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●No.43
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毎日 |
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[ 345 ] 信心為先
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2008/01/25 (Fri) 02:29
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真宗にご縁のある方で、「信心為先」を聞いたことのない方も、あまりいないと思います。
ですけれども、この真言は、多く聞き流されていると思います。
おそらくは、「易行」とも聞いていますが、「難信」とも聞いていますので、「為先」と言われても、「そんなことできない」と思い、スキップされてしまうのだと思うのです。
ですので、繰り返し、書きたいと思います。
まずはとにかく信心為先であり、弥陀から信心をいただくことが、大切であると思います。
お聖教を一文字も読んだことがなくても、信をいただくことはできますし、あくまでも易行ですから、本当に簡単です。
その後、後念相続の際に、御同行(信心の先輩方)とお聖教を確認してゆきますと、お聖教と違わぬ信心をいただいたことがわかります。
お講などで、少しずつお聖教を確認してゆきますと、やはり、書いてある通りの信心をいただいている。
この確認の積み重ねにより、信心の溝もさらわれて、うれしくてうれしくて、ありがたくてありがたくなるものだと思います。
つまり、お聖教の中に信を探すのではなくて、信を得てから、「祖師の方々と同じ信心をいただいたんだ」と、お聖教を確認してゆくことが、私のおすすめです。
南无阿彌陀佛
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[ 346 ] Re1:信心為先
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2008/01/25 (Fri) 14:52
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毎日様
おかしな質問をさせていただきます。
「信心をいただく」ことについてでありますが、これにつきましては、自己点検する 必要は無いということでしょうか。
自分で、自分の信仰が許せない。ここに問題がある。 まずは、すっと受け取れ、ここから出発せよ。という意味でしょうか。
私は、どちらかといえば「法」よりも「機」だけを問題にしておりました。 「機」が全てでした。
一念帰命 この瞬間を確認できなければ承知できない。確認しないところに 安心は無い。このようにどこかで信じていたのです。おかしなことです。 何かここに証が欲しい。証がなければ雲をつかむような話だ となります。
下記のところを読んでお尋ねする気持ちになりました。
>まずはとにかく信心為先であり、弥陀から信心をいただくことが、大切であると思います。 > >お聖教を一文字も読んだことがなくても、信をいただくことはできますし、あくまでも易行ですから、本当に簡単です。
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●re.2
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[ 347 ] Re2:信心為先
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2008/01/25 (Fri) 15:24
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現代人 様
ご質問、ありがとうございます。
>「信心をいただく」ことについてでありますが、これにつきましては、自己点検する必要は無いということでしょうか
これは、信後に、自己点検を続けてゆくのです。
信前でも、蓮師の領解文を繰り返し拝読することがすすめられますが、領解文を読む目的は、「信心いただいたかどうか、蓮師の領解とすり合わせて確認する」ことにあります。
なぜ、信前の方に、「信心の獲り方」を読ませないのかと、不思議に思ったこともありましたが、今では、わかったような気も致します。
領解文も、感謝としての述べ方ではありますが、よくよく読めば、信の獲り方は、次第相承の善知識が知っていると書いてございます。
無宿善の機にはわからなくとも、宿善の機には、見えるのです。そして、仮に無宿善の機にも、宿縁となるように、書いてございます。せめて今生で信を獲るのが無理ならば、と、そのようなお気持ちも感じるのでございます。また、宿善開発の助けにもなるように、書いてございます。
そもそも、平生業成の義は、いまでこそ知られていますが、以前は、強い批判の対象でした。ここまで広がったのも、先輩方の尽力のおかげでございます。
信をいただいたら、領解文と自らの領解を合わせます。「なるほどピッタリだ」となれば、蓮師と同じ信をいただいたのだと、よろこべます。
信をいただいたら、御文様と自らの領解を合わせます。読む程に、違わぬ信心である。これは、蓮師と同じ信をいただいたのだと、よろこべます。
御文様は、あくまでも信心の合わせ鏡であって、信後に照らし合わせてゆくごとに、うれしく、ありがたくなるものだと思います。
御文様に照らして、異なるところがあるならば、蓮師とは異なる信であり、正信をさらに求めねばならぬということです。
その信をいただくには、何のむずかしいこともなし、ただ、一心にて、弥陀をおたのみするばかりです。
当サイトにて、自己点検用のチェックリストも準備してございます。
http://shinshu.in/wakaranaikotolist
このような点検項目が、御文様には、たくさん含まれております。
お講によって異なるとは思いますが、たとえば、一通ずつ、法話にてご確認し、示談にて確認してゆくのだと思います。
お講が月1回であれば、一通ずつで、80ヶ月、すなわち、7年弱のご確認です。
調べるごとに、うれしく、ありがたい。そして、個人的な経験としての証もたまって参りませば、凡夫なりに、信心も深まるのでございます。
もちろん、凡夫の信などたよりのないものでございますが、真実信心を、多少なりとも、よろこべるようになるのでございまして、それだけでも、私には、躍り上がる程のよろこびなのでございます。
無論、このようなよろこびも頼りないものでして、私も今後、どうなるかわかりません。それでも、往生治定に変わりはございません。
さらなる疑問がございましたら、どうか遠慮なく、ご質問ください。
南无阿彌陀佛
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●re.3
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[ 348 ] Re3:信心為先
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2008/01/25 (Fri) 15:51
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現代人 様
追加でございます。
>まずは、すっと受け取れ、ここから出発せよ。という意味でしょうか。
これは、その通りでございますが、「すっと」とは何かが重要でございます。
「すっと」には、南无阿彌陀佛が含まれてございます。
「すっと」にて、南无阿彌陀佛と一体になったという、確かな自覚がないのであれば、いたずら事でございます。
そもそも、「自分は信後である」という認識が無いとすれば、異安心ですら無い、ということなのです。
領解文に付属の文如上人のご教誡にて、
◎みづからたしかに弥陀をたのみたる一念の領解もなく
との戒めがございます。
このご教誡も誠に尊いものでございまして、繰り返し御拝読することにより、領解文とは何かがよくわかるのでございます。
当流において、機は問題になりません。機をどう整えたところで、往生の役には立ちません。
「自分ではどうにもならん」と諦めて、法に頭が下がり、弥陀をたのんだものが、往生一定致します。
どうにもならんので、信を決定している行者に相談をし、たのむしかございません。そこに道がございます。易行の門へと至る道です。
ご縁がなければ、尋ねてまわったり、名号を称えたり致します。
信決定の行者に遭うことでき、そして、宿善の機と見えるならば、善知識を紹介してくださるでありましょう。
そして、次第相承の善知識が宿善の機と見れば、南无阿彌陀佛とは何か、釈尊が阿難尊者に付属した法とは何か、六字のいわれをお聞かせくださるでありましょう。
これにてはじめて、「南无阿彌陀佛」とは何かが分かり、「これまで、わからぬものをわかるとうぬぼれておった」と涙するのでございます。
このお謂れを聞き開くためには、たとえ釈尊一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、法に頭が下がらねばならぬのです。
そして、弥陀をたのみ、機法一体となりまして、捨てるに捨てれぬ信をいただきます。こんな我が身は地獄に堕ちよと望んでも、地獄に堕ちれぬ身とさせていただきます。
ついにご縁を得た弥陀は、決して離さぬのでございます。
南无阿彌陀佛
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●re.4
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[ 349 ] Re4:信心為先
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2008/01/25 (Fri) 15:58
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現代人 様
機法一体についてですが、「機」は、ご自身が参れば連れてゆけます。
「法」は、次第相承の善知識が、六字の謂れをお聞かせくださいます。
そして、他力の真実行を致すときに、機法一体となり、南无阿彌陀佛の主とさせていただき、南无阿彌陀佛と一体になることが叶います。
信後、この謂れを思い出し、憶念致しますときに、本当にありがたくて、口から自然と名号が出て参ります。
これを、御恩報謝のお念仏と申すのです。
南无阿彌陀佛
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[ 350 ] Re5:信心為先
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2008/01/25 (Fri) 19:31
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現代人 様
こんばんは。 毎日様は非常に大事なことを簡潔に申されております。 いつの日か現代人様にもこれを領解できることを私は願っております。
>自分で、自分の信仰が許せない。ここに問題がある。
なるほど。わが機を見つめてここが許せない。こうあるべきだ。ということでしょうか。 そもそも、真宗において自分の信仰心をもって信とは申さないのであります。それを自力の信と申すのであります。私はこれだけ信仰がある。これだけ弥陀をたよりにしておる。そうやって自力の信を形成してゆくのです。
そもそも、御自分で御自分が納得ゆくようであれば弥陀など必要ありません。御自分の信仰心を往生の因とし、その果を受ければ宜しいわけであります。それがどのような果になるのかまでは私には分かりかねます。
各自の信仰心などマチマチでございまして、深いようで浅いようでよく分からんものです。確認のしようもございません。であるのに、皆同じ領解になるというところにも目を向けねばなりません。5百年も経た蓮師の御文も領解できる。何故だろう?と。
思うようになれん自分がおる。まったく聖教に言われるような自分ではない。何を成しても悪しか造れん。まるで救われざる己である。自分に納得もできん。故に弥陀をたのむのではありませんか。
>まずは、すっと受け取れ、ここから出発せよ。という意味でしょうか。
「南无阿弥陀佛」を頂き、「南无阿弥陀佛」と報謝して生きる。これ以外に真宗で何が必要なのでしょうか。「たのむ一念の時、往生一定と存じ」と「領解文」にございますように、ここで「往生一定」というゴールを迎えるのでございます。これを真宗では「平生業成(信一念)」と申すのであります。そこからは報謝の生活であります。真宗は二益法門でございますのであるべき命の尽きた時(臨終一念)、報土にて覚りを得られるのであります。
>一念帰命 この瞬間を確認できなければ承知できない。確認しないところに >安心は無い。このようにどこかで信じていたのです。おかしなことです。 >何かここに証が欲しい。証がなければ雲をつかむような話だとなります。
まったくそのとおりでございますね。 故に、次第相承の善知識に逢って六字の謂れを聞き開かねばならんのであります。何も難しいことなどないのであります。老の人であっても少の人であっても善の人であっても悪の人であっても一切の人が領解できるようになっておりますので。
南无阿弥陀佛
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●re.6
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[ 352 ] Re6:信心為先
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2008/01/26 (Sat) 01:27
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現代人 様
>一念帰命 この瞬間を確認できなければ承知できない。確認しないところに安心は無い。このようにどこかで信じていたのです。おかしなことです。
泥凡夫様もおっしゃってくださっていらっしゃいますが、この直感は、おかしなことではなく、適切な内容であると私も思います。
もちろん、一念帰命のその「瞬間」そのものは、わからないでございましょう。
しかし、南无阿彌陀佛は確認できます。ですから、南无阿彌陀佛が確認できないのに、承知してはならないのだと思います。
そして、南无阿彌陀佛が確認できないところに、信心は無いと思います。
決しておかしなことはありませんので、どうか、南无阿彌陀佛をきちんとハッキリと確認でき、憶念できる信心をお求めください。
南无阿彌陀佛には、きちんと謂れがございます。
南无阿彌陀佛
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●re.7
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[ 353 ] Re7:信心為先
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2008/01/26 (Sat) 23:40
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現代人 様
大切なところですので、ことばを変えながら、繰り返し説かせていただきます。
>「信心をいただく」ことについてでありますが、これにつきましては、自己点検する必要は無いということでしょうか。
これは、自己点検してゆく必要があります。
ただし、信心そのものは自己点検が直接できませんので、「信心をいただく」ことを自己点検してゆくことになります。
そのための http://shinshu.in/wakaranaikotolist でもありますし、領解文でもありますし、御文様でもあります。
確認する程に、「なるほど、御文様と同じだ」「蓮師と同じだ」と、よろこべる信心をまずはいただきます。
確認してみて、確認が取れないようでしたら、「これは違う」と思い、確認できる信心(のいただき方)を、探してゆきます。
そのためには、まず、獲信者を探し、次に、次第相承の善知識を紹介していただきます。
>自分で、自分の信仰が許せない。ここに問題がある。まずは、すっと受け取れ、ここから出発せよ。という意味でしょうか。
自分で、自分の信仰が許せないのが問題なのは、自分の機を問うているからです。そのように求道しますと、ぐるぐる回りになってしまって、先に進めなくなる可能性が出て参ります。
法は、浄土門では、自分の中にでは無く、外に探します。知っている人を探すのです。
そして、知っている人を見つけましたら、一文不知の愚鈍の身に自らを為しまして、六字のいわれを聞き開き、真実信心を受け取ります。
ここが、求道のゴールです。弥陀から真実信心をいただき、極楽往生が治定致します。
この後、善行しようとも、お手引きしようとも、別に善行が加算されるわけではありません。弥陀をたのむ以上の善はないからです。
加算されるわけではありませんが、あまりのありがたさに、御恩報謝で行います。
このプロセスを自然にするためには、まずはありがたさを実感して行く必要があり、それには、後念相続を行います。
>私は、どちらかといえば「法」よりも「機」だけを問題にしておりました。「機」が全てでした。
この現代人様のお書き込みにより、私は、新しい発揮を得たように思います。
当流では、機の善悪は問わず、法の真偽を問うのです。
>一念帰命 この瞬間を確認できなければ承知できない。確認しないところに安心は無い。このようにどこかで信じていたのです。おかしなことです。何かここに証が欲しい。証がなければ雲をつかむような話だ となります。
完璧な証はありませんが、凡夫なりに、ある程度の確信が持てるような証は有り、そして、時を経るにつれて、真実信心のお働きを身近に体験してゆくことになるのだと思います。
凡夫にとりましてありがたい証は、信前にはよくわからなかった御文様が、「成る程、成る程」と、よくわかるようになることです。
いずれにしても、凡夫に認識のできない真実信心をただ与えてもまったくわかりませんので、南无阿彌陀佛があります。
弥陀の兆載修行は阿彌陀の3字におさまっております。
南无阿彌陀佛
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[ 354 ] Re8:信心為先
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2008/01/27 (Sun) 09:59
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泥凡夫様、毎日様ご教示有難うございます。
>法は、浄土門では、自分の中にでは無く、外に探します。知っている人を探すのです。
そうでございましたか。
私は、法は受けての側、「機」の中に「法」がどのように写っているかと言うことを自分でしっかりと確認することが必要であると思っておりました。
しかし、よく考えて見ますと、いつまでたってもOKとはなりません。無限追求になってしまいます。悩みも大きくなります。
とても善智識には遇えそうにもなし、助かりそうもなし。 もう、真宗の求道からおさらばしたいとも思っておりましたので。
でも、だからと言って本当に逃げる切ることなど出来そうもなしです。
何か私の胸に薄明かりが射したような、それでいて「もや」がかかったような気持ちがいたします ここで、法に触れることができますことはとても有難いことです。今後ともよろしくお願いします。今まで、蓮如様につきまして誤ったメッセージばかり聞かされておりました。 大きな間違いでありました。
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●re.9
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[ 355 ] Re9:信心為先
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2008/01/28 (Mon) 03:46
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現代人 様
>私は、法は受けての側、「機」の中に「法」がどのように写っているかと言うことを自分でしっかりと確認することが必要であると思っておりました。
あくまでも、「機法一体」でございますので、真実信心獲ましたならば、「なるほど一体であるなあ」というようなわかり方を致します。
御文様を読んでも、確認できます。
このような確認(「なるほど一体であるなあ」とよくわかる、御文様を読んでもよくわかる)ができるような「法」を探すということです。
もし、このような確認ができないならば、機に問題があるのではなく、「法」に問題がある、すなわち、正法では無いということです。
機を問わないのが弥陀の救いなのですから、正法に出会えば、ここに申し上げましたような確認はできるのでございます。
ですので、御文様を合わせ鏡として、信心を確認せねばならぬので、御文様に照らしまして、重なる信心を求めるのでございます。
もし、一致しないならば、他所にて信心の沙汰をせねばなりません。
>しかし、よく考えて見ますと、いつまでたってもOKとはなりません。無限追求になってしまいます。悩みも大きくなります。
もし、このように感じられるのであれば、「こんな自分では無理である」と匙をなげ、弥陀の救いを探しますことを、我らはおすすめ致します。
>とても善智識には遇えそうにもなし、助かりそうもなし。もう、真宗の求道からおさらばしたいとも思っておりましたので。
宿善の機は、必ず今生にて救われます。
すべて、弥陀のお育てであり、お導きであると思います。
現代人様に宿善が有るか否か、私には、わかりませんが、宿善の機は、どこかで、正法を求め、出会い、弥陀に救われるはずでございます。
>ここで、法に触れることができますことはとても有難いことです。
ここで触れることができますのは、あくまでも、法の周辺でございます。
法そのものは、次第相承の善知識に会いまして、聞き開かねばなりません。
それでも、法の周辺でも、触れ合っていただけるのであれば、何かのご縁になるかもしれませんので、私はうれしいのです。
そしていつか、弥陀の救いに出会い、弥陀に救われますことを、願っております。
>今まで、蓮如様につきまして誤ったメッセージばかり聞かされておりました。
このHPや、ジャンヌの過去ログをご参考に御文様を読んでゆきますと、わかりやすくなるのではないかと思います。
信前であれば、わからぬ所が残らねばなりません。
そこが、わかるようになったかどうかで、信心いただいたかどうかを確認できます。
御文様は、宿善の機には、必ずわかる謂れがございますから、私は御文様をおすすめするのでございます。
南无阿彌陀佛
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●re.10
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[ 366 ] Re10:信心為先
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2008/01/29 (Tue) 03:07
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現代人 様
大切な大切なことですので、さらに追加して申し述べます。
◎『御文』はこれ凡夫往生の鏡なり。『御文』のうへに法門あるべきやうに思ふ人あり。大きなる誤りなりと云々(聞書177)
御文のうえに法門があるのではありません。法門は、浄土の秘けいにございます。
この門を開けるには、次第相承の善知識の実語が要るのです。
極楽浄土の教主阿彌陀如来の化佛と通じ、無上両足胸中極速稽首往還不可思議光如来勅命行者来迎帰命により、信後の姿にさせていただきます。
信後、御文をひもときますと、いただいた信心が書いてあるばかりです。
南无阿彌陀佛
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