浄土真宗の教義について

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●No.68 admin 
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 456 ] 名は行であり、信である 2008/05/09 (Fri) 23:47 △up ▽down
如来の尊号は、名でありながら、号であり、行であり、また、信でもあるのだと思います。

号であるからこその、行信であると思います。

行を離れた信もなく、信を離れた行もないと思います。

こうして御修行が成就し、我らのもとに届いていることの、ありがたさを思わずにはおれません。

南无阿彌陀佛

●re.1
泥凡夫
非公開の男性
[ 758 ] Re1:名は行であり、信である 2008/09/12 (Fri) 22:35 △up ▽down
毎日 様

こんばんは。
大事な事が書かれておりますので私も有縁の方々に向けて少しだけ。

>行を離れた信もなく、信を離れた行もないと思います。
>
>こうして御修行が成就し、我らのもとに届いていることの、ありがたさを思わずにはおれません。

まったくその通りでございます。
御開山の「教行信証」も「行巻」と「信巻」が離れ離れにならない「行信不離」とされるのも、その大事を示して下さっておるのだと思います。

行を離れた信もなく、信を離れた行もない、つまり、六字の尊号にそのどちらも具足しておるということになります。信の体が六字である所以であります。

南无阿彌陀佛

●re.2
愚老
北陸の男性
[ 759 ] Re2:名は行であり、信である 2008/09/13 (Sat) 06:40 △up ▽down
毎日さま、
泥凡夫さま
南無阿弥陀仏、お謂れ有り難く拝読させて頂いております、全く同感で御座います。
無量寿経下巻に佛、弥勒に語り給うに(それ、かの佛の名号を聞くこと得るをありて、歓喜踊躍して乃至一念せん正にしるべし、この人大利を具足す)とあります、(名号を聞く)言うのは、名号の生起本末を聞いて疑心あることなし、これを聞くと言うと祖師聖人はご説明下さいました
阿弥陀様のお呼び声の下に(はいはい、左様で御座いましたか)帰命の一念発起すれば娑婆の終わり臨終と思え尊い大利を頂かせて信心決定、信心とて煩悩に頂く浄土行きの黄金の切符と思えば信心とて安堵致します。この頂いたところが本願召還の勅命です、本願のお呼び声はなれて帰命も信心も往生も證果も有りません.往相信心は阿弥陀様からお与え下された信心有り難いことです。
◎行を離れた信もなく、信を離れた行もない、つまり、六字の尊号にそのどちらも具足しておるということになります。信の体が六字である所以であります、泥凡夫様のお言葉有り難いです。
南無阿弥陀仏。

●re.3
菩提心
非公開の非公開
[ 760 ] Re3:名は行であり、信である 2008/09/13 (Sat) 10:31 △up ▽down
御三方様に質問です。

もう少し、具体的にお話下さいませんか?

信心決定すると、凡夫でありながら、佛凡一体だから、

それは、おのずと、色々な面でも現れてくるということでしょうか?

例えば、私の場合ですと、

救われた事が有り難いと思えば思う程、それは懺悔となり、感謝の気持が起きてきます。

又、色々な心の思いに変化が出てきます。

人の悪口は極力控えようと思います。

喧嘩をしても、「又、やってしまった、反省しよう」との気持も出てきます。

それもこれも、全て阿弥陀様から廻向されたものだから、そこには私は一切ないけれど
でも、凡夫だから、愚痴の心も、怒りの心も、起こります。

しかし、それでも、大きな安心感に包まれています。

そういう心持ちなのですが、こういうことでも無いのですか?

よく分りません。

教えて頂きたく思います。

南无阿彌陀佛

●re.4
愚老
北陸の男性
[ 761 ] Re4:名は行であり、信である 2008/09/13 (Sat) 14:20 △up ▽down
菩提心さま
愚老とて年ばかり重ねて偉そうな回答は出来かねますが・・

>御三方様に質問です。
>
>もう少し、具体的にお話下さいませんか?
>
>信心決定すると、凡夫でありながら、佛凡一体だから、
>
>それは、おのずと、色々な面でも現れてくるということでしょうか?
>
>例えば、私の場合ですと、
>
>救われた事が有り難いと思えば思う程、それは懺悔となり、感謝の気持が起きてきます。
>
>又、色々な心の思いに変化が出てきます。

はい。常陸の国、当時戒律の厳しい修験道者、播磨坊弁円、佛敵親鸞を祈り殺そうと殺害を決意するが果たされず、武装姿で稲田草庵を襲う。・悪人である弁円ですが真実求める心眼の眼もちあわせたゆえ、親鸞聖人の偉大さ見定められたのでしょう。
聖人から明法坊と名、頂かれた42歳、親鸞49歳の秋ですね。(山も山、道も昔に変わらねど、変わり果てたる、我が心かな)・・弁円ざんげの歌碑があります
たまたま行信を得ば、遠く宿縁を慶ぶべし、親鸞
親鸞様は懺と言うは人にはず、悔と言うは己にはず、と説明くだされて居ます。煩悩をおこして自らの心乱し、他の心をも乱し煩悩であることも悟ることが出来ず、煩悩のおきるまま、何事も当たり前のように思っているのgs我々凡夫の常です.信心を得たのちも相変わらずどこからかともなく煩悩がわいてくる、そして煩悩のために知らず知らず内に罪をつくっているのです。
造悪無懺の自己の心相を知らされたならば、懺悔せずにおれないはずです。
阿弥陀様は別に罪を消さねば極楽往生は出来ないとは仰言ってはありません。信心獲得後でも佛道の外れた行いを犯すと信心も失せ化土往生となり、地獄に落ちないだけの弥陀の大慈悲のお蔭であることは知らねばなりません。
>人の悪口は極力控えようと思います。
>
>喧嘩をしても、「又、やってしまった、反省しよう」との気持も出てきます。
>
>それもこれも、全て阿弥陀様から廻向されたものだから、そこには私は一切ないけれど
>でも、凡夫だから、愚痴の心も、怒りの心も、起こります。
>
>しかし、それでも、大きな安心感に包まれています。
>
>そういう心持ちなのですが、こういうことでも無いのですか?
全くそのとうりです。眞の念仏者になるには知識を必要と致しません愚に徹しきらねばなりませんその愚は懺悔を通じて初めて解ってくるのです。ただ感情のみに走って業報因縁とゆう天理を忘れた自身の愚、自身の非力に目覚めこそ信心も深く金剛の信心になるのです。
立派なこと申し上げる愚老とて反省反省の毎日の懺悔です。
南無阿弥陀仏。

●re.5
7
中部の男性

↑7様宛にメール
[ 762 ] Re5:名は行であり、信である 2008/09/13 (Sat) 21:20 △up ▽down
皆さん、こんばんは。

南无阿彌陀佛の六字に救われて早くも半年、信心とは何か、細かな変化も見逃したらもったいない気がして、日々自分を見つめながら、感謝のお念仏暮らしをしています。

ただ、信後も悪性は止みません。日々野菜や動物の命を奪い、人々から掠め取るかのごとくに給料を貰い、
美人が通り過ぎれば誰にも言えない様な妄想が起こり、人間関係でうまくいかないことがあればもう心の中では相手を八つ裂きにしてしまう有様です。
狡猾な、卑怯な心が止まず、悪を好みすらする心、それを恥じようともしないこの心。
善人に生まれ変わるわけではないと聞いていましたが・・・・。

佛道から外れた行いとはなんでしょう・・・?
今は多くの良縁に守られているおかげで大過もなく過ごせていますが、一度悪縁があれば悪因だらけのこの身、間違いなく恐ろしい大罪を犯すだろうと確信するのです。
即得往生 住不退転の信心、なのですが、信後に罪を犯せば信も失せるとあれば、もうとっくに自分には信心はないと言わねばならぬ気がします。
悪人正機の本願にあぐらをかいて、悪を誇るような真似だけはしてはならないと自分を戒めてはおりますが、
弥陀の本願を妨ぐるほどの悪はない、と親鸞聖人は仰られています。
信後の身口意の三業というものは、往生に影響を与えるものなのでしょうか?

●re.6
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 763 ] Re6:名は行であり、信である 2008/09/14 (Sun) 03:38 △up ▽down
7様

私の善行でどうにかなる私でないことは、十分承知しているつもりです。

悪は誇るのではなく、恥じるもの。

それでも、誇ってしまうこともあるかもしれないのが、私の弱き由縁です。

そして、弥陀は私を見捨てることはないでしょう。

私は、そう信じております。

南无阿彌陀佛

●re.7
愚老
北陸の男性
[ 764 ] Re7:名は行であり、信である 2008/09/14 (Sun) 07:32 △up ▽down
七様
愚老です。言葉が少し足りませんでしたね。
佛道から外れた行いとはなんでしょう・・・?
阿弥陀佛さまの18願の誓願から・・唯除五逆・誹謗正法とあり。
祖師聖人御相傳一流の肝要はただこの信心一つに限れり、これを知らずをもって他門とし、これを知るをもって真宗のしるしとす。
皆さんに質門ですが、智恵も無き佛智の尊さの知らず幼少(又、赤子)の時、母、又、父の連れられて信心決定した。父母からの念仏の尊さも聞かされず、成長するに智恵がつき、弥陀が有るか、善智識が有るか、念仏も信心も全て捨て、新興宗教に盲信して亡くなる人。真実報土に生まれるでしょうか?
愚老の考えではこの度の往生は不可だが1度弥陀に抱かれた身、来世は真実信心の身に近い身となる.この度は誹謗(仏道からはずれる)。しかし信心も失せ化土往生となり、地獄に落ちないだけの弥陀の大慈悲と言いたかったのですが・・如何でしょう?
御文に抑.今度17ヵ日・報恩講のあいだにおいて、多屋内方もそのほかの人も大略信心を決定し給へるよしきこえたり・めでたく本望、これにすぐべからず、さりながら、そのままうつすてて
候へば、信心もうせ候べし、細々に信心のみぞさらえて弥陀の法水をながせといえる事ありげに候・・・いかに真実信心なりたりと言うも、疑いの心深くして、又ものなんどのいまわしく思う心はさらにうせがたくおぼえ候・・信心の沙汰をすべきなりと・・・蓮師
南無阿弥陀仏。

●re.8
毎日
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↑毎日宛にメール
[ 765 ] Re8:名は行であり、信である 2008/09/16 (Tue) 00:11 △up ▽down
愚老 様

私は、その赤子様と比べまして、どちらが仏道から外れているか、自信がありません。

懺悔するしかない、自らの行いを見るならば、外道の輩です。

ただ一念帰命のみ、仏道にかなっていると信じております。

なぜなら、それは私の行ではなく、他力のわざであるからです。

南无阿彌陀佛

●re.9
酒天童子
関東の男性
[ 767 ] Re9:名は行であり、信である 2008/09/16 (Tue) 11:09 △up ▽down
皆様

こんにちは、酒天童子です。

選択集にはこういうくだりがあります。
道綽禅師は師であるけれども、まだ三昧を得られていない。ゆえにみずから往生を得るかどうかを知られないので、善導に問うて、「わたくし (道綽) は念仏しているが、往生を得るかどうか」といわれた。善導は一茎の蓮華を持ってきて、これを仏前におき、「七日のあいだ行道して、これが萎まなかったら往生を得るでしょう」といった。そうして七日がたつと、はたして華は萎まず黄ばまなかった。道綽は善導の深く達していることを感嘆し、ちなみに定に入って往生できるかどうかを観じてほしいと請うた。そこで善導は定に入り、しばらくしてこたえていわれた。「師は三つの罪を懺悔せられるなら往生できるでありましょう。一つには、師はかつて仏の尊像を檐(ひさし)の窓下に置き、みずからは奥深い部屋に居られた。二つには、出家の人を駆り使われた。三つには、建物を造るのにいろいろな虫の命を損なわれた。師はよろしく十方の仏の前において第一の罪を懺悔し、四方の僧の前で第二の罪を懺悔し、一切衆生の前で第三の罪を懺悔せられねばなりません」と。道綽は静かに昔の咎(とが)を思って、「みな事実である」といわれた。そこで心を洗い、悔い謝ることが終わってから、善導に会われた。善導がいわれるには、「師の罪は滅びました。後の時まさに白い光があって照らすでありましょう。これがあなたの往生のできる相であります」と

これから考えると、往生には一定の約束事や条件があるかのように受け取れます。

しかしながら、かくいう善導大師の観経疏の散善義をよく読んでみると、
それとは別にこういうくだりがあります。少し長いですが引用します。

問うていう。凡夫は智慧が浅く、煩悩の障りが深い。もし、解釈や修行の違った人が、多くの経や論を引いて、あい妨げ難じて、一切の罪障の凡夫は往生できないというのにあえば、どのようにして、かの難を対治し、信心をうち立て、決定して真直ぐに進んで、怯おそれ退くことのないようにすればよかろうか。

 ●答えていう。もし、人が多くの経論を引いて、往生できないというならば、行者は答えていえ。「そなたは、経論をもって証明して、往生できないというけれども、わたしの心においては、決してそなたの非難を受けない。なぜかといえば、そのように、わたしもまた、かのもろもろの経論を信じないのではない。ことごとく仰いで信ずる。しかし仏がかの経を説かれた時は、今の経を説かれたのと処が別であり、時が別であり、対する機類が別であり、その利益も別である。また、かの経を説かれた時は、《観経》《弥陀経》などを説かれた時ではない。そのように仏が教を説かれることは、それぞれの機類に応じ、時もまた同じでない。かの経典には、通じて人天・菩薩の解行を説いている。今、《観経》に定散二善の法を説かれたのは、ただ韋提および仏の入滅の後に、五濁の世、五苦などになやむ一切凡夫のために証明して往生ができると仰せられる。こういうわけで、わたしは今、一心にこの仏の教に依って決定して行ずるのである。たとい、そなたたちが百千万億も集まって往生できないといっても、ただわたしの往生の信心をいよいよ増長し、成就するばかりである」と。

 ●また、行者はさらに説いていうがよい。「そなたはよく聞け。わたしは今、そなたのために、さらに決定の信相を説こう。たとい、初地以前の菩薩・羅漢・縁覚などが、あるいは一人、あるいはたくさん十方に満ちるほどのかたがたが、みんな経論を引いて証明し、往生できないといったとしても、わたしは、またいささかの疑う心をおこさずに、ただわたしの清浄な信心をいよいよ増長し成就するだけである。なぜかというと、仏のおことばは確実で完成された明らかな義であり、すべてのものに破壊されないからである」と。

 ●「また、そなたよよく聞け。たとい初地以上十地までの菩薩たちが、あるいは一人、あるいはたくさん、さらに十方に満ちるほどのかたがたが異口同音に、『釈迦仏が阿弥陀仏を讃嘆して、〈三界六道をけなして、衆生を勧めて、専心に念仏し、または余善を修めるものは、この一身を終わってのち必ず浄土に生まれる〉といわれるのは、これは必ずみないつわりであって信じてはならない』といったとする。わたしは、この説を聞いても、またいささかの疑いもおこさずに、ただ決定した上々の信心をいよいよ増長し成就するばかりである。なぜかというと、仏のおことばは真実で間違いのない明らかな義であるからである。仏は実まことに知り、実まことに解げし、実まことに見、実まことに証さとっておられ、疑惑の心をもって仰せられたものではないからである。また、すべての菩薩の異見・異解によって破壊されない。もし実に菩薩であるならば、すべて仏の教にそむかないのである」と。

 ●「また、それはそうとして行者は知るべきである。たとい化仏・報仏が、あるいは一人、あるいはたくさん、さらに十方に満ちるほどのかたがたが、おのおの光を輝かし、み舌を出して、あまねく十方世界を覆うて一々の仏が、『釈迦仏の説法の中に、〈諸仏と釈迦仏とが互いに讃嘆し、すべての凡夫を勧めて、専心に念仏し、また余善を修めて、浄土に回向して願えば、かの浄土に生まれる〉といわれたのは、これはいつわりであって決してそんなことはない』といわれたとする。わたしは、これらの諸仏の説くところを聞いても、ついにいささかもあやぶみ退く心をおこして、かの仏の浄土に生まれることができないと畏れることはない。なぜかというと一仏と一切仏とのもっておられる知見・解行・証悟・果位・大悲などはひとしくて少しも差別がない。こういうわけで一仏がととめられるところは一切仏も同様にとどめられる。前の仏が殺生などの十悪の罪をとどめて、ついに犯さず行じないならば、十善十行と名づけて、六度の義に随順するというようなことを、もし後の仏があって、前の十善を改めて、十悪を行ぜしめるようなことがあろうか、ありはしない。●この道理をもっておしはかると、明らかに知られる。諸仏の言行は互いに違たがうようなことはない。かりに釈迦仏が一切凡夫に教えて、この身のあるかぎり専ら念仏して命終われば、まちがいなくかの国に生まれると勧められるならば、十方の諸仏もみなこれと同じように讃嘆し、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜかというと、同じさとりから起こる大悲だからである。釈迦一仏の教化せられるところの法は、そのまま一切の仏が教化せられるところであり、一切の仏が教化せられるところの法は、そのまま釈迦仏の教化せられるところである。●すなわち《阿弥陀経》の中には、釈迦仏が極楽の種々の荘厳を讃嘆せられ、また、すべての凡夫に、一日あるいは七日でも一心に弥陀の名号を称える者はまちがいなく往生させてくださる、と勧められ、その次の文には、十方におのおの恒河の砂の数ほどの諸仏がおられて同じように釈迦仏を讃嘆なされる。すなわち釈迦仏が、この五濁の悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなときに出られて、よく弥陀の名号を讃嘆せられ、衆生に、念仏すればかならず往生を得ると勧め励まされるのをたたえていられる。これがその証拠である。●また、十方の諸仏は、等しく衆生が釈迦一仏の説かれたところを、信じないであろうことをおそれて、共に心を同じくし、同時におのおのが、あまねく三千世界をおおうような広長の舌相を示して、まことの言葉をもって、『そなたたち衆生はみな、釈迦仏が説かれ、讃嘆せられ、証明せられるところの法を信ずべきである。すべての凡夫は罪福の多少や時間の長短を問うことなく、ただよく上は一生涯から下は一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を称えれば、かならず往生を得ること決して疑いない』と仰せられている。こういうわけで、釈迦一仏の説かれるところはすなわち一切の仏たちが同じく証明せられるのである。」●これを〈勧める人について信を立てる〉というのである。云々

わたしはこの文章を最初に読んだ時に、不思議に涙が流れました。
当時から、往生については諸説が紛糾していたのでしょう。
経典、仏説はある意味、どのようにでも読めるからです。
我々凡夫は自らの心を経典に映し出して、反射するものだけを拾い取ろうとします。
それで一つの経典から百説が生まれるのでしょう。

善導大師が本当に三昧を得ているか、凡夫の自分にはわかりません。
ましてや観無量寿経の下巻、三福九品のくだりにいたっては、釈尊の真意などははかり知れません。

ただ、それでも自分はこの観経疏のなかの文に強く打たれます。
つまり、六字の謂れをききて、信心決定することこそ正行であり、これを無上の善となし、他のすべての悪はまるで永年積み上げた木材がひとたび火を放てば一瞬のうちにすべて焼け落ちてしまうがごとくである、と。

念仏衆生摂取不捨、経典に書かれたこの文字こそ本当であると、。

だからといって、そう聞くと、すぐに”ああ、そうか、なら何をしたって往生間違いなしか。ならば好き放題にしよう”と思うのが我々は凡夫ですから、先師は苦労されたのでしょう。人としてあるべき姿(報恩謝徳、初心を保つなど)をも時としてお教えになられた。

そのように勝手に解釈しております。

まとまりのない文章で恐縮であります。

南无阿彌陀佛



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