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●No.9
admin |
毎日 |
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[ 42 ] 冥衆護持の益
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2007/11/30 (Fri) 05:44
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信心いただくと、どんな現世利益があるか、書いてみようと思います。
平生業成と言って、生きているときに、益をいただけます。
冥衆護持の益というのは、「神様が守ってくださる」ということです。
真宗では、お守りの必要がないのですが、それは、この冥衆護持の益があって、ものすごい数の神様の御守護がいただけるので、いまさらお守りの必要もないのです。
レストランに行くときに、親がおごってくれる予定であれば、子供は財布にお金を入れなくても大丈夫なようなものです。
また、親の七光りという現象があって、親が素晴らしいと、子供はその光で、大切にしていただけたりします。
弥陀に信心いただいた行者は、弥陀の光で光っていますので、神様も、大切にしてくださるのです。
ですから、神社に手を合わせるときも、「いつも守ってくださって、ありがとうございます」「弥陀に導くお働きをしてくださって、ありがとうございます」という感謝の気持ちで、手を合わせることになります。(弥陀は本師本佛ですので、たくさんの神様が、皆が弥陀をたのむように、働いてくださっているのです。)
手を合わせなくても、バチも当たりませんし、手を合わせなくても、守ってくださいます。(しかし、だからと言って邪険にするのは、親の威光を傘に着るバカ息子のようになりますから、感謝するのが良いと思っています。)
そして、特に神社にお参りしたり、お賽銭を入れたりしなくても、弥陀にいただいた信心のおかげで、神様のご守護がいただけます。ですので、祈祷もいらないのです。
(つまり、わざわざお参りに行く必要もありません。もちろん、行きたければ行ったところで、往生治定に変わりはありません。)
どんな祈祷をするよりも、弥陀のくださった信心の方が、はるかに価値のあるものだからです。
しかし、こういう話をすると、祈祷している方を否定するようにも響きかねませんから、この種の話しは、あまり外部にはしないように心がけるということなのです。
祈祷は祈祷で、価値があるかもしれませんが、私たちは、弥陀の金剛の信心をいただいてしまっているので、その必要がないだけです。
弥陀の信心は、弥陀をたのむ行者のすべてがいただけますし、本物の金剛の信心をいただけ、神々の守護もいただけるようになるのです。
南无阿彌陀佛
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[ 48 ] Re1:冥衆護持の益
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2007/11/30 (Fri) 05:22
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毎日様
これで、僕もよく分ります。
>たとえば、月収100万円の方がいるとします。その方からすれば、月収20万は、小さく見えるのかもしれません。だからと言って、月収20万の方を否定したり、バカにするのはおかしいのと同じです。
ただ、僕は、この例えでは納得出来ません。
収入の大小で、人を馬鹿にするのではないと思います。
収入の大小は、すぐ実生活にかかわるということではないですか? 収入の大きい人が少ない人を馬鹿にするのではなく、 大きい人は、少ない人の現実が分らないのだと思います。
上を見ればきりがない、下を見てもきりがない
と言われますが、僕は、どうも下にはきりがある様で、一時期悩んだ事が有りました。
お金が無いと思っていた時に、もっともお金の入用な事が有りました。 お金のことだけでは有りません。色々な悪条件が重なった時です。
その時、知人の紹介されたところに尋ねて、色々アドバイスを受けて帰ってきました。 その方は、人の相談をされておられました。 その時いわれたことは、
貴方はお金がないと言っても、自分の家はあるでしょう。 服はないと言っても、着替えはあるでしょう。 それさえ、無い人は世の中には一杯いるんですよ。甘えないで下さい。 それよりも、笑顔を絶やさないことです。 笑顔でいるだけで、幸せは必ず来ますから。と言われました。
帰ってきてから、これって、何処かで聞いたような気がすると思いました。
それは親鸞会でも聞いてきた 恵心僧都の横川法語でした。
僕は、本当に何を今まで聞いて来たのだろう、 人間に生まれたことさへ、感謝することもなかった。 今の僕には、仕事が出来る両手もある。近眼だけど見える目もある。自由に歩ける足もついている。普通にしゃべれる口もある。
僕の勤め先は、組合なので、組合員さんが辞めれば、即収入に関わってくるのです。 確かに最初は、良い収入の職場にいる人をうらやましいと思った時も有りましたが、そんなこと言っていられないんです。 現実がそこにはあるのです。 今、現実を見よう、と努力しています。
2万の収入では、馬鹿にする前に死んでしまいます。
僕なら、収入は人より劣るかも知れないけれど、なぜか良い人には恵まれています。 きっと、僕が辛い時は、援助してくれるかも知れません。 それはお金ではないかも知れない。でも、幸せはお金では買えないというじゃないですか。 阿弥陀様に救われると、もっとすばらしいお益がいただけるのですよ。 そんなすばらしいお益なら、未来といわず、一日も早く貰いたいでしょうと言います。
なんて、理想論をながなが披露しました。
果たして、僕が信心決定したら、どのように言えるか、 これも、弥陀のおはからいでしょうから、まずは信を得てから考えます。
毎日様の書込みへの感想でした。
本当にえらそうな書込みです。ごめんなさい。
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●re.2
admin |
毎日 |
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[ 49 ] Re2:冥衆護持の益
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2007/11/30 (Fri) 06:21
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おやおや 様
そうですね、収入のたとえは、よくないと思いました。(ですので、親記事を一部編集しました。)
真宗の信者は、「真宗でいただく信は、弥陀からいただく最高の信心である」ということを、知っているわけです。
自分が最高のものを得ているときに、凡夫には比較するこころがありますから、まるで他宗や他宗派がイマイチであるかのように感じてしまう時期もあると思います。
「真宗」と名乗ること自体が、かなりの自信なわけです。
(「宗」は「教え」という意味です。ですから、「真の教え」という意味です。)
もともとは、「浄土」すら要らないのです。「浄土宗」の中で、「真」であるという意味ではないからなのですが、同時に、「極楽浄土に至るための真の教え」でもありますので、まわりとの調和を考えれば、「浄土真宗」の方が、やわらかな表現であると思います。
信者の気持ちとしては、あくまでも、「真宗」だと思います。(それではわかりにくいので、このページのタイトルは、「浄土真宗」となっています。)
「釈尊が生まれてきたのは、この教えを説くためであった」と言い切るのが真宗です。
その他のすべての教えは、この教えに至るための途中の道筋である、という考え方であり、自分自身も、永劫の流転を重ねて、やっとこの教えに辿り着く事ができた、なんてありがたいんだ、のようなことを考えているわけです。
こんなことをそのまま言えば、気分を害する方々がいるはずです。ですから、法の讃嘆は、同行衆とすることになっています。
そして、「その他のすべての教えは、この教えに至るための途中の道筋である」というのは、あくまでも「私にとっては」ということであって、その他の道では如法に修行できない(「如法」というのは、「法の通りに」という意味です)自分だから、そんな自分でも如法に修行できる唯一の仏門がこれだから、ということです。
もちろん、仏教の他の法門でも、如法に修行すれば、教え通りの成果を得るはずです。この意味では、仏教はすべて真宗であるはずなのに、それでもあえて「真宗」と名乗るのは、今が末代であって、道俗共に、ほとんどの人にとっては、如法に修行できるのは、この教えになるだろうからです。
「弥陀からいただく信心は、世界中の財宝を集めたよりも価値がある」ということを、どこかで聞いたことがあります。
これは、理屈上は、間違いなくそうなります。財宝は、あの世には、持ってゆけません。
しかし、凡夫ですからね、目の前に、世界中とは言わず、ある程度の量の財宝が積まれたら、そっちに魅力を感じてしまうかもしれません。
ただ真宗がすごいと思うのは、今持っているものを、捨てる必要がない。
弥陀から信心をいただくと、それによって、すべてが解決するのです。
「こんなことがあり得るのか」と、私には、すごく不思議でした。
しかし、それによって、この世界への執着も減り、何も押しつける必要がなく、何も求める必要がない世界へと、徐々に導かれてゆくのです。
無差別な世界へと、本当に少しずつですけれど、相続されてゆきます。
間違いなく、仏法であると、次第に体得されて行く道です。
本当に尊いと思います。
南无阿彌陀佛
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