浄土真宗の教義について

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●No.3 admin 
毎日
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[ 5 ] 三願転入について 2007/11/26 (Mon) 01:24 △up ▽down
三願転入の「三願」というのは、弥陀の18願、19願、20願のことです。

「転入」とは、「転じて」「入る」ということで、「転じる」とは、「方針が変わる」ということです。

まずは、19願に入ります。そして、方針が転じて、20願に入る。そして、再度方針が転じて、18願に入る。

このようにして、三願に転入してゆきます。

詳しくは、ご開山(親鸞聖人)の『教行信証』という本の「化土文類」という章に書いてあるのですが、たぶん読んでもよくわからないと思います。

そこで、わり切ってご説明するならば、

19願 → 良いことをしようとする →(ほとんどの人にとっては)自分では無理とわかる→転入

20願 → 名号(なむあみだぶつ)を一生懸命に唱える → 臨終のときまで、浄土に往けるかがわからない →転入

18願 → 真実の行 → 生きている間に救われて、この世から去るときには、あっと言う前に極楽に往くことができる

(さらにその後)→ 浄土に往ったらば、菩薩行をするために還ってくる(22願) → 滅度(悟り)に至る(11願)

これで、説明になっているでしょうか。かえってわかりにくくなっているかもしれません。やはり、生身の、気さくな、質問しやすい有縁の方に出逢うことがおすすめです。

もちろん、救われるためには、「三願転入」がなにかを知る必要もなく、「弥陀をたのめば救われる」と知って、救われている方にお会いすることが大切です。

しかし、すぐにおたのみできる気持ちになる方も少ないですので、まずは、あれこれ疑問を解消してゆくことになることが多いのではないかと思います。

●re.1
おやおや
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[ 15 ] Re1:三願転入について 2007/11/26 (Mon) 14:42 △up ▽down
http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/next/kaisetu-s.htm

毎日様

僕は、親鸞会のお話では、三願転入が、なぜ19願から20願、そして18願にいくのか、なかなか理解出来ませんでした。
単純に18願、19願、20願ってしてくれた方が、僕ら凡夫には分りいいのにと思っていました。

親鸞会では、特に三願転入を強調していました。又大経下巻冒頭の18願成就文を、よくご説法で話されました。
18願文では、「至心 信楽 欲生我国」及び「一念」のところを聞いてきました。

これらには「衆生」が書いてあると思うのですが、毎日様はどう思われますか?
十方衆生とは人間だけでなく、生きとし生ける全ての者とは聞いてきたと思います。

僕は、教学はとんと駄目なので、参考に、親鸞会のHPや親鸞会ナビを検索して頂くと、嬉しいです。

しかし、上記のような、箇所を検索していくと、どうも三願転入の(18・19.20願)よりも、11願とか、17願とか、22願に重きを置いているようです。

例えば、
親鸞聖人の「教行信証」の教には、
【一】謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向有り、一つには往相、二つには還相なり、往相の廻向に就いて、真実の教・行・信・証有り。

と書いてあります。
と、いうことは、親鸞聖人は、ここを一番に強調したかった筈ですよね。
ならば、
11願(必至滅度の願・往相証果の願)や、17願(諸仏称名の願・往相正業の願)、又22願(一生補処の願・還相廻向の願)の方を重要視するべきだと思います。
しかし、ここの話しはあまり聞いていません。

又、よく親鸞会では「三重廃立の教え」を、教行信証の話をする時に聞いていたようです。
(僕は、あくまで末端会員だったことを考慮して下さい、ですから、真宗聖典も決まった場所しか印がしてありませんので、そこからしか質問出来ません、よろしくお願いします)

●re.2 admin 
毎日
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[ 16 ] Re2:三願転入について 2007/11/27 (Tue) 08:37 △up ▽down
おやおや 様

リンク先ですが、私もよくお世話になっています。

ご聖典のオンライン検索まで可能ですし、大教団ならではの事業であると思い、常々感謝しています。

ご聖典(特に、ご聖教)というのは、読んでそのままわかるようには書いてないのです。

なぜなら、そのように構成すると、「わかったつもり」になる方がたくさん出てくるからです。

ですので、わかるまでは、「わからないところが残る」ように構成されており、すべてをわかり切ることもできず、わかってくると、わかる場所が増え、その深さがわかる、というようなものです。

つまり、ご聖典というのは、読んですっとわかるようには、書いていないのだと思います。そのような書き方では、言葉だけをくり返し、わかったつもりになる人ばかりが増えるからだと思います。

人間のことばで書いてありますが、その智慧がすばらしく、人智とは思えないレベルですので、尊いと打ちのめされるのです。

「至心 信楽 欲生我国」及び「一念」も、どのようにしたらいただけるのか、善知識様が教えてくださいます。凡夫が努力して達成することではないのです。

18願に書いてあるのは、念仏衆生であると私は思います。

「至心信楽欲生我国、乃至十念」の部分が本願念仏です。

「十方衆生、至心信楽欲生我国、乃至十念」が、念仏衆生です。

48願について、御本典から述べますならば、

真実の教とは大経。すなわち、南无阿彌陀佛。すなわち、18願。

ですから、「弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり」のところは、「佛願の生起本末」であり、南无阿彌陀佛です。

「佛願の生起本末を聞く」とき、経の体とは、おやおや様そのもの。

そして、「真実の教え」であるとわかります。

その他の教えは要らず、しかも、この教えがなければ、凡夫は助からないからです。

真実の行とは、17願。これにより、非行であり、他力の行であるとわかります。

真実の信とは、18願。

真実の証とは、11願です。

往生の正因は、信心ですので、信は18願から来ますから、ここを本願とするわけです。

しかし、凡夫は、その信を自分で取ることができませんから、行を他力とします。ですから、17願があります。

教→行→信→証と来て、ここには三願転入のお話は書いてありません。

三願転入は、化土門類に書いてあります。これは、どこに相当するのかと言えば、

化土門類→教→行→信→証

と、「真実の教」の前になります。18願に転入すれば、真実の教えに辿り着いたからです。

◎ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり(化身土文類68)

48願を立てるのに、弥陀は五劫も思惟なさっています。菩薩の智慧で、五劫かかってできたのが、48願です。私の智慧では、とてもではありませんが、そのすべてを解することができるはずがありません。ただ、凡夫が救われる道でもありますので、その道の辿り方だけはわかるのです。

また、22願ですが、おやおや様がご引用下さった、

【一】謹んで浄土真宗を按ずるに二種の廻向有り、一つには往相、二つには還相なり、往相の廻向に就いて、真実の教・行・信・証有り。

からはじまって、ここからずっと、「往相の廻向に就いて、真実の教・行・信・証」が書いてあるのが教行信証です。そして、この部分は、証文類の、

【一三】それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり

と呼応していて、その次の、

【一四】二つに還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。

これが、22願です。(ただし、信文類にも、還相廻向が少し出てきます。これについて、私見はあるのですが、ここではお書きすることは避けます。)(そして、この部分が、【一】の「二つには」と呼応しています。)

これで、お答えになっていますでしょうか。おやおや様の書き込みのすべての点についてお答えできていませんし、間違いもあるだろうと思いますし、話題が話題なので、きちんと答えられる自信もありません。それでも、また、さらに質問などありましたら、私で構いませんならば、遠慮なくご質問いただけたら、うれしいです。

●re.3
ちんぴー
大阪の男性
[ 225 ] Re3:三願転入について 2007/12/31 (Mon) 03:03 △up ▽down
>19願 → 良いことをしようとする →(ほとんどの人にとっては)自分では無理とわかる→転入
>20願 → 名号(なむあみだぶつ)を一生懸命に唱える → 臨終のときまで、浄土に往けるかがわからない →転入
>18願 → 真実の行 → 生きている間に救われて、この世から去るときには、あっと言う前に極楽に往くことができる

ちょっとだけ。
転入は十八願弘願に入るときのみ使われます。
十九願要門から二十願真門に入るときは「回入」と化巻に書かれています。
それまでの自力的なあり方が他力的な方向に転換されるため「転」の字が使われ、
要門から真門へは自力的な方向は変わらないので「転」は使わないといわれています。

>(さらにその後)→ 浄土に往ったらば、菩薩行をするために還ってくる(22願) → 滅度
(悟り)に至る(11願)
信巻
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

往生即成仏が真宗ですから、臨終し往生すれば即仏です。
二十二願の還相は弥陀同体の悟りを得てからです。
ただ仏と同体の悟りですが仏の相を取るわけではありません。
二十二願の一生補処の菩薩は悟りを得た者が、菩薩の相をとって還相することを意味しています。
阿弥陀仏が積んだ五念門の行によって悟りを得て、五果門の五番目の園林遊戯地門の果を得るわけです。

●re.4 admin 
毎日
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[ 226 ] Re4:三願転入について 2007/12/31 (Mon) 03:48 △up ▽down
ちんぴー 様

お書き込み、ありがとうございます。

「回」と「転」について、勉強になりました。

また、お時間ありましたら、第二十二願につきまして、
もっと詳しく教えていただけたら、うれしいです。

南无阿彌陀佛



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