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●No.21
菩提心
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[ 203 ] 専修念仏・念仏行者・真宗 2012/07/17 (Tue) 03:24 △up ▽down
今明治書院の聖典と、法蔵館の真宗辞典を拝読しています。

私は以下のような方法で上記を利用しています。

一文不知の私でも、親鸞聖人と一味同行。有難いと思い「専修念仏、念仏行者等」わたしの味わいの場所を示して行きたいと思います。

まず私は以下のような方法で、聖典を眺めていきます。

例えば、

◎定散自力の称名は、果遂のちかひに帰してこそ、をしえざれども自然に、真如の門に転入する。(浄土和讃  聖典P152)

定散自力を引くと「定散自心」と辞書にはあります。

★「定散自心」→定善・散善の自力の行を励まんとする心のこと。教行信証信巻別序に『定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し』とある。(辞典P394  聖典P232)

同じページから
★「定散」→定善と散善のこと。共に自力の法である。各條を見よ。
★「定散二善」→定善と散善のこと。各條を見よ。

ということで、
★「定善」→心を一所に定め、静かに他の念を起さずして修する善根をいふ。散善に対す。(辞典P407)
同じく「定善義」「定善示観録」「定専修」「定善十三観」の項目に目を通す。
後の参考になる場合があるので、頭の片隅に置いておく。

★「散善」→定善に対す。心の散り乱れてをるまゝにて悪を廃め善を修すること。即ち善根を積むことである。定散を見よ。(辞典P306)
定善と同じように
「散善義」「散善三観」「散善自開」「散専修」に目を通す。

★「果遂の誓い」→阿彌陀仏四十八願のうちの第二十願をいふ。この願は自力念仏の機をも、つひには浄土往生を果しとげんしめんと言われた願なる故、かく云う。浄土和讃に「定散自力の称名は、果遂のちかひに帰してこそ、をしえざれども自然に、真如の門に転入する。」とある。(辞典P118)

自分の思いと同じ処が引用されていると、嬉しくなる。

★「自然」→おのづからしからしむること。これに無為自然と他力自然の二意あり、無為自然とは真如の理の本来固有にして人為の造作を離れたるをいひ、他力自然とは本願の救済が行者のはからいから超えたるをいふ。親鸞聖人の自然に対するこの見解は、正像末和讃及び末灯鈔等にある。(辞典P342)

★「自然法爾」→他のはからいなくして、おのづから法としてしからしむと云うことで、他力信仰の根本である阿彌陀仏の願力を顕はすに用ふる語。即ち阿彌陀仏の願力は法として、行者のはからひを要せずして衆生を救済されるのであると云うこと。
正像末和讃の終に、「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらずしからしむといふことばなり。然といふはしからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるが故に、法爾といふは如来の御ちかひなりける故に、しからしむるを法爾といふ。この法爾は御ちかひなりける故に、すべて行者のはからひなきをもちて、此故に他力には義なきを義とすとしるべしとなり」とある。(辞典P343 )

★「真如の門」→「真如門」真如の理をさとる入口の意で、他力信心の教をいふ。この教は衆生をして浄土に往生せしめ、真如の理をさとらしむる門なる故、かくいふ。(辞典P450)
「真如」「真如一実」「真如一実信海」「真如実相」「真如法界」「真如法性」の言葉拝見。

★「転入」→移り住む(辞典になく大辞林より抜粋)



「自然法爾章」・・・(聖典P175)
仏智の不思議にて読めてくる有難さ。

★「義なきを義とす」→他力の教は、自力のはからひを止めて、専ら願力の自然に任すものであると云うことを表す語。末灯鈔に、「他力には義なきを義とすと聖人のおほせごとにありき、義といふは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれど義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり」とある。ここに聖人とあるは法然聖人のこと。
(辞典P149)


聖典全て、信後の私を法悦の海に遊ばさせて頂けるようだ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・・


●re.1
菩提心
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[ 205 ] Re1:専修念仏・念仏行者・真宗 2012/07/17 (Tue) 06:15 △up ▽down
◎念仏成佛これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ(聖典P153)

★念仏→称名念仏のこと。念仏の義は諸宗に渉って多義であるが、教行信証の行巻に「爾れば称名は能く衆生一切の無明を破し、能く衆生一切の志願を満す、称名は是れ最勝真妙の正業、正業は則ち是れ念仏、念仏は是れ南無阿彌陀仏、南無阿彌陀仏は即ち是れ正念なり」等とあり、仏を念じて口に仏の名前を称すること。すなはち、心中には阿彌陀仏の救済を喜び、口には南無阿彌陀仏の六字の名号を称えることをいふ。他力信仰の行者の信心を喜ぶ行業である。(辞典P615  聖典P188)
「念仏為宗」「念仏為先」「念仏為本」「念仏円通」「念仏往生」「念仏往生願」「念仏行者」「念仏禁制」「念仏三昧」「念仏宗」「念仏衆生摂取不捨」「念仏正信偈」等

★成佛→菩薩の行を修し了って仏となること。又浄土へ往生して仏の証りを開くこと、作仏、成道、得道に同じ。(辞典P420)

★真宗→浄土真宗をみよ。
 浄土真宗→略して真宗といふ。教行信証教巻に大無量寿経真実之教浄土真宗と掲げられ親鸞聖人の開かれた教で、浄土往生の真実の教といふ意。(辞典P414 聖典P181)

★万行→よろずの修行、あらゆる善行のこと。他力信仰にあっては、他力念仏以外の行を、かくいふ。(辞典P707)
 
★(万行諸善)諸善万行→浄土和讃に「諸善万行ことごとく、至心発願せるゆゑに、往生浄土の方便の善にならぬはなかりけり」とあり、方便の善にして、万善諸行、又諸行、雑行ともいふ。念仏以外の定散二善等の諸種の行をいふ。(辞典P428  聖典P152)

★仮門→仮の門の意で、真実に入らしめるための方便の教えをいふ。愚禿鈔に「唯除阿彌陀如来選択本願已外大小権実顕密諸教皆是雑行道聖道門又易行道浄土門之教是曰浄土廻向発願自力方便仮門也応知」とあり、浄土和讃には此れ等の機のために、「至心発願欲生と、十方衆生を方便し、衆善の仮門ひらきてぞ、現其人前と願じける」とある。(辞典P209 愚禿鈔聖典P424  浄土和讃聖典P152 ○十九願の意諸行往生なり、添え書き有り

★権実(ごんじつ)→権ばかりの方便、実は真実で、仏教で教法等を判別するに用いる語。即ち権は権仮で、聖道と浄土方便を云ひ、実は浄土真実を云ふ。
愚禿鈔の上には、「唯阿彌陀如来選択本願を除いて己外大小権実顕密の諸教皆是れ難行道聖道門なり。又易行道浄土門の教是れを浄土廻向発願自力方便の仮門なり」等とあり、この場合「念仏成佛これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ。聖道権仮の方便に、衆生ひさしくとゞまりて、諸有に流転の身とぞなる」等とある実は真と共に真宗をあらわす。(辞典P273  愚禿鈔聖典P424  浄土和讃聖典P153
「・・・・諸有に流転の身とぞなる、悲願の一乗帰命せよ」

★真仮→真実と権仮方便のことで、浄土和讃に「念仏成佛これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」等とあり、この分際を明らかにする所に」浄土真宗が成立する。(辞典P435)


ただ書き写すだけで、真宗の要がよく分かり、一順してしまいました。

まるでしりとり遊びみたいですね。

どこを読んでも、真仮を分けての御教え。

親鸞聖人は、信後、経典と自分の信心が合点するので、楽しくて仕様がなかったと思います。

私みたいな無知蒙昧な者でも、真実信心頂けると、一味同行として読めてくる有難さ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・。

●re.2
菩提心
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[ 210 ] Re2:専修念仏・念仏行者・真宗 2012/07/18 (Wed) 05:02 △up ▽down
◎十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる (聖典P154)

★十方微塵世界→十方に亙って微細な塵の数ほどもある多くの世界の意。
阿彌陀仏の任務と、其の任務より来る「阿彌陀」の得名はこの十方微塵世界の衆生の救済にあり、かくて浄土和讃には「十方微塵世界の念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿彌陀と名づけたてまつる」等とありて、さきに十方に呼びかくる如来の本願の理領域が示されている。(辞典P340)

★念仏衆生(念仏行者)→「 念仏を修する行者の意で、阿彌陀仏の名号を称えて、仏恩の報謝を怠らざる篤信の人をいふ。(辞典P616)

★みそなはし→「見る」の尊敬語。ご覧になる。(古語辞典)

★摂取してすてざれば(摂取不捨)→観経に「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」とあり、阿彌陀仏は、他力信心の行者を、摂め取って捨てたまはぬといふこと。御文には「一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかる」等とある。(辞典P466)
  注 やがて、はすぐにとの意。
「摂取」「摂取光益」「摂取門」

★阿彌陀(阿彌陀仏)→真宗の信仰対象で、阿彌陀は梵語、阿彌多庾斯(アミターユス)、阿彌多婆(アミターブバ)の略称。
阿彌多は無量、庾斯は寿、婆(ブバ)は光明の義がある。すなはち阿彌陀仏とは、無量寿仏、無量光仏の義である。西方極楽世界の教主で、浄土教の本尊と仰ぐ仏であり、過去久遠斯劫の昔、錠光如来に興出し、次に光遠等の五十二仏相次いで出世し、最後に世自在王仏が出でた時に一国王にあって、仏の説法を聞き、心大に悦び、遂に王位を捨て沙門となり、名を法蔵と云ひ、世自在王仏の所(みもと)にて、無上の正覚を成ぜんことを発願し、二百一十億の諸仏の国土の依正を見て、五劫の間思惟して、それ等諸仏の国土につき選択し、四十八の大願を發(おこ)し、兆載永劫の間、菩薩の大行を積み、遂に十劫の昔に正覚を成ぜられたもので、其の仏身に種々ある内、他力念仏の行者が帰し奉る阿彌陀仏は何れであるかと云うに、真実報身の仏であろ。すなはち、法蔵菩薩の四十八願の根本意は無上の国土を成就し、最勝の仏となり、以て一切衆生を救はんと云ふにあり、その願が既に成就し、現に西方極楽世界に在りて、活動して居られるが故である。
故に衆生は此仏に帰命すれば、彼の願力により必ず極楽往生を遂げることを得るのである。尚、仏身を参照せよ。(辞典P13)

教義の場でも「摂取不捨」について、質問しましたが、念仏行者は必ず極楽往生できるのですね。

書き写す事は、とても楽しいですし、読んでいるよりも、その喜びは増幅するようです。
とても有難いです。

いつも不思議に2時か3時に目が覚めて、書き込んでいます。

そして、時間お構いなしに、爆睡してます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・。

●re.3
菩提心
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[ 212 ] Re3:専修念仏・念仏行者・真宗 2012/07/20 (Fri) 05:59 △up ▽down
◎超日月光この身には 念仏三昧をしえしむ 十方の如来は衆生を 一子のごとく憐念す (聖典P157)


★超日月光→阿彌陀のこと。阿彌陀仏の光明が、日月の光に超えすぐれるという徳を、仏名としたもの。(辞典P540)

★念仏三昧→@観仏三昧に対す。阿彌陀仏一仏に心をかけ、一心一向に仏の名号を称え、他の行をせぬこと。されば高僧和讃に「念仏三昧行じてぞ、罪障を滅し度脱せし」等とある。 (聖典 P158  恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし)

A一心に仏の相貌または仏徳を観念して、終には宇宙に偏満する真如の理を観察するに至る禅定をいふ。此の義、真宗には依用せず。 (辞典 P616)

★十方→東西南北の四方、並びに南東、南西、北東、北西の四隅、及び上下の二方の併称である。佛教に於ける空間の世界を表現する語。即ち三世と共に時空間を代表して大経第十八願は正しくこの十方衆生に呼び掛けている。 (辞典 P339)

★如来→如即ち一如より来生する意で、教行信証の証巻に「彌陀如来は如より来生して真理を示す人の意で、宇宙の真理そのものゝ人格的な表現といふこと。 (辞典P607)

★衆生→衆多(あまた)の生死を受けるもの、又衆多の生類という意で、一切の生類をいふ。 (辞典P374)

★一子(いっし)→一人っ子。ひとりご。(大辞林)

★憐念→憐れみ念ずること。

阿彌陀様は、私をひとりごとして、憐れんで下っておられたのだ。

それは、肉親の親以上の温かさであり、全く見返りなど考えておられない。
地獄行きの私を、見過ごすことが出来ないと、全くの大慈悲心そのままで私を救って下さった。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・・

●re.4
菩提心
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[ 214 ] Re4:専修念仏・念仏行者・真宗 2012/07/22 (Sun) 05:26 △up ▽down
◎釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて 正雑二行方便し ひとへに専修をすゝめしむ  (聖典P162)


★釈迦→釈迦牟尼の略  (辞典P350)
 釈迦牟尼→略して釈迦ともいひ、釈尊ともいふ。中印度迦毘羅城の浄飯王の御子、御母を摩耶と云ふ。四月八日嵐毘尼園の樹下に生まれたまひ、瞿曇(くどん)、または悉達多太子と称し、長じて拘利城の長者善覚の女耶輸陀羅を娶り、一子羅喉羅の父とならせられた。二十九歳(又は三十歳とも云ふ)に道を覚らせられ、それより四十余年間、至るところに道を説き、御歳八十にして涅槃に入らせられた。昭和九年が仏滅二千五百年に当たると見られる。佛教はその御一代の説法に基いたものである。 (辞典P350)

★要門→もと玄義分に「然れば娑婆の化主、其請に因るが故に広く浄土の要門を開き、安楽の能入、別意の弘願を顕彰す」等とあり、三門の一。観経に説かれている定散自力の諸行をいふ。この自力の諸行は仏の本願たる大経の弘願門即ち第十八願の肝要なる法に転じ入る門戸の意。観経の説法を解釈するに当って、顕の義から見て、方便の仮門とし、大経の第十九願の旨趣を示されたものとする。三々の法門を参照せよ。  (辞典P755)

★定散→定善と散善のこと。共に自力の法である。各條を見よ。 (辞典P394)
  辞典には定散諸機としての単語はなかった。
諸機→もろもろの機

★機→何等か生ずべきはずみのこと。即ち機は可発の義にして、人の心が縁によって活動を発すべき機微をいふ。又この意味より、教法の力に応じ、信心を発する衆生の心もかくいふ。 (辞典P140)

★定機→雑念を止めて心を凝らすところの機で、散善の機に対し定善の機のことを云ふ。(辞典P388)

★散機→観経にとかれたる散善を修するの機類を定善の定機に対して散機と称して弘願の機に相対する。教行信証の化巻には、方便の機を「一には定機、二には散機也」となし、廃悪修善をその内容とし、この散を修する心境を定散合して定散の専心と云ひて小経釈下に明し、「定散の専心とは、罪福を信ずる心を以て本願力を願求す。是を名けて、自力の専心と名く」等とある。 (辞典P290)



★正雑二行→正行と雑行と。各條を見よ。高僧和讃には「釈迦は要門ひらきつゝ、定散諸機をこしらへて、定雑二行方便し、ひとへに専修をすすめしむ」等とある。 (辞典P408)
  ここでも引用されていて有難い。

★正行→仏果に至る正当の行の意で、真宗の正行は、散善義に五正行あり、五雑行に対し、正しき往生経によりて行ずる所の讀誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養がそれであり、その中之を正助二業に分ち、前三後一を助業とし、正行は、順彼仏願故の称名とする。正助二業、並びに正雑二行を参照せよ。  (辞典P389)

★雑行→正行に対す。阿彌陀仏一仏を念じてつとむる行に五種の正行があるにもかゝはらず、その正行以外の行業を修して浄土に生れんとする行を、かくいふ。雑は、疎雑、雑通、雑摂の義で、阿彌陀仏に対し疎遠な行であると云ふ意で、又五種あり、五正行に対して「讀誦雑行」「観察雑行」「礼拝雑行」「称名雑行」「讃嘆供養雑行」の五が其れである。 (辞典P488)

★方便→@論註下に「方便とは権に通ずる智の称なり」等とあり、真実の教に引き入れんがために、仮に手段を廻らして、人を教え導くこと。または、その仮の教えのこと。この場合には多くの権仮方便と熟する。
A方便門の方便。即ち三門の一にして、衆生を憐愍して、己れの利益を度外視すること。浄土論下巻に「正直を方と曰ひ、己を外にするを便と曰ふ」とある。 (辞典P678)

★ひとへに→偏に、ただそれだけが原因・理由であることを強調する気持ちを表す。まったく、もっぱら  (大辞林)

★専修→専ら一つの行業のみを修すること。即ち、浄土往生の行業として専ら正行のみを修すること。しかも別しては仏の本願に順じて唯念仏の一行のみを称えること。専雑二種を参照せよ。 (辞典P475)

★すすめしむ→しむ(助動下二型) 意味・用法ガイド @使役・・・せる。・・・させる。
 A尊敬 お・・になられる。・・なされる。  B謙譲  (お・・申し上げる) (古語辞典)


書き写すだけで、弥陀の御説法を直にお聞きしているように思える。
仏の本願に順じて・・・・仏の本願にしたがう。
ただ念仏の一行だけだと知らされる我が身の有難さ。

南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏・・・・

●re.5
菩提心
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[ 216 ] Re5:専修念仏・念仏行者・真宗 2012/07/23 (Mon) 05:01 △up ▽down
◎経道滅盡ときいたり 如来出世の本意なる 弘願真宗にあひぬれば 凡夫念じてさとるなり (聖典P162)


★経道→経典に説かれたる道が経道で、又その道を行ふを云ふ。無量寿経下巻に、「当来の世に経道滅盡せんに、われ慈悲をもて哀愍して、ことにこの経を留めて止住すること百歳せん。それ衆生ありて、この経にまうあふもの、こゝろの所願にしたがひて、みな得道すべし」とある。又高僧和讃に、「経道滅盡ときいたり 如来出世の本意なる 弘願真宗にあひぬれば 凡夫念じてさとるなり」とある。即ち経道の滅盡は真宗教行証の興起する理由を意味する。 (辞典P173)

★滅盡(滅尽)→ほろび尽きること。ほろぼし尽くすこと。 (大辞林)
 「滅盡三昧」「滅盡定」

★ときいたり→時至り 時節が到来し

★如来→如即ち一如より来生する意で、教行信証の証巻に「彌陀如来は如より来生して報応化種々の身を示現す」等とあり、仏の十号の一。真理に随順してこの世に来生して真理を示す人の意で、宇宙の真理そのものゝ人格的な表現といふこと。(辞典P607)

★出世の本意(出世本懐)→仏が世に出て給ふ本意という意。真宗では他力信仰の極致であるところの阿彌陀仏の本願を説き、衆生に仏の名号のいはれを示し給ふが、仏出世の本懐とするのである。即ち之を大経には「如来無蓋の大悲をもて三界を矜哀(こうあい)したまひ、世に出興する所以は、道教を光闡(こうせん)し、群萠(ぐんもう)を拯ひ、めぐむに真実の利を以てせんとおぼしてなり」等とある。而して浄土和讃には「如来興世の本意には本願真実ひらきてぞ、難値難見とときたまひ、猶霊瑞華(ゆうれいずいけ)としめしける」等とある。 (辞典P377)
   ○矜哀(こうあい)→如来の衆生をあはれむこと。 (詳細は辞典P224)
   ○光闡(こうせん)→(イ)光は広く、闡は暢ぶることをいふ。正信偈に「横超えの大誓願を光闡したまふ」とあり。大経には五徳瑞現の釈尊の任務は道教を光闡することにあったことが記されている。(ロ)法如を見よ。(辞典P235)
   ○猶霊瑞華(ゆうれいずいけ)→なほし霊瑞華のごとしと訓む。仏に値ひ奉り、また仏を拝し奉ることは、誠にあり難くして、霊瑞華の咲くに値ふが如きものとの意である。大経に出づ。 (辞典P753)

★弘願真宗→弘願の教、すなはち第十八願の他力救済の法のみが、真実の教であると云うこと。高僧和讃に「経道滅盡ときいたり 如来出世の本意なる 弘願真宗にあひぬれば 凡夫念じてさとるなり」とある。 (辞典P183)
「弘願」「弘願一乗」「弘願門」
  ここでも引用されていて有難い。

★凡夫→平凡にして何のとりえなき人の意で、愚鈍の衆生のことをいふ。聖者に対せしめ、佛教の正理を証らざる者すべて、かくいふ。一念多年証文に「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり・はらだち・そねみ・ねたむこゝろ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとゞまらず、きえずたえずと水火二河のたとへにあらわれたり」とある。  (辞典P703)

★念→@客観の対象を心に記憶して忘れぬ事
   A観察すること。観念ともいふ。仏体または諸法の理を心に想ひ浮べてみるこ と。 一枚起請文に「智者達の沙汰し申しける観念の念」等の如し。
   B口に称えること。称念ともいひ、念仏のことをいふ。仏の名号を称ふること。
   C菩薩の階位の一たる十信の第二位をいふ。
   D一念の事。極めて短き時間をいふ。  (辞典P612)

★さとるなり→悟る・覚る (仏教で)欲望・執着・迷いなど去って、真理を会徳する。悟りを開く。さとすに対する自動詞。  (大辞林)


真宗の要の和讃だと、訳しながら思いました。
大経の十八願が真実の教えだと、親鸞聖人が示しておられ、それが浄土真宗だということ。

一念多念証文の「凡夫といふは・・・」の文言は、いつも口ずさんでいます。

南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏・・・・

●re.6
菩提心
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[ 219 ] Re6:専修念仏・念仏行者・真宗 2012/07/29 (Sun) 07:08 △up ▽down
◎真宗念仏きゝえつゝ 一念無疑なるをこそ 希有最勝人とほめ 正念をうとはさだめたり  (高僧和讃 聖典P163)


★真宗→浄土真宗を見よ (辞典P441)

★浄土真宗→略して真宗といふ。教行信証教巻に大無量寿経真実之教浄土真宗と掲げられ親鸞聖人の開かれた教で、浄土往生の真実の教といふ意。(辞典P414)

  ○浄土往生の真実の教=現在の宗教・宗派でないということ。
   浄土往生の要を教えないで、ただ聴聞せよといいつつ、法外な報謝を募る団体に属していた私でした。

★念仏→称名念仏のこと。念仏の義は諸宗に渉って多義であるが、教行信証の行巻に「爾れば称名は能く衆生一切の無明を破し、能く衆生一切の志願を満す。称名は則ち是れ最勝真妙の正業、正業は則ち是れ念仏、念仏は即ち是れ南無阿彌陀仏、南無阿彌陀仏は即ち是正念なり」等とあり、仏を念じて口に仏の名号を称えること。すなはち、心中には阿彌陀仏の救済を喜び、口には南無阿彌陀仏の六字の名号を称えることをいふ。他力信仰の行者の信心を喜ぶ行業である。 (辞典P614)
「念仏為宗」「念仏為本」「念仏円通」「念仏往生」「念仏往生願」「念仏行者」「念仏三昧」「念仏衆生摂取不捨」「念仏正信偈」
 

★一念→真宗の安心上に於ける重要な語の一で、他力救済の衆生の上に現はるゝ単位ともいうべきであらう。而して此一念は信の一念と行の一念の両様に解釈するのであるが、信の一念は本願成就の一念で、又時刻について云う時と信相について云う時とあり、時刻について云う時は、「ひとおもひ」の信心の意で、信心を得る初の時刻の極めて短きを云ふ。教行信証信巻に「一念とは斯れ信楽開発の時刻の極促を顕す」とあるはこれである。
又信相について云う時は、「ふたごころなき」信心を云ひ、一心と同意である。同巻に「一念と言ふは、信心に二心なきが故に一念といふ是れを一心と名く」とあるがこれである。
次に、行の一念とは「ひとこゑの称名」の意で、行巻に「行の一念と言ふは、謂く称名の偏数に就て、選択易行の至極を顕開す」とあるがこれである。
然し時剋の一念も、其れは初刹那の覚知ではなく反省せらるゝものであり、行の一念も他力称名の価値の端的なるものを顕はすので、これが初一念の行であると覚知すると云うが如きではない。行信一念の條参照せよ。尚一念往生を見よ。 (辞典P35)

★一念往生→六字の名号の謂(いわれ)を聞信する一念の時刻に、浄土往生の業事が決定すると云うことを表す語であって、多念往生に対し、真宗の特徴を示す。
口伝鈔には「されば真宗の肝要、一念往生をもて淵源とす」とあり、執持鈔にも「平生の一念によりて往生の得否はさだまれるものなり、平生の時不定のおもひに住せばかなふべからず、平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を發得せば、そのときをもて娑婆のをはり臨終とおもふべし」等、其他がある。一念業成、平生業成の條参照せよ (辞典(P35)
「一念覚不覚」「一念歓喜」「一念義」「一念喜愛心」「一念慶喜」・・・

★一念無疑→信の一念にて、その一念は「信心二心なきが故に」と釈して仏の救済に対して是まで疑はれた心の今は少しも疑ふ心のなくなったことであるゆゑ、一念無疑といふ。(辞典P39)
「一念浄信」「一念信心」「一念発起」「一念滅罪」

★希有最勝人
 ○希有人→希にある人の意で、他力信仰の人を讃歎する語。他力の信仰は信じ難きものなる故、かくいふ。 (辞典P199)
 ○最勝人→最も勝れた人の意で、念仏の行者をほめた語。もと善導の散善義に出で、愚禿鈔には「希有人也。最勝人也。妙好人也。好人也。上々人也。真仏弟子也」等とある。 (辞典P279)
「最勝道」「最勝覚」

★正念(を得)→散善義に「汝一心正念にして直ちに来れ我れよく汝をまもらん」とあり、即ち我々を救済し給ふは阿彌陀仏一佛なりと、他に心を乱さず、正しく阿彌陀仏を念ずること。 (辞典P419)


阿彌陀仏を信じる事。自分では出来ません。阿彌陀仏から廻向された心だから信じられるのです。
信じられて初めて、報謝の気持ちも出てくるのに、それも御念仏でいいのに。

御報謝とは、金銭を貪り取ることとは違います。

あの大きな法城が朽ち果てる前に、それこそ法悦の語り会う場になるといいのにと思います。

私の「貧者の一灯」は、無駄になってしまうのでしょうか?

しかし、やはり無駄にはなっていないと思います。

そこを通ってきたからこそ、また有難みも格別だからです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・・

●re.7
菩提心
非公開の非公開
[ 225 ] Re7:専修念仏・念仏行者・真宗 2012/08/07 (Tue) 06:04 △up ▽down
◎専修のひとをほむるには 千無一失とをしえたり 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ  (高僧和讃 聖典P164)


☆釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて 正雑二行方便し ひとへに専修をすゝめしむ  (聖典P162)

☆専修→専ら一つの行業のみを修すること。即ち、浄土往生の行業として専ら正行のみを修すること。しかも別しては仏の本願に順じて唯念仏の一行のみを称えること。専雑二種を参照せよ。 (辞典P475)

★専修は上記で引用

★専修念仏→余業、雑行を行ぜず専ら口に阿彌陀仏の名号を称えること。歎異鈔に「専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子といふ相論」云云等とある。 (辞典P475)

★ほむる→誉む・褒む(他マ下二) たたえる。ほめる。(口語辞典)

★千無一失→千のうちに一の失なしと訓む。専ら念仏の一行を励む人は、千人は千人ながら、一人の欠けることなく真実報土に往生するといふことを表はす語。高僧和讃に「専修のひとをほむるには 千無一失とをしえたり 」とある。 (辞典P475)
 
 ここでも引用されていて有難いですね。
 私に真宗辞典を薦めて下さった人は、それでもご自身の頂いている信心が正しいという固執した考えから、薦めておられながら、辞典の内容は信用するなと忠告していましたが、やはり辞典は辞典です。
(いろいろな言葉を集めて一定の順序に配列し、その表記法・発音・語源・意味・用法などを記した書物。辞書。じびき=大辞林)
主観が入らず、客観的に読めてきますので参考になると思います。


★雑修→専修に対す。阿彌陀仏の本願を信ぜずして、幾多の行を雑へ修することを云ふ。これを雑行即雑修、助正兼行の雑修、六種兼行の雑修、自力不至心の雑修、現世祈祷の雑修等の数種に分つ。愚禿鈔下には、就行立信下に、正雑を判じ、正行中に助正を分ち、又正雑二行について、定行と散行に分ちこれを正行及雑行の定心念仏、正行及雑行の散心念仏等を細判に進めて、最後に「上来定散の六種兼行するが故に雑修と曰ふ。是助業と名く。名けて方便仮門と為す」云云とあり、又教行信証の化巻には、「亦正助に就て専修有り雑修有り」とし、専雑を分ちて、先づ定専修と散専修とし、次に雑修について「雑修とは助正兼行するが故に雑修と曰ふ」とあり、高僧和讃には、「助正ならべ修するをば、すなはち雑修となづけたり、一心をえざる人なれば、佛恩報ずるこころなし」と云ひ、或は「佛号むねと修すれども、現世をいのる行者をば、これを雑修となづけてぞ、千中無一と帰らはるる」等とあって、此等は佛願乗託の信境より雑修の究極的な批判である。 (辞典P284)

★きらふ→嫌ふ(他ハ四) 好まない。いやがる。 (口語辞典)

★万不一生→万人の中にて一人も真実の浄土に生るるものなしといふこと。真実の他力信仰を得ずして、自力の心をもって、諸種の雑行を雑修するものについていふ。往生礼賛に「雑修の者は万不一生」とあり、高僧和讃には「雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ」等とある。(辞典P709)

★のべたまふ→述べたまふ ここでは源信大師の御言葉。


オリンピックのサッカー観戦の余韻のまま、書き写している。
そのまま、朝明けとなり、有意義な時間が持てた。
「継続は力なり」。少しずつ書いていけたら有難い。



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