縁を頂戴したからこそ、他人様のなかなか味わう事の出来ない御念佛の道をいただかれたのでしょう。味わっておられるのでしょう。

全ては親様の計らいの中。 仕組まれて居ったのですよ、きっと。

菩提心様の今をずっと前から御存知なのだから。

お互いに其の当時、成績優秀で皆から脚光を浴びていたのあれば、今現在は人として赤点ばかりで落第しているかもしれませんよ。(自分は留年を経験してます。辛かったですよ。(笑))

お蔭様で親様の願いに叶ったから、娑婆も浄土もつつぬけにして貰ったではないですか。 御念佛がハラに据わってくださいましたら、そのままで浄土の味わいをさせてもらえるのではないでしょうか?(佛様の居られる所が浄土なのですから。)

勿体無いですよね、ほんとうに。

合掌

●re.7
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 759 ] Re6:改めて思う事。 2009/03/24 (Tue) 23:36 △up ▽down
極道坊主 様

「娑婆も浄土もつつぬけ」良い表現ですね。

信心いただいておれば、「顔パス」ですものね。

この世はすべて幻想で、ただ六字だけが真実。

その真実を、口に出すことできるありがたさ。

実に、格別なものであると思います。

南无阿彌陀佛

●re.8
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 762 ] Re7:改めて思う事。 2009/03/25 (Wed) 02:54 △up ▽down
忍草 様

>眼に見えるあるいは意識するのはすべて自分を(じぶんが)鏡としている自分自身であって他人ではないと思うのです

そうですね、私もそう思います。

自分を知れば知るほど、無意味な自分と知らされる気が致します。

南无阿彌陀佛

●re.9
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 765 ] Re5:改めて思う事。 2009/03/25 (Wed) 15:15 △up ▽down
毎日様

極道坊主で有ります。

「娑婆も浄土もつつぬけ」の言葉、喜んで戴けて自分も嬉しく思いました。

御名號がありさえすれば、それだけで宜しいんですね。

御念佛が私に届いてくれた時から、浄土は遥か彼方、拾萬億佛土ではなく今々この足元に来て下さっていると感じています。

「この身は娑婆に暮らしていても、心は浄土にて遊ばせて貰うて居ります。」

其の心持が離れませんから、この「不良」と呼ばれていた自分の口をして「なむあみだぶつ」と出て下さいます。(何を言い出すやら分からん口をしてですよ。)

其の思いが強い故、これはまことに感謝の念が籠もった御念佛で有ると思います。

「報恩感謝の御念佛」とは申されますが、佛様、聖人様等御化身方から蒙りました御恩がハッキリしませんと「報恩感謝」には成らないと思います。

「真宗の御念佛は報恩感謝の御念佛です。」といわれるから感謝の心で御念佛をしよう。 それでも全然構わん事ではあると思いますが、救われても居らんのに助かったの側に回り込んで感謝の真似事は出来んでしょう。 と、思います。

「ありがとうございます。」の心の中に助けて下さいや、喜び、嬉しさ、励まし等色々な心持を備えてくださいました御念佛なのでしょうね。

ごめんなさい。 上手く表現が出来ませんでした。

御念佛なんと表現すればいいのか言葉を失いますが、「ありがたい」のだけは間違いない。

言葉など要らんのかもしれませんね?

  合掌


●re.10
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 767 ] Re6:改めて思う事。 2009/03/26 (Thu) 06:10 △up ▽down
極道坊主 様

>「報恩感謝の御念佛」とは申されますが、佛様、聖人様等御化身方から蒙りました御恩がハッキリしませんと「報恩感謝」には成らないと思います。

そうですね、報恩感謝の実感を味わえるよろこびは、味わえないのだと思います。

救われることのありがたさ、六字と一体になるありがたさは、実に格別のものですが、はじめは、そのよろこびが、ほとんど感じられない方もいらっしゃると思います。

それでも、南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛・・・と称えてゆけば、名号の不思議なはたらきによって、自然と変わってゆきます。

信前も、信後も、南无阿彌陀佛ですから、もし間違って信心獲ったと思っても、結局は、第二十願をやることになるのですから、無駄にはなりません。

だから、安心して南无阿彌陀佛ですね。

第二十願にも、やっぱり大きな意味があると思います。

南无阿彌陀佛

●re.11
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 768 ] Re7:改めて思う事。 2009/03/26 (Thu) 06:47 △up ▽down
忍草 様

味わいのお話をお読み致しますと、やはり南无阿彌陀佛でつながっているのだなあと感じます。

教義的にはあれこれ異なることがあるかもしれず、私の書くことでおかしいと思うことも多々あるとは存じますが、自身に弥陀の信心をいただく不思議、その功徳の不思議・広大さには、いつも感謝しております。

立場に違うところがあるにもかかわらず、お手数かけて書き込んでくださいますこと、感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.12
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 771 ] Re8:改めて思う事。 2009/03/26 (Thu) 15:17 △up ▽down
毎日様

極道坊主で有ります。

やはり、「なむあみだぶつ」で繋がっているのですよ、皆様は。 其の筈です。

親様は「なむあみだぶつ」お一方なのですから、其の方を「親様」とお呼びする者は皆姉妹兄弟の筈なのです。 私はそう思いたい。

姉妹と言えど、利発な子も居れば愚鈍の子も居る。 兄弟といえど、せからしい子も居るしのんびり屋も居て当然なのでしょう。

理屈屋もおろうし、感覚的な子も居る。 親分肌の子も居れば、陰に隠れて後ろを付いて行く子も居る。

兄弟喧嘩あり、言い争い有り、殴り合いあり、貶し合いをしながらもお互い慈しみ合い、思い合いながら先に進めて貰うのでしょうね。

其れを後ろからにっこり笑って眺めておいでの親様が居る。

子供達の成長をおおらかな(言葉では言い表せない位の)お心で御覧の筈です。

兄姉は弟妹に「わからんところがあるんなら父ちゃん、母ちゃん呼べや。 そんで聞け。」と言ってやれば良いだけの事。

知ったかぶりは喧嘩の元です。(家の子の光景を見て知らされました。)

ワシ等に父ちゃん、母ちゃんは出来んのです。 真似事は出来ても其れは真似であって親の心を知った訳ではない。

結婚して、夫婦になって、縁有って子供を授かって初めて親になります。 親にはなろうと思ってもなれん場合もある。 親にしてもろうても、親様になった訳じゃない。

佛様のお心は計り知れません。(親の心から親様の御心の一端を推し量る事は出来るかもしれませんが?)

いつまで経っても、いくら年齢を重ねようとも、親様から見れば子供なんでしょうね。

子供は子供、子供らしく振舞うのが最善なのでしょう。(自然に振舞うという意味で有ります。)

構えてしまうと肩に力が入り不自然に成ってしまいます。 身構えての対話は既に喧嘩腰では有りませんか?

折角のご縁です。 リラックスしてモット楽に行きたいものですね、皆様。

大層な、偉そうな書き込みになりました。

お気に触られる方がいらっしゃればお許し下さい。

  合掌 

●re.13
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 773 ] Re9:改めて思う事。 2009/03/26 (Thu) 15:40 △up ▽down
極道坊主 様

親様は、やはり親様であって、広大無辺の心をお持ちなのだと思います。

いろいろ意見の違いがあっても、南无阿彌陀佛は一緒なのですから(「違う」と言われてしまうかもしれませんが・・・)、少なくとも、誘引のはたらきの中にいることは、間違いないような気がします。

そういう、いろいろな衆生をからめとって、全部救ってしまうのですから、阿弥陀様は、とてつもなく大きなお方であると思います。

とにかく、思うことを言うことが大切だと思います。

肩肘はってしまうのは、思うことを言うことに抵抗があるからで、その抵抗を乗り越えるために、緊張があがるわけだと思いますので・・・

ここは、掲示板ですし、匿名ですので、なれてくれば、どんどん思うところが言えると思うのです。

そして、それが、実際の対面の場所でも、思うことが言いやすくなる助けになればと思います。

「掲示板だと言えるけれど、面と向かうと言いにくい」という段階も通ることに問題はないと思いますが、やはり、面と向かって言えるところに、実感としての手応えも出てくると思います。

もちろん、お講もそういう場所(思ったことを言える場所)であると思うのですが、身近な人だし、顔も見える。

そうなると、「思ったことを言いましょう」ということでも、「思ったことはあるけれど、言いたくないという思いもある」ということになりやすくなる場合があると思います。

だからこそ、遠くから、たとえば蓮師に会いにいって、蓮師であれば、ふだんお会いすることはないし、まあ頭ごなしにひどいことを言うこともないだろうと、そういう環境と信頼があれば、言いやすくなったりですとか、そういうことはあったと思うのです。

思うところを言っていって、不完全さも外に出していって、そうやっているうちに、信心があれば、やっぱりそれが輝いてくると思います。

信心がなければ、「どうもこれは違うな」と、信心いただいているひとのお話を聞いていて、違いが実感されてくる。

遠慮すると、信心の輝きが見えやすくなるのに、時間がかかると思います。

自分の中に信心があると思えば、汚い心かもしれなくても、とにかくそれを表現してゆくことが大切であると思います。

私はこのような考えですので、どうか遠慮なく、どんどん思うところをおっしゃっていただけたらと思います。

南无阿彌陀佛



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