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●No.81
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[ 513 ] 自力のありったけは必要か
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2008/06/01 (Sun) 07:10
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自力のありったけが必要なのであれば、如来の御修行の他に、我らの努力を足さねばいけないことになってしまいます。
自力のありったけは、聖道の歩み。
我が心をどうにかせねばならぬのも、聖道の歩み。
凡愚たるわれが歩む道は、ただただいただくばかり、もらいものばかり。
ありったけも、足りぬもなく、ただ、そのまま。
そのままで、如来の救いをおしいただく。
そのままの六字。
南无阿彌陀佛
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●re.1
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[ 514 ] Re1:自力のありったけは必要か
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2008/06/01 (Sun) 04:00
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大体、私のようなものがありったけをしたら、欲の道をつっぱしるだけ。
ハンドルが、そっち向きについている。
欲の道をつっぱしり、他を否定し、自分を自慢する。
そんなことしかできない私です。
そんな私を横目で見ながら、時折称える南无阿彌陀佛。
このときだけは、まともです。
南无阿彌陀佛
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[ 515 ] Re2:自力のありったけは必要か
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2008/06/01 (Sun) 09:55
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>大体、私のようなものがありったけをしたら、欲の道をつっぱしるだけ。 > >ハンドルが、そっち向きについている。 > >欲の道をつっぱしり、他を否定し、自分を自慢する。 > >そんなことしかできない私です。 > >そんな私を横目で見ながら、時折称える南无阿彌陀佛。 > >このときだけは、まともです。 > >南无阿彌陀佛
何一つ間に合わな我が計らい、阿弥陀様はその機、其のままお助けと申され48願の誓願をたてられ特に凡夫往生の18願念仏往生の願・・あそこと言えばあそこ、ここと言えばここ、即25菩薩共々来迎無明の凡夫摂取の光明にて救われる南無阿弥陀仏。 唯唯自力を捨てて一向に南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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[ 516 ] Re3:自力のありったけは必要か
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2008/06/01 (Sun) 13:25
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かつてご縁があったところでは、自力いっぱい求めぬけと、教えられたことがあります。 しかし、阿弥陀仏の本願力が全てであって、いつ救われるは宿善まかせだと今は思います。 知るも知らないも、解るも解らないも、凡夫のはからい。 理解力がある人から救うというお約束でもなかれば、頑張った人を救うというお約束でもありません。 ただ「弥陀をたのむ」ことで信心決定するわけで、かたじけなく思うばかりです。 遠く宿縁を慶ぶばかりです。 阿弥陀仏の本願があるということを知ったのも、求めたのも、全ては阿弥陀仏のお育て、ご縁、ご方便であったと思います。 宿善の催しに預かることができ、日々憶い称えるお念仏は御恩報謝となりました。 本当に有り難いことだと感謝しております。 南无阿彌陀佛
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●re.4
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[ 517 ] Re4:自力のありったけは必要か
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2008/06/01 (Sun) 17:39
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本当に、私のはからいは、末通りませんね。 間違いばかりですし。
そんな中に、如来の南无阿彌陀佛は、光り輝きます。
そこに、真実があります。
南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛。
ただただ、これが尊い。
南无阿彌陀佛。
「どうか阿弥陀をたのんでくれ」と、私たちに、さまざまな方法で、お育てをくださる。
「こんな私が・・・」と絶句してしまうのであります。
ありがたくて、たまらない。
奇跡としか、言いようが無い。
救われたうれしさは、誠に格別であり、このよろこびをわかち合えることも、 本当にしあわせです。
皆様ありがとうございます。
南无阿彌陀佛
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●re.5
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[ 520 ] Re5:自力のありったけは必要か
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2008/06/02 (Mon) 09:28
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愚老 様
◎二十五菩薩等と、百重千重、行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、もしは夜を問わず、常に行者を離れたまわず。いますでにこの勝益まします、憑むべし
信じられない程、ありがたいこと、もったいないことです。
南无阿彌陀佛
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[ 738 ] Re6:自力のありったけは必要か
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2008/08/05 (Tue) 09:50
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往生は佛の方より治定せしめたもう(5−10) 宗租聖人は稲田禪坊を根拠として関東一円に念仏を布教されました。62歳の時、教行信證六巻の 完成を期し、京都に帰り弟尋有様のもとで著述に心血を注がれて正しい信心の確立、学問的にも 念仏の根拠を明らかにされので有ります、しかし六字の理解についてややもすると異安心が生じやすく,其の為関東に残してきた行者達の質問に応じて手紙をお出しになって法門の解釈、誓願の不思議を説き本願念仏の教えについて間違った見解を正し,正しい信心を守るのに苦心努力されました。現存聖人の手紙で残っているのはほぼ四十三通が確認です。 未燈抄三・・笠間の念仏者の疑い問われたこと、浄土の真実の教えの意では浄土に生まれる人の機根に他力,自力有り・自力とは人それぞれの機縁に差は有りますが、弥陀以外の佛号を称念し、余の善根を修業して我が身を頼み,我が計らいの心をもって身口意の乱れをつくろい清浄をよそおって浄土に生まれようと思うこと・これ自力と言います。 他力とは弥陀がお誓いの中、特に選ばれ摂められた第十八願の念仏するものを浄土に生まれさせようとの本願を信じることでこれ他力と言います,他力とは如来のお誓いですから、他力には義のるてられた事が義であると法然聖人は仰せになった事です。 義とははからうと言う意味を現わす言葉です。人の賢しらなはからいは自力ですから義と言うのです。本願信じての上は必ず浄土に生まれるのですから、他力においてはさらにその上に計らいを加える必要はない、と言うのです.ですから自分は悪人だから、愚人だから,思い患う必要はないのです、すべて煩悩抱えたままのお救いです。正しい者だから浄土に生まれる自力の計らいでは真実浄土には生まれることは出来ないのです。自力の信心はわずかに懈慢界か辺地,又胎生、疑城の浄土までしか行けないと承っております。云々 老ぬれば、心もかたちも弱りゆく,後生の願いも若きうちなり、 ただ道ありと信じてすべて得道の人あるを信ぜず、これをなずけて信不具足とす(信巻) これは極楽行きの道あると信じてはいるが、その極楽行きの道を知っている人。即ち信心獲得した人のことを中々信じない、この人を信心得ていない人といえる、と言うのです。 世間で寺参詣励み多額の寄進し説教聴聞しあり方や,かたじけない,念仏申しておれば安心決定したかのように思っている人、甚だ多いのであります。この人は自分で信心をおこしているのであって弥陀如来からのお授けの信心でなくては間に合わないこと知らない,信心獲得とは身にも 心にも得ることであること、又信心獲得には時刻あることも知らない、善智識といえば説教する僧だけだと思っているのであります。親鸞様・愚禿抄の中に善智識とは悪知識に対しての言葉であり善智識・眞善智識、正善智識、実善智識、是善智識、善善知識、善性の人の六通り上げられ 悪知識、假,偽、邪、虚、非、悪、悪性の人の七通り上げられ説明されこの内の眞善智識と言うのは弥陀の代官、或いは弥陀の使いとも、 眞の知識にあうことは 難きがなわになお難し 流転輪廻のきわなきは 疑情の障りにしくぞなき とあり眞の善智識に遇わねだ永遠に迷い迷わねばなりません。 しかし善知識に遇うと申しても宿善(過去に積んだ善根)の花開かねば知識に遇うことは出来ません。それゆえ親鸞様は(遇々行信を得ば遠く宿縁をよろこべ)とお示し下されたのです。 愚老の所にも二十数年毎月東京より飛行機で又夜行バスで熱心に信心喜んで来れれるお方が四名居られます。是もご縁でしょうか。 後生の一大事・・明日とも解らず命です。無常の風の吹かぬうちご縁の眞の知識様に遭遇して 浄土への極楽切符をこの煩悩に叩きこんでもらいましょう。年寄りの愚老たわけ話です。 南無阿弥陀仏。
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