浄土真宗の教義について

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●No.31 admin 
毎日
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[ 278 ] ただ是非を糺明し・・・ 2008/01/08 (Tue) 11:38 △up ▽down
◎ただ是非を糺明し邪正を問答する、なほもつてかくのごとく厳制におよぶ(改邪鈔)

特に現世的な利益がある必要もないのですが、お聖教を読んでいると、論理力も高まります。

(もちろん、真宗においてもっとも重要なことは、信を穫り、極楽往生治定することです。)

字書を引けば、ことばの知識も身に付きます。

信心の沙汰を行ってゆくと、心も強くなったり、清くなるような気がします。

相手の方を許したり受け入れる心が広くなったり、自らを見つめることもできます。

さまざまな意味で、無上方便であると感じることが多いです。

信をいただけば、多大なる現世利益もいただけます。

真実信心いただくだけで、何よりも素晴らしいのですが、さらに加えて、現世利益も確かにいただけるのです。

さて。引きました改邪鈔ですが、「糺明」とは、「罪や悪事を問いただし、悪いところを追及して明らかにすること」(広辞苑)。

「糺」は、「糸できつく縛り上げる」のような感じで、現代では、「糾」で代用します。

例)糾弾(きゅうだん)、糾正(きゅうせい)、糾謬(きゅうびゅう)、糾問(きゅうもん)

「糾」の字の右半分(旁、つくり)は、「叫」の右半分と同じです。「叫」は、「口をしめあげる」という感じです。

「糾」の草書体からできたのが、「糺」で、特に「正す」の義で用いられます。

よって、「糺明」は、「ただし、あきらかにす」と読めます。

つまり、「是非を糺明し」とは、「是か非かを、(問い)ただし、明らかにし」ということです。

また、「邪正を問答し」というのは、「邪か正かを、問い、答え」ということです。

これは、厳禁であると、戒めていらっしゃいます。

「是か非かを問いただし、明らかにしたり、邪か正かを、問い、答えたりすることだけでも、それによって、このように、きびしく制することになる」

「制」というのは、「はみ出たふるまいを押さえる」という意味です。

「かくのごとく(このように)」というのは、前文(引用したところのさらに前の文)にあります「七箇条の御起請文」の内容のように、ということです。

「に及ぶ(ことになる)」というのは、そのようなふるまいの帰結を指しています。

振り返って我が身を省みますと、この線を踏み越えていると思います。

その帰結として、法然聖人がいらっしゃれば、「七箇条の御起請文」への署名を求められることになるでしょう。

つまり、私は、掟を守れていません。何ということでしょうか。

これでは、いけません。うつくしき念仏者であるために、これから、さらに気をつけます。

これは、私の煩悩が、反射的に機能するからです。

本当に、凡夫です。同じ事を表現するのでも、言い方を変えねばならぬと思います。(御文様や歎異抄第十二条にも、例が解説してございます。)

しかし、掟をいただいていますから、それを実行する気持ちが出てきます。

それは、私が敬うものをいただいたからです。

このような方面からも、無上方便と感じ、感謝申し上げる次第です。

このように考えて行きますと、では、「是非の糺明や、邪正の問答」と「信心の沙汰」とは、どう違うのかを捉えることが、実践上、大切になるのではないかと思います。

このようなことを考えますのは、私自身、実践しながら、疑問に思うからです。

そうなると、やはり調べてゆくのは、お聖教であります。

●re.1
菩提心
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[ 279 ] Re1:ただ是非を糺明し・・・ 2008/01/08 (Tue) 07:23 △up ▽down
毎日様

>そうなると、やはり調べてゆくのは、お聖教であります。

毎日様の書き込みより、私も又、そこを調べて見たくなります。

真実信心頂ける前は、本当に勉強する等、大嫌いでした。

でも、今は、御文と、辞書を持ち歩いています。

先日も、善知識様のお宅で、初めてお聞きするお言葉や、字の謂れを知ることが出来ました。

きっと、蓮如上人の時代も、膝突き合わせて、御法談されておられたのでしょうね。

こういう時間が持てましたのも、全てお導き故の事でしょう。

ここまで来る道程には、一つも無駄な事は無かったのだと思います。

苦しんで来た涙も、今は喜びの涙に変りました。

まず、人間に生まれ、浄土真宗とご縁頂いたことは、最大の喜びです。

又、この頃、つくづく思うことが有ります。

自分の心が、弥陀の本願より変えて頂いたのだなと思えるのです。

「外儀のすがたは変わらねど」では有りませんが、

私の姿は全く変わらないのに、なぜかすごく全ての事柄において、感謝の気持が出てきます。

昨晩も、JRに乗ろうとホームで待っていますと、高校生の(2、3度挨拶を交わしています)、彼女が、後ろから私の肩に手をかけて、すごく素敵な笑顔をしてくれました。
こういうちょっとした事でも、私は嬉しくなるのです。
車中で、彼女の会話の端々から、友達から意地悪を受けていることを知りました。
私は、彼女の味方になってあげようと思いました。
いつも、彼女をそれとなく励ましてあげたいと思います。
そういう高校生ばかりでは有りませんが、今は挨拶を交わす人が増えてきています。

こういう日常的な些細な事柄でも、嬉しいなと思えるのです。

そして、毎日様がどのようなお方かも全く知らないのに、この掲示板を通して、色々のお話聞けるのが、とても有り難いです。

宜しくお願いいたします。

●re.2 admin 
毎日
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[ 342 ] Re2:ただ是非を糺明し・・・ 2008/01/22 (Tue) 13:57 △up ▽down
菩提心 様

最近、讃嘆や、歓喜の書き込みがなされているわけですけれども、「信心の沙汰」の基本は、自らの信心を表現して行く事だと思うようになりました。

信前の方であれば、いろいろな方の領解を聞いているうちに、宿善の機であれば、真実信心に惹かれることでしょう。

私としても、自分が偽物か本物か、本当の意味ではわからないので、はからわずにあらわにして行って(もちろん、掟は守るのであって、これは、自分の領解や気持ちを、ということです)、それでなるようになるのだと思っています。

もともとあさましい自分ですので、否定されても、仕方がありません。

うれしいのは、本当なので、究極の所は、嘘か本当かわからないままで、本当だと思っていますし、すごくうれしいですし、浄土に往けるのが楽しみです。

「ああ、ありがたいなあ」と思えるようになりました。

もちろん、これは自力の気持ちですので、今後も揺らいだりすることはあると思います。それでも、それでも良いことがうれしいです。信後のすがたも問われないことがうれしいです。問われないままで、掟もいただけることがうれしいです。

「戒を受けるよろこび」というのは、信前はわかりませんでしたが、今はわかります。いろいろと、うれしいです。

このように現してゆくだけで、ご覧になっている方が、自然と自分に照らしますので、いろいろ表現してゆけば、信心の沙汰になると思います。

そして、ご相談されてくる方にお話するのは、良いことと思いますので、流れにのってゆけば良いのだと思います。すべて、弥陀が導いてくださっているのも、うれしいです。

南无阿彌陀佛



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