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[ 233 ] 紙一重の違い
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2008/01/06 (Sun) 21:11
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明けましておめでとうございます。 掲示板には毎日様からのお知らせで、ジャンヌ以来久しぶりに書き込みをさせていただく縁にあずかりました。
毎日様におかれましては、すばらしい掲示板を作られたようで、この掲示板が、かつてのジャンヌ掲示板(現在は視る気もしませんが)のように、浄土真宗の本来の教義やあり方を率直に問いかけて意見交換ができるようなみんなの掲示板へと育っていくことをお祈り致します。
さて、私自身のことですが、仏教に出会う前は、高校生の時に読んだルソーの「エミール」が原点となっていました。人間は生まれたときには動物と変わりないけれど、教育によって育ち、人間となっていくという視点。書物の影響で、人間はあくまで生まれた時には平等で、白紙な存在なんだという観念を持ったことを覚えています。あとは、社会や教育によって差別が生まれるのだという世界観を信じて生きていた頃を思い出します。 ところが、現実には社会に制度や教育以前の問題として、一人一人が生まれながらにして千差万別で、しかも、老少不定に「死」が訪れてしまう。
やがて、人間というのは自分自身の問題を抜きにして、社会や教育を問題にしても片手落ちなのに気が付くようになりました。
自分自身の問題で一番大きいのは「死」の問題ではないかと感じました。しかしながら、この問題に目をつぶってしまうと、人に迷惑をかけなければ、死ぬまでの間、どう生きようが各自の自由ではないかとも感じました。
自身の「死」をテーマとしたとき、いろんな宗教があり、その中に浄土真宗と呼ばれる教えがあることを教えていただきました。
浄土真宗の教えには「獲信」とか「平生業成」といった一般の宗教では聞かれない言葉とその言葉が示す意味があり、たいへん興味を引かれました。それらの言葉は、生き方を問題にしているところから生まれた言葉ではなく、死に方を問題にしているところから生まれた言葉であることに興味を惹かれました。
世間一般で死を問題にするというと、葬式に関連する一連の行事の中に組み込まれたお寺さんによる読経がありますが、お寺には特に興味を惹かれるような教えが無いと感じている昨今です。慣例としての読経はともかく、説教になると、浄土真宗のお寺さんでは、人は亡くなった瞬間に浄土に参っていると教えながら、一方で葬式〜定期的な法事をする必要性や、生前はおかみそりや院号、法名といったものに値打ちがあると教えていますが、いずれ内部の矛盾を世間から問われ、やがて見直しを迫られる時代が訪れるはずです。
話があちこち飛んでしまいましたが、ここで私が話題にしたいのは、親鸞会が教える浄土真宗と、親鸞会で示すところの真実信心。そしてもう一つはこの掲示板で示されているところの浄土真宗と真実信心の間の紙一重の違いは何なのか、というテーマ。
親鸞会の信心というのは、要するに、高森顕徹さんの信心のこと(ですよね)。 ジャンヌ掲示板では、高森顕徹さんの信心は自身の固有の体験や思い込みによるもので、他力によって授かった信心ではないと繰り返し示されてきました。
高森顕徹さんの話から受ける私の印象は、若い頃の獲信体験だけを繰り返し話をされていたとは思わない。問題となっている自力と他力の違いもむしろ厳しくその違いを示されていたと思います。聞いてわかったのは信心ではない。自力の信心は知恵や学問、あるいは思い込みによるもので、継続性が無いが、他力より賜った信心は、他力という言葉から受ける印象は弱いようだが、金剛心で継続性があり、命が終わった瞬間に浄土に行くことができる、とされる点では、掲示板の人たちが示される信心と極めて似ているというか、完全に一致しているとさえいえます。
紙一重の違いがあるとすれば、信後のあり方ではないかと考えています。掲示板でよく問題となる「掟」も信後の問題だと思います。仮に、信後における掟があり、それを破ったら信心そのものも真⇒偽になるとは思いません。
今回は私の率直な感じ方を書かせていただきました。
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[ 234 ] みちくさ様 お久しぶりです
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2008/01/01 (Tue) 21:14
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あけましておめでとうございます。
こういうやりとりを、過去ジャンヌにおいて、泥凡夫様、愚尼様、みちくさ様のやりとりを、まるで昨日のように覚えています。
あれから、2年ぐらいになるでしょうか?
もう、みちくさ様は、次第相承の善知識様にお遇いされて、真実信心頂けたと思っていました。
みちくさ様には、ご縁ある、泥凡夫様、愚尼様、毎日様がおられて幸せなお方ですね。
一日もはやく、頭を下げて、「次第相承の善知識に遇わせて下さい」と、ただそれ一つなのです。
でも、そういう私も、みちくさ様とお話していた頃は、真実信心ではなかったのですが、今は、本当に御文と「割符」が合いますので、とても嬉しいです。
是非、不審は、この掲示板をご縁に晴らして欲しいと思います。
私が、みちくさ様に対しての、お礼の気持でも有ります。
あの時、みちくさ様がずっと、愚尼様に尋ねておられなかったら、この私が、今このように書込みしていることもなかったでしょう。
私は、お蔭様で、毎日様、泥凡夫様と一味同行の身にさせて頂きました。
みちくさ様も、はやく一緒にとの思い一杯です。
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[ 235 ] Re1:紙一重の違い
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2008/01/01 (Tue) 21:52
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みちくさ 様
明けましておめでとうございます。 お久しぶりでございます。泥凡夫でございます。 お元気そうで何よりでございます。元旦から御熱心な御主張に頭が下がります。
みちくさ様の御主張、よく分かります。
>自分自身の問題で一番大きいのは「死」の問題ではないかと感じました。しかしながら、この問題に目をつぶってしまうと、人に迷惑をかけなければ、死ぬまでの間、どう生きようが各自の自由ではないかとも感じました。
「老」「病」「死」はそもそも不可避のものであります。特に「死」に関しては完全不可避のものであります。かの釈尊ですら、死は避けられんかったわけであり、我等如きが避けられるものではありません。しかし、みちくさ様の御主張も一理あるのです。周囲を見渡して下さい。家族・知人・友人のように近しい人の死に直面した時、人は死について考えを至らせますが、残念ながら時と共に忘れて、自分が死ぬとは思ってもおらんのです。
まして後生の一大事など思いもせんし、そんなことを言っておる我等真宗門徒を奇異の眼で見る人など、それこそ山のようにおられます。良いか悪いか、満足するか満足せんか、他者に迷惑を掛けるか掛けんか知りませんが、とりあえず一生懸命に生き、それで死に臨まれます。死後のことなどありはしない。という「無の見」を「信じて」おる人々にとって、日々助かりたい。助けて欲しい。などツユチリほども思いもせんし、助かるための計らいなど何処にもありはしません。当然、後生に何の疑いもありはしません。もともと無いものであると金剛のように信じておられるのですから。いわんや、小さな子供も、生まれつきそういった思考すらできん障害のある人ならなおのこと。
かつて、いや、今でもあるやもしれませんが、「この人(国家)のためになら喜んで死ねる。」そういう固い信念を持っておられるお方は、「その人(国家)のために」喜んで息を切って亡くなっております。近くは戦国乱世、日本人の記憶にある第二次世界大戦の時も。平時でも数えきれんほどあるでしょう。人類発祥以来きっと続いてきたことでしょう。この方々は日々、後生のために何か善行を積みもせんし、助かりたいために念仏も唱えることもないのです。(すべてがそうであるということではなく喩えであります)
逆に真宗に御縁あったばっかりに、後生の一大事が気になって気になって仕方ない。何も聞かんかった頃の方がもっと計らいの心が無かったのではないのか?そのように思われる人もおるでしょう。
御文をご覧頂くと分かることですが「後生たすけたまえ」とありますが、「後生に疑い晴れる」とは一ヶ所もないのです。「後生に疑い晴れる」を持って「信決定」ではないからであります。「弥陀をたのむ」をもって「信決定」であるからであります。ここを誤れば真宗ではなくなるのであります。誤れば「難行の道」が待っております。
>世間一般で死を問題にするというと、葬式に関連する一連の行事の中に組み込まれたお寺さんによる読経がありますが、お寺には特に興味を惹かれるような教えが無いと感じている昨今です。慣例としての読経はともかく、説教になると、浄土真宗のお寺さんでは、人は亡くなった瞬間に浄土に参っていると教えながら、一方で葬式〜定期的な法事をする必要性や、生前はおかみそりや院号、法名といったものに値打ちがあると教えていますが、いずれ内部の矛盾を世間から問われ、やがて見直しを迫られる時代が訪れるはずです。
これは御尤も。残念ながら、現在の真宗の多くの寺院は「習慣としての真宗」に重きを置きすぎて、釈尊付属の法はまったく伝わっておらんようですし、真宗の入口である「甘い果実」のお話すらせん所が圧倒的であります。ただ、そういった現状を私はそれほど驚きもしませんし、嘆きも致しません。既に蓮師の時代には現在とたいして変わらん有様であったのであり、御文にはそれがありありと記されております。どれほど時が過ぎようと人間の実相と申しますか、そういったものが変わらんよい証左であると思います。
>高森顕徹さんの話から受ける私の印象は、若い頃の獲信体験だけを繰り返し話をされていたとは思わない。問題となっている自力と他力の違いもむしろ厳しくその違いを示されていたと思います。聞いてわかったのは信心ではない。自力の信心は知恵や学問、あるいは思い込みによるもので、継続性が無いが、他力より賜った信心は、他力という言葉から受ける印象は弱いようだが、金剛心で継続性があり、命が終わった瞬間に浄土に行くことができる、とされる点では、掲示板の人たちが示される信心と極めて似ているというか、完全に一致しているとさえいえます。
みちくさ様にはそのように映るのですね。それはそれで結構であると思います。何が同じに見えておるのか、私には分かります。真宗の「甘い果実」が同じように見えておるだけであります。
>紙一重の違いがあるとすれば、信後のあり方ではないかと考えています。掲示板でよく問題となる「掟」も信後の問題だと思います。仮に、信後における掟があり、それを破ったら信心そのものも真⇒偽になるとは思いません。
信後のあり方については、聖教を読み込まれればそれなりに見えてくるものもございます。「掟」についての釈です。当流に「定めおかせられる御掟」を破ったから信心が無くなる。と釈しておられる場所なり団体があるのであれば、それは真宗ではなくなるのであります。そもそも「観経」にあるとおり弥陀の「念仏衆生 摂取不捨」のお誓いを何だと心得ておるのか。と叱り飛ばしたくなります。
覚えておられるか分かりかねますが、抑止門はあくまでも「正法誹謗」を避けるためのものであります。縁ある方々に重罪を犯させんための深い深い御配慮であります。かつて蓮師の御文を引用して、この抑止を申して参りましたが、これは別に蓮師の新開発ではないのであります。お時間があれば、真宗聖典全般と七祖の論釈をよくご覧になると宜しいと思います。はっきりとそれが記されておりますので。
御開山の「教行信証」も大半は引用文の集まりであります。「三部経」と他の経典、「七祖の論釈」を抑止を守りながら釈して下さったものであります。御開山は「七祖」を「高僧」であると非常に敬われておられますね。何故なら、全て一本に繋がっておるからであります。
この濃いエッセンスを蓮師はさらに濃縮されて「御文」という形で後世に残されました。「御文」だけ拝読されるも結構でありますが、「七祖の論釈」や御開山の「教行信証」をはじめとする真宗の聖典をそれぞれを手繰って拝読されてみることが御縁となるお方も居られる筈です。無理にそんな複雑な作業をやれとは全く申しておりません。誤りなきように。
とりあえず、高森様の申されることが正意であるとお感じであるのであれば、まず一生懸命に聞法されることです。それで満足ゆく結果が得られるのであれば、それはそれでみちくさ様の有縁の道であります。私共もそうでありますが、そもそも真宗は無理に聞いて頂くことなど無いのであります。聞きたい人は聞けばよし。聞くも聞かんも既に御自分の過去世の種蒔きの結果でありますので。これを指して、「宿善任せ」と申すのであります。
南无阿弥陀佛
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[ 236 ] 済みません、それでもあえて一言。
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2008/01/01 (Tue) 23:09
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ジャンヌでも、私は、みちくさ様に疑問を投げかけたと思います。
私は、親鸞会の会員でした。
でも、みちくさ様は会員では有りませんでした。
それでも、いまだに会長先生から聞いたお言葉から離れられないようです。
しかし、時には以下のようなところも読んで見られたらと思います。
http://sayonara1929.txt-nifty.com/
私は19歳の時に、親鸞会とご縁頂きました。
その時から、ずっとお世話になっていた人がいます。
その方は結婚もせず、ずっと親鸞会と共に歩んで来られました。
そして、最近聞いたことですが、親鸞会で、無農薬野菜を作っているそうです。
身体もスリムになったと聞いていますが、それも言い方ですね。
教えが正しいのなら、どうしてこのような書込みが乱立してくるのでしょうか?
「人生の目的」は信心決定すること、それが出来ない者は無間地獄に堕罪すると聞いてきました。
その目的が、いつの日か、苦しんでいる人を生み出してきている現実があるのです。
そして、私のように苦しんで、何処かに助かる道はないかと探す者が出てくるのです。
おかしいとは思われませんか?
お釈迦様がそのように教える訳がある筈がないのです。
みちくさ様は、みちくさ様の道を歩まれれば、それで宜しいでしょう。
でも、時には、現実をしっかり見据えて欲しいと思います。
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●re.4
admin |
毎日 |
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[ 237 ] Re1:済みません、それでもあえて一言。
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2008/01/02 (Wed) 17:43
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みちくさ 様
明けまして、おめでとうございます。 本年は、元旦から、みちくさ様のお書き込みを拝することできまして、誠にうれしい年であります。
みちくさ様は、私にとりまして、(広い意味における)善知識です。 もちろん、ジャンヌも、善知識です。
みちくさ様と泥凡夫様のやりとりを、幾度拝読したことでしょうか。
みちくさ様がいつ信をお穫りになるのか、私のあずかり知るところではありませんが、これだけ多くの方にご縁を与えてくださった方ですから、きっといずれ弥陀に救われるものと思っております。
高森会長の信心に、私はあまり興味がないのです。
もし、本物であれば、素晴らしいことですし、偽物であるのであれば、救われて欲しいと思います。いずれにせよ、多くの方に、真宗をご紹介くだされた方です。
紙一重の差は、簡単です。
「弥陀をたのんだか否か」です。
「弥陀をたのむ」というのは、次第相承の善知識に教わりました方法で、自力で弥陀をたのむのです。
自力で弥陀をたのみますと、その途中から、他力となり、また自力でおわります。(このおわる時には、真実信心を獲ております。)
このような法に基づいて、弥陀をたのんだかどうかということに尽きます。
この経験の有無が焦点です。
これを、「凡夫が生涯ただ一度の行で満足する南无阿彌陀佛」のように私は申しております。
「信心決定の南无阿彌陀佛」とも申しております。
「100発100中の南无阿彌陀佛」とも申しております。
このような南无阿彌陀佛を体験されたかどうかです。
信心は、一度決定されましたら、金剛ですから落とすことはありません。
極楽往生治定も、一度定まりましたら、変わりません。
みちくさ様のお書き込みを拝することできて、大変うれしく思っております。
南无阿彌陀佛
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[ 238 ] 済みません。敢てもう一言(しつこいですね)
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2008/01/02 (Wed) 07:08
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みちくさ様
直に、あなたとお話したこと有りましたよね。
その時の状況が、はっきり蘇ってきます。
せっぱつまって、あなたに助けを求めましたが、あなたのおうようさが、今は懐かしく思い出されます。
あなたには、私の今いる状況がどんなものか全く把握して貰えないのです。 私は、仕事場から飛んで帰り、何とかその状況を解決したいと思い、必死に自宅のパソコンから、ある掲示板にコンタクトを取り、何とか事なきを得ました。 あなたにお電話したのは、パソコンにうとい私でしたので、お知恵をお借りしたいと思ったからです。
私は、雨の中を自転車をこぎながら、あなたと電話していると言っているのに、あなたは、ただ私の信心が真かどうか確認したいものだから、そればかり質問していましたよね。
あなたは昼食も済んで、事務所の中から、私の着信履歴を見て電話して下さいました。 でも、日本って、広いですよ。あなたのところでは雨が降っていなくても、私はJRの時間も間に合わなくなり、雨は段々と激しくなり、途中ようやく雨宿りの場所を見つけて、そこでお話を続けていました。その電話で、私がその菩提心ですよと言って、初めてビックリされたことです。
私の方がビックリです。ジャンヌの何処を読んでいたの?とがっくりしました。
そして、今思うことは、毎日様や私は、本当に助かりたいと思って、必死に過去ログ読んでいたんだと思います。
それでも、毎日様は、すぐに真実信心の御縁を頂きました。
でも、私は、回り道をしなければいけませんでした。
随分とそこでも、お世話になっておりましたので、毎日様や泥凡夫様のところに御縁頂きましたが、それはごく最近のことです。
今は、このように毎日様、泥凡夫様と共に書込みさせて頂いていますが、お二人とは違い、本当に智慧なき身です。
でも、色々な立場で、この掲示板を眺めている人がおられると思います。 その一助にでもなればと思い書き込みしています。
正月早々、息子や娘夫婦に囲まれていますが、みんなから、ドジ扱いされています。 本当に、馬鹿にされています。(掟がありますので、この道は知りません)
でも、私の顔はにやけています。馬鹿扱いされればされる程、 思わず「阿弥陀様、嬉しいです。助けて下さって有難うございます」と念仏が出てきます。 そして、お二人に身を任せていられるような心地よさがあります。
南无阿彌陀佛
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[ 252 ] 突然すいません
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2008/01/04 (Fri) 09:35
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おはようございます。横レスですが以下の毎日様のレスについて質問させて下さい。
>「弥陀をたのんだか否か」です。
>「弥陀をたのむ」というのは、次第相承の善知識に教わりました方法で、自力で弥陀をたのむのです。
>自力で弥陀をたのみますと、その途中から、他力となり、また自力でおわります。(このおわる時には、真実信心を獲ております。)
自分は、一度他力になったらずっと他力だと思っていました。 「また自力でおわる」とはどういうことなんでしょうか? 出来れば、お聖教上でもそれに関するお言葉を示していただけると幸いです。 お忙しい中ごめんなさい。 この点はどうしても知りたいと思いました。よろしくお願い申し上げます。
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[ 253 ] みちくさ様 嬉しいです
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2008/01/05 (Sat) 09:40
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ここで尋ねて下さって嬉しいです。
朝から、どうしたらみちくさ様に分って頂けるかと考えていました。
ここにみちくさ様が書き込みしていることも知らず、その他に書きこんで、今、ここを開けて見ました。
本当に、本当に嬉しいです。
ジャンヌのように、みちくさ様の信心決定もさることながら、きっとジャンヌの時のように後に続いて来られる人が現れることでしょう。
その他も読んで見て下さると嬉しいです。
おいおいと書いていきます。
7様
みちくさ様と間違えてごめんなさい。
そちらの方の書込み、毎日様から教えて頂きました。
早く一味同行なれるといいですね。
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●re.8
admin |
毎日 |
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[ 254 ] Re1:みちくさ様 嬉しいです
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2008/01/04 (Fri) 20:38
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7 様
「他力」という語にも、広狭があります。
広い意味であれば、信前から、他力(=弥陀)のお育てはあります。
信をいただけるのも、他力(=弥陀)のお働きです。
信後も、さまざまな益をいただけます。これも、他力(=弥陀)のお働きです。
この意味では、他力は常に働いています。
狭い意味であれば、「他力」というのは、行者が真実信をいただく、その一瞬の働き、すなわち、極楽往生治定の働きを指します。
私が書きました、
>自力で弥陀をたのみますと、その途中から、他力となり、また自力でおわります。(このおわる時には、真実信心を獲ております。)
における「他力」は、この狭い意味です。(真実信心をいただくときに、他力が働きます。)
もちろん、「他力の信」という意味で「他力」を用いるのであれば、いただいた信心は金剛心でありますので、信をいただいてから、その後ずっと、働き続けることになるでしょう。
この意味では、信心いただいた後は、自力と他力が同時に働いて行くと考えることができるわけですが、しかしそこまで他力の意味を広げてゆくと、「弥陀をたのむ」ということが、ぼやけてきてしまうと思います。
ですから、自力ではじまる一声の南无阿彌陀佛があり、その途中で他力となり、また自力となり、このときには、既に信をいただいていますので、往生治定と知り、信後の御恩報謝の南无阿彌陀佛をお称えする、と捉えるのが実用的であると思います。
狭い意味での「他力」というのは、信をいただくその一瞬の働きですから、そこから先は、また自力の行為がはじまります。
お聖教のことばについてですが、また書いて行こうと思います。
ひとまず、ここまでの感想や、新たに生じた疑問、また、7様ご自身の現在の捉え方等、教えていただけるとうれしく思います。
南无阿彌陀佛
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[ 255 ] 紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 21:12
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人に信を取らすことのできない知識に2通りあることを掲示板で教えていただきました。
一つには自力の信。
二には他力の信だけれど往相であって還相でないという信。
この二も私にとっては紙一重に感じられますが、どのようにして見分けるのでしょうか。
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●re.10
admin |
毎日 |
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[ 256 ] Re1:紙一重の見分け方
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2008/01/05 (Sat) 11:16
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みちくさ 様
思いを明らかにした上での、さらなるご質問、ありがとうございます。
見分け方の前に、確認しておきたいことを述べます。
自力の信は、どれほど晴れ渡る心になろうとも、弥陀に救われたと感じようとも、いたずら事であり、それだけでは、往生不定です。
そして、往相の信も、還相の信も、信においては同一であり、どちらも真実信心です。
「往」相ということからもわかりますように、極楽往生は治定致しております。
しかし、ご指摘の通り、往相は、行者に信を穫らせることはできません。
では、往相には何ができるのかというと、生きた人間となって下っておられる、還相を紹介する事ができます。
次に、見分け方です。
究極に於いて、見分けることはできないのですが、便法はあります。最後は、宿善任せです。
便法について述べます。
第一に、お聖教。
次第相承があることを否定する。
易行であることを否定する。
いとも簡単に救われてしまう法があることを否定する。
五念門があることを否定する。
南无阿彌陀佛以外が方便であることを否定する。
南无阿彌陀佛も方便であることを否定する。
六字の謂れがあることを否定する。
善知識に会わねば信心が穫れないことを否定する。
他所において信心の沙汰をすることを否定する。
これらが真実信心ではないことは、お聖教を(宿善の機が)読めばわかります。
この他の条件も、お聖教から抜き出すことができるでしょう。
「御文によって守られる」と繰り返し述べています通りです。
ただし、真実信心あるところでも、教学が隅々まで伝わっているとは限りません。
あくまでも、次第が相承されていれば、信を穫らせることはできるのです。
第二に、その方の経験。
「どのようにして、信を穫ったのですか?」
ここが焦点です。ここを聞いて行けば、見分けることができるはずです。
また、ほとんどの場合、真実信心獲ている方には、真実信心獲ている方の知り合いがいるはずです。(御同行)
ですから、「私のみである」というのは、おかしいのです。
易行なのですから、そして、次第相承の善知識は、いとも簡単に信を穫らせることができるのですから、難信之法ではあっても、次第相承の善知識のまわりには、真実信心獲ている方が複数いるのです。
「いとも簡単に信を穫らせることができる」ことを否定するのであれば、凡夫直入の易行を否定していることに他ならず、無理もないことではありますが、その方は、真宗を否定しているのです。
南无阿彌陀佛
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[ 257 ] Re2:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 21:13
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インターネットで「次第相承の善知識」という文字で検索を行うと、例えば
「真宗用語豆辞典」などの注釈によると、領解文の「次第相承の善知識」とは
歴代の宗主のこと。
という解説があり、ジャンヌ掲示板や毎日様の掲示板で示されるところの意味とは食い違うようであります。
私自身は広義に解釈して、第十八願が人から人へと伝わってきたその人々を指
して「次第相承の善知識」という捉え方をしておりますが、それはともかく、
真宗用語辞典などの解釈を掲示板の往相の人たちが否定される明らかな根拠は
どこにありますか?
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●re.12
admin |
毎日 |
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[ 258 ] Re3:紙一重の見分け方
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2008/01/07 (Mon) 00:05
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みちくさ 様
多くの方が疑問に思うであろう所のご質問、ありがとうございます。
次第相承の善知識は、歴代の宗主「のみ」であるかどうかについて、不足した論ではありますが、書いてゆこうと思います。
まず、
◎「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり(御文1-15)
とありますように、真実信心いただくためには、善知識に会うことが必要です。
そして、
◎このごろ、いにしへ口決を伝へ、面受をとげし門徒等(御伝鈔下巻第五段)
とありますように、門徒にも、口決面受をとげている者があるのであります。
さらに、
◎御一生は人に信をとらせたく思し召され候ふよし仰せられ候ふ(聞書187)
◎信心なきひとにはあふまじきぞ、信をうるものには召してもみたく候ふ、逢ふべしと仰せなりと云々(聞書44)
この両者を重ねて読みました場合、次第相承の善知識が、当時蓮如様だけであるのであれば、矛盾があるとは思われませんか。
ご自分しか信を穫らせることができないのであれば、未安心の人に会わないならば、もうそれ以上、新しく信を穫る方が出て来ないことになってしまいます。
「信を穫らぬ人に会わぬ」というのは、「信を穫らせることができるのは、私だけではない」ということをお示しになってくださったのだと思っています。
また、「私に会いたいのであれば、どうにかして、信をまず穫って欲しい」と仰せであるのだと思います。
いただく信は同じだと言えども、蓮如様から授かりたいと思うのも人情。しかしそれだけでは、十分に多くの方を救えないと、お考えになったのだと思います。
蓮師の法話をただ聞いて、「ありがたや」で満足して欲しくないというお示しであると考えます。
◎蓮如上人の御とき、こころざしの衆も御前におほく候ふとき、このうちに信をえたるものいくたりあるべきぞ、一人か二人かあるべきか、など御掟候ふとき、おのおの肝をつぶし候ふと申され候ふよしに候ふ(聞書50)
◎前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。聴聞心に入れまうさんと思ふ人はあり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ(聞書122)
以上、拙き論ではございますが、みちくさ様がどう思われたかにつきましても、お知らせいただけると、うれしいです。
もちろん、宗主に限るとお思いの方は、宗主にお会いして、信をいただけば良いのです。
私の願いは、ひとりでも多くの方に信を穫って欲しいということです。
南无阿彌陀佛
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[ 259 ] Re4:紙一重の見分け方
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2008/01/05 (Sat) 18:57
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口決面受 が人に信を取らせるという意味の「次第相承」を指しているという根拠を示してください。私には、ただ、御文ではなく、実際に口で伝え、面受した人、という事柄以上の意味が含まれているということがわかりませんので・・・
>この両者を重ねて読みました場合、次第相承の善知識が、当時蓮如様だけであるのであれば、矛盾があるとは思われませんか。
そのお答えの内容には、「次第相承の善知識」の定義が既に含まれており、まだ早計です。 私は、前の質問では、「次第相承の善知識」という言葉の定義を問題にしております。
>もちろん、宗主に限るとお思いの方は、宗主にお会いして、信をいただけば良いのです。
宗主が必ずしも第十八願をいただかれていない場合もあるのではないでしょうか。 その場合はどうなるのでしょうか? 私は宗主と第十八願をいただかれている妙好人とは一致しない場合もあるのではないかと考えています。
真宗辞典では、「次第相承の善知識」とは単に歴代の宗主を指す、とされているところが、掲示板の往相の人たちは、どうして、自身が十八願をうけており、更に、人に信をとらすことのできる知識、という定義になるのかをお聞きしたいのです。
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●re.14
admin |
毎日 |
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[ 260 ] Re5:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 19:37
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みちくさ 様
質問の意味を取り違えていたようで、申し訳ございません。
お答えになるかわかりませんが、お書きしてみます。
また、疑問がありましたら、お尋ねください。
まず、相承について繰り返し書いてあるのは『改邪鈔』です。
ですので、できましたら、『改邪鈔』をお読み下さい。
そして。
◎一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。(御文4-1)
ともありますように、あるいは、自信教人信という言葉がありますように、ひとを勧化する際には、自らが安心を治定していることが前提であります。
◎先師上人 釈如信 面授口決の専心・専修・別発の願を談話するのついでに、伝持したてまつるところの祖師聖人の御己証、相承したてまつるところの他力真宗の肝要、予が口筆をもつてこれを記さしむ(口伝鈔)
「専心・専修・別発の願」は、面授口決するものであることがわかります。
また、「祖師聖人の御己証」「他力真宗の肝要」このようなことも、伝えられていることがわかります。
◎おほよそ無始よりこのかた生死にめぐりて六道四生をすみかとせしに、いまながき輪廻のきづなをきりて無為の浄土に生ぜんこと、釈迦・弥陀二世尊の大悲によらずといふことなく、代々相承の祖師・先徳・善知識の恩徳にあらずといふことなし・・・たとひまた、釈尊西天(印度)に出でて三部の妙典を説き、五祖東漢(中国)に生れて西方の往生ををしへたまふとも、源空・親鸞これをひろめたまふことなく、次第相承の善知識これを授けたまはずは、われらいかでか生死の根源をたたん。まことに連劫・累劫をふとも、その恩徳を報ひがたきものなり(持名鈔)
「生死の根源をたつ」とは、十八願をいただくことです。
ですので、十八願をいただくためには、「次第相承の善知識」が「授ける」ことが必要であるとわかります。
◎また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。(御文3-9)
「実語」が相承血脈されていることがわかります。また、「あきらかに耳の底にのこして」とあります。紙の上ではないのであります。
◎悲しきかなや、徳音は無常の風に隔たるといへども、実語を耳の底に貽す(報恩講私記)
同じことが書いてあります。『報恩講私記』は、真実信心をなんとか伝えたいという思いが、ひしひしと伝わってくる書であります。
◎いかに行者の名字をしるしつけたりといふとも、願力不思議の仏智を授くる善知識の実語を領解せずんば往生不可なり(改邪鈔)
善知識の実語を領解しなければ、往生できないことが書いてあります。
したがって、信を穫るためには、相承血脈されている実語、この実語を授けてくださる善知識が必要です。
◎ただ実語を伝へて口授し、仏智をあらはして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあひかはらず、木像ものいはず経典口なければ、伝へきかしむるところの恩徳を耳にたくはへん行者は、謝徳のおもひをもつぱらにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかは別の仏なしといふこと、智者にわらはれ愚者を迷はすべき謂これにあり。(改邪鈔)
ここを読みますと、善知識は「仏智をあらはして決得せしむる」方であり、生身の如来にも変わらない方であるとわかります。
また、「伝へきかしむる」方でありますが、何を「伝へきかし」てくださるのかと言えば、実語であり、また、仏智をあらはしてくださる方であります。
この「伝へきかしむる」は、「行者に」です。
一方、「実語を伝へて口授し」とは、「伝へて」とは相承、「口授し」とは「行者に」と読めます。
「実語」とは、「口授」されるものであることがわかります。
◎こひ願はくは、心得惑ひたる人人、今日より後はいよいよ妄情をひるがへして、相承の正義にもとづかるべきことこそ肝要に候へ(御裁断申書)
正義が相承されていることがわかります。
◎釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたへがたし。善導和尚の『般舟讃』にいはく、「若非本師知識勧 弥陀浄土云何入」といへり。文のこころは、「もし本師(釈迦)・知識のすすめにあらずは、弥陀の浄土にいかんしてか入らん」となり。知識のすすめなくしては浄土に生るべからずとみえたり(真要鈔)
「次第相承の善知識のすすめがなければ、浄土には生まれることがない」という意味のことが書いてあります。
◎しかれば、相承の義さだめて仏意にそむくべからず。流をくむやから、ただ仰いで信をとるべし(真要鈔)
「相承の義」があることがわかります。また、「流れをくむやから」というのは、「信をとる」ことができるのですから、「相承の義がつたわっているところにいる行者」のことであると思います。
「相承の義」を仰いで、信をとるのが良い、とおっしゃってくださっているのであると思います。
◎教行証とは、列祖相承の要須、聖人領解の已証なり(六要鈔)
聖人の教行証は、自義を立てたのではなく、あくまでも、相承されている内容を書いたものだということであると思います。
このように引用するために読んでおりましても、つくづく私は感動するのであります。次第相承の善知識のご恩、そうして、このようにしてさまざまな御文章を残してくださった方々のご恩(この方々は、もちろん、次第相承の善知識であるはずです)に、本当にありがたいことだと思い、感謝致しております。
ここにあげたものの原典をお読み下されば、掟の存在もよくわかります。
掟がありながらも、どうしても伝えたい気持ちがあり、ご工夫なさった上でのご製作です。
本来、函にいれて隠さねばならぬような文書たちです。現在では、函には入っておりませんが、言葉の壁に囲まれております。
これにより、守られ、また、無宿善の機には読めないように工夫して書いてあります。
どうか、原典も繰り返しお読み下さい。(特に、引文付近はお読み下さい。引文だけ読みますと、間違えます。)
またもや、不十分な論でありまして、自らの浅学を思い知るばかりでありますが、真実信心を伝えたい気持ちは、やどしておりますので、よろしければ、再度、ご感想等をお聞かせいただければ幸いです。
南无阿彌陀佛
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[ 261 ] Re6:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 12:39
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みちくさ 様
こんにちは。 みちくさ様の疑問御尤も。しかしながらこれに不審が立たんようであればなかなか十八願には入れんものです。聞くも難、信じるはなお難であります。
>宗主が必ずしも第十八願をいただかれていない場合もあるのではないでしょうか。 >その場合はどうなるのでしょうか? >私は宗主と第十八願をいただかれている妙好人とは一致しない場合もあるのではないかと考えています。
そのとおり。 当流では出家在家の別もありませんし、智慧の有無も関係ありません。とかく人間はその人の社会的地位や智慧の深浅などの外見に惑わされてしまうものです。たとえ宗主といえども、相承なければ真の善知識とは申さんのであります。知った分かったで往生できるのではありませんので。ここが極端になりますと、所謂「善知識だのみ」の状態に陥るのであります。善知識は弥陀の代官として行者に一念帰命を勧める人であります。救うのは弥陀であり善知識ではありません。骨を砕きても尊むべきではありますが、たのむべきは弥陀であることを忘れてはいかんのです。
>真宗辞典では、「次第相承の善知識」とは単に歴代の宗主を指す、とされているところが、掲示板の往相の人たちは、どうして、自身が十八願をうけており、更に、人に信をとらすことのできる知識、という定義になるのかをお聞きしたいのです。
真宗辞典ではそう書かれておりますね。 では、お心の赴くままに宗主に逢って心ゆくまで問われてみれば宜しいのです。あなたは祖師より伝え聞かされておる真宗の要を相承されておるのか?と。十人あれば十人ながら往生できる易行中の易行の要を行者に聞かせることができるのか?と。
かつて、赤子の往生の件でやりとりを致しましたね。 何を極端な例を挙げておるのかこの男は。とも思われたかもしれません。しかしながら、この問題は祖師一流が伝わっておらんところで常に問題になったことなのです。「願成就文」をもって真宗の至極とす。と聖教にもありますように弥陀の誓願成就がなければ我等の往生も不可能なのであります。この願成就文の「諸有衆生」の意(こころ)を御開山は「老少善悪の人を選ばず」と申されました。願成就文に誤りがない以上、この問題を教義上でどう解釈するかということを学問的な問題にして常に真宗では争いが絶えんかったのであります。
現在の本山様あたりでは空華派が主流であり、弥陀の願行はすべて廻向されるゆえに凡夫の側からは何もせんでよい。ただのお助け。というようなお考えになっております。極端な考えの僧達は、たのむ(南无、帰命)もいらん。とまで申しておるとか。甚だ悲しむべきことであります。かつての十劫安心とそれほど変わらん状態であります。願行はすべて弥陀廻向であることは間違いありません。行者は「南无(帰命)せよ。」または、「弥陀をたのめ。」といわれるようにその理を次第相承の善知識より聞き開かねばならんのです。
祖師一流(実語相承)が伝わらんところは教理上の問題として、各々新たな義を立てることを繰り返してきたのです。いつの間にか真宗の看板を掲げておりながら真宗にあらず。になってしまったのです。新たな義はある意味、助かるための条件を設けることになります。すると一切衆生の中に必ずそこから漏れる人が出てくるのです。
毎日様が「改邪抄」を引かれておられますね。 三代目のお考えを問題視する僧はたくさんおります。何故か。簡単です。御自分達の義に沿わんからであります。私共は少なくてもまったく問題などありませんし、祖師より伝えられるところと全く同じであります。先に申した通り、すべて一本に繋がっておるのですから。
南无阿弥陀佛
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●re.16
admin |
毎日 |
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[ 262 ] Re7:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 19:46
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泥凡夫 様
お書き込み、ありがとうございます。
私の論は、はなはだ不足でありまして、泥凡夫様のお書き込み、本当にありがたいです。
有縁の方に申し上げたいのは、途中、
>「南无(帰命)せよ。」または、「弥陀をたのめ。」
とあります。
これは、善知識が、弥陀の代官(「代理」の意)として述べていることであります。
ですから、善知識という人間が、己の心で述べていると受け止めるのではなく、あくまでも、弥陀からのお言葉をお伝えしている伝言として、受け止めねばなりません。
彌陀御自らが、「弥陀をたのめ」とおっしゃってくださっているのです。
善知識からの依頼ではありません。そう捉えますと、間違えます。
南无阿彌陀佛
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[ 263 ] Re8:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 21:11
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未だご説明ではわかりかねる箇所がございます。
次第相承の善知識がいて、その人から教えを受けねば信を得ることがない、という仰せでございますが、それは、次第相承の善知識から未決定の者のうち、宿善の機への教化を意味しておるものと解せるのでございます。
一方、かねてより掲示板では、往相と還相があり、第十八願信受のものであっても往相では人に信を取らせることはできないと承っております。
引用いただきました改邪鈔等の文言からは、他力の信心が人から人へと次第相承されてきたということを示しているようにも解釈でき、信のある人から教えを受けないと絶対に自身も信を取ることができない、というふうにも読めるのではないかと考えております。
それでも、往相と還相の区別があるといわれるのならば、次第相承の善知識が、既に信を得ている往相の人に授けるといわれるところの、往相では絶対に無理であったのが、それ以後は人に信を取らすことができるようになる、というある種特別のものがなければならなくなりますが、そのような事が示されている根拠がございますでしょうか。前回のご説明はあくまで、次第相承の善知識によらねば、未決定のものに信を取らすことができないという根拠であります。(私はそう解釈致します) 但し、まだここでは、「次第相承の善知識」の定義もはっきりしていないことをお断りしておきます。
また、前回の宗主様云々の話に関連しますが、一応、往相と還相の別あることを前提と致しますと、宗主様といえども、第十八願ではない場合と、第十八願であっても往相なので人に信を取らすことができない方が就任されている可能性がございます。 このいずれかに該当する場合、宗主様に法を問うてみても詮無きことではございませんか。辞典と掲示板でのご解説とは明らかな相違がございます。
もう一度繰り返しますが、「次第相承の善知識」というキーワードでインターネット等で調べますと、次第相承の善知識とは、歴代の宗主のこと、とあり、掲示板で往相と云われる人たちの解釈は独自のものという印象を受けるのですが、いかがでしょうか?
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●re.18
admin |
毎日 |
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[ 264 ] Re9:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 22:55
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みちくさ 様
>もう一度繰り返しますが、「次第相承の善知識」というキーワードでインターネット等で調べますと、次第相承の善知識とは、歴代の宗主のこと、とあり、掲示板で往相と云われる人たちの解釈は独自のものという印象を受けるのですが、いかがでしょうか?
独自という印象を与えてしまいますのは、もう仕方がないことだと思います。
なぜなら、多数の方のおっしゃる通りで信が穫れるのであれば、みなさま獲信しているはずだからです。
不十分な点は多々残っておりますが、私は聖典をあげてお話いたしました。
聖典、インターネット、用語辞典、何を優先されるかは、その方の判断ですので、私には、もうわからないことです。
蓮師も、信を穫る方が少ないことを嘆いておられます。
他と異なることを恐れるわけでもありません。
ですので、「独自な印象」ということにつきましては、「致し方ない」という考えです。
これで、お答えになっていますでしょうか?(なっていないかもしれないとも思います・・・)
>次第相承の善知識がいて、その人から教えを受けねば信を得ることがない、という仰せでございますが、それは、次第相承の善知識から未決定の者のうち、宿善の機への教化を意味しておるものと解せるのでございます。
この点につきましては、お説の通りであると思います。
>前回のご説明はあくまで、次第相承の善知識によらねば、未決定のものに信を取らすことができないという根拠であります。(私はそう解釈致します) >但し、まだここでは、「次第相承の善知識」の定義もはっきりしていないことをお断りしておきます。
ですので、この2点につきましても、全くその通りであると思いますし、
>前回のご説明はあくまで、次第相承の善知識によらねば、未決定のものに信を取らすことができないという根拠であります。(私はそう解釈致します)
このように解釈いただけたことを、うれしく思う次第です。
また、続きをお書き致します。
ご不審な点がありましたら、遠慮なくおっしゃってください。
◎いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる条、しかるべからずおぼえはんべり(御文4-12)
南无阿彌陀佛
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[ 265 ] Re10:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 22:51
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みちくさ 様
こんばんは。年始の連休も終わりますね。 また忙しい一年が始まりますね。
>引用いただきました改邪鈔等の文言からは、他力の信心が人から人へと次第相承されてきたということを示しているようにも解釈でき、信のある人から教えを受けないと絶対に自身も信を取ることができない、というふうにも読めるのではないかと考えております。
そういう意味でも結構であると思います。ただし、自力信の方よりどれほど聞かれても師と共に堕ちることとなります。後はどのように感じられても結構であります。
>それでも、往相と還相の区別があるといわれるのならば、次第相承の善知識が、既に信を得ている往相の人に授けるといわれるところの、往相では絶対に無理であったのが、それ以後は人に信を取らすことができるようになる、というある種特別のものがなければならなくなりますが、そのような事が示されている根拠がございますでしょうか。
言葉が悪いと思いますが、読み込まれ方が浅すぎます。 先の毎日様の引用の改邪抄だけでも肝要は明らかに記されております。今まで聞かんかったことを初めて聞いたからというより、みちくさ様のご発言の中心には常に親鸞会様なりの色が強く見えております。
>このいずれかに該当する場合、宗主様に法を問うてみても詮無きことではございませんか。辞典と掲示板でのご解説とは明らかな相違がございます。
これは私に対してでございますね。 私はあなた様にそのようにしてみろ。というのが真意ではありません。あくまでも法を求める姿勢を問うたまでのこと。可能性がどうだとかそういうことに振り回される前に御自分の足でお確かめになることも大事なのであります。インターネットで信は獲れませんので。
次に辞典の件。 これは私も毎日様に同様であります。聖教と辞典を見比べて、辞典を正意であると申されたいのであれば辞典を優先されれば宜しいことであります。次第相承の善知識の釈が私共だけのものであってもまったく結構であります。私共は何と申されても幸いにして御開山はじめ祖師一流の流れを汲んだことを幸せに思っており、少しでもそれを伝えようとしておるだけであり、是非など及ばんものであります。私共のような釈を持っておる輩も大勢おるのであるとだけ思って頂ければそれで結構であります。
ジャンヌの頃より申してきたことでありますが、まずご縁ある場所なり団体なりで一生懸命お求めになられることです。そうすれば何か納得できるものが得られるやもしれませんので。
南无阿弥陀佛
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●re.20
admin |
毎日 |
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[ 266 ] Re11:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 23:17
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みちくさ 様
>また、前回の宗主様云々の話に関連しますが、一応、往相と還相の別あることを前提と致しますと、宗主様といえども、第十八願ではない場合と、第十八願であっても往相なので人に信を取らすことができない方が就任されている可能性がございます。 >このいずれかに該当する場合、宗主様に法を問うてみても詮無きことではございませんか。
この点でございますが、私は、宗主様が信を穫られている方なのかどうか、存じ上げないのです。
ですけれども、立場が立場でございますので、おそらく信を獲ているのではと思いますし、次第も相承していらっしゃるであろうと想像しております。
みちくさ様が、宗主様こそ次第を相承されている方だと思われるのであれば、宗主様にお願いすればよろしいのですし、もしそうでないと思われるならば、みちくさ様にとりまして、信を獲ているように思われる方にお願いすれば良いのであると思います。
>宗主様といえども、第十八願ではない場合と、第十八願であっても往相なので人に信を取らすことができない方が就任されている可能性がございます。
この可能性があったとしても、みちくさ様が信をお穫りになる件に関しましては、みちくさ様が宗主様にお願いするのではない限り、みちくさ様には、あまり関係がないことであると思います。
また、宗主様にお願いしてはじめて、宗主様が真の次第相承の善知識であるかどうかがわかるのですから、お願いに上がることが、詮無き事とも思いません。もし、「違う」とわかっても、それもまた、前進でございます。
無事、信がいただけるのであれば、最高にめでたき事でございます。
南无阿彌陀佛
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[ 267 ] Re11:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 23:20
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泥凡夫 様
>そういう意味でも結構であると思います。ただし、自力信の方よりどれほど聞かれても師と共に堕ちることとなります。後はどのように感じられても結構であります。
ここは、他力信の中に、往相と還相の別があり、往相からいくら聞いてもダメだといわれる言葉に対して書いたのです。 自力信からいくら聞いてもだめなのは私でもわかります。
>>それでも、往相と還相の区別があるといわれるのならば、次第相承の善知識が、既に信を得ている往相の人に授けるといわれるところの、往相では絶対に無理であったのが、それ以後は人に信を取らすことができるようになる、というある種特別のものがなければならなくなりますが、そのような事が示されている根拠がございますでしょうか。 > >言葉が悪いと思いますが、読み込まれ方が浅すぎます。 >先の毎日様の引用の改邪抄だけでも肝要は明らかに記されております。
そうですか? それであれば、再度良く読んでみたいと思います。 ただ、私はどこの立場でもないところから出発して聞いてみようと考えているのです。
往相と還相が、掲示板独自の見解でもよろしいのですが、そういわれる以上は、それも、経釈に必ず根拠があるものと考えております。 先に言っておきますが、誰が読んでもわかるものではない、という言い方は不親切です。
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●re.22
admin |
毎日 |
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[ 268 ] Re12:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 23:54
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みちくさ 様
改邪鈔をお読みの途中であるならば、
◎ただ実語を伝へて口授し、仏智をあらはして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあひかはらず、木像ものいはず経典口なければ、伝へきかしむるところの恩徳を耳にたくはへん行者は、謝徳のおもひをもつぱらにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ
この部分に、ご注意ください。
(また、「経典口なければ」にも、ご注意ください。「木像ものいはず」だけであれば、読み飛ばしてしまうところでございますが、「経典」というのは、「言葉」で書かれております。これを読むだけでは足りず、「口」が必要であり、「耳にたくはへよ」とおっしゃっていると思います。お聖教を読む際には、このような視点が大切であると思っております。)
真宗念仏行者が信を穫らせることができるのであれば、「如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ」は、おかしいとは思われませんか。
信を穫って善知識となるのであれば、みずからを「如来の代官」とみなすことになるはずです。
しかし、信心を獲れば、「菩薩」になるということは、他の箇所に記載がございます。
「菩薩」と「弥陀の代官」と、お聖教では使い分けております。
これだけでは、まだ不足でありましょうが、みちくさ様がお聖教を読む際の助けになれば幸いです。
(もちろん、私もお聖教は読み解きの途中に過ぎません。あくまでも、御同行でございます。)
■補足1
◎同行のことばをもちゐては、すなはち諸仏のみことを信ずるおもひをなすべし。他力の大信心をうるひとは、その内証、如来にひとしきいはれあるがゆゑなり(持名鈔)
ともございますので、如来と菩薩の使い分けについては、私もまだ、完全に結論を得ているわけではございません。この箇所は、不退転であるので、「如来にひとしき」と述べているのであると、今のところは解しています。弥勒菩薩を、弥勒如来と称するのと、同じような考え方であると思います。
■補足2
持名鈔のこの少し前のところには、
◎このゆゑに仏法を授くる師範をもつて、滅後の如来とたのむべきがゆゑなり。しかのみならず善導和尚は、「同行・善知識に親近せよ」(礼讃)とすすめ、慈恩大師は、「同縁のともを敬へ」(西方要決)とのべられたり。そのゆゑは、善知識にちかづきてはつねに仏法を聴聞し、同行にむつびては信心をみがくべしといふこころなり
とあり、善知識と同行をわけて説いていらっしゃいます。
南无阿彌陀佛
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●re.23
admin |
毎日 |
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[ 269 ] Re13:紙一重の見分け方
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2008/01/06 (Sun) 23:59
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みちくさ 様
これだけの根拠では、まだ不足であると思われます。
御文様をご拝読するとわかると思いますが、信後どうしたら良いのかと言いますと、「御恩報謝のお念仏」です。
信後、「信を授けよ」とは蓮師はおっしゃっておられません。
ひとりでも多くの方に信を穫ってほしいのですから、もし、信を獲た方が信を穫らせることができるのであれば、これは、おかしいと思われませんか。
いかが思われますでしょうか。
南无阿彌陀佛
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●re.24
admin |
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[ 270 ] Re14:紙一重の見分け方
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2008/01/07 (Mon) 00:39
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みちくさ様
「信をとらせよ」につきましては、
◎大津近松殿に対しましまして仰せられ候ふ。信心をよく決定して、ひとにもとらせよと仰せられ候ひき(聞書16)
蓮淳様も、はじめ、信心を穫っていなかったこともわかります。
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[ 271 ] Re13:紙一重の見分け方
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2008/01/07 (Mon) 00:53
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みちくさ 様
こんばんは。かなり眠くなってまいりました。 不愉快にさせてしまいましたようですね。申し訳ないことです。
>往相と還相が、掲示板独自の見解でもよろしいのですが、そういわれる以上は、それも、経釈に必ず根拠があるものと考えております。先に言っておきますが、誰が読んでもわかるものではない、という言い方は不親切です。
まったくですね。経論釈の根拠が必要なお方にはめいっぱい教理を学ばれるが宜しかろうと思います。ただし、経論釈は一往と再往の義がございますので一度に全部理解いただくことは不可能であります。そこのところだけご理解いただきたく思います。
今日は「浄土真要鈔」の書き出しから引きます。
『それ、一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなわち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願をとくなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行をとかず、「乃至十念の行者かならず往生をうべし」ととけるゆえなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文にみな通じて「一向専念無量寿仏」とときて「一向にもっぱら無量寿仏を念ぜよ」といえり。「一向」というは「ひとつにむかう」という、ただ、念仏の一行にむかえとなり。「専念」というは、「もっぱら念ぜよ」という。ひとえに、弥陀一仏を念じたてまつるほかに、二つをならぶることなかれとなり。これによりて、唐土の高祖、善導和尚は、正行と雑行とをたてて、雑行をすてて正行に帰すべきことわりをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしおきて正業をもっぱらにすべき義を判ぜり。』
第四の「称名正行」こそ「正定業」であることはお分かりですよね。ここで「念仏の一行」が出てまいりました。弥陀一佛を念じ、念仏の一行に向かえと申されております。これは「一念帰命」を指しております。
『「すみやかに生死をはなれんとおもわば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をさしおきて、えらんで浄土門門にいれ、浄土門にいらんとおもわば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすててえらんで正行に帰すべし。正行を修せんとおもわば、正助二業のなかに、なお助業をかたわらにしてえらんで正定をもっぱらにすべし。正定の業というは、すなわちこれ仏名を称するなり。みなを称すればかならずうまるることをう。仏の本願によるがゆえに」となり。すでに南無阿弥陀仏をもって、正定の業と、なづく。「正定の業」というは、まさしくさだまるたねというこころなり。これすなわち、往生のまさしくさだまるたねは念仏の一行なりと、なり。』
続いて先の「正定業」は「称名念仏」であることが明かされております。御名を称すれば必ず生まれることができる。と申されております。この「称」は口に称える念仏ではありません。「口称念仏」にての往生は極めて不定である旨は、私共のような智慧浅き者のために蓮師が祖師方の論釈より引かれて分かりやすく申されておりますね。引用最後に往生の定まる種は「念仏の一行」である。と結ばれております。どうやら我等の往生には「念仏の一行」が大事であるようであります。
『決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもっぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。しかるにこのごろ浄土の一宗において、面々に義をたて行を論ずるいえいえ、みなかの黒谷のながれにあらずということなし。しかれども解行みなおなじからず。おのおの真仮をあらそい、たがいに邪正を論ず。まことに是非をわきまえがたしといえども、つらつらその正意をうかがうに、もろもろの雑行をゆるし諸行の往生を談ずる義、とおくは善導和尚の解釈にそむき、ちかくは源空聖人の本意にかないがたきものをや。しかるにわが親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死をはなるべきおしえ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすすめなり。そのゆえは、ひとえにもろもろの雑行をなげすてて、もっぱら一向専修の一行をつとむるゆえなり。これすなわち余の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり。』
さらに重ねて、往生決定したい人は「念仏の一行」を専らにせよ。ということが細やかに書かれておりますね。それでも祖師一流の流れを汲まん所は各々に勝手に往生決定のための義を立てて、是非を争っておる旨が書かれております。それは今でも変わらんことですが。とにかく我等衆生が速やかに往生決定するには雑行ではなく正行、さらに他の助業を差し置いて、「称名正行」たる「念仏の一行」を修しなさい。とのことのようです。
『念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益をうべしということ、うたがいあるべからず。かくのごとく、一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。しかるにわれらさいわいにそのながれをくみて、もっぱらかのおしえをまもる、宿因のもよおすところ、よろこぶべし、とうとむべし。』
蓮師が申されるように、十人あれば十人ながら悉く往生決定するが祖師一流の御相伝なのであります。
『釈尊・善導この法をときあらわしたまうとも、源空・親鸞出世したまわずは、われらいかでか浄土をねがわん。たといまた源空・親鸞世にいでたまうとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたえがたし。』
さて、いよいよその「一念帰命」は誰が行者に聞かせてくれるのかが記されております。 ある日突然善知識と称して出現するのではなく、脈々とその肝要が伝えられておることを示されております。先の辞典で言われる次第相承の善知識は歴代の宗主である。という釈であるのであれば、どうやら宗主でなければ真実の信心は伝えることが困難ということになるようです。しかれば、みちくさ様も御縁のある親鸞会様の高森先生でも駄目のようです。
「浄土真要鈔」の書き出しより途中まであえてほぼ全文を引きました。この「浄土真要鈔」であっても私共から見ればそれはそれは肝要を誤りなく伝えてきておることの尊さをひしひしと受け取れるのであります。
みちくさ様がこれで納得頂けるとは思っておりません。論釈を引いてはおりますが、あくまでも理屈でありますからね。理屈で往生はできんわけでありますので、論釈は南无阿弥陀佛の六字を信じて頂くための方便であります。
南无阿弥陀佛
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[ 272 ] Re14:紙一重の見分け方
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2008/01/07 (Mon) 07:43
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公式な場所では問題意識があっても云えない事がありますが、掲示板だから、気になることは何でも聞かせていただきたいと考えます。
今問題にしているところはおそらく、この教えにとって大切なところだと思います。
今日から忙しくなるので、どうしても反応が遅くなります。
今回のコメントへの感想は次回まで保留させていただきます。
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●re.27
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[ 273 ] Re15:紙一重の見分け方
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2008/01/07 (Mon) 10:21
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みちくさ 様
大切なところですので、どうぞ遠慮なく御願い致します。
思うところを言っていかなければ、わかり合うことも、むずかしいことです。
私も、自分に間違いが無いとは思いません。
やりとりして行く中で、常に学ばさせていただいています。
どうぞ、よろしく御願い致します。
南无阿彌陀佛
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●re.28
admin |
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[ 274 ] 「御同行」について
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2008/01/07 (Mon) 11:49
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みちくさ 様
私は、「御同行」についても、広狭あると思っています。
狭義には、同じ「真実行」された方。
広義には、「真実行」を求める道、易行の道を求めて行かれている方。私も、同じ道を歩んでいます。
そして、さらに広義には、一切衆生。なぜなら、一切衆生は、弥陀に救われる道を歩んでいると考えるからです。そして私も、同じ道を歩んでいます。
信後の道は、二河白道でありますが、これも、続いている道です。
諸佛の本師が彌陀であることを考えれば、結局、彌陀に救われるしかないのだと私は思います。
南无阿彌陀佛
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●re.30
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[ 276 ] Re2:「御同行」について
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2008/01/07 (Mon) 13:55
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みちくさ 様
>ところが、現実には社会に制度や教育以前の問題として、一人一人が生まれながらにして千差万別で、
この認識は、宿善、宿縁を考える上で、とても大切だと思います。
雑感の中ではありますが、みちくさ様の状態を知る上で、助けになることですので、雑感も、おしゃべりも、とても役に立つものであると思います。
心中をあきらかにしてゆくことにより、心から納得できる場所にたどり着くこともできると考えます。
公式の場、掲示板、メール、多人数中での会合、1対1でのお話、話せることが変わってくるのも、掟の存在を考えても、また、世間通途の義を考えましても、自然なことであります。
疑いを表せないのでは、蓮師に申し訳がありません。
信も言へ、不信も言へ、信心の沙汰もせよ、信を獲たかを繰り返し問へ、と、そのみ心、示談を奨励なさったみ心は、名利の心を持ち、人師を好む凡夫である我らのために、真実ありがたいお示しであると思っています。
◎罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし(聞書35)
御同行の「御」とは、一切衆生の佛性を指し、また、護念くださる諸佛を指すと思います。
肩肘はって、正確であろうとしすぎても、思うところを述べられなくなってきてしまいます。
凡夫だから、間違えることも当然でありまして、要は、そこに真実が含まれるかどうかです。
正確を期す際には、諸佛の証を請いながらの製作ということになりますから、なかなかできることではありません。
繰り返しになりますが、どうか重ねてご不審を問われますよう、お願い申し上げる次第です。
南无阿彌陀佛
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●re.31
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[ 277 ] Re3:「御同行」について
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2008/01/07 (Mon) 13:40
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7 様
私も、みなさまが書き込んでくださいますので、本当にありがたく思っているのです。
もともと、法話の場所というのは、宿善の機、無宿善の機が混在しているのでありまして、そして、そこにも意義があり、また、そこにてお話できる内容もあるわけです。
そして、そこで話せる内容を聞いているうちに、宿善有る機には時節が到来し、真実信心を求めはじめます。
◎時節到来といふこと、用心をもしてそのうへに事の出でき候ふを、時節到来とはいふべし、無用心にて出でき候ふを時節到来とはいはぬことなり。聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ(聞書105)
御同行というのは、決して謙遜のことばではないのでありまして、ただただ、弥陀に救われる御同朋なのであります。
南无阿彌陀佛
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●re.32
admin |
毎日 |
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[ 296 ] Re4:「御同行」について
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2008/01/11 (Fri) 03:40
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みちくさ様
>引用いただきました改邪鈔等の文言からは、他力の信心が人から人へと次第相承されてきたということを示しているようにも解釈でき、信のある人から教えを受けないと絶対に自身も信を取ることができない、というふうにも読めるのではないかと考えております
たとえば、
◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり(御文1-11)
これも、みちくさ様が提示していらっしゃいます解釈もできる箇所であると思います。
南无阿彌陀佛
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[ 300 ] Re5:「御同行」について
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2008/01/12 (Sat) 12:30
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毎日様 泥凡夫様
>>引用いただきました改邪鈔等の文言からは、他力の信心が人から人へと次第相承されてきたということを示しているようにも解釈でき、信のある人から教えを受けないと絶対に自身も信を取ることができない、というふうにも読めるのではないかと考えております > >たとえば、 > >◎しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり(御文1-11) > >これも、みちくさ様が提示していらっしゃいます解釈もできる箇所であると思います。 > 「次第相承の善知識」が歴代の宗主のこと、とする解釈は実際のあり方から見て、私自身も釈然としないものがございます。
毎日様がお示しいただいた上の御文の一説によれば、他力の信心を得た人が人に信を取らすことのできる善知識たりえるのではないかと読むことができ、他力信の中に更に往相と還相の別があるとする解釈のほうが無理があるのでは、という印象をもっております。
それとも、還相から往相に授けるという何かが記載されている聖教がどこかにございますでしょうか。
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●re.34
admin |
毎日 |
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[ 302 ] Re6:「御同行」について
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2008/01/12 (Sat) 13:45
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みちくさ 様
ご質問、ありがとうございます。
みちくさ様が問われていらっしゃいますところは、おそらく、今後もたびたび問われるであろう場所なのです。
ですから、みなさまが御確認できます道しるべに、本来、私の方で出拠の一覧を準備せねばならないところであります。
今のところ、準備不足でありまして、時間を見つけてお聖教を調べておりますが、たよりない記憶に基づいている点と、私の解釈の不足により、一覧としてはまだお出しできないのが私の現状でございます。
みちくさ様に感謝申し上げねばならぬのは、たとえば私が現代の方にとって大切なところはここであろう、と編集したところで、そんなものは机上の空論に過ぎぬのです。
ですけれども、このように実際に問うていただけますれば、そのみちくさ様のお気持ちの故に、私もそれにこたえようとしているうちに、自然と、今の方にとって、時機相応の道も見いだされてくるものと信じます。
これは、現代に実際に生きておられる、求める方のご質問なくしては、達成のできぬことなのです。従いまして、このような掲示板の存在は、私にとりましても、誠にありがたいことでございます。
今のところ、大きく問われますのは、
1)秘事法門ではないか? 2)次第相承の善知識とは? 3)そもそも、浄土門は、釈尊の教説ではなく、民衆の願望の投影にすぎないのでは?
この3点でございます。これにつきましては、説法を構成したく思っております。
お返事遅くなりますのは、身辺多忙の故でございます。それも、私の過去の種まきの結果でございます。
いずれ、さらに典拠をお出し致しますが、今すぐに思いつくものと致しましては、
◎ただ実語を伝へて口授し、仏智をあらはして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあひかはらず(改邪鈔)
これは自分が実際に信をいただいたときに、「はたして自分は、実語を口授できるのか? 佛智をあわして決得せしむることができるのか?」と考えますれば、往相と還相の区別があること明確なのでございます。
ただこれは、信後にわかることでございます。
◎もしかならずすべからく知るべくはまた方便あり。かならずすべからく口授すべし(論註)
これも、決得の時節を凡夫が知る方便の口伝の存在を示しますが、信を獲ても、その口伝をいただいているわけではないのです。
信を獲るのは、あくまでも、「弥陀をたのむ」ことによるのです。
「弥陀をたのむ」ということと、決得の時節を知る方便の口伝と、この双方を考え合わしますれば、ぼんやりとではございましょうが、感じられてくるものがあるのではないかと思っております。
秘事法門の類いにつきましても、いろいろと伝わっておりますが、秘事法門の類いであるとしても、お聖教に基づこうとする限り、(少なくても部分的な)典拠を持っているものでございますので、詳しく述べてゆきますと、どうしても、秘事として教わりましたことが、連想されてきてしまうと思います。
ただ、秘事法門の類いとされるものにつきましては、お聖教の解釈が異なるということと、お聖教全体を読んで行きましたときに、違和感が生じるようなものであるということだと思います。
ですけれども、「何が本物か?」これは実証のできるようなものでございませず、それであるが故に、宿善まかせとなるのでございます。
みちくさ様ご質問の件、とても大切なところでございます。
必ず、返信して参ります。
南无阿彌陀佛
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●re.35
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[ 303 ] Re7:「御同行」について
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2008/01/12 (Sat) 14:10
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「秘事」という単語についてですが、以前ジャンヌで愚尼様もあげておられましたが、
◎前々住上人、大坂殿にておのおのに対せられて仰せられ候ふ。一念に凡夫の往生をとぐることは秘事・秘伝にてはなきかと仰せられ候ふと云々(聞書283)
とありますように、「秘事・秘伝」は否定されているわけではなく、むしろ(反語により)強く肯定されております。
ただし、この箇所だけでは、「一念に凡夫の往生をとぐること」を、秘事秘伝に喩えていると読むことも可能であると思います。
本願寺様の現代語訳です。
『大坂の御坊で、蓮如上人は参詣の人々に対し、「 信心一つで、凡夫の往生が定まるというのは、何よりも深遠な、秘事秘伝のみ教えではないか 」と仰せになりました』
御文様では、何と言っても有名なのが
◎それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり(御文2-14)
対して正法と述べられております内容もございますので、この二帖第十四通も、繰り返しお読みいただければと思う次第でございます。
◎されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし(御文2-14)
他の場所では、
◎このほかには、わづらはしき秘事といひて、ほとけをも拝まぬものはいたづらものなりとおもふべし(御文3-3)
「拝まずの秘事」が紹介されております。
南无阿彌陀佛
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●re.37
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[ 306 ] Re9:「御同行」について
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2008/01/13 (Sun) 02:11
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これは、「前者か後者かどちらか」ということであれば、後者です。 ですけれども、還相廻向の、狭い意味です。 還相廻向必ずしも、次第相承の善知識ではありませんが、次第相承の善知識は、還相廻向です。 還相廻向として、娑婆に生を受けた方のうち、事前に定められている方が、次第相承の善知識となるはずです。 次第相承の善知識は、口決面授を受けております。
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[ 310 ] Re10:「御同行」について
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2008/01/13 (Sun) 11:38
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>これは、「前者か後者かどちらか」ということであれば、後者です。 >ですけれども、還相廻向の、狭い意味です。 >還相廻向必ずしも、次第相承の善知識ではありませんが、次第相承の善知識は、還相廻向です。 >還相廻向として、娑婆に生を受けた方のうち、事前に定められている方が、次第相承の善知識となるはずです。 >次第相承の善知識は、口決面授を受けております。
そうすると、還相廻向として、娑婆に生を受けた方は、生まれながらにして五重の義が揃っているわけですね?
それと、次第相承の善知識は、口決面授を受けることによってそうなられることの聖教等からの引用をお願いいたします。前述の引用文はあくまで、信心は文字だけでは本当のところは伝わりにくく、口授によって本来の意味が伝わるのです、という内容かと思います。
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●re.39
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[ 311 ] Re11:「御同行」について
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2008/01/13 (Sun) 19:00
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みちくさ 様
◎また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり(御文3-9)
ここでは、「実語を相承血脈」と出て参ります。「あきらかに耳の底にのこして」とは、口伝であり、覚えていることを示すと思います。(「まのあたり」は面授であります。)
つまり、「相承血脈」「あきらかに耳の底にのこす」とありますが、これは、
◎これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若 女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん(唯信鈔)
に説かれているような、「在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず」とは、異なるものを感じませんでしょうか。
実語の長さにもよるはずですが、「まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして」には、一定の知力も必要なはずであり、唯信鈔のこの前後を読んでいただければ、また別のお話であると、感じることができるのではないかと思います。
また、
◎弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし(歎異抄第一段)
とあります。
そして、
◎願力不思議の仏智を授くる善知識の実語を領解せずんば往生不可なり(改邪鈔)
信を獲るには、「善知識の実語を領解」が必要です。これは、行者の話しですから、「まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして」とは異なります。なぜなら、このように解釈するなら、「老少・善悪のひとをえらばれず」とはならないでしょう。
また、「一文不知の愚鈍の身」が、あるいは、「盤特がともがら」が、「まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして」をできますでしょうか。
つまり、「実語を領解」と、「まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして」とは異なるということです。
「領解」するだけと、「相承血脈してあきらかに耳の底にのこして」は、別のことを指していると思います。
またもや不完全な論でありますし、少しずつしかお書きできなくて申し訳ないことでありますが、ご参考になったらうれしいです。
ご感想やご質問等、またいただけたら光栄です。
南无阿彌陀佛
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[ 312 ] Re12:「御同行」について
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2008/01/13 (Sun) 23:31
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>みちくさ 様 > >◎また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり(御文3-9) > >ここでは、「実語を相承血脈」と出て参ります。「あきらかに耳の底にのこして」とは、口伝であり、覚えていることを示すと思います。(「まのあたり」は面授であります。) > >つまり、「相承血脈」「あきらかに耳の底にのこす」とありますが、これは、 > >◎これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若 >女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん(唯信鈔) > >に説かれているような、「在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず」とは、異なるものを感じませんでしょうか。 > >実語の長さにもよるはずですが、「まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして」には、一定の知力も必要なはずであり、唯信鈔のこの前後を読んでいただければ、また別のお話であると、感じることができるのではないかと思います。
そういうことであれば、 一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり ではなく、 一流の他力真実の相承いまにたえせざるものなり となるはずです。
蓮如さんの場合、面受によって、聞いたところの教えがしっかりと耳に残っている、という意味にとれます。 他の妙好人の方が、しっかり領解することができた、というのとそれほどの差異を感じません。
「まのあたり実語を相承血脈して」 の意味するところが、阿弥陀仏の信心が相続している様を云われていると解釈しても違和感がございません。
>「領解」するだけと、「相承血脈してあきらかに耳の底にのこして」は、別のことを指していると思います。
各自の宿善によって喜べる人もあり、そうでもない人もいるといわれるのですから、その機による表現の差異という解釈も成り立つものと考えます。
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●re.41
admin |
毎日 |
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[ 313 ] Re13:「御同行」について
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2008/01/14 (Mon) 04:25
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みちくさ 様
たとえば、
◎体に尅してこれを言わば、その本は仏と菩薩とに在るべし。ただし慥かに如来の教意を相承して伝来せしむ者は、また即ち善知識とすべきなり。諸教の相承はみな以てかくの如し。彼等は必ずしも仏菩薩等ならず。何ぞ浄教に限らん。中に就きて『観経』中下已下の四品の知識は、皆これ凡夫、末代の劣機は、その知識に遇いて往生を得べし。これ仏意なり(六要鈔)
みちくさ様は、「慥かに如来の教意を相承して伝来せしむ者」を、獲信者一般と解釈なさいますか。
「末代の劣機は、その知識に遇いて往生を得べし」とございますが、「その知識に遇いて往生を得たる末代の劣機」は、「如来の教意を相承しつ」と解釈なさいますか。
南无阿彌陀佛
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[ 316 ] Re14:「御同行」について
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2008/01/14 (Mon) 10:40
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毎日 様
おはようございます。 私事にかまけておる間に活発なやり取りを展開されておられますね。 誠に毎日様にはご苦労をお掛けしております。毎日様の御引用、適切であると私も思います。
みちくさ 様
こんにちは。
今回の是非は面授口決をされた次第相承の善知識とは何であるのか。そんな者が仮におったとしても怪しい秘事の者ではないのか?そのように思われておるのかもしれません。 次第相承の善知識とはあくまでも弥陀の勅命を今に伝え「弥陀に帰命(南无)せよ」という使いであります。善知識自身が行者を救うのではありません。行者を救うは弥陀であります。ここを間違えますととんでもないことに相成ります。御存じのように弥陀は「光明」と「名号」をもって行者を救い取ります。
毎日様が先に引用された御文3-9でございますが、その後の文も引かせて頂きます。
『また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり』
なるほど、みちくさ様の申されるようにそういう相承があるのであれば、「一流の他力真実の相承」が今でも絶えずに伝わっておる。と申されても良さそうですね。
ではその後に何が書かれておるのでしょうか。
『これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむるひとなくは、まことに宿善のもよおしにあずからぬ身とおもうべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなおかなしむべきは、ただこの一事なり。』
ここに至ってもまだ真実信心を獲ておらん人があれば無宿善であると思いなさい。たとえ宿善開発の身となったとしても、我等がおらんのであれば今度の往生は不定である。とまで申されております。これが先に言われるところの実語の血脈相承を正意とし、それを行者に伝えられる者がおる故に真実信心が今にも絶えんでおるということを申されておるのです。
一見、何と傲慢な。とも思えるかもしれません。実際、蓮師ほど評価の分かれた人物はいないと言われますが、一流の流れを汲まん所であれば祖師の申されることと異なることを申されておるようにも感じるでしょうし、誤解を生んだ人物として悪い評価もされることもあったのでしょう。また、蓮師より時代は遡りますが「改邪抄」などで言われるように善知識を生身の如来であると申すような邪義も発生しそうな感じですね。
ここで少し気に掛けて頂く所がございます。先に蓮師は「我なくば」とは申されずに「我等なくば」と申されております。どうやら、蓮師だけではなく他にも相承された善知識がおったようであります。
ジャンヌの頃より何度も申しておりますので御心を害される可能性もございますが、今一度申させて頂けますか。悪い意味で申しておるのではございませんのでどうか御容赦を。付け加えるのであれば、法の側から見ればみちくさ様はジャンヌの頃より数多の有縁の方々の御縁ともなられた善知識でもあるのです。あなた様に感謝しておる方々が数多おられることは覚えておいて下さいませ。
みちくさ様の疑問は、前提として親鸞会様なりの御教義を是として私共に是非を問うておられるわけであります。私共に法論などを仕掛けてもあまり得るものは少ないように思われます。万一、「利他」のためであると申されるのであれば言語道断の次第であります。そもそも当流では信もなく人に信を獲れなどもっての外のことであるからであります。まず己の信こそ確かにせねばいかんのであります。私共の申すことに対して是非を問う前に、有縁の場所なりで必死に求められれば宜しいのであります。それで満足行かれればそれで宜しいように思われます。
私は少なくても何も心得たりなどありは致しませんし是非も知りません。ただ、弥陀の誓願成就である「南无阿弥陀佛」を仰いでおるだけに過ぎません。何故なら私自身では何も解決できんからであります。「後生の一大事」とは究極的には後生で「迷う(六道輪廻)」か「悟る(報土往生)」かの分かれ道であります。
南无阿弥陀佛
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[ 317 ] Re15:「御同行」について
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2008/01/14 (Mon) 12:17
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毎日様 泥凡夫様
私が掲示板に重ねて質問するは利他のためでも法論のためでもございません。 ただ、知的関心の向くままであり、無理にお答えいただくことはございませんが、私の質問に対して親切に回答くださいますので、更に関心の向くままに質問を重ねているのです。
前回の引用文の中に、 諸教の相承はみな以てかくの如し。彼等は必ずしも仏菩薩等ならず。何ぞ浄教に限らん。 というところがございますが、ここで示されるところの「諸教の相承」とは弥陀の本願のことですか?それとも異なりますでしょうか?
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●re.44
admin |
毎日 |
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[ 318 ] Re16:「御同行」について
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2008/01/15 (Tue) 00:35
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みちくさ 様
私にとりましては、
>掲示板に重ねて質問するは利他のためでも法論のためでもございません。 >ただ、知的関心の向くままであり、
で全く構いません。どうかこれからも、よろしくお願い致します。
「諸教の相承」の「諸教」とは、「浄教」では無いもの、すなわち、聖道門の諸教、すなわち他宗を指していると思います。つまり、内道の他宗を指しているものと考えます。
南无阿彌陀佛
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[ 320 ] Re17:「御同行」について
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2008/01/14 (Mon) 20:51
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みちくさ 様
こんばんは。 出掛けておりまして返答遅くなりました。相すいません。
毎日様が御引用の「六要鈔」の件、毎日様の釈で引用部分の解釈が叶いましたでしょうか。
みちくさ様も御存じのとおり、「還相廻向」については四十八願の「第二十二願」にございます。御開山は「浄土三経往生文類」にてこれを引かれて以下のように申されております。
『還相回向というは、『浄土論』に曰わく、「以本願力回向故、是名出第五門」これは還相の回向なり。一生補処の悲願にあらわれたり。大慈大悲の願、『大経』にのたまわく、「設我得仏、他方仏土諸菩薩衆方仏土諸菩薩衆、来生我国、究竟必至一生補処。除其本願自在所化、為衆生故、被弘誓鎧積累徳本、度脱一切遊諸仏国修菩薩行、供養十方諸仏如来、開化恒沙無量衆生、使立無上正真之道。超出常倫、諸地之行現前修習普賢之徳。若不爾者、不取正覚」文 この悲願は、如来の還相回向の御ちかいなり。如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚のくらいに住するがゆえに、他力ともうすなり。』浄土三経往生文類
この意(こころ)を「高僧和讃」において謳われております。
『弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ』
この二種廻向によらねば真実信心には決して至ることがないのであります。しかし、みちくさ様の還相廻向についての疑問は一般の真宗門徒はもとより、本山様あたりの僧侶様方でも疑問に思うのです。本当にそんな廻向が働いておるのか?と。それは喩えであり、そんな人がおるのか?と。かつても申しましたが、後光でも射しておられれば私共でも分かりやすいのですが、泥の中に住む私共のような者を相手にされるには泥の中に身を沈めねばなりません。
次第相承の善知識は確かに娑婆におられます。それは何度も申しますが、何年、何十年、何百年ぶりに出現するものではないのです。途切れることなく、どの時代にもおられたのです。また、今後どの時代でも必ず途切れることなくおられるのです。この意を釈尊は「止住百歳」と申されております。法滅の時がきて、一切の教えが消滅してもこの教えだけは留める。と申されております。最後まで「南无阿弥陀佛」は残ると申されております。
御開山は法然様より次第相承されて善知識となられたのであります。御開山もあくまでも凡夫直入の信心を決定され、人間親鸞として生きられたのであります。私共の代わりとなり比叡の山で難行苦行を修され、それでは末代の凡夫は往生叶わんことを示して下さったのです。あるがまま、そのままで往生できることを命を掛けて説かれ、数多の方々を済度されたのであります。御開山が易行の道を命懸けで示されても、次第相承の善知識がおられんかったら我等にその理を誰が伝えてくれるのでしょう。
還相廻向の意を「御臨末の御書」にも見ることができます。
『我が歳きはまりて 安養浄土に還帰すといふとも 和歌の浦曲の片男波の 寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ』
我等のような下根の凡夫がおる限り、何度でも浄土より還る。と申されております。誰のためでもないあなた様のために還ると申されておるのです。
真宗念仏者のありようを御開山の御心を汲み引かせて頂きます。
『悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証に近くことを快まず、恥ずべし痛むべし。』教行信証 信巻
『浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実の我が身にて 清浄の心もさらになし』愚禿悲歎述懐
『無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう』愚禿悲歎述懐
南无阿弥陀佛
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●re.46
admin |
毎日 |
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[ 336 ] Re18:「御同行」について
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2008/01/17 (Thu) 03:12
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みちくさ 様
『親鸞面授の人びと』(自照出版)という本が届きましたので、読んでおります。
この中に、
「弘文十年春秋十八といふ十一月なかの九日乃夜、東山の如信上人と申し賢哲にあひて釈迦弥陀乃教行を面受し、他力摂生乃信証を口伝す」
という一節が出て参ります。(63ページ)
『慕帰絵詞』第三巻第三段からの引用とのことです。如信上人から、覚如上人への面授です。
「教行」が面授であり、「信証」が口伝だということが、私には、大変興味深かったです。
南无阿彌陀佛
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