浄土真宗の教義について

新規スレッド作成タイトル一覧表示ログ検索ホームへ
  《prev 52 next》
・選択したスレッドを表示しています。返信は▽downのフォームからどうぞ。
(「メール送信」ボタンを押すと、書き込み作者宛にメール送信ができます。ヘルプ)(「編集」ボタンで記事の編集ができます。)
 
●No.52 admin 
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 380 ] 気軽に質問スレッド 2008/02/03 (Sun) 06:38 △up ▽down
新しいスレを立てるのは、ちょっと気がひけてしまう・・・
そんな方が、気軽に質問するためのスレです。

●re.1
非公開の男性
[ 382 ] 少し自己紹介 2008/02/06 (Wed) 00:37 △up ▽down
はじめまして。やと申します。
質問に気が引けてしまうのは、内容が濃いので書き込みをしにくいことと、特定の方しか見受けられないことと、時間を割かせてしまうことがあります。少し自己紹介させていただきます。

「至心信楽、大安心」にさせていただいて数年になります。
「心の底から信じて楽になり、後生のことは大安心しております」
という意味です。本当は「楽を信じる」という文法でしょうが、「楽」の意味がわかりません。しかし、歓喜し大慶喜心を得たのは、一念の時ではなく、不思議な人の話や書を読み、帰命に関する出典つきの書を読み、また、源空のお告げの話(出典わかりません)などを知った時でした。

生活苦など充実できない毎日ですが、これから経典を勉強していきたい、という余裕は与えられているようです。私が気軽に話せる距離に、経典に詳しい方や、不思議な人はおりませんが、一番の原因は、私の知識不足であると思っております。疑問や質問をすれば、聞き様によっては信を疑われてしまいます。

さて、時間があればの話ですが、観経を読んで見ようと思います。そして、読もうか迷っているのが、
藤場俊基著の「教行信証を読み解く」全6巻(1巻3780円 買えない!)
です。無理なら岩波新書にします。
今、仏法要法図絵(4800円)について、「このような書は今後出版されないのではないか」という宣伝を見て、焦りましたが、素人が買って価値あるものか、教えていただけたら幸いです。

●re.2 admin 
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 383 ] Re1:少し自己紹介 2008/02/06 (Wed) 01:38 △up ▽down
や 様

お書き込み、ありがとうございます。

>藤場俊基著の「教行信証を読み解く」全6巻(1巻3780円 買えない!)

ですけれども、独特の見解が多く書かれています。

ご自分の意見をわかりやすく書こうとしているところが、とても参考になります。

そして、このHPや掲示板ですが、真実信心について、真っ正面から扱っており、このHP自体、外部から見れば、おそらく「独特」であることを、知っておいていただきたいと思います。

ですから、まずは、このHPに載っている記事や、掲示板を、大体でよろしいですから、通読しておいていただければ、私(たち)がどのようなことを考えているか、おおよそ、わかっていただけるのではないかと思います。

これは、後になって、「そのようなことを考えている方たちだったのか・・・!」と、驚いてほしくないからです。

私たちからすれば、お聖教の通りなのですが、「凡夫直入の信心」が存在することを、まじめに信じているのは、むしろ少数派であるのだろうと思います。

藤場様と、私たちの信心は、違うように見えます。しかし、とても参考になります。



>今、仏法要法図絵(4800円)について、「このような書は今後出版されないのではないか」という宣伝を見て、焦りましたが、素人が買って価値あるものか、教えていただけたら幸いです。

むしろ、素人向けの本であると思います。「俗説」と呼ばれているものが、たくさん載っています。そのようなものを、「ありがたいなあ」と味わえる方にとって、とても貴重で、よろこべる本になると思います。

私がまず皆様にお勧めしているのは、蓮如上人の御文章です。

http://shinshu.in/forum/forum.cgi?act=select&id=1&pastno=0&vine=37&page=0

のスレッドに、少し書いてあります。

他にも、おすすめの本はありますので、HPの推薦図書の記事も、今少ししたら改訂しようと考えています。

なかなか書き込みにくいとは思いますが、思う所を、遠慮なく書いていただければと思います。

南无阿彌陀佛

●re.3 admin 
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 384 ] Re2:少し自己紹介 2008/02/06 (Wed) 05:48 △up ▽down
や 様

>>今、仏法要法図絵(4800円)について、「このような書は今後出版されないのではないか」という宣伝を見て、焦りましたが

また、焦らされて、踊らされるのは、この娑婆世界を生きる上において、あまり効用的な方針では無いような気がします。

焦ってしまうのが凡夫ですけれども、私たちが考えているのは、輪廻を含む世界観であり、それも、数百年前という程度ではなくて、永劫の流転を考えています。

この永劫の流転を離れようというのが、真宗です。

このように素晴しい真実信心の価値を考えたときに、相対的に、その他のすべての価値は低くなります。

南无阿彌陀佛

●re.4
非公開の非公開
[ 385 ] 思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2008/02/15 (Fri) 00:26 △up ▽down
毎日 様

いつもありがとうございます。
私がここに伺うようになったのは、このHPをだいたい通読して、毎日様は真実信心いただいている方であることを理解したからです。善智識様が、書き込んで下さることにも、この上なく有難いです。皆さん、どんなにお若くて、経典にお詳しいのだろうかと、想像してしまいます。有難いことに、この信心は、私のような素人でもいただくことができますが、経典や法話のことを詳しく勉強したいと思っても、私がお世話になる講にも善智識様にも、地域性などいろいろ事情がございまいて、難しいのが現状です。
できれば真実信心いただいている方の書籍で、勉強したいのですが、難しいところがあります。ここにくれば、勉強できるので、今後もお世話になります。

このHPの目的は、信を獲たい人を導くということでしたね。確か、親鸞会で救われない方を、ジャンヌから導くというのが本来の目的であったかと思います。しかし、信後の人も、招いていただける場所であると、理解しております。
−−
さて、法蔵館の五帖御文、書店にありそうなので、検討してみようかと思います。実は、毎日様の解説文で、原典が併記されている、という意味がよくわからず、有難さがわからなかったのです。

私の古文の読解力では、必ず意味を取り違えるので、現代語訳が必要です。しかし、わかったつもりで書いている人の解説本は、読みたくありません。例えば、般若心経の空(くう)について、あると思えばある、ないと思えばない、という説明には、アレルギーがあります。まるで、
本当は信心を獲ていないのに、信心を獲た、と言い聞かせるような気持ちです。
もしも、よい参考書などあれば、教えて下さい。

現在の興味は、
何かもやもや→教行信証→歎異抄→他
です。きっと何か解決すべきことがあるのでしょう。
出張で、茨城県行って来ます。滅多なことですので、寺に行けたら幸いです。

●re.5 admin 
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 386 ] Re1:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2008/02/09 (Sat) 06:03 △up ▽down
や 様

ひと通り読んでくださっているとのこと、安心しました。

性別に、あまり意味があるとも思わないのですが、誤解はよくないと思いますので書きますけれども、私は男性です。「非公開」になっているのは、私が管理人ということもあり、「こちらでは、非公開で構わないんですよ」という意思が伝わることを願ってのことです。

このHPの目的というのは、探している方に見つけてもらって、弥陀の真実信心をいただいて、よろこんでいただくということなのです。特に、対象を親鸞会様に限定はしておりません。きっかけが、ジャンヌの掲示板であったというだけなのです。

あとは、救われた同士、内輪でよろこんでゆきたいということです。

そうしてよろこんでいる内に、希にでしょうけれども、救われたい方が、ふらっと尋ねてきてくだされば、何かの助けになることもあるだろう、と思っております。

法蔵館の御文様(『御文 昭和新刻 ひらかな版』法蔵館 法蔵館編集部(編) 昭和56年)は、原典のみです。

古文の読解力にかかわらず、現代語訳の方が、意味を取り違えやすいと思います。

ふりがながありますので、音読できます。そうして、わからないなりに、五帖八十通を繰り返し読んでゆきまして、疑問が出てきましたら、古語辞典を引きましたり、また、こちらの掲示板にてご質問いただけたらと思います。

どんなにわからないと思いましても、三回は、音読してみてください。少しずつ、少しずつで、良いのですから。

(一通を繰り返して読む必要もなく、どんどん通して読んでゆけば良いと思います。もちろん、気になって繰り返し読みたい部分については、もよおす気持ちの通りになさってください。)

最高の参考書は、やはり、原典のままの御文様だと思います。

もし、その他の本を読むにしても、これをある程度読み込んだ上で、その他の本を読んでゆくのが良いと思います。

弥陀の真実信心は、本当にありがたいものなのです。

どうかこれからも、遠慮なく、書き込みしてください。

茨城にても、良いご縁があると良いですね。

南无阿彌陀佛

●re.6
非公開の非公開
[ 394 ] Re2:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2008/02/15 (Fri) 02:05 △up ▽down
毎日 様

いつもお世話になっています。
聖地巡礼してまいりました。懐かしさで、感極まって、涙が流れる、ということがなくて、少しがっかりしてしまいました。私は、聖人様のこと、なんにも知らないんだな。
しかし、今後いろいろと思考する時に、必ず役にたつと思っています。
また、改めて、逢い難き法であることも認識しました。ありがたや〜です。
−−
毎日様が「き○○い×××」と呼ばれたと、誤解してしまいました。ごめんなさい。
−−
もやもやの件、解決しました。
正業(しょうごう)おろそかにして、助業を追求するゆえに、憶想間断(おくそうけんだん)しておりました。選択本願念仏集よりヒントを得ました。まさに、今が読み時であろうと思いました。必要でない時に読んでも、読み飛ばしてしまいます。もちろん、毎日様ご推薦の御文も読ませていただきます。
−−
解説に興味を引かれ、あまり好きにはなれない梅原猛の、歎異抄を買ってしまいました。古文読解のための注が有難く、現代語訳は参考程度にするつもりです。この人、真実信心を頂いているのか疑問に思います。しかし、おかげで、3代目覚如について、考察を深めるきっかけになりました。彼は、義絶された親鸞の子(善鸞)の子である如信を2代目として教団をつくり、さらに、自分の子(存覚)を義絶しています。そして、

「彼は、『歎異抄』の中から、教団建設に都合のいい部分を取り出し、それによって『口伝抄』をつくった。」(梅原猛の歎異抄より引用)

とあり、また、8代目蓮如は、無宿善の者に見せないように、歎異抄を封印しております。そして、現在の真宗教団は、歎異抄を軽視せざるをえないでしょう、というようなことも。このあたりのこと、ずっと興味を抱いておりますので、いつか解決したいです。

●re.7 admin 
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 395 ] Re3:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2008/02/16 (Sat) 02:25 △up ▽down
や 様

書き込み、ありがとうございます。

>もやもやの件、解決しました。
>正業(しょうごう)おろそかにして、助業を追求するゆえに、憶想間断(おくそうけんだん)しておりました。選択本願念仏集よりヒントを得ました。まさに、今が読み時であろうと思いました。必要でない時に読んでも、読み飛ばしてしまいます。もちろん、毎日様ご推薦の御文も読ませていただきます。

選択本願念仏集は、素晴しい書であると思います。

選んで選んで、最後に残るのが、南无阿彌陀佛。

一切経のエッセンスです。

このエッセンスを凡夫がいただくのが、お念仏であると思います。

これで、法蔵菩薩の御修行の功徳をいただきまして、凡夫の極楽往生が治定するのだと思います。

歎異抄は、信後の方にとっての話がたくさん載っておりますので、無宿善の機には、誤解されやすい内容がたくさん書いてあるのだと思います。

もちろん、信前の方でも、真剣に求めている方にとっては、良い書であることに間違いありません。

南无阿彌陀佛

●re.8
影楼
大阪の男性
[ 1258 ] Re4:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/06 (Mon) 19:22 △up ▽down
失礼します。
八聖道について詳しい?正確な?本はありませんでしょうか。
維摩経の解説書、ドラマ維摩経全三幕 菅沼 晃さんの本を
少しでも生活改善できればとおもい購入しました。
どなたか宜しくお願いします。

●re.9
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1262 ] Re5:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/06 (Mon) 23:26 △up ▽down
影楼 様

「正確な」ということであれば、お経様になると思います。

大切なことは、実践であって、用いているうちに、知らされることがあるはずであると思います。

まず、正見についてお書きします。

正見とは、四諦であって、四諦とは、苦集滅道になります。

現代人が実践しやすいように、私なりにわかりやすくお書きすれば、以下のようになります。

苦・・・苦しみがあると見る
集・・・苦しみの原因を見る(苦しみを作り出している因を見る)
滅・・・その原因を消すことができることを見る
道・・・その原因を消す方法を見る

この順序で、身の回りのことを見ていってください。そして、苦しみの原因を消す方法がわかれば、それを実践します。(正精進)

なにかしら苦しみに気づいたら、さっそく実践しようとしてみてください。

次第に、仏説の確からしさを、実感できることと思います。

真宗は、神秘主義にそれやすく、善知識頼みになりやすく、善知識がいばりやすい欠点があります。行者が傲慢になりやすい欠点もあるのです。

ですから、実際に汚き宗なのでありまして、ただその中に、咲く花もあるのでございます。

そして、そのような欠点の弊害を防ぐには、行者がしっかりすることで、その際にたよりになることは、やはり仏説であると思います。

凡夫でも行者にも、知識にもなれるのが真宗ですので、知識も自身のいい加減な意見を簡単に言ってしまう可能性があります。知識の権威で、自身の個人的な意見を正しいと主張するなら、私から言わせれば論外であり、あくまでも、理に基づいていなければならないと思います。

これは、信をいただいたからと思い上がる凡夫の性質を、自身のことも含め、批判しております。

ところが、そのような凡夫性をすべて飛び越えまして、仏性が植え付けられ、あるいは発掘されてゆくのが真宗でございます。不可思議と申す他はございません。

ですので、どなたの意見でも、仏説ですら、あくまでも「ひとつの意見」として尊ぶのが大事なことであると思います。

そして、自ら実践して、検証することであると思います。

八正道、ここに書きました、見と精進の簡単な実践だけでも、多くの果実を得ることができるだろうと思います。お金も、1円もかかりません。ですけれども、生活は変わってくると思います。

仏説はすばらしいと、心から思います。

思念的にそれてしまわず、日常生活の中で、地に足をつけた実践を行うことが大切であると思います。

また、お書きしたいと思います。取り急ぎ。

南无阿彌陀佛

●re.10
影楼
大阪の男性
[ 1263 ] Re6:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/06 (Mon) 23:32 △up ▽down
毎日様
お手を煩わせてすみません。
何か基本がまとめられているのでも結構でした。
お経さま、そこまでとは失礼しました。
ただ、学ばせていただこうと思います。
お時間あるときで結構ですので、
また宜しくお願いします。

●re.11
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1264 ] Re6:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/07 (Tue) 05:07 △up ▽down
影楼 様

たとえば、信をいただいていなくても、八聖道を実践し、きちんと生きている。あるいは、生きてゆこうとしている。

そういう方がいれば、信をいただいて(いると思って)思い上がり、他を批判して見下している生き方をしている人よりも、よっぽど偉いと私は思います。

信心いただいても、その人が偉くなるわけではありません。凡機のままです。

そもそも、弥陀をたのむのは、聖なる道をあゆめない、末法の機であると自身を見るから、他力を望むのであって、自力にて進もうとされる方は、誠に尊い方なのです。

私はそういう方を応援したいと思っております。

「既に末法なのですから、努力しても無駄ですよ」のようなことは、申したくないのです。自身をそう見るのは良いとしても、他にまでそう言ってゆくのは、蔑んでいる感じが致します。

(また、「自身をそう見る」とご本人がおっしゃっても、実はそう見ていないのに、そう「口には出す」方も多いようですので、「宿善が開発されていない」と見なされるのだと思います。)

一方、既に末法なのですから、尊いことができない機を見ても、受け入れることができる。「それはそうだな」と思い、そのような時代、そのような機に囲まれる中にあって、自身はどうするのかを考えてゆくことができる。そのような方向性であれば、仏説として輝いている気が致します。

そして、それでも聖なる道を歩もうとされる方がいれば、やはり私は応援したいと存じます。

仏説はごまかしがないのですから、先の達成まで至らなくても、今目の前の一歩を踏み出せば、その一歩だけ、幸せになることができる素晴らしい教えであると思っております。

信をいただいて自身が偉いと思うのは勘違いで、偉いのはあくまでも弥陀です。(自分の中の仏性や、信心は尊いと思います。)

ただ、凡夫ですので、私を含め、すぐに勘違いを致します。これは仕方がありませんので、ご縁があれば、相続にて気づいてゆくということになろうかと思います。

その人が信をいただいているかどうか、究極は、弥陀しかわかりません。

本人にも、知識にもわからないはずです。

それを「わかる」と言い切れる知識であれば、私は信用しません。

一体どうしてわかるのか、問いたいと思います。

その多くは、言われたことを信じているか、物を信じているかにとどまるのではないかと思います。

あとは、「掟」ということで、語ることができないとされるのだと思います。それでも、それもご方便であって、そうやって凡夫が信じてゆく面もあるのだと思います。


ですから、「信じる」に足りる根拠があるわけでもない。

ところが、凡夫というのは、そもそも根拠なくして多くのことを信じているわけです。ここに救いのもとがあります。

そして、「信じる」に至った、その人の道というものがあり、そこにお導きを感じることはできると思います。

なぜか「いただいた」と感じることができて、それを尊いと思い、よろこんで、日々の実際の生活が、少しずつ変わってゆくところに、この道の不思議があると思っております。

わからないままで、何かをわかって納得が深まります。

八聖道につきましても、続きを、書いて参りたいと思っております。

ご参考になればうれしく思います。

南无阿彌陀佛

●re.12
愚尼
非公開の非公開
[ 1273 ] Re7:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/09 (Thu) 13:57 △up ▽down
影楼様、はじめ、掲示板をお読みの皆様へ

生活改善にと、浄土真宗を役立たせようとしても、無理だと思います。
それは、真宗には、人間界の生活を良くする為という事は、説かれていません。
仏教には、人間の生活をより豊かに暮らすかと言う事を説いていません。
お経を沢山称えれば、自分のこの世の望みが叶うと言う教えは、仏教には書かれていません。
おかしな事になります。
お経をどんなに称えても生活が豊かにならなければ、自分の努力が足りないと、自分を責めてしまう事になります。
とても危険です。

真宗の経・論・釈は、いくつものカギがかかっています。
知らない者が読んでも、理解出来ないようになっています。

人間として、学んだ知識・学識・社会的地位があっても、絶対に割符が合いません。

聖典に書かれている一文字一文字に、沢山の意味が含まれています。
『たのむ』も、何故、蓮如がひらがなで書いたのか、信心をいただいただけでは、分からないと思います。
漢字で書けば、多大な誤解を生む字だと思います。

浄土真宗の目的は、極楽往生です。
一念帰命は、極楽往生の通過点です。

浄土真宗に関しての本を100冊読むのなら、御文を100回読んだ方が、よろしいかと思います。
先ず、御文を読んで、疑問に思った所を聞いたほうが、早道だと思います。

八聖道は、自力の教えだったと記憶していますが。。。

私の勝手な意見ですので、鵜呑みにはしないで下さい。

合掌   南無阿弥陀仏

●re.13
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1275 ] Re8:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/09 (Thu) 23:56 △up ▽down
愚尼様

御無沙汰をいたしておりました。極道坊主で有ります。

私も、思う所を遠慮なく述べさせて頂きます。

>生活改善にと、浄土真宗を役立たせようとしても、無理だと思います。
>それは、真宗には、人間界の生活を良くする為という事は、説かれていません。

愚尼様は以上のように申されますが、私は「生活の役に立たん宗教が、何の意味が有るかい?」といわれた師のお言葉を思い出し、書き込みをさせて貰うことにしました。

確かにお経の中には、直接生活を良くする云々といった様な記述は見当たらないと思います。

しかし、佛教はそもそもお釈迦様の衆生済度、抜苦与楽が教えとして後世に語り継がれたのが大元。 生活苦も抜けん様なものではないと感じます。

佛教って、智慧と慈悲の教えでは有りませんか?

もし、教えがその様な状態になっているとしたら、既に佛教では有りますまい。

インド哲学、仏教学、真宗学という学問に転化されていると感じます。 教え(法)では無く、学問です。 論理を形式立てて分類し、其れを理解しようとするのが学問です。 

そんなものでは、人は助からんですよ、救われません。 其れらの学問を突き詰めて、極められた有名な宗教学者が、臨終の際に「自分は何処に行くんだろう。」と言ったという話を聴いたことが有ります。 仰るとおり学問、知識、学識は往生、成仏の何の役にも立たないという証明ともいえるのでしょう。

学問は、人の思想を築き上げます。 しかし、思想は信心には移行しません。 決して成りえません。
ただ、其の逆はありえると思います。 信心は、其の者の思想になりえるということです。(思想のような類のものでは留まらないと思いますが。)

苦ばかりの人間界に生を受け、其の人間界に有りながら、苦を抜いて貰うのです。(実際は苦を受けながらも其れを苦と感じないようにして貰っていると私は思っています。)
それらは、やはり人間生活に直結するのでは無いでしょうか?(揚げ足取りみたいですね。ごめんなさい。)

真宗の教えの目的地は、仰るとおり極楽往生でしょう。

一念帰命があって信心獲得され、往生極楽が約束された方々の集まりでは有りませんか? また、そうなりたいと心に決められた方々のサイトだと思います。

弥陀をたのまれた方々でしょう。 ならば、弥陀佛が憑いて下さっております。(弥陀をたのむとは、こういった意味合いですよね?) 既に弥陀と同体の筈。

いちど、浄土に参られて帰って来られたからこそ、この「生死の苦海」と言われる娑婆世界を渡って行かれてるのではないですか?

佛と同体と成られて居ればこそ、今生が浄土と化すのだと思います。(佛のおわしますところが浄土ですから。)

此の身が此の娑婆に有り乍、心持を味わう事が出来るのです。

何も、六道は今生の他にあるのでは有りません。 常に心の中は業に催され、縁に触れては地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道を輪廻しているでは有りませんか。(自分なんかは修羅に常駐しているようなものです。)

真宗を極めたい(変な言葉ですね。適切な言葉は無いですか?)と思われるのでしたら、『なむあみだぶつ』の御念佛をお勧めします。

数を称えればいい、と言うものでも有りませんが、「信じます。」と言う心が、起こりうるまでは回数を称えてみるのも術かもしれません。

さすれば、蓮師の御文章にも自然と割符が合って来る筈です。 御文章は、聖人のお心を後の者に分かりやすく説いて下さったもの。 御念佛がハラに据わって下されば割符が合ってしかるべきものの筈です。(出処が一緒の筈ですから。)

御文章は確かに早道です。 ただ、大事なのは心が聖人様の方に向いているか? また、聖人様を通して阿弥陀様を仰いでいるか?だと思います。

極端な話、蓮師の御文章に依らなくても、信心を戴く事は可能なのだと思います。

全ては、弥陀のお計らいで有るが故です。

八正道(八聖道)は、確かに自力の教えです。 でも抜苦与楽の基本です。 実践の出来る方はそれだけでも充分過ぎる程に尊い。

自分は、自力に苦しめられ乍も其の自力を捨てきれず、確固たる信念で八正道も歩めない不甲斐無い者であるからこそ、阿弥陀様をたのんだのです。 何も偉くして自力を撥ね退けたのでは有りません。 出来なかったから、出来る方法を探したまでの事なのです。

弥陀の御智慧の中には、八正道の功徳も包含されています。 全てを兼ね備えた佛であるからこそ、諸仏諸菩薩の賛嘆を受けておられるのでしょう?

其の佛を戴くのですから、全ては既に整っておる筈です。

自力、他力と分別を入れること自体、他力の側に廻って知らず知らずの侭、自力を蔑んで見ている心持です。 そもそも、それらを有りの侭に見る事の出来る『無分別智』と言われるのが佛様の智慧。

いよいよ凡夫と言う者は、佛様とは逆方向に向いていると知らされます。 お恥ずかしい事です。

「真宗の信徒は怠けモンじゃからな。」と師僧は言われました。 まさしく其の通りです。 他宗の法を励まれる方々は、自分とは違う根機をもって今生に出られた方々。
それらも含めて、やはり阿弥陀佛のお計らいなのだと戴きます。

自分は自分にあった道を与えて貰ったのでしょう。

 合掌

●re.14
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1277 ] Re9:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/10 (Fri) 01:19 △up ▽down
愚尼 様

>真宗には、人間界の生活を良くする為という事は、説かれていません。
>仏教には、人間の生活をより豊かに暮らすかと言う事を説いていません。

私はこれには、異論があります。

「現生正定聚」「平生業成」ということを真宗では申します。

「現世」「平生」というのは、人間界にいる間のことではないでしょうか。

もちろん、「人間界であっても、生活を良くする『ため』ではないのだ」ということは、言えると思います。

また、「生活を良くする」の意味によっては、仏説からそれてしまうこともございましょう。

ところが、おまけとして、生活も良くなってしまうはずです。

なぜなら、

◎しかれども、まことの信心をうるひとは、現世にもその益にあづかるなり。いはゆる善導和尚の『観念法門』に、『観仏三昧経』・『十往生経』・『浄土三昧経』・『般舟三昧経』等の諸経を引きて、一心に弥陀に帰して往生をねがふものには、諸仏・菩薩かげのごとくにしたがひ、諸天・善神昼夜に守護して、一切の災障おのづからのぞこり、もろもろのねがひかならずみつべき義を釈したまへり。されば阿弥陀仏は、現世・後生の利益ともにすぐれたまへるを、浄土の三部経には後生の利益ばかりを説けり、余経にはおほく現世の益をもあかせり(持名鈔)

また、「仏教では」とありますが、いわゆる原始仏教にて、在家の富貴についても論じていると思います。

幸せになってこその仏教である、というのが、私の考えでございます。


>一念帰命は、極楽往生の通過点です。

「通過点」ということは、その通りでございましょうが、「他の善根が必要である」という意味であれば、異論がございます。

なぜなら、

◎よつて本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず(安心決定鈔)

とあるからです。


>お経をどんなに称えても生活が豊かにならなければ、自分の努力が足りないと、自分を責めてしまう事になります。とても危険です。

自分を責めるのではなく、「教えが仏説とは違うのでは?」と考える可能性もあるのではないでしょうか。

南无阿彌陀佛

●re.15
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1278 ] Re10:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/10 (Fri) 13:11 △up ▽down
生活を良くするのでは、ありません。
心を善くするだけです。
自力道を励んでいる人から見れば、他力の浄土真宗の行者は、だらけています。
浄土真宗を信じたから、この世の生活が豊かになったと言えば、知らない人は、どう取るでしょうね?
私は、人間と人とを区別して書いていますが、皆さん見落としているようですね。
私は、信心をいただいても、この世は穢土だと感じていますよ。
信心をいただいていたって、とんでもない、苦痛を三度も味わいましたし。
全然楽な世の中じゃあ、ありません。
この世を生きている限り、苦から逃れる事は、出来ません。
生活が豊かになると書けば、知らない人は、金回りが良くなると勘違いしてしまいますよ。
信心をいただいても、私には、金回りの運が巡って来ません。
あしからず。

仏から見れば、人間界も地獄ですよ。女が居る所に地獄はあるのですから。
仏菩薩は、性器を持っていないので、人間の考えでは、中性かしら?
男も女も超越している訳だから。。。

合掌   南無阿弥陀仏

●re.16
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1279 ] Re11:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/10 (Fri) 14:12 △up ▽down
極道坊主で有ります。

愚尼さんの仰られる事、言わんとされる事、察しておるつもりです。(全てでは有りませんし、つもりで有ります故行き違いもあるかもしれませんが?)

生活の豊かさは、心の豊かさには繋がりませんが、心の豊かさは、直接的に生活の豊かさには反映されませんか? 繋がって居るように思っているのは自分だけでしょうか?

>浄土真宗を信じたから、この世の生活が豊かになったと言えば、知らない人は、どう取るでしょうね?

自分は、「真宗の教えに巡り会えましたので、生活が豊かになった。」と感じております。 同じような表記の言葉、文章ですが此の文に籠もる内容は違ったものがあると思いますよ。 如何でしょうか?

誤解が生じるので、他言無用ですけれども。

仰られる通り、信心を戴いても此の世は穢土で有ります。 決して浄土とは言い切れません。 苦の連続で有りますけれども、信心が届いて下さったのであるならば、一緒に佛様の智慧も頂戴した筈です。

其の佛様の智慧の御廻向によりまして、此の生死の苦の世界を、難少なく通して貰うのではないのでしょうか? また、「常に側に寄り添って下さって居る。」との自覚が有りますから、心強さも戴いております。(何の根拠も有りませんけれども。) 此の働きが有ります故に、「生活が豊かになった。」と申すのです。 愚尼さんもそう感じておいでなのでは?(押し付けみたいでしたら、ごめんなさい。)

心の中は、常に人と三悪道を行ったり来たり。 まさしく、自分は人間です。

其の、自分が救われる教えが此処に有りました。

親鸞様の残して下さった、御念佛の教えです。 この教えに依りまして、今の味わいを得る事が出来たのは、紛れも無い事実なのです、私にとってはですけれども。

女性は、佛説にも御座いますように“業”が深いのかもしれません。

でも、私は事有る事に、其の女性に救われております。 癒されもしましたし、励まされもしました。 女房も女性です。(普通に。) その、女房に助けて貰ってますもの。

女性は、喩えれば海の如きです。 穏やかな時もあれば、荒れ狂う時もある。 癒される時もあれば、溺れてしまってどう仕様も無くなる時も有ります。

此の世は、相対の世界ですから、必ずバランスを保ちます。 丁度良い男性が側に居て下さるのですよ、きっと。

  合掌

●re.17
愚尼
非公開の非公開
[ 1280 ] Re11:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/10 (Fri) 14:51 △up ▽down
憑くという字が、何故使われているか。
弥陀が、骨の髄まで染み込んで、離れないから、憑くと書きます。
表面に『つく』という場合は、落としてしまえるのです。
付着とは、物の表面に『つく』のであって、中まで染み込まない状態の事を指します。


悪を憑ければ、地獄行き、善を憑ければ、極楽往き。
憑き物と言えば、悪霊が主流のこの世の中。
悪は、勝手に憑いて来るが、善は、お願いしないと憑いてくれない。

仏の顔も三度まで。私達には、関係ない言葉でしょうか?

極道とは、その道を極めたことを指すと思います。
世間一般に極道と言えば、悪の道を極めた人物だという事です。
善の道を極めたら、それも、極道です。

修羅についての私の見解ですが、無益な争いを指した場合、人間界と天上界に存在しているので、修羅は、潜在的に、人間と天人の意の中にあるものだと言う解釈も出来なくもないと最近感じています。

空海も、最後は弥陀に帰依しています。
あれだけ自力の仏道精進した方でも、たのみの綱は、他力の弥陀でした。

親鸞が、無学で、教行信証を書いたとお思いの方、親鸞は、二十年間延暦寺で精進し、門跡まで勤めたお方です。蓮如も延暦寺で学んでいます。
真宗の土台を築いた上で、お二方とも書として残しています。


私の善知識は、聖典です。金剛心様は、生き字引です。
こう云う事を書くと、また、誤解を生むんですよね。

私は、金剛心様を、大善知識だなんて思っていませんから。

私に、イイように言われ、振り回されて、金剛心様もお可哀想に。。。

読者を振り回すのが大好きなヤンチャな愚尼より



忍草様へ

また、言い過ぎましたか?

●re.18
愚尼
非公開の非公開
[ 1281 ] Re12:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/10 (Fri) 15:48 △up ▽down
追記

念仏行者は、穢土と浄土、両方を生きていると思います。
娑婆の顔と菩薩の顔。
仏・菩薩は、この私の体の中に住んでいると。

信心をいただけば、貧乏にならない訳でもないし、病気もするし、怪我もする。

極楽に往きたいと云う気持ちで、未安心の者が念仏を称えれば、助行にもなりえますが、金持ちになりたいとか、自分の欲のために称えても意味がないと思います。

この世での快楽の為に仏教があるわけではありませんので。

仏教は、あくまで、魂の救済です。いかにして、成仏するかです。

この世で完璧だった人は、釈迦如来だけです。
私は、この世に居る限り、悟りはひらけません。無理です。

合掌   南無阿弥陀仏

●re.19
ボン
関東の男性
[ 1283 ] Re13:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 02:08 △up ▽down
毎日様

いつも示唆に富む書き込みをありがとうございます。

>その人が信をいただいているかどうか、究極は、弥陀しかわかりません。
>(中略)
>その多くは、言われたことを信じているか、物を信じているかにとどまるのではないかと思います。
>(中略)
>ですから、「信じる」に足りる根拠があるわけでもない。
>ところが、凡夫というのは、そもそも根拠なくして多くのことを信じているわけです。
>ここに救いのもとがあります。

上記のことば、胸に響く力があります。
一見して逆説的に聞こえますが、誰も否定できないことと思います。

結局、この娑婆に住む凡夫でありながら、あの世のことについて確証を得ようと
すること自体、どんなに頑張っても、無理があることでしょう。
となると、最後は信じるか、信じないかの世界になってしまいます。

しかし、信じようが、信じまいが、既に歩き始めた道です。
既に歩き始めた道ならば、信じないで(疑いながら)歩くよりも、
信じて歩くほうが美しいし、得るものも多いのではないかと思います。

こう考えてみると、当流の「信を先とする」という原則は、
とても理にかなっているという気がいたします。

あれこれ考えて、「納得して、よく信じることができてから入信しよう」などと
考えていたら、結局、入ってくることができないと思います。
(なぜなら、どんなに思案をめぐらせても、100%の確証など得られないから)

そうではなくて、なんのわずらいもなくいただけるものなら、いさぎよく、
すべておまかせして頂戴しようという気風のよさが、大事なような気がいたします。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」です。

そうして何の代償も払わずに、ただただ戴いた信心ならば、感謝して、
一期かぎり大事にして生きてゆけばよいものと思います。

もちろん、100%信じることができずに、ときには疑いの心がでてくるのも凡夫ですが、
迷ったときは、成り行きにまかせて、これまで歩いてきた方向に進めばよいのだと
思います。

毎日様の書き込みを拝読しての感想です。

南无阿彌陀佛

●re.20
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1284 ] Re14:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 02:13 △up ▽down
ボン 様

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」本当に、不思議な道であると思います。

何もできない泥凡夫、信じることもできない泥凡夫、「だったら、弥陀を信じてみよう」とも思えるわけでございます。

そうして、信を内心にたくわえて、お念仏をよろこび、なるべく世間の仁義を守って、日々の仕事に精を出す。

私は、そのような姿は、うつくしい念仏者のすがたであると思います。

御恩報謝のお気持ちがあるのであれば、まず自らの生き方を整える。

弥陀をみならうならば、この世をどう生きるのか、ということです。

この恩に報いねばならないから、これまでさぼっていた生き方をしていたなら、なるべく日々のやるべきことをやってゆくのだと思います。

「救われたから、さぼるのだ」ということではなく、身を粉にしても、日々のやるべきことをがんばって、ご恩に報いる。

私は、そのように考えております。

身を粉にして人を誘うのが、お手引きでしょうか。身を粉にして、やるべきことをやっているから、その姿に、結果的に誘われたことになる人も出るのではないでしょうか。

そして、「結果的に誘われたことになる人も出る」のを目的として、がんばるのではないのです。

弥陀を信じて田植えをする。田植えというのは、自身の仕事でもありますし、社会の役に立つ仕事でもあります。

あくまでも、目の前のやるべきことに取り組み、弥陀が願と行を具足しまして果を得ましたように、自身も願を立て、行に取り組み、果遂をつづけることであると思います。

真宗に触れておりますと、「造悪無碍だなあ」と思うことがあるわけですが、他を批判してもはじまりませんので、あくまでも、自らの身を正すべきだと思うのであります。

人をたよるのではない。弥陀をたよるのだ、というところが、この道の強さであると思います。

そして、身を粉にしてまでがんばれませんので、それでもお救いくださる弥陀に感謝をして、六字をお称え致します。

南无阿彌陀佛

●re.21
ボン
関東の男性
[ 1285 ] Re15:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 04:32 △up ▽down
愚尼様 極道坊主様 毎日様

現世利益について話題になっておりますので、私も一言、私見を述べさせて
いただければと思います。

真宗では、あまり表立って現世利益について触れておりませんんで、
愚尼様のおっしゃることも、一面では当たっていると思います。

  (現世利益和讃もありますが、生臭い人間からみると、
   あれが現世利益とはとても思えませんものね^^;)

また、あまり表立っては言ってないけれど、実際に現世でためになることも
多いという考えれば、極道坊主様や毎日様のおっしゃることも納得がいきます。

とくに、極道坊主様の以下の文章は、味わい深いものを感じます。

>いちど、浄土に参られて帰って来られたからこそ、この「生死の苦海」と言われる
>娑婆世界を渡って行かれてるのではないですか?
>佛と同体と成られて居ればこそ、今生が浄土と化すのだと思います。
>(佛のおわしますところが浄土ですから。)
>此の身が此の娑婆に有り乍、心持を味わう事が出来るのです。

私自身、一念帰命の信心をいただいてからは、なぜか、これからやって来るであろう
肉体の死というものについて、あまり重く受け止めなくなったような気がします。

「もし未安心であったら」と考えてみると、せまりくる死に対する不安が、
常に影のようにつきまとっていたような気がします。

また、だれしも体験するであろう人生における様々な不幸なできごとに対しても、
私の場合は、さほど深刻にもならず、悲観もせず、やり過ごすことができたように
思います。

それは、「後生の一大事」をクリアできたという安心感により、今生における一大事を
相対的に軽いものとうけとめる余裕が生じたのだと思います。

これらのことも、いわば、現世利益のうちに入るのではないかと思っております。

そして、これらの「現世利益」は、弥陀の御恩を信じれば信じるほど大きくなるという
ありがたい構図になっているわけです。(信じる力って、スゴイです)

この考え方、「イワシの頭も信心」と言われればそれまでなのですが、
阿弥陀様が「聞いたものはかならず喜ばせる」と約束してくださっているのですから、
戴いた御法に真剣に向き合えば向き合うほど、結果的に信じざるをえなくなる
という仕掛けがあるのだと思います。
(イワシの頭には、そのような仕掛けはないですよね)

それともうひとつ、仏法が十方世界に通ずる真理であるならば、
それがこの娑婆でも通用しないわけがない、と思います。

たとえば、この御一流では、よく「縁をはかる」ということをいたします。
これは、縁のない人を無理に呼び込まないという考え方です。
いわば「来るものは拒まず、去るものは追わず」という姿勢です。
この考え方は、娑婆でも通用します。

私は、娑婆の浮世の出来事で迷うと、御法によればどういう答えがでるだろう
と考えることがあります。

こういう考え方って、どうなんでしょう。自信はないです。
あまりに即物的な感じもしますし・・・。

皆さまのご意見をうかがえれば、ありがたいです。

南无阿彌陀佛

●re.22
菩提心
非公開の非公開
[ 1286 ] Re16:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 05:28 △up ▽down
ボン様

>それは、「後生の一大事」をクリアできたという安心感により、今生における一大事を相対的に軽いものとうけとめる余裕が生じたのだと思います。

>そして、これらの「現世利益」は、弥陀の御恩を信じれば信じるほど大きくなるというありがたい構図になっているわけです。(信じる力って、スゴイです)

上記の御言葉のとおりだなと思いました。

最大の死の解決が出来ているので、少々の困難にも最近は「まあ、何とかなるさ」とか「仕方ないかな」と思い、やり過ごすことが出来ています。

そして、今までなら、ちょっとした嫌な事でも落ち込む事が多かったですが、段々落ち着いていられます。

物事を好いように好いように変えられているようにも思えます。

悲観的な考え方から楽観的な考え方になってきています。

こういう色々な自分の心の変化を、私自身も認められ、又周りの人もその変化に気づいてきています。

それが又、嬉しく楽しくなりますので、阿弥陀様を信じられた事が有難くなります。

又、嫌な思いが出てきても、いつの間にかそのような気持ちも消えています。

こういう時も、救われているんだなと有難くなります。

>たとえば、この御一流では、よく「縁をはかる」ということをいたします。
>これは、縁のない人を無理に呼び込まないという考え方です。
>いわば「来るものは拒まず、去るものは追わず」という姿勢です。

最近はこのような気持ちも大きくなっています。

私は親鸞会の影響で、救われたのだから何とかと思っていましたが、そういう思いも少なくなりました。

もっともっと深いところで仏様が考えておられるだろうなと思っていますので、自分自身が毎日を笑顔で人と接していると、そういう御縁もおのずと出来てくるように思えます。

こういう点も有難くなりますので、「現世利益」という事を意識しなくても、日々満足できています。

南无阿彌陀佛

●re.23
愚尼
非公開の非公開
[ 1288 ] Re17:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 12:50 △up ▽down
ここは、未安心の方も多数見ていると思います。
知らない者は、現世利益と言えば、この娑婆の生活水準が上がると勘違いしてしまう方が居るという事も100%否定できません。
皆様は、どうか分かりませんが、私の信心をいだだいてからの心持を申せば、物事に対する価値観が、変化したように思います。
決して豊かな生活はしていません。
しかし、信心をいただくまでは、裕福な生活を羨望していました。
信心をいただいてからは、南無阿弥陀仏と云う宝物が在るのに、これ以上何を望むのか?と言う考えに変りました。
だから、娑婆での物質的なものに対しての欲は、無くなり(と、言っても100%無くなった訳ではありませんが)、少しで満足できるようになったと思います。
多くが手に入れば、有り難い事だと感謝の気持ちが自然と沸きます。
こうして、この掲示板に書き込む時間を戴けているのも、皆様(寛大な家族の理解も含めて)に感謝です。

最近は、手抜きをしていますが、お聖典を読む時は、テーブルにお聖典を置き、手を合わせて、聖典を両手ではさんで、お辞儀をしてから、ページを開いてました。
最近は、金剛心様からの資料との照らし合わせが主となり、ズボラをしていますが。。。

讃嘆する事は、素晴しい事だと思いますが、教義の場で、有り難いを連発するのは如何なものかと思います。

教えは、教え、讃嘆は讃嘆と区別するのも必要な気が致します。

ここは、私のホームページではありませんので、一意見として述べさせて頂きました。

合掌   南無阿弥陀仏

●re.24
菩提心
非公開の非公開
[ 1289 ] Re18:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 14:01 △up ▽down
そうは思いませんね。

区別できるものでもないと思います。

有難いから御恩報謝のお念仏も自然に出てきます。

誰のHPでもないなら、どこで書いてもいいではないですか?

又、私はお陰様でわざわざ照らし合わせなくても、有り難く拝読できて幸せですね。

全然、無理している感じではないですから。

自然の中で自分もその一人って思えますから。

今も、家族全員でバーベキューを野外で楽しんできました。

心地良い疲れと、みんなで狭い台所で食後のデザートを頂いています。

みんなの笑い声の中で、私は満足です。

そんな時の心で称えるお念仏はまた格別です。

周りのみんなから、画像添付できると最高ね。

いちいち説明しなくても伝わるのにね。って言われています。

今、写してきた写真をパソコンに入れるということで、書き込みはここまで。

南无阿彌陀佛

●re.25
愚尼
非公開の非公開
[ 1290 ] Re19:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 14:31 △up ▽down
誰彼構わずに、見境無く、弥陀からいただいた宝を見せびらかすのもどうかと思います。
教義は、教義、讃嘆は讃嘆とわきまえも出来ないなんて、子供じゃあるまいし。
私より、年重ねている、経験者でしょ、菩提心様。
私は、弥陀からこーんな凄い宝物を貰っちゃいましたって、自慢しているだけにしか見えませんよ。
あなたたちの歓びってそんなもんですか?
もっと歓べる事があるのに、あなたたちは知らないようですね。
かわいそうです。

私は、泥凡夫様に手のひらを返したわけでは、ありませんので、誤解のないように。
泥凡夫様は、
『善知識の相続の数は、流れによってまちまちです。善知識の相続の数は、あまり関係ない事です。』
と言う回答だったので、
『二十四輩を持ち出し、一人の善知識が24人に相続してしまっているのは?』
と言うような内容のメールを差し出したところ、それ以来、音信不通になりました。

別に私を嫌おうが構いませんが、私が、手のひらを返したとか、泥凡夫様を振り回したと言われるのなら、きちんと、事実確認してから言って欲しいと思います。


●re.26
愚尼
非公開の非公開
[ 1291 ] Re20:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 14:37 △up ▽down
実語も無いまま、善知識と名乗り、行者から大金を巻き上げ、立派なお寺を立ててしまった人もいます。
善知識を相続する数で、力を誇示している流れも存在しています。
本当に力のある善知識は、どういう者か皆さん、ご存じないのですか?

●re.27
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1292 ] Re21:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 16:23 △up ▽down
愚尼 様

>知らない者は、現世利益と言えば、この娑婆の生活水準が上がると勘違いしてしまう方が居るという事も100%否定できません。

誤解されそうであれば、補足説明を加えたり、また、現に誤解があるように見えるのであれば、心をこめて、お話してゆくことではないでしょうか。

それに、弥陀に救われたことをよろこんで、さらに力を出して日々の仕事に取り組めば、生活水準も上がると思います。

わかっていただけなくても、自身の生き方が不足しているのだと、さらに、日常のことをきちんとこなしてゆくことであると思います。

そして、お話の仕方を工夫してゆくことだと思います。

弥陀はあきらめずに、自身がご修行くださいました。弥陀を尊敬する私は、少しでも、弥陀のようでありたいと思います。

日常のことをきちんと行ってゆくことは、その人の説得力を高めます。

私は、現世の生活にも豊かさをいただいたと思っております。

豊かさというのは、欲の成就だけではなく、感謝もあるのです。

「世間では、これを物質的な豊かさと言わないかもしれないが、雨をしのげる屋根があり、生きてゆける食べ物がある。ありがたいなあ、ゆたかだなあ」と感謝してゆくこともできるのです。

仕事をするときでも、もう報酬は弥陀からいただきましたから、通常の感覚からすれば、金銭を度外視するようなはたらきもできると思います。

(「度外視」というのは、赤字を出すということではありません。自身のはたらきを高めても、出費が増えるわけではありません。力を出し切って、会社にいる方なら会社の仕事、家にいる方なら家の仕事をやってゆくということです。)

金銭的な貧しさが、弥陀のせいであるはずがありません。世間のことですから、まず考えるべきは、「自身がそのために力を出し切っているか」というようなことであり、「不平不満を申して、力が出し切れてないのではないか」のような自問です。

社会システムに問題があると考える方もいらっしゃいましょうが、そのシステムの中で、自分としては、できるところまでやっているかどうかだと思います。

信が内心にあるから、感謝も高まり、目の前のやることにも、よろこびを持って、楽しく取り組んでゆくことができる。

私がよく思い出すのは、田植え歌なのです。

このような観点も含めまして、真宗には、実際的な救いがあると感じております。

南无阿彌陀佛

●re.28
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1293 ] Re22:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 16:30 △up ▽down
愚尼 様

>本当に力のある善知識は、どういう者か皆さん、ご存じないのですか?

知識の力ではなく、弥陀のお力ではありませんか?

自分の力だと思う知識がいるならば、その人に信がないのだと思います。

弥陀を信じるのが当流であると思います。

善知識に帰属しているのではなく、弥陀に帰属しているのです。

知識は、もし行者に勘違いをしている方がいらっしゃれば、その誤解を解いてゆき、自身は凡夫に過ぎず、あがめるべきは弥陀であることを説くことが、その役割だと考えております。

南无阿彌陀佛

●re.29
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1294 ] Re23:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 16:35 △up ▽down
愚尼 様

>本当に力のある善知識は、どういう者か皆さん、ご存じないのですか?

雪の中、石に枕を取り、わらじで行脚を続ける。

このような知識には、力があると思います。

そのような力は、自身の力ではなく、弥陀に強められた力であると思うからです。

無私のこころで、まわりの人の仕事を手伝うことができる。

そのような知識にも、力があると思います。

行者に人を連れて来いとは言わず、自身で寺をめぐり、民家をめぐり、弥陀の救いを説いてゆく。

そのような知識にも、力があると思います。

南无阿彌陀佛

●re.30
菩提心
非公開の非公開
[ 1295 ] Re21:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 16:38 △up ▽down
ころころ変わる信心よりは確かだと思いますよね。

何しろ、金剛心でしょうから。

それに、ここは信心決定している人もOKの場所ですから。

一味同行の中で心おきなくお話出来て嬉しいですね。

まあ、自慢ってとられる人の心根が卑しいですね。

ということは私と一流ではない証拠じゃないですか?

>本当に力のある善知識は、どういう者か皆さん、ご存じないのですか?

貴女の基準の善知識様がどのようなお方は存じませんが、

>善知識の付属を、24人にも渡した、素晴しい力のある大善知識様だと聞いた事があります。

>私の縁ある善知識様は、そんな力も無く、ペーペーです。

上記の貴女の書き込みによると私は、大善知識様と御縁あり、貴女はペーペーの善知識様ですか?

私はお陰様で、救われているせいか、「馬鹿だねぇー」って言われても全然平気ですね。

本当に馬鹿ですから。

又、今は乞食扱いされています。私に何でも上げても喜んでいるせいか、人の古着まで喜んで貰うなって友達に言われます。

でも、私はそれもどうにも思わないですね。

こんな私に上げようと思ってくれる気持が有難いです。

今は、毎日様や愚老様のアドバイスのせいか、お金も毎月余ってきています。
私はだから、どんどん救われた後の気持ちを書いていくつもりです。

これは、親鸞会の場所に書いた毎日様への気持ちだけでは有りません。

貴女も書いてあるように、弘法大師様も念仏申すより外類なきなりと書いてあります。

お陰様で、その弘法大師様との御縁深い真言宗の高僧の方も私の為にエールを送って下さっていることを聞いたので、私はますます、現世でもお会いもしたことのない人から守られている事を知り、この2年の間に色々な御縁の方と知り合いとても充実した日々を送っています。

これもみな阿弥陀様との御縁頂いたお陰です。

貴女は、いつまでも自分が書いてきたからだとお思いでしょうが、一度もそれを読んできた私の過去世の宿縁とは思いが行かないのですね。

その高僧の方は、過去世において私と御縁があったから、若し私の身辺に何かあったら、必ず守ってあげますといわれ、丁度、去年の今頃、そのお方のお陰で、息子はこの一流に御縁頂きました。

私は、「成るようになっている」というのは、そのお方のお知り合いがお示し頂いている道をそのまま歩いています。

南无阿彌陀佛

●re.31
愚尼
非公開の非公開
[ 1296 ] Re23:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 17:19 △up ▽down
素晴しいですね。弥陀をたのむと、生活水準が上がるなんて。
信心をいただいていたって、会社が倒産して、路頭に迷う事があるのをあなた方は、知らないだけです。
何か、勘違いしてますよ。
自分の会社が潰れ、多大な借金を背負い、自殺まで考えた方だって居ます。
毎日様は、人間の生活の底と言うものを知らないから、こんな、のんきな事がいえるんです。
心は、豊かになりますが、生活が、実質的に豊かになるなんて事ありませんから。
毎日様の考えは、哲学的であり、論語の域を出ていませんよ。
人間、力を出し切れる訳無いのを認めたらいかがですか?

自分を凡夫だと、折角いただいた菩薩の地位を自分の事だと認めることもできず、聖典のあちこちに、善知識について説明されている文を見逃しているだけでしょ。

聖典では、口決の善知識・真の善知識・次第相承の善知識・仏智を授かる善知識・但し書きの無い『善知識』きちんと使い分けて書いてあるんですよ。

もう少し、読み込んでみてはいかがですか?

善知識の相承の数ですが、何人でも良いと言われたら、悪の製造工場の私達は、自分の欲に駆られてしまうんですよ。
5人・7人と云う数は、何処から来ているのでしょうか?
しかも、大体が、までなら良いと制定されており、私の善知識は、そこまでの力が無いから、2人にしか分けていません。と平気で言う人も居ます。
念仏行者が、善知識を相承の数で、判断してしまうんですよ。
全てが平等である教えなら、善知識にも、違いは何も無いはずです。
馬鹿らしい。

毎日様の言い分は、努力すれば、目標を達成できると言う考えのように取れる。
耳の聞こえない人に、音を聞けと言っているのと同じだと言うことも分からない。
のぼせ上がるのも考えモノですね。
大体、今まで大した挫折を味わった事のない人は、自分は、頑張って今の生活を築いているというものです。
私の経験からですが、良い大学を出て、良い職に就いている人は、高校しか出ていない人を、努力が足りないからだと見做すんですよ。

毎日様は、素晴しい地位と生活を弥陀のお陰で手に入れたのだから、とても努力なされたのでしょうね。
私は、努力が足りない為、貧乏の子沢山です。
馬鹿だから、家の経済力も無いのに、3人も子供を産んだ大馬鹿で浅はかな女ですので。
働きたくても、病気の為働きに出る事もままならないし、これも、普段の行いが悪いからなんでしょうね。

信心いただいた、親鸞聖人だって、惨めな生活を強いられているんですがね。
親鸞聖人も、努力が足りなかったんですね。法然上人も、親鸞もきちんとしていなかったから、島流しにあって、還俗になってしまったんですね。どんな、努力をすれば、島流しにならずに済んだのでしょうね。まあ、死刑にならなかっただけでも優れもの。

蓮如上人も、蓮如上人の努力が足りなかったから、継母に虐められたり、比叡山でもヒモジイ思いをしたり、叡山の僧を説得できなかったから、京を追われてしまった。

そういう事になりますよ。

人間恵まれた人ばかりでは、ありません。
あなたは、恵まれていただけの事です。

愚かな、努力が大嫌いな、大馬鹿者より

●re.32
愚尼
非公開の非公開
[ 1297 ] Re24:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 20:31 △up ▽down
信心をいただいていない私のママ友達は、子供の服は着回ししていますよ。
私なんか、会う人会う人に子供のお下がり頂戴と言い回ってますよ。
3人目が産まれる時なんて、ベビーカーから、チャイルドシートから、洋服から、全部友達に貰いましたよ。
そんなの当たり前です。家計を預かる主婦は、タダが大好きですから。
近所の農家のおばさんからは、野菜を貰うし、貰ったついでに、『捨てるんだったらウチに頂戴』って催促もしてます。
学校の体操服も、皆貰い物ですよ。
学生服まで、お下がりの予約しているし。
世間で、恥かしい事を私は恥だと思いませんって言ってるみたいに取れますよ。
主婦であれば、誰だってしている事です。

見ず知らずの人に法を説いて、漏らさず救う善知識様は、本当に素晴しいですね。
やっぱり私の有縁の善知識は、力が無いわ。
せいぜい、呼ばれて出掛けるくらいなもんよ。
力が無いから、行者を連れて来いって言うしさっ。
ボロボロだわ。

●re.33
ボン
関東の男性
[ 1298 ] Re25:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 00:17 △up ▽down
愚尼様

こんばんは。
いつも書き込みを拝読し、御法への造詣も深く、信心も堅固で、敬服のいたりですが、
今回はひとこと苦言を言わせていただきます。

それぞれ自分の考えを述べ合って、相違点があればそれについて話し合うのは
たいへんけっこうなことだと思いますが、個人の生活、生い立ち、人格にまで
立ち入って攻撃をするのは、やめていただけないものでしょうか。

>自分の会社が潰れ、多大な借金を背負い、自殺まで考えた方だって居ます。
>毎日様は、人間の生活の底と言うものを知らないから、こんな、のんきな事がいえるんです。

>大体、今まで大した挫折を味わった事のない人は、自分は、頑張って今の生活を築いているというものです。
>私の経験からですが、良い大学を出て、良い職に就いている人は、高校しか出ていない人を、
>努力が足りないからだと見做すんですよ。

>人間恵まれた人ばかりでは、ありません。
>あなたは、恵まれていただけの事です。

これらの言動は、法論や信心の沙汰をすることとは、関係がないように思われます。
また、きたないことばで相手を罵るのも、やめていただけませんか。

>馬鹿らしい。

>のぼせ上がるのも考えモノですね。

これらの言動は、ただただ悪罵をあびせているだけのように思えます。

仮に言われた張本人が「私はかまわない」といっても、私は聞くにたえません。

新参者の私が、このようなことを申し上げるのは、たいへん心苦しいのですが、
ここの掲示板が大好きなので、ここでこのようなやりとりがされているのが忍びなく、
とても悲しいのです。胸が苦しくなります。

過去にどういういきさつがあるかは存じ上げませんが、この場では、個人的な感情を
グッと抑えて、お互いに敬意をもって話し合いをいたしませんか。

ご自身ではどう思っているか存じ上げませんが、愚尼様の物言いは、そうとうに高飛車で、
相手を断定的に決め付けることが多いように思います。これでは話が円滑になりません。

自分が馬鹿だと思っている者同士が話し合ったら、けっして喧嘩腰にはならないと思います。
私も気をつけますが、もっと、馬鹿になりませんか。馬鹿になって、楽しく御法のお話しを
いたしませんか。

どうかよろしくお願いします。

南无阿彌陀佛

●re.34
菩提心
非公開の非公開
[ 1299 ] Re26:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 23:41 △up ▽down
>このHPの目的というのは、探している方に見つけてもらって、弥陀の真実信心をいただいて、よろこんでいただくということなのです。特に、対象を親鸞会様に限定はしておりません。きっかけが、ジャンヌの掲示板であったというだけなのです。

>あとは、救われた同士、内輪でよろこんでゆきたいということです。

>そうしてよろこんでいる内に、希にでしょうけれども、救われたい方が、ふらっと尋ねてきてくだされば、何かの助けになることもあるだろう、と思っております。

私も上記の気持ちで、このHPに参加しています。

だから、ボン様

私は、全くこのような流れになっていないようで、でも阿弥陀様はそれでもきっと、いい方向をお示し下さっていると思います。

だから、何も恐れてはいません。

私は毎日の生活を有難いと思って生活させて頂いています。

今日も、バーベキューの後、夜桜を見に行きました。

そして、近場の天然温泉に行きました。

息子夫婦、娘夫婦や知り合いに囲まれ、馬鹿話で盛り上がって、結局一番馬鹿は私っていうことらしいです。

今、パソコンを開けながら、娘からちょっと滅入ってしまうHPを横から教えてもらい、このHPを開けて書いています。

同じ犬に生まれてきても、飼い主に可愛がられている犬もいます。

娘と眺めていた犬の里親探しの画像を見ながら、私は、こんなやりとりが出来ることさえ幸せだと思います。

お見苦しいでしょうが、私はどんどん救われた喜びを書いて行きます。

だって、私はどんなに苦しんでも後何十年かの人間世界。

折角、救われたのなら、苦しんでいるより楽しみたいです。


救われても苦しいって思うのも一生なら、どんどん救われて楽しいって思う事を見つけて行きます。

小さな小さな出来事からも楽しい事は見つかっています。

私は、善知識様も尊いですが、私を救ってくださったのはあくまで阿弥陀様です。

阿弥陀様に喜んでもらえるように、御恩報謝のお念仏の日暮しがしたいです。

南无阿彌陀佛

●re.35
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1300 ] Re26:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/11 (Sat) 23:58 △up ▽down
ボン様

極道坊主で有ります。

>もっと、馬鹿になりませんか。馬鹿になって、楽しく御法のお話しをいたしませんか。

そうですよね。 馬鹿な事にも気が付かず、自身を誇っておる姿。 みっともないですね。 世間の皆様には、私の姿もその様に映っていたと思います。 そもそも、馬鹿って言葉は佛語らしいですよ。 聴いた話なので定かでは有りませんが? 「無明なる者。」と言う意味だそうです。

ならば、私はやはり大馬鹿者です。 真実に暗い者です故。 でも、光は既に届いておりますから、何の不安も御座いません。 常に照らされている思いですから。

本当は、愚尼さんもこんな事を書きたいのでは無いと思っています。

「売り言葉に、買い言葉。」的なやり取りになってしまい、本人自身が収集が付かなくなっているのではと自分は察するのですが。

一番人間的で、どの人よりも人と繋がっていたいという心持の強い方だと感じます。
多分、自分と欲似た所を歩んできたのでは、とも感じます。

伝えたい気持ちが、上手く表現できていないようにも思えて成りません。 素直に「ハイ。」のいえるような人ではないのでしょう。(自分の勝手な思い過ごしでしたら申し訳有りませんが。)

愚尼さん、「貧乏人の子沢山。」を言われるのなら、其の上を行く者も此処に居るのですよ。

皆に助けられ、励まされ、援助されながら生活しています。 是もやはり御蔭様と戴けるのです。 喜んで頂戴し使わせて貰っています。

「常に法の側に目を向けているのならば、生活の方は何とかなるワイ。」とは、師のお言葉。(言葉の端々をつまんで自力、他力を論じないで下さい。) 「御念佛に生かされとったら、『イヤじゃ。』言うても人が寄ってきて下さるワイ。」とも仰られました。 その縁のある方々に助けられて生活している家族が自分達です。

自分は、御念佛が届いて下さった時から、自分自身が固有の存在であると言う意識から宇宙法界の一部分であると言う思いに転じて貰いました。

世界は(法界)は個々(一、一)の寄り集まりで形成されるのではなく、宇宙法界全体を一として其の部分々々が自分であり其の他の存在なのであると思っています。

其の宇宙が、佛と言われる者なのかなぁ〜とも思っていますので、私を生かすも佛のお計らいだと感じていますし、その全体の意思によって動かされているとも思っています。 故に存在する全ての方々、物全て必然として存在するのだとも。 是を『法界体性智』というんでしょうか?(ちょっと真宗のお話から離れてしまっていますか?)

愚尼さんの、今の時点での発言も、私自身に何かを投げ掛けて下さっておるのでしょう。

でも、やはり礼は尽くさねばいけないかもしれませんね。(お互いに顔が見えない者どおしなのですから。)

思われる事は、包み隠さず話して貰えばと思います。

ただ、余り感情的にならず、(と書けば、また「感情的にはなってないですよ。」と言われるかもですが?)相手の投げた球を一度しっかり捕球して見ましょうや。

ちょっと、力が入りすぎています。 そんな気がします。 余分な力は、自分も危険にさらします。 周りも危険です。

どうか、よろしくお願いします。

  合掌

●re.36
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1301 ] Re27:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 04:34 △up ▽down
愚尼 様

>素晴しいですね。弥陀をたのむと、生活水準が上がるなんて。
>信心をいただいていたって、会社が倒産して、路頭に迷う事があるのをあなた方は、知らないだけです。
>何か、勘違いしてますよ。
>自分の会社が潰れ、多大な借金を背負い、自殺まで考えた方だって居ます。
>毎日様は、人間の生活の底と言うものを知らないから、こんな、のんきな事がいえるんです。

「信心をいただいていたって、会社が倒産して、路頭に迷う事があるのをあなた方は、知らないだけです」とのことですが、議論がずれていると思います。

「信心をいただいていたって、会社が倒産して、路頭に迷う事がある」というのを、私は否定しません。

信心をいただいていたって、路頭に迷う人はいるでしょう。

しかし、問題は、そこからです。

生活の底にある人でも、そこから力を出し、目の前のことに取り組みつづけることによって、生活を変えてゆくことができると思います。

これは、信心をいただいている、いただいていない、関係ありません。

愚尼様は、議論を置き換えています。

私が申し上げているのは、

[ 1292 ]
>弥陀に救われたことをよろこんで、さらに力を出して日々の仕事に取り組めば、生活水準も上がると思います。

ということです。

信をいただいていても、いただいていなくても、与えられた環境に感謝して、その場で自身の力を出し切ろうと努力してゆく人は、生活水準をあげてゆくでしょう。

ただ、信をいただいていれば、御恩報謝の気持ちが秘められますから、より努力しやすくなるだろうと思うのです。

もちろん、社会全体が飢餓にひんしているような場合は、生活水準が上がるとは限りません。この意味で、これは真理であるということではありません。

私が申しているのは、信をいただいていれば、「与えられた環境に感謝して、その場で自身の力を出し切ろうと努力してゆく」ことが、信をいただく前よりも、より容易にしてゆけるだろうということです。

愚尼様は、信をいただいたとのことですが、努力が嫌いとのことです。努力が嫌いであれば、生活が豊かにならないのは当たり前で、これは真宗の教義の問題ではありません。

そして、「これ以上何を望むのか?と言う考えに変りました」と言いながら、あれこれ望んでいますね。

「少しで満足できる」のであれば、生活水準うんぬんは、関係ないのではありませんか。

そして、「人間の生活の底を知って」いるならば、自身の努力していない現状が正当化されるとお考えなのでしょうか。

他人の例を引くよりも、愚尼様ご自身の努力が不足している場所を気づき、さらに力を注いでゆくことが、「生活水準をあげる」うえでは、大切だと思います。

愚尼様ご自身が、人間の生活の底を知り、それでも感謝して、努力をつづけているなら尊敬に値すると思います。

しかし、他の苦を取り上げるのが、他を非難するためになっています。

他の苦には、抜苦の思いで接し、他の喜びには、随喜の思いで接するのが、仏説ではありませんでしょうか。

愚尼様が、自身のことを努力嫌いと認め、「これ以上何を望むのか?と言う考え」であるならば、生活水準のことをあれこれ言うのは、不自然ではありませんか?

「信心いただいても変わらない」のではなく、努力嫌いだから変わらないのだと思います。

自身が努力していないのを棚にあげて、信心の話に置き換えてゆくのは、おかしいことだと考えます。

また、自身が努力していないのを棚にあげて、他の苦労話を引き合いに出すのも、おかしいことだと考えます。

信をいただいていなくても、目の前の仕事に真剣に取り組み続ければ、生活水準をあげることはできるのです。

>馬鹿だから、家の経済力も無いのに、3人も子供を産んだ大馬鹿で浅はかな女ですので

本当にそう思えているなら、そのような言い方はしないものだと思います。

自身を大馬鹿だと思えるならば、反省し、自身の振る舞いを変えてゆけるのではありませんか。


>毎日様の言い分は、努力すれば、目標を達成できると言う考えのように取れる。
>耳の聞こえない人に、音を聞けと言っているのと同じだと言うことも分からない。

「目の前の仕事に真剣に取り組みつづければ、生活水準をあげることができる」というお話と、「耳の聞こえない人に、音を聞けと言っている」のが、なぜ同じなのでしょうか。

「耳の聞こえない人に、音を聞けと言っている」ことに相当するというなら、究極まで努力していて、これ以上は努力のしようもないという水準の努力をしている方に、さらに努力するようにと言う場合のことでしょう。

自身を努力嫌いと呼ぶ愚尼様には、相当しないと思います。

愚尼様は、聞こえる耳を聞こえないと言い、「聞こえるのだから、聞くように」と言われていても、聞こえないふりをしている人のようであると思います。

南无阿彌陀佛

●re.37
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1302 ] Re28:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 00:38 △up ▽down
愚尼 様

>人間、力を出し切れる訳無いのを認めたらいかがですか?

「人間、力を出し切れる訳が無い」ということはわかります。

しかし、それを言い訳にして、力を出そうとしないことが良いこととは考えません。

力を出そうとしても、出し切れない、そんな自分を弥陀は救ってくださった、その弥陀のお気持ちに感謝して、もう一度、力を出そうと思い返すことができる。

このようにして生きてゆけることも、弥陀のおかげだと思い、感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.38
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1303 ] Re29:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 00:49 △up ▽down
愚尼 様

>信心いただいた、親鸞聖人だって、惨めな生活を強いられているんですがね。
>親鸞聖人も、努力が足りなかったんですね。法然上人も、親鸞もきちんとしていなかったから、島流しにあって、還俗になってしまったんですね。どんな、努力をすれば、島流しにならずに済んだのでしょうね。まあ、死刑にならなかっただけでも優れもの。
>蓮如上人も、蓮如上人の努力が足りなかったから、継母に虐められたり、比叡山でもヒモジイ思いをしたり、叡山の僧を説得できなかったから、京を追われてしまった。
>そういう事になりますよ。

そういう事になるとは思いません。

なぜなら、愚尼様は、親鸞聖人や、法然聖人、蓮如聖人と比べ、より多くの努力、あるいは同じくらいの努力をしているとは思えないからです。

それに、親鸞聖人が、ご自身のことを「惨めな生活」と捉えていたとも思いません。

愚尼様の目には惨めに思えても、聖人は、そう思っていなかったのではないかと思います。

そして、愚尼様の生活には、変える余地があるはずであると思います。それとも、自身を努力嫌いと呼びながら、変える余地がないとお考えなのですか。

ありがたいことに、親鸞聖人の時代よりも、私たちの時代は、生活は変えやすくなっていると考えます。

愚尼様のおっしゃることは、自身の怠惰を守るための言い訳であると思います。

怠惰でありましても、弥陀は救ってくださいます。

しかし、「救われても変わりませんよ」のような言い方で自身の怠惰を正当化することは、邪義であると考えています。

怠惰でも弥陀は救ってくださる。それでも、精進が仏説なのですから、正精進に至ることはありませんが、なるべく正しいことをしようと思って生きる。

正しいことをしようと思っても、できないのが凡夫ですが、それでも弥陀は捨てない。

努力して、努力して、それでも変わらないときに、「努力でも変わらないものがある」と思えるのではありませんか。

それでも、精進をこころがける方は、さらに思い直して、そこから努力をつづけることでしょう。

南无阿彌陀佛

●re.39
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1304 ] Re30:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 04:28 △up ▽down
愚尼 様

[ 1278 ]
>信心をいただいても、私には、金回りの運が巡って来ません。

私には、これが「これ以上何を望むのか?と言う考えに変りました」「少しで満足できる」と言うひとの言葉だとは思えません。

「金回りの運が巡ってこない」とおっしゃるのであれば、満足もしてないでしょうし、自身を大馬鹿とも、努力嫌いとも思っていないのではないかと思います。

「私は、少しで満足しています。そして、私は大馬鹿で、努力も嫌いです。だけど、信心いただいても、金回りの運が巡ってこないんですよ」というご発言は、おかしいと思っています。


愚尼様は、「聖典が読めないから、思いついたことを書いているだけ」というような内容を以前おっしゃっていたと思いますが、「聖典をもっと読み込んでみたらいかがですか?」というようなこと([ 1296 ])もおっしゃいます。

そこには、混乱があると思います。

南无阿彌陀佛

●re.40
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1305 ] Re31:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 04:38 △up ▽down
ボン 様

>新参者の私が、このようなことを申し上げるのは、たいへん心苦しい

とのことですが、真宗では、永劫の流転から考えているのですから、新参者も、なにも、無いのではないかと思います。

皆、深い深い縁があって、出会っているのです。

道ですれちがうだけの人にも、深い縁があるはずです。

どうか、はるか昔からの知り合いだと思って、御書き込みいただけたらと思います。

南无阿彌陀佛

●re.41
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1306 ] Re32:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 05:10 △up ▽down
愚尼 様

>もっと歓べる事があるのに、あなたたちは知らないようですね。かわいそうです。

私からは、愚尼様は、さほど歓んでいるようには読めません。

愚尼様の御書き込みには、ご自身の現状への愚痴と、他者否定が多いように思います。

歓んでいるように見えない方に、そうおっしゃられても、ピンと来ません。

以前も書きましたが、私には、愚尼様は、とても苦しんでいるように見えます。

「お手引きをしなければならない」という強迫観念があるようにも見えます。

私の考えでは、愚尼様は私をお手引きしようと思ったけれども、それは実現しなかったということで、怒っているのではないかと思っております。

おそらく今でも、私の信心を否定していて、愚尼様ご認定の善知識のもとで、信を取らせねばならないと考えていらっしゃるのではないでしょうか。それとも、違うのですか。

そして、愚尼様から見れば、私は愚尼様のようにはよろこんでおらず、だからかわいそうだとのことのようです。

私は信をいただいたと思っており、もうこれで、極楽往生は約束されたと思っているのです。愚尼様おっしゃいますように、弥陀に甘えております。

そして、愚尼様は、甘えることのできない弥陀をこころにお持ちです。

私は私で、楽しく生きておりますので、特に愚尼様のご心配は要らないと思います。


>馬鹿だから、家の経済力も無いのに、3人も子供を産んだ大馬鹿で浅はかな女ですので。
>働きたくても、病気の為働きに出る事もままならないし、これも、普段の行いが悪いからなんでしょうね。

先ほども取り上げましたが、このようなおっしゃり方は、愚尼様は、ご自身の「普段の行いが悪い」とは、思っていない証であると思います。

ですから、「愚」と名乗ってはいらっしゃいますが、名に実が伴っていないと思います。


自身の愚性を見つめれば、自然と「普段の行いが悪い」とわかるはずだと思います。

病気の為働きに出る事もままならないのであれば、生活を、まわりの世話になっているのではありませんか。

では、まわりへの感謝の表現を、日々、どれほどなさっているのですか。

周囲に対して、自分の信仰を認めないからと、不満をもらしてはいませんか。

掲示板に書き込みができるのですから、感謝の気持ちをしたためることもできるでしょう。

自身が働きに出ることもできないのに、「家の経済力も無いのに」などと言い放つのでは、何のための仏教でしょうか。

自流へ勧誘する努力の前に、身近なまわりのひとへ感謝を表現する努力をつづけ、その量を増やし、それをご恩報謝と思い、身を粉にして、骨を粉にして感謝を表してゆけば、生活環境に変化が起こると思います。

周囲への感謝を後回しにして、自身の信仰する善知識を褒めていては、反感を買うのが当然です。

それどころか、掲示板の御書き込みから察しますに、愚尼様の信仰を重視しない人を否定し、見下してはいませんか。そのようなことは、言語道断の次第であり、掟に反すると思います。

教えの通りに行わずして、自身の生活が向上しないのを当たり前かのように言うのは、まさに愚です。

「もっと歓べる事がある」とのことですが、愚尼様は、そのような大きな歓びを自身が持っていると見なす前に、身近なことに感謝することから入るのが良いのではないかと思います。

南无阿彌陀佛

●re.42
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1307 ] Re33:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 05:12 △up ▽down
菩提心 様

>お見苦しいでしょうが、私はどんどん救われた喜びを書いて行きます。

私は、救われた喜びを拝見できるのは、とてもうれしいです。

そのような喜びの姿を見ておりますと、私まで、うれしくなって参ります。

南无阿彌陀佛

●re.43
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1308 ] Re34:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 05:16 △up ▽down
極道坊主 様

>皆に助けられ、励まされ、援助されながら生活しています。 是もやはり御蔭様と戴けるのです。 喜んで頂戴し使わせて貰っています。

>「常に法の側に目を向けているのならば、生活の方は何とかなるワイ。」とは、師のお言葉。

どちらも、とても尊いことだと思います。

結局、皆、助けられて生きているのであって、そうして助け合う姿に、うつくしさを見てゆくことができると思います。

私も、ひどい人間だったと思うのですが、やはり、信をいただいてから、多少ましになってきているような気がするのです。

これも、弥陀のお力と、よろこんでおります。

そして、さまざまな人に助けられており、感謝しております。

南无阿彌陀佛

●re.44
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1309 ] Re35:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 05:20 △up ▽down
ボン 様

>自分が馬鹿だと思っている者同士が話し合ったら、けっして喧嘩腰にはならないと思います。
>私も気をつけますが、もっと、馬鹿になりませんか。馬鹿になって、楽しく御法のお話しをいたしませんか。

私も気をつけたいと思います。

これからも、お気づきになったことがありましたら、どうか教えてくださいますよう、お願い申し上げます。

南无阿彌陀佛

●re.45
高野豆腐
非公開の非公開
[ 1310 ] Re36:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 09:56 △up ▽down
いろいろな方が書き込まれていますが、当人は気がつかないこと、
冷静な第三者にはいろいろ推し量れるものなんだなあと日頃の
自分の言動を顧みて反省させられます。

いくら信をいただいてもマザーテレサのような方には
到底なれません。

だけど、馬鹿だともなかなか思えないものです。

馬鹿なのに自分から進んで馬鹿のふりさえもできません。

そう思うと人のことを日常の生活のなかでも「あの人馬鹿だねえ」
なんてよく言ってしまいますがすごいおこがましいことだったなあ。

馬鹿になるというのは本当に難しいなあ。。

ボン様、考えるきっかけをいただきありがとうございました。




















●re.46
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1312 ] Re37:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 16:39 △up ▽down
貧乏な、平八郎が、立派な職に就いたって話の裏を知ってます?
平八郎は、藤原氏(うじ)の出身ですよ。
戦火を逃れ、常陸の国で身分を隠し貧乏人をしていただけの事。
元々、礼節・学識等をわきまえていた人です。
宿善あって、親鸞の下で、一念帰命をしただけの事。
平八郎は、しっかりとした教育を受けていた人物です。
それを知った親鸞が、その才能を眠らせておくのは勿体無いと、土地の権力者に頼み、親鸞が、平八郎の保証人となり、恙無く職を全うしただけの事。
後年になって、籐八郎と名乗ったと記憶していますが。
藤原氏を隠すため、平家を名乗っていたんですよ。だから、『平』八郎なんです。

貧乏人でも、信心いただけば、立派になれると勘違いしている者が多いのでは?



極道坊主様へ

気持ちをお汲み取り下さり感謝いたします。
私の書き込みの文章の裏を読んでいただけたら幸いです。
お風呂のお話、早速子供達に読んで聞かせました。
愚尼の息子と言うだけで、結局書き込み下さったのは、極道坊主様一人でしたね。
毎晩、せっせと垢落としに励んでいます。
私も、子供と一緒に、南無阿弥陀仏のお風呂に入っています。
悪たれ付いた時は、特に念入りにお風呂に浸かっていますよ。←ほぼ、毎日ですが。。。
子供は、弥陀からの預かり物です。
私の所有物ではありません。
瞬間湯沸かし器は、なかなか壊れませんね。

南無阿弥陀仏


私や金剛心様寄りの発言をすると、反感を持たれ、異端児扱いされます。

●re.47
高野豆腐
非公開の非公開
[ 1313 ] Re38:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 21:04 △up ▽down
>>私や金剛心様寄りの発言をすると、反感を持たれ、異端児扱いされます。

愚尼様

決して異端児なんて思っていませんよ。

私と愚尼様の流れは違うのかなとは思いますが、いつも
真剣な愚尼様の書き込みを拝読して、いろいろな流れが
あることを知り勉強になります。

ただ、分かるのかと問われれば分からないところもあります。
ごめんなさい。
これは、愚尼様のことだけではなく、ほかの方のご意見でも
理解できないこともあります。
いずれも私の不勉強のせいです。

愚尼様は正直で一本義な方のようにお見受けします。
自分の意見を堂々と言われるのは尊いと思います。
ただ、瞬間湯沸かし器とご自分のことを言われますが
どうか、ぬるめのお湯でお願いします。

3人のお子さんの子育てとご病気とのこと、
お疲れになることも多いでしょうね。

当地では、今日は桜吹雪が美しく舞っていました。
愚尼様はもうご家族で花見に行かれましたか?
私は桜並木を歩くぐらいですが、この空の下、
このHPの中で知り合った方々も確かに
一人の人間として生きておられるのですね。
そう思うと、こうして御縁のあったこと嬉しく思います。

どうぞ、お身体大切になさってください。

南无阿彌陀佛



●re.48
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1314 ] Re38:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 21:48 △up ▽down
愚尼様

極道坊主で有ります。

お心配りを戴きまして、勿体無い限りです。 自分は、教えの事に関して言えば「どちらより」と言う事はありません。 敢えて言わせて貰うならば、阿弥陀さんよりです。

皆様の御意見、御主張等を聞かせて貰いながら、また自分の口を使って戴かせて貰った思いを発しながら、それらに照らされて御育てに預かっている想いです。

本当に貴女は、自分の通らせて貰った所と似た所を今現在歩いていらっしゃる。
なんか、懐かしさを感ぜずには居れません。 一人になっても貴女は自分の主張を曲げない筈です。 違いますか?

で、ありますから、「瞬間湯沸かし器」、納得です。 まぁ、貴女が瞬間湯沸かし器ならば自分は原子炉並ですよ。 平和利用されているから、なんとか保てているだけです。

時期が来れば、貴女にもまた違った味わいがあると思います。 また、そうなると信じていますし、そうならないわけが無いのです。

人の思い(平たく「思い」と表現します。)は、常に一定の場所には逗留しません。自分の体験、他者からの意見、その他色々の条件を取捨選択しながら、思いは成長を続けます。

その「意」を基盤として口業、身業が成り立つのでしょう?

人は、常に自分の思いを「正当」として行動します。 過去と現在が、まったく正反対の意見を述べているとしても本人の中では「正当」な筈です。

何故その様に申すかといえば、自分の思いに疑念を抱きながら行動する者は、一人としていないからです。 その筈です。

過去の意見も自分にとっては本当の事。 この先の未来、今の意見とは正反対の意見を申す事があっても、其の時点では自分にとって本当の事の筈です。

色々な方々と接しながら、触れ合いながら、交流しあいながら自身をいろんな意味で深めて行った結果、反対の意見に成ってしまうという事もある筈なのです。

佛様が、色々な方の体をお使いになり、御化身として貴女を教化されているのでしょう。 佛様の御化身と戴ければ、もう少しソフトなタッチッで接する事も出来ませんか? いえ、有り難く押し頂かれる筈です。

「なむあみだぶつ」の御名號、漢字書きにすると何故『佛』の字が下に来るか御存知ですか?(書き込みは横書きになってしまいますが。) 

「他人様の足元を押し頂いて行く。」と言う心持を、御名號が表現して下さっておるのですよ。 「ありがとう、とお礼を申し頭を下げていく姿。」であります。 その様に聞かさせて貰いました。 

凡夫は其れに比べ、頭が高いですね? なかなかその様になれない自分に、苛立ちと恥ずかしさを覚えたりしますが、是もお任せです。

上記の如く教えて貰っていますから、御名號が打ち込めません。 やはり御名號の横書きは不自然と言う思いが有りますので。

ちょっと堅い話になってしまいましたが、今の愚尼さんは、ヤッパリのんびり一呼吸付かれて、「なむあみだぶつ」のお風呂につかり、リラックスされる事が先決だと思います。(たまにはちょっとした温泉でも良いのでは? 肩こりもほぐれます。)

救ってくださった阿弥陀様との会話をされて見ては?(是って結構楽しいのです。)

お風呂ってそんな場所でも有るのです。(トイレも良いらしいそうですよ。)

変な話になりました。 ごめんなさい。

味わいを深められる事、切に願っております。

  合掌


●re.49
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1315 ] Re39:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 22:59 △up ▽down
ボン様へ


お見苦しい所をお見せしてしまい、申し訳ありません。
修羅場を生きてきたもので、どうも、攻撃的になってしまう意地っ張りの負けず嫌いがツイ顔を出してしまう自分がいます。

激情型の瞬間湯わたかし器の暴れんほう、なかなか直りません。

皆様、お心が優しく、文章を読んでいて、反省してます。
どうも、易しい言い方が出来ないようです。反省。。

六要抄。頑張って下さいね。
あなたの書き込みを見て、私自身とても勉強できます。
なかなか、理解に苦しむ内容なのかなって思います。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.50
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1316 ] Re40:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/12 (Sun) 23:27 △up ▽down
極道坊主様へ

私は、こう云う考えもあるよと言う事を書いているつもりですが、やはり、受け入れがたいのかなって思います。

金剛心様にも、忍草様にも、気軽に書いていればいいんだよと言われてます。

トイレは、ゆっくり出来ますね。最近、トイレの時間が長くなりました。
仏法は持ち込みOKですものね。

掲示板では、高慢ちきな私です。

読者としたら、結構斜眼で見て楽しんで頂いているのかなって思います。



泥凡夫様が、登場して下さり、私が手のひらを返したのか、私が泥凡夫様を振り回したのか、当事者の泥凡夫様に、事実を述べていただけたらと思いますが。
私は、泥凡夫様のお考えは、沈黙は、金なんだと思いのす。



高野豆腐様へ

ご意見有り難う御座います。
私の価値観の上でですが、まさに一本気です。

私は、忍草様に、馬鹿正直と言われました。
馬鹿までつけてくれたと、笑ってしまいました。

どうも私の瞬間湯沸かし器は、熱湯が出てしまいましす。
温度調節が難しく、自分でも困って居ます。。


流れの同じ人に巡り会えるのは、並大抵ではないと思います。

皆様のお話、沢山聞かせて下さいね。
私も、懲りずに書いていきたいと思います。

熱いお湯が出たら、皆さんで、蛇口を止めて下さい。

相手を受け入れると言う事を、もう少し学んで行こうと思っていますが、ツイ、悪い顔が出てします。

合掌    南無阿弥陀仏


●re.51
忍草
北陸の男性
[ 1317 ] 一寸一言 2009/04/13 (Mon) 00:06 △up ▽down
   愚尼樣へ

今日のような書き込みでお願い致します。

自分の家の瞬間湯沸し器の温度調節は自分でなければ出来ないのです。

他人は冷や水をかける程度です。

今日のお寺のトイレに東司と書かれていました。意味深いですね。

我家のトイレは女房が一輪差しで庭の花を挿してくれています。

女房に感謝です。    合掌   南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛。

●re.52
ボン
関東の男性
[ 1318 ] Re41:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/13 (Mon) 00:38 △up ▽down
愚尼様

いきなりキツイことを書きまして、申し訳ありませんでした。

>私や金剛心様寄りの発言をすると、反感を持たれ、異端児扱いされます。

私は、愚尼様が、異端児だとは思っておりません。
そもそも、私が戴いた流れが正統派なのかどうかさえ、確信が持てません。

ただ、多少の見解の違いが存在するのも事実です。
しかし、それは信後のあり方についての相違であって、
一念帰命にいたるまでのことにつきましては、何の相違もないものと思います。

だから、みな“御同朋・御同行”だと思っております。
みな難信の法を戴いた方々で、世界の人口からいったら本当に稀有な方々が、
ここの掲示板にこんなにたくさん集まっているから、ありがたいと思うのです。

できることなら、金剛心様にも、忍草様にも、もっとたくさん登場していただいて、
たくさんご教示をいただきたいと思っております。

教行信証や六要抄を勉強したいと思ったのは、金剛心様や忍草様から触発を受けた
という面もございます。

>六要抄。頑張って下さいね。
>あなたの書き込みを見て、私自身とても勉強できます。

そう言っていただけますと、励みになります。

>なかなか、理解に苦しむ内容なのかなって思います。

本当に、教行信証も、六要抄も、難しいです。
解らないところにいちいち引っかかっているとキリがありませんので、
それは保留して先に進めば、そのうちに解るときも来るのではと楽観しております。
そもそも、楽しみで読んでいるので・・・。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

南无阿彌陀佛

●re.53
菩提心
非公開の非公開
[ 1319 ] Re42:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/13 (Mon) 04:48 △up ▽down
忍草様

お久しぶりです。

なんか、いい流れになってきているようですね。

ところで、

>今日のお寺のトイレに東司と書かれていました。意味深いですね。

済みませんが、どういう意味か教えて頂けませんか?

金剛心様にも宜しくお伝えください。

南无阿彌陀佛

●re.54
愚尼
非公開の非公開

↑愚尼様宛にメール
[ 1320 ] Re43:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/13 (Mon) 08:35 △up ▽down
ボン様へ

言われて当たり前だと思っています。
全然キツイ言い方ではありませんよ。

教行信証は、ホント難しいですね。
私は、六要抄を持っていないので、内容が分かりませんが、とても難しそう。。。


金剛信様は、多分、当分の間は、こちらに書き込みしないと思います。
残念ですが。。。

忍草様へ

良くも悪くも、私は馬鹿と但し書きがつきます。
馬鹿って、極端という事なのかしら?

さとしですが、天才でも馬鹿でもない、自分は中途半端だと言ってました。
子供のこの言葉、奥が深いと思いました。

●re.55
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1330 ] Re44:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 04:49 △up ▽down
愚尼様

私は、愚尼様を異端視しています。

その大きな根拠は、八正道の実践を否定していることです。

凡夫に究極の実践はできませんが、実践しようとすれば、その分だけしあわせに近づく、素晴らしい教えだと思います。

ですので、名号を語ってはいますが、外道であるという認識です。

(そして、同時に、より大きな観点から見れば、六字の御力によって、内道に含められてしまうということも、六字の不思議な御はたらきであると思います。)

私の場合は、愚尼様に対しては、反感もあると思いますが、さらに、異端視、外道視という方が正確です。

しあわせに向けて歩いていける方の意気をくじこうとするのは、まさに外道的であると思います。

また、「愚尼様よりの発言」という言い方は不正確だと思います。

私は、愚尼様に対しては、愚尼様の御発言を問題にしています。

愚尼様は、愚尼様についてお話しようとすると、他者を引き合いに出す傾向があり、「愚尼様よりの発言」というものを持ち出すのも、これも他者の話への置き換えを試みていると考えます。

愚尼様が不幸だとすれば、仏道の実践が不足しているからだと思います。

もちろん、信をいただくのも仏道の実践です。

そして、

[ 1288 ]
>信心をいただいてからは、南無阿弥陀仏と云う宝物が在るのに、これ以上何を望むのか?と言う考えに変りました

と言いながら、自身が不幸であるかのような言い方をなさることに矛盾を感じます。

病を持ち出すのは、病身に不足を見ているのではないのですか。

経済を持ち出すのは、経済に不足を見ているのではないですか。

愚尼様が不幸ぶるのは、同情を引くためなのではないのですか。

そして、愚尼様が幸福ぶるのは、お手引きに勧誘するためなのではないですか。

もちろん、自身の現状に不足を見るのは、凡夫だから仕方がありません。

ですから、「欲が100%なくなったとは言えない」のではなくて、欲まみれなのが凡夫のすがたなのではないでしょうか。

つまり、「信をいただいたとは言っても、不足を感じるし、苦しみが多い」ということではありませんか?

私は、信をいただいたとは言っても、不足を感じますし、苦しみも感じます。

それでも、信前に比べれば、次第に心が広くなってきているような感覚を覚えるのです。

このような自覚により、死後の空手形ではないという感覚を得ることができます。

このようなところから、現生正定聚の教えを踏みしめつつ、味わい、感謝し、歩んでゆけるのです。

皆がそうかはわかりません。あくまでも、私の個人的な経験です。

ですから、私に救いを求めてこられても、善知識を紹介してほしいと言われても、私には何もできないというのが正直なところです。

救われる人は、救われるべくして救われているだけだと思います。

私は、「弥陀のご修行が、私ひとりのためだった」ということを歓んでいるのですから・・・

お手引きしようとしたりするのは、私には心の負担です。そういうことを強制しようとする人は私は嫌いですし、教義的に間違っていると考えています。

なぜ負担かというと、阿弥陀様を信頼していない気がするからです。

阿弥陀様が十分にお育てになれば、その人を、適切な人のところに導いてくださって、お手引きも自然とおこるはずであると思います。

救いの網の目は、全世界に、この宇宙をも超えて、はりめぐらされていると思うからです。

特定の善知識という人間が救うのであれば、この宇宙を超えるどころか、この地球を超えることもできません。

そんな小さい阿弥陀様を信じてどうするのでしょうか。

そして、勘違いしている善知識様も嫌いです。自身を偉いと見なしているからです。

阿弥陀様は、何をやっているのですか。私が信じている阿弥陀様は、そのような矮小な存在ではなく、宇宙全体を包み、宇宙よりも広いような存在なのです。

すべてわかって、微笑んでいらっしゃるのです。

六字の価値を思い込もうとしても、あまり積極的な意味はなく、実際に、六字の広大さを感じている方々とお話してゆくことができれば、と思っております。

どのような経緯でそうなったのかはわかりませんが、私は、こうして自身が救われてゆくことに、感謝しているのです。

それがすべて勘違いでも、何も問題がないところも、すごいところだと思います。

おかげで、よろこんで、日々を生きてゆくことができるのです。

南无阿彌陀佛

●re.56
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1331 ] Re45:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 04:55 △up ▽down
愚尼 様

私は、行者に人を連れてくるように言う善知識は、ぺーぺーなのではなく、思想的に間違っているという考えです。

人を連れてこさせるのではなく、ご縁のあった行者に、いかにしあわせになってもらうかに智慧を絞り、力を尽くしてゆくのが知識の役割であると、個人的には思います。

知識は行者に尽くすべきであり、決して逆ではないと考えます。

南无阿彌陀佛

●re.57
菩提心
非公開の非公開
[ 1332 ] Re46:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 07:14 △up ▽down
毎日様

今回はハッキリ書いて頂いて感謝しております。


忍草様

>今日のお寺のトイレに東司と書かれていました。意味深いですね。

ここの場所は、一味同行の方ばかり見ていると思いません。

忍草様が意味深いと仰るには、相当のお気持ちを含んでいると思います。

私も、昨日の朝、奥様に見習い、トイレに一輪花を添えてみました。


ここの場所は、愚尼様におもねる場所ではないと思います。

自分の信念はしっかりと伝えていくべきだと思います。

そして疑問に思った事に対し、真摯に答えていく場所だと思います。

又、そういうやりとりをしていくうちに、阿弥陀様に救われていることが実感出来、今生で知らない人同志が喜んでいけるのだと思います。


>私は、愚尼様を異端視しています。

>その大きな根拠は、八正道の実践を否定していることです。

仏教の基本ではないですか。

聖道門のような修行も出来ない私ですが、それでも救われたら、柔かな言葉かけや態度は真似していきたいと思います。

そしてこの掲示板でも、いいことは真似していきたいと思います。


南无阿彌陀佛

●re.58
愚尼
非公開の非公開
[ 1333 ] Re47:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 14:44 △up ▽down
金剛心様へ

善知識って、弥陀の代官ですよね?
法義の上では、如来だと聖典に書いてあるのですが。。。

●re.59
愚尼
非公開の非公開
[ 1334 ] Re48:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 14:53 △up ▽down
忍草様へ


東司のご説明ありがとうございました。
奥が深いですね。
こうして、金剛心様と忍草様と知りあえて、今まで、矛盾を感じていた事が、ひとつづつ紐解けて来ました。
お文も、こんなに奥が深いとは、思っていませんでした。
沢山の資料有り難うございます。
読めなかった、教行心証が嘘のように読みやすくなりました。
不思議です。
また、資料送って下さい。
ずうずうしい愚尼より

●re.60
愚尼
非公開の非公開
[ 1335 ] Re49:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 17:28 △up ▽down
極道坊主様へ

遅くなりました。
お返事いただき有り難う御座いました。
『切』についての読みをお教えいただき、自分なりに考えていました。
掲示板を眺め考え込んでいたら、忍草様より早速電話をいただき、『切』では無く『直』と書くと教えて頂きました。
『切』をただすと読むなんてびっくり。
漢字って奥が深いですね。
聖典を読むと、明師(めいし)と学生(がくしょう)と言う文字が書いてあります。
聖典を自分の力で読むのは、私自身、自分を危険に晒し、もし、間違った意見を書いたり、言ったりしたら、弥陀の教えに背く事になってしまうし、衆生を惑わしてしまうことになります。ですから、ひとつずつ確認して、確かめていこうと思っています。
私は、たまたま、金剛心様からいただいた資料を読んで、聖典と照らし合わせて、矛盾を感じずに『ああ、そういうことか』と納得できています。
信心をいただいた後も、私は死ぬまでたのむです。
ひらがなの『て』にも深い意味があることを知り、またまたびっくりでした。
文意に、『即』は位につくとありました。
どなたかの参考になればと思い。。。
『非』の反対子は何ですか?
最近、漢字一つ一つに興味を持った愚尼より

皆様より、色々な励ましのお言葉を賜り、感謝して止みません。
あまり、文章能力がありませんが、どうぞお汲み取り下さい。

合掌  南無阿弥陀仏

●re.61
愚尼
非公開の非公開
[ 1336 ] Re50:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 21:44 △up ▽down
毎日様へ一言

毎日様の善知識は、泥凡夫様の紹介の善知識ですか?
でしたら、私の善知識と、高名興仁先生は、実際に会って、口決合わせをしています。
ですから、同行です。信心は、同じです。
私を外道と言ったら、同じ信をいただいている毎日様も外道となります。
何をもって外道と言うのか分かりませんが、間違いなく、同行の者同士です。


金剛心様と、忍草様には、あまり毒舌吐くなと宥められました。
忍草様からは、悪どい女だね、とも言われました。


●re.62
極道坊主
中国の男性

↑極道坊主様宛にメール
[ 1337 ] Re50:思う所を、遠慮なく書かせていただきます。 2009/04/14 (Tue) 21:57 △up ▽down
愚尼様

お役に立てましたでしょうか? 極道坊主で有ります。

漢字って言うものは、色々な読み方をするものですね。 学校で習う読み方、漢字の数は漢字全体の数のほんの一部分でしか有りません。 それだけ膨大な数の字を使いこなしている事になります、日本人は!(今の御時勢、賢くない人ばかりかもしれませんが?)

欧米諸国等、表音文字を使う国は記号の並べ替えで言葉の意味を表そうとします。 漢字発祥の今の中国でさえ、音中心の簡体文字を使っています。

其れとは逆に、漢字は「表意文字」と言って字自体に意味を持っています。
其の表現にふさわしい字が使われていたりするのですね。

字自体に心が籠っていると言うのでしょうか? 自分は『日本人にふさわしい表現方法だ。』と感じています。 中国で発祥し、朝鮮半島を伝って日本に入り、日本独自の発達を見せています。 日本人の感性の豊かさが為しえたせいかもしれません。

弘法大師の真言宗では、『言葉ひとつひとつ、漢字一字一字にも、言霊が宿る。』と、説きます。 誠に納得の行く話しで有ります。

言葉や字は大事に扱いたいものですね。


『非』の対語で有りますが、自分は『是』だったと思います。

『非』には、「そむく」「そしる」「はんする」「あらず」と言う意味が有りまして、「あらず」では 〜〜を否定する。 〜〜ではない。と言う意味だったと思います。

『非僧非俗』と言うでは有りませんか。 『僧に非ず、俗に非ず。』ですよね。

元の形は、鳥の羽を広げた状態だそうでして、羽を広げると羽同士がお互いが相反する方向に広がる故にこの字を以って、上記のような意味を持たせたのだそうですよ。

この『非』に対して『是』であったと思います。 

この字、普段は「ここ」とか「これ」とかと言う意味に使われますが、大元の意味は『ただしい』と言う意味だそうです。

太陽の如く、正しい。(どの国にも太陽信仰が有りますものね。)『日』と『正』を足した形の字なんですって。

参考になりましたでしょうか?

言葉も大事です。 それに込められた『意』も大切です。

多分、先師方も後の自分たちの為に、充分過ぎる程吟味をされ、書き記された事でしょう。 先師方のご苦労を思いますと、頭が下がる想いです。

其の方々のお心は、『後の者達の信心獲得の為。』『後の世の自分達の苦を少しでも抜いてあげる為。』『少しでも寄り道少なく、この道にたどり着く為。』数々のお心を込められた記された筈です。

聖典を読み解く事も大切かもしれませんが、其れによって自らを危険に晒す事は無いと思います。(多分、ニュアンスが違うと感じるのですが?)

自分は、間違うものしか有りません。 書物も読む度に理解の仕方が違いますし、内容も違って感じたりします。 殊に佛書は、そういった事が著しい。

間違った意見でも宜しいかと思います。 其の時点での其れが貴女の味わいなのでしょう。 読み返すにつれ、味わいも変わってきます。 

前回も記させて貰いましたが、時間を経て意見が真反対を向いても、其れも貴女の意見であり、味わいです。 間違いでは無いのです。

佛様もその様な事で『教えに背いた。』とは思われますまい。 その様な佛ではない筈です。

自身を律する為の書き込みであるならば、「其れも一つの考え。」と納得できます。 しかし、聖典が元で貴女を危険に晒す様な、窮屈な思いになるようでしたら、其れは考え違いではないかと申し上げたい。

聖典は、今の自身の御信心がどの位置に在るのかを照らし合わせる『道具』として使っていただきたいと思います。(このような書き方をすれば、かなりの反感と御意見を蒙るかもしれませんが?)

御念佛が姿を変え、書物として現れたのが御聖典です。 内容は『なむあみだぶつ』の名號に他ならない。 と自分は感じています。

聖典を読み解いて、信心するのではないと思います。 聖典に照らし合わせて、「御信心を喜ぶ。」 これが、何よりだと思います。「今、自分はこの位置くらいに居るんだなぁ。」とオリエンテーリングの地図のような感覚でよいと思います。(考えを押し付けている様でしたら、聞流して下さい。)

口調が荒くなっている所が有りますが、お許しください。

貴女には、是が非でも素直に喜んで戴きたい。 そう思います。

 合掌

●re.63
忍草
北陸の男性
[ 1338 ]  一寸一言 2009/04/14 (Tue) 22:07 △up ▽down
  菩提心樣へ

禅宗系のお寺ではトイレの事を、東司(とうす)東浄(とうじょう)と書くそうです。

正定聚の位につくは東宮の位の如し(一念多念文意)・・・皇太子殿下はどこにお住みに

なられてもその住居は東宮御所と呼びますネ、と愚尼樣にお伝えしました。

それ以上は各々の捉え方だと思います。

私はお顔を拝見した事もないのに「おもねる」という気もないし、どこの文章で

そういう風に感じられるのか解せません。愚尼樣とは電話で話させて頂いてはいますが。

また菩提心樣ともどなた様とも争う気は毛頭ありません。

教義上での捉え方の違いは主張したとしても、(この場を道場とみたとして)それ以外では

一念帰命のお同行であれば、おもねるとか非難は私は致しません。それが私の意見です。

私ははじめて書き込みさせて頂いた時、高野豆腐樣に注意を受けたので素直に謝った

つもりです。大道を歩みたいですので・・・あくまで私は私です。

どうぞ誤解なきようお願い致します。 合掌 ナムアミダブツ 南無阿彌陀佛。





●re.64
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1339 ] Re1: 一寸一言 2009/04/14 (Tue) 22:53 △up ▽down
愚尼 様

善知識様がお会いになって、口決合わせをした。

それが事実かどうかも、私にはわかりません。

そして、口決が合っていても、合っていなくても、それで信心がそなわったり、消えたりするとは私は考えていないのです。

なぜなら、私が考える信心は、善知識が与えるものでもなければ、善知識が認めるものでもなければ、善知識が否定するものでもないからです。

それに、誰が善知識かということにも、あまり関心がありません。

ですから、口決合わせを重視したり、善知識様が誰かを重視する愚尼様のお考えは、私とは、かなり根本的な部分から異なっていると思います。

善知識様が同じだと、信心が同じなのでしょうか? 私はそうは思いません。

「同じなのかな?」と思った時期もありましたが、私はその後の観察により、「そうではないのだな」と思うようになりました。

善知識様も縁であり、宿善があり、そのうえのことであると思います。

法然聖人のお話を聞いていた中にも、さまざまな方がいたでしょうし、親鸞聖人のお話を聞いていた中にも、さまざまな方がいただろうと思います。

お釈迦様のお弟子さまにも、さまざまな方がいたでしょう。

八正道の実践を否定される方が、外道のふるまいをしているという考えに、変わりはありません。

愚尼様の信心と私の信心が同じものか、私にはわかりませんが、やりとりをした感覚では、別物のように感じます。

私は阿弥陀様に甘えており、既に救われたと思っています。

一方、愚尼様はそうではないようです。

口決合わせとおっしゃいますが、口決を合わせた善知識様から六字のいわれを聞き、弥陀をたのめば、それで信心が決定すると、愚尼様は考えていらっしゃるのでしょうか。

「間違いなく同行」と愚尼様はおっしゃいますが、十方衆生が同行であるというような意味においては、もちろん同行様でございます。

しかし、同じ道を行くものかと言えば、それは違うと思います。

愚尼様は、お手引きを重視する道。手引きが最高の修行というお立場です。

私は、一人の歩みを重視する道です。

八正道を放っておいて、それよりも手引きが重視されるという考えは、外道のふるまいであると考えております。

申し訳ありませんが、基本が違うと思います。

知識様の口決合わせよりも、私は、私が実際に、お電話や、こうして掲示板で愚尼様とやり取りをしたのですから、その経験と観察に基づいて、自身で判断して参ります。

私は愚尼様とお電話でお話しして、「あ、この人はよろこべていない、苦しんでいるな」と感じました。掲示板の書き込みを読んでも、そう感じました。どちらも、愚尼様に、既にお伝えしてあります。

愚尼様は否定なさるのですから、意見が違うと言うことです。

そして、もし、愚尼様が、私に「どうすれば良いか」を問うのであれば、「まわりの人に感謝を表現し、今の環境への感謝の念を育てる」のようなことを言うでしょう。そして、これも既にお伝えしました。

「弥陀をたのんだ方がいいですよ」と愚尼様に言うつもりはないのです。そのような横超の道よりも、まずは堅実に歩んでほしいと望んでいます。

私は、八正道を歩めば、歩んだ分だけ、その分だけ確実に幸せになってゆくという考えです。

お手引きしようとするよりも、信を内心に秘め、こころでよろこび、ひとりのときにご恩報謝のお念仏を称え、目の前の仕事に精を出し、仁義を重視して、まわりに感謝を表現してゆくようなことを、私は愚尼様におすすめ致します。

私は、意見を合わせようという気持ちがあまりないのです。私がすすめたからと言って、愚尼様は、きちんと断って、言われた通りにはしないでしょうし、ご自身でご判断なさるだろうと安心しております。

何をもって外道と言うか、わからないとのことですので、もう一度書きますが、八正道の実践を否定しているところが外道です。

実践しきれないから、弥陀をたのむことになるわけですが、信前でも、信後でも、八正道は、実践してゆこうとする内容であると思います。

善を勧めない仏道はありません。八正道の実践は、善であると考えております。

南无阿彌陀佛

●re.65
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1341 ] Re2: 一寸一言 2009/04/14 (Tue) 23:20 △up ▽down
忍草 様

>教義上での捉え方の違いは主張したとしても、(この場を道場とみたとして)それ以外では一念帰命のお同行であれば、おもねるとか非難は私は致しません。それが私の意見です。

私も同じようなことを考え、この場を運営しております。

私が非難がましい書き込みを為すのは、自身の未熟さ故であり、それを是とは思っておりません。

日々の体験を通じまして、少しでも反省致しまして、より良くなろうと思って生きております。

そのような強さを与えてくださったのも、六字であると感謝しております。

思うことを申すからこそ、いずれわかり合えるかもしれませんし、わかり合えなくても、尊敬してゆけるのであると思っております。

南无阿彌陀佛

●re.66
菩提心
非公開の非公開
[ 1343 ] Re3: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 00:57 △up ▽down
忍草様

お返事有難うございました。

おもねると書いたのは忍草様に対してでは有りません。

しかし、愚尼様を通さなくても、自分の言いたいことは直に書き込むことだと思いました。

間に入れば、誤解を受けます。

そして、おもねると書いたのには他にも理由が有ります。

この毎日の浄土真宗は「親鸞会」の中にも書いて有りますように、被害家族の会で、毎日様や私が書きこんでいた流れから、毎日様が立ち上げて下さったHPです。

それが愚尼様が現れてから、可笑しくなってきたと思っています。

私や毎日様、泥凡夫様は一味同行です。

それぞれ、住まい、年齢、性別は異なっていても、この場所で喜んで書き込みをしていました。

私は、いつまでも反省もしない、又、名前を偽っても平気で書き込み続けられる愚尼様が、いつの間にかこの掲示板の中心に居られたのでは困ると思いました。

これこそ一味同行と見て欲しくないと思いましたし、私は泥凡夫様から導かれ救われたと思っています。

又、金剛心様もどうしてここに個人名を出されるのか理解しがたいと思います。

あくまでお互いが匿名で書き込みしているのなら、私達有縁の善知識様を特定するものではないと思います。

又、私は一度しかここの掲示板に現われてこない「青雲」様の書き込みが印象的です。

青雲様のご指摘の善知識様のような人が本来の善知識様だと思います。

又、私の御縁頂いた善知識様もそのようなお方です。

私は、どのような非難を受けようがびくともしません。

可笑しいと思った事は可笑しいと書いていこうと思います。


大無量寿経の中にも「道徳」という御言葉が出てきます。

御文にも王法も守るように書かれています。

なかなか上記のようには実行できないですが、私は阿弥陀様に救われていれば、それこそ佛凡一体ですから、自然に少しでも努力しよう、反省しようという気持ちが起きてくると思います。

そして残りの人生をそのように生きていきたいと思います。


南无阿彌陀佛

●re.67
高野豆腐
非公開の非公開
[ 1345 ] Re1: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 01:16 △up ▽down
菩提心様


「おもねる」という気もないし、どこの文章でそういう風に感じられるのか解せません

私も同じくです。愚尼様におもねるなどという気持は全然ありませでしたが、
どのようなところがおもねいているとお感じになったのか、おもねいて、
私はどうしようとしていたのでしょうか。

私の意識していない心を菩提心様は発見してお感じになったのでしょうか。

もし、よければ教えていただけますか?

異端に対する考えはボン様に同じです。

南无阿彌陀佛













●re.68
菩提心
非公開の非公開
[ 1346 ] Re2: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 01:55 △up ▽down
高野豆腐様

御不快と思われたら謝ります。

しかし、私はそのように受けとめたのです。

私は、愚尼様とジャンヌ掲示板から御縁頂いております。

しかし、一向に愚尼様からは、文面からみても、24年間も真実信心頂いて喜んでいる風には読めませんでした。

私は、死後の解決ができていると思っています。

そして、それは苦しんできた道のりが有った故に、その喜びが大きいと思います。

まず、同行でしたら、(ましてや、お互いに顔や言葉を認識していない者)、せめてこの掲示板では、良かったねって喜びあえることが望ましいと思いました。

しかし、愚尼様にはそのようなお気持ちが有りませんでした。

ずっと、批判してきておりました。

そういう点ではもっと、過去ログを読んで頂きたいと思います。

でも、その御蔭で私は、毎日様との御縁も頂き、真実信心の道を歩んでいると思っています。

私は客観的に眺めた時に、やはり仏教の基本である、嘘は付かない、反省する、努力する、そういう事を大事に思い、愚尼様にもご助言して頂きたいと思いました。

私は、親鸞会を御縁にこの道くることが出来ました。

その間、私と同じように苦しんで来た人の書き込みを読んできました。

そして、今このようなインターネットの時代だからこそ、自分の目で確かめられる唯一の掲示板を有難いと思っていました。

だからこそ、私は、毎日様が極力この掲示板では妄語はよくないですと戒められてきていることを尊重したいと思います。

私は、そういう点で、愚尼様に最初は反省して欲しい書き込みが、愚尼様に同情している書き込みに変化している事は、悪いことではないと思いましたが、そのように「おもねる」という印象を受けました。

異端に関しても、それぞれの考えではないのですか?

私はここ3年間、泥凡夫様より「有縁の道がその人の道」と聞いてきました。

高野豆腐様、ボン様それぞれの有縁の道を歩んで行かれることだと思います。

私は、毎日様、泥凡夫様と一味同行ですが、しかし、私は私です。

私は阿弥陀様と二人旅だと思います。

私は私の信じる道を歩んでいくだけです。


南无阿彌陀佛

●re.69
ボン
関東の男性
[ 1348 ] Re3: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 03:43 △up ▽down
菩提心様、こんばんは。

初めにお断り申し上げておきますが、以前にも書きましたとおり、私は毎日様の
掲示板という軒先を借りて遊ばせていただいているものと分を心得ております。

ですから、少々差し出がましいことを申し上げましても、あくまでも参考意見
として聞いていただければ幸いです。

正直に申し上げまして、私もこれまでの愚尼様の書き込みは礼節を欠いた部分が
多く、そのためにこの大切な掲示板が荒れていると感じたのは事実です。
実際、読んでいて胸が悪くなることもありました。

ですから、目に余ると思い、分不相応ながら、苦言も呈しました。その結果、
反省の弁もありましたので、何か明るい兆しのように思われて、
うれしく思ったもの事実です。

それが「おもねっている」と受け取られても反発するつもりはありません。
善意のつもりが、かえってご迷惑をかけたかなと、反省をいたしました。
ここの場所を大切に思い、ますます良くなっていってほしいと願うばかりです。

ただ、私が申し上げるのもおこがましいのですが、菩提心様や毎日様の応対が
「火に油を注いでいる」のではないかと感じられることが、ままあるのです。
(失礼がありましたら、お許しください)

拝見しておりますと、教義の理解の仕方の違いも確かにあるのですが、
それ以前に、感情的なもつれがあるような気がいたします。

感情的なしこりを取り払って、純粋に教義上の問題として考えてみたら、
この掲示板のなかに異なった見解が同居していることも意味があるような
気がいたします。

同じ一念帰命の信心をいただいたはずなのに、この見解の違いはいったいどこから
くるのだろうと、純粋に疑問を感じます。長い時間をかけて、礼節をもって
意見交換をしたら、なにか答えらしきものがでてくるのではないか、
といった淡い期待を抱かせるだけものを、ここの掲示板は持っているような気がします。

勝手なことを言わせていただきました。

南无阿彌陀佛

●re.70
菩提心
非公開の非公開
[ 1349 ] Re4: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 05:17 △up ▽down
ボン様

ご意見有難う御座います。

感情的なもつれが有ると読まれるのでしょうか。

同じ一念帰命の信心を頂いているように思えません。

同じ信心を頂いていると思えないから、このような気持ちも起きてくるのだと思います。

私は人を頼りにしているのではありません。

あくまで、阿弥陀様を頼りに生活させて頂いています。

>ただ、私が申し上げるのもおこがましいのですが、菩提心様や毎日様の応対が
>「火に油を注いでいる」のではないかと感じられることが、ままあるのです。
>(失礼がありましたら、お許しください)

私は、色々な思いが有ります。

油を注がせるように振舞っておられるのは、愚尼様の方では有りませんか?

かつて、被害家族の会より、御自分でブログを立ててするように言われました。

若し、御自分の意見と合わなければ、御自身でブログを立てると宜しいと思います。

良く、読んで頂きたいのですが、私や毎日様や泥凡夫様の意見には、批判していますが、皆様や金剛心様や忍草様の意見には感謝の意を表しています。

教義云々の前に、どうしてこんなになってしまったのか考えて欲しいと思います。

何度も、毎日様は愚尼様に色々と仰っていても聞く耳持たない感じです。

又、私は知らない人が覗くであろうこの掲示板で、せめてお互いが尊重できる言葉使いをして頂きたいと思っていました。

同行と仰るなら、人の信心を批判したり、上からの目線で物事をいうことでしょうか?

私は私の意見を言います。

南无阿彌陀佛

●re.71
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1350 ] Re5: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 13:30 △up ▽down
菩提心 様

愚尼様がご自身のブログをお作りにならないのは、技術の問題というよりも、アクセスが期待できないというご不安があり、お手引きにつながらないとお考えなのではないでしょうか。

愚尼様にとりましては、お手引きが最高の修行ですので、お手引きにつながらないように思えることは、手間をかける価値がないとお考えなのではないかと思います。

おかげさまで、少しずつこちらの掲示板でも、書き込んでくださる方が増えて参りましたので、そのような様子をご覧になって、そろそろお手引きにつながるのではとお考えになって、書き込みをはじめたのではないかと思っております。

金剛心様の場合には、お講のことがありますので、そちらの方々が、この掲示板を見て教義に疑問を抱きますと、組織の結束にゆらぎが出てくる可能性があり、それを防止したい意図があるのではないかと思います。

金剛心様も、「お手引きが最高の修行」ということには、同意していらっしゃるようですので、組織の拡大を重視していらっしゃるのでしょう。

こちらの掲示板へのお書き込みの態度から推測致しますと、お講においても、支配的な物言いで、周囲に対しているのではないでしょうか。

もしかすると、信をいただいても、その後の誹謗によって、地獄に堕ちるのだと行者を脅しているのかもしれませんね。

私はこのように推測しておりますが、それはどちらもご両名のご都合のことで、真宗の教義に直接関係があることではございませんので、そのようなことは雑音、さざ波のようなもの、やり過ごして、法のお話ができればと思っております。

私の考えでは、最高の修行は南无阿彌陀佛です。お手引きが最高の修行とは考えておりません。

お手引きしようなどという気持ちは、凡夫の下心に過ぎないので、そんなくだらないことを考えている時間があれば、弥陀に感謝をし、目の前の仕事に精を出して、周囲の役に立ち、周囲によろこばれるよう生きてゆくことをおすすめしております。

ひとりの人がお手引きされるのに、一体どれほどの仏の助けが要ったのでしょうか。凡夫が出るような幕ではありません。そのようなとてつもないお仕事は、弥陀や諸仏諸菩薩にお任せ致しまして、凡夫は、凡夫にできること、すなわち、目の前のことをきちんとやることをこころがけるのが良いのであると思っております。

そして、そのときに、「心に最高の宝を抱いている」ということが、よろこびにつながるのです。

たまたま、お手引きできたように見えることがあれば、それは自身の力ではなく、囲繞くださっている尊い方々(仏や菩薩など)のおかげでございます。

自分で何かやらねばならないのは、囲繞されていることを信じていないか、自分の力が大きなものと思っているか、あるいは両方なのだと思います。

真宗に関心の少ない方から見れば同じに見えるかもしれませんが、「似て非なるもの」という認識です。

宗教団体、あるいは、宗教者が嫌われるのは、

1)人を集めようとする
2)お金を集めようとする
3)思想を押し付けようとする

この3点に集約されるように思います。そして、この3つを嫌うことは、私にとっては、納得のゆくことです。

つまり、嫌う側に問題があるというより、宗教者の側のふるまいに問題があり、仏説からの逸脱があると考えております。

ですから、この3つを捨ててゆきたいと、私は考えております。

六字を尊び、一人の道を歩む場合、この3つのどれも必要がありません。

そのようなところも、私にとって、この道への納得につながっております。

「信は内心に秘めよ」というのは、実に尊い教えであると思います。


愚尼様、金剛心様

お二方への推測が上記にございます。異論がありましたら、お手数ですが、おっしゃっていただけたら、うれしいです。

愚尼様につきましては、異端というよりも、外道としてのふるまいを為しているという私の考えに、今のところ変わりはございません。

金剛心様につきましては、用語の解釈などを独自の基準でおしすすめ、それについて、詳しい解説は行わず、それでありながら、独自の解釈を理解しない人を、それを理由に見下す方である、という私の考えにも、今のところ変わりはございません。

独自の解釈が、一般に理解されないのは当然のことと私は考えるのですが、その当然のことを解せずに、自らの権威付けに使用している方であろうと推測しております。

独自というだけでは、間違いということにはなりませんが、わかっていただくためには、詳しく説明してゆくことが大切になってくるだろうと思っております。

ところが、質問すると愚弄ということですので、金剛心様は、無批判に自分の説を鵜呑みにする人を求めているのだと思っております。

同じく、そのような方針も外道的であると私は考えます。

相手の方にわかるように、言葉を尽くし、心を尽くしてお話してゆくことが、仏のおすすめに叶う道であると思う次第です。

南无阿彌陀佛

●re.72
泥凡夫
北陸の男性
[ 1354 ] Re6: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 18:02 △up ▽down
愚尼 様

こんばんは。泥凡夫でございます。
なかなか時間が取れずに書込みもままなりませんでした。

[ 1336 ]において、
>私の善知識と、高名興仁先生は、実際に会って、口決合わせをしています。
>ですから、同行です。信心は、同じです。

これは愚尼様らしからぬお言葉であると思います。
私とかつてメールをさせて頂きました折には、愚尼様の有縁の善知識様である木下様が法が異なると申された。と言われたではございませんか。

次に被害者様の会の件についてです。

菩提心様よりお知らせ頂きまして、親鸞会様の被害者様の会に書かれた内容を拝見致しました。愚尼様のお書き込みは蓮師のご遺訓に背くものであると私は思いますし、如何なものかと存じます。

ここは毎日様のHPでありますので、法論をこちらに来て行えばよい。などというのは毎日様にご迷惑が掛かりますし、法論をなさりたいのであれば、あくまでも愚尼様が独自のHPなりで行われれば宜しいことであると私は思います。

かつて、ジャンヌにおいて、HPのご趣旨に反して書き込みを行い続けて、苦言を呈された私の行いを思い出します。当時、管理人様には重ねてお詫びのメールを差し上げ、書き込みを終わらせて頂いた次第であります。

次に御相承についてでございます。

御相承の人数につきましては経にありますとおり、釈尊がどなたに法を付属なされたかで定まるわけです。さすれば自ずと人数はお分かりになるはずでございます。

ただ、かつて忍草様とのやり取りで書かせて頂きました通り、何が是で何が非であるのかなどそういったことは自流の正当性のお墨付きにはならんのであります。

御一流の流れを汲む中にも、既に実語も御相承人数もマチマチであることは聞き及んでおります。しかし、それぞれが、それぞれの流れにおいて自流を大事になされております。

少なくても私は、是非など及びもつかぬ身であり、そういった必要もございませんし、凡夫の計るべきことではないとも思います。

言い換えれば、私の有縁の道が是であるか非であるかも主張する必要もないのです。

故に、有縁の道を歩まれるのが大事であると申し上げてきたわけです。

私は少なくとも南无阿彌陀佛の六字以外に入用のものなどございませんし必要とも致しません。経論釈は何を信じさせるためにあるのか。この六字の尊号を信じさせるためにあるわけです。最上無上で我等にも確実に分かる真実は南无阿彌陀佛であるということが私にはこの上ない歓びであります。

お手引きに関しても、かつて、聞きたければ聞けばよし。決して無理強いされるものではありません。というニュアンスで書いてまいりました。

今生において弥陀のお育てが熟した人であれば、自ずと法の灯の元に導かれるのであります。何がご縁になるかも分からんのです。皆、弥陀のお計らいのことであると思います。

未決定の方々に一日でも早く弥陀の光明に摂取されて欲しい想いはございましても、宿善なくば力及ばずであります。

では私として何ができるか。偶々、ご縁を頂きまして、できる範囲のことをやらせて頂いたとしても、それは佛菩薩方のご催促でありまして、己の努力や功など何処にもありはしないのです。弥陀のお育てとお導きによって、様々なご縁に関わらせて頂くのであります。

八万の法蔵を知らずとも、六字を尊び、喜ぶすがたをみて人は信を獲るご縁もあるわけです。

次に、善知識とは蓮師の申される通りであります。

『そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、ひとをすすむべきばかりなり。』2-11

『善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり。宿善開発して、善知識にあわずは往生はかなうべからざるなり。しかれども、帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。』2-11

善知識は行者に弥陀に帰命せよと勧める人であります。善知識が信心を授けるのでもなんでもありません。帰するべきは弥陀であり、行者を摂取するのは弥陀であります。

善知識に対する報恩謝徳の想いはありましても、あくまでも私は弥陀をこそ尊び、報恩大行たる称名念仏を行住坐臥に称えさせて頂く日々でございます。

南无阿彌陀佛

●re.73
酒天童子
関東の男性
[ 1356 ] Re7: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 22:10 △up ▽down
こんばんは、酒天童子です。

いろいろな意見がでていて、読ませていただいてとても勉強になります。

ボン様、示唆に富んだ貴重なご意見味わっております。

菩提心様、いつか一度お会いしたいですね。

毎日様、いつもありがとうございます。ちょっと質問です。

>口決が合っていても、合っていなくても、それで信心がそなわったり、消えたりするとは私は考えていないのです。

と、ありました。

私自身、消えたりすることはないとは思うのですが、、、

では、信心とは、いや信とはどのようにして獲得できるのでしょうか?

自分自身のつたない理解を書きますれば
”釈尊直伝の口決、口授を次第相承の善知識がけっして間違えることなく切ることにより、譬えて言うところの泥の中の凡夫の自性が蓮華のごとく花開き、弥陀の本願力により信心を決定する”のであるのかと。

もし、口決、口授が違っていたら弥陀の本願力は届かないのではないかと、、、。

そんなことはないのでしょうか?

また、これは間違った思い込みでしょうか?

もともと、よく分かっていないものの書き込みですので、ご容赦ください。

泥凡夫様のご意見もお聞きしたいところですが、、、。

南无阿彌陀佛

●re.74
愚尼
非公開の非公開
[ 1358 ] Re8: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 22:47 △up ▽down
泥凡夫様へ

言葉を知らずに使っていましたことお詫びいたします。
法と書きましたが、解釈などの違いの事です。
高名興仁先生の書を持っていますが、木下先生は、間違いがあると言う指摘をなされました。
その時に、詳しく教えてもらわなかったので、木下先生が指摘したところは知りません。

合掌   南無阿弥陀仏

●re.75
愚尼
非公開の非公開
[ 1359 ] Re8: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 22:48 △up ▽down
泥凡夫様へ

言葉を知らずに使っていましたことお詫びいたします。
法と書きましたが、解釈などの違いの事です。
高名興仁先生の書を持っていますが、木下先生は、間違いがあると言う指摘をなされました。
その時に、詳しく教えてもらわなかったので、木下先生が指摘したところは知りません。

合掌   南無阿弥陀仏

●re.76
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1360 ] Re9: 一寸一言 2009/04/15 (Wed) 23:17 △up ▽down
酒天童子 様

私のことば足らずが原因で、混乱を生じさせたと思います。お詫び致します。

>口決が合っていても、合っていなくても、それで信心がそなわったり、消えたりするとは私は考えていないのです。

この文中の「口決が合っていても、合っていなくても」についてですが、本当に口決が合っているのか、合っていないのか、実は知りようがないのです。

では、なぜわかるかと言えば、自身の中にはたらく真実信心があると感じられるからです。

信心を現に体験しているのだから、弥陀をたのんだのだろう。

弥陀をたのむことができたのだから、口授が続いていたのだろう・・・

と推論してゆくことができるのであると考えております。

つまり、「口決」が先に来るのは、順序が違うと考えております。

真実信心のはたらきが、自身に展開していると感じられるか、感じられないか、がスタートになると考えております。

「口決が一致しているから」「証人がいるから」「物証があるから」を根拠にしてゆくのは、方便(あるいは傍証)としては考えられますが、本質ではないという考えです。

南无阿彌陀佛

●re.77
高野豆腐
非公開の非公開
[ 1362 ] Re10: 一寸一言 2009/04/16 (Thu) 00:36 △up ▽down
菩提心様

返信ありがとうございました。

菩提心様の意図にはそぐわなかったかもしれませんが、

愚尼様には私なりの方法で僭越ながらご忠告申し上げた

つもりでした。

そして、子育ての疲れや病気などからもいろいろな思いを

されているのかなと同じ女性として思いめぐらした次第です。


私にはこれこそ真実というような確証や教学は持っていませんので

皆様の議論に加わることはできません。

皆様のご意見を拝読して私なりにひとり納得しているだけです。

それでも、聖典を拝読すると喜びが深まります。

信をいただいたことを喜ぶばかりです。



南无阿彌陀佛




●re.78
泥凡夫
北陸の男性
[ 1363 ] Re10: 一寸一言 2009/04/16 (Thu) 00:46 △up ▽down
愚尼 様

こんばんは。
木下先生との解釈の相違であると言われるわけでございますね。
これは先に金剛心様が[ 1174 ]において書かれた相違と解釈して宜しいでしょうか。

金剛心様よりの多くの資料を私の手元にも頂いております。
拝見いたしました率直な感想と致しましては、以前にも書きましたが、独自の解釈をお持ちであると思いました。それが是であるか非であるかは私の関知するところではございません。

例えば、信巻冒頭における『しばらく疑問を至してついに明証を出だす。』の文の解釈において、「御開山は信を獲てしばらくは疑いがあった。しかしついに疑いがなくなっのだ。」のようなニュアンスで記されておりました。

ここでいわれる「疑問」とはそもそももって「問答」の意味であると普通は解釈致します。根拠となる引文を尽くして、明らかな答えを出します。という意味であると思います。信巻を紐解けば、自ずと分かることではないかと思った次第であります。

お言葉は断定的で若干高圧的ではありますが、ただ、法を大事になされる強い信念と自筆による御苦労と熱心さは十二分に感じ取れた次第であります。

酒天童子 様

こんばんは。泥凡夫でございます。

口決の件でございますが、先に愚尼様に申し上げましたのが私の意見であります。
毎日様もご指摘のように「口決が一致しているから」「証人がいるから」「物証があるから」正当の証しとなり、ゆえに真実信心である。というのはどの流れにおいても同じことを主張なさるのであります。

ここは大事なことではございますが、正邪はどんな善知識であろうと知らんのであります。いや。知っておる。間違いない。と主張なされるお方がおられるとすれば、先の3点が根拠となり、その範疇を出ることはないのであります。これは善知識様であればよくお分かりだと思います。

やはり、事実自分の中に真実信心の体である六字の尊号が絶え間なく働き続けておるという実感と、日々の報恩大行としてのお念仏の生活の中で味わい、喜んで、信じて参るものであると思います。

でなければ、善知識が信心を授けるという邪義にもなるでしょうし、あの善知識さんはいいが、こっちはダメだった。とか、いわゆる善知識だのみの状態となりかねないのだとも思えますし、善知識にランクがついたりもしたりするのではないでしょうか。ひいては、我田引水に陥るのは目に見えることでございます。

以前も忍草様とのやり取りでも書きましたが、こういうことの是非など分からんのであります。

行信不離の南无阿彌陀佛という妙行があり、南无阿彌陀佛という信心があり、南无阿彌陀佛と報謝して生きる。そういう理を教えて下さった私有縁の善知識がおり、そういう道もありますとお話して参りました次第であります。

南无阿彌陀佛

●re.79
菩提心
非公開の非公開
[ 1365 ] Re11: 一寸一言 2009/04/16 (Thu) 04:20 △up ▽down
高野豆腐様

却って、心辛い思いをさせてしまったようで御免なさい。

ただ、愚尼様に対しては、味わいでやりとりしていた時の愚尼様で有って欲しいと今でも思っています。

聖典を拝読させて頂くこともとっても素晴らしい事だと思いますが、私は真実信心頂いて感じることは、ちょっとした会話や、相手のしぐさや、タイミングで、喜びが出てきます。

昨晩、NHKの番組の中で、介護する立場の方が、良いことを見つけて毎日、日記に書いていくうちに、段々良いことが見つかっていき、その奥様の表情が明るくなっていくのが分かりました。

そして、また私達は信心決定している訳ですから、常に諸仏、諸菩薩に守られています。

私はそれをいつも心の中で「嬉しいな、楽しいな」と一人じゃないんだな。

どんなに辛くても頑張ろう。

もう、三悪道だけは行かないで済んだんだもの。

と思いながら、会社へ行く道中も、電車に乗っている時なども思っています。

そういう点では、高野豆腐様はまだお若いみたいですから、今生を楽しんで生きていけると思います。

お返事有難うございました。

南无阿彌陀佛

●re.80
愚尼
非公開の非公開
[ 1368 ] 末鐙鈔  【20・三毒を慎むべき事】抜書 2009/04/16 (Thu) 19:24 △up ▽down
善知識を愚かに思ひ、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり。親をそしる者を(一字ナシ)ば、五逆の者と申すなり。

浄土真要鈔末
【15・以上の宗義は善知識の教なる事】もお読み下さい。

●re.81
毎日
url 非公開の非公開

↑毎日宛にメール
[ 1376 ] Re1:末鐙鈔  【20・三毒を慎むべき事】抜書 2009/04/18 (Sat) 01:19 △up ▽down
愚尼 様

引用の意図がわかりませんので、できましたら、その意図をご説明いただけたらと思います。

これは、愚尼様が、ご自身のふだんの言動を振り返って、五逆誹謗の徒であると、ご自身を反省なさっているのでしょうか?

あるいは、私が金剛心様に対して批判的なことを書いておりますので、そのことを指しているのでしょうか?

それとも、私が「善知識は行者に尽くすべきで、その逆ではない」と書いたので、そのことでしょうか?

あるいは、他の意味でしょうか? 他の人に関することなのでしょうか?

それとも、ただ思いついて、「いい言葉だなあ」と思って、ここに書いただけなのでしょうか?

愚尼様は、自身を善知識と呼び、同時に「愚」とも呼んでいますが、そのことについては、どのように説明なさるのでしょうか? この「善知識」とは、狭義の善知識で、愚尼様は該当しないということでしょうか?

いずれにしても、不明確であると思います。

「意を汲んでください」と、愚尼様は他の書き込みにおいてお願いしていらっしゃいますが、そのようにお願いしてゆくと同時に、自身でも、意がなるべく明確に言葉になるようにと、努力してゆくのが望ましいのではないでしょうか。

私がこのようなことを書く意図は、自身が五逆誹謗の徒だからと、たとえば「地獄に堕ちるのではないか」と、あるいは、「弥陀に捨てられるのではないか」と、恐れている人がいたときに、愚尼様の引用は、曖昧であるがために、むしろ不安をあおる効果があるかもしれないと思うからです。

そのような方には、阿弥陀様は、十方衆生を救うのですから、どうかご安心してほしいと願っております。

不安をあおるのが、仏道だとは、私には思えません。

不安や恐れを消してゆこうとするのが、仏道であると考えております。

南无阿彌陀佛

●re.82
酒天童子
関東の男性
[ 1393 ] Re3:末鐙鈔  【20・三毒を慎むべき事】抜書 2009/04/18 (Sat) 21:26 △up ▽down
毎日様、泥凡夫様。

こんばんは酒天童子です。

歎異抄に

“聖人のおほせには、善悪のふたつ、そうじてもて存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもてそらごとたわごと、まことなることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか。
まことに、われもひとも、そらごとのみまふしあひさふらふなかに、ひとついたましきことのさふらうなり。そのゆへは念仏まふすについて、信心のおもむきをもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとのくちをふさぎ、相論をたたんために、またくおほせにてなきことをもおほせとのみまふすこと、あさましくなげき存じさふらうなり。このむねをよくよくおもひときこころえらるべきことにさふらう。“

また、

“親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏はまことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん。また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
そうじても存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう。“

ともあります。

毎日様、泥凡夫様はこのことを示しているのでしょうか?

聖人のこの言葉の意味を考えておりました。

すこしだけ、理解が深まった感がいたしますが、、、。

南无阿彌陀佛





《 返信フォーム》

なまえ
住所
性別
メアド(任意) (掲示板上では非公開。届いたメールに返信して、はじめて相手の方にアドレスが伝わります。)
サイトのURL(任意)
投稿タイトル
メッセージ
パスワード (記事を編集する際に必要です。)


p.ink

(C) 2007- Mainichi no Jodoshinshu All rights reserved