浄土真宗の教義について

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[ 372 ] 修浄土者常多(信巻) 2008/01/29 (Tue) 15:23 △up ▽down
◎修浄土者常多。得其門而径造者無幾。論浄土者常多。得其要而直指者或寡矣。

(大意)

浄土を修する者は、いつも多い。しかし、その門を得て、径(みち)に辿り着く者は、ほとんどいない。浄土を論じる者は、いつも多い。しかし、その要を得ていて、すぐに、指差して教え、あるいは、指で描いて教えてくださる者は、つねに、見事なまでに、少ないのだ。


(コメント)

捷径(しょうけい。近道のこと)なのですから、門を得て、径(みち)に至るならば、あっという間に、信心決定してしまいます。

(「径」は、一字でも、「まっすぐな近道」の意味です。「半径」「直径」など。)

浄土門とは言いますけれども、その「門」に辿り着くことができず、入門もできない方がほとんどです。

門に入れば、近道なのですから、すぐに信心をいただけるのです。

浄土を論じる方も、とても多いです。今の世でも、真宗を論じる方も、とても多いです。

ですけれども、その要、なくてはならぬところ、すなわち、真実行とは何かの六字の謂れを得て、指で教えてくださる方は、ほとんどいらっしゃいません。

指で教えるについては、ここでは二義を釈します。

ひとつには、念仏行者が、次第相承の善知識の場所を、指差して教えます。易行門のありかを、「こちらですよ」と教えます。

ふたつには、次第相承の善知識が、六字の謂れを、指で描くようにわかりやすく教えます。(これを、「指授開悟」と言います。)

「径造」の「造」は、「造詣が深い」などの「造」であり、「辿り着く」の意味です。

つまり、「径造者」とは、念仏行者のことです。

「或」は、「常」の意味に解して訳しました。「矣」は、叙述を強める働きをしますので、「見事なまでに」と訳しました。

なぜ、これが信巻なのか。

径造者、直指者は、信を得ている念仏行者の姿だからです。

自らが行ずるだけではなく、直指もできるようになる。そのような信をいただきます。

南无阿彌陀佛



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