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●No.66
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毎日 |
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[ 452 ] 知識もまた凡夫
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2008/05/09 (Fri) 16:03
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行者も、善知識も、凡夫であるのがこの道だと思います。
善知識が尊いのは、あくまでも、法の観点からのことであり、それ以外は、醜い凡夫でありますこと、行者と変わりないと思います。
ここを間違えると、善知識の心には慢心が生まれ、行者には服従心が生まれ、善知識には、支配欲がわきおこり、自らの言うことを聞かせようとしたり、まるで自分が偉いかのように思ってしまうと思います。
そのような気持ちを知識に起こさせるのは、行者の側にも原因があると私は思います。
知識も凡夫であり、私は、言いたい事を言わねばならぬと思います。
ある知識様からは、「掲示板には書かないでほしい」という旨を(遠回しに)言われましたが、私はこのように書いております。
なぜなら、あくまでも遠回しだからであり、きっちりと言われれば、私もきっちりと、思う所をお話したいと思います。
そこに対話が起こり、互いの思うところが、明らかになってゆくことと思います。
知識の奥様は、霊のことや、占いのことを強くおっしゃいます。
信をいただけば、占いに翻弄されることなど全く必要ないと、私は考えます。
もちろん、占いに翻弄されるのが凡夫であり、だからこそ、弥陀は救ってくださいます。
しかし、法義としてはおかしい。それをハッキリ言えないのは、私の弱さですから、今、こうして書いております。
法を尊ぶことこそあれ、煩悩まみれる「人」をあがめることは、おかしいと思います。
知識も、法に順ずることのみにおいて尊いのであり、それ以外は、全くの凡夫であると思います。なぜなら、聖道ではないからです。
だからこその易行道であり、難信であり、凡夫が救われると思います。
御同行、御同朋のこの道です。
崇めるべきでないものを、崇めるのもまた間違いであると思います。
一向専念無量寿佛。崇める気持ちのすべては、弥陀へ向けられるべきであるのだと思います。
ただただ尊い六字を、仰いでゆきたいです。
南无阿彌陀佛
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●re.1
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[ 453 ] Re1:知識もまた凡夫
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2008/05/09 (Fri) 15:39
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◎念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々(歎異抄)
なぜ私がこのようなことを書かねばならないかというと、念仏者は無碍の一道であるからです。
人としての知識のことばに翻弄される事も、避けねばなりません。
私は、私の道を行かない限り、縛られます。
関係が切れることをおそれるのは、関係に執着があるからであり、言いたい事を言って切れるような関係は、私にとり、必要の無いものです。
もちろん、無碍の一道だからと言って、進んで悪を為すことは避けねばなりません。
私は、私の立場を明らかにしなければならないと思います。
何があろうとも、弥陀の導きを信じ、進むだけだと思います。
南无阿彌陀佛
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●re.2
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[ 454 ] 「裏切り」について
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2008/05/09 (Fri) 15:46
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また、奥様は、「裏切り」について、よくおっしゃるのですが、この道に「裏切り」があるとも、私は思いません。
なぜなら、ひとたび救われれば、往生治定であるからですし、蓮師は、他所で聞くことも、責めていないからです。
何も為すかもわからぬ凡夫が救われたなら、それは、うれしいことであると思います。
「誰が言うから」ということで信じてはならないのですから、獲信者が言うことも、善知識が言うことも、うのみにするのではなく、検討すべきであると思います。
そのような検討を経て、それでも残るものを信じるのがよく、その上での讃歎であると思います。
「裏切り」のようなことを言うと、真宗が誤解されると思います。
南无阿彌陀佛
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●re.3
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[ 461 ] Re1:「裏切り」について
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2008/05/10 (Sat) 14:47
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また、真宗の救いを求めて、その結果、霊能者を勧められるのであれば、話を聞きに行った方が「裏切られた」と思っても、無理のないことです。
弥陀を讃えるよりも、霊能者を讃える時間が長く、弥陀の救いは、まるで蒔き餌のようです。
救われた方に占いを勧めるのは、凡夫故、仕方がありませんが、占いを恐れる必要はなく、心光常護であり、諸佛護念であると、私は思います。
勧める以上、ご本人も苦しまれているはずなのですから、気付いた方は、心光常護や、諸佛護念を説き、安心させてあげてほしいと思います。
立場の力というのはあるもので、私も、時間を置き、考えることによって自らの意見が作られるのですから、ひとところに閉じ込めて、同じような話を聞かせつづければ、やはり、信じ込む方が出てきてしまうのでしょう。
本当に、弱い私であり、つくづくたよりになりません。
ですから、ひとりの時間は大切であり、相手のことを考えれば、ひとりの時間を持ってもらって、自ら考える時間を確保するように心がけることが、互いのためになるように思います。
本当に、信じられるのは、六字のみ、自分も、他人も信じられませんが、そのような生命とのご縁により、救いへと導かれるのが奇跡です。
悪人が、悪人を御手引きし、善知識も悪人で、それでありながら、無上善を行わせるとは、不可思議と言う他ありません。
弥陀のご方便成就を、讃歎するばかりですが、私には、まだ考えねばならない課題があると思います。
このような不完全な私であり、性格の悪い私ですが、六字をいだいて、進んでゆきたいです。
生涯つづけるであろう信心の沙汰、同行に会いて信心を磨き、うつくしき念仏者たるべく、白道を歩みたいです。
口を開けば毒が出る私ですが、六字は真に尊いと思います。
フリをして間違いにとどまることこそ、避けねばなりません。
思うことを言い続けることが、大切であると思います。
南无阿彌陀佛
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●re.4
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[ 462 ] 醜聞について
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2008/05/10 (Sat) 14:45
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また、悪人だらけの集まりに醜聞があるのは当たり前で、だからこそ、人を信じても徒労に終わると思います。
信ずべきも、たよるべきも彌陀如来。
「自分のところは違う」と思っても、それはたぶん妄想だと思います。
末世ですから、やっぱりみんな悪人なのだと思います。
善人は、今に至る前に、菩薩や佛になっていると思います。
そんな私たちを救おうと、起ち上がってくださったのが阿弥陀如来です。
ダメダメな私たちが、ダメなままで、弥陀を讃えます。
南无阿彌陀佛
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●re.5
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[ 469 ] Re1:醜聞について
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2008/05/14 (Wed) 15:10
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◎女人の身はいかに真実心になりたりといふとも、疑の心はふかくして、また物なんどのいまはしくおもふ心はさらに失せがたくおぼえ候ふ(御文2-1)
たとえ真実心を得たとしても、それでも、疑いの心が深く、占いを好むような心も持続するとのお示しであると想います。
だからこそ、信心の溝をさらう、後念相続が大切なのだと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 470 ] Re2:醜聞について
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2008/05/14 (Wed) 15:30
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毎日 様
こんにちは。
>◎女人の身はいかに真実心になりたりといふとも、疑の心はふかくして、また物なんどのいまはしくおもふ心はさらに失せがたくおぼえ候ふ(御文2-1) > >たとえ真実心を得たとしても、それでも、疑いの心が深く、占いを好むような心も持続するとのお示しであると想います。 > >だからこそ、信心の溝をさらう、後念相続が大切なのだと思います。
蓮師は女人の身はとうるさいほど記されておりますが、これは男性を含む全ての凡夫のことをも指して申されておると私は思っております。
何故、吉日良辰を好む心になるのか。それは真実信心でないからでもなんでもなく、凡夫の自性と申しますか、煩悩のなせるものであると思っております。窮地に陥ることなど生きていればいくらでも起こります。そんな時こそ南无阿彌陀佛を頼りとすることが肝要であります。
全てがその人の過去世の御縁であると言えばそれまでですが、毎日様の申されるとおり、吉日良辰を好まずとも、ついて離れぬ弥陀がましますその理を、難しくなくとも、たとえ少しづつであろうとも、後念相続してゆくことは大事なことであると思います。
お講において、例え少しでも、例え忘れてしまっても、伝えてゆくべきものの大事は微力な私ではございますが進めてゆきたいと思っております。
別に講組織に拘る必要もなく、いつだって後念相続はできます。講組織が異なっても御同行であるならばそれを超えて真宗の大事な理とは何かを話し合うことはできます。
そういった意味でこの時代にあるネット社会というものもその媒体の一つであると私は思っております。
南无阿彌陀佛
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[ 471 ] Re3:醜聞について
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2008/05/14 (Wed) 20:49
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始めまして。 このサイトには初めてメールします。 毎日様の過去の書き込み拝見いたしました。 豊富な知識、純粋な求道心に感銘しております。 質問ですが、往生には上品上生から下品下生まであると聞いています。 往生には差があるのでしょうか? まだ信心浅く、一文不通の身ですがよろしくご教授ください。
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●re.8
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毎日 |
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[ 472 ] Re3:醜聞について
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2008/05/14 (Wed) 20:55
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泥凡夫 様
弥陀は第三十五願にて、第十八願の十方衆生に含まれている女人について、重ねて誓ってくださいました。
これはなぜかと言えば、そうすることにより、第十八願が成就するからだと私は思っております。
そして、
◎いはゆる五障の女人韋提をもつて対機として、とほく末世の女人・悪人にひとしむるなり(口伝鈔)
とありますように、女人すなわち、「末世の女人・悪人」であり、悪人とは私です。
こんな煩悩だらけの私はイヤだと、私も私を厭悪したく思います。
御開山は、
◎善男子、これを善男子・善女人と名づくと(涅槃経 真仏土巻 抄出)
とおっしゃっています。
善男子すなわち、「善男子・善女人」であるのですから、女人もなんら引け目を感じる必要がないのが、真宗の世界でありますし、それを私は素晴しいと思います。
南无阿彌陀佛
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●re.9
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[ 473 ] Re4:醜聞について
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2008/05/14 (Wed) 21:24
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酒天童子 様
報土往生には差別が無いと、私は思います。
なぜなら、報土往生の因は、弥陀がくださる真実信心なのですから、それを因とする往生は、同心であるが故に、果も等しくなるからです。
しかしながら、下品下生を読みますと、念仏する暇なくして、称名をしております。
その結果、蓮華の中にて十二大劫を経るのですから、これは、化土往生なのではないかと思います。
ですから、下品下生の文におきます称名は報土往生の正因ではなく、念仏が正因になるのではないかと思います。
しかし、私が大切であると思いますのは、さらに、その後なのです。
韋提希夫人が、無生忍を得るのは、「極楽世界の広長の相を見、仏身、および二菩薩を見る」ことによっております。
その結果、心歓喜を得て、往生治定しておりますので、「見極楽世界広長之相。得見仏身及二菩薩」こそが、「聞其名号」であり、また、見聞なのではないかと、思う次第です。
つまり、観経にては、当初往生は、九種の差別相として説かれておりますが、それは顕義であって、往生正因の一部ずつが説かれているに過ぎず、九種を通じて、どのような機にも、同じ往生をもたらす正因があり、それこそが、報土往生の種になると味わっております。
下品下生の機も、他力の三心、すなわち一心を具足することにより、往生治定すると思います。
不勉強のため、一般にどのように説かれているのかも、よくわかりませんが、私はこのように味わっているのです。
◎見聞歓喜して罪みな除こる 無量楽(般舟讃)
南无阿彌陀佛
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[ 474 ] Re5:醜聞について
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2008/05/14 (Wed) 22:15
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早々のご返答ありがとうございます。 そういたしますと、弥陀を頼んで信心決定したならば、それは親鸞上人の仰るところの ”源空上人とおなじ信心”であるため、差異のない往生治定であって、その後の心構え、たとえば完全に他力に委ねられずに、日常の自分やご同行の善悪や森羅万象の吉凶を論じたりしても影響なく、ましてや五逆誹謗があるならば往生できない云々などの論議は空論なのでしょうか?
下品下生の文におきます称名は報土往生の正因ではなく、念仏が正因になるのではないか
これは第二十願のことを言っているのでしょうか?
下品下生の機も、他力の三心、すなわち一心を具足することにより、往生治定すると思います。
一心具足と三心具足とでは往生という観点から見た時、何が違うのでしょうか?
とにかく今は分からないことだらけなのです。その中で一番賛同できるご意見はこのサイトでの毎日様と泥凡夫様のお話にあります。 おそらく教学等を勉強された方から見たら、他愛もない質問なのでしょうが、お答えいただける範囲でご教授ください。 また善導大師のご著書である観経蔬の日本語訳はどこで手に入るのでしょうか?
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●re.11
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毎日 |
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[ 475 ] Re6:醜聞について
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2008/05/14 (Wed) 23:32
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酒天童子 様
>早々のご返答ありがとうございます。 >そういたしますと、弥陀を頼んで信心決定したならば、それは親鸞上人の仰るところの >”源空上人とおなじ信心”であるため、差異のない往生治定であって、その後の心構え、たとえば完全に他力に委ねられずに、日常の自分やご同行の善悪や森羅万象の吉凶を論じたりしても影響なく、ましてや五逆誹謗があるならば往生できない云々などの論議は空論なのでしょうか?
私たちは、「完全に他力に委ね」たそのままで、「日常の自分やご同行の善悪や森羅万象の吉凶を論じたり」「五逆誹謗があるならば往生できない云々などの論議」を重ねるのだと思います。
私の実感としては、信決定すれば、そのような論議をしたい気持も次第に薄れ行くのではないかと思いますが、それも、人によるのではないかと思います。
あくまでも、一人のしのぎであって、自身の往生こそが、大切であると思います。
そして、それが小乗にならないのが、この道の不思議さであると思います。
>下品下生の文におきます称名は報土往生の正因ではなく、念仏が正因になるのではないか > >これは第二十願のことを言っているのでしょうか?
はい、そうです。
>下品下生の機も、他力の三心、すなわち一心を具足することにより、往生治定すると思います。 > >一心具足と三心具足とでは往生という観点から見た時、何が違うのでしょうか?
一心具足と、三心具足は、同じです。
「一心」ではわかりにくいので、「三心」も説かれ、三心のうちの一心でも欠けているものは、「一心」を得てはいないのだ、とわかりやすくなっていると思います。
また、上品上生の三心は、自力の三心であり、これは、機が優れていなければ、成就できないものであると思います。
他力の三心は、他力であるが故に、凡愚の機でも成就できるからこそ、私たちの救いとなると思います。
>とにかく今は分からないことだらけなのです。その中で一番賛同できるご意見はこのサイトでの毎日様と泥凡夫様のお話にあります。 >おそらく教学等を勉強された方から見たら、他愛もない質問なのでしょうが、お答えいただける範囲でご教授ください。 >また善導大師のご著書である観経蔬の日本語訳はどこで手に入るのでしょうか?
たとえば、
http://www.yamadera.info/seiten/d/gengibun_tl.htm
等で読めますので、リンクページに追加しておこうと思います。
南无阿彌陀佛
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[ 476 ] Re7:醜聞について
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2008/05/15 (Thu) 13:35
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>私たちは、「完全に他力に委ね」たそのままで、「日常の自分やご同行の善悪や森羅万象の吉凶を論じたり」「五逆誹謗があるならば往生できない云々などの論議」を重ねるのだと思います。 > そうですね。同感です。もとより自力ではどうにもならない自分ながら、気がついてみると己のはからいにて人や物事を判断しているどうしようもない凡夫である自分がおります。毎日様の最近のお悩みも自分のことのように感じております。
>私の実感としては、信決定すれば、そのような論議をしたい気持も次第に薄れ行くのではないかと思いますが、それも、人によるのではないかと思います。
凡夫である私たちがそのようにいろいろ迷いながら、しかし結局は弥陀にお縋りするしかないのだと思い、またその後自力のはからいをしてしまい、理屈を並べて、最終的にはああ、やっぱりお縋りするしかないんだ、と気がつく、その繰り返しの中で、そういう風に他者とも自分の心とも議論することが無くなっていくのでしょう。早くそうなりたいものです。
>あくまでも、一人のしのぎであって、自身の往生こそが、大切であると思います。
私は自分のいただいた信心が果たして毎日様や泥凡夫様のいただいた信心と同じであるか否か、源空上人や親鸞上人のいただいた信心とおなじであるのか、さらには阿難尊者、偉提希夫人のいただいた信心と変わりないのかを知りたいのです。 そうしてもし同じものであるならば、毎日様、泥凡夫様とは今後もできれば連絡を取り合って時には教えを請い、時にはお叱りを受け、時には励まし合っていければ幸いです。 なぜなら、たとえ次第相承の善知識にお会いする宿縁に恵まれても我々は凡夫です。さとりを得たわけではありませんから、他力に委ねることができません。窮屈なおもいもいたします。ご同行の言動に疑問を持つことも少なくありません。迷いも生じます。世俗の悩みに日々さいなまれも致します。 そのような中で、これほどの見識に触れることが出来るのは私にとって僥倖であります。 私の周囲には残念ながらそういう方はお見受けできません。たとえサイトとはいえ、得難い経験をさせて頂いて感謝しております。
>韋提希夫人が、無生忍を得るのは、「極楽世界の広長の相を見、仏身、および二菩薩を見る」ことによっております。 その結果、心歓喜を得て、往生治定しておりますので、「見極楽世界広長之相。得見仏身及二菩薩」こそが、「聞其名号」であり、また、見聞なのではないかと、思う次第です
そういたしますと、観経の初観、第二観および第九観を成就することによって、特に第九観を成すことによって「聞其名号」となり、同じ信心をいただいていると確信してよろしいのでしょうか?なぜなら観音菩薩、勢至菩薩は日月の化身、火水の化身であるからです。そうではなくて、文字通り第九観、第十観、第十一観の成就をもって「聞其名号」となすのでしょうか?
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●re.13
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[ 477 ] Re8:醜聞について
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2008/05/17 (Sat) 00:36
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酒天童子 様
阿彌陀如来は、本当に素晴しいと思います。
如来の至上善の前には、我ら凡夫には、何も足す事もできなければ、引く事もできず、弥陀をたのんだ其の時から、まったく変えられてしまうのだと思います。
至徳具足の益をいただいている以上、何の足す善もない、円満の徳号。
そして、念仏衆生摂取不捨、衆生称念必得往生であり、もはや、地獄行きを望んでも、地獄には行けない身にさせていただいたわけであります。
それでありながら、ああではない、こうではないと、怒り、罵ってしまう凡夫であるのが、私の現実の姿です。
誠に恥ずかしいこの身の上です。
そして、正信偈様に
◎矜哀定散与逆悪
とありますように、善導大師は、定善為す方を、哀れんだのであります。
なぜならば、弥陀の王本願を、知らないからです。
定善を成就する機は、今の世には、めったにいないのではないかと思います。
それであるから、定善では、「開入本願大智海」とならないが故に、定善を為そうとする機、散善を為そうとする機を、五逆の機と共に、哀れんでくださったのであると思います。
聞其名号とは、もちろん、「名号」を聞くのであり、この名号は、三心を具足し、また、四修も、五念も、こもれるものであると、私は思っております。
南无阿彌陀佛
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